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2021年9月 5日 (日)

元が来襲した瑠求は沖縄

 モンゴル帝国・元は、琉球(原文は瑠求)に来襲した。これは、『元史』外国伝に書かれている。ただ、元が来たのは沖縄ではなく台湾だという説が有力である。
 しかし、『元史』に書かれている黒潮のことが考慮されていないようだ。

元は、1292年、1297年に、琉球に軍を派遣したが、沖縄の人々は力を合わせて拒(ふせ)ぎ戦い元は帰ったと『中山世譜』は記している。

『元史』は黒潮について次のようにのべている。

             

「瑠求の近くに落漈(黒潮)がある…台風で漂流し黒潮に流されると、百に一つも帰って来れない」。これは、琉球に渡るのに黒潮を越えることを意味する。冊封使は黒潮をとても恐れたという。

  黒潮は、台湾の東沖を流れ、与那国島との間を抜けて東シナ海を北上する。中国から琉球諸島へは黒潮を越えなければ行けない。中国と台湾の間は、黒潮が流れていない。しかし、 台湾と中国の間にも「黒水溝」が流れていた。だから、これだけでは断定はできない。

 『元史』は、琉球は澎湖諸島に向き合っていると記し、沖縄ではない根拠とされている。
この表現が初めて書かれたのは、元代の中国の政書『文献通考』(馬端臨撰、1317年)である。ところが、引用文献と見られる地誌『諸蕃志』(1225年)は、澎湖と向き合うのは琉球のそばにある毗舍耶国( ビサヤコク、台湾と思われる)と記す。この毗舍耶国を沖縄と混同して琉球の説明として書いた疑いがあることが文献研究により解明されている。それは後に編纂された『宋史』(1345年)『元史』にも受け継がれている。とすれば、澎湖と向き合うのは沖縄ではない。

 以上によって元が来襲した琉球は沖縄であると考える。

 

2020年8月27日 (木)

八重山の親廻り

王府時代の親廻りとは

 八重山民謡に「親廻節」がある。琉球王府時代の親廻りがどのようなものであったのか。
 喜舎場永珣著『八重山民謡誌』から紹介しておきたい。
<親とは、在番、頭をはじめ、惣横目、与人などの高官に対する尊敬語である。親廻は、その高官のほかに目差一人、蔵筆者一人、若文子、仮若文子などの諸役人の一行が毎年春秋の2回、出張巡視すること。
 今年の春、石垣島の各村を巡視したら、秋には離島の島々を巡視し、来年はその反対であった。その目的は各村ならびに島々の政治行政、納税や御用布の状態、農事の興廃と風俗の改善、人口の繁栄策などをいちいち監督指導し、また調査研究された。在番や頭職などは各々駕籠に乗って、その他は馬で巡視した。
 駕籠舁(カ)きは、その村の屈強の若者を選出したが、それに選ばれた者は、村の青年の羨望の的であり、名誉であった。この「カゴカキ」には、俗に「四人控え」と称して、4人の人夫を附与される特権があり、4人の人夫は自分の田畑で使用していた。
 駕籠の重さは、180斤から、200斤もあったと伝えられる。 親廻の一行に対する歓迎は、その村の村役人をはじめ、村中の者たち総動員となり、料理係、材料収集係、余興係、炊事係、給仕係、お伽係に、全生命を堵して他村他島に負けないように村を挙げて歓待した。
 たとえば、黒島の「マツコン」の吸い物、西表の猪の石焼料理、野底村のガサメ肉のカマボコなどが珍味されたと、頭職や与人の古老が実話を話しておられた。中でも在番や頭職などのお伽に選ばれた女性は名誉で村の婦人女子の羨望の的であった。
 注・「マツコンの吸い物」とは何か。黒島出身のサークル仲間に尋ねたところ、「まっこん」とはヤシガニのことだという。
 親廻一行が村に差しかかる時、村中の男は村の入口に「袖結(スディユイ)」と称して、両袖から手拭いを通して後首のところに結んで土下座、婦女子は同じく土下座して両手を合唱して、頭を垂れて迎えたものである。
 親廻は、現今の沖縄における「政府役人の大名行列」のような趣旨であるが、親廻は封建時代における村を挙げての大騒動の歓迎と監督指導を行う点が異なっている。
 この歌は、名蔵村を皮切りに崎枝村、川平、桴海、野底、伊原間、平久保、安良、伊原間、桃里、白保、宮良、大浜、平得という順序で親廻を実施したという歌である。「駕籠かき」の「ヒョーホー」の掛声は、遠方から聞こえ、村民は道路に集まって歓迎したのである。>
 ここで喜舎場氏は、在番や頭職などのお伽に選ばれた女性は「名誉」で村の女性の「羨望の的であった」と記している。この喜舎場氏の見解は、一面的であると思う。喜舎場氏は、役人が単身赴任して来る時、村の美女を賄女(現地妻)にすることについても、同様に「羨望の的」と解説していることに強い批判が出されている。それは、役人が目を付けた美女を、権力を利用して半ば強制的に現地妻とする。その上、任期を終えて帰る時は、家族として過ごした妻や子どもを一方的に捨てて帰っていく。女性を犠牲にする理不尽な習慣だったからである。
 詳しくは、わがブログで「愛と哀しみの島唄」などで書いたことがある。関心があればそちらを読んでほしい。
  親廻りは、あまりに過度な出迎えやご馳走をすることは不要だと王府からも注意が出されていたことをすでに書いた(『与世山親方八重山島規模帳』)。
 それでも、他村他島に負けないようにと「歓待した」のが実際だろう。同時にそれは、村の人々にとって、大きな負担になったことがうかがえる。

 

2018年5月 1日 (火)

歌碑のある風景、戦場の哀れ歌う「二見情話」

 「戦場の哀れ」歌う「二見情話」
   このテーマで前にアップしていたが、いつの間にか画面が暗くなって読めなくなっていたので、再度アップする。

  名護市の東海岸にある二見(フタミ)には沖縄戦のあと、難民収容所があったそうだ。そこにいた照屋朝敏氏が作った民謡に「二見情話」がある。ウチナーンチュがとても好きな曲だ。男女掛け合いで歌う。私たち夫婦も好きだ。
 「♪二見美童(ミヤラビ)や だんじゅ肝清(チムヂュ)らしゃ 海山の眺み 他所(ユス)にまさてぃよ」=二見の乙女は とっても心が美しい 海山の眺めは またどこにもまさる美しさだ。   

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「♪待ちかにて居(ウ)たる 首里上(スイヌブ)いやしが 出(イン)ぢ立ちゅる際(チワ)や 別りぐりしゃよ」=待ちかねていた 首里に戻る日がやってきた 出発する際に お別れしなければならないこの辛さよ。 
  「♪戦場(イクサバ)ぬ哀(アワ)り 何時(イチ)が忘(ワシ)りゆら 忘りがたなさや 花ぬ二見よ」=戦争による悲惨さは いつか忘れられるだろうか それにしても忘れがたいのは 花の二見のことだ。
  二見の女性、親しんだ人々の心の清らかさ 景色のうつくしさ、別れの辛さを歌いながら、平和への思いが込められている。
  曲を作った照屋さんは、南部の摩文仁から米軍の命令によって、他の投降者らとともに船で、名護市の大浦湾に入り、この二見に来た。村民は快く迎え入れてくれ安心したそうだ。ある日、村長事務所で年長者会議があり、その席上で二見の唄の創作の要請があり、二カ月後に完成したのがこの唄だという。
 「これは平和祈念と二見の人への命からなる感謝をこめた御礼のメッセージでもある」。
 いま二見に建立されているこの唄の歌詞を刻んだ記念碑に、照屋さんはこう記している。

         074 歌碑を見ていて奇妙なことに気付いた。いま歌われている歌詞は六番まであるのに、この歌碑は五番までしかない。いま歌っている「行逢(イチャ)たしや久志小(クシグヮ)⋯⋯」(出会ったのは久志だった)という三番の歌詞の部分がない。なぜなのか。照屋さんが作詞した当初はなかったのが、その後付け加わったのだろうか。沖縄民謡では、他の人が付け加えるというのは、よくある話だ。それに、歌詞集にのっている歌詞と歌碑とまた少し違いがあるのもよくあることである。
  この美しい二見と大浦湾はいま危機に立たされている。というのは、日米両政府がすぐそばの、辺野古(ヘノコ)の浜辺と海を埋め立てて、V字型の滑走路を持つ巨大な米海兵隊の新基地を建設しようとしているからだ。騒音被害や墜落の危険で住民生活は壊され、ジュゴンのえさ場となっている青く澄んだ海も破壊される。美しい風景は激変する。こんな無謀きわまりない計画は、絶対に許してはいけない。
               Photo
 名護市安部のビーチ  同じ名護市の東海岸の大浦湾に面した安部(アブ)にあるカヌチャベイホテル&ヴィラズに泊りに行った。海の眺めがとてもよい絶好の位置にある。80万坪の広大な敷地に、本格ゴルフコースからプール、展望浴場・サウナ、フィットネスなどの施設と多彩なホテル棟が建ち、レストランに行くにもトロリーバスやカートに乗るほどだ。「心の楽園」「ゆとリズム」などが売り。のんびりと過ごせた。
 ここは、名護市の汀間(テイマ)から安部にかけ広がっている。この地名、民謡に詳しい人ならピンとくる。そう。「汀間当」の唄の舞台だ。
 「♪汀間と安部境の川の下浜降りて、丸目加那と請人神谷が逢っていた 恋の話、本当か、真実かや」(訳文)と歌い出す。村の美人・加那と王府の役人・神谷の恋を、村の若者たちがはやし立てる内容だ。早弾きでテンポがよく人気がある。その歌碑が、なんとホテルの敷地内にあったのにはビックリした。ただ、歌碑の写真を撮り忘れた。

2018年4月17日 (火)

国場の登野城御嶽を再訪する、その3

 門中には先祖の地がある

 霊地巡りの御願の対象に、「各氏族祖の生活していたと信ぜられている所を参詣してきた」ことが含まれている。この国場は、古い集落であるが、もともとは県内の南部、中部、北部など各地から先祖が移住してきたことを示す伝承がある。 それを知ることができるのが、男系の血縁組織である「門中(ムンチュウ)」である。国場には12の門中がある。 「12の門中は、いずれも来歴すなわち、どこから来たのかがはっきりしている点が大きな特徴であり、国場村が集落として形成された過程を知る上でも興味深いものがある」 国場はいまなお、「その組織力、門中意識が強いものがあり、一部に変化はあるものの門中社会といえる。これも他の地域にはみられない特徴であろう」(『国場誌』)という。

        Img_3885             登野城御嶽には4つの井戸の神を合祀している

  同書には次の門中が記載されている。 東利江門中は、玉城ミントンから国場に移ってきた。稲福門中は、中城村字和宇慶(ワウケ)あるいは伊集からの分家だという。当主は6代目。比較的新しい門中といえる。中城のムートヤー(元屋)に拝みに行く。読谷村伊良皆(イラミナ、伊波家)にも拝みに行く。上里門中は、西原町の字棚原から仲井真を経て国場入りしたという。当主は16代目に当たる。

 上嘉数門中は、高麗人(今の北朝鮮・韓国)の陶工・張献功(俗称一六)を始祖とする門中。帰化して崎間を名乗る。  大屋門中は豊見城村(現在市)長嶺城主長嶺按司の三男が真玉橋大屋の初代で、真玉橋大屋の三男が字国場大屋の初代となる。現在の当主嘉数キタさんは18代目にあたる。豊見城村嘉数にある、ムートゥヤーには、毎年ウマチー(祭り)に拝みに行く。 城間門中は、国場内の最大、最古の門中である。今から約750年前、13世紀にアマミキヨの子孫が玉城ミントン(明東城)から移り住んだと伝えられる。国場集落のニーヤー(根屋)である。

 名嘉門中は、那覇の湧田村から分家して国場に移って来たという。大宗は今帰仁から首里の平良に来た新垣家で、その三男が湧田村に移り、さらにその四男が国場の名嘉門中の元祖という。旧5月15日のウマチーに湧田のウートヤー(元屋)を拝む。
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                  登野城御嶽

  新屋敷門中は、大里村(現南城市)字島袋在の高嶺家がムートヤーという。当主嘉数春幸(新屋敷)は、7代目に当たる。毎年のウマチーには、ムートヤーに拝みに行く。  新屋門中は、豊見城村字金良からの分家という。当代まで数えて12代という。松尾門中は、大里村字目取真から移ってきたという。当主嘉数真治(松尾)は、18代というから、比較的古い門中といえる。目取真(メドルマ)のムートゥヤー(屋号マニトク)を拝む。 前ヌ識名門中の始祖は、第二尚氏尚円王の縁の人といい、今帰仁間切上間村(今の本部町具志堅)の上間子(ウィーマヌシー)という。上間村の上間大親の三男が上間子と記されている(『球陽』)。また、中城間切の喜舎場子(キシャバヌシー)の縁もあるという。喜舎場子は津堅島に渡って村をおこしたが、その妻は故あって子を身ごもったまま本島に帰り、識名の花城家で男の子を出産した。花城家から分家、国場へ移住した人が、前ヌ識名門中の開祖といわれる。

  大嶺門中に伝わる系図に次ぎの記述がある。この人は読谷山(現在読谷村)波平村の人なりしが、国場村に逃走して、国場仁屋女真亀と夫婦となり、国場仁屋の婿養子となる。この門中記によると、大嶺(大峯)門中の男血筋は読谷山波平村の人で、女は国場根屋(ニヤ)の娘であり、国場と金良の大嶺姓はその子孫という。

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               登野城御嶽には「唐御殿」も祀られている

  これとは別に、国場には中国から来て琉球に瓦焼きを伝えた人物が住みついた伝承がある。『琉球国旧記』(1731年編)には次のように記述されている。『国場誌』から訳文で紹介する。  古老が伝えるには、中国の人が沖縄に来て、国俗(気候・風土・人情・習俗)を慕い、国場村に住みついた。やがて、妻をめとり、子をうんだ。後に、真玉橋の東で陶舎(焼物小屋)をつくり、瓦を焼き、資用(資材)にした。そのゆえに御検地帳(慶長検地・1610年)によって、琉球王府は、その土地を渡嘉敷三良(トカシキサンラー)にたまわった。これが我国(琉球)での焼瓦の初めである。その子孫は、今でも国場に住み、12月24日(旧暦)には祭品をおそなえし、紙を焼いて先祖をまつっている。

  この渡嘉敷三良が琉球に来たのは、少なくとも1500年代前半と見られ、当時、この中国人を土地の人々は「唐大主(トオウフスー)」と呼んでいた。 渡嘉敷家はいまも国場の登野城御嶽のすぐ下の道路わきに赤瓦のお家がある。現在で、18代目にあたるそうだ。由緒ある渡嘉敷家は、ムートゥヤー(本家)と呼ばれている。 国場になぜこれほど移住があったのか。よくわからない。古くは琉球が統一される前、まだ各地に権力者・按司が割拠し、争った。琉球が3つの小国として対抗した三山時代が100年余り続いた。そんな戦乱の時代に敗れた勢力は、故郷を逃れて各地に落ち延びた歴史がある。また、子孫が増えて、分家して新たな地を求めて移住したこともあるだろう。 国場の門中の来歴を読みながら、想像をめぐらせてみた。

国場の登野城御嶽を再訪する、その2

 霊地巡り

  霊地巡りは、古くから各地にあり、拝む場所、方法等さまざまである。「御廻り(ウマーイ)」と呼ばれる。 「古来本県は、アマミキヨに関係ある土地の嶽々森々・城跡・古井泉を始め、王族按司(アジ)の経世に関係ある所を主として、各氏族祖の生活していたと信ぜられている所を参詣してきた。民族祖に関する霊地は、主に本部・知念・玉城に多く、ここへの参詣を俗に『東り巡り』又は『島尻拝み』といひ、国頭郡の今帰仁は、尚家の遠祖尚円御発祥の地、伊平屋への遙拝をする所であるので、ここへも参詣し、これを俗に『今帰仁拝み』といっている。これ等拝所の所在地又は其の附近の人々は、年中行事のやうに毎年定った参拝をしているが、遠い所では2年・3年・又は5年・7年・9年・10年あるいは12年に1回といふように、廻年的に霊地参に行く」(『国場誌』、『島尻郡誌』からの引用)。

         Img_3882           登野城御嶽(トノシロウタキ)
 国場では「東御廻り(アガリウマーイ)1~3」「今帰仁御廻り1~3」「島尻御廻り1~2」「イージュ御廻り(首里・浦添)1~2」「崎樋川御廻り」「大里御廻り」「瀬長御廻り」がある。

 昔は霊地巡りはとても盛んだった。4,5日あるいは10数日を要し、部落の神人や氏子の代表、青年男女数十人らがにぎやかに参拝したそうだ。ただ、ところによっては、遙拝所を設けてこの霊地参詣を全廃しているところもある(『国場誌』、『島尻郡誌』からの引用)。 遠くまで行けなくても、霊地の方向に向かって御願する。  登野城御嶽は、住民にとって重要な拝所である。

国場の登野城御嶽を再訪する、その1

  この記事は、前にブログにアップしていたが、いつの間にか真っ黒の画面で見えなくなっていたので、修復して再度アップする。

 国場の登野城御嶽を再訪する

 わが家か近い国場の拝所、登野城御嶽(トノシロウタキ)を訪ねた。前に一度来たことがある。国場十字路を山手に上がっていくと、拝所専用の駐車場がある。そこから少し小道を登ったところにある。1992年に整備されたようで、とても立派な御嶽(ウタキ)である。  国場には、二つの御嶽がある。『琉球国由来記』によると、「下国場ノ嶽 神名カネノ森御イベ」(通常「前ヌ御獄」)と「登野城ノ嶽 神名オシアゲ森の御イベ」という二つの御嶽と一つの火神(ヒヌカン)「下国場里主所火神」があると記載されている。「前ヌ御獄」は前にブログで紹介した。国場発祥と地とされているところだ。
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 「登野城」という名前は、石垣島の中心部、旧四カ村の一つの地名と同じだ。他にはない珍しい地名なのに、なぜ、国場の御嶽に同じ登野城の名がついているのか、地元でもよくわからないらしい。

  9つの神々を合祀 御嶽の祠には、次の名を刻んだ石碑が9つ合祀されている。 「東世」「今帰仁世」「百名世」「大里世」「登野城之世」「中之御嶽」「火神」「唐御殿(トーウドン)」「芋之神」。 拝殿の前には、4つの井戸の神が合祀されている。

 「中之御嶽火神御井」「中之御嶽下之御井」「登野城西乃御井」「子之方御井」
 水は、住民にとって生きるうえで欠かせない命のもとだから、井戸はどこも御願の対象にされる。 この拝殿に並ぶ石碑は、いくつもの地名が記されている。

  沖縄では、霊地を巡り参拝する慣習がある。でも、この登野城御嶽にくれば、遠くまで霊地巡りに行かなくても、この御嶽でその地に向かって御願(ウガン、礼拝)できるそうだ。そういえば、「前ヌ御嶽」を見たとき、そばにいたおじいが話していた。
    

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 「国場の高いところには、今帰仁に向かって拝むところもある。中国に向かって拝むところもあるよ。中国まで行けなかったからね」。

 それがこの登野城御嶽である。たしかに、各地の名を刻む石碑があるし、中国を表す「唐御殿」もある。珍しいのは「芋之神」。芋を神と崇めるものだろう。芋(サツマイモ)は、17世紀初めに中国から持ち帰った。やせ地でも育ち干ばつにも強い。庶民にとって主食となった。飢餓のさいどれだけの人々が救われたことか。その意味では、芋も命の源だから、祀られたのだろう。

2018年4月14日 (土)

北山王国をめぐる興亡、その9

 北山監守一族の世替り

  第一尚氏時代の北山監守は、初代護佐丸、二代尚忠、三代具志頭王子までの52年の間、北山地方を統治した。第一尚氏の尚徳王を追放し、金丸がクーデターで王位についた際、今帰仁城はどうなったのか。『琉球王国の真実』は、次のように記している。
 今帰仁城では具志頭按司が北山監守(代官)として「今北山」を守っていたが、金丸による“世替り”で一族は方々に逃げ隠れた。具志頭按司と長男の若按司は具志頭間切新城村に逃げて、屋号仲村渠(ナカンダカリ、仲村姓)の養子になり仲村渠門中(ムンチュー)の祖になった。
 次男岡春(ウカハル)の子孫は今帰仁城から諸志村に移り住み、屋号原屋(ハラヤー)の祖になった。  瀬底島に逃げた一族は内城を築き、大底(ウフスク)門中と称した。
 伊江島に逃げた一族は東江上(アガリーウィ)の屋号石橋の祖になった。 『古琉球三山由来記集』は、「尚徳王が亡んだ時に、今帰仁城もともに破れ、その子孫は各所に離散しました。この子孫だと称する旧家が、小禄間切、豊見城間切、摩文仁間切。東風平間切、羽地間切、宜野湾間切等にあります」とのべている。
 第二尚氏の始祖となった尚円王は、重臣のなかから北山監守を選任し、輪番にこれにあたらせた。三代目の尚真王は、北山監守は重要な守護職として、三男尚昭威を任じ、北山地方の統治を強化した。尚真王は、地方の按司たちを首里に集居させ、武器を取り上げ、中央集権を強めたが、北山だけは、今帰仁城にいて監守していた。七代監守の際、今帰       仁城から首里に引き上げ、その後は首里に居住して監守の役をつとめた。

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                  今帰仁城跡

  「元は今帰仁」

  「仲北山」の遺児の今帰仁子から広がった伊覇按司一族の発展は、尚巴志王と姻戚を結んでことにより発展し、沖縄中に子孫を残した。それで、後世の人は「ムートゥヤ・ナキジン」(元は今帰仁)というようになったが、「仲今帰仁城主」や「後今帰仁城主」も元をただせば浦添城の英祖王の子孫でさらに大元は大里天孫氏や玉城アマミキヨの先祖に結びつく。結局、「ナキジンヌムートゥヤ・タマグスク」(今帰仁の元は玉城)なのである。

 以上が北山の今帰仁城をめぐる興亡の伝承のあらましである。伊敷賢著『琉球王国の真実―琉球三山時代の謎を解く』は実際には三山全体の歴史について、詳細な伝承を集め、体系的に記している。
 北山関係だけ抄録すると、系図の説明をしているようで、面白みに欠ける。ただ、これまでよく知らなかった北山の歴史、それも古い時代からの「先北山」「仲北山」「後北山」さらには「今北山」という王統の交代に応じた時代区分がされているので、理解しやすい。
 それにしても、北山の支配をめぐる攻防だけを見ても、戦国史をみるような激しさである。今帰仁城主が交代するたびに、前の城主と一族、家臣らは北部から中南部に落ち延びた。本島各地に今帰仁から逃れた人たちの子孫が住み、たくさんの伝承が残されていることは、もっともである。
 逆に、南山では、幾度もの争いと南山滅亡によって、勝連半島や周辺離島、さらには久米島、先島、朝鮮半島にまで逃げ延びたという伝承がある。
 いうまでもなく、記述はあくまで言い伝えられてきたことであり、そこには脚色された物語もある。伝承といっても同じ事柄でいくつもあって、どれが真実に近いのかもよくわからないこともある。
 ただ、史実が詳細に分からない以上、伝承を調べることは、史実に接近する糸口になるだろう。また、伝承はかつて、つわものたちが争った時代と歴史への想像をかきたててくれる。そこには、歴史のロマンがある。
 各地を歩いていると、今帰仁から逃れた話や今帰仁にかかわる人物の墓所もある。今帰仁に向かって祈願する今帰仁遙拝所がある。伝承は、たんなる言い伝えにすぎないとしても、各地の北山の興亡にかかわる史跡は、物言わないけれどたしかな歴史の重みを感じさせてくれる。そんな史跡などに出会った時、北山をめぐる攻防の伝承と歴史を思い起こしたい。これまでとは、また違った目で見ることができるだろう。

   終わり     文責・沢村昭洋

 

北山王国をめぐる興亡、その8

 護佐丸と伊覇按司系統の発展

 伊覇(イハ)按司初代の長男は伊覇按司二代目を継ぎ、次男の山田按司は、読谷山村に山田城を築いた。山田按司の次男・護佐丸(ゴサマル)は父の跡を継いで読谷山按司になった。座喜味城を築いた後に中城に移り、中城按司になった。護佐丸は1416年の北山攻めの時は26歳の青年将校だった。1429年の南山進攻には41歳になっていて中山軍の大将として全軍を指揮した。
 1439年に尚巴志の死去により、護佐丸は第一尚氏王統の一番の功労者として娘婿の尚泰久王にも遠慮しない目付け役的存在になったのである。また護佐丸は、北山滅亡時に北山太子を山田城で匿い、南山滅亡後には南山王の甥の国吉之比屋を家来にしたりする勝手な行動に、異を唱える重臣も多かったことが推察される。

 1453年頃、阿麻和利(アマワリ)が10代目勝連按司になると、中城按司・護佐丸と互いに牽制し合う状況になった。  1454年、婿の越来按司が尚巴志王統6代目として王位に就き尚泰久となってからは、もはや護佐丸の天下のごとくであった。  阿麻和利は「護佐丸は中城を増強し、城内の鍛冶屋で武器を増産して、首里城を攻める準備をしている」と、尚泰久王に讒言した。
 1458年、尚泰久王は阿麻和利に護佐丸討伐の許可を与え、王府軍は中城を攻めた。月見の宴の最中に攻め上がってき来たので、不意を衝かれた護佐丸は、多勢に無勢で、むなしく自刃したという。  長男と次男の消息は不明である。護佐丸は自害する時、三男の盛親(幼名は亀寿)はまだ赤子なので殺すに忍ばれず、国吉之比屋に頼んで乳母と共に東の崖から帯を命綱にして逃した。真栄里村の乳母の実家で匿ってもらって育てていたという。
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                     護佐丸父祖の墓
 後に、尚巴志王統を倒して即位した尚円王は「護佐丸の遺児が健在なら名乗り出るように」という御触れを出したので、国吉之比屋が13歳の盛親を伴なって首里城に出頭した。盛親は叔父の安里大親のもとで養育を受け、成人して豊見城間切総地頭となり豊見城親方と称した。盛親は毛氏始祖となり、豊見城毛氏は首里王府で出世を重ね子孫も繁盛して、その数は5万人ともいわれる。 伊覇按司初代の次男・山田按司の長男、伊寿留(イズルン)按司は中城山頂に伊舎堂村を創り護佐丸を補佐していたが、護佐丸が滅んだあとに百姓になり、伊舎堂村も海岸近くに移動し、富豪の屋号・伊寿留安里の祖になった。
 三男の大城掟は護佐丸滅亡後、中城間切大城村から那覇に移り住み、金丸の革命を成功させた人物で、安里村を拝領し安里大親(アサトゥウフウヤ)と名乗った人物である。
              Img_1478                護佐丸の墓  
 護佐丸は逆賊として成敗されたので、その一族は方々に隠れたが、第二尚氏になって政権に復活し、子孫の毛氏は沖縄各地に繁盛してその数は3万とも5万ともいわれている。  伊覇按司二代目は、尚巴志の義兄弟となって北山攻めや南山攻めで活躍し、弟や息子たちを各地に城主として配置した。安慶名(アギナ)大川按司をはじめ幸地按司・勝連按司六代目・玉城按司・高嶺按司・瀬長按司などが、北山や南山滅亡後の新しい城主になった。
 伊覇按司の四男、安慶名大川按司の三男(系図では四男)、喜屋武按司の子が鬼大城(ウニウーグスク)と呼ばれた越来親方賢勇で、後に阿麻和利を討伐した武人である。

北山王国をめぐる興亡、その7

 北山を攻めた尚巴志

 『琉球王国の真実』に戻る。
 1416年に尚巴志は北山を攻めるため進軍し、読谷山では読谷山按司をはじめ浦添按司・越来按司・伊覇按司などのおよそ二千の軍勢が合流した。一方、運天の寒手那(カディナ)港には、国頭按司や名護按司・羽地按司等の軍船と700余の兵士が集結していた。
 国頭按司と名護按司・羽地按司が先鋒を務め、総大将の尚巴志は北の平郎門から、副大将の読谷山按司護佐丸は南の志慶真門から攻め込んだ。  今帰仁城の守りは堅固で、3日間の戦闘で中山連合軍の戦死者は500人を越えた。尚巴志は作戦を変え、今帰仁城の侍大将の本部平良(モトブテーラー、太原とも書く)に賄賂を贈り、北山の不利を説き中山軍に寝返らせることに成功した。志慶真門から密かに護佐丸軍が忍び込み、建物に火をつけたので場内は大混乱になり、北山兵は敗走した。 「後北山」攀安知(ハンアジ)には、5名の王子がいたと伝えられる。

 15歳ほどの長男北山太子(仲宗根王子)は戦死したといわれているが、実は護佐丸の手配により北山太子と乳母の2人を密かに船で渡名喜島(トナキジマ)へ逃した。1年待たずに護佐丸の使いが迎えに来て、島尻方面で妻を娶って暮らしたと伝えられる。八重瀬町富盛には北山太子の長男の後裔がいるという。  攀安知王の次男の志慶真王子は、姉と王の弟・湧川大主に守られて南山領内に逃れた。王子の母は、南山王他留毎の姉で、和睦のために北山王攀安知に嫁いでいた。
 072                  今帰仁城跡

 1429年に(尚巴志に攻められ)南山が滅んだ。20歳前後になっていた志慶真王子と湧川子(湧川大主の長男)は、南山軍に加わり中山軍と戦ったが与座山中で戦死した。  志慶真王子の子孫は百次(ムンナン)門中(百次姓)で、湧川大主の子孫は名嘉・湧川門中(湧川姓)として、糸満市潮平を中心に子孫が広がっている。 攀安知王の幼い三男外間子(フカマシ)と四男喜屋武久子(チャンクシ)の2人は母とともに捕虜となり、佐敷間切津波古で百姓として生涯を終えた。
 五男虎寿金(トウラジュガニ)は、落城後に生まれたので、母親とともに南風原間切兼城村の内嶺按司の捕虜となった。後に、尚円王の引き立てで兼城按司の養子となった。  攀安知の頭役平敷大主(ヘシキウフヌシ)は勝連半島に逃げて、現在のうるま市平敷屋集落を創った。
 1416年、「後北山」の攀安知王を亡ぼした中山王尚巴志は、護佐丸を今帰仁城に6年間駐留させ、北山監守として戦後の北山を監視させた。護佐丸は「今北山」初代として北部沖縄の統治を任され、遠く奄美大島までその管理下に置いた。
 『今帰仁村史』は次のとおり記している。 彼(護佐丸)が北山城に駐とんしてからは、後北山系の与論島や沖永良部島をはじめ、遠く鬼(喜)界島や大島なども服従させた。そして、これらの島々から住民を徴用して座喜味城構築の人夫として使役させた。こういうことも北山城にあって、北山地方を監守したからできたのである。
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 尚巴志は北山地方を治めるのに、「仲北山系」の人材を登用した。まず自らは伊覇按司の娘を娶り、生まれた子は成長して越来王子(後の尚泰久王)や伊覇按司三代目(養子)になった。
 1421年、尚思紹王が亡くなったのに伴い、尚巴志が中山王となり、次男具志頭王子尚忠が二代目北山監守になった。同時に、護佐丸は読谷山に戻り、座喜味城を築き読谷山按司と称した。尚巴志が亡くなると、北山監守の尚忠が王に即位し、弟の具志頭按司が三代目北山監守となった。

北山王国をめぐる興亡、その6

 攀安知による強権政治  

 「後北山」では、1390年頃、怕尼芝(ハニジ)王が死んだので、世子伊江王子播(ハン)が王位に就いた。怕尼芝は羽地の当て字で兼次の北部なまり語で、播とは金の北部なまり語である。
 それから数年して伊江播王は高齢になったので、1396年に東大里按司を迎え、王位を譲り伊江島に隠居した。東大里按司は南山の保栄茂(ビン)城生まれだったので珉(ビン)王と称していたが、まもなく病気のため急死した。そのとき、伊江播王の妾・伊江播加奈志(花のモーシー)の王子攀安知(ハンアンジ)が珉王の王子を退け、王位を奪った。攀安知は武勇に優れ、前王の家臣の意見も聞かず独断専行の政策を敷いた。攀安知は「ハンアンチ」と読んでいるが、本来は「播王の王子」のことなので、「播按司」(ハンアンジ)と書いた方が良いと思う。
 『今帰仁村史』は、「珉は二代目の怕尼芝の長男であったと思われる」とのべ、あくまで、怕尼芝の血統であるという立場をとっている。 『古琉球三山由来記集』は、珉王の治世を次にのようにのべている。
 「父怕尼芝王の薨去されたのちは、父君の志を受け継いで善政を施し、道徳を行ない、治績をあげたと推測されます。怕尼芝王から、この珉王時代は、国内は太平無事でした」  『琉球王国の真実』に戻る。

 珉王の長男の千代松若按司(13歳)と一族は島尻に逃れ、具志頭間切新城村に落ち着いた。叔父の佐敷按司に救いを求めたとの言い伝えも残っている。
 今帰仁城の攀安知王は双子の兄で、弟の湧川大主ともども武勇に優れ、領内の各按司を武力で制圧し強権政治を行っていた。南山とも政略結婚で姻戚を結び中山を挟み撃ちにする計画であったといわれ、南山王の長男の豊見城按司(後の他魯毎王)の嫁として湧川大主(新里屋)の妹を輿入れさせていた。他魯毎(タルミー)は北山の婿になったので、渾名(アダナ)で今帰仁按司とも呼ばれた。逆に北山王は、南山他魯毎王の姉を妃として今帰仁城に迎えていた。
 攀安知の恐怖政治に恐れを抱いた北山各按司は、次第に攀安知と距離を置くようになった。「仲北山」系の国頭按司・名護按司・羽地按司は中山の尚巴志に使者を送り、攀安知を成敗するように嘆願した。
 (後北山でも、後継者をめぐり内紛があった。珉王が急死すると、王子を退けて、攀安知が王位を奪ったという。珉王が、伊江播王の子どもではなく、南山生まれの東大里按司であるとすれば、伊江播王の妾の子とはいえ、長男にあたる王子であり、武勇に優れた攀安知にとって、珉王の王子が王位を継ぐことは我慢ならないことだったのだろう。しかし、その強権をふりかざした恐怖政治が、身を亡ぼすことにつながっていく)

068                 今帰仁城跡

 『今帰仁村史』は、攀安知について次のようにのべている。
 彼は、資性はなはだ剛毅にして、武勇は絶倫であった。常に中山国を討って天下をにぎろうとの野望をいだいていたが、武力をたのんで善政をしかなかったため、一族の名護、羽地、国頭など、近隣の諸按司からきらわれ、読谷山按司護佐丸もまた、北山をつけねらっていた。

 護佐丸について、『今帰仁村史』は次のように書いている。
 読谷山按司は読谷山城(山田城)にあって、機会あらば、中北山の仇敵である後北山の怕尼芝を討たんものと、その準備をすすめていた。  ところが、後北山はますます強大になるばかりで、どうすることもできなかった。そうしているうち、読谷山按司には後つぎがなかったので、兄弟の伊波按司の二男を迎え入れて跡(ママ)つぎにし、二代目の読谷山按司とした。この二代目の子に生まれたのが護佐丸兄弟である。
 護佐丸も父祖伝来のかたきである後北山をねらって、その時節到来を待った…そのころ、佐敷城の尚思紹、尚巴志父子が中山王武寧を討って、いきおい甚ださかんで、また人望が厚かった。これを知った中北山系の人たちは、首里城に尚思紹父子をたずね、事の次第をのべて、その助勢を願った。
 (後北山の怕尼芝から明国に朝貢を始めた。怕尼芝王は7回、珉王は1回、攀安知王は11回、明に使者を派遣した=『グスク文化を考える』の名嘉正八郎著「今帰仁城跡の考察」から)

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