ジョン万次郎の記念碑が建った
日本の開国と明治維新に影響を与えた中浜万次郎とゆかりの豊見城市翁長に記念碑が建ったというので、見に行った。
土佐清水の漁師だった万次郎は遭難してアメリカの捕鯨船に救助された。アメリカから帰国する際に、上陸地に選んだのが当時の琉球だ。1851年に糸満市の大渡海岸に上陸したが、薩摩藩から取り調べられ、首里王府から豊見城村翁長に滞在を命じられ、出国するまで半年間この地にいた。翁長の高安家や村人から手厚くもてなされ、村人との交流もあった。その縁で、ジョン万次郎会がつくられていて、20周年記念事業として記念碑の建設を計画した。寄付も寄せられ、約150万円かけて、翁長の翁長共同利用施設の前庭に建てられた。
この用地は翁長自治会が無償で提供したとのことだ。
記念碑には「半年の間、我豊見城村の先代は、万次郎に温情あふれる接遇をしました。日本開国の先駆者ジョン万次郎が翁長に滞在された史実と、人間味あふれる先代の行動に感謝し、この地に記念碑を建立する」と記されている。
驚いたのは、「とみぐすく万次郎音頭」という唄までつくられていたことだ。「君は土佐の清水のいい男 アメリカ育ちのいい男」と歌われる。万次郎は、鎖国と封建支配の徳川時代に西洋文明やアメリカの民主主義を日本に紹介した。人民が選挙で大統領を選ぶデモクラシーも伝えた。その一端は、いま放送中のテレビドラマ「龍馬伝」でも紹介された。わがブログでも「沖縄で愛される中浜万次郎」をアップしているので、関心がある人は見ていただきたい(2010年8月1日)。
それにしても、幕末にわずか半年滞在しただけで、こんな記念碑まで建てるとは、豊見城で万次郎がいかに親しまれているかを表している。万次郎が滞在した高安家5代目当主の高安亀平さんは「石碑の建立は非常にうれしく、誇りに思う」と喜んでいた(「琉球新報」23日付)。
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コメント
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万次郎は外国語が堪能だけあって、当時全然わからなかった琉球語も滞在中にすぐ習得して、村人とコミュニケーションがとれたそうですね。十五夜には地元の綱引きにも参加したとか。万次郎にとっては、琉球は「異国」ではなかったのかもしれませんね。「同じ日本人やき!」とかいう感じで。
投稿: いくぼー | 2010年9月25日 (土) 06時17分
半年いただけで、琉球語を学ぼうとする姿勢がすごいですね。日本といっても、万次郎は土佐にいただけで、10年も外国暮らしをしていたので、琉球に上陸しても、言葉はまるで通じなかったそうです。それに、鎖国の徳川時代ですから、琉球も「同じ日本人」という感覚よりも、日本に近い「異国」の感じだったではないでしょうか。当時、琉球から幕府に行く「江戸上り」の時、「異国」風俗の行列はとても珍しがられたそうですから。
投稿: レキオアキアキ | 2010年9月25日 (土) 08時20分
投稿: | 2011年8月22日 (月) 18時10分