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2010年9月27日 (月)

尖閣諸島を命名した高知人・黒岩恒さん

 中国漁船の衝突事件で尖閣諸島の問題が連日ニュースで報じられている。尖閣諸島が歴史的にみても、国際法的にみても、日本の領土であることは、明らかである。各島は行政区分では、石垣市登野城2390~2394の地番がふられている。

 この尖閣諸島に名前を付けたのは、実は1892年(明治25)から、教師として沖縄にきていた高知県出身の黒岩恒(ひさし)さんである。彼は、博物学者でもあった。

 福岡県出身の古賀辰四郎に依頼されて、尖閣諸島を探検した。1900年5月3日から20日まで、18日間かけて往復した。「尖閣列島探検記事」」を当時の『地学雑誌』に掲載した。沖縄県立図書館でこの「探検記事」を閲覧させてもらった。貴重な文献なので、別室で閲覧させられた。「余は窃(ひそ)かに尖閣列島なる名称を新設することとなせり」と記している。魚釣島の最高地点には、当時の県知事の名前をとり「奈良原岳」と名付け、他にも渓流、岬、岩など命名した。島の地質や生物を調べた。

 古賀は、尖閣諸島の借地請願を政府に出し、日清戦争後、30年間にわたる無償借地の許可を得て、島で開拓事業も行った。黒岩の調査結果が役立ったのだろう。

 この際、黒岩恒について書いた「知られざる高知人・黒岩恒」を2回に分けてアップする。興味のある方は、ご覧下さい。「上」は、彼が沖縄師範学校で、博物・農業教師をしていて、さらに北部・国頭の農学校の初代校長に就任し、とても慕われた校長だったこと。沖縄の動物、植物の採取と新種の発見を行い、「クロイワ」と名のつく動植物が数十種類にのぼること、沖縄の民俗にもとても関心を持っていたことなど、その業績を紹介している。

 「下」の方で尖閣諸島の命名者となったことや、黒岩が沖縄に永住を決めていたけれど、離れざるをえなかった経緯など紹介している。

 「kuroiwa1.doc」をダウンロード

 「kuroiwa2.doc」をダウンロード

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コメント

興味深く読ませていただきました。
「事件」が起きてさっそく調べられたんだなあと感心して最後まで読んだら、日付は1年半も前。
その先見性に二度びっくり。
心からの敬意を払います。

 ミヤギノツブヤキさん
 さっそくお読みいただきありがとうございます。これを書いた時、尖閣諸島がこんな問題になるとは思ってもみませんでした。だらか、これを書いたのは、ただただ偏狭な郷土愛のようなものです。黒岩の生まれた町でも、彼が郷里には帰らず、和歌山で没したこともあり、その存在と業績もほとんど知られていないのです。黒岩が、採取した植物標本を送った牧野富太郎はとても有名なのに、あまりに落差があり過ぎると思います。町の教育委員会にも文章を送りました。
 黒岩の記念碑が名護市に建っているので、見たいと思うけれど、場所がわかりにくく、名護の周辺の人に聞いてもわからず、いまだ見られません。そのうち、出合えることを期待しています。


はじめまして。

昆虫/動物写真家です。
恐らく、クロイワトカゲモドキが舌で眼を舐める映像は、私の撮影したものだと思います。

沖縄生物学の黎明期に活躍された黒岩恒さんには、以前からとても興味があります。
同時期に、石垣島測候所長を勤められた岩崎卓爾さんも同様です。
岩崎卓爾さんも、沖縄の生物の和名に多くの名前が残されています。
特に、セミに関しては黒岩恒さん同様3種(イワサキゼミ、イワサキクサゼミ・イワサキヒメハルゼミ)が残っています。

ところで、私の最大の関心事は、黒岩恒さんと岩崎卓爾さんが直接対面されたことがあるか否かです。
いくつか文献をあたりましたが、確証が得られません。
最大のチャンスは、尖閣諸島調査時だと思うのですが、何か情報をご存知ありませんでしょうか?

 クロイワトカゲモドキは映像見てよくわかりました。貴重な映像ですね。黒岩恒と岩崎さんの関係については、こちらも資料は見当たりません。尖閣諸島探検の報告文献では、拙文にも書いたとおり、宮島幹之助とともに探検したと記しており、黒岩さんは博物学なので、動植物から地質まで全般を調査しています。報告には、岩崎さんの名前は出てきません。調査を依頼した古賀辰四郎は石垣の岩崎さんのことを知らなかったかもしれません。尖閣調査とは別に、黒岩さんは明治31年12月、小学校教員検定試験のため、石垣島に渡航し、その任務のかたわら石垣島の地理の大要を観察して、地質学雑誌に論文を書いています。その時、対面したかどうかもわかりません。尖閣調査は、そのあとの明治33年です。
 なお、黒岩さんのことを研究している学者に、名桜大学の中村誠司さんがいます。「沖縄自然学の開拓者ー黒岩恒の人と仕事」という講演をされたりしていますね。

早速のご返事ありがとうございます。

当時の日本の昆虫学の第一人者は、北海道大学(一時東北大学にも赴任)教授の松村松年(まつむらしょうねん)さんです。
黒岩さんも岩崎さんも、標本を松村教授に送り(直接か否かは判りません)、同定して貰っています。
特に、互いの名前の冠されたセミの新種記載年は、重なり合っています。
当時、同じ沖縄県でありながら、交通事情、通信事情には不便なことがあったのは想像に難くありませんが、新種の記載論文の載った学会誌などを見ながら、お互いに意識していたのは間違いないと想像しています。

黒岩恒さんが、尖閣諸島調査のために石垣島で準備をしているときに、岩崎卓爾さんのお弟子さん(取り巻き)には会って、相談をしていたのではないかと思います。(確か、そうのような記録はあったように思います)
その際に、本人どうしが同席したのか否か?

 岩崎さんと黒岩さんは、北大の松村教授に標本を送ったり、雑誌などの論文を通して、お互いに存在を知っていれば、なんらかの接触はあったとみる方が自然ですね。私も、岩崎さんのことはまだよく知らないので、勉強させていただきます。
 湊さんの写真は、週刊新聞で「山原の森」を掲載されているのをいつも、楽しく見させていただいています。

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