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2010年9月

2010年9月30日 (木)

中国からの冊封使と尖閣諸島

 いま日中間で問題になっている尖閣諸島は、中国と琉球の交流の歴史を見ていると、大事な役割を持って登場する。というのは、琉球王国の時代、国王は500年間にわたり中国皇帝に臣従し、皇帝の派遣する冊封使(さっぽうし)から正式に琉球国王として認証を受けていた。この冊封体制のもとで、琉球からは皇帝への朝貢と交易のため、毎年のように東シナ海を渡っていた。危険な航海だった。その時、航海の目印になったのが、尖閣諸島である。中国へ渡る船は、那覇港を出ると、慶良間(けらま)諸島、久米島、さらに尖閣諸島を目印にして、福建省の福州へと航海をした。

 逆に、中国側の冊封使の乗る船は、福州を出ると、尖閣諸島を目印に進み、さらに久米島、慶良間、那覇港への航海してくる。だから、冊封使が帰国後に書いた報告書のような『使琉球録』などの文献を読むと、尖閣諸島を過ぎて「古米島(久米島のこと)を見る」などと書かれている。また、琉球への航海の針路を記す際にも、尖閣諸島を目印にすることが書かれている。明、清では、尖閣諸島とは呼んでいない。ただ、冊封使の報告に、尖閣諸島のことが登場するからといって、それが中国領だったことを意味するものではない。中国領だとも明記していない。それに、琉球側は、もっと頻繁に航海していたので、尖閣諸島のことを詳しく知っていたのは確かである。琉球でも、中国でも古くからよく知られた島ではあるが、まだ誰も住まない無人島であった。

 冊封使録を翻訳し、これに精通している原田禹雄氏は『尖閣諸島ー冊封琉球使録を読む』で、冊封使録を根拠に中国の領土だと主張する見解を厳しく批判している。「明代ならば、中国固有の領土であれば『大明一統志』の中に、きちんと記されている」「ところが尖閣諸島は⋯⋯記されていない」、清代の『清会典』などの文献にも、尖閣諸島は描かれていず、「清代を通じて、尖閣諸島は清国領ではなかったことは⋯⋯明白である」。

 明治政府が1895年に、閣議で決定したときも、尖閣諸島が無人島で清国の支配が及んでいる痕跡がないことを確認して沖縄県に編入したという。

 面白いのは、1920年(大正9年)、福建省の漁民が遭難し魚釣島に漂着して救護されたとき、当時の中華民国在長崎領事が当時の石垣村長らに感謝状を贈っている。その中で「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島」と記し、尖閣諸島が日本領土であることを確認していることだ。

 門外漢が、尖閣諸島の問題に深入りするつもりはない。ただ、中琉交流史を学んだ立場から、尖閣諸島の問題に、少し関心があっただけである。

 なにより困ったことは、この問題が起きてから、中国から沖縄に旅行するチャーター便が急にキャンセルが相次いだことだ。中国からの観光の行方は、沖縄の今後にとっても大きな影響を及ぼすだけに、県民も心配している。尖閣諸島の領土問題は、明確にしなければいけないが、日中の未来を見据えて、問題を早く解決してほしいものである。

2010年9月28日 (火)

BEGINのパーマ屋ユンタ

 「パーマ屋ユンタ」とは、石垣島出身のBEGINの新曲だ。NHKの「歌謡コンサート」に出演し歌ったのを映像で初めて見て聞いた。民謡の「安里屋ユンタ」をもじっているが、民謡とは無関係である。「パーマ屋」という言葉そのものがレトロな雰囲気がある。でも沖縄の美容院には「パーマ屋」という言い方が似合う店がよくある。

 唄は、パーマ屋のおばちゃんが、小さいころから髪を切っていた女の子が内地に出発する前日の風景を描いている。「♪さー明日は内地に行くんでしょう(ゆいさ) 合格祝いもあげんとね(さーさ)」という感じだ。旋律もゆったりした感じだ。「♪色は抜いても重ねても 髪の根っこは染まらんさ」と歌う。内地に行って、見かけは変わっても、島の肝心(ちむぐくる)は変わらないよ、と呼びかけているようだ。

 パーマ屋のおばちゃんは、近所の女の子もみんな知っている。親戚でなくても、島の子はわが子のように気にかけている。これはレトロな雰囲気と言ったが、沖縄、石垣ではけっして過去の話ではない。いまでも変わらない雰囲気がある。日本では、地方でもどれだけ残っているだろうか? この曲は、NHKの「ラジオ深夜便」で今月の曲として流され、評判だと聞く。

 ビギンは1989年、TBSの人気番組「いか天」のバンドコンテストで、見事に「いか天キング」に輝き、ことしでデビュー20周年を迎えた。「パーマ屋ユンタ」は、新しいアルバム「ビギンの島唄ーオモトタケオ3」に収められている。「オモトタケオ」とは、石垣島の山「於茂登岳」(おもとだけ)をもじったもの。彼らが、ポップス曲ではなく、島唄を作る時に現れる「心の住民」だそうで、この島唄シリーズは3枚目になる。収録された曲目の題名を見るだけで、その雰囲気がわかる。

 「医者半分ユタ半分」「爬龍舟(はりゅうせん)」「アンマー我慢のオリオンビール」「金網移民「祝い古酒」など9曲。 なかでも「アンマー我慢の⋯⋯」は、「オジー自慢のオリオンビール」の続編にあたる。「オジー自慢の⋯⋯」は、おじいと若者の対話がいい。

 「♪どんな映画を見に行くよりも おじいと飲んで話したい 不景気続きでチャーならん 内地で仕事を探そかね」「♪金がないなら海にがいくさ 魚があれば生きられる なんくるないさーやってみれ 働くからこそ休まれる」。

 「アンマー我慢の⋯⋯」は、おじいや男衆は宴会でも飲むだけで、盛り上がるが、その横で忙しく台所を切り盛りするのはお母さんやおばあなど女性たちだ。そのアンマーに焦点を当てた曲である。

 メジャーな舞台で活躍するビギンだが、こういう島唄を作れるということ自体、彼らが沖縄と故郷の石垣に強い思いを持ち、ウチナーの肝心を持ち続けていることを表している。「パーマ屋ユンタ」を聞くにつけ、もっと声援を送りたくなった。

2010年9月27日 (月)

尖閣諸島を命名した高知人・黒岩恒さん

 中国漁船の衝突事件で尖閣諸島の問題が連日ニュースで報じられている。尖閣諸島が歴史的にみても、国際法的にみても、日本の領土であることは、明らかである。各島は行政区分では、石垣市登野城2390~2394の地番がふられている。

 この尖閣諸島に名前を付けたのは、実は1892年(明治25)から、教師として沖縄にきていた高知県出身の黒岩恒(ひさし)さんである。彼は、博物学者でもあった。

 福岡県出身の古賀辰四郎に依頼されて、尖閣諸島を探検した。1900年5月3日から20日まで、18日間かけて往復した。「尖閣列島探検記事」」を当時の『地学雑誌』に掲載した。沖縄県立図書館でこの「探検記事」を閲覧させてもらった。貴重な文献なので、別室で閲覧させられた。「余は窃(ひそ)かに尖閣列島なる名称を新設することとなせり」と記している。魚釣島の最高地点には、当時の県知事の名前をとり「奈良原岳」と名付け、他にも渓流、岬、岩など命名した。島の地質や生物を調べた。

 古賀は、尖閣諸島の借地請願を政府に出し、日清戦争後、30年間にわたる無償借地の許可を得て、島で開拓事業も行った。黒岩の調査結果が役立ったのだろう。

 この際、黒岩恒について書いた「知られざる高知人・黒岩恒」を2回に分けてアップする。興味のある方は、ご覧下さい。「上」は、彼が沖縄師範学校で、博物・農業教師をしていて、さらに北部・国頭の農学校の初代校長に就任し、とても慕われた校長だったこと。沖縄の動物、植物の採取と新種の発見を行い、「クロイワ」と名のつく動植物が数十種類にのぼること、沖縄の民俗にもとても関心を持っていたことなど、その業績を紹介している。

 「下」の方で尖閣諸島の命名者となったことや、黒岩が沖縄に永住を決めていたけれど、離れざるをえなかった経緯など紹介している。

 「kuroiwa1.doc」をダウンロード

 「kuroiwa2.doc」をダウンロード

2010年9月26日 (日)

普天間宮にも戦争の影が

 うるま市に行く途中で、宜野湾市の普天間宮に立ち寄った。琉球八社に数えられ、由緒ある神社だ。とても参拝者が多い。境内の奥に、全長280mにおよぶ鍾乳洞がある。

 その昔、首里の桃原に住む美しい乙女が隠れ籠った伝説がある。この普天間女神や竜宮神など琉球古神道神を祀ったことにはじまり、のちに熊野権現を合祀したという。

    002 普天間宮の鳥居

    006 普天間宮の本殿

 この本殿の裏の洞窟に奥宮が祀られている。扉に鍵がかかっていて、勝手には入れない。希望すれば入ることができる。

 沖縄戦の際、米軍は読谷から北谷にかけて上陸し、南下したので、この付近も戦場と化した。1945年に当時の神官が御神体を持って、本島の南部、糸満方面に逃げたという。

 普天間宮の付近は戦前、国指定天然記念物にされた見事な松並木があった。でも、沖縄戦の直前に、ほとんどが資材として伐採され、また戦闘の中で消失したという。

 先日、NHK沖縄では、戦争の際、住民がこの洞窟に避難したと証言していた。だから戦跡でもあるのだ。

     007 普天間宮のいわれが記されている

 この神社の裏側に回ってみると、すごそばまで米軍のフェンスが張り巡らされている。米軍キャンプフォスターで海兵隊施設がある。この神社の敷地そのものが、戦後、米軍により接収され、一時、具志川村(現在うるま市)に仮の宮をつくっていたそうだ。住民の信仰あつい神社だったからだろうか、米軍はその後、敷地を開放して、1949年に元の本殿に戻ったという。地図で見ると、普天間の地域は、基地が広がってるので、基地の一角に普天間宮が食い込んだ形になっている。逆に見れば、由緒ある普天間宮が基地のフェンスに囲まれているのだ。異常である。

 このように幾重にも戦争が影をおとしている神社である。でもまだ洞窟には入っていないので、一度見てみたいものである。

2010年9月25日 (土)

祭りの中の子どもたち

      030大綱引きは子どもを連れたヤンママが多い

 祭りと芸能の王国ともいえる沖縄。祭りに行くと、どこでも子どもがとっても多い。なにしろ、少子化が深刻といわれるのに、沖縄はそんな風潮はまるでみられない。出生率がずば抜けた全国一である。そんな事情もあるだろう。なにしろ、祭りと芸能には、子どもがたくさん参加しているし、見る側にも多い。糸満市の大綱引きで、見かけた可愛い子どもの姿を紹介したい。

      001まだ2歳にならないぐらいだが、法被姿でパーランクを持ちたたいている 

             069 綱引きの前に子どもたちは大綱に腰掛けて遊んでいる

 道ズネーというパレードの子ども踊りには、各地区とも小学生くらいの子どもがたくさん参加していた。カラフルな着物姿で、懸命に踊る。沿道からは、家族や知り合いの人がいるので「○○ちゃーん。可愛い!」など掛け声が飛ぶ。

     022 子どもの踊り隊

     063 神輿をかつぐ子どもたち

        068 子ども踊りの姿が可愛い

 沖縄の子どもたちは、祭りが大好きだ。勇壮なエイサーも大好きだ。だから、小さな子も、パーランクや太鼓をすぐに持ち、踊りながらたたく。2,3歳でお父さん、お母さんとともに、エイサーの隊列に参加している子もいる。

 もう太鼓の音やカチャーシーの音を聞くと、じっとしていられない。沖縄の子どもたちは、芸能のDNAを受け継いでいるのだろう。というより、お母さんのお腹にいるときから、祭りと芸能を聞いている。生まれるとすぐ見て育っている。「ニーニーやネーネー(お兄さん、お姉さん)のようになりたい」と願うのだろう。

 民謡と三線でも、小学生から教師の免許をとるような、すご腕の子どももザラにいる。民謡のミニライブがショッピングセンターであれば、すぐに舞台に上がって踊りだす子がどこでもいる。それも、カチャーシーがとても、上手い。全国では、伝統芸能を継承するのに苦労するらしいが、沖縄では、子どもたちの三線や踊り、エイサー、獅子舞など、伝統芸能はますます盛んになっている気がする。祭りと芸能の未来は、この子どもたちが受け継いでいくだろう。

2010年9月24日 (金)

ジョン万次郎の記念碑が建った

 日本の開国と明治維新に影響を与えた中浜万次郎とゆかりの豊見城市翁長に記念碑が建ったというので、見に行った。

 土佐清水の漁師だった万次郎は遭難してアメリカの捕鯨船に救助された。アメリカから帰国する際に、上陸地に選んだのが当時の琉球だ。1851年に糸満市の大渡海岸に上陸したが、薩摩藩から取り調べられ、首里王府から豊見城村翁長に滞在を命じられ、出国するまで半年間この地にいた。翁長の高安家や村人から手厚くもてなされ、村人との交流もあった。その縁で、ジョン万次郎会がつくられていて、20周年記念事業として記念碑の建設を計画した。寄付も寄せられ、約150万円かけて、翁長の翁長共同利用施設の前庭に建てられた。

   062 翁長共同利用施設とジョン万次郎記念碑

 この用地は翁長自治会が無償で提供したとのことだ。

  055 建立されたジョン万次郎記念碑

 記念碑には「半年の間、我豊見城村の先代は、万次郎に温情あふれる接遇をしました。日本開国の先駆者ジョン万次郎が翁長に滞在された史実と、人間味あふれる先代の行動に感謝し、この地に記念碑を建立する」と記されている。

  050 碑文

 驚いたのは、「とみぐすく万次郎音頭」という唄までつくられていたことだ。「君は土佐の清水のいい男 アメリカ育ちのいい男」と歌われる。万次郎は、鎖国と封建支配の徳川時代に西洋文明やアメリカの民主主義を日本に紹介した。人民が選挙で大統領を選ぶデモクラシーも伝えた。その一端は、いま放送中のテレビドラマ「龍馬伝」でも紹介された。わがブログでも「沖縄で愛される中浜万次郎」をアップしているので、関心がある人は見ていただきたい(2010年8月1日)。 

  051 万次郎音頭が記されている

   054 万次郎の略歴・年譜

 それにしても、幕末にわずか半年滞在しただけで、こんな記念碑まで建てるとは、豊見城で万次郎がいかに親しまれているかを表している。万次郎が滞在した高安家5代目当主の高安亀平さんは「石碑の建立は非常にうれしく、誇りに思う」と喜んでいた(「琉球新報」23日付)。

   

2010年9月23日 (木)

満月の夜は綱引き、その2

 いよいよ綱引きである。綱は、字糸満の10の区で小綱が作られ、それを22日朝から国道331号線を交通規制して、大綱に作り上げられた。綱は直径が最大1・5mあり、重さは10トンもある。結合された綱は180mある。

    045 これは雄綱

雄綱と雌綱を引き寄せて合体させなければいけない。重いから大変だ。雌綱の輪に雄綱を通すと、180㎏もあるカヌチ棒を差し込む。この綱の合体が見ものである。

   093 カヌチ棒が通された

 さあ、いよいよ本番だ。その前に、糸満の伝説上の人物に扮した支度(したく)と呼ばれるりりしい若者の登場である。中学生が北組は「マカビチャーン」、南組は「イチマンマギー」に扮する。戸板に載って、中央でにらみ合い、威勢を競い合う。

  095 北組の支度、マカビチャーン

  099 南組の支度、イトマンマギー

 支度による競い合いが終わり、綱引きの旗が振られた。180mの綱を一斉に引き合う。

     107 懸命に綱を引くがなかなか動かない

 互いに力一杯引き合うが動かない。すると今度は南組が引き、北組は綱に乗って動かさないようにする。次は交代して北組が引く。交互に引く。少し北側に綱がずれる。でもルールは30分で、10m引いた方が勝ち。時間内に引けなければ2m引いた方が優勢勝ちとなる。勝負は28分46秒引き合った結果、昨年に続き北組が勝った。これで1947年以来、通算して北組32勝、南組28勝、4引き分けとなった。

     108  南北が交代で綱を引くのが面白い

大綱引きには4万5千人が参加した。糸満大綱引きは、万人綱(マンニンジナ)、衆人綱(スニンジナ)と呼ばれ、誰でも参加できる。終わると、みんながいっせいに小綱をナイフで切り取り持ち帰る。家で大事に飾り、お守りにする。わが家にも台所に飾られている。

 一夜明け、朝起きると、腰に張りがあり違和感がある。「おかしいな、腰が痛くなるなんて?」と思った。「そうだ、これはきっと昨夜、少しだけど力を込めて綱を引いたからだ!」。原因がわかった。

  112 8月15日の夜の満月である

2010年9月22日 (水)

満月の夜は綱引き、その1

 満月が美しい旧暦8月15日。糸満市で大綱引きがあった。綱引きは、たんなる遊びではない。豊年と大漁祈願、家内安全、無病息災を祈る神事だ。南北に分かれた雄、雌の綱を結合することで実りを予祝し、勝負の結果で吉凶を占う。糸満は古式伝統を重んじる綱引きとして名高い。

    002 北組の先頭に立つ「ゆがふう」の旗頭。豊年、幸せな世を意味する。 

 でもその前に、パレードのような道ズネーが見ものだ。各地区ごとに、旗頭を先頭に、鉦や太鼓を鳴らすチンク隊、子ども踊りやエイサー、婦人会、老人会などの踊りが続く。

     021_3 子どもの踊り隊

 各地区と団体の10数組が次々に演舞する。民謡に合わせてあでやかに、勇壮に踊り舞う。道ズネーが向かう先は、白銀堂という糸満海人(うみんちゅ)の守り神のある拝所である。到着すると、すべての地区、団体はもう一度、拝所の前で舞う。そして祈りを捧げる。こういうところが、観光化した那覇大綱引きなどと違うところだろう。

      047 白銀堂でエイサーを踊る

 糸満ならではのプラカードを見た。それが下の写真だ。

     041_2 

 沖縄戦で激戦の地となった糸満市では、昨年1月、水道工事中に不発弾が爆発して2人が重軽傷を負った。ことし7月に902発、9月8日には2113発もの大量の不発弾が見つかった。市民にとっては、とても危険で不安な現状にある。「沖縄大好き 不発弾をなくそう」の訴えは切実である。

    074  旗頭のガーエー(競演)

 さあ、いよいよ綱引きの本番だ。その前に、すべての旗頭が集合して競い合う「ガーエー」がある。旗頭は6m20㎝、重さ40㎏もある。持ち手の若者は16人。みんなモモヌチハンター(股抜半套)という衣装に身を包み、かわるがわる持ち手を変える。一人が持ち、肩に載せたり、片手で持ちあげる豪傑もいる。勇ましい旗の舞を披露した。さて、綱引きは長くなったので、明日にしようね。

2010年9月21日 (火)

敬老の祝いは85歳以上!

 わが民謡三線サークルはおじい、おばあが多い。敬老の祝いがあった。ただし、祝いの対象は85歳以上だ。84歳まではお弁当代1000円を集めるが、85歳以上は無料。今年は85歳以上は6人だった。ムムッ、84歳以下は敬老の対象外とは、なぜ? と思うところだが、長寿の島だから、60歳代、70歳代なんてまだ若い、若いと思えばいいのだろう。

 めでたい席では必ず演奏する「かぎやで風節」で幕開けすると、曲に合わせておばあ3人が舞う。優雅な舞だ。余興の披露として、K、H両おじいとわが3人組も、都合3回もみんなの前に出て、弾き歌った。演奏したのは、まず「通い船」。沖縄が日本復帰するまで、大和と沖縄を通う船は、大きな役割を果たした。祖国と分断されていた時代、「通い船」という唄に、ウチナーンチュは、特別な思いを抱いたという。次の唄は「永良部(えらぶ)百合の花」。戦前から、沖永良部島はテッポウユリの栽培が盛んで、アメリカに輸出した。横浜の輸出商社とトラブルになったこともある。唄は「♪永良部百合ぬ花、アメリカに咲かちヤリクヌ」「♪いかに横浜ぬ、波荒さあてぃん、百合や捨てぃるなよ、島ぬよ宝」と歌う。

 そのあとも「繁昌節」「砂辺の浜」「屋慶名クファデーサー」と披露した。いずれもテンポのより曲ばかりだ。早弾きの曲になると、おばあも飛びだし踊りだす。88歳のおばあも踊り舞う。カラオケもやったが、沖縄民謡のDVDを持ってきたので、みんな民謡を歌う。歌謡曲と違って、民謡になると、みんな手拍子でいっしょに歌い出す。もう、祝いの場は、その昔、野原にみんなで出かけて、三線で歌い踊った「毛遊び」(モーアシビ)の雰囲気である。

 民謡を歌った84歳になるTおじいが「ひとこと言わせて下さい」とマイクを握った。「私はこの民謡がもう生きがいです。1年でも、1カ月でも、いえ1日でも長く生きて楽しみたい。私は戦争中、佐世保の海軍工廠に徴用で行っていて、戦争が終わり帰った沖縄は、焼け野原でした。もう生きて生活をすることで精一杯だった。いまこうして民謡を歌い楽しめて幸せです」とあいさつした。やんやの拍手を受けた。

 みんな事情は異なっても、嵐のような時代をくぐり、生きて、人生を重ねてきた人ばかりだ。先生が歌った「兄弟小節」(ちょうでーぐわーぶし)には次の意味の歌詞がある。「♪嵐のような世の中(戦争)を、こぎ渡って互いに、また出逢えることができた、とてもうれしいことだよ」。

 歌い踊るおじい、おばあの元気な笑顔を見ると、「いつまでも元気で長生きしてよ」と願わずにはいられない。そして、わが家族も「あやかりたい」である。

     

2010年9月20日 (月)

しまくとぅば(島言葉)の日

 9月18日は「しまくとぅばの日」だった。この日に由来する因縁はない。ただ「918」が「くとぅば」という語呂合わせから来ている。でもその意義は小さくない。琉球語、沖縄語は、たんなる方言ではない。古代に日本語からわかれた。ユネスコでも、独自の言語とされ、消滅の危険がある言語として指定されたそうだ。

 言葉は、文化である。琉球語でしか、共通語では表せない豊かな内容がある。かつては、沖縄方言しか喋れないと、大和に行っても差別される現実があった。だから、共通語を覚えることは差別されないための一歩だったという。方言撲滅が教育の現場でも徹底された。その手段として、方言を話せば木札を首からかけさせる「方言札」があった。戦後もしばらくあったとも聞く。誰か他の生徒が方言を使うのを見つけないと方言札は外されない。だから友だちの足をふんづけて「アガー!」(痛い)と叫べば方言を使ったとして、札を回したと聞く。いくら共通語を徹底するにしても、あまりにも非教育的な手段だ。それがまかり通ったというから、恐ろしい。それに、沖縄戦で日本兵にわからない言葉、方言を使えばスパイと見なされ、実際殺された人がいた。狂気のなせる業である。

 いまでは、逆に方言、というより琉球語、「しまとぅば」を大いに使い、残していこうとキャンペーンされている。「しまくとぅば」が最も生きているのは、民謡の世界である。歌詞はほとんどそうだ。「新唄大賞」という賞があるが、「しまくとぅば」で作詞することが条件になる。民謡歌手は、若手でもみんなしゃべれる。それなりにみんな勉強したのだろう。

 琉球語のことを「ウチナーグチ」とも言ったが、「ウチナー」とは狭い意味では沖縄本島になる。八重山の人は、本島に行くことをいまだに「沖縄に行く」という。ウチナーグチだと本島言葉の感じになるのだろうか?。同じ沖縄でも、言葉は八重山、宮古ではすごい違いがある。わが民謡サークルでも、「先島の唄は言葉がわからんさー」と敬遠する人がいる。逆に宮古の人は島を出ると、本島にくれば那覇・首里方言、それに共通語と3つの言葉を覚えないといけなかった。苦労したという。島ごとに言葉が違い、本島でも山原から南部まで、シマ(地域)ごとに言葉が違う。だから総称するには「しまくとぅば」が適しているのだろう。

    099 みんなに慕われるミルク神  

 例えば興南高校の応援歌になり一躍甲子園でも鳴り響いた「ヒヤミカチ節」でも、まず「エイ!と気合を入れる」という意味の「ヒヤミカチ」という言葉を、共通語に訳するとなにかイメージが伝わらない。歌詞の中の「稲粟ぬなうりミルク世のしるし」というのも、「稲粟が実り、五穀豊穣の世の表れ」と訳せるだろう。でも、「ミルク世」というのは、独特の表現だ。ミルク神は、仏教の民衆救済の弥勒菩薩からきている。沖縄では、とても親しまれている。ミルク神はお祭にも仮面姿でよく登場する。弥勒菩薩というより、七福神のような、とっても愛嬌のあるふくふくしい顔立ちと姿だ。みんなミルク様にあやかろうと、ミルク様をなでる。これらも、共通語に訳すると、ミルク神のもたらす豊穣への切なる願い、その思いがなんか伝わらない。これは一例だ。

 まあ、民謡は「しまくとぅば」なしには成り立たない。伝統芸能の組踊や沖縄芝居、沖縄歌劇も同じだろう。「しまくとぅば」が表現する豊かな世界、文化があるのだ。 というわけで「しまくとぅば」について、話しだすといくらでも言いたいことがある。また書こうねー。

 

2010年9月18日 (土)

那覇の公設市場は祭りでにぎわう

      017 60周年を迎えた牧志公設市場

 すっかり沖縄の観光名所の一つになった牧志公設市場。国際通りを入ったこのあたりは戦後、闇市が広がり、1950年に那覇市が米軍管理の用地を借りてつくったのが、公設市場の始まりだ。開設60周年を記念して18、19日と公設市場と近くのにぎわい広場で祭りが開かれた。

 沖縄に移住した当初は、よく公設市場に行ったが、鮮魚、精肉、漬物類が多く、スーパーで間に合う。それに付近の駐車場が有料で不便なので、最近はごぶさただった。でも祭りとあっては、じっとしていられない。そう。われらは「お祭り男、女」である。9月に入って祭りの連続だ。

 鏡割りがあり、樽入りの泡盛が振る舞われた。運転しているので、喉は欲しがっているが手は出せない。沖縄は、汁ものが多いが、牛、豚の内臓の中味汁もよく食べる。わが家ではつくったことがない。祭りでは、牛中味汁が100円で販売された。収益は口蹄疫被害を受けた宮崎の農家に寄付されるという。さっそく食べたが、味はいまいちだった。マグロの解体ショーや豚枝肉の解体オークション、冷やしスイカ販売、民謡歌手のミニライブ、琉球風車によるエイサーなど盛りだくさんだ。エイサーは、狭い市場内で勇壮に舞った。

    024 市場内でエイサーを踊る女性たち

 かつては「市民の台所」だった公設市場も、各地に大型ショッピングセンターができて、客足が遠のいていた。だが、色鮮やかな鮮魚や鳴き声以外全部食べるという豚のチラー(顔)皮から豚足まで並ぶ光景が人気となり、いまは観光客の人気スポットになっている。おばあも元気で働いている。アジア的な匂いもする沖縄の市場は、文化である。

 牧志公設市場といっても、衣料部もあるし、アーケード街を奥に進むと迷路のようになり、おばあのファッション専科のような店がならぶ。さらに道路をこえていくと、野菜を直売する「農連市場」がある。昼間行ったことがあるが、にぎわうのは午前3,4時という時間帯らしい。市場といえば、牧志だけでなく、安里にある栄町市場はより古い沖縄を感じさせられる場所だ。糸満市、名護市、本部町など各地にも古くからの公設市場がある。ディープな沖縄を感じるのには、どの市場もとっても面白いところだ。

 にぎわいのある市場を、いつまでも残してほしい。

2010年9月17日 (金)

97歳祝う「カジマヤー」

 長寿の島・沖縄では、旧暦8月8日に、数え年で88歳の米寿を「トーカチ」と呼び祝う。9月7日は「カジマヤー」と呼び祝う。北部山原の国頭村では、老人福祉施設で暮らす二人を、17日に敬老の日に合わせて、盛大に「カジマヤー」を祝ったそうだ。NHKで報道された。

   013NHKから。玉城ツルさんに風車を渡す

 「カジマヤー」とは風車のこと。子どものように童心にもどることを意味する。祝いの座には風車を飾る。必ずド派手な赤い着物を着る。飾り付けた車に乗り、地域をパレードする。子や孫、親戚、地域の人々がこぞってお祝いをする。

 この老人福祉施設では、宮城太三郎さんと玉城ツルさんがカジマヤーを迎え、みんなが祝ったという。沖縄では、カジマヤーをとにかく、地域を挙げてお祝いする、そしてみんな長寿にあやかりたいと願う。やっぱり、長寿でカジマヤーを迎えることは、ただ個人やその家族の喜びというだけではなく、地域にとってもうれしく、誇りあることだ。このあたりが、沖縄ならではの素晴らしいところだ。

 ツルさんは、「沖縄民謡が大好き」「胸一杯でうれしい」「ご飯もイモもよく食べる」とテレビでも語っていた。二人ともとても元気そう。   

      006NHKから。宮城太三郎さん

 これから、旧暦9月7日、新暦では10月14日にかけて、沖縄中の各地で、カジマヤーのお祝いが地域を挙げて行われる。

    012_2 NHKから。パレードする車

 長寿を祝う民謡がある。沖縄では、12年ごとにめぐってくる干支の年に生年祝いをする。それを主題にしたのが「御年日ぬ唄」(うとぅしびぬうた)である。サークルでも弾いている。「85の年日 88トーカチ 百歳とカジマヤー お祝いしましょう」という意味の歌詞だ。「花のカジマヤー」という唄は、車でパレードするときに流すそうだ。また、長寿にあやかりたいという唄もある。「あやかり節」だ。「このお屋敷の 裕福さは 長寿の神が宿っておられる 白髪になっても 若々しい どうか私達にも 今日のよき日に あやからせて下さい」などと歌う。敬老の日など、民謡歌手はかならずこの唄を歌う。

 大いに長寿にあやかりたい。元気でカジマヤーを迎えたいものだ。

2010年9月16日 (木)

子どもに人気がある「沖縄のホームソング」

 「沖縄のホームソング」が作られて、琉球放送で流されている。2007年4月から始まったので、もう3年を超えた。それを収めたCDは「その6」まで発売されている。昨年のレコード大賞企画賞をもらった。ホームソングは、主に子どもたち向けに作られていて、いわば今風のわらべ歌でもある。そこには、沖縄の民俗が色濃く反映していて、さすが沖縄ならではの歌詞である。

 いま歌われているのが「シチグワチウートートゥ」という題だ。つまり、「七月の祈り」という意味だ。7月とは、旧暦7月15日、旧暦のお盆がテーマである。歌詞はこんな感じである。

 「♪うんけーじゅーしー お供えしたら ご先祖様が帰ります ご先祖様にウートートゥ 命のバトンをありがとう 感謝をこめてウートートゥ ぼくらをお守りくださいね」。「うんけーじゅーしー」とは、旧盆の「お迎え」の日につくる「炊き込みご飯」のような料理だ。それをお供えして、先祖の霊を迎える習わしだ。そして、命のつながりに感謝する。

 作詞した池村真弓さんは、歌にかけた思いをメッセージでこうのべている。

 「今ある命は、ご先祖様から代々受け継いでいただいたもの。お盆はその感謝の気持ちを改めて確認する日。そして家族親族と触れ合える楽しいイベントだと思っています」。

 子どもを対象にしたホームソングで、このような旧盆をテーマにした歌なんて、大和ではもう考えられないだろう。でも、沖縄では、この歌詞にあるように、お盆はとっても大切な行事である。ご先祖様に「命をバトンをありがとう」と感謝するこの気持ち。かつては、日本のどこでもそうだったのではないだろうか。沖縄には、古いよき習慣、民俗が残っている。それだけでなく、こんなホームソングにもなって歌われている。それに、この歌は、テンポもよく、いま子どもたちにとっても人気がある。ホームソングのなかでも、ヒット作になりつつあるようだ。

 沖縄のホームソングは、1960年代にも作られた。名曲「芭蕉布」や沖縄の元祖食べ物ソング「ちんぬくじゅーしー」(里芋の炊き込みご飯の意味)、私もいま弾けるようになった平和の島唄「平和の願い」など、数々のヒット作が生まれた。32曲をCD2枚に収録した復刻版が発売されている。このように、ローカル放送局で、たくさんのホームソングを続々作るのは、スゴイことだ。その土台には、それだけの力量を備えた作詞家、作曲家、歌い手とそれを支えるリスナー、県民がいるということだ。他の県で真似ができるだろうか。やっぱり「芸能の島」・沖縄ならではの姿がここにもある。

2010年9月15日 (水)

沖縄の子守唄の不思議、その5

 沖縄の子守唄の特徴について、私見を書いてきた。すでに長く沖縄のわらべうたを研究されている杉本信夫さんの見解に接することができ、「やはりそうだったんだ」と思うところがあった。紹介しておきたい。『鹿児島沖縄のわらべ歌』からの引用である。

 「日本の子守歌というと、売られた子守娘の怨嗟の訴え、のちの女工哀史にも通じるような悲痛な仕事歌を思い浮かべるが、沖縄の場合、このような歌は全くない。とくに人頭税を課せられてきた宮古・八重山では、子供が生まれても母親は仕事に追われて子守りどころではなく、そこで部落の中から一定の年齢に達した少女が“守姉”(むりあに)に当てられた。守姉になった少女は、これを誇りに思い幼児の身の回りの世話から、立派に成人するまでの知的な教育や情操面の徳育までも含めて面倒をみるのである。その子守娘の素直な情愛や生活が、とくに宮古や八重山の子守歌には美しくうたい上げられている。もちろんこうした守姉は、育てた子から生涯慕われ尊敬されるのはいうまでもない」。

 八重山の子守の実態について、もう一つ宮城文さん著『八重山生活史』から紹介したい。

 「子守は五、六才前後の娘のおつとめになっていて、姉のいる家庭ではもちろんその姉が、そうでない家庭では親戚や隣家の娘を頼むのが常例であった。娘たちは、たくさんの子供をお守りするのが誇りであり、『守児』(もりご)のいない娘は毎日の朋輩の集いでもさびしい想いをしなければならないので、母親は遠い所まで探し求めてお守りをさせることさえあった」「その縁故は一生を通じて深いものであって、実の兄弟姉妹の及ばない程の親密さであり、成年後も、守姉は守児の世話をするし、守児は守姉を大事にして、結婚・生年祝などには着物を贈り、正月にはお歳暮を怠らなかった。昔の子守には何一つ報酬があった訳ではなく、ただ真心の奉仕であり、子守同志が集まって語り合い歌い合い、はしゃぎながら子守りをするのが楽しみであり、誇りであったのである」

 やはり、大和の子守歌にみるように、親元を離れて遠い地に子守り奉公に年若い娘が出されていたのでは、つらい思い、怨嗟を歌い、泣く子が憎くなるという子守りの歌になる。そこが、沖縄の先島は違う。同じ少女らの子守りであっても、生活共同体のなかで、自家の子どもだけでなく、他の家の子どもでも、子守りをするのを誇りに思ってしていたというのでは、歌われる子守歌が、まったく異なるのは当然だろう。子守歌も、このように暮らし、民俗をとてもよく反映するのである。

2010年9月14日 (火)

嘉手納には大蛇伝説があった

 青年ふるさとエイサー祭りで、嘉手納の白龍のことを書いた。そのあと、嘉手納の大蛇伝説を知った。嘉手納基地に面した字屋良の近くに池があり、底なしの深さと言われた。「屋良漏池」(やらむるち)と呼ばれる池だ。そこに昔、恐ろしいジャーが住んでいたという。

 ジャーは、大蛇とも龍とも大鰻ともいわれる。池の南側は今、米軍嘉手納飛行場になっている。ジャーは、家畜を襲っていた。そこで通り道に灰をまき、這うことができなくなったジャーを村人は殺して食べたそうだ。すると、7か月も日照りが続き、さらに7カ月も雨が降り続いた。この災いをジャーの怒りとみて、いけにえに辰年生まれと金持ちの娘を差し出そうとしたが、断られた。そこに、首里から来て住む父、娘がいた。娘は「私がいけにえになれば目の見えないお父さんも一生食べていける」と名乗り出た。

 ジャーは、娘を一飲みにしようとした瞬間、雷が鳴り、稲光が下ってジャーを打った。娘はジャーを退治したと褒美をもらった。それから干ばつになると、屋良村の老女たちは、7個の卵を池に投げ入れ、雨乞いの儀式をするようになったという。現在、米軍がこの池を半分埋め立て、池の岸には娘を偲ぶかのように神を祀る石の香炉があるという。(ネット「沖縄人、沖縄の民話」から紹介)

 嘉手納基地の騒音は、ステルス性能をもつF22がしょっちゅう飛来し、各地からも訓練に来るなど、騒音はひどくなるばかりだ。この池に、龍か大蛇が住んでいれば、きっと怒り狂うだろう。

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   嘉手納町連合青年会の白龍(青年ふるさとエイサー祭り)

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「道の駅かでな」の龍の像。嘉手納基地の方向をにらんでいる

青年ふるさとエイサー祭りを楽しむ

 沖縄は、この11、12日は、本島各地でエイサー祭りで盛り上がった。沖縄市では「全島エイサー祭り」、うるま市は「うるま市エイサー祭り」、名護市でも「名護エイサー祭り」、そして那覇市では「第46回青年ふるさとエイサー祭り」である。おりしも沖縄は統一地方選挙の投票日だったけれど、おかまいなし。特に、「青年ふるさとエイサー」以外は、先週開催の予定だったけれど、台風のため順延していたので、待ったなしである。

 青年ふるさとエイサー祭りは、新装なった「奥武山(おうのやま)球場」(那覇セルラースタジアム)が会場。見るなら遠いスタンド席ではなく、踊りに近いグランド席が一番だ。

   028 スタンド席にも大勢つめかけた

 ついたら金武町金武区青年会が演舞していた。勇壮なエイサーだ。続いて恩納村安富祖青年会。こちらはテンポがゆっくりしている。さらにうるま市石川曙区青年会、八重瀬町富盛青年会、読谷村渡慶次青年会と演舞が続いた。富盛青年会はまだやりだして長くないというが、なかなか見ごたえあるエイサーだった。

     003 金武区青年会のエイサー

   007 安富祖青年会のエイサー

   034 嘉手納町連合青年会の白龍

嘉手納の白龍は初めて見た。龍の顔は見るからに怖い。動きも見事で迫力があった。そういえば、「道の駅かでな」には、龍の像が建っている。なにかいわれがあるのだろうか。

    076 翁と媼の仮面をつけたアンガマ

 芸能ステージでは石垣市いしゃなぎ青年会のアンガマが見られた。旧盆に翁(うしゅまい)と媼(うみ)という仮面をつけた二人の先祖が家々を訪れる。念仏系の歌と踊りを披露する。伝統ある石垣ならではの旧盆行事だ。石垣に行ってもいつもは見られない。それを本島で見ることができ、ラッキーだった。恒例の珍問答もあり、長寿の秘訣を尋ねていた。「90歳になってお迎えがきたら?」「まだカジマヤー(97歳の祝い)もしていなからと断る」といった具合だ。

 那覇市内でこのエイサー祭りが開かれるのは7年ぶりとのこと。毎年開いてほしいものだ。

2010年9月12日 (日)

番組テーマ曲は「がんばろう」

 沖縄のラジオ番組で、今もっともウチナーネタで盛り上がるのは、rbcの日曜午後零時から3時間の「久茂地(くもじ)放送屋」という番組だろう。そのテーマ曲が、民謡歌手大工哲弘さんが歌う「がんばろう」である。これはトーゼン島唄ではない。

 福岡県大牟田市生まれの荒木栄さんが、1960年当時、三井三池炭鉱の大争議の中でつくった曲だ。労働歌である。だから、労働運動やうたごえ運動でさかんに歌われた。それがなぜ、ウチナーローカルラジオ番組のテーマ曲なのか?。それはよくわからない。

 でも、大工さんは、「沖縄を返せ」を歌ってこの曲をよみがえらせた。「がんばろう」も、歌ってともにCDに入れている。もう島唄のように歌っている。だから近くの八百屋でも大工さんが歌う「がんばろう」が流れていた。大工さんも、長く那覇市役所に勤める労働者だったので、早くからこれらの歌に親しんでいたのだろう。

 「久茂地放送屋」は、沖縄の人気お笑い集団「FEC」の山城智二、賀数仁然(かかずひとさ)の両氏が司会する「おバカ教養番組」である。リスナーがメールを寄せるのも「ラジオネーム」ではなく、「屋号」で送る。沖縄は同姓同名や紛らわしい名前が多いから、屋号が生きている。面白いネタを提供すると、琉球王府の位階制度にならって、位を授けてくれる。面白いネタを提供していると、だんだん昇格できる。まあ、ウチナーネタ満載の番組である。今日も3時に番組が終わると、「がーんばろうー、つきあげる空に くろがねの男のこぶしがある」と大工節が流れてきた。 

 いまだ米軍基地に悩まされ、なにかと苦労が多い沖縄県民に「がんばろう」というメッセージなのか、どうもそうではないようだ。でも、なんか元気が出るテーマ曲であることは確かだ。ウチナーネタ満載で、これからも、おバカにして教養がつく番組づくりに頑張ってほしいと思う。

2010年9月11日 (土)

9000発の未使用弾が見つかった

 米軍から返還になった北中城村の泡瀬ゴルフ場跡から、戦時中の米軍のものと見られる未使用弾が約8940個も見つかった。最大90センチの砲弾はじめ、小火器弾、信号弾、火薬、薬きょうなど。旧日本軍の機雷以外は米軍のものだという。

 なぜこんなにゴルフ場跡にあるのか。戦後、米軍が占領し、1946年ごろにゴルフ場を造るのに、ブルドーザーで弾薬を埋めていたという目撃証言がある。先日も、糸満市でも2100個余りの未使用弾が見つかったばかりだ。これは、不発弾とは違う。未使用弾だ。それなら、米軍が安全に処理すべきものなのに、ブルドーザーで埋め込むとは、無責任きわまりない。しかも、造ったのはゴルフ場である。「弾薬庫」のような、土地の上で米軍人はじめ家族、沖縄の人も含めて、長年ゴルフをしてきたことになる。

 泡瀬ゴルフ場は、返還になると言っても、泡瀬の3・6倍もある広大な新ゴルフ場を造ってやったのだ。もう要らないから返すというだけ。返すなら、こんな弾薬や汚染などないように、安全に処理して返すのがスジだろう。ところが、なにもしない。日米地位協定では、アメリカが基地を返還する際に、原状回復と補償の義務は負わないという。しかも、弾薬を埋めたことなど、情報もなんら通知もしない。なめられたものである。

 ゴルフ場跡を、安全に使えるように整備する労力、費用はすべて日本の負担になるなんて、身勝手すぎるではないか。いったい、この郷土にまだどれほどの不発弾や未使用弾が埋まっていることだろうか。

 また、所在不明の高齢者問題で、100歳以上で戸籍上は「生存」し、現在所在が分からない人が、沖縄は1万718人いて、全国3番目に多いという。これも、沖縄戦で戸籍原簿が焼失して、戦後、戸籍を復元するさい、家族の生死がわからないまま戸籍に載せた人や海外に移民した人もいる。死亡届も出せないでいる例がかなりあるのだろう。沖縄は、親、お年寄りをとても大切にする。だから、戸籍と住民票があって、行方が分からないというような、問題ではない。今回の高齢者問題でも、沖縄戦が影を落としている。

 沖縄の戦後は、またまだ終わらない。そんな思いを強くする。 

2010年9月10日 (金)

「ハイサイおじさん」も遊郭が登場する

 甲子園に沖縄から出場した高校の応援の定番曲に喜納昌吉作「ハイサイおじさん」がある。この曲は、沖縄戦で気がふれたおじさんの話し相手になっていた体験から作られたという。歌詞は滑稽唄というか、ブラックユーモア的な唄である。実は高校生にはとても聞かせたくないような内容がある。というのは、5番の歌詞に、遊郭が出てくるのだ。「ハイサイ(こんにちは)おじさん、昨夜の女郎は香りがとてもよかったよ。おじさんも一度いってみたらどうか。ありあり小僧よ 遊郭のある辻、仲島、渡地は、おじさんはあそこの株主だぞ。あれあれおじさん、毎日そこに入り浸っていたの。私も貧乏のどん底まで落ちるかな」。こんな意味が歌われる。 

 かつて琉球王府の時代、薩摩から来ていた役人によると、那覇の遊郭には、辻1500人、仲島700人、渡地300人ほどの娼妓がいたそうだ。私が、ブログで遊女のことにこだわるのは、民謡にはとても多いからだ。「海のちんぼうら」という曲も、たまに小中学生が祭りで三線で弾くことがある。これも、実はとても卑猥な唄である。「海のちんぼうら」とは「海の螺(にし)」のこと。3番の歌詞に、遊郭が歌われる。「辻のえんどう豆、仲島や豆腐豆、恋し渡地よい福豆」、4番は「辻のえんどう豆、食べてみたかね若者よ、食べてみたけれど味は覚えていない」という意味だ。歌詞の意味を子どもに聞かれると、どぎまぎするのではないかと思う。でも、曲調はとてもとてもテンポがよく、人気があるから、よく演奏されるのだろう。

 いま毎日、稽古している「仲島節」という情唄も、文字通り遊郭の仲島がテーマである。「仲島に渡る小橋は、人通りが多いので、袖で顔を隠して 忍んで行くよ」というように歌う。「吉屋物語」は、薄幸の遊女であり、女流歌人として名を残す「吉屋チルー」の物語だ。「花風」も、遊女と士族の別れのつらさを歌う。というように、毎日、稽古する曲目の中にも、いくつも遊郭と遊女がテーマの曲がある。曲に込められた思いを知らなければ、歌に心が入らない。それで、遊女の話も、いろいろ関心を持っているというわけである。

追記

 沖縄のわらべ歌集を見ていたら、「海のチンボラーぐワー」という唄が掲載されていた。その歌詞を見ると、「海の小さなチンボラー貝(巻貝)が シャコ貝になろうとして、いざり寄ってきたが 側にかわされて 疥癬(かいせん)をかいている」という意味の唄である。玉城村の仲村渠(なかんだかり)で採取したという。これはやっぱり動物植物のわらべ歌に分類されている。lこれなら子どもが歌える唄だ。

2010年9月 9日 (木)

たずねヤギ

 ラジオでよく「たずね人」「たずね犬」などがある。お年寄りが出かけて帰らない、犬が行方不明になった、心当たりがあれば連絡を、と呼びかける。最近は、「たずねヤギ」があり、話題になっている。そのポスターが、うるま市赤道の「たまご屋」に張ってあるらしい。

 ただたずねるだけではなく「見つけても食べないでください!」と呼びかけている。そこが沖縄らしいところである。そう。沖縄は「ヤギ食文化」である。ヤギの汁、刺身など、とても美味しいとウチナーの食通は言う。家を新築した棟上げなどでは、ヤギ肉をふるまうのが習慣だったと聞く。

 なかでも名護市勝山のヤギは美味だと聞く。勝山はシークワーサーとヤギの里と言われるところ。ことし春、祭りがあり勝山に初めて出かけた。たしかに、シークワーサーの花の香りがただよう山里は、ヤギをたくさん飼育していた。山道にも「ヤギ刺身あります」などの看板が出ている。ヤギを闘わせる「ヒージャーオーラセ」(闘ヤギ)が見ものだった。祭りで売りだされたクジの景品の1等が、なんとヤギ1頭。おばさんが引き当てた。でもおばさんは家で飼えない。すぐその場で、セリにかけて売られた。

       077ヤギ肉販売の看板

       136セリおとされ引かれてゆくヤギ

 売られた景品のヤギは、もう少し大きくして食べられるだろうか。かわいそうな気がする。写真で見ても、引かれゆくヤギは嫌がっているように見える。でも人間はすべて動植物の命をいただいて生きている。牛や豚、羊、鶏にしても同じだ。これは食文化である。

 さて、「たずねヤギ」は無事見つかるだろうか。「見つかったらぜひ知らせてください」とラジオで呼びかけていた。もう食べられているだろうか?  「見つけても食べないでください」というのは飼い主の切なる願いである。

沖縄は虹が多い

   006那覇市内。午前8時10分。

沖縄は虹がとっても多い。とくに夏場に多い。それは、夏場は、「かたぶい」と呼ばれる、にわか雨、スコールが多いからだろう。とにかく、晴れているのに、雨が降る。降ったかと思うと、晴れている。手前は晴れなのに、川向こうは雨。毎日のように、そんな気候が続く。

 虹は、太陽の光が大気中の水滴に屈折、反射しておきる。だから、かたぶいして大気中に水滴があるところに、太陽の光がさすと虹が見られる。このため、夏場に虹が多いだろう。統計はないが、沖縄は虹が多いそうだ。今朝の虹も、シャッター押してすぐ消えていった。一瞬の美景である。

 大和から沖縄に来た者は、「虹が多いなあ」と気付く。以前に「週刊レキオ」でも取り上げられた。「沖縄は虹の王国か」と。でも地元では、当たり前の光景なので、他県より多いなんて思わないそうだ。でもやはり「虹の王国」である。

2010年9月 8日 (水)

興南ヒヤミカチ応援節

 夏の甲子園で沖縄で初の優勝を果たした興南高校は、日本高校選抜メンバーに5人が選ばれて渡米した。アメリカ高校選抜と対戦し2勝1敗と勝ち越した。その中で、興南勢は活躍したという。たくましい!。「わたしは虎だから、羽を付けてくれ、波路太平洋を飛び渡るよ」という、ヒヤミカチ節の歌詞そのまま当てはまる。 

 ついでに、わがブログにいまなお、ヒヤミカチ節のアクセスが絶えない。元唄しかアップしていなかったのでこの際、「興南高校ヒヤミカチ応援歌」の歌詞を紹介したい。

1、常夏の沖縄 野球の島沖縄 沖縄興南野球児 南風おこせ旋風おこせ 

  ※ヒヤ・ヒヤ・ヒヤヒヤヒヤ ひやみかちうきり ヒヤミカチ興南

2、心を一つに合わせ 魂・知・和の心 我らが興南野球 今だ!見せろ! ここに響け!

 ※ハヤシ同じ

3、七転び八起き ヒヤミカチ起きて ピンチをしのぎチャンスを呼べ 今が勝負今が勝負

 ※ハヤシ同じ

4、守り抜いてチャンス ヒヤミカチ起きて 今が勝負しかけてみよう 一球一打一球一打

 ※ハヤシ同じ、ハヤシ繰り返す

 2番の歌詞にある「魂・知・和の心」(こんちわのこころ)とあるのは、興南高校野球部のモットーである。「魂(ファイト)をもって、知(知識)を生かして、和合して(団結)」という意味らしい。この応援歌は、高校の名前だけ変えれば、沖縄のどこの高校でも使えるので、使ってほしいとのことだ。 

 沖縄民謡は、もう替え歌で成り立っているといっても過言ではない。替え歌の方が有名になり、元歌が忘れられるということも珍しくない。だから、ヒヤミカチ節を作詞した、平良新助さんも、こんな風に高校野球の応援歌として元気づけていることをきっと喜んでいるだろう。ただ、親の世代は民謡のヒヤミカチ節をよく知っているが、当の高校生たちは、民謡にそんなに親しんではいない。従来の「ハイサイおじさん」が演奏されないと寂しいという。でも、これから「ヒヤミカチ節」が甲子園の定番応援歌になれば、きっと高校生たちにも親しまれ、愛される応援歌となるだろう。

 

2010年9月 7日 (火)

遊女が救いを求めたのは?

 NHK大河ドラマの「龍馬伝」。視聴率は下がっているらしい。長崎編になって少しは龍馬らしくなってきた。長崎で龍馬と親しくなる芸妓にお元がいる。蒼井優が演じている役だ。彼女は、隠れキリシタンという設定で、密かに信者の集いに出るシーンがある。

 話は、龍馬のことではない。芸妓のお元はなぜ隠れキリシタンなのか。推測だが、芸妓、遊女はどこでも、好きでやっているのではない。家が極貧で仕方なく娘を遊郭に売るという例が多かった。そんな芸妓、遊女たちが、救いを禁制の宗教に求めたのは、ありえることである。

 ドラマを見て思い出したのが、沖縄のこと。琉球王国では仏教といえば禅宗か真言宗だけ、キリスト教とともに、一向宗も禁じられていた。ひたすら念仏を唱えれば救われるという浄土真宗は、薩摩藩で禁じられていた。一向宗の封建的な権威を認めない平等思想が、薩摩の支配者の意にそわなかったかららしい。だから琉球も同様、禁じられた。

 でも150年ほど昔、琉球で役人だった仲尾次政隆が一向宗を信じ、多くの信徒を集めていた。なかでも、那覇の辻という遊郭のあるところで、遊女たちに影響を広げ、短い年月に約300人余りの信徒ができたという。禁制の一向宗で、これだけの信徒を得ていたというのは、相当なものである。結局は、告訴されて仲尾次は八重山への遠島処分にされ、10年も流人生活を送ったという。

 琉球の遊女は、かつて地方に散在していたが、王府の政策で那覇に集められたので、貧窮する農家からの身売りは、那覇の遊郭に集中したという。民謡には、遊女を歌った唄、遊女と首里の士族の恋を歌った曲がとても多い。すでにアップしてある「愛と哀しみの島唄」などで、少し書いたので、興味のある方はそちらをのぞいてみてほしい。薄幸の彼女たちにとって、一向宗が救いとなっていたのだろうか。(参考島尻勝太郎著『近世沖縄の社会と宗教』)

 

沖縄に寺はあっても檀家はない

 大和の田舎にわが家の菩提寺があった。遠からず葬式を出す必要が出てきそうなので、寺に問い合わせてみて驚いた。「もうお布施が長くないので、お宅は檀家から削除されています。だからうちでは葬式はできません。そうですね。檀家に戻すには、この間の分として100万円は納めてもらうことになります」とのこと。うーん、困った!。わが家の菩提寺は曹洞宗だったので、なんか特に厳格のようだ。寺にきちんとお布施を続けていなければ、一回だけというのはお断りなのである。まあ、お寺の側からみれば、檀家に支えられて成り立っている。

 それで、困ったあげくに、首里にある同じ曹洞宗のお寺に問い合わせてみた。「檀家にしてもらうにはどうすればいいでしょうか?」。その答えがこうだった。「沖縄には檀家はないんですよ」「エッ、ではお葬式を出すにはどうすればいいんですか」「それは、お布施のあるなしや、宗派とかに関係なく、だれでも要望があればお応えしています」。なるほど。

 そういえば、もともと檀家制度とは、徳川幕府がキリスト教を禁止し、民衆をどこかの寺院に所属させるため、檀家制度を設けたそうだ。みんな寺院に人別(戸籍)を登録させた。だからお寺が戸籍の管理までしていたという。でも琉球は、薩摩に支配されていたとはいえ、一応、独立国の形をとっていたことから、徳川幕府のやり方はそのまま持ち込まれない。檀家制度は作られなかったようだ。民間信仰が強く、庶民にはあまり仏教が浸透していなかったので、もともと庶民もすべてお寺にしばりつけることは無理だったのかもしれない。

 まあ大和でも、大都市と地方の田舎では大分、事情が違うだろう。檀家でなくても、葬儀屋さんと結んで、葬式に来てくれるお坊さんはいる。でも、わが田舎にはいない。お墓は田舎にあるが、もう檀家はなくなったナイチャーにとっては、わが大和の田舎のような檀家制度がいまなお根強いところよりは、檀家のない沖縄のお寺の方がいいのかもしれない。沖縄のお寺事情を知り、そんなことを思った。

 

2010年9月 6日 (月)

沖縄で寺を見たことがありますか?

 沖縄に遊びに来て、あちこち見て回った人で、お寺を見たことのある人はどれくらいいるだろうか?。恐らく、観光で3,4日来て、ドライブで回っても、お寺を見たことのある人は、ごく少ないだろう。なぜだろう。私も東京に長く住んでいたが、住んでいた地域は、歩いて10分ほどの間にも、いくつもの寺があった。しかも、敷地はデーンと広く、大きなお寺の建物も遠くからもよく見える。

 でも、沖縄の風景に寺はまず見当たらない。沖縄に寺はないのか。そんなことはない。あるところにはある。ただ、少ないことは確か。県内をすみずみ回っても、大きなお墓はいたるところにあるが、寺は見えない。あっても、目につかない。寺の看板があって、やっと「あれっ、ここに寺があったのか?」という感じ。

 まず寺の数は、大和に比べて相当少ない。首里にはたくさんあるが、それ以外はそうでもない。しかも、あっても敷地は大和の寺に比べると極めて狭い。建物もコンクリート造りなどになっていたり、寺が目立たない。

 そこには、歴史的な背景があるという。仏教は、首里の士族の間にはそれなりに広まったが、禅宗が多い。沖縄は、ニライカナイ信仰があり、海のかなたに神様の住む楽園があると信じられている。先祖が霊力を持ち守ってくれるという先祖崇拝が強い。だから、巨大な仏壇とトートーメ(位牌)の前で、毎日、ウートートー(祈り)を欠かさない。カマドの火を崇める「火の神」(ひぬかん)も毎日、祀る。各地域ごとに御嶽(うたき)など拝所がいくつもあり、土着の民間信仰が根強い。「よくわかる御願(うがん)ハンドブックーーヒヌカン・トートーメ12カ月」という本がベストセラーになったほどだ。

 まあ仏教はあまり庶民の間に浸透しなかったといわれる。それに、琉球を300年近くも支配した薩摩藩は、キリスト教と一向宗を禁じるなど、仏教も制限した。だから、お寺があっても、禅宗と真言宗以外のお寺は建立されなかったそうである。いまは、他の宗派も入り込んではいるが、大和では、地方の各地を歩くと、大きな集落には大抵、お寺がある。そんな風景は、沖縄ではあまり見られない。

   101初詣に行った首里のお寺

 沖縄のお寺を見たくなって、ことしの初詣に首里に出かけた。地図とネットで探して行ってみると、日ごろ寺の前を通り過ぎていても、気付かないような場所に結構、寺があった。といっても、首里以外の地方にドライブに出かけても、ほとんどお寺に遭遇することはないことは確かである。お寺より、城跡や御獄(うたき)などを見ることが多い。城跡といっても、そこには必ず御獄がいくつもあり、いまなお信仰の対象になっている。神聖な場所でもある。民間信仰の根強さを感じることがとても多いのが、沖縄生活である。

2010年9月 4日 (土)

沖縄の肝心を歌うHY

 うるま市出身の超人気バンドHYの新曲を追ったNHKの番組があった。8月15日夜、全国放送され、9月3日、ローカルでより詳しく放送された。歌は「時をこえ」という。ボーカル・キーボード奏者の仲宗根泉さんが、自分を育ててくれたおばあから聞いた沖縄戦の体験をもとに、おじい、おばあからつながる命の重み、「命どぅ宝」の心、平和の大切さを伝えようと彼女が作詞作曲した。

 番組は、この歌の誕生秘話や歌に込めた思い、はじめはこれまでのロック調の曲との違いから、戸惑いがあったファンが次第にこの曲を感じ、受け入れ、共感が広がる様子がドキュメントで描かれた。エイサーの太鼓や三線も取り入れ、これはもはや島唄、それも「平和の島唄」である。

 HYの名前は、うるま市与那城にある東屋慶名(ひがしやけな)からhigasiのH、yakenaのYから付けたそうだ。名前の通り、メンバー5人もうるま市の出身で屋慶名を拠点にしている。6枚のアルバムはみんなヒットし、いま3回目の全都道府県ツアーをしている。だけれど、あくまでメジャーではなく、インディーズだ。所属も個人レーベルの「東屋慶名建設」という名前。これは建設会社名ではなく、かれらの所属レーベル。超人気グループでありながら、自分たちが生まれ育った地域にこだわりを持っている。うるま市の海岸クリーン活動に参加したり、祭りにも出たり、同市成人式でサプライズゲストで出演したり、小学校で演奏したり、という具合だ。「HYはうるま市の誇り」と言われているのもうなづける。

 「時をこえ」という曲も、「沖縄から伝えなきゃあーHY”沖縄から命を歌う”」と題されているように、この沖縄・ローカルな地にしっかりと足をつけて活動しているから、生まれた歌だと思う。HYのホームページを見ると、この「時をこえ」のイントロが流れてくる。

 いま屋慶名には、全国からファンがHYの生まれ育った土地だからとたくさん訪れているという。一昨年、屋慶名に行ったけれど、まったくHYのことは知らないまま。屋慶名といえば、民謡の「屋慶名クファディーサー」が有名なのでそれしか頭になかった。今度、屋慶名に行った時は、ミーハー気分でHYのよく行っていた兼久商店でものぞいてみたい。

 「肝心」は「ちむぐくる」と読む。「肝」はウチナーグチでは、内臓のキモではない。「ちむ」は心を表す。「肝心」といえば、「心」を重ねることにより強調していることになる。「沖縄の心、思いを歌うHY」という意味になる。

2010年9月 3日 (金)

琉球と中国の長い交流の物語(下)、その10

 冊封使の派遣は、中国側にとっても、琉球側にとっても、大きな負担と危険があった。中国は、琉球を福建省に呼び寄せ、そこで国王の認証の儀式をすればよいのでは、と働きかけたことがある。でも琉球は、あくまで冊封使を琉球まで派遣することにこだわった。なぜだろうか。そこには、冊封使を迎えることにより琉球での国王の支配を権威づける政治的な意味があったのではないだろうか。その10は、そんな内容である。

 最後に、琉球と中国の交流の歴史を振り返ると、沖縄はアジアの国々にもっとも近い南海の優れた位置にあり、東アジアの国々の交易と友好の関係を続け、架け橋となってきたことがわかる。これは、これからの沖縄と日本がアジアで生きていく道でもあるのではないだろうか。そんな思いを強くする。これで最終回である。

     「tyuuryuu10.doc」をダウンロード

    

琉球と中国の長い交流の物語(下)、その9

 琉球は400年前、薩摩に支配されたが、薩摩は中国との貿易を続けさせた。琉球が薩摩に支配されていることは決して中国に知られたくない秘密だった。だから、冊封使が来ると、薩摩の役人はいまの浦添市に身を隠したという。

 冊封使が来ることが決まると、琉球はあらかじめ中国側に、持参する品物について、持ってきてほしい物、持ってきてほしくない物など、分類して細かく注文していたという。また、琉球にきても遊女はいないので、よこしまな考えは起こさないでほしいと要望もしていたという。その9は、こんな内容である。

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2010年9月 2日 (木)

カヌチャリゾートの憂い

 少し前になるが、名護市のカヌチャベイホテル&ヴィラズに泊りに行った。名護市の東海岸の大浦湾に面した絶好の位置にある。80万坪の広大な敷地に、本格ゴルフコースからプール、展望浴場・サウナ、フィットネスなどの施設と多彩なホテル棟が建ち、レストランに行くにもトロリーバスやカートに乗るほどだ。「心の楽園」「ゆとリズム」などが売り。のんびりと過ごせた。

 ここは、名護市の汀間(ていま)から安部(あぶ)にかけ広がっている。この地名、民謡に詳しい人ならピンとくる。そう。「汀間当」の唄の舞台だ。「汀間と安部境の川の下浜降りて、丸目加那と請人神谷が逢っていた 恋の話、本当か、真実かや」(訳文)と歌い出す。村の美人・加那と王府の役人・神谷の恋を、村の若者たちがはやし立てる内容だ。早弾きでテンポがよく人気がある。その歌碑が、なんとホテルの敷地内にあったのにはビックリした。

    081 カヌチャベイホテル

 このホテルから眺めると、青い海の向うに見えるのが、辺野古岬である。日米政府の合意ではここに普天間基地を移設するという。専門家の報告書では、滑走路をV字とI字の両案を併記した。I字案では、モロこのホテル上空を飛ぶことになる。V字案も、米側は垂直離着陸できるМV22オスプレイの配備を想定し、これまでの説明より陸側に飛ぶコースを採用せよと主張している。まあ、普天間の現状を見ても、海兵隊は説明通りには飛ばない。住宅地の上空を好き勝手に飛んできた。だからV字だろうがI字だろうが、辺野古に巨大な新基地を作れば、もうリゾートホテルは、騒音に襲われることは目に見えている。

   066_2 遠くに見えるのが辺野古   

 なにより、名護市から宜野座村にかけ、周辺の住民の住環境は壊され、ジュゴンの来る海も埋め立てられ、取り返しのつかない悪影響を受ける。軍用機と米兵による事件、事故の危険にもさらされる。滑走路の形の問題ではない。V字だろうがI字だろうが、県内への新基地建設はノー、というのが県民の声ではないだろうか。

2010年9月 1日 (水)

琉球と中国の長い交流の物語(下)、その8

 中国皇帝から国王として認められる冊封は、国家的な祝い事である。国を挙げて歓迎した。でも、小さな島国にとって、500人前後もの賓客が半年も滞在するので、その接待にも大変な苦労があったという。冊封使の一行は、中国の物産もたくさん積み込んできた。それを琉球王府は一括して買い取った。官営の貿易である。そこでトラブルが起きることがあった。その8は、そんな内容である。

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     024

 首里城での冊封儀式の再現。国王は3回跪き、9回頭を地面にこすりつける

琉球と中国の長い交流の物語(下)、その7

 冊封使は、皇帝の使者として外国に派遣されるから、とっても名誉なはずである。でも、なぜか嫌がられたらしい。なぜだろう。さまざまな困難があったし、なにより危険な旅であった。それでも、任命されると行かざるをえない。一行は総勢500人前後にものぼる大規模な使節団だった。その7はこんな内容である。

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      050 写真は那覇市内にある福州園。

中国式の庭園である。那覇市と福州市の友好を記念して造られた。本文とは無関係です。

台風一過

 台風7号が通過していった。この7号は、変な台風だった。昼ごろに沖縄本島に最接近するというので、学校は休校、バスも朝10時から全休、わが三線サークルもお休みになった。でも、ベランダを片づけて準備していたのにまったく雨風はない。そのまま夕方になった。台風は南から来るから、当然本島の南部から接近すると思い込んでいた。ところが4時すぎになり、北部の名護の近くに接近しているという。そのまま名護付近で本島を横断して通り抜けていった。夜通り抜けてからの風雨が強かった。やっぱりヘンな台風だった。

 今年は台風がやけに少ない。そういえば4月に咲くデイゴがほとんど咲かなかった。「デイゴの花が咲き、風を呼び、嵐が来た」と、歌の「島唄」の歌詞にもある。デイゴの咲き方と台風の数には、なんか気候上の因果関係があるのだろうか。

 台風がきて被害をもたらすのは困る。といっても、台風がもたらす恩恵もある。なにより雨である。今年は雨量が多かったから、いいが、雨が少ない年は、雨をもたらす台風にも来てほしい、という気にもなる。海水の温度が高いままだと、サンゴの白化現象が起きる。台風がくると海水をかきまわし、水温を下げるらしい。だから自然の現象にはそれなりに、意味があるようだ。

 それと、「台風一過」と書いたが、沖縄では台風一過とはならない。関東なんか、台風が通り過ぎると数時間で晴れてくる。でも沖縄は、台風が過ぎても、その影響は長く残りなかなか晴れない。台風の通り過ぎるスピードが、沖縄方面と大和では違いがあるからなのか。それ以外にもなんか理由があるだろう。とにかく、沖縄では「台風一過」という言葉が実は当てはまらない。タイトルに異議ありである。

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