門中には先祖の地がある
霊地巡りの御願の対象に、「各氏族祖の生活していたと信ぜられている所を参詣してきた」ことが含まれている。この国場は、古い集落であるが、もともとは県内の南部、中部、北部など各地から先祖が移住してきたことを示す伝承がある。
それを知ることができるのが、男系の血縁組織である「門中(ムンチュウ)」である。国場には12の門中がある。
「12の門中は、いずれも来歴すなわち、どこから来たのかがはっきりしている点が大きな特徴であり、国場村が集落として形成された過程を知る上でも興味深いものがある」
国場はいまなお、「その組織力、門中意識が強いものがあり、一部に変化はあるものの門中社会といえる。これも他の地域にはみられない特徴であろう」(『国場誌』)という。
登野城御嶽には4つの井戸の神を合祀している
同書には次の門中が記載されている。
東利江門中は、玉城ミントンから国場に移ってきた。稲福門中は、中城村字和宇慶(ワウケ)あるいは伊集からの分家だという。当主は6代目。比較的新しい門中といえる。中城のムートヤー(元屋)に拝みに行く。読谷村伊良皆(イラミナ、伊波家)にも拝みに行く。上里門中は、西原町の字棚原から仲井真を経て国場入りしたという。当主は16代目に当たる。
上嘉数門中は、高麗人(今の北朝鮮・韓国)の陶工・張献功(俗称一六)を始祖とする門中。帰化して崎間を名乗る。
大屋門中は豊見城村(現在市)長嶺城主長嶺按司の三男が真玉橋大屋の初代で、真玉橋大屋の三男が字国場大屋の初代となる。現在の当主嘉数キタさんは18代目にあたる。豊見城村嘉数にある、ムートゥヤーには、毎年ウマチー(祭り)に拝みに行く。
城間門中は、国場内の最大、最古の門中である。今から約750年前、13世紀にアマミキヨの子孫が玉城ミントン(明東城)から移り住んだと伝えられる。国場集落のニーヤー(根屋)である。
名嘉門中は、那覇の湧田村から分家して国場に移って来たという。大宗は今帰仁から首里の平良に来た新垣家で、その三男が湧田村に移り、さらにその四男が国場の名嘉門中の元祖という。旧5月15日のウマチーに湧田のウートヤー(元屋)を拝む。
登野城御嶽
新屋敷門中は、大里村(現南城市)字島袋在の高嶺家がムートヤーという。当主嘉数春幸(新屋敷)は、7代目に当たる。毎年のウマチーには、ムートヤーに拝みに行く。
新屋門中は、豊見城村字金良からの分家という。当代まで数えて12代という。松尾門中は、大里村字目取真から移ってきたという。当主嘉数真治(松尾)は、18代というから、比較的古い門中といえる。目取真(メドルマ)のムートゥヤー(屋号マニトク)を拝む。
前ヌ識名門中の始祖は、第二尚氏尚円王の縁の人といい、今帰仁間切上間村(今の本部町具志堅)の上間子(ウィーマヌシー)という。上間村の上間大親の三男が上間子と記されている(『球陽』)。また、中城間切の喜舎場子(キシャバヌシー)の縁もあるという。喜舎場子は津堅島に渡って村をおこしたが、その妻は故あって子を身ごもったまま本島に帰り、識名の花城家で男の子を出産した。花城家から分家、国場へ移住した人が、前ヌ識名門中の開祖といわれる。
大嶺門中に伝わる系図に次ぎの記述がある。この人は読谷山(現在読谷村)波平村の人なりしが、国場村に逃走して、国場仁屋女真亀と夫婦となり、国場仁屋の婿養子となる。この門中記によると、大嶺(大峯)門中の男血筋は読谷山波平村の人で、女は国場根屋(ニヤ)の娘であり、国場と金良の大嶺姓はその子孫という。
登野城御嶽には「唐御殿」も祀られている
これとは別に、国場には中国から来て琉球に瓦焼きを伝えた人物が住みついた伝承がある。『琉球国旧記』(1731年編)には次のように記述されている。『国場誌』から訳文で紹介する。
古老が伝えるには、中国の人が沖縄に来て、国俗(気候・風土・人情・習俗)を慕い、国場村に住みついた。やがて、妻をめとり、子をうんだ。後に、真玉橋の東で陶舎(焼物小屋)をつくり、瓦を焼き、資用(資材)にした。そのゆえに御検地帳(慶長検地・1610年)によって、琉球王府は、その土地を渡嘉敷三良(トカシキサンラー)にたまわった。これが我国(琉球)での焼瓦の初めである。その子孫は、今でも国場に住み、12月24日(旧暦)には祭品をおそなえし、紙を焼いて先祖をまつっている。
この渡嘉敷三良が琉球に来たのは、少なくとも1500年代前半と見られ、当時、この中国人を土地の人々は「唐大主(トオウフスー)」と呼んでいた。
渡嘉敷家はいまも国場の登野城御嶽のすぐ下の道路わきに赤瓦のお家がある。現在で、18代目にあたるそうだ。由緒ある渡嘉敷家は、ムートゥヤー(本家)と呼ばれている。
国場になぜこれほど移住があったのか。よくわからない。古くは琉球が統一される前、まだ各地に権力者・按司が割拠し、争った。琉球が3つの小国として対抗した三山時代が100年余り続いた。そんな戦乱の時代に敗れた勢力は、故郷を逃れて各地に落ち延びた歴史がある。また、子孫が増えて、分家して新たな地を求めて移住したこともあるだろう。
国場の門中の来歴を読みながら、想像をめぐらせてみた。
最近のコメント