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2014年2月23日 (日)

ブログ引っ越し

 「ココログ」の「レキオ島唄アッチャー」は、容量が限界に来たので、引っ越しました。 新しいブログは「FC2」に開設しました。ブログ名は変わらず「レキオ島唄アッチャー」です。よろしくお願いします。 http://rekioakiaki.blog.fc2.com/blog-entry-2.html http://rekioakiaki.blog.fc2.com/

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2014年2月21日 (金)

芋けんぴのルーツ

 高知の名物お菓子に芋けんぴがある。サツマイモを揚げて砂糖をからめたものだ。親類から送られてきた。高知に住んでいるときは、ごく普通のお菓子だった。沖縄に住んでいると、めったに食べない。なにか懐かしい気がする。  製造元を見ると、芋屋金次郎。前はなかった今風の名称だ。中に入っていた、チラシを見ると、日高村にあり昭和27年に先代、澁谷金次郎が「澁谷食品」を創業したとある。旧社名なら知っているし、芋けんぴで有名だった。日高村の店舗にも寄ったことがある。  なぜ高知で芋けんぴを作りだしたのか。  サツマイモが薩摩から土佐に伝わったのは江戸時代1735年。薩摩のかつお船が土佐清水に入港した時に、芋を持ってきていたという話が伝わっているという。  甘藷はもともと1604年、琉球の野國総管が中国から持ち帰った。それがのちに薩摩に伝わり、全国に広がった。  土佐でも盛んに作られるようになった。昔から、土佐人は日常食であるサツマイモを貴重な油で揚げることで、ハレの食として用いてきたという。  「芋屋金次郎」の創業者、澁谷金次郎は、戦後まもなく、揚げ菓子を作り、自転車の荷台に載せて売り歩くようになった。やがて試行錯誤を繰り返しながら、芋けんぴづくりに取り組んだという。  沖縄は、かつてはサツマイモが庶民の主食だった。いまでも夏でも冬でも焼き芋をよく食べる。JA直売所では、たくさんの種類の芋が売られていて、みんなよく食べる。  沖縄は揚げ物が大好きだから、芋の天ぷらはある。でも、芋けんぴのように、芋を揚げたお菓子はない。ただ、紅芋を使った「紅いもタルト」など、人気のお菓子になっている。    芋けんぴを食するときは、こんなルーツに思い出しながら味わいたい。

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2014年2月19日 (水)

天空の鉄板焼きパーティー

 アルテ崎山の通称「ロケットビル」の11階、半ば屋上的な場所で「てっぱんの会」があった。オーナーの越智さんから、是非にというお誘いで出かけた。ここは、夜景のきれいな天空の階。そこにバーベキューのできる鉄板があり、隔月で焼肉パーティーが開かれている。  1年ぶりくらいの参加だ。ミュージシャンで料理人を自称するothis・yoshiさんが、張り切っていると聞いていた。ヨッシーさんは、大阪出身。もともとパナソニックの社員で、アメリカにも駐在し、本場の音楽を吸収して、腕を磨いてきた経歴の持ち主。  この日は、鉄板の上で、市販のお好み焼きを使いながら、いろんな食材をトッピングして独自の味付けをする。食べてみると、なんかお好み焼きの小麦粉の味はもはやない。「これはもう、お好み焼きを超えてますね」と言うと、「そういっていただければ嬉しいね」と料理人は喜んでいた。  この後は、牛カルビや骨付きカルビ、焼売など、焼けた肉、野菜を美味しくいただいた。越智さんが名護でもらったという島ラッキョウの塩漬けもたくさんいただいた。  この日は、なぜか参加が少なく、越智さんは誘いの電話をかけまくる。近くの真由美さんがかけつけてくれて、総勢5人。少ないことで、余計に和気あいあいの雰囲気になった。  食べたあとは、ヨッシーさんがギターを手にブルースを披露。料理以上に素晴らしい腕前だ。こんな、ほれぼれするブルースはめったに聴けない。  日頃は、沖縄市でライブ活動をしている。アルテにもたびたび顔を出す。沖縄がすっかり気に入っているそうだ。  私も歌三線で「八重山」、ツレとデュエットで「二見情話」を歌った。越智さんのギターを伴奏に女性たちも歌った。  楽しい「てっぱんの会」だった。  

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2014年2月18日 (火)

今帰仁の今泊を歩く、近代に2集落が合併

近代に二つの集落が合併 今泊のことを何回かアップしたが、二つの集落が合併した経過について、書いた部分をアップしていなかった。改めてアップする。 今帰仁と親泊の二つの集落が、海辺近くに移転してきたのは、17世紀のころと見られているが、合併して今泊となったのは、近代になってからだ。 『今泊誌』には合併の経過が紹介されている。  今泊は「イェードゥメー」と呼ばれ、明治36年(1903)までは今帰仁村と親泊村は別々に存在し、同年に合併し今泊となった村である。しかし、3年後の明治39年に分離し、昭和47年(1972)にふたたび合併し現在に至る。   明治36年に合併しながら、すぐに分離したのはなぜだろうか。今帰仁ムラは面積が広く人口が少ない。一方の親泊は、面積は小さいが人口は多い。  そのために、税金や夫(ブー)作業などの負担が一方にかぶさってくるため不平等が生じてくる。それが原因のようだ。 今帰仁城の城下村のようだといっても、首里城のあった首里の地域とは異なる。首里は、士族が住む城下町だった。でも、今泊は士族が少なかったからだ。 1903年『区間切島本籍人員族及棄児』によれば、人口に占める士族割合は、今帰仁間切全体が23・1%だったのに対し、今泊はわずか5・7%に過ぎない。今泊は人口が多いけれど、平民が大半を占める集落だった。税金の負担は重かっただろう。  

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2014年2月15日 (土)

巨人の沖縄キャンプ始まる

 読売巨人軍の沖縄キャンプが15日始まった。お天気が良いし、那覇セルラースタジアムはわが家に近いので、散歩がてらに見に行ってみた。  巨人のキャンプには、本土からもジャイアンツファンが詰めかける。それに土曜日とあって、観客が多い。グランドでは、フリーバッティングが行われていた  高橋由伸や村田修一がティーバッティングをしていた。村田は今年はキャプテンを務める。  この2人がフリーバッティングを始めると、それまでのバッターに比べて、好打が続く。村田は、ほとんどの打球が外野に飛び、打球が早い。さすがだ。張り切っている様子だ。  ただ、人気となると、村田、高橋より坂本勇人が一番だ。  子どもたちが大勢、カメラを持って群がる。  ピッチャーの投球練習を見たいと思い、屋内練習場に行くと、観客席は満員で、空き待ちの人たちが長い行列を作っている。今回はあきらめた。  宮国椋丞選手の等身大の看板があった。昨年は、開幕投手を務めたが、シーズン中はいまいちの出来だった。今年は飛躍を期待している。

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2014年2月14日 (金)

おでんが美味しい「おふくろ」

 沖縄は、おでんをけっこうよく食べる。なにしろ、寒さ、暑さ関係なく年中食べるところだ。それに、テビチ(豚足)が入るのが沖縄流だ。先日、テレビでも紹介された那覇市久茂地の有名なおでんと家庭料理の店「おふくろ」に、アルテの音楽好きの仲間と行った。  驚くのは、おでん、刺身、サラダ類食べ放題、飲み放題で2000円という安さであること。ただし、ビールは3杯、酎ハイ5杯、泡盛は無制限だ。  アルテの仲間で1月に一度出かけたが、その時は都合悪くて参加できなかった。2月に是非もう一度、ということで八重山民謡唱者の杉田園が予約を取ってくれた。なにしろ、大人気店なので予約なしに行っても、席がない。7時に行くともう予約席以外は、満杯状態だった。  食べたい物をおでんの種類が印刷された用紙に、記入して何回でも注文できる。まず登場したのが、山盛りのチマグ(足先)と大根。テビチもすぐに追加された。豚足全体を足テビチと呼ぶそうだ。どちらもコラーゲンたっぷり。柔らかい。味付けは若干違った。  トマトもおでんにあるとはこれまたビックリ。昆布、牛スジ、ジャガイモ、豆腐、コンニャクなどなど次々運ばれる。  企画してくれた園さんもさっそく写メに撮る。  おでんの注文は自由だが、食べ残すと罰金があるというルール。ひたすら食べつくす。  ギターサークルのYさんも、おでんの山を前に幸せそうな表情だ。  メンバーは、もうお腹いっぱい。ビール、泡盛も十分飲んだようで、みなさん上機嫌。楽しい集まりでした。

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2014年2月13日 (木)

沖縄県人も犠牲になった台湾2・28事件

沖縄県人も犠牲になった台湾2・28事件  台湾で2万人以上の死者を出したといわれる1947年の「2・28事件」。そのなかに沖縄県出身者約30人が事件に巻き込まれて犠牲になったと見られている。事件のことは、早くから知っていたが、沖縄県民がこんなに犠牲になっていたとは、沖縄に来るまでは知らなかった。「琉球新報」の関連記事とその他の資料を含めて、少し紹介しておきたい。  2014年1月29日に、県内犠牲者の遺族や支援者が「台湾2・28事件、真実を求める沖縄の会」を立ち上げた。 台湾では、1947年2月27日夕、台北の繁華街で闇タバコを売っていた女性が、違法行為を理由に軍当局摘発隊に金品を奪われ、殴打された。住民が抗議すると、銃を発砲し1人が殺された。怒った住民は、翌朝専売局公社に集まり抗議行動を起こすと、軍隊が出動して4人が殺害された。怒る群衆は放送局を占拠し、台湾人の総決起を呼びかけた。全土で国民党政府や外省人(戦後大陸から台湾に渡ってきた人々)に対する抵抗運動が広がった。  3月8日基隆港に3000人余の軍隊が上陸し、台湾全土で武力鎮圧に乗り出した。市民への無差別な発砲や手に針金を刺し込んで縛って束にしてトラックに乗せ海に投げ込むなど、国民党政府と軍は大規模で残虐な殺害・処刑を行った。                 専売局台北分局前に集まった群衆 戦前、台湾には日本統治下で、沖縄から多数の県民が渡っていた。47年当時、多くの沖縄人がまだ引き揚げないでとどまっていた。八重山と台湾間を行き来する人たちもいたので、事件に巻き込まれた。台湾の犠牲者も沖縄の犠牲者もその実数は明らかではない。現在までに沖縄で4人の犠牲者名が判明している。  代表世話人の青山恵昭氏が「琉球新報」1月28日付「論壇」に「今、沖縄から真実を問う」と題して、事件について詳述している。  青山さんの父・恵先さんは日本敗戦後に鹿児島から台湾に母子を迎えに行き、事件に巻き込まれて行方不明になった。外の3人は、戦後に闇船で八重山から台湾に財産を取りに戻り、消息を絶ったという。  「台湾政府から県出身者の遺族に対しまだ謝罪の言葉はない。事件の真相を究明し、補償問題を解決することが犠牲者への弔いになる」と青山さんは述べている。  台湾政府高官が2012年に沖縄を訪れ、遺族2人に聞き取り調査を行っているが、県出身者...

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2014年2月10日 (月)

アルテで「肝がなさ節」を歌う

 毎月恒例のアルテ・ミュージック・ファクトリーの今月のテーマは「時」である。エントリーが14組と少ない上に、毎回トップの南亭こったいの落語が、腰痛のためにお休みとなった。  なんと、今回のトップは私だった。選んだ曲目は「肝(チム)がなさ節」。題名は「心が可愛いでしょう」という意味である。  民謡界のヒットメーカー、普久原恒男さんの作曲で、饒辺愛子さんが歌いヒットした。人気曲である。  ファクトリーのあった2月8日は、7日から二日間、私の通う福祉センターは年1回のお祭り。6日の準備から含めて3日間、祭り要員として協力していたので、ほとんど練習ができなかった。  でも、始めてみると、三線はテンポよく弾け、手拍子もいただき、気持ちよく歌えた。  この曲は、1番では、彼の可愛がりは初めは肌の可愛がりだったけれど、時を年を重ねるたびに心の可愛がりになると歌い出す。時間を経るごとに愛情の深まりを歌っている。  4番の歌詞では、世間は急流のように時の流れは速い、夢の間であっても互いに心で可愛がってこその世の中である、と歌う。「時」のテーマにあっているだろう。  私の次は、なんとツレたちだった。ツレはいつも最後だったが、今回は1部にエントリーしたら、夫婦で1,2番ということになった。  新田さんのギター、奥田さんのリコーダー、ツレのボーカルでSMAPの「夜空ノムコウ」を歌った。互いに忙しくてリハーサルは当日を含めて2回しかできなかった。  ギター伴奏だけの歌と違って、リコーダーが入ってとてもいい味わいを出した。ツレの声もよく出ていて、とてもリハ不足とは思えない演奏だった。  今回は、飛び入りが多く、初めて参加の人も数人いた。嬉しいことだ。  有銘親子・友だち4人は、三線と太鼓・三板で宮古民謡など披露した。楽しい演奏だった。  ストリートミュージシャンでいま沖縄滞在中という若者「ショウタロウ」(?)さんは、中島みゆきの「糸」と自作の曲を演奏した。路上の投げ銭を頼りに各地を回っているという。  ブラジルからの留学生も、杉田園さんに連れられて参加した。空手家でいま滋賀大学で日本武道を研究しているとか。ギターも上手いので驚く。  さすがブラジル人だ。文武両道である。  お馴染みのメンバーの演奏も楽しませてくれた。otis yoshiさんは、沖縄市で活動するミュージシャンだ。サム・クックの曲...

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2014年2月 9日 (日)

蔡温も見た親泊競馬

蔡温も見た親泊競馬  『今泊誌』の新城紀秀氏「アブシバレーの思い出」からの続きである。 琉球王朝、尚敬王の三司官として敏腕をふるった蔡温(サイオン)は若い頃、馬で山原の一人旅をしているが、たまたま親泊で馬パラシーのすばらしさに深い感懐を数行の詩に託している。  1710年の秋で、280年の昔、蔡温29才の若かりし時である。  戯馬台 即興(親泊にて) 「戯馬台前会萬人 西風吹起馬蹄塵 群英従此決勝負 恍似楚王破大秦」 大意は次の通り。「親泊馬ういは黒山のような人があつまっている。ミーニシが吹いて、馬がかけ去ったあとは塵がもうもうとたちこめている。馬スーブ(勝負)に命運をかけた名騎手共が今か今かとまなじりを決した斗志満々の馬上の姿こそ、強国秦を破った楚の豪勇項羽の姿をほうふつさせるものではないか」 「馬パラシー」というのは、全速力で飛ぶようにかける競馬の「うまかけ」の「かきばい」とは全く趣を異にするもので、コトコト走る「ゐしばい」で馬の「パイ美(デュ)らさ」を見るものである                昔の面影を残す仲原馬場跡  しかし、最後のウンヂミを飾る「ぶり馬」は出場すべての馬が一斉に駆け出して壮観で、方々から口笛も聞こえ、もうもうと立ちこめる砂ぼこりは人馬をかくした。  馬はほとんど与那嶺から「あがり方」で、地元のシマの馬を見ることの出来なかったのは物足りない思いがした。「草かやー」の「ンジャックヮ」をもてるようなウェーキヤー(裕福な家)でないと飛行機馬小(マーグヮー)のような名馬を飼えなかった故であろうか。  蔡温時代からいわゆる黒山のような人は、①馬を見る人、②騎手の見事な手綱さばきに「シッタイヒャー(よくやった)」とヤグイ(気合)をかける人、③晴着をきて見られにくるアングヮーター(お姉さんたち)、④うの目たかの目で馬を見ないで女ばかり見てまわるニーセーター(若者たち)、⑤人垣の後ろでガチマヤー(食いしん坊)だけしてまわるワシタワラバーター(子どもたち)と、「遊びに美らさや、人数(ニンズ)のしなわい(遊びが楽しいのは人数が揃ってこそ)」 であった。     70年ぶりに復活したンマハラセー(琉球競馬)。RBCテレビから  クワディーサーの下にはにわか市場が立ち並び、でかい角のはえた二銭のトグチテンプラ(天ぷら)、タンナハクルー(黒糖を使った菓子)、三銭の...

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2014年2月 7日 (金)

昔の面影残す仲原馬場跡

昔の面影残す仲原馬場跡 今泊の集落から東に車で走ると、仲原馬場がある。県内各地にあった馬場がもうほとんどその姿をとどめていないなか、こちらの仲原馬場は広い馬場と松並木がそびえて、昔の面影を残していることで、史跡になっている。 説明坂は、次のように紹介している。 沖縄には昔から各地に馬場があり、農村における民俗行事や畜産奨励のための競馬などに利用されてきました。しかし、ほかの馬場は去る沖縄戦で破壊されたり、あるいは耕地や宅地になったりして元の形を失っており、昔から有名な仲原馬場だけが往時の面影を残しています。 仲原馬場は幅約30㍍、長さ約250㍍の長方形になっています。その両側は約1㍍の高さに土を盛り上げ前面に石を積み、上部は芝生で被われた観覧席になっています。 観覧席の枝振りの美しいリュウキュウマツ(琉球松)は、陽光をさえぎって快い憩いの場をつくり、また戦前まではアブシバレーのウマハラセー(競馬)の際に馬の係留にも利用されたりしました。 訪れたとき、なぜか馬場跡はたくさんの車の駐車場と化していた。たぶん、近くで建設工事が盛んにおこなわれていたので、関係者が車を止めているのではないか。それでも、空高く伸びた琉球松の並木や、両側の石積み観覧席など、他では見ることができない。ンマハラセー盛んだった往時をしのばせる。 今帰仁では、この仲原馬場と今泊の馬場はとても有名だったらしい。当時のウマハラセーは、どのように行われていたのだろうか。その模様を表現する文章がある。『今泊誌』の新城紀秀氏「アブシバレーの思い出」である。 アブシバレーとは、旧暦4月の中旬ごろに行われる。畦の雑草を刈り取り、農作物につく害虫(バッタやネズミ)を捕えてきて、海や川に流し、豊作祈願をする行事のこと。 新城氏の文章から紹介したい。  アブシバレーはアブシの草をはらって鼠やバッタを駆除し、それらを「イヒャドゥ」に流す行事をし、おひるから村中一斉休業!仕事は絶対にまかりならぬ、きびしい「物忌み」が守られていた。… 今泊馬うい(馬場)の「馬揃り」は仲原馬ういのようなはなやかさはなかったが、今帰仁、本部をひっくるめた一大イベントであった。 朱塗りの鞍に赤や黄の布で飾りたてた馬、馬乗袴に身をかため、白ハチマキをきりっとしめた騎手の姿はまことにりりしくあこがれの的で子供心をゆさぶった。中でも上謝名の豪傑ブッセーカナ...

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