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2010年8月

2010年8月31日 (火)

琉球と中国の長い交流の物語(下)、その6

 これから(下)に入る。でも番号は通し番号にしたので「その6」である。中国皇帝の使者である冊封使は、国王が代わるたびに、琉球にやってきた。冊封使は、どのように決められ、どのようにして琉球に来たのか、琉球では何をしたのか、などが、その6の内容である。

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琉球と中国の長い交流の物語(上)、その5

 中国との進貢貿易も、1609年に、琉球が薩摩に侵略されて以来、その支配下に置かれた。琉球国王は、「子々孫々まで島津氏にはそむかない」という証文をとられた。薩摩は琉球に「薩摩が命じる外に、唐から品物を買ってはいけない」などの厳しい「掟」を押し付けた。その5は、薩摩にがんじがらめにされたことなどを明らかにする。

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2010年8月30日 (月)

琉球と中国の長い交流の物語(上)、その4

 琉球が中国皇帝になぜ、臣従して、危険を冒しても進貢し続けたのか。それによって、当時、海禁政策で貿易を禁じていた中国との貿易が許されたからである。琉球は、中国から買った品物を日本や東南アジアに持っていく。東南アジアでは、現地の産物を買い求め、それを中国、日本に持っていく。海洋国家である琉球は、東アジアをまたにかけた中継貿易で大いに栄えたのである。その4はこんな内容である。

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琉球と中国の長い交流の物語(上)、その3

 中国に行くことを「唐旅」と呼んだ。福建省の福州にまで航海する。嵐にあったり、海賊に襲われるなど、とても危険があった。海を渡っても、そこから、首都の北京にいくのに、3000キロの長旅が待ち受けていた。皇帝に琉球の国王は何を貢物として、持って行ったのか。明の時代は、主に馬と硫黄だったという。その3は、こんな内容である。

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2010年8月29日 (日)

琉球と中国の長い交流の物語(上)、その2

 なぜ、中国の明の時代から、琉球と交流が始まったのか。交流といっても、対等な関係ではない。なにしろ、中国はアジアで圧倒的な超大国である。世界の中心だと思っている。周辺の国々に、遣いをやり、貢物をもって来て、臣下となるように働きかけていた。

 14世紀のことである。琉球はまだ当時、3つの国に分かれて抗争していた。この小さな島の、3つの国々がそれぞれ、中国と関係をもったのである。

 臣下となった琉球は、定期的に中国に使者を派遣して、貢物を捧げていた。これを、朝貢とか進貢という。進貢船が東シナ海をわたる。その船は、200人以上が乗りこむ大規模なものだった。第2回は、そんな内容である。

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琉球と中国の長い交流の物語(上)、その1

 沖縄は、琉球王朝の時代に、中国と500年間にわたり交流を続けていた。琉球の国王は、中国に貢物をして、皇帝から琉球国王として認めてもらった。そのもとで、中国と貿易をを許されて、大きな利益を上げてきた。一方、日本・大和にも属していた。中国と日本の両方に属するという特殊な立場にあった。だが、料理から民俗、文化にいたるまで、沖縄には中国の強い影響が見られる。それは、こんな歴史があるからである。

 これから上下、10回にわたり、琉球と中国の長い交流の物語を連載する。第1回は、序章的なものである。

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2010年8月27日 (金)

ホテルで米軍放送が見える

 北中城村にあるホテル・コスタビスタ沖縄に泊った。ホテルのベランダから眺めると、目の前に広がるのは米軍喜舎場(きしゃば)住宅地区である。高層の住宅と平屋の一戸建てが、広い広い芝生の中に広がる。周りの密集した県民の住宅街とは、住環境がまるっきり異なる。

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 ホテルの部屋のテレビの放送案内を見て、「エッ!」とビックリしたのは「米軍放送チャンネル9」と出ていたことだ。県内のリゾートホテルもいろいろ泊ったけれど、米軍放送が映るホテルは初めてだ。さっそくチャンネルを合わせてみると、なんと戦闘場面が映る。上陸用舟艇での上陸、戦車や大砲、負傷した兵士、むごたらしい倒れた兵士などなど。

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 劇映画ではない。ドキュメンタリーだ。なぜか沖縄音階の音楽が流れている。沖縄戦のフィルムなのか。なんのために?戦意高揚になるのか、疑問がわく。

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 天気予報の時間になったが、世界の米軍基地のある場所の予報ばかりが流れる。この画面は太平洋だが、その前、極東・日本の予報では、三沢、横須賀、岩国、嘉手納など基地のある場所だけが表示される。あくまで、米軍人と家族に必要なだけの予報なのだ。

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 軍服姿でニュースを伝える場面もあった。「むる、アメリカー向けさ」。でもホテルでわざわざこのチャンネルを設けているということは、米軍関係者がけっこう宿泊しているということだろう。そういえばレストランのディナーにも、それらしき外国人の姿が見えた。

2010年8月26日 (木)

勝連城跡と阿麻和利

 うるま市の勝連半島にある勝連城跡に行ってきた。勝連城跡にはこれで4回目だ。ことしは、1月に、今帰仁城跡に桜を見に行ってから、その後、読谷村の座喜味城跡、中城村の中城城跡と行って、世界遺産のあらかたを一巡りした。今年は、沖縄の城跡が世界遺産に登録されてちょうど10周年にあたる。

       026 勝連城跡

       029 座喜味城跡

 それぞれに特徴がある。共通しているのは、曲線を描く石垣の美しさ、見事さと頂上部から見る絶景である。勝連が他と違うのは、石を敷き詰めた登り急坂の石段のきつさだろう。それと、勝連の城主であった阿麻和利(あまわり)に魅力と興味があることだ。生まれたのは現在の嘉手納町だが、勝連に流れ着き、村人たちに漁網みをつくったりして、慕われるようになる。当時の城主だった茂知附按司(もちづきあじ)が圧政をおこない、酒におぼれ、村人の怨嗟の的だったらしい。人々の信望を得た阿麻和利は茂知附按司を追い出し、第10代城主になった人物だ。でも、首里城を攻め結局は、首里王府によって滅ぼされた。

 首里王府の編纂した琉球王朝の正史では、謀反を起こした逆賊のように扱われてきたが、いまは評価が大きく変わった。「海外貿易を先駆けた時代の風雲児、阿麻和利は勝連に大きな富と名声と文化をもたらした」(教育委員会発行のリーフレット)と高く評価している。

 いま、うるま市の中高生たちが演じる「現代版組踊 肝高の阿麻和利」が評判である。「肝高」とは「誇り高い」という意味だ。先日、公演があってうるま市まで見に行った。組踊(くみおどり)は、歌三線と台詞、踊りによる総合芸能である。その現代版だ。とくに集団による踊りが躍動している。いわばミュージカルである。中高生たちの熱演は見事である。なにより、郷土の歴史上の人物を描くことで、阿麻和利だけでなく、自分たちの郷土に誇りを感じ、歴史と伝統にも関心を持ち、伝統の組踊を新しい形で発展させていっていることはいいことだろう。阿麻和利さんも、500年以上たってから、若い人々が自分のことを演じてくれているとは思いもしなかっただろう。勝連城跡に登って改めてそんなことを感じた。 

2010年8月24日 (火)

お盆はラジオもテレビも民謡大特集

 お盆もいよいよ「ウークイ」、家に来ていた先祖の霊を送る日である。重箱料理などお供えする。夕方近所を歩くと、天ぷらを揚げている匂いがどこの家でもしていた。仏壇の前に親族一同が集まり、「あの世にお帰りになってもわが家と家族をお守り下さい」と手を合わせる。土産の御馳走を準備し「グソー」で使うお金「ウチカビ」を燃やす。

 「ウークイ」はなにしろ遅い時間にする。それには理由がある。あまり早くお帰りいただくのは、先祖に失礼だから。最後に、家の門の前に出て「また、来年もおいで下さい」と見送りする。だから、近くの家でも夜中、12時すぎまでにぎやかだ。

 本題が遅くなった。お盆は、とにかく民謡番組が多い。テレビでは次の番組があった。琉球放送は「第16回民謡芸能祭ー琉球民謡伝統協会」(23日)、「琉球民謡保存会・民謡の祭典」(24日)、沖縄テレビ「第28回民謡芸術祭ー琉球民謡協会」、NHK「沖縄の歌と踊り 旧盆特集・ふるさとへ贈る島唄」(いずれも24日)。これらの「芸能祭」などは、ライブではなく、一応すでに行われたものの録画である。お盆に合わせて例年、放送する。

 さらにラジオは、通常の民謡番組に加えて、rbcでは、ナイター中継が終わったあとの午後9時50分から「旧盆特別番組・夏祭りふるさと大行進!」が日付を超えて午前1時まで続く。「いま親族がウークイで集まり、みんなでラジオを聞いていますよ」などの電話がある。この番組のすごいところは、電話によるリクエストに応えて、CDやレコードをかけるのではない。ベテランや人気ある民謡歌手がスタジオに出演していて、リスナーのリクエストにこたえて、生演奏で放送することだ。夜型社会の沖縄だから、午前零時を超えても平気だ。離島からもリクエストがくるし、宮古島、渡名喜島など離島や本島の各地と結んでウークイの模様やお盆に行われる大綱引き、エイサーの模様など伝えてくれる。

 これを書いている午後10時半前後に寄せられたリクエスト曲に「平和の願い」があった。「沖縄という島はいつまで戦世か、やすやすと暮らせる時はいつのことか」「忘れるな互いに 哀れ戦世や 世の中の人々の心に刻んで」「心打ち合わせて 誠実にこの沖縄を守っていこう」という意味の平和を願う歌詞である。リクエストしてきた女性は「子や孫まで平和であり みんなでウークイもできることを願っています」とメッセージを寄せた。この曲をCDで出した玉城一美さんが、心を込めた唄を聞かせてくれた。「二見情話」もリクエストがあり、披露された。これも、普天間基地の移転先に日米政府が狙っている、あの名護市辺野古の近くの二見が舞台の唄だ。戦後ここに捕虜収容所があり、その体験をもとに作られた唄だ。歌詞の最後は「戦場の哀れは いつか忘れられるだろう 忘れられないのは花の二見の美しさだ」という内容になっている。

 沖縄戦で県民の4人に1人が亡くなった。それら先祖の霊も、それぞれの親族の家に戻ってお盆を過ごしたただろ。亡くなった先祖のことを思い浮かべると、戦争で肉親が亡くなった人はとても多い。だから、お盆にリクエストされる唄にも「戦世と平和の島唄」が含まれるのは当然のことなんだ、と改めて気付かされた。

 多良間島が舞台の「多良間ションカネー」や八重山の「月ぬかいしゃ節」「ツパラーマ」など、先島の名曲も流される。民謡ファンにはたまらない。かくて、満月の美しい「ウークイ」の夜は更けていく。

2010年8月23日 (月)

お盆の「中ぬ日」はお中元を配る

 23日は、お盆の「中ぬ日」である。明日は「ウークイ」で「お送り」になる。沖縄では、「中ぬ日」には、お中元を持って、親戚などの家を回る。大和では、お盆とお中元はもう関係なくなっているのじゃないか。もともと、「上元」が1月15日、「中元」が7月15日、「下元」が10月15日のことをさしていた。それが、中元はお盆と結びつき、贈りものをすることになったらしい。多い人は10軒もそれ以上も回るという。

 旧暦だと今日は7月14日、だから月は満月に近い。大和のように月遅れのお盆では、もう月夜も関係ない。旧盆だと、必ずお盆は満月である。満月の月光の中を、先祖の霊はグソーに帰ることになる。

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 親戚のあいさつ回りしても、話題はやっぱり興南の春夏連覇。今朝の「琉球新報」では、石垣島の旧盆の伝統行事である「アンガマ」が報じられていた。グソー(あの世)からの使者と言われるウシュマイ(翁)とウミー(媼=おうな)が、家庭を訪問し、ひょうきんな問答を繰り広げて、祖先を供養する。そこでも、あの世からの使者は、興南を夢中になって応援していたというから、グソーでも話題は興南優勝らしい。

 それに、今日はアメリカで宮里藍ちゃんが、今季ツアー5勝目をあげた。なにしろ、岡本綾子の4勝を超える偉業だ。「興南の優勝と藍ちゃんの5勝目で、盆と正月が一緒にきたようだ」という声も上がっている。藍ちゃんには、この後も活躍して、ぜひ賞金女王と世界ランキング一位に輝いてほしいというのが、もっかのウチナーンチュの願いである。

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2010年8月22日 (日)

旧盆も興南優勝で盛り上がる

 旧暦で7月13日、お盆の入り。沖縄では「うんけー」という。「お迎え」の意味だ。大きい仏壇をきれいにして、ご先祖様を家にお迎えする。ことしは、昨日、興南が夏の甲子園で初優勝の悲願を成し遂げたので、「グソー」(あの世)もこの話題で持ちきりのようだ。というもの、優勝をご先祖様に祈願していたから、「グソー」からご先祖様も応援していたに違いない。朝からのラジオ番組でも、リスナーのこんな話で絶えないから、間違いない。

 お盆には、伝統の重箱料理とともに、果物をささげる。青バナナ、スイカ、パイナップルなど。スーパーで買い物をしたおじいたちが、本土では見かけないもの買って帰る。サトウキビだ。なぜお盆にサトウキビなのか。これは食べるためではない。ご先祖さまが、サトウキビを杖に使うためだという。先祖は年寄りが多いからだろう。心配りはきめ細かい。

 先祖さまは、なんで家に来るのか。那覇空港まで飛行機で着て、空港からはタクシーに乗ってくるらしい。帰りもタクシーで空港に行き、飛行機で「グソー」に帰るらしい。運賃が高いから、お金をしっかり持たせないといけない。沖縄では、あの世のお金がある。「うちかび」という。これを燃やして持たせる。「うちかび」はどこで手に入るのか。もうスーパーでもたくさん売ってるさー。

 「うんけー」の今日夜、春夏連覇の偉業を達成した興南ナインが、那覇空港に帰ってきた。空港には、凱旋する選手を4500人の人々が熱烈お迎えをした。春優勝の時の2倍以上の人が詰めかけた。このあと、興南の体育館では、優勝の報告会が開かれている。こちらも3000人が集まった。もう、県民もご先祖様もいっしょになって、祝っているだろう。そんな意味でも、歴史的な「うんけー」である。

 

待ちわびた優勝に沖縄わきかえる

 夢にまで見た夏の甲子園での興南の初めての優勝、しかも春夏連覇という、あの松坂大輔の横浜高校以来、6度目の快挙に、県民挙げて喜んでいる。その一端を、本日つけの「琉球新報」で紹介する。すでに昨日、号外7万部の配布に人が殺到したという。

 大型社説は「追い付き、追い越した快挙」と言う。ここに、なぜ沖縄ではこれほど高校野球の優勝に熱狂するかの秘密がある。戦前からの貧困の上、沖縄戦の惨禍と、戦後は米軍の支配下に置かれ、本土に比べて差別もあり、あらゆる面で著しい格差があった。沖縄県民にとって、本土に追い付くことが大きな目標だった。高校野球はその一つの象徴だった。だから夏の甲子園での優勝は「悲願」と言われた。選手たちは、新たな歴史をつくったのだ。琉球新報は、1面と34面をはじめ見開き特集を組んだ。ご覧下され。県民の熱い思いを汲んで下され。

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2010年8月21日 (土)

悲願達成、沖縄熱狂

 興南高校が見事、春夏連覇!すごすぎる。もう試合が始まると、道路も車は少なく、スーパーも客足は止まる。復帰前に本土は外国扱いでパスポートを持って甲子園に行った時以来、夢だった夏の深紅の優勝旗が海を越えて沖縄に来る。優勝が決まった瞬間、県民は涙を流し感激し、いたるところでカチャーシーを舞った。選手の出身地でも、みんなが歓喜に沸いた。もちろん、号外も発行された。

 決勝戦は、打線は爆発し、島袋君は熱投した。チャンスの連続でヒヤミカチ応援節が鳴りやまない。「ヒヤミカチ興南!」の声援は、優勝を後押ししただろう。

 それにしても、投げる、打つ、守る、走る、それに精神力も抜群。どれをとっても鍛え抜かれたナイン。スター選手はいない。みんなの猛練習の成果が見事に実った。興南の合言葉は「魂・知・和」。「こんちわ」という。意味するとことは、「魂を込め、知識を力に、全員のチームワークで」ということ。我喜屋監督は、たんに野球で勝つための練習だけではなく、選手の人間づくりにも力を入れていた。「魂・知・和精神」が、試合と勝利にも生きているところが素晴らしい。

 試合後のラジオ沖縄の番組「民謡の花束」も、「ヒヤミカチ応援節」で幕開け。、興南の優勝の喜びであふれた。興南の体育館には1500人が詰めかけた。そこからの生中継で喜びを伝えた。もう民謡番組も野球一色だった。

 決勝戦を前に、ウチナーのおばあたたちは、ご先祖さまに「うーとーとー」して勝利を祈願したようだ。優勝したら、「あすは旧盆だけれど、ご先祖様も喜んでお迎えすることができる」と語るお父さん。ご先祖さまも選手を応援する、それがウチナーである。あすから旧盆だが、ことしのお盆は、どこでも興南の優勝の話題で持ちきりだろう。

2010年8月20日 (金)

ヒヤミカチ興南、いよいよ決勝へ

 準決勝は、序盤に5点もリードされる苦しい試合だった。それこそ、県民のみんなが「ヒヤヒヤヒヤヒヤ」しながら、応援していただろう。でも、投手の島袋君は、その後はピシャリと抑え、みずからのバットで攻撃の火ぶたをきる活躍もあり、見事に逆転した。

 興南が、ランナーが出て、追いつき追い越すチャンスになると、ヒヤミカチ応援節が流れる。もう否が応でも盛り上がる。選手たちは、練習の成果を発揮して、見事に決勝進出を決めた。

 沖縄では、県民挙げての応援だ。牧志公設市場の様子がテレビで放送されたが、旧盆の前で市場は多忙なはずなのに、もうそれどころではない。仕事も手に付かない。勝利した瞬間に、みんなカチャーシーを踊りだす。取材で市場を訪れていたNHKの女性アナウンサーも、マイクを持ったままカチャーシーを踊っていた。こんな光景は他では見られないだろう。号外も出た。ラジオでは、リスナーの興奮気味の喜びの声であふれていた。「もう勝った瞬間、顔はクシャクシャでカチャーシーを踊りました」。今日は、ラジオで「ヒヤミカチ応援節」が何回も流れてきた。 この唄は、着うたダウンロードができるが、興南が勝つたびにダウンロードが増えて、いまランキングで2位になる人気ぶりだ。

 NHKのニュースで、決勝戦でたたかう東海大相模の地元の様子が映ったが、なんか小さな会議室に数人が集まっているだけ。それに比べて興南は学校の体育館に生徒、父母、市民らが多数つめかけ、熱烈応援していた。この違いはなんだろう。

 甲子園の各県代表の応援歌を聞いても、もう地元の民謡を使って演奏しているところはほとんど見られない。だいたい、地方代表の高校といっても、選手は全国から集まっているから、地元の民謡なども生徒・選手も知らないだろう。沖縄はそこからまるで違う。応援歌は、これまでも、安里屋ユンタ、てぃんさぐぬ花、島唄、ハイサイおじさんなど沖縄の島唄が使われた。それに今回は、ヒヤミカチ節である。興南の選手たちも、沖縄出身ばかりだ。それだけでなく、なんと東海大相模にも、沖縄出身の選手が二人もいる。しかも一人は4番を打っている。そういえば、九州の高校にも何人もいた。沖縄から全国にも選出は出かけている。それだけ、野球熱が盛んだということだろう。

 さあ、決勝戦だ。沖縄初の夏の優勝、初の春夏連覇に向けて、「ヒヤミカチ興南!」。

2010年8月19日 (木)

興南優勝へ県民が一つに

 わが家はラジオ生活である。というのは、沖縄ローカルの話題はラジオが圧倒的に優位だ。テレビは東京キー局中心でローカル性は薄い。ラジオは、リスナー参加の番組が多いので、ウチナーンチュの生の声が朝から晩まで流れる。もう話題の中心は、興南の活躍と春夏連覇への熱い思いである。甲子園応援ツアーは今夜から出発した。もう一杯らしい。

 日頃はあまり野球は関心がない人でも、高校野球は別格だ。興南の試合日は美容院もカラになる。車の交通も少ない。仕事でも試合中は電話を控えるといわれるほどだ。「準決勝の明日は職場でラジオを聞きます」「仕事が休みなのでビールをギンギンに冷やして飲みながら応援します」「春の選抜は沖縄から2校が出場し、興南が優勝した。夏は春夏連覇の夢をぜひかなえてほしい」。ラジオではこんな声であふれている。

 もう甲子園でも、判官びいきで沖縄勢を応援するのはかつてのこと。いまは違う。高校野球で沖縄は、全国でも強豪に数えられる水準にある。興南野球を見ても、とにかく鍛え上げられている。昨年は春夏1回戦で敗退した。投手力はよくても打撃は貧弱だった。それが見違えるような強打線になった。そのスウィングの早さはテレビの解説者も舌を巻くほど。守備も手堅いし、攻撃の戦術の多彩さやそれをこなしきる選手の実力は、間違いなく全国トップ水準だ。ただ実際の試合展開では、予期せぬ展開がありうるので予断を許さない。

 ただ言えることは、老いも若きも、男も女も、ウチナーンチュもヤマトンチューも、県民が一丸となって応援をすることだけは確かである。

 「ヒヤヒヤヒヤヒヤヒヤ ヒヤミカチウキリ ヒヤミカチ興南!」

2010年8月18日 (水)

ヒヤミカチ節にのって勝ち進む興南

 今日も興南が逆転勝利し、42年ぶりに準決勝へ進んだ。先行されたが、ランナーが出るとヒヤミカチ節の応援歌が鳴り響き、またたく間に逆転した。「私は虎だもの、羽を付けて下さい、波路太平洋を 飛び渡りましょう」という歌詞を思わせる快調さである。

 この元唄は、平良新助さんが琉歌を詠み、それに共感した山内盛彬さんが作曲した。平良さん、山内さんも、思わぬところで、この唄が鳴り響き、天国で喜んでいるかもしれない。ことについでに、この唄のいきさつを紹介しておきたい。

 今帰仁村の出身である平良さんは、沖縄の自由民権運動のリーダーとして名高い謝花昇らと、県民に与えられていなかった参政権の獲得などめざしたが運動は挫折。平良さんはその後、アメリカに渡り、農業やレストラン、ホテル経営などで成功した。太平洋戦争中は強制収容された。戦後1953年、78歳で沖縄に帰郷した。荒廃した故郷を前にして詠んだのが、唄の歌詞となった琉歌だった。琉球音楽の研究家で演奏家の山内盛彬さんが「その琉歌にとても感激し奮い立ち、曲をつけた」という(琉球放送「ウチナー紀聞」から)。ヒヤミカチ節の誕生である。

 歌い始めたのは、照屋林助さんで、有名にしたのは、「美ゅら弾き」といわれる早弾きの名手、登川誠仁さんだという。登川誠仁さんのヒヤミカチ節は、ユーチューブでも見ることができる。

 この名曲を作った平良さんは、経歴を見ても、沖縄の自由民権運動に参画したというから進歩的な人だっただろう。挫折も味わい、移民としても成功はしても、その陰には人知れぬ苦労があり、また戦時中も敵国である日本人として収容されるなどの苦難も味わった。でもくじけない人だっただろう。平良さん自身が、「エイヤ」と自らを奮い立たせるヒヤミカチ精神を発揮して生きてきた。だから、沖縄戦で荒廃した郷里を見て、県民を励ますこのような琉歌が詠めたのだろう。そんな気がする。

 沖縄県民の戦後の歩みも、文字通り、ヒヤミカチ精神の発露である。もう話はまったく、高校野球とは関係なくなった。夏の甲子園では初めての沖縄勢の優勝をめざして、興南の健闘を願うだけである。

 

2010年8月17日 (火)

ヒヤミカチ興南

 甲子園で準々決勝に進んだ興南。新しい応援歌である「ヒヤミカチ応援節」が話題だ。 NHKの中継放送でも、紹介された。仙台育英との試合が始まるとすぐ、わがブログの「甲子園に響くヒヤミカチ節」にアクセスが急増した。夜試合が終わっても増えた。いまわがブログでは、意外にもアクセス数で一位となっている。それで、この際あえて、元唄の「ヒヤミカチ節」の歌詞を紹介しておきたい。

1、名に立ちゅる沖縄 宝島でむぬ 心打ち合わち 御立ちみそり ヒヤヒヤヒヤヒヤヒヤ 

 ヒヤミカチウキリ (名高い沖縄 宝島である 心合わせて立ち上がろう)

2、稲粟ぬなうり 弥勒世の印し 心打ち合わち 気張いみそり ハヤシ

  (稲、粟が実り 豊かで平和な世のしるし 心合わせて がんばろう)

3、がくやないしゅらさ 花や咲ち美らさ 我した此ぬ沖縄 世界に知らさ ハヤシ 

  (がく=管楽器=は鳴りかわいらしい 花は咲き美しい わが沖縄を世界に知らせよう)

4、人ぬ取ゆる年ぬ否々(んぱんぱ)ぬ成ゆみ うびらじに取たさ 60ばんじゃ ハヤシ

 (人が年をとるのは嫌だと拒否できるだろうか 気付かない間にとったよ60歳真っ盛り)

5、我んや虎でむね 羽付きてぃたぼり 波路パシフィック 渡ってぃはびら ハヤシ

 (私は虎だもの 羽を付けて下さい 波路太平洋を 飛び渡りましょう)

6、七転び転でぃ ヒヤミカチ起きり 我した此ぬ沖縄 世界に知らさ ハヤシ

 (七転び転んで エイッと気合を入れて起き上がり わが沖縄を 世界に知らせよう) 

   作詞 平良新助 作曲 山内盛彬 

  訳は「たるー島唄まじめ研究」を参考にさせてもらいました。

2010年8月16日 (月)

沖縄の七夕は墓へ行く

 今日8月16日は、旧暦で7月7日、七夕である。大和では七夕といえば、新暦の7月7日、あのおりひめとひこぼしが1年に1回会う日であり、願い事を書いた短冊を笹の葉に吊るして星に祈りをする日だとされている。でも沖縄の旧暦七夕はまったく異なる。この日は、旧盆の「節入り」を告げる日である。だから、みんなお墓に行く。ただ、ことしは昨日が日曜日だったので、昨日お墓に行った人が多いようだ。私も、那覇市で最大の墓地がある識名霊園の付近を通ったが、車で墓掃除に来ている人が多かった。

 旧盆は、この22日がお盆の入りで、沖縄では「ウンケー」と呼ぶ。つまり先祖の霊を家にお迎えする日である。24日が「ウークイ」と呼び、家で御馳走をお供えして、ゆっくり過ごしてもらった先祖の霊をお送りする日である。そのため、まず七夕の7日に、お墓をきれいに掃除して、お供えもして「どうかお盆には家においでください」とお招きをするのだ。

 お墓の掃除といっても、大和の墓と違って、沖縄の墓は家のように大きい。だから、ガンガン照りの中での草刈りも重労働だ。汚れた墓を洗い流すのも手間がかかる。家族みんなで協力してやる。昨日は、甲子園で興南が高知の明徳と対戦したので、墓地でまず野球の応援をして、勝ったのを確かめてから、墓掃除をしたという人もいる。

 それと、沖縄はいままだお中元の盛りである。大和ではお中元はとっくに終わっているだろう。沖縄は、お盆を前にお中元商戦がたけなわなのである。旧暦で暮らす沖縄の生活習慣は、こんなところでもまったく異なる。

 大和では月遅れのお盆といえば、もうみんな夏の休暇となり、山や海など遊びに行くのが当たり前だ。でも沖縄は、お盆は遊びに行く日ではない。家族、親戚が集まり、ご先祖様を供養をする大事な行事である。遊びに行くなんてとんでもない。これから、各家庭では、お盆のための料理、重箱料理をつくるために大忙しの時期となる。このお盆の時は、またテレビ、ラジオでも民謡の番組が特集されるときでもある。それはまた、多分別に書くことになる。

2010年8月15日 (日)

平敷屋エイサーに原点を見た、その3

 何曲もエイサーを踊ったが、一時休憩をとった。そのとき、なにやら小さなヤカンのような水差しを持って、回り出した。どうやら給水タイムのようだ。夕方の5時半からの踊りとはいっても、日差しはガンガンに照りつけている。給水しなければ熱中症になりかねない。今は、ペットボトルの水を飲むのが普通だ。でも、伝統を重んじる平敷屋青年会は、写真に見るような水差し。こんなヤカンは見たことがない。踊り手、チョンダラー、地謡にも給水して回った。

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 その後も、エイサーは続く。

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 最後は、チョンダラーだけの踊りになり、他のメンバーは座りパーランクをたたく。他の地域のエイサーでは、こういう場面はまだ見たことがない。

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 エイサーは子どもたちも大好き。必ず太鼓、パーランクをもってたたいている子がいる。ここでも見られた。この子たちも、若者になればエイサーをやるんだろうなあ。

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 糸満市内にも、喜屋武をはじめ青年会のエイサーはいくつもある。でも平敷屋のような念仏踊りを思わせる伝統エイサーは見られない。だから、聴衆も盛んな拍手を送っていた。

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平敷屋エイサーに原点を見た、その2

 「スイ、スイ、スイ、スリサーサー」と唱えながら、腕をゆったりと振り落としパーランクを素早く打つ。そのリズムは独特だ。なにか念仏を唱えている雰囲気がやっぱり漂う。踊りを見ていると、エイサーが華やかになり過ぎると、何のために踊るのか、その意味が分からなくなる。平敷屋のを見ていると、先祖の供養や豊作など願いが込められていただろうと感じられる。

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 チョンダラーもとても多い。昔は法事のある家で鉦叩きや念仏を唱えたりしたという。いまは人気者だ。指笛がすごい。エイサーの練習で、文句が出ないか心配するほどだ。

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 手踊りは、他所では女踊り(いながもーい)だけが多いけれど、平敷屋は男踊りもある。女性の着物は膝が出る丈のが多いけれど、こちらは膝が隠れるくらいだ。奥ゆかしい。

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 のぼりの持ち手もしっかり踊る。    

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平敷屋エイサーに原点を見た、その1

 先日「一万人のエイサー踊り隊」をアップした時、平敷屋エイサーについて紹介した。14日、改めて糸満市の「道の駅いとまん」でエイサー演舞があり、ちょうど平敷屋東青年会が演舞するので見に行った。

 国際通りの「一万人踊り隊」は、さわりだけだった。今回は本物をじっくり見えた。道化役のチョンダラー(京太郎)の前口上から始まる。勇壮さを売り物にした今風のエイサーと違い、エイサーの源流といわれる念仏踊りの伝統を受け継いでいる。いでたちから違う。手拭いの帽子に地味な浴衣のような着物。背中にもタオルのようなものをかけて、裸足で踊る。

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 地謡(じかた)の奏でる曲も、地味な感じの曲ばかりで、エイサーといえば恒例の「唐船どーい」もやらない。でもみんなうまい。地謡は笠をかぶり、足は下駄である。

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 酒甕担ぎの「サキカタシャー」も登場。昔はお盆に集落を回ると、家々から酒1、2合を出した。そんな伝統がある。いまでは酒甕がないエイサーも増えた。平敷屋エイサーでは、担いだ酒甕をくるりと一回転させる芸も披露した。

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2010年8月14日 (土)

サガリバナがまた咲いた

 夜中に幻想的な花を咲かせるサガリバナがまた咲いた。この花は、東南アジアの熱帯や亜熱帯のマングローブ林の後背地や川沿いの湿地に自生する。日本では奄美諸島から南に咲く花だ。わが家の近くの公園には、たくさん植えてある。6月に一度咲いたが、8月になってまた咲きだした。花はピンクと白がある。日が暮れて咲きだし、太陽が上がると散る。写真は午前4時ころ撮ったものだ。甘い芳しい香りを放っていた。このブログのトップページにもアップしているが、こちらは6月に咲いた時のものである。こんな南島らしい、幻想的な花を2度見られるのはうれしい。

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2010年8月13日 (金)

「御万人」ってなんのことか?

 沖縄民謡を歌っていると、必ず出てくる言葉に「御万人」がある。「うまんちゅ」と読む。大和では聞かない言葉だ。そこには、沖縄の人々のモノの見方、考え方を見るキーワードの一つがある。「御万人」とは「世の中の人々、万人、多くの人々」という意味だ。

 働くことの尊さを歌った「汗水節」(あしみずぶし)では「御万人ぬ為ん わが為ゆとぅ思てぃ 肝勇み勇み 尽くしみしょり」と歌う。これは「世の中の人々のために、自分のためにもと思って 心をふるいたたせて働き 尽くしなさい」という意味である。働くのは、自分のためだけでなく、世の人々に尽くすことだ、と強調しているところに、ウチナーンチュの心意気が感じられる。

 沖縄戦のあと捕虜収容所で作り歌われた「屋嘉節」(やかぶし)は、こんな歌い出しである。「懐しや沖縄 戦場になやい 世間御万人(しきんうまんちゅぬ)の流す涙」。「懐かしい故郷の沖縄は戦場となり、たくさんの人々が死に、郷土は焼かれた 世の中の人々みんな、涙を流して悲しんでいる」という意味である。ここでの「世間(しきん)」は、「世間、世の中」である。同様の言葉に「世界」もある。「しけー」と読む。「世界」といって「ワールド」というより、やはり「人が生き暮らすこの世の中、世間」という意味が強い。 

 古謝美佐子さんの「童神」でも「天からの恵み 受けてぃ此の世界(しけ)に 生まれたる産子(なしぐぁ)」と歌う。「天からの恵みを受けて この世の中に生まれた子ども」という意味だ。「ちぶみ」(蕾のこと)という唄は「世界や水車 定みてぃん変わる」と歌う。「この世の中は水車のように、止まらず常に変化している」という意味だ。「世間、世界」は日本語の理解とたいして違わないように見えるが、そこには沖縄独特の思いが込められている。

  この世の中は、雨も嵐もある、転変やまない、そういう自分たちを取り巻く世の中を見つめながら、どう生きていくのか、人と人のつながりを大切にする、人のために尽くすこと、などがたえず考えられている。当たり前のようでいて、日本の民謡にはそんなセリフは案外少ないのではないか。でも沖縄民謡は、とにかく「世界(しけ)、世間、御万人」という言葉がとても多い。

 先日アップした「ヒヤミカチ節」でも「七転び転でぃ ヒヤミカチ起きり わした此の沖縄 世界(しけ)に知らさ」と歌う。「七回転び、エイヤーと起きて わが沖縄を世界に知らせよう」という意味である。戦後の沖縄精神を象徴するような唄である。この唄は国際的な視野がある。北米に移民として出ていた平良新助さんが作詞したものだ。「われらは虎だ 羽を付けてくれれば 波路パシフィック(太平洋)を超えて 渡っていくよ」とも歌う。

 琉球王国の時代、東アジアの国々と広く交易をする海洋国家だった。戦前、戦後は開拓移民として、南洋諸島から南米、北米、ハワイなど出て行き、いまや世界中にウチナーンチュがいる。三線と民謡も、海外でとても盛んだ。

 最後に、「シケーノアガチャタークウナクメ」という言葉を紹介する。「アガチャ」とは「働く者」という意味である。つまり「万国の労働者団結せよ」という意味だそうだ。1921年、沖縄で初のメーデーがあったとき、リーダーが沖縄語でこう呼びかけたそうである(松本三益氏『自叙』)。この「シケー」は文字通り「世界」の意味である。

 

 

 

2010年8月12日 (木)

桑田圭祐と沖縄

 カラオケにたまに行く。カラオケは、歌詞の意味を改めて深く味わう機会になる。最近も、サザンオールスターズの桑田圭祐が作詞作曲した「平和の琉歌」を歌った。「人として生きるのを何故に拒むの? 隣り合わせの軍人さんよ」というくだりがある。

 最近も米兵の事件事故が多発している。那覇市内でも、海兵隊員が未明に女性の帰宅を待ち伏せして、住居に侵入し強制わいせつを行ったとして逮捕された。その直後にも、嘉手納基地の一等軍曹が住居侵入で逮捕された。その前には、米兵が飲酒運転でひき逃げ、当て逃げして、県民が殺されたり、負傷する事故も続発した。「隣り合わせの軍人」は、人権無視の犯罪を繰り返している。なにより軍用機の傍若無人な飛行や訓練などで、県民は平和で静かに生きる権利もじゅうりんされている。

 桑田は1996年に、沖縄に来た時この唄を歌ったという。県外から来て、沖縄のことをテーマにした唄を作った人はたくさんいる。「島唄」「さとうきび畑」など、沖縄戦の悲惨さを歌った名作もある。でも、「民を見捨てた戦争のはてに」「汚れわが身の罪滅ぼしに」、米軍に「思いやり予算」を注ぎ、軍事基地を提供し続ける日本政府、「血を流して取った沖縄は絶対手放さない」とばかりに居座り続けるアメリカ軍、その日米両政府の罪を告発するような唄は、他に知らない。桑田はそんなに沖縄に来ているわけではない。でも、その感性は鋭い。「戦世と平和の沖縄島唄」でも「彼がただものではないことを証明する曲である」と書いた。米兵事件も見るとまた、改めてそう思う。

 桑田は、食道がんで手術し成功したという。また復帰したらいい曲を作ってほしい。なお、このブログで6月に「戦世と平和の沖縄島唄」をアップしているので、関心のある方は見ていただきたい。

2010年8月11日 (水)

甲子園に響く「ヒヤミカチ節」

 高校野球で春の選抜で優勝した沖縄の興南高校は、夏の甲子園で沖縄初の優勝が期待されている。初戦は鳴門に快勝した。沖縄勢の甲子園での応援は、兵庫の高校のブラスバンドが演奏をかってでてくれている。いつもは「はいさいおじさん」「てぃんさぐぬ花」「安里屋ユンタ」などの島唄が恒例だ。今年は「ヒヤミカチ節」が加わった。

 この唄は、悲惨な沖縄戦で、打ちひしがれた県民を、励まそうと作られた。北米に移民として渡った平良新助さんが、帰郷して惨状を目にして作詞した。沖縄方言で「ヒヤミカチ」とは、「エイ!と気合いを入れる」というような意味がある。唄には、「♪七転び転でぃ ヒヤミカチ起きり わした此の沖縄 世界に知らさ」(七転び転んで エイヤと立ち上がり 我らがこの沖縄を世界に知らせよう)、「♪心打合わち 御立ちみそり」(心を合わせて 立ち上がろう)というような文句が並ぶ。そして、ハヤシとして「ヒヤヒヤヒヤヒヤヒヤ ヒヤミカチウキリ」と歌いあげる。

 興南の春夏連覇をめざして、ことしは「ヒヤミカチ節」の歌詞を少し変えた応援歌が作られた。「ヒヤヒヤヒヤヒヤヒヤ ヒヤミカチコウナン(興南)」と歌う。さっそく、10日の初戦でこの唄が演奏され、さかんに「ヒヤミカチコウナン」と甲子園に鳴り響いた。

 沖縄が戦争の惨禍とその後の異民族による軍事占領による支配、復帰後も米軍基地の重圧に苦しめられながら、たくましく生き、復興し、発展をとげてきたのは、この「ヒヤミカチ精神」の発揮かもしれない。「ヒヤミカチ節」は、いまでも県民にとても愛されている。

 といっても、テンポが速くて、三線で演奏するのは、なかなか難しい曲である。まだまだ十分には弾きこなせていない。「ヒヤミカチ精神」で練習に励もう。

2010年8月 9日 (月)

沖縄の子守唄の不思議、その4

 宮古島にもよい子守唄がある。「ばんがむり」という曲だ。平良(たいら)の子守唄である。「ばん」とは私のことで「私が子守をしてあげるよ」という意味である。唄は要旨、次のような歌詞である。

「♪泣かないでね赤ちゃん ぐずらないでね赤ちゃん お母さん、お父さんのように大きくなってね お母さんは芋を掘りに行っているよ お父さんはタコを獲りに行っているよ 大きな芋は分けて食べよう 小さな芋なら一個ずつ食べようね 大きなタコなら足一本ずつ食べよう 小さなタコなら一匹ずつ食べよう 宮古の星となって拝まれなさい」。

 やっぱりゆったりと歌う曲である。子どもに話しかけるような歌詞になっている。こういう「お父さん、お母さんはいまどこに行っているよ」という内容の子守唄は、八重山でも宮古でも共通してあるようだ。

 宮古の子守唄といえば、驚くような唄がある。保良(ほら)に伝わる唄である。「♪お前のお父さんはどこへ行った お前のお母さんはどこへ行った 上役人たちを殺害するために毒魚を獲りに行った」。「お父さん、お母さんはどこへ行った」という歌詞は、平良の子守唄にも共通する面がある。でも、役人を殺すために毒魚を獲りに行ったとは!こんな唄はほかに知らない。

 でもなんでこんな歌詞の唄が作られたのか、よっぽどの事情があるだろう。その背景を考える必要がある。昔、保良から同じ宮古の砂川、友利に開拓移民で送られたという。だから、この唄は「当局の措置を怨み憤った」と見られ、「怨嗟の声を投げつけている」と、稲村賢敷氏は『宮古島庶民史』に記している。

 ちなみに、毒魚といえば、シガテラ毒という毒性をもつ魚がいくつかいて、食べて中毒を起こした事故が前にもあった。またミノカサゴなど背ビレ、胸ビレに毒を持つ魚がいて、最近も名護市でオコゼに刺された男性が死亡した。魚といっても、コワイ、コワイ。油断してはいけない。いつの間にか、子守唄から離れてしまった。

 

2010年8月 8日 (日)

沖縄の子守唄の不思議、その3

 八重山の子守唄で、とっても不思議なのは「月ぬかいしゃ節」である。なぜなら、こちらは肝心の子どもへの思いなんかは、とんと出てこない。出てくるのは、美童(みやらび)の美しさや恋心である。つまり、立派な恋歌なのである。

 歌詞は「♪月の美しいのは13夜、乙女の美しいのは17歳」「♪あんなに月が美しい夜 私たちもいっしょに遊びましょう」「♪愛しい貴方の家の東側にムリク花(じゃすみん)を咲かせて それを取りに行く名目で 貴方の家の花を見よう(彼を見てこよう)」「♪美童の家の門に花染めの手巾(てぃさーじ、手拭)を取り落とし それを取る名目で美童の家に会いに行こう」。こんな具合である。これがなんで子守唄なの?と言いたくなる。でも曲はとっても美しい。歌うほどに、聞くほどによい唄である。

 この曲は、八重山では守姉(子守をする娘)たちが、子どもを寝かせるときに歌ったという。八重山では、血縁のない赤ちゃんでも、無報酬で大切に守り育てた、と誰かが書いていた。美しいメロディでゆったりとした曲なので、寝かせるにはいいかもしれない。どうせ、子どもは寝るのだから、歌詞は子守をする娘たちの、思いを歌ったのだろうか。彼女たちは、年頃であり、恋心を抱くのは当たり前である。

 ちなみに、日本子守唄協会という団体があり、各県別に子守唄が紹介されている。沖縄は守子唄として、42件も出ている。ほとんど知らない唄ばかりだ。そのうち40件は「寝かせ唄」とされ、2件は「眠らせくらべ」の唄という。この中に「あがろーざ節」は入っているが「月ぬかいしゃ節」は入っていない。

 この「月ぬかいしゃ節」は「夜の子守唄」と呼ばれているそうだ。この唄は、守子の唄であり、寝かせの唄でもある。だから、寝かせの唄か、守子の唄かという区別は意味がない。両方の要素をもっているからだ。それにしても、なぜ「夜の子守唄」というのか、まだよくわからない。これに対して、父や母の働く様子を歌った曲は「昼の子守唄」というそうだ。

 まあ子守唄といいながら、恋歌である「月ぬかいしゃ節」のような民謡こそ、「歌の島」「恋と情熱の島」である沖縄と八重山の民謡の特徴を表しているのかもしれない。

沖縄の子守唄の不思議、その2

 子守唄といえば、なにか子どもを寝かしつけるための唄のことだという印象があった。それは、間違いではないが、子守唄にはもう一つある。それは、子どものお守りをする娘を歌っている子守唄があることだ。沖縄の子守唄も同様です。

 子守唄といえば、外国でもシューベルト、ブラームス、ショパンはじめクラッシックの作曲家による子守唄が有名だ。子どもを寝かしたり、あやす唄は、騒がしくてはいけないのでたいていがゆったいしたリズムである。日本でも「ねんねんころりよ おころりよ」と歌う江戸子守唄などこの系統だろう。

 しかし、日本の子守唄で有名は、五木の子守唄、竹田の子守唄、中国地方の子守唄などは、娘が故郷を離れて子守をするつらさ、切なさなど歌われる曲がよく知られている。子守唄というより、守子の唄というのがあたっているだろう。

 古くから歌われる子守唄には、いろんな歌詞があるそうだ。子守する娘を歌った曲は、だいたい、暗い感じの曲調が多い。しかも、正調・五木の子守唄には「起きて泣く子の面憎さ」という歌詞がある。中国地方の子守唄にも、やはり「寝た子のかわいさ 起きて泣く子のねんころろ つらにくさ」と歌う。竹田の子守唄も「この子よう泣く守りおばいじる 守りも一日やせるやら」と嘆く内容だ。泣く子は、子守にとって、一番のやっかいだ。「子どもの面も憎くなる」という子守の本音が垣間見える。

 まだ沖縄の子守唄を全部調べたわけではない。でも、知っている限り、守子の娘を歌った曲でも、暗さはない。子どもの健やかな成長を願う気持ちが歌われる。「あがろーざ節」はその典型かもしれない。現代の子守唄である「童神」も、古謝美佐子さんが、愛しい孫への思いを込めて作ったように、すくすくすこやかに育ってほしいという願いが込められている。

 子守唄には、子どもへの愛情が込められている。やっぱり子どもを宝と見る、それも子どもは単に一個人の所有物でなく、社会の宝でもあるという認識があるからかもしれない。

 

2010年8月 7日 (土)

沖縄の子守唄の不思議、その1

 八重山を代表する子守唄に「あがろーざ節」がある。毎日、歌っているがまだ満足のいくように歌いこなせない。「あがろーざ」とは、石垣島の東里村からきているらしい。東は「あがり」と読むので東里は「あがりざと、あがろーざ」となる。

 歌詞を要約する。「東里村の真ん中に登野城(とのしろ)の真ん中に、九年母(くにぶ、みかん)の木が植えてあり、香り高い木が植えてある、子守たちが集まり、子守たちが、腕が痛いほど子守りして語ることは、大人になり、高い人になりなさい、学問をよくしなさい、沖縄本島への旅を受け、首里王府の奉公を受けなさい」。

 八重山では、琉球王朝の時代に百姓は、学問は禁じられ、文字さえ知らされなかった。お守りをする子どもが、学問をして、高い人になるのは、民衆にとっても希望だったのだろう。士族にとっては、役人になること、役人になれば、高い位に出世することがなによりの願望だった。だから、民謡には「手墨(てしみ、学問)」を身につけさせるという唄がいろいろある。

 この唄を、八重山の唄者、大工哲弘さんの歌で聞いて、歌ってみたくなった。聞いたときは気がつかなかった。自分で三線を弾いてみると「あれ、これは前に歌ったことがあるぞ!」と思った。思い出したのは、三線入門の工工四(楽譜)の4番目に掲載された「子守節(くむいぶし)」である。メロディはそっくりだ。でも歌詞はまるで別物。ただ子守唄であるのは同じである。

 八重山の古い民謡は、首里王府に伝わり、歌詞が変わったり、テンポの早い舞踊曲に編曲されたり、曲名がかわったりして、歌われている曲がたくさんある。小浜光次郎氏著『八重山の古典民謡集』に、琉球古典民謡と八重山古典民謡の類似曲の一覧表がある。やっぱりこの「あがろーざ節」と「子守節」は類似曲として上げられていた。

 しかし、不思議なのは、少しだけ「子守節」は加工されているが、ルーツは同じ曲でありながら、歌った印象はまるで違うことだ。原曲の「あがろーざ節」は、とっても味わいがある。「子守節」では、その味が出ない。これが不思議である。首里王府のもとで、編曲したりすると本来は、洗練されるはずだ。でも民謡は、洗練されればよいのかといえば、必ずしもそうはならない。ドロがついていても、それが味わいになる。そこに民謡のいいところがあるだろう。

珍しい名字を変える運動があった

 先に沖縄の名字について、為政者の都合で変えられた歴史があることを書いた。ところで、民衆の側から姓を変える運動があったことを知った。「珍姓改姓運動」という。昭和12年(1937)ごろ、歴史学者の比嘉春潮氏が指導する南島文化協会が提唱して、大工廻(だくじゃく)、目取真(めどるま)など、難しい姓を、変えようと呼びかけたそうである。

 この運動は、珍姓のため職場で悩んでいた労働者からとても歓迎されたという。なぜなのか。それは戦前は、仕事に就くにも「朝鮮人、琉球人お断り」の看板が掲げられるなど、朝鮮の人々、沖縄県人はいわれなき差別を受けた。就職して働いても、やはり露骨な差別があったからだ。改姓といっても、勝手に好きな姓にするのではなく、旧姓に復帰する方法でしたという。これは、松本三益氏が『自叙』で書いていることだ。

 松本氏自身が、生まれは真栄田(まえだ)姓だった。これは、松本家は、恩納村の真栄田に地頭地を持ち、真栄田姓を名乗っていたからだ。でも、もともと先祖は、分家した際に、美里松本地頭職になり、その後、恩納村真栄田に転封された。だから改姓に際して、真栄田姓から祖先の姓である松本に復帰したという。ただ、この運動も、長続きしなかったそうである。沖縄の名字には、さまざまな歴史と経過があるんだね。

 

 

2010年8月 5日 (木)

琉球舞踊は恋の琉歌に満ちて、その4

 琉舞の中でも、とくに女踊りは、恋歌が多い。女踊りの優美で繊細な表現が、愛しい人への情愛や別れのつらさなど恋心を表現するのにふさわしいからだろうか。古典舞踊などとは別に、沖縄では祭祀とも結びついて、さまざまな民俗舞踊、芸能がある。沖縄は「歌の島」であり「踊りの島」でもある。第4回で終わりである。

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 琉球舞踊の中の若衆踊り。本来は、美少年が扇子を持ち踊る(国際通りで)。

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琉球舞踊は恋の琉歌に満ちて、その3

 舞踊曲には、別れのつらさをうった名曲がいつくもある。さらに、士族と遊女の偲びの恋をテーマにした曲もたくさんある。第3回は、そんな舞踊曲の紹介である。

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琉球舞踊は恋の琉歌に満ちて、その2

 舞踊曲は、花笠を持った踊りがかなりある。「むんじゅる平笠」とは麦わらで作った笠のこと、。「むんじゅる」の舞踊曲は、むんじゅる笠にかかわる恋歌である。恋歌には「月の夜」を歌った曲がとても多い。月夜は恋の舞台だからだ。第2回はそんな内容である。

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2010年8月 4日 (水)

琉球舞踊は恋の琉歌に満ちて、その1

 「琉球舞踊にはとても恋歌が多いのでは」という質問が寄せられた。琉舞は、古典舞踊と雑踊り(ぞううどぅい)がある。琉舞の中で恋歌はどれほどあるのだろうか。さぐってみたい。

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写真は玉城節子さんの女踊り「かせかけ」。玉城さんの著書『翔舞』から。「かせかけ」は、愛しい人に贈る着物を織るため糸を紡ぐ姿が表現される。

第1回は、琉舞のほど半分ほどは恋歌が占めること。その歌詞は、琉歌がもとになっていることなどである。

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2010年8月 1日 (日)

沖縄で愛される中浜万次郎その2

 中浜万次郎は、琉球から薩摩に連れて行かれた。薩摩で厳しい取り調べが待っていたのか。逆である。開明的な藩主だった島津斉彬公は、万次郎に直接あって、アメリカはじめ西洋事情を詳しく質問した。取り調べとは表向きのことで、実際は殿さまの勉強だったと伝えられる。薩摩はその後、幕府を倒す重要な役割を果たす。万次郎の伝えた西洋の文明から、大統領を人民が「入札」で選ぶというデモクラシーの政治思想まで、幕末の日本に大きなインパクトを与えた。第2回はそんな内容である(2回で終了)。

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沖縄で愛される中浜万次郎その1

 NHKの大河ドラマ「龍馬伝」がいよいよ佳境に入りかけてきた。土佐に生まれた龍馬といえば、彼が世界に目を向け、視野を大きく広げる上で、大きな影響を与えた人物に、同じ土佐の中浜万次郎がいる。ドラマでも少し登場した。

 出漁した漁船が遭難し、アメリカの捕鯨船に助けられた万次郎が、10年間外国に暮らし帰ってきて最初に上陸したのが、琉球だった。この地には半年間いただけなのに、今でも万次郎は沖縄でとても有名で、愛されている。なぜ、万次郎は沖縄に上陸したのか、なぜいまなお愛されているのだろうか。第1回は、そんな内容である。

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