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2010年10月31日 (日)

瓦屋の始まり、その2、、民謡に歌われる

 瓦焼きを琉球に伝えた瓦職人をめぐっては、有名な逸話がある。それは、王府が琉球にとどまることを要望した。瓦職人は、その条件に妻を望んだ。白羽の矢が立ったのは、言い交わした男性がいる女性だったが、王府の命令で彼とは生き別れになり、瓦職人の妻になったという。

 どこまでが史実なのか、伝説なのか、余りに昔のことなので真実はよくわからない。でも、有名な話なので、これをモデルにした民謡がある。すでに「愛と哀しみの島唄」でも書いたことだ。「瓦屋情話」(からやじょうわ)という唄で、サークルの課題曲にも入っている。歌詞は大要次のような内容である。

 「♪人に勝って美しく生まれた故に、見染められた 彼とは生き別れになり この浮世を恨みつつ行った苦しさよ 私の身体は瓦屋村にあるが 心はあなたのお側にあります 忘れようとしても忘れられない あたなの情け 瓦屋の頂に登って 真南を見ると 古里の村が見えるが あなたの姿は見えない」

     021_2琉球に瓦焼きを伝えた渡嘉敷家

 この唄は、古い歌ではなく、40年ほど前の作品だ。あくまで、王府の命令で引き裂かれた女性と愛する男性を主人公とした悲恋物語になっている。情け唄として、サークルでも、同僚のHさんは得意にしている唄だ。でも、その物語の舞台は、この国場の瓦屋であることは、知っているだろうか。

 この話も、渡嘉敷三良を主人公にすれば。まったく別の物語になるだろう。中国から帰化したのは、尚永王の時代というから16世紀だ。この時期、首里王府では「瓦奉行」を設けて、瓦や陶器の生産を管理するようになったという。三良が中国式の瓦製造を伝えたことは、その後の琉球の瓦製造に重要な役割を果たしただろう。1671年に、首里城の正殿はそれまで板葺きだったのが、瓦葺きになったという。それにあたった安次嶺親雲上(ぺーちん)は、渡嘉敷三良の4世だという。三良のお墓は、国場ではなく、国際通りの裏にある牧志の緑ヶ丘公園にある。まだ行ったことがない。これらは、ネットの「琉球墓列伝」「琉球シーサー紀行」で紹介されているのを参考にした。

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コメント

「瓦屋情話」に出てくる、あるいは伝説の三良の妻となった女性は、豊見城村(今の豊見城市)に住んでいませんでしたか。確かその女性は「真玉橋を渡ってきた」と聞いちょりますき。いや真玉橋を渡ってきたのはほかの女性でほかの話しだったかなあ?(・・?おぼえないですか?

そうですね。たしか豊見城の女性だったそうです。豊見城からくるには、国場川にかかる真玉橋(まだんばし)を渡るのでしょうね。「真南を見れば古里も村が見える」という歌詞があるけれど、国場のこの場所は小高い山になているので、頂に登って南をみると、豊見城から南風原方面が一望できますね。

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