琉球と中国の長い交流の物語(下)、その9
琉球は400年前、薩摩に支配されたが、薩摩は中国との貿易を続けさせた。琉球が薩摩に支配されていることは決して中国に知られたくない秘密だった。だから、冊封使が来ると、薩摩の役人はいまの浦添市に身を隠したという。
冊封使が来ることが決まると、琉球はあらかじめ中国側に、持参する品物について、持ってきてほしい物、持ってきてほしくない物など、分類して細かく注文していたという。また、琉球にきても遊女はいないので、よこしまな考えは起こさないでほしいと要望もしていたという。その9は、こんな内容である。
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コメント
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(*゚ー゚*)辻という遊郭があったけど、冊封使は利用しなかったんですか?そういえば病院に置いてある琉球劇画に、王朝時代の偉人伝が乗ってて、中国に留学したのはよかったけど、武術学術の研鑽の身にありながら、連夜唐人に誘われて遊女に逢って呆けていたっていうエピソードが出ていたけど、あれ誰の伝記だったかなあ?「福の木」診療所の待合室にあった劇画。覚えてます~?
投稿: いくぼー | 2010年9月 4日 (土) 16時35分
冊封使は接待の宿舎があり、遊郭には行かなかったのではないか、と思うけれど、随行する人は500人規模でいるから、遊郭で遊んだこともあったようです。「交流物語」でも書きましたが、首里王府は遊女を町中から追い払い、中国に対し「琉球に遊女はいません。よこしまな考えはもたないように」と伝えていたのです。病院でみた琉球偉人の劇画というのは、有名な政治家・蔡温ではないかと思います。留学もしているので。
投稿: レキオアキアキ | 2010年9月 4日 (土) 17時38分