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2010年10月

2010年10月31日 (日)

瓦屋の始まり、その2、、民謡に歌われる

 瓦焼きを琉球に伝えた瓦職人をめぐっては、有名な逸話がある。それは、王府が琉球にとどまることを要望した。瓦職人は、その条件に妻を望んだ。白羽の矢が立ったのは、言い交わした男性がいる女性だったが、王府の命令で彼とは生き別れになり、瓦職人の妻になったという。

 どこまでが史実なのか、伝説なのか、余りに昔のことなので真実はよくわからない。でも、有名な話なので、これをモデルにした民謡がある。すでに「愛と哀しみの島唄」でも書いたことだ。「瓦屋情話」(からやじょうわ)という唄で、サークルの課題曲にも入っている。歌詞は大要次のような内容である。

 「♪人に勝って美しく生まれた故に、見染められた 彼とは生き別れになり この浮世を恨みつつ行った苦しさよ 私の身体は瓦屋村にあるが 心はあなたのお側にあります 忘れようとしても忘れられない あたなの情け 瓦屋の頂に登って 真南を見ると 古里の村が見えるが あなたの姿は見えない」

     021_2琉球に瓦焼きを伝えた渡嘉敷家

 この唄は、古い歌ではなく、40年ほど前の作品だ。あくまで、王府の命令で引き裂かれた女性と愛する男性を主人公とした悲恋物語になっている。情け唄として、サークルでも、同僚のHさんは得意にしている唄だ。でも、その物語の舞台は、この国場の瓦屋であることは、知っているだろうか。

 この話も、渡嘉敷三良を主人公にすれば。まったく別の物語になるだろう。中国から帰化したのは、尚永王の時代というから16世紀だ。この時期、首里王府では「瓦奉行」を設けて、瓦や陶器の生産を管理するようになったという。三良が中国式の瓦製造を伝えたことは、その後の琉球の瓦製造に重要な役割を果たしただろう。1671年に、首里城の正殿はそれまで板葺きだったのが、瓦葺きになったという。それにあたった安次嶺親雲上(ぺーちん)は、渡嘉敷三良の4世だという。三良のお墓は、国場ではなく、国際通りの裏にある牧志の緑ヶ丘公園にある。まだ行ったことがない。これらは、ネットの「琉球墓列伝」「琉球シーサー紀行」で紹介されているのを参考にした。

2010年10月30日 (土)

瓦屋の始まり、渡嘉敷三良の家を訪ねる、その1

 赤瓦の木造の家。それは沖縄らしさのシンボルともいえる風景である。その沖縄の瓦焼きの始まりは、16世紀に中国から渡ってきた瓦職人が伝えたという。その名も渡嘉敷三良(とかしきさんらー)という。

 那覇の国場に住み、妻をめとり、陶舎を造り、瓦を焼いたという。その渡嘉敷三良の家が、なんとわが家の近くにあるというので、見学に行った。もちろん今は子孫が住み、現在18代目というからスゴイ歴史である。

     022 渡嘉敷家の正門。

 門をはいると、沖縄の伝統的な家には必ずある「ヒンプン」がある。家と門の間に立ち家の中が見えるのを防ぐ。左から回り入ると、赤瓦の家が見える。家にちょうどおばあさんがいたので、許しを得て、写真に撮らせてもらった。

   018_2 赤瓦の伝統的な家だ

 由緒ある渡嘉敷家は、ムートゥヤー(本家)と呼ばれている。家の中は、伝統的な間取りになっている。最初に瓦作りを沖縄に伝えた話を聞いても、なにか伝説上の人物のように感じていた。でも、現実にその家があり子孫が住んでいると思うと、なにか感慨深い。

     017家の前に立つコンクリート塀のようなものはヒンプン

 植木鉢の向うの正面の建物は、ムートゥの初代から先祖をまつるための神屋。つまり、18代にもなれば、子孫はたくさんいるので、本家では、ご先祖様をまつる拝殿のような神屋を敷地内の東側にわざわざ建てている。

     020 神屋の中の仏壇

 仏壇には歴代の先祖がまつられている。子孫の方がウートートゥ(拝み)に来るのだろう。でも、線香はたかないように注意書きがあった。

 琉球の史書でも「我国(琉球)瓦を焼くこと此れよりして始まる」(『遺老説傳』)と記している。渡嘉敷三良が琉球にとどまって瓦作りの技術を伝えることになった背景には、有名なエピソードがある。それは、もう長いので、次にしようね。(続く)

2010年10月29日 (金)

ドラフトで2名上位の指名に沸く

 プロ野球のドラフト会議で、沖縄出身の2人の選手が指名された。一人は、東洋大の伊志嶺翔太外野手で、俊足、強肩、強打と三拍子そろった選手。世界大学選手権で日本代表の主将を務めた逸材だ。ロッテ、オリックスが1位指名し、ロッテが交渉権を得た。

 伊志嶺君は、私達が沖縄移住したあと、沖縄尚学の選手として春夏の甲子園に出場した。宮古島出身だが、兄も弟も野球選手で活躍し、「野球三兄弟」だという。野手は、とかくホームランバッターばかり注目されるが、現実には伊志嶺君のような三拍子そろった選手が、もっとも大事な人材だ。きっと秀でたプロ選手になるだろう。

 もう一人は、糸満高校の宮国椋丞(りょうすけ)投手。甲子園には出れなかったが、Max147キロを投げ、将来性豊かな高校生。巨人から、なんと2位で単独指名された。伊志嶺君は予想されていたが、宮国君は、予想外の上位指名で、県内に驚きが走った。みんな大喜びだ。しかも、イケメンとしていまから人気がある。

 プロ球団からの上位指名といえば、2位までならわずか24人しかいない。その中に、大県でもない沖縄から2人も指名されたのは、やっぱり沖縄の野球レベルが、興南高校の春夏連覇の偉業に示されるように、確実にアップしている証だろう。

 春には各球団がキャンプインする。初めて巨人が新設された奥武山球場にキャンプにくる。大学№1といわれた沢村拓一投手がいるので、ファンも報道陣も詰め掛けるだろう。ハンカチ王子の斎藤祐樹投手は、日ハムが交渉権をえた。日ハムは名護市でキャンプするが、ダルビッシュ有投手が大人気で、日ハムキャンプにファンが詰めかける。来年はそれに、斎藤投手が加わると、超人気コンビ。いまからフィーバーぶりが予想される。オープン戦ともなれば、高速道の出入口、許田インターが大渋滞になりそうだ。

 その一方で、意外だったのは、来年春の選抜大会の出場がかかる高校野球の九州大会で、沖縄の2校がいずれも敗れて、準決勝に進めず、選抜は絶望になったことだ。興南、沖縄尚学という強豪だったのになぜ。まあ九州は高校野球のレベルが高い。その中で、今春の甲子園にも沖縄から2校が出たし、春夏連覇だったから、九州各校からも目標にされ、研究もされているだろう。でも、これから来年にかけ、大いに成長するに違いない。

 

2010年10月28日 (木)

ローカルヒーロー、琉神マブヤー

 沖縄のローカルヒーロー、琉神マブヤーが大人気である。といっても、大和ではほとんど知られていない。2008年10月から琉球放送で放送され、人気が出て一躍、ヒーローになった。「マブイ」とは魂のこと。平和に見える沖縄。その影で悪の軍団・マジムン(魔物の意味)が現れ、伝説の9つのマブイストーンを狙っている。沖縄の危機にマブイストーンを守る正義のヒーロー、琉神マブヤーがたたかうという物語だ。

 といっても、何が面白いのか、見てない人にはわからないだろう。その面白さは、徹底して、沖縄の言葉や民俗、歴史にこだわって作られているところだろう。琉神マブヤーは、海のかなたの神がいる楽園、ニライカナイからやってきた魂の戦士だ。彼が守るマブイストーンは、沖縄を象徴する民俗、精神のシンボルである。例えば「石敢當(いしかんどう)のマブイストーン」が奪われれば、魔よけの石敢當の神通力がなくなり、事故、災害が多発する。「エイサーのストーン」は、エイサーが踊れなくなる、一大事だ。「イチャリバチョーデーのストーン」は、「一度出合えばみな兄弟」のウチナー精神が消え、「人類はみな他人」と思うようになる。「命どぅ宝のストーン」は、なにより命を宝として大切にする精神は失われ、命を軽く考えるようになる。つまり、9つのマブイストーンが悪の軍団に奪われれば、沖縄は崩壊し消え去ることになる。

 悪の軍団のメンバーもいかにも沖縄らしい。首領は「ハブデービル」、デービルは、英語では悪魔だが、沖縄語では「○○でございます」という意味だ。副首領は「オニヒトデデービル」、紅一点で「マングーチュデービル」もいる。マジムンが持つ武器がスゴイ。マングーチュが持つ「マジムン三線」は、その音色で相手をたたかえなくする楽器だ。「マジムン台風」は、沖縄を吹き飛ばすほどのモーレツな威力をもつ台風である。

 そんなマジムンとたたかう琉神マブヤーの必殺技もスゴイ。「スーパー・メンゴーサー」は強烈ゲンコツをくらわせる。「ティーダ・ヤーチュー」は、指笛を吹くと拳が太陽(ティーダ)のような炎を飛ばしお灸(ヤーチュー)をくらわせる。ゴーヤーヌンチャクは、相手を健康にしながらたたかう。カメカメー攻撃は、沖縄おばあが「食べろ食べろ」と強引に勧めるのにならい、相手にしつこく食事をすすめ疲れさせる必殺技という具合である。

 このようにすべての設定が、沖縄色に彩られ、ドラマを見ていれば、沖縄の言葉、民俗にも強くなるのだ。なによりも、琉神マブヤーは、沖縄の平和を守るために力の限りたたかうヒーローである。まことに頼もしい。

      031  那覇まつりのオリオンビアパラダイスで歌うアルベルト城間、ディアマンテス

 テーマ曲「琉神マブヤー、魂の戦士」は、アルベルト城間が歌う。とってもノリのよい曲だ。彼がリーダーのディアマンテスのライブでは、必ず歌い、盛り上がる。いま、「琉神マブヤー2(ターチ)」が放送中だ。ドラマには、お笑集団・FECなどの芸人がたくさん出演して活躍中である。

 沖縄のまつり、イベントでは琉神マブヤーは引っ張りだこだ。マブヤーショーがあるとなれば、親子がぞくぞく駆けつける。でも、面白さは子どもだけではないのである。

 平和を脅かすマジムンといえば、現実の沖縄では、巨大な米軍の存在がある。悪質な事件や事故、騒音などが日々、県民の命と健康、暮らしを脅かしている。琉神マブヤーは、どう思っているだろうか。でも、米軍はマブイストーンを狙っているわけではない。だから、マブヤーの力にすがるのではなく、人間の力で解決しなければならない問題だろう。

 

2010年10月27日 (水)

歌いながら働こう

 「踊る気持ちで働きましょう。歌いながら働きましょう」。こんな言葉に出会った。誰の言葉だろうか? これは、全国的知られる沖縄民謡の「安里屋ユンタ」の作曲家である宮良長包さんの表現だ。宮良さんといえば、石垣島に生まれて、近代沖縄音楽の先駆といわれたり、「沖縄のフォスター」とも評される人だ。教育者であり作曲家でもある。

 長包さんは、「八重山は昔から詩の国歌の国、舞踊の国であった」という。さらに八重山は、「歌謡美を以て世界に誇っている。実に八重山文化の一要素、重大部面をなしているのは音楽である」と述べている。その八重山の古謡、民謡をベースにしながら、新しい民謡、歌曲をつくりだしたことで知られる。「えんどうの花」「汗水節」「なんた浜」その他、作品は数多い。

 その宮良長包著作集を読んでいたら、冒頭に引用した文章に出合った。 「あらゆるものの出現、存在、流動の前には必ずリズムがある⋯⋯万物はリズムの支配を受けている。このリズムの波に従うことに依って快楽は始まり、この波に逆らうことに依って苦痛は起こると申されている」「リズムは音を通じて音楽を生み、運動を通じて舞踊を生んだ。而して舞踊のリズムを強調してアクセントを強めたものが作業であると見る事が出来よう。して見れば、音楽と舞踊はリズムの双生児であり、舞踊の変形である作業は又音楽と共にリズムを母とする兄弟である」。なかなか、含蓄のある考察ではないだろうか。

 実際に、八重山では歌謡の一つである「ユンタ」(読み歌が転訛)は、人頭税を納めるため、ユイマール(共同作業)のとき、交互に歌って、作業の能率も上げたという。遊びの時も交互に歌い合った。「踊る気持ちで働く、歌いながら働く」というのは、絵空事ではなく、八重山では、かつては当然の姿だった。その中から、たくさんの歌謡が生まれたのだ。

 「昔の八重山は農業で富み、ユンタで栄えた。現代の八重山はユンタを忘れて生の潤いを欠き、ユイ(共同作業)を怠って個人主義に傾かんとするのではなかろうか」と手厳しい。「ユンタは労働を享楽させ、ユイ(共同作業)は共存共栄の美果を収めるものである」と強調している。

 これが書かれたのは、1932(昭和7年)であるから、もう80年近くも経っている。その後の変化はさらに大きい。でもここには、いまなお、歌謡や舞踊と労働の関係、ユイマールについて、耳を傾けるべき大事な指摘があると思う。

2010年10月26日 (火)

木枯らし一番と焼いも

 今日は大和では関東地方など木枯らし一番が吹いたという。沖縄も月曜までの夏のような暑さは様変わりして、ミーニシ(北風)が吹いた。でも最高温度は26度。やっと夜もエアコンなしで過ごせそうだ。

 木枯らし一番のニュースで、埼玉で焼いも屋が営業を始めた、暖かくて美味しいとレポーターが騒いでいた。でも、なんで今頃、石焼いも屋なの? 沖縄ではずっと前、暑い夏でも焼いも売ってるよ。暑いのに「石やーきーいもー」と、軽四トラックの荷台に焼いもの機具を積んで走り回っている。夏からというのは不正確だ。年中、石焼いもは売っている。疑問がある方は、那覇市の与儀公園に行けばよい。市民会館の入り口のところで、夏でも冬でも、年中無休で営業している。この場所は、絶対誰にも渡さない、といわんばかりの熱心さだ。

 大和では、前は夏はアイスキャンデーを売り、冬は焼いも屋に変身するというのが通例だった。沖縄は、年中、焼きいも屋は焼いも専科のようだ。

     002 これは那覇市寄宮を走る石焼いも屋

 焼いもは、沖縄のスーパーでも年中、きらさない。野菜売り場には必ず置いてある。なぜ、これほど、ウチナーンチュは焼いもが好きなのか。それを話すと長くなる。簡略に書く。

 サツマイモと呼ばれる甘藷は、ブログで前に紹介したが、400年前に嘉手納出身の野國総監(のぐにそうかん)が、当時はまで国外持ち出し禁止だった甘藷を中国から持ち帰った。それが、琉球で栽培されて、多くの人々を飢餓から救ったという。その後、琉球に侵攻してきた薩摩が、この甘藷を薩摩に持ち帰り、それがのちに江戸の青木昆陽によって紹介され各地に普及することになった。だからサツマイモと呼ばれているにすぎない。

 沖縄では、長く庶民の主食が芋だった。沖縄民謡にも「芋の時代」という曲がある。

「♪三度三度ぬ はんめーや 芋とマース小し 腹みちて 命ちなぢゃる あぬ志情や 忘てーならんさ 親ぬ恩義 いちぐいちまで 忘んなよ」。意訳すればこうなる。「♪三度三度の食事は 芋と塩でお腹を満たし 命をつないだあの情け 忘れてはならない親の恩義 いついつまでも忘れるなよ」。 

 というわけで、沖縄にとっていもは大切な食糧であったし、子どものころからみんな、いもに親しんできた。いまでも、沖縄のいもは、とてもたくさん種類がある。JAの野菜直売所に行くと、いもだけ並べた棚がデーンと広く場所をとっている。

 そういうわけで焼いもは、おばあも大好きだ。暑さも関係なーい。逆に「大和ではなんで寒い時しか食べないのか?」と言われそうだ。なんでかねー。

2010年10月25日 (月)

なぜか、沖縄はマラソン王国だった

 この暑い沖縄が、知る人ぞ知るマラソン王国だとは、移住するまで知らなかった。とにかく、マラソン大会が多い。さすが、ガンガン照りの真夏はなかったが、秋めいた10月には、各地でマラソン大会がはじまった。それも、島ごとにマラソンがある感じだ。それぞれ特色がある。10月23日、北の離島、伊平屋島(いへやじま)で、十六夜の満月を見て走る「ムーンライトマラソン」があり、1551人が月夜を駆けた。まだ夏のような暑さなので、ムーンライトのマラソンは気分良かっただろう。

    001 ムーンライトマラソンを報じる琉球新報10月25日付   

 24日には、久米島マラソンと宮古島の東平安名崎(ひがしへんなざき)タートルマラソンがあった。宮古島では、31日に初のフルマラソンがある。

 離島といえば、11月13日、与那国島で日本最西端与那国島一周マラソンがあり、281人がエントリしているという。来年になれば、1月に石垣島マラソン、渡嘉敷島では2月5日、鯨海峡とかしき一周マラソン、2月に、「西表の大自然を走ろう」と竹富島やまねこマラソンがある。離島では、マラソンが島に来る客を増やすための一大イベントになっている。走るランナーにとっては、離島の自然を見ながら走るのはキモチイイだろう。

 本島では、11月7日、南城市の尚巴志(しょうはし)ハーフマラソンでスタートする。尚巴志とは、南城市佐敷の出身で、琉球を初めて統一し第一尚氏の王朝を打ち立てたヒーローである。このあと、中部トリムマラソンが11月21日、NAHAマラソンが12月5日にある。那覇は昨年は3万人を超えて、あまりに参加者が多くなりすぎて、ことしは2万5000人の定員で募集を打ち切ったそうだ。南部5市町を回るが、わが家のすぐ近くを走るので、毎年見ている。

 さらに、来年は県内唯一の日本陸連公認の競技マラソンといわれる、沖縄市を中心としたおきなわマラソンが3月にあり、糸満市のなんぶトリムマラソンも3月にある。

 これで全部ではない。まだまだある。全部で県内のマラソン大会は20を超えると聞いた記憶がある。沖縄のマラソン大会をまとめた本まで出ている。

 沖縄のマラソンならでは不思議がいつくかある。

 沖縄市のおきなわマラソンは、なんと嘉手納基地の中を走ること。コース設定がわざわざ基地の中を走ることになっている。アメリカーも応援する。これで「日米親善」なのかねー。

 応援のためにたくさんの市民が沿道に出るのは、どこでも同じだろう。でも、沖縄では、三線をもって沿道に行き、弾き鳴らして歌って応援する。現に知人のKおじいもその一人だ。

 マラソン大会の開催要領の中に、「犬を放さないでください」と市民に呼び掛けること。「何、これ!」と思ったが、沖縄は放し飼いになった犬が、しょっちゅう交差点を歩いている。横断歩道を渡っている。きっと、マラソンでたくさん人が走れば、興奮して吠えかかってくる犬がいるのじゃないか。もっともだ。犬は鎖につないでくださいねー。

 この暑い沖縄で、走ればもっともっと暑いのに、なぜかマラソン参加者が多い。これが一番の不思議かもしれない。近くの公園でも、たくさん市民ランナーが毎日、練習している。マラソン大会のロゴ入りのTシャツを着て走る人も多い。

 最後の不思議。マラソン好きが多く、大会も多いのに、全国大会ではマラソンがとっても弱い。なにしろ高校駅伝では、男女とも沖縄の高校は、毎年、ビリ争いから抜け出せない。

 まだ、トライアスロン大会も4月に、宮古島、石垣島である。まあ、そんなわけで、マラソンシーズンがはじまったのである。

2010年10月24日 (日)

団扇がなければ祭りじゃない

 沖縄のまつりには、団扇が欠かせない。こう言うと、「なに、それ!」と言われそうだ。団扇は、日本のどこでもある。沖縄だけじゃない。でもでもでもでも、沖縄のまつりは、春でも夏でも秋でも、とにかく暑い。だから、まつりの出し物、芸能、競技その他、長い時間かけて見て、飲んで、食べて楽しむのに、野外では団扇がなくては、過ごせないのだ。

 というわけで、金、土曜日に行った産業まつりでも、ビアガーデンは大型テントで日陰にはなっていても、秋とは言えテントの下は暑い。31度になり、もう真夏並み。おちおち食べて飲んでいられない。そこでやっぱり、「団扇下さーい」と本部に行った。沖縄電力の広告の入った団扇を「はいはい、どーぞ、持って行って下さい」と係の人が快くくれた。

     004 10月9,10日の那覇まつりの団扇

 というわけで、もう那覇ハーリーから、那覇まつり、産業まつり、青年エイサー祭り、大綱挽き、その他、団扇は数知れずある。

     005 那覇ハーリーの団扇

 なぜか、中でも那覇ハーリーの団扇が多い。団扇は全部取ってあるわけじゃない。これらはその一部である。

     008なは青年祭の団扇。

 なは青年祭のは、毎年のデザインが同じなのが変ですね。まつりといえば、最後は花火。だから花火をあしらった団扇も多い。

     006  まつりに花火はつきもの

 団扇といっても、だだで作れない。だから必ず、裏面には、ビールや泡盛、電力、不動産、携帯電話、その他のコマーシャルが必ず入っている。それで大量の団扇が無料で配布されるというわけである。

     011 企業宣伝だけの団扇もある

 かくて数年にしてわが家は、収集しているわけじゃないのに、団扇はたまる一方である。すでに30本を超えた。そういえば、サークルで通う福祉センターには、この20年来の団扇がもう数えられないくらい集まっている。昔から沖縄に住むウチナーンチュの家には、いったいどれほどの団扇があるのだろうか?

    002_2これがわが家の団扇

  これですべてではない。いろんなまつりに行っているので、もっとあるはずなのに、あるべきものがまだない。捨ててしまったのか?しかし、この先、もっともっとまつりに行く。団扇は貰う。もっともっとたまる。さてどうすべきだろうか。悩ましーい!

 まあ、これがウチナー団扇事情の一端である。それにしても、暑いからといって、サークルの日に、冷房を21度に設定して、ガンガンに冷やす。これだけはやめてほしい。「もう団扇でいいじゃないか」と言いたくなるこのごろである。

2010年10月23日 (土)

お墓も売っている産業まつり

 楽しい産業まつりに、二日目も出かけた。真夏のような暑さ。そのなかでも沖縄ならではの店を歩いた。沖縄といえば黒糖。さすが、サトウキビの刈り取りは冬場で、まだシーズンには早いので、搾り取るところはやっていないが、絞った汁を煮詰める工程をから実演している。煮詰めた汁を乾かして黒糖にして販売する。固めた黒糖も売っていた。

    144 サトウキビの汁を煮詰めている

   143  サトウキビ汁を煮詰めて乾かした黒糖の固まり

  沖縄オンリーワンのビールといえばオリオンビール。キャンペーン中の糖質ゼロが売りの「ゼロライフ」を無料で配布。幾缶もらったかなあー。二日でたくさんもらっちゃいました。

  159 キャンペンガールがビールを配布していた

 他県とゼッタイ違うのは、産業まつりでお墓を売っていること。お墓をとっても大事にするし、それも大きい墓が特徴の沖縄。墓を売る石材店は、一大産業なのである。

  149 産業まつりの特別価格で売っている。でも200万ー300万円はするよ。大きいからね。  

  墓だけ買っても、墓地がない人もいる。だから、墓地も売っているサー。

  168_2 霊園販売といえば、都心から遠い農村部が多いけれど、こちらは首里、真嘉比は那覇の中心部だ。

 大きな墓は、前は男系血族組織の門中墓(むんちゅうばか)が多かったが、今は家族墓が多いという。

 お墓売り場の隣は、植木市である。これも沖縄ならではの植木が並ぶ。

   163 ソテツ1鉢1200円。かつては飢餓の時の非常食になった。戦前には、ソテツ地獄と言われた時代もありましたね。

   164 バナナの苗木。みんな庭によく植えてますね。

     166 奇妙なバナナ。房がくっついていて離れない。「これ食べれるの?」と聞くが、店員は「買うのー?」というだけで答えない。

 本日の食べ物の一押しは、テビチのから揚げでした。豚足をから揚げして、タレをからめている。美味しいが、骨ばっか。肉がシニ少なーい。

  158 てびちから揚げの店。普通はテビチは煮付けだから、から揚げはこの店だけだった。でも煮付けで十分でした。

2010年10月22日 (金)

なぜか楽しい産業まつり

 沖縄県産品を一堂に集めた産業まつが22日、始まった。ことしで第34回。「美ら島の 元気の素 県産品」がテーマだ。470の企業、団体、個人が集まるから規模はデカイ。昨年は台風がきて、途中、中止になった。ことしも、ヤバイ予報だったが、幸い初日から天気は回復。暑くもなく絶好の祭り日和になった。

     021 出店はにぎわう

 産業まつりの楽しみの一つは、泡盛の試飲だ。県内の泡盛メーカーが味を競う。さっそく軒並み、試飲をしてみる、初日だから客が少ないので、応対の側も、わが社の泡盛のよさを熱心に語る。だから、自慢の古酒(くーす)、8年、10年、12年ものなど惜しげもなく試飲させてくれる。12年物など、驚くほどマイルド。新しいものは、刺激があり味に角がたつ。古いほどまろやかだ。どれも美味しい。

     007 各メーカーが味を競う

 産業まつりならではの楽しみは、酒造メーカーが市販されていない、原酒など持ってきて試飲、販売することだ。写真は、久米仙の原酒44度。小売りもする。原酒をいろいろ試してみた。それぞれに味わいがある。この日の一押しは崎山酒造の泡盛。なにか違う味がする。洋酒のような瓶づめされている。「ラム酒のような感じではないですか」というがなるほど、そんな感じがした。

        009 これは久米仙の原酒

 でもやっぱり、まつりで飲むのは工場直送のオリオンビール。食べ物は、本部牧場の焼肉と豚肉の串焼き。とくに本部牧場の牛肉は、信じられない柔らかさ。「まーさんどー!」だ。

   011 本部牧場の美味しい牛肉とビール

    014 ビアガーデンも初日は空いている

 県産品ならなんでも売っている。もちろん三線も売っているし、なぜかオヤジたちが、何人も三線を弾いて呼び込みしていた。

  024 呼び込みする三線屋のオヤジたち

  ただし、産業まつりは芸能の舞台の見物が少ないのが難点だ。でも、これで終わりではなく、また出かけようねえ。近くだから。まだ見てないところもたくさんあるし。

2010年10月20日 (水)

ミラクル・ロッテにわく

 パリーグのクライマックスシリーズで、ロッテがソフトバンクに勝ち、日本シリーズへの進出を決めた。それがなぜ、沖縄で話題なのか。それは、プロ野球の各球団は、春のキャンプに沖縄各地にきている。ロッテは、石垣島を使っている。だから、CSでも、石垣島の市役所にファンが集まり、熱烈応援をしていた。ソフトバンクは、パリーグ1位だから、1勝のアドバンテージがある。ロッテは、パリーグ3位にようやく滑り込み、西武には2勝したが、劣勢はいなめなかった。それが、ソフトバンクに3勝2敗で王手をかけられてから3連勝である。だから、「ミラクル・ロッテ」と言われたのも当然だ。

 ロッテは、石垣でキャンプをしているだけでなく、石垣の八重山商工でエースとして、春の甲子園に出場した大嶺祐太君がいる。弟も今年からロッテに入団した。だから、石垣・八重山では、ロッテとのつながりがある。大嶺君は、ことしは活躍はいまいちだったが、重要な第5戦に先発した。1点とられたが、2回は投げてあとのリリーフにつないで、見事逆転勝利した。長くは投げられなかったが、大嶺君が先発できたことに、沖縄のファンは満足し、大嶺君も重要なCS戦で先発に使ってくれた監督に感謝していた。次は、大嶺君も日本シリーズへの初の挑戦である。

 もう石垣島のファンは、千葉ロッテの応援ツアーを組むという話だ。また、CS戦で2勝挙げ、貢献した成瀬投手は、「竹富島やまねこ観光大使」に任命されているそうだ。また、地元のオリオンビールのコマーシャルでは、大嶺君と井口選手、前はバレンタイン監督も起用されていた。そんなわけで、ロッテの活躍は、大いに沖縄では話題であり、期待している。

 プロ野球の球団では、日本ハムが最初に沖縄にキャンプにきた。名護市である。先日、大沢親分と呼ばれた、日ハムの元監督が亡くなった。その葬儀には、稲嶺名護市長も駆け付けたようで、テレビの報道で顔を見かけた。来年からは、巨人もキャンプに来る。ただ、パリーグでは、CS戦でロッテに敗れた、西武とソフトバンクは沖縄に来ていない。だから、ロッテへ応援が大きかったというわけである。

2010年10月16日 (土)

沖縄そばの不思議

 10月17日は「沖縄そばの日」だそうだ。沖縄そばの不思議の一つは、蕎麦粉を使っていないのに、「沖縄そば」と名乗っていることだ.。そこには「沖縄そばの日」にかかわる由来がある。もともと沖縄そばは、明治後期に「支那そば」が売り出され、その後、沖縄そばになったという。日本復帰した後、1976年に公正取引委員会から、蕎麦粉を30%以上使っていないと、そばを名乗れないとクレームがついた。沖縄そばは小麦粉100%である。でも長年「沖縄そば」として、県民に愛されてきた。このままでは「沖縄風中華麺」の名前になりかねない。業界の関係者が強く働き掛けた結果、1978年10月17日、「沖縄そば」の名称が正式に認定されたそうだ。この歴史的な日にちなんで「沖縄そばの日」がつくられた。

 001_3 北谷町の浜屋の軟骨ソーキそば

 不思議のその2は、暑いのに「冷やし沖縄そば」がないことだ。大和では日本そばは夏向きに「ざるそば」がある。ラーメンだと「冷やし中華」がある。でも沖縄は、どんなに暑くても、アチコーコーの沖縄そばを食べる。

 不思議のその3は、そば屋のメニューに「ぜんざい」があることだ。ぜんざいといっても、大和のように小豆ではなく、金時豆を煮て、その上にかき氷を盛る。「アイスぜんざい」である。なぜそば屋にぜんざいなのか、よくわからない。でも、熱い沖縄そばを食べた後、アイスぜんざいは、デザートとしてもってこいだ。以上、不思議といってもたいしたことはない。

 最初に、沖縄そばを食べたのは30年ほど前だ。あまり美味しく感じなかった。でも、10年ほど前、離島に夏休みで行った時、ペンションのおかみさんが、シーズンオフで暇なときは、本島で美味しい沖縄そばを食べるのが楽しみだと話していた。「美味しい沖縄そばってあるんですか」とぶしつけにも聞いた。「あるのよ。美味しいところは、とっても美味しいよ」と答えた。

 5年前、沖縄に移住してから、「沖縄そばはどこの店が美味しいの?」とウチナーンチュに聞いた。教えてもらったのが、近くのそば屋だった。「ああ、ホントに汁も麺も三枚肉も美味しい」と納得した。しかも、フーチバー(よもぎ)を好きなだけのせてよい店だった。そこから、沖縄そばめぐりがはじまった。北の国頭村から南の糸満市真壁まで50軒くらいは食べただろうか。味は、店によっていろいろだ。評判だけでもわからない。実際に食べてみないとわからない。テレビで、人気1位という北部の店をたずねた。「これはもうラーメンじゃないか」。とってもラーメンっぽい味だ。これなら、ラーメンを食べればいいじゃないか。

 沖縄そばといっても、いろいろである。宮古そばは、麺の中に具が隠されている。面白いそばだ。八重山そば、大東そばもある。本島北部のそばは、たいてい味が濃厚である。汁も三枚肉の味付けも濃い。以前、八重瀬町のおいしい沖縄そばを食べた。削りカツオ節がのせられ、風味があった。そのそば屋を知る知人に「あそこのそばは美味しいですね」と言うと「あそこはちょっと薄味だよ」と否定的だった。沖縄では、大和のような繊細な味、薄味は好まれない。これも暑さのせいかもしれない。

   032 読谷村の沖縄そば屋「番所亭」

 沖縄で日本そばをたべようと思うと苦労する。沖縄料理は中国の影響を受けているのに、ラーメン屋は少ない。増えているが、沖縄そばを食べていると、ラーメンを食べたいと思わない。前にあった「喜多方ラーメン」の店は撤退した。近くの中華料理店も閉鎖になり、沖縄そば屋に代わった。

 沖縄そばは、県民がもっとも好きな料理の一つである。沖縄の風土が生み出した味だろう。こだわりの沖縄そば屋が増えているようで、沖縄そばも進化している。まだまだ知らない美味しい沖縄そばがあることだろう。

2010年10月14日 (木)

これって、貧困ビジネス?

 テレビやラジオで毎日、「借金でお悩み方 無料で相談に応じます」「払い過ぎている場合、取り戻せる場合があります」と、朝から晩まで、CМが流される。「○○法律事務所」「△△司法書士事務所」「◇◇弁護士事務所」と、宣伝するが、ほとんど県外の事務所ばかりだ。

 なぜこんなCМが多いのか。沖縄は全国的にみても、サラ金被害者、多重債務者など多いという。県民の所得平均が全国でも最低だ。失業率は全国平均の2倍近くもある。借金で苦しむ人が多い背景には、貧困がある。

 サラ金は、利息制限法上回る金利で借りている人が多い。たいてい、払い過ぎているので、請求して取り返すことができると聞く。沖縄では、以前から「沖縄クレジット・サラ金被害をなくす会」が活動している。でも、CМを流している法律事務所、司法書士らは、無料で相談にのるというが、ボランティアでやっているのではない。洪水のようなCМを見ていると、CМ費用は莫大な額にのぼるだろう。CМ費用は彼らにとって、投資にあたるだ。無料で相談にのっても、過払い金請求によって、払い過ぎた利息を取り戻せば、報酬が大きいということだろう。

 気になるのは、被害者と相談にのった事務所との間で、しばしばトラブルが起きていることだ。「弁護士が直接、相談にのってくれない」「費用の説明がなかった」「成功報酬が4ー6割もとられて」「高額の着手金を支払ったのに、なかなか着手してくれない」「過払い金の請求が満額でなく、半額とかで勝手に和解された」「取り戻した返金額がごまかされた」などなど。

 いま、過払い金の請求は、割合簡単にできて、取り戻した場合の報酬も大きいことから、法律事務所などにとって、よいビジネスになっていると聞く。でも、相談した人は、生活が苦しくてサラ金に手を出さざるを得なかった人が多い。相談にのって取り戻すことは、いいけれど、それに悪乗りして荒稼ぎをするのでは、結局は「貧困ビジネス」である。民放側にとっても、広告が少ない中で、これらの大量のCМはよいお得意さんになっている。

 CМを聞くたびに「これでよいのだろうか」と疑問を感ぜざるを得ない。

2010年10月12日 (火)

永良部の子守歌

 沖縄の子守歌の不思議を書いたけれど、鹿児島県の沖永良部の子守歌を聞くことができた。とってもいい曲ですっかり気に入った。

 「♪眠れと言ったけど誰が泣けと言った 私が守をするから眠りなさい ヨーヒヤ童よ」「♪石の上に土を置いて 土の上に花を植えて 花が咲いたら わが子にあげよう」と歌う。歌詞はとても長い。奄美諸島の島唄は、裏声を使い、三線も技巧的で、大和の三味線に近い。沖縄の民謡とは、まるで歌も三線も違う。でも、沖永良部島や与論島などは、沖縄に近いので、島唄も沖縄に近い感じがあるそうだ。この子守歌も、メロディは沖縄の島唄に近いと思う。沖永良部といえば、「永良部百合の花」も、沖縄でもとても人気があり、よく演奏される。

 鹿児島の子守歌は。やはり大和の子守歌とは違うそうだ。「『日本の子守歌は、なぜあんなにも暗く悲しいのか』という問いかけが、しばしばなされる。だが鹿児島県の子守歌に限って、その問いかけは無用である。じめじめとした所は更になく、うたい方も一見ぶっきらぼうである」という。なぜだろうか。日本の子守歌も「江戸期の身分制確立までは、もっと愛情ゆたかなものではなかっただろうか。薩摩は総体的に貧乏であったため、他県のような貧富の差がなく、子守り奉公の習慣もなかったようだ」という。久保けんお氏が「鹿児島沖縄のわらべ歌」で指摘している。

 それ以上に、沖永良部島は400年前の薩摩の琉球侵攻までは、琉球王国だったし、沖縄本島とはすごく近いの、沖縄的の影響が強いのだろうか。でも、永良部の子守歌は、とても哀しい内容もある。「♪私を産んだ親は 産んだという名目だけで 雲や風になってしまったのか 行方が知れません」と歌う。

 この「永良部の子守歌」は「ユーチューブ」で見ることができる。その映像でみる風景は、赤瓦の家の集落で、沖縄とそっくりだ。まだ、沖永良部島には行ったことがない。一度行ってみたいものだ。

 

2010年10月11日 (月)

ディアマンテスに酔う

 那覇まつりのオリオンビアパラアダイスに出かけた。この日は、サザンバンド沖縄、アイオラに続き、ディアマンテスがステージを盛り上げた。ディアマンテスは、ペルー移民3世のアルベルト城間のボーカルを中心にしたラテンバンド。ペルーから来日し、日系人を中心に沖縄でバンドを結成して20周年だという。

 「シェリトリンド」「花祭り」などラテン曲を次々に演奏する。そのノリのようさは最高だ。なぜか、10月といっても暑い沖縄の開放的な気分に合う。やはり、南の島、沖縄はスペインや南米などラテン的な感情、雰囲気が近いものがあるのだろう。もちろん、ウチナーの創作曲もいくつも歌う。「琉神マブヤー」「片手に三線を」「勝利のうた」など奏でると、聴衆はおじさんから浴衣姿の女性まで、もう最高の盛り上がり。最後は、総立ちで踊りまくった。

  042 総立ちになって踊る聴衆

 「片手に三線を」はヒット曲だが、いい歌だ。「♪遠く聞こえる 潮風は 海のかなたへ 夢運ぶ この故郷から 旅立ってゆく 満たせぬ心 包んできた」

 「♪哀しく 繰り返してきた 思い出を 気持ちを高めて 輝く 未来へ 変えてゆこう 青年(ニセター)よ 三線片手に弾き鳴らし 平和も求めて 共に この船で旅立とう」。

 アルベルト城間の体験を交えた思いがこもった歌である。

2010年10月 9日 (土)

那覇大綱挽き

 9,10,11日の三日間、那覇まつりである。とくに10日は、ギネスブックで認定された世界一の大綱を引き合う。大綱は、全長約200m、重量約43トンもある。国道58号線は、大綱挽きができるように、中央分離帯を撤去して、綱を横たえる。

 那覇の大綱挽きは、戦争を含め長く途絶えていた。1971年に復活したので、ことしで40回を迎える。市民参加の綱挽きだが、とにかく人出が多い。20万人を超える人出だ。なぜか、アメリカーもたくさん出てくる。力持ちだ。スケールだけはデカイ綱挽きだ。その前に国際通りでは、旗頭行列がある。綱挽きはじまると勝負は早い。移住して最初の年に見に行ったら、現地に着いたらもう終わって、みんな小綱を切って持って帰っていた。でも余りに人が多いので、ことしも見に行かない。市民フェTバルもあり、そちらに出かける。

 忘れてはならないのは、10月10日といえば、1944年10月10日、那覇市を中心に5波にわたる空襲を受けたことだ。那覇は空襲で市街地の9割が焼失した。県全体で死者600人、負傷者900人、家屋の全焼は1万1500戸にのぼった。沖縄戦はここから始まったのである。この那覇空襲の10月10日、那覇大綱挽きは復活した。本来、沖縄の伝統の綱挽きは、旧暦8月15日の満月に行われる。でも那覇大綱挽きは、あえて戦禍の日を選んで、復活した。そこには平和の願いが込められているだろう。戦争と米軍占領の荒波を、市民、県民は「ヒヤミカチ精神」で、「エイっ」と気合いを入れて、乗り越えてきた。綱挽きも平和であってこそ、みんなが力を合わせて楽しめるのだ。

2010年10月 8日 (金)

嘉手納基地が普天間にくる?

 米海兵隊の基地である普天間飛行場に、米空軍嘉手納基地のF15戦闘機などが飛来し、騒音がひどくなっている。5日には、123.6デシベルと過去5年間で最悪を記録した。この騒音は、航空機のエンジンのそばにいる状態に近く、人間の聴覚の限界に迫る音量だという。100デジベル以上の騒音は、5日までに27回に及ぶ。これは、人間が耐えられる限界を超えている。

 普天間は海兵隊だから、ヘリコプターや輸送機は飛ぶ。その騒音がひどくて住民は爆音訴訟を起こしている。裁判でも世界一危険な基地と認められたばかりだ。でも本来、戦闘機はない。それが、嘉手納基地の2本ある滑走路を補修するため、緊急時には普天間飛行場とさらに那覇空港も使うという。米軍は「ダイバート」、目的地変更と呼んでいる。10月から始まり、1年半も使うという。米軍の勝手な理由だ。最近では、ヘリコプターと重なり合うように戦闘機が飛ぶという。異常きわまりない。

  5日は、F15の2機編隊で、地面すれすれまで降下し、着陸せずに飛び去る訓練を繰り返したという。これは「緊急時にダイバートがなされる」という米軍の説明とはまるで異なる。普天間は、嘉手納基地よりも狭い。周辺に公共施設から住宅が密集しており、戦闘機による騒音は、嘉手納基地以上にひどいという。ヘリだけでなく、戦闘機の墜落などの危険もある。

 普天間基地の返還をめぐって、嘉手納基地に統合するという案が出たことがあった。でも、嘉手納の戦闘機が普天間に来るのでは、嘉手納基地を普天間基地に持ってきているようなもの。とんでもない。もしかして、普天間の県内移転を早く認めないから、普天間に戦闘機をもってきたのか。こんなブラック・ジョークなのかと勘ぐりたくなる。

 危険な普天間は一日も早く閉鎖してほしいと、住民、県民は願っている。それが、嘉手納の戦闘機の訓練にまで使われるとは、何事か。普天間の早期閉鎖、返還の願いにも逆行する。宜野湾市の伊波洋一市長は、今回の飛行が「嘉手納所属機による普天間飛行場使用の常態化につながり容認できない」と語っている。その通りだ。

2010年10月 7日 (木)

ドルレートを毎日表示している沖縄スーパー

 沖縄のスーパーは、どこでも毎日、ドルの為替レートをレジのところに表示している。サンエー、かねひで、りゅうぼうなど地元スーパーは必ず、表示している。

 それはやはり、沖縄戦で米軍に占領され、米軍基地が造られ、米兵が長期に駐留するという現実のもたらしたものだろう。実際、「アメリカー」(米兵、米人)もスーパーによく買い物にも来るだろう。外国人はとても多い。スーパーで見かけることもよくある。

   034 ドラゴンフルーツ。記事と無関係。ただスーパーのフルーツ売る場には並ぶ

 ときたま、ドルレートの表示が気になり、見る。テレビ、ラジオで円高のニュースを聞いていないときも、このスーパーの表示を見て「あれ、こんなに円高になっているの」と改めて感じることがある。

 ただ奇妙なことがある。先日も、浦添市のスーパーで、レジに表示されたドルレートをみると、なんと「一ドル79円」となっているではないか。80円を割り、79円になれば、大ニュースのはずだが、そんなニュースは聞いていない。新聞で円相場を確かめてみた。その日は、やはり83円台だった。79円もの円高ではない。ではなぜ、スーパーでは、79円台になっているのだろうか。なぜか、スーパーの表示は、実際の相場より、多少円高でだされるらしい。つまり、為替相場は刻々と変動する。だから、スーパー側は、リスクを考えて、その日のレートを実際の相場より少し高く設定しているのだろうか。ドル所有者は、実際の相場だと1ドルで83円の商品が買えるはずなのに、1ドルで79円のものしか買えないことになる。少し損した感じがするのではないだろうか。

 為替や通貨といえば、沖縄は戦後、通貨の大変動にあってきた。日本の通貨だったのが、米軍の占領によって、1948年に通貨は米軍の「軍票B円」に切り替えられた。さらに10年後には、軍票B円からドルに切り替えられた。この時は、沖縄がアメリカの属国になると強い抵抗があったという。さらに1972年の日本復帰によって、ドルから円に切り替えられた。通貨の切り替えは、民衆にとって得することはほとんどない。

 1ドルが360円だった時代は、ドルの価値が高く、米兵の金の使い方も派手だったようだが、今は83円ほどだと、ドルは当時の4分の1以下の値打ちしかない。「アメリカー」にとっても円高はかなり痛いようだ。

 まあそんな歴史も思い起こした。今日もスーパーには、スーパーが設定したドル為替レートがレジに表示されている。大和ではほとんど見かけない、沖縄の変わらない日常風景である。

2010年10月 6日 (水)

中学生監督の映画「やぎの冒険」

 沖縄の中学生が監督した映画が評判である。「やぎの冒険」。いま県内で上演中だ。中学生は、仲村颯吾(なかむらりゅうご)君という。映画は、那覇市の少年が北部のヤンバルに休みで出かけ、そこでヤギを食べる習慣に出合いショックを受けるが、やがて人間はすべて動植物の命をいただいて生きていることを知る、というストーリーである。

   065 映画を上映しているホール

 中学生で頑張っているから、カンパのつもりで出かけたが、とても素人の、中学のレベルではない。沖縄の日常の風景とそこに生きる人々が、実に巧みに映し出されている。ヤギを食べる習慣についても、やはりヤンバルの少年が、ヤギに愛情をもって飼い育てることと、そのヤギを美味しくいただくこととは矛盾しない。人間と自然と動物たちが、共生しながら生きてきたことがよくわかる。

 よく日本はイルカ漁をすることが外国から非難される。和歌山の太子町のイルカ漁を告発した映画が話題になったが、イルカ漁は沖縄でも名護で盛んだ。これも、ヤギを食べることと同様、一つの食文化である。映画では、少年たちがエビを食べながら、ヤギを食べることを嫌悪する少年に「そんなら、トンカツも、ステーキも、沖縄そばも、タコライスも、全部食べんば(食べるなよ)!」と叱るシーンがある。羊や牛、豚は食べてヤギはなぜ食べていけないのか、マグロ、カツオ、イカは食べてイルカはなぜ食べていけないのか。クジラやイルカだけを特定の価値観から食べることを非難するのは、とても偏狭な立場ではないだろうか。地球上のそれぞれの国、地域にはそれぞれの食文化がある。民俗がある。それを大切にすることが共生の上では大事であると思う。

 映画でも、飼っていたヤギが、家の新築祝いなどで、ヤギ汁に料理して、村の人々にふるまわれる。おばあ、おじいたちが、実に美味しそうに食べる。家の新築祝いには、ヤギは欠かせない。なぜか、「やぎの冒険」の映画を、とてもおばあ、おばさんが見に来ていた。不思議だ。

 とりとめがなくなった。まあそんなことを考えさえられた。でもでも、映画を見たからと言って、いまだにヤギ汁は食べたことがない。ヤギの刺身は一度、食べたがなぜか固かった。

 

 

2010年10月 5日 (火)

米空軍、飲酒・外出禁止を一週間で解除とは

 米空軍嘉手納基地は、米兵の外部での飲酒による事件が相次いだので、飲酒・外出禁止をしていた。でもそれが4日、なんとわずか一週間だけで終わりになった。これって、何の意味があるのだろうか。

 9月19日、北谷町で警官を殴った大尉が現行犯逮捕され、那覇市内では兵長が酒気帯び運転で現行犯逮捕されるなど、飲酒にからんだ事件が続発していた。もともと、沖縄で事件を起こすのは、あらくれ海兵隊員が大半で、海兵隊に比べると、嘉手納基地の空軍兵は少ない方だった。それが、飲酒にからんだ事件が続発したのは、重大事として受け止めるべきことだろう。

 9月27日、同基地は空軍兵全員(約6600人)を対象に、基地内外の住宅を除く店での24時間の飲酒を禁止し、午後1時から午前5時までの外出も禁止する措置をとっていた。ところが、わずか一週間で解除である。 

 しかも、解除にあたってウィルズバック司令官は、米兵が「道徳的規範」を考え、事件が再発した場合、「軍事的な運用能力に影響しかねない」ことを熟慮して、この措置に従った「空軍兵に感謝する」と述べた。県民への謝罪ではなく、空軍兵に感謝するとは、顔を向ける先が逆である。

 これでは、事件が相次いだので、県民の批判を少しでもかわすために、「一応、対策をとりました」というパフォーマンスかアリバイ的な対応でしかない。まあ、店での飲酒や外出禁止をしても、それで事件が根絶できるわけではない。それが、一か月、1年になっても、本質は変わらない。そこに外国の基地があり、米兵が駐留する限り、事件、事故はなくならないからだ。

 それでも、わずか一週間で解除とは!。とても、飲酒による事件多発をまじめに反省しているとはとても思えない。米軍は、事件が起きるとすぐ「再発防止」「綱紀粛正」を口にするが、まったく事件、事故はなくならない。繰り返し起きている。あまりにも県民を愚弄するものではないか。こんな米空軍の対応に、もう県民はワジワジーを通り越して、あきれ返っているのではないだろうか。

2010年10月 4日 (月)

沖縄の女子ゴルファーはスゴイ!

 沖縄出身の宮里美香ちゃんが、女子ゴルファー日本一を決める日本女子オープンで初優勝した。宮里藍ちゃんと同じ20歳の最年少の優勝だが、藍ちゃんは253日早いから記録では2番目の若さだ。沖縄では号外まで出て県民あげて喜んでいる。

 美香ちゃんは、16歳であの興南高校生だったとき、世界ジュニア選手権で優勝した。県民期待の星の一人である。2008年にプロに転向したけれど、日本に見向きもせず米女子ツアーに参戦した。米ツアーでも上位に食い込んできている。初優勝が日本一を決める大会というのも驚く。ちなみにこの大会で、10年間に日本人で優勝した6人のうち4人はウチナーンチュである。

 テレビ中継で樋口久子さんが、「美香さんはアメリカプロに直接行った」と何度も繰り返していた。樋口さんなんかから見れば、考えられない行動なんだろう。多分、樋口さんに相談すれば「日本で実績を積んでからがいいよ」とアドバイスしたのではないか。でも沖縄に住んでいると、美香ちゃんの選択はよくわかる。プロになるのに、日本もアメリカもこの沖縄、島から出るという意味で、たいした違いはない。右折か左折かの違い。島を出ることでは同じだ。

 それに米軍が戦後65年もいることで、アメリカとは何かと近い。米人と結婚したり、友人を持つ人も多い。米・ハワイに移民もたくさん出ている。アメリカ的な習慣もとても入り込んでいる。スーパーの売り出しに「ペイデイセール」とよく出る。「給料日セール」ということ。県内にアメリカの大学もいくつもある。基地の中だけど。だから沖縄にいながら米大学への留学もできる。フリーマーケットが基地内でよく催しされる。書き出すとキリがない。若者でもよくアメリカに出る。ミュージカル女優、歌手の高良結香さんなんか、ブロードウェイの本場ミュージカルで活躍し、日米間、というか沖米間を往復しながら活動している。

 美香ちゃんは、ジュニア時代から、世界のゴルファーと交わってきたので、もう高校生の時から、日本の枠にはおさまらない、国際人である。宮里藍ちゃんは、ことしアメリカで最優秀選手をめざしてきたが、いま世界ランキングで1位にある。このままランキング1位、賞金争い1位、最優秀選手になれば、また沖縄中が大騒ぎだろう。県民みんなが熱い視線を注いでいる。

 それにしても、男子ゴルファーはいまいちだねえ。那覇のおばあが集まる温泉でも、美香ちゃんのゴルフが話題だという。「藍ちゃんは勝ち続けていて、しょっちゅうテレビにでますけど、お兄ちゃんたちはどうなっちゃってるんでしょうね」と聞くと「お兄ちゃんたちは優しいから。沖縄の男は優しいの。なんでも『ハイ、ハイ』って女の言うこと聞くからね。沖縄の女はちゅーばーだから、藍ちゃんも強いんだよ」。これがおばあの結論だそうである。

  042 こちらはパターゴルフ、美香ちゃん関係ない

2010年10月 2日 (土)

「ん」ではじまる沖縄語の不思議

 沖縄の「しまくとぅば」は、とても不思議なことがある。なにしろ「ん」で始まる言葉がたくさんある。大和では「ありえなーい!」だろう。でもでも、手元にある沖縄語辞典をみると、なんと8ページ分もあるのだ!これがすべてではない。なにしろこの辞典はコンパクトなもので、しかも「那覇方言を中心に」という限定つきだからだ。

 例えば、「昔」は「んかし」という。「んかじ」はムカデのこと。「んぱ」は「嫌がる」こと。「ヒヤミカチ節」でも、歳をとるのは「んぱんぱのなゆみ」、「いやいやと拒めるか」というふうに使う。「ん」の前に「っ」をつける場合もある。「孫」は「っんまが」、「出で立ち」は「っんじたち」、「生まれ島」は「っんまりじま」という具合だ。慣れないと、発音がなかなかうまくできない。

 民謡では「孫」はよく出てくる。「子孫」もよくある。「しそん」ではなく「こまご」のこと。これもよくあるが、いまだに発音が上手くできない。「くわんんまが」と発音する。さらに「親兄弟」をつけて「親兄弟子孫」(うやちょうでーくわんまが)と続く場合もある。試しに発音してみて下され。ウチナーンチュは平気だが、大和の人にとっては、もうメチャクチャ発音しづらいと思う。

 なぜ「ん」で始まる言葉が多いのだろうか?。「ン」で始まる語を持つのは古代の南方系民族の言葉に多い感じを受ける、古い時代の名残かもしれない。このように説明しているのは、「琉球語は古代日本語のタイムカプセル」を書いた具志堅敏行さんだ。「太古の時代に南方から北上していった集団は語頭に『ン』を伴う語彙を九州や本州に運んだと考えられる」「琉球語は太古の南方系言語の古い層と弥生時代の途中までに変化を遂げ形成された新しい段階の古代日本語層という二つの層から成り立っている」と述べている。

 この説明も「かもしれない」というように、なにも、その因果関係を立証しているわけではない。それに、「生まれ島」「出で立ち」の事例を見ても、沖縄だけの言葉ではない。大和から入ってきた言葉だろう。それが、沖縄人の発音上の特徴から、「ん」で発音されるように変化したのではないか、という感じがする。どうだろうか?

 歌っている民謡にも「生り島」という曲がある。「♪嬉しさやー我身ぬ生り島」の歌詞は「うりしさやー、わみぬっんまりじま」と歌っている。「新デンサー節」にも「♪昔から今にー」という歌詞があり、「っんかしからなまにー」と歌っている。「今」は「なま」と発音する。

 まあ、民謡をやる以上は、屁理屈をいってもはじまらない。慣れるしかない。「♪昔から今にー」(んかしからなまにー)など、大分発音ができだしたから不思議だ。

2010年10月 1日 (金)

モーアシビ゙に罰金が科せらた

 若者が夜、野原に出かけて、歌って踊り楽しんだモーアシビ(毛遊び)。沖縄では、戦後の1950年代まであったようだ。若者にとっては、ほかに娯楽がない時代、なによりの娯楽であり、若い男女の愛の出会いの場であり、青春の発露であった。

 「朝から晩まで働き通しでね。なんにも楽しみってないから、日が暮れるとさっそく三線は、親や兄たちのものを拝借して、三線かついでモーアシビーに行くからね」「夜を明かすときもあったから、そう、また翌日は砂糖小屋に直行だし、そのまま夜が明けないうちに、そのまま砂糖仕事に行ってね」。これは、うるま市山城(やまぐしく)の様子である(山城正夫著『シマの民俗(下巻)』)。当時の雰囲気がよくわかる。

 モーアシビの相手や場所は、住んでいるシマ(地域)を超えて、他の町や村まで出かけたそうで、このうるま市山城でも、遠くは読谷山(いまの読谷村)まで遠征したそうだ。三線だけでなく、男は酒をトックリに入れて持ちより、飲みながら、歌い踊った。相思相愛のカップルが生まれると、ニービチ(結婚)して夫婦になったという。

 モーアシビならではの歌い方に「かき歌」がある。民謡の歌詞は通常、字数が8886の形式の琉歌である。誰かが、何かの旋律にのせて「88」(上句)を歌うと、他の者が「86」(下句)を歌う。こうして歌をどんどん歌い継いでいったという。即興で歌をつくり歌い続けるのだからスゴイ。掛け合いの対話のようになるので、それがまた楽しいのだろう。

 ところで、モーアシビをほかのシマの者とすると罰金がかけられたという。この山城では、「六ケ札」と呼ばれる罰金があり、1日1貫(2銭)払わされたという。当時鉛筆1本1銭の時代である。夜、モーアシビをしている者を捕えても、自分のシマの者はかけず、他のシマの者にかけたという。この罰金は、1899年(明治32)に尋常小学校校長が、風紀取り締まりのために出したといわれる。「しかし、フダを恐れ、罰金の支払いに心を痛めたが、若者の溢れる情熱は止めることが出来ず、夜な夜な遊びに行った」そうである(同書)。

 罰金は、各区長が徴収したけれど「その使途は不明」(同書)だとのこと。若者の反感を買ったというが、当然だろう。

 なぜ、モーアシビを取り締まろうとするのだろう。昔は、若者が夜が明けるまで遊びまわると、仕事に差し支える、という思惑があったとも聞く。また、男女の結婚は、他の間切(今の市町村)や字の者とはさせないという決まりがあったそうだ。ほかのシマの者と夜遊びすると、他のシマの者との結婚につながるから、避けようとしたのかもしれない。この山城では、モーアシビは風紀の乱れにつながるから、「風紀取り締まり」というのが一番の名目になっていた。でも、それが理由なら、他のシマの者とのモーアシビだけでなく、モーアシビそのものを禁じなければ意味がないだろう。

 まあ、古今東西、若い男女の遊びと出会いはだれも止められない。青春そのものだからだ。若者の遊びや恋愛を制限したり禁じても、それは「禁酒法」と同じ、結局は破られるだけだろう。実際に、モーアシビはいくら罰金を科しても、止められない。戦後まで若者にとっての最大の楽しみだったようだ。

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