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2010年7月

2010年7月31日 (土)

アメリカ生まれの沖縄育ち

 「アメリカ生まれの沖縄育ち」というキャッチフレーズがある。というのは、本社はアメリカだが、戦後の米占領下で沖縄に進出し、沖縄で生産をしていまでは、県民の間にすっかり定着している商品がいろいろあるからだ。お中元にこれをうたい文句にしているのは、「ブルーシールアイスクリーム」。沖縄名物の紅芋や黒糖などのアイスもある。

 ハム・ソーセージの「沖縄ホーメル」も同様だ。沖縄の豚の三枚肉を煮たラフティーや軟骨ソーキ(あばら骨)を煮たものなど豚肉料理や、中味汁、イナムドゥチなど沖縄独特の汁物など、レトルト商品がスーパーに並んでいる。

 ファストフードは日本より早く沖縄に進出した。A&Wはその代表格だ。なんといっても「ルートビア」なる飲み物は、沖縄でなければ飲めない。コーラでもない、ビールでもない、不思議な味である。

 そういえば、民謡ラジオ番組で、「ホーメルでこんにちは」というのがある。民謡歌手の盛和子さんがゆんたく(おしゃべり)しながら歌う。息子でやはり民謡の「のーりー」も登場する。10分ほどの短い番組だが、毎週月曜日に、どこかのスーパーから生放送をする。そして、そのあと火曜日から木曜日まで番組を収録する。ゲストで必ず民謡歌手がでる。番組収録後は、ミニ民謡ショーがある。先日も女性に人気のある田場盛信さんが出た。近くのスーパーなので見に行った。

 この番組は、クイズに答えると、必ずホーメル商品をくれるので、また別の人気がある。いつもおじい、おばあが詰めかける。いま夏休みだから、先日はワラバー(子ども)が前列に陣取っていた。名物は、番組の最後にはカチャーシーを踊ること。踊れば全員に、ホーメル商品をくれる。「のーりー」がカチャーシーの民謡を何曲もたて続けに演奏する。もう、呼びかけなくてもすぐに、おじいもおばあも、子どもたちも踊りだす。

 私たちも、ついいつの間にか踊りだす。別にホーメルが欲しいわけじゃない。カチャーシーになれば、踊るのが当たり前。それになじんできただけである。

003 写真はことし3月の番組の収録時。

2010年7月29日 (木)

沖縄のセミは大きい

 毎日、セミの大合唱である。沖縄のセミはとても大きい。このごろは、路上に落ちて死んでいる姿をよく見る。それにしても、沖縄の子どもたちはセミ獲りが大好きだ。夏休みの前から、近くの公園は夕方になると、網を持った子どもたちが大勢きていた。

 沖縄は、台風がよくくるからか、大和のようにひょろひょろと高く伸びた木はない。みんなずんぐりむっくりである。デイゴ、がじゅまるはその典型だ。だから、セミを獲るにも、子どもが網ですぐ手が届く位置にいる。子どもたちは、何匹もとって、籠に入れている。

 先日、近くの団地の夏祭りに行くと、やはり子どもがセミを獲っていた。獲るとなぜか、近くにいる女の子に持っていく。女の子は、もう両手にセミを持っている。まるで女王蜂のように、男の子にセミをとらせている。どうやら、この子の姉さんらしい。そのうち、セミを離した。パタパタ音をさせて、セミが飛んでいく。セミの低空飛行を初めて見た。大きいから夕方でもよく見える。こんな風景を見ていると、なぜか、懐かしい感じがする。かつては、日本のどこにもあっただろうが、東京住まいが長かったので、すっかり子どものセミ取り風景など見た記憶がない。

038

 セミで驚いたことがある。秋の11月に、北部の山原に行った時、山から「キーンキーン」というチェンソーのような金属音が聞こえる。車で走っても走ってもその音がする。不思議に思い出会った地元の人に聞いたら「それはセミですよ」という。えっ!こんな音を出すセミがいるのか、とびっくりした。たしか「大島ゼミ」という種類だ。南部では聞かない。山の連なる山原に多いようだ。  

 そういえば、お笑いピン芸人の「べんびー」に登場するおじいは「私の好物は、セミ!」という笑いがある。お笑いとばかりは言えない。地元のラジオの女性アナウンサーは、虫を食べる趣味があるというから。

 それにしても、民謡にはセミを歌った曲がないなあ。なぜだろう?。

2010年7月27日 (火)

朝敏も嘆くのでは

 先にアップした琉球悲劇の文学者、平敷屋朝敏(へしきやちょうびん)のゆかりの地、うるま市平敷屋で、25日「平敷屋朝敏を偲ぶつどい」が開かれたそうだ。残念ながらまだ参加したことがない。でも、この朝敏の碑が建つ平敷屋の小高い丘には2年前に行った。地域の人が、草刈や清掃をしていて、碑の前にお供えもあり、いまなおとても親しまれていることがわかった。

 平敷屋といえば、エイサーでも有名である。ここのエイサーは、エイサーの起源といわれる念仏踊りの流れがその踊りの中に生きている。いまはどこのエイサーも、太鼓の打ち方から踊りまで勇壮で、派手になっているが、平敷屋エイサーは素朴さの中に、エイサー本来の姿が見える気がする。

 勝連半島の先端にある平敷屋だが、この朝敏の碑の前に立つと、そこから見下ろす位置に、なんと米軍基地がある。原子力潜水艦の基地であるホワイトビーチだ。ことしも、7月16日現在で、すでにここには20回も米原潜が入港している。日本全国で米原潜の寄港は30回という高水準だが、そのうち67%はホワイトビーチということになる。

 そういえば、朝敏の作った組踊(くみうどぅい)、「手水の縁」にゆかりの地、豊見城市瀬長島には、やはり「手水の縁」を顕彰する碑が建っている。ここは、那覇空港に近く、空港に離発着する旅客機が上空を低空で飛ぶ。それだけでなく、自衛隊の陸上、航空基地が近くにある。だから、戦闘機はつねにこの瀬長島方面に飛び立つ。

 歴史的なゆかりの地、景観の素晴らしい地を訪ねても、すぐそばに米軍の基地、自衛隊の基地があるのが沖縄の現実である。ホワイトビーチのある勝連半島の沖は、鳩山政権の時、普天間基地の移設先の候補地にもなった場所だ。

 もし朝敏が生きていたら、この現実をどう見るのだろうか。

 

2010年7月26日 (月)

沖縄の名字

 沖縄の名字は、難しい。その理由に、漢字で三字の名字が多いことがある。瑞慶覽(ずけらん)、仲村渠(なかんだかり)、冨名腰(ふなこし)、与那覇(よなは)、與古田(よこだ)などなど。沖縄の新聞は、人が亡くなると死亡広告が毎日、一ページ分も掲載される。それを見ると、「こんな姓もあるのか」「こういう読み方なのか」といまだに驚くことがある。

 戦前は日本が、沖縄人を天皇の臣民として、大和化を進めた。沖縄の名字につていも、大和風の姓にするように強いた。そのため、仲村渠は仲村にしたり、真栄田(まえだ)は前田にする、冨名腰は船越というように、改める人が多かったという。 読み方も、金城は本来、「かなぐすく」だが、いまは「きんじょう」「かねしろ」という具合だ。

  姓といえば、同じ琉球弧のなかの奄美諸島では、一字の姓が多い。歌手でも「元(はじめ)ちとせ」、「中(あたり)孝介」なんか有名だ。『奄美大島物語』を書いた人は「文(かざり)英吉」という。ほかにも、「麓」(ふもと)、「向」(むかい)など。

 なぜ、一字の姓が多いのだろう。聞くところによると、奄美は琉球王国に属していたが、400年前に薩摩が琉球に侵攻して、奄美は琉球から切り離して薩摩の直轄の植民地にした。その後、奄美の住民の姓は、薩摩本領と区別するため、一字の姓にするように命じたという。

 ところが、薩摩は琉球には、逆に「大和めきたる名字の禁止」をしたので、2字の姓は3字の姓にするようになったという。これは、琉球王国が中国にも属して、貿易をしていたので、琉球が薩摩の属国となったことを隠して、貿易を続けるため、琉球の風俗を大和風にするのを禁じた。その一環だろう。  というわけで姓には、そんな歴史が刻まれている。

 姓には、人々の思いがある。地名とのつながり、人々とのつながりなどがある場合が多い。そこにアイデンティティを感じる人もいる。今年は日韓併合100年だというが、日本が朝鮮を支配した時、やはり日本名を強いた創氏改名の歴史が思い出される。

 

2010年7月24日 (土)

海神祭はある

 「民謡に大漁唄がない不思議」の続きである。私が通うサークルで、練習する民謡100曲ほどの中には、大漁唄はない。コメントで書いた「谷茶前」があるぐらいだ。といっても、やっぱり南の島。豊漁と航海の安全を祈る祭りはいろいろある。

 糸満市には、糸満海人(漁師)が航海安全と豊漁を祈願する拝所として名高い白銀堂がある。糸満海人は、明治後期から大正にかけて、沖縄の各地、八重山から奄美諸島など漁に出掛け、そこにも住みついたという。航海安全と豊漁は海人の心底の願いだ。旧正月など祈願にくる海人らでとてもにぎわう。

 沖縄本島の北部には「ウンジャミ」と呼ばれる海神祭がある。大宜味村塩屋(おおぎみそんしおや)や今帰仁村古宇利島(なきじんそんこうりじま)など有名だ。塩屋の「ウンガミ」は集落の豊作や豊漁を願う神事として国の重要無形民俗文化財にも指定されている。

 地域の拝所「アサギ」を巡り、神酒や舞をささげ豊作や健康を祈願する。歌や踊りを披露して祭事を盛り上げる。サバニを漕ぎ競う「ハーリー」が行われ、岸で各集落の女性が、腰のあたりまで海につかり、にぎやかな歌や太鼓で男性の乗るハーリーを出迎える。まだ見物に行ったことはないが、テレビでその模様を見たことがある。

 南部の南城市知念でも2年に1度、「大神宮のウユエー」という伝統行事がある。これは、約230年前に移り住み、住民に漁網を与え、漁の仕方を教えた人物にあやかり祝う行事である。仏壇に海産物を供え、神々への感謝と豊漁、健康を祈願する。こうした祭は、継承されている。

 ただ、沖縄の祭といえば、海の豊漁祈願は少数派である。各地の豊年祭がとっても盛んである。五穀豊穣、豊作の祈願と感謝、種子取祭や人頭税など年貢を無事に納めたことを祝う祭、子孫繁栄、健康など祈願する祭が圧倒的に多いのも事実である。

 

2010年7月19日 (月)

ウチナーミュージシャンは農業もやる

 「ハルサーミュージシャン」を名乗る「アイモコ」のライブを見た。「ハルサー」とは、畑を作る人の意味だ。つまり農民。夫のアイロウくんがギターを奏で、妻のモコちゃんと二人が、自作の唄を歌う。シンガーソングライターである。農業の楽しみ、苦労なども歌う。

 17日に沖縄の農産物卸売市場である中央卸売市場まつりで、「アイモコ」の二人は、イベントの司会をしながら、2回のライブを披露した。彼は沖縄出身、彼女は、長崎の壱岐の出身だが、もうすっかり沖縄になじんでいる。二人は、長寿の村として名高い、大宜味村で畑を作っている。親が農業をしているので、それを手伝いながら、ライブやラジオも幅広くやっている。まだ4年目だというが、年齢を問わず幅広く人気がある。

 沖縄では、民謡にしても洋楽にしても、音楽だけで食べていけないので、アルバイトをしている人がけっこういる。バイトをするのは、どこでもあるだろうが、「ハルサー」がいるのが沖縄的だ。沖縄唯一のGS(グループサウンズ)バンドとして、活躍する「SSカンパニー」のリーダー、「真ちゃん」もハルサーだ。こちらは、ウージ(サトウキビ)もやっているので、「ウージトオーシ」(サトウキビ刈り)の時期など忙しい。やっぱり、「真ちゃん」もラジオでGSコーナーを持っていて、登場すると、いつも「ハルサー」のことが話題になる。

 このほかにも、民謡歌手で農業をしている人はかなりいる。それだけ、ウチナーのミュージシャンは生活に深く根付いて活動していえそうだ。

2010年7月17日 (土)

文字はなくても歌は作れる?

 「平和の願い」の続きである。作詞者の平識(へしき)ナミさんは、文字を持たない人だったと聞く。ナミさんはほかにも平和の唄をはじめ、たくさんの歌詞を作っている。だから「文字を持たない」といわれると、「えっ!」と驚く。こんなすごい歌詞が作れるなんて、信じがたい思いだった。でもでも、沖縄では、古代の文字がない時代から、人々の思いを歌にして伝承してきた。各地の口伝えの歌、神に捧げる歌(神歌)など「おもろ」を集めて文字にしたのが有名な「おもろそうし」だと聞く。

 それに、琉球王国の時代は、百姓は「納税奴隷」のような存在で、学問をすること、文字も禁じられていた。だから文字をしらないのが通常だった。農民や一般民衆の間でだけ通用する縄を結んで数の計算や記録をする「縄結い文字」があった。八重山ではやはり藁(わら)で印をつくる「藁算」が使われたという。

 ちょっと歌からはずれてしまった。歌の話に戻す。近世でも、ほとんど文字を知らない一般民衆のなかからも歌人を輩出したという。「その代表的な歌人に北谷真牛(ちゃたんもうし)、吉屋(ゆしや)チル、恩納(うんな)ナビなどがいます」(川平朝申著『おきなわの歌と踊り』)。吉屋チルや恩納ナビの琉歌は、いまも古典音楽や民謡で歌われている。いくつかは、私も歌っている。

沖縄民謡「平和の願い」

 「平和の願い」をいま毎日、練習している。サークルで仲間のおじいが「これはいい唄だよ」といって、工工四(くんくんしー、楽譜)のコピーをくれた。これだけでは、歌の旋律がわからないので、図書館でCDを借りて聞いた。「うん、やっぱりいい唄だ」。ようやく歌えるようになってきた。

 「♪沖縄てる島や 何時も戦世い やしやしと暮らす節や何時か でい我ったこの島沖縄 平和願らなこの沖縄」が一番の歌詞だ。まだ日本復帰前に作られた曲のようだ。平識(へしき)ナミさんの作詞、名曲「芭蕉布」を作った普久原恒勇(ふくはらつねお)さんの作曲である。ベトナム戦争が続き、米軍基地から出撃していた時期。米兵による住民の狙撃をはじめ事件、事故も続発した。「やすやすと暮らせる時はいつくるのか」といって「平和を願うこの沖縄」と歌う。

 いまでも、イラクやアフガニスタンに出撃してきたので、基地の中は「戦時」である。島の一角ではいまなお「戦世」は続いている。5年前にヘリコプターも落ちた。「やしやしと暮らせない」のだ。

 4番の歌詞はこんな内容だ。「♪思事や一道 恋しさや大和 やがて御膝元 戻る嬉しや」。「思う事はただ一つ 恋しい祖国日本、やがてお膝元に戻るうれしさよ」。ここを歌うとき、複雑な思いがよぎる。恋しい祖国への復帰とは、米軍基地の重圧がなくなり、平和で安全は沖縄になることが願いだったはず。「お膝元に戻るうれしさ」は実現できたのだろうか。いまも、米軍基地はそのまま居座る。そればかりか、普天間基地は「国外、県外へ移設」と鳩山首相が約束していたのに、元の辺野古に舞い戻ることで日米が合意し、県民の声にはまるで耳を貸さない。みんな裏切られた思いである。この唄に込められた「平和の願い」が実現するのはいつだろうか。 

2010年7月15日 (木)

沖縄戦の不発弾902発も発見

 昨夜、夢を見た。遺骨収集の夢だ。ブルーシートの上一面に、沖縄戦で戦死した人の骨、それも遺骨が並ぶ。ボランティアで遺骨収集をしている具志堅隆松さんも出てきて掛け声をかけていた。こんな夢を見たのは初めてだ。沖縄に住んでいなければ、こんな夢は見ないだろう。今朝、琉球新報を読んだら、一面のコラム欄で、具志堅さんの話が紹介されていた。地中で眠っている骨は、白くない。褐色で木と見分けがつかない。「重ければ骨、軽ければきだよ」という話だった。

 同じ紙面で、もっとびっくりしたのは、糸満市で不発弾が902発も発見されたニュースだ。市内の真栄里(まえさと)の飲食店の敷地内で見つかった。発見されたのは、米軍の迫撃砲弾、手投げ弾、ロケット砲、小銃弾など。糸満では昨年、工事中に不発弾が爆発して、重傷を負った事故があった。糸満は激戦の地だからいたるところ不発弾がある。今回は業者が磁気探査で見つけて処理されたという。沖縄では、もう毎週、不発弾の発見や処理のニュースがある。900発を超える不発弾なんて、われわれには想像を絶する量だ。

 遺骨もまだたくさん埋まっていて、収集が続く、これが終戦65年の沖縄の現実である。

2010年7月13日 (火)

すべての武器を楽器に

 「すべての武器を楽器に」というのは、沖縄のミュージシャン、喜納昌吉さんのキャッチフレーズだった。喜納さんは、今回の参院選挙で落選したけれどね。はじめて聞くと、この言葉は、夢物語のように聞こえるかもしれない。でもこれは、たんなる夢想ではない。琉球の長い歴史に裏付けをもったものである。

 というのは、いまから500年ほども昔、琉球王国の時代、尚真王のもとで、それまで国内で武装した勢力が割拠していたけれど、国内の「刀狩り」をした。それ以来、王国の中では、対外的な防衛のために多少の武器はあったそうだが、国内は武器を持たない社会になったのだ。大和の武士が腰に刀をさしていたが、琉球のサムレー(士族)は、丸腰だった。そればかりか、王府の役人は、歌三線、舞踊など芸能に励んだそうだ。  というのは、中国の皇帝から国王と認めてもらうため、皇帝の使者である冊封使(さっぽうし)を歓待する必要があった。そのため、芸能は重要な国家的な仕事だったのである。

 大和の武士は、自宅の床の間に、刀を飾ったが、琉球では床の間に三線を飾ったという。そんな長い琉球王朝の歴史があるからである。首里城を見れば、どこにも武器が見当たらない、正殿をみても血なまぐさい戦さの臭いがまったくしないことにも表れている。

2010年7月11日 (日)

「命口説」の歌詞

 要望があったので「命口説」の歌詞の全文を紹介します。ウチナーグチで書かれているけれど、漢字を見ればだいたい意味がわかるので、そのままアップします。

 

            Photo_2

 

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次は「命口説」の歌詞の意味を訳したものです。 「nutikudoti.doc」をダウンロード  

2010年7月10日 (土)

沖縄と口説(くどぅち)

 沖縄民謡のジャンルのひとつに「口説」(くどぅち)がある。普通、沖縄島唄の歌詞は、たいていが琉歌である。大和の和歌は「七五語調」で作られているが、琉歌は「八八八六」で作られる。でも、この「口説」は七五語の歌詞だ。だから、なんかのりがよい。それになにより「口説」は、メロディが決まっていて、シンプルである。だから、七五調で歌詞をつくればなんでものせて歌える。いまでいえば、ラップのような感じだ。たいてい一〇番くらいまで歌詞があり、これで一つの物語を歌える。

 民謡には「上り口説」「下り口説」「四季口説」などがある。「上り」とは、琉球から薩摩に船旅をする情景を歌う。「下り」では、逆に薩摩から琉球に戻る情景が歌われる。琉球は薩摩に侵攻され、支配されていたので、薩摩tとの往来は多かった。

 「高平良万歳」(たかでーらまんざい)の「道行口説」という唄は、「親の仇を討たんと 万歳姿に身を変えて 棒と杖に太刀を仕込み」(歌意)というように、親の仇を討つ物語がテーマである。万歳とは、お笑いの万歳ではなく、乞食のような存在のことである。サークルで歌っている。

 これらの民謡は琉球王朝の時代の古い曲だが、この「口説」は現代にも生きている。戦後、米軍に占領され、土地を基地のために強奪された伊江島の島民が、その窮状を本島の人々に訴えるために、作ったのが「陳情口説」という。本島各地を行進して訴えた。

 先日、アメリカ独立記念日の7月4日、米軍普天間基地の前で、女性たちが座り込んで抗議している様子がテレビで放送された。そのとき、なにか歌いながら訴えていた。よく聞くとやはり、普天間基地を撤去してほしいという思いを、「口説」にのせて歌っていた。

 ちなみに、いま「命(ぬち)口説」という唄を歌っている。ラジオのパーソナリティーであり作詞家でもある上原直彦さんが作詞した曲だ。11番まである。沖縄戦を歌っている。艦砲射撃が雨あられと降りそそぎ、生まれ島は火の海、火の山となった、命一つひっさげて島中を逃げ回り、あのガマ、このガマと隠れた、戦争を起こしたのは何のためか、誰が始めたのかと問いかける。さらに、戦争が終わり平和の世を迎えたと思ったのに、あれこれ危ういことが果てしなく起きる、幾年月が経とうとあの戦争のことは子や孫に語り継ぎ、決して忘れてはならない、命口説。沖縄戦の始まりから終わりまで、県民の味わった惨状と苦痛、思いが「口説」にぎゅっと込められている。

 戦後65年のこの年に歌ってみて、改めてスゴイ唄だと思う。 沖縄の思いを込めて訴えるのには、「口説」はとても有効であり、今も生きているし、これからも時代とともに生きていくだろう。

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