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2010年11月

2010年11月30日 (火)

離島は芸能も豊かだ

029  離島フェアー2010の見物の一つは、芸能のステージだ。毎年、行った時ときには芸能を楽しんできた。 離島の出身の民謡歌手はたくさんいる。多すぎて覚えきれないほどだ。
 久米島出身者らのグループ「唄舞~い」は、ヒヤミカチ節などノリのよい曲を続けて演奏した。「♪ヒヤ、ヒヤ、ヒヤ、ヒヤ、ヒヤ、ヒヤミカチウキリー」と唄が流れると、もうじっとしてはいられない。踊りだす人が次々に舞台前に繰り出した。カチャーシーを舞い踊る。踊りだすと、歌う方も余計気合いが入るようだ。最後は、恒例の「唐船ドーイ」でにぎやかに歌い踊った。

015  この舞台で、離島の振興に功績のあった人に対する表彰があった。そこに、なんと西表島出身の若手歌手、池田卓(すぐる)君が表彰された。彼は、西表島でも、いまだ道路が通じていない、離島の中の離島といわれる人口50人ほどの船浮(ふなうき)の出身だ。島を愛する彼は、この地で「船浮音祭り」を企画・プロデュースして開いている。その彼個人と音祭りの実行委員会が団体で,それぞれ表彰された。なにしろ、この超不便は船浮に、池田卓ファンらが、沖縄本島はおろか、関西や全国各地から集まるからスゴイ。

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ラジオ沖縄の民謡番組「民謡の花束 遊びでぃきらさ」の公開放送があった。当銘由亮(とうめよしあき)、新垣小百合の二人がパーソナリティであり、歌三線も披露する人気番組だ。
  この番組の登場一番手も離島だ。宮古島の「hirara」さん(左写真の右側)。旧平良(ひらら)市の出身で、文字通り地元の地名を歌手名にしている。最初見た時は、絶対に南米あたりの出身かと思ったほど、日本人離れした容姿だ。
 彼女が得意な宮古民謡の「かにくばた」「張水のクチャー」を弾いた。前者は、開拓の苦労を歌った曲、後者は、人頭税廃止をテーマに039 した曲だ。いずれもマスターしたい曲で、毎日練習しているが、早弾きで難しい。hiraraさんは、歌う前に、すでに見かけた。宮古の店の前をうろうろしていた。まだ独身女性かと思っていたら、なんと小さな子の手を引いていた。子育てしながら歌っているようだ。
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右写真は舞台に見入る参加者。

左写真は、「民謡の花束」のDJでもある当銘(右端)、新垣(中央)らが「兄弟小節」を披露した。「一度出合えば兄弟、なんの隔てがあろうか」と歌う。沖縄の「肝心(ちむぐくる)」を歌っている曲だ。やはりテンポの速い曲だ。祭りには、ノリのよい曲が一番盛り上がる。

043  伊是名島からは、「尚円太鼓」が披露された。尚円とは、伊是名島の百姓の出身で琉球国王になった有名な人物だ。琉球を統一した第一尚氏の王統に代わり、第二尚氏の王統を打ち立た。その後、廃藩置県まで400年間にわたり琉球王国が続いた。
 太鼓は、直径1㍍もあるような大太鼓をはじめ、大小の太鼓を力強く打つ。中学生を含めた若者中心の演舞だが、とっても勇壮だ。

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番組の最後に登場したのは、神谷幸一、その弟、
玉城一美のグループ。神谷兄弟は、うるま市津堅島の出身。幸一さんは、民謡界の貴公子とか呼ばれていて、とても人気がある。
 昼間は、神谷観光で津堅島と平敷屋港を結ぶ船の仕事をして、夜は沖縄市で、民謡酒場「花ぬ島」で歌っているという。
 津堅島は人参の産地として有名。津堅島にかかわる民謡を歌った。その一つが「キャロットアイランド」。文字通り「人参の島」の唄だ。
 玉城一美さんは、ソロでも歌っていて、「平和の願い」など、平和の島唄も歌っている。この日は披露されなかった。幸一さんは、いまの民謡歌手で指折りの上手さだ。神谷ワールドをたっぷり楽しめた。
 というわけで、離島フェアーは芸能もたっぷり楽しめた。

2010年11月29日 (月)

島ごとの魅力あふれる離島フェアー

001_2  離島の特産品を一堂に集めた離島フェアー2010が、那覇市の沖縄セルラーパーク那覇で開かれた。これまで宜野湾市で開かれていたのが、那覇になり行きやすい。
  沖縄はなにしろ離島県だ。18の離島市町村から117業者が出店した。様々な食材や伝統工芸品の展示・販売は約990品目に上った。沖縄と言えば黒糖だが、島ごとに味が違う。土壌も違うし、サトウキビの生育、雨風、台風の影響も島ごとに違う。試食してみると、なるほど、ずいぶん違う。このように、同じ食材を作っても、違いがある。それを自由に試食できて、味わえるのが離島フェアーの魅力でもある。もう試食でお腹がはってくるほどだ。
004 「黒糖は多良間産が一番おいしい」という人がいる。その多良間の店は、例年、左写真のように、大きいいレンガのような黒糖の固まりを持ってきて、その場で割って試食させる。確かに、甘みが「ちょうどエエー」。でも人によって、別の島のが美味しいという。これはもう、好みの問題だ。
005   多良間はヤギも名物らしい。「たらまピンダ(ヤギ)」は潮風にあたった草を食べているから美味しいとPRする。初めてヤギ汁を試食した。ヤギ特有の臭みがない。「多良間の味噌で味付けしてあるから、臭いが抑えられている」とのこと。
 牛汁も沖縄はよく食べる。多良間や宮古島、伊江島など牛汁をよく売っていて、試食した。それなりに美味しいが、レトルトに変わりはなく、「やっぱり牛汁なら家で作った方が美味しいよ」という結論になった。
 ちなみに沖縄は豚汁もよく作るが、大和のそれとはかなりイメージが違う。肉は三枚肉のブロックを大胆に使い、大根やニンジンなども切れが大きい。まだ、家で作る豚汁より美味しいのにいきあったことがない。

036 どの島も、伝統的な食材、料理だけでなく、新商品の開発に熱心だ。なかでも、伊江島は、イカスミを使った餃子、じゅーしー(炊き込みご飯)、合鴨スモーク、黒糖にんにく、らっきょうドレッシングなど販売していた。ぬかりなく試食した。イカスミじゅーしーの素は、すでに買って人にも上げたが、イカスミの味がよく出て美味しいと評判だった。
 石垣島といえば、かまぼこが名物だ(左の写真)。沖縄のかまぼこは、いわゆるさつま揚げのようなもの。今回の発見は、ニンニクかまぼこ。臭いを警戒したが、試食するとニンニクの味がピリッと効いてとても美味しい。ニンニクかまぼこ、カツオの南蛮漬けを買った。ビールのつまみ008に最適だった。
 忘れてならないのが伝統工芸。宮古上布、久米島紬、アンガマの面、手作り三線など。ただし、試食はないからなのか、食品の店よりお客さんは少ない。石垣に江戸時代から伝わる旧盆の行事がアンガマ。あの世からの使者であるウシュマイ(お爺)、ンミー(お婆)が家々を訪問するときに面をつける。

 011_2 この面は、もう半世紀にわたり作り続けている匠による技だ。表情がとてもよい。 アンガマの面をつけた使者を、訪問した家ではとても歓迎する。
 前に、このブログでも実演の模様をアップしたことがある。このアンガマの二つの面のセットで、たしか6000円くらいだった。伝統工芸品としては、高くないと思った。

 書き出すとキリがない。さあ泡盛の試飲である。10年古酒の計り売りをしていたのは、石垣島の八重泉。43度ある。泡盛は、ねかせた古酒ほど、まろやかで香りもとてもいい。012こういう古酒は、祭りでなければ出ない。市販はしていないという。だから、あらかじめ瓶詰したものでなく、計り売りでビンに入れてくれる。もちろん試飲もできた。さすが10年古酒は、泡盛のよさが味わえる。
左写真が八重泉の古酒の計り売りだ。

 与那国島には3軒の酒造所がある。入波平酒造をのぞいた(下の写真)。泡盛「舞富名」の名前で出している。ここでは、これぞ与那国だ、という泡盛の飲ませてもらった。下の写真でカメに入っているのは、1998年に作った60度の酒だ。「花酒」のようだ。
 与那国の「花酒」は、泡盛をつくる際、モロミを蒸留させた時、最初に得られる純度が高くアルコール度数が高い酒のこと。芳醇で香り豊かな酒だ。与那国は日本で唯一60度のアルコール販売が許されている島だという。
 試飲すると、口に入れた瞬間、ファーと蒸発するような感じ。飲むというより舐めるように味わう。カメの隣に、新聞紙で包まれている一升瓶があるが、これはこの泡盛を作った年の新聞で包013_2 んである。だから、12年物であることは間違いない。その証である。ただ、それだけに、値段は高い。一升瓶で2万円ほどする。
「飲むのは、氷とかで割るのですか?」と質問すると「いや、そんなもったいないことはしない。そのまま味わうのが一番良い」という。60度あるからと水で割るのなら、はじめから度数の低いのを買えばよい。30度、43度などの酒も、60度のものを水で度数を薄めているだけだからとのことだった。
 「与那国にぜひ一度来てください。来たら声をかけて下さいよ」と話してくれた。
 石垣島では、地ビールもあり、白と黒があった。黒ビールを飲んでみたが、どうもいまいち、美味しく感じない。
 というわけで、離島フェアーならではの、試食、試飲で楽しめた。買ったのは、いま紹介したものとまったく無関係。渡名喜島の「もちきび」。お米に少し混ぜて炊いてみると、不思議なほどとてもモチモチ美味しかった。それに宮古島の渦巻きパン、マンゴープリン、久米島紬のコースターなどなど。
 みんな行ってみたい離島ばかりだ。いつか行ける日が来るだろうか。当分は、島ごとに民謡があるので、離島の民謡を歌って島の心を感じていたい。

                                                        

2010年11月26日 (金)

沖縄の地名は難しい、その3「奥武島」とは

 沖縄の地名で目につくのは、同じ地名が各地にあることだ。そこには何か共通するものがあるだろう。地名の本を読んでも、どうしてもよく わからない地名の一つに、奥武島がある。
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だいたい「おうじま」と読む。南城市にある。名護市の屋我地島に渡るところにもある。久米島にもあるし、慶良間(けらま)諸島にもある。那覇市のわが家の近くには奥武山(おうのやま)がある。慶良間以外は、どれも行ったことがある。共通しているのは、島といっても、いまでは橋でつながったり、那覇の場合は、もう陸地の一部となっている。
左写真は南城市の奥武島。橋でつながっている。
 南城市の奥武島は、漁港があるので、魚のてんぷらが美味しいと評判だ。マグロの刺身も090 美味い。下写真が美味しい天ぷら屋。

 

 那覇市の奥武山は、すぐそばには米軍那覇軍港がある。よく戦車など積みこむ。奥武山公園があり、神社がある。野球場が新装され、来春は巨人がキャンプに来るところだ。
 『沖縄地名考』(宮城真治著)によれば、害虫や悪風を封じ込める所を「奥武島」と呼んだと思われる。神力により害虫、悪霊を払い封じ込めることを「オー」という、と解釈をしている。素人ながら、この説明はどうもしっくりこない。害虫や悪霊を島に封じ込めることができるのか? いくつもある奥武島にこれが共通するのだろうか?そんな疑問だ。
 『琉球の地名と神名の謎を解く』という平良恵貴氏の著書を読むと、まったく別の解釈をしている。やはり地名とは、人によってまるで異なる見解をもつものだ。
 彼は、「すべての奥武島は、低潮時ともなれば、ほとんど干上がってしまう『しおひがた』の内に位置しているのである」という。陸地から少し離れている慶良間の奥武島も、環礁内のイノーと呼ばれる潟の海に位置しているという。琉球のミセゼル(神のみ言葉)は、潮干潟にある浅海を「アフ(オウ)ノウミ、オクノヒタ」と唄った、奥武島とは「アフ(オウ)の海の島、オクのヒタの島」の意である、と結論づけている。
067  さらに、「万葉集」では「飫宇(おう)の海」と使われ、浅海と見られ、琉球の「あふの海」、転じて「オオノ海」は、古代日本における「をふ(おふ)の海」に発した語であるとしてもよいのではないだろうか、と指摘している。
 この見解がどこまで当たっているのか、素人ではわからないが、各地の奥武島を見た経験から見ると、かなり納得のいく見解だと思う。
これは、いくつか奥武島を見た体験から、浅海は共通しており、浅海の「オウ」が地名の由来になっているという見解も、かなり説得力があるように思う。それで紹介した。
 左写真は、南城市奥武島。潮が引いている時だが、イノー(潟の海)が広がり、遠くにリーフが見える。

067_2 久米島の奥武島にも以前行った。言われなければ、島とはわからないぐらいだ。
 右写真の亀石が有名だ。完璧な六角形で、亀の甲羅のようで、見事な岩の浜である。やはり、島の周辺は浅い海である。
 地名は、その由来を調べようと思うと、数限りなくあるので、もう果てしがない。この沖縄という地名や那覇の地名だって、諸説ある。今回は、とりあえず、気にかかっている地名にだけふれた。 

2010年11月25日 (木)

沖縄の地名は難しい、その2「勢理客」とは

  沖縄の地名で、「その1」に書いた「保栄茂(びん)」と難解さでナンバーワンを争う地名が「勢理客」だろう。通常、「じっちゃく」と読む。「せりきゃく」と呼んだこともあるらしい。「せりきゃく」なら、まだ漢字の読み方として、普通だろう。でも「じっちゃく」はありえなーい!。「一着になっても、じっちゃく(10着)」という駄洒落もある。「せりきゃく」と読むのは読めるにしても、脈絡のないこの字では意味不明である。
 しかも、1か所ではなく浦添市や今帰仁(なきじん)村、伊是名(いぜな)島にもある。浦添は「じっちゃく」、その他は「せりきゃく」と読んでいる。沖縄だけでなく、沖永良部島にも瀬利覚(せりかく)があり、方言では「じっきょ」と読むという。
 勢理客の由来について、勢はいきおい、理は理にかなっている、それを兼ね備えたお客様が多い地域という意味があると説明する人がいるが、これは同意できない。山村や離島には、その説明は当てはまらない。漢字から無理やりこじつけた印象だ。それに沖永良部とは字が違う。勢理客の字は当て字で、漢字に意味はないのではないか。
 宮城真治著『沖縄地名考』では、勢理客はシリサクで、「後ろの谷間」に由来する地名ととらえているそうだが、これも、いまいち共感を覚えない。
 それで、いま読んでいる平良恵貴著『琉球の地名と神名の謎を解く』に、面白い見解が出ているで紹介したい。平良氏の地名を解釈する手法は、簡単に言えば、複数の地に見られる同一の地名を集め、そこに共通し、しかもそれらの地を他の土地から区別する特徴を探しだすということだ。これは、地名を考える上では、かなり妥当な方法ではないだろうか。
 琉球の古謡集『おもろそうし』には「せりかくののろ」という「ノロ(神女)の名が見えるので「じっちゃく」の古音は「ゼリカクまたはせりかく」であったと考えられるという。「せりきゃく」と読んだ時代もあるようだ。 
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 それで、勢理客という地名の場所は、「いずれも海に面している」という。いまは内陸にある今帰仁村の勢理客も、かつては海に面する村落だったそうだ。それだけでは、琉球の海岸はいたるところにある。他の海岸と区別するものは何か。それは、「いずれもかつては海に連なる川口の傍らに位置していた村落、即ち、魚の回遊通路を前にした村落であった」ことだという。
 この魚群通路は魚を獲るため「魚わな」を設置していた。網の代わりに竹や木を用いた「魚わな」があったと見る。このように、魚群通路であった各地の「勢理客」と呼ばれた土地の前には、魚を獲る仕掛けのアジロ垣の竹材や木材が林立する特異な風景が見られ、このアジロ垣に因んで勢理客の地名が生じたことは「ほぼ疑いのないところである」とのべている。
 アジロ垣がシロ垣に転じ、さらに転訛を続け、ジリカク、ジリキャク、ジッチャクになったと推測している。勢理客と呼ばれた土地の共通性と特徴を探るところまでは、興味深かい。ただ、そこからさらに「セリキャク、ジッチャク」に転化したという推測になると、もうややこしくて、よくわからない。これは、平良氏の一つの見解として理解するしかない。
 まあ、地名は、由来を書いた文書や碑文など明確な史料や伝承などがなければ「これが正解だ」というものがない。だから人によって、見解がまるで違うことがしばしばである。
 まあ、県内に同一の地名がいくつもあると、そこに何らかの共通する由来があるはずだ。それを知りたいだけである。
 写真は「沖縄の海岸風景」。地名とは関係ない。

2010年11月24日 (水)

沖縄の地名は難しい、その1「保栄茂」とは

 沖縄の名字は難しいと書いたが、地名も同じく難しい。名字は、地名からきている例が多い。だから名字も地名も難しいのは、根は同じかもしれない。でも、地名は名字にもない独特の奇妙というか、不思議というか、とても読めない地名がある。その代表的な例を上げてみる。
 為又は「びいまた」と読む。これがなぜ「びいまた」と読むのか、いまだによくわからない。世冨慶は「よふけ」と読む。夜更けではない。両方とも名護市にある。済井出は「すむいで」と読み、名護市の屋我地島(やがちじま)にある。大工廻は「だくじゃく」と読み、なんと米軍嘉手納弾薬庫の基地の中にある。旧集落のあった場所だ。惣慶は「そけい」と読み、宜野座村にある。東風平は「こちんだ」だが、これは「東風吹かばにほひおこせよ梅花」と平安時代の和歌集にもあるので、読める。あげればきりがない。
 沖縄の難解地名のナンバーワンといえるのは、豊見城市の保栄茂だろう。これで「びん」と読む。このあたりは車でたまに通るが、そのたびに「なんでやー。漢字3字なのに、ひらがな2字で読むのだ!」と叫びたくなる。琉球の古謡集『おもろそうし』には、「ほえむ」「ほへむ」とひらがなで出ているそうだ。薩摩が琉球に侵攻してきた後、検地帳に地名を漢字で当てることになり、「ほえむ」は保栄茂と表記するようになったという。
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 では、なぜそれが「びん」と読むようになったのか。「びん」の地名のいわれについて、中国から来た人が住み、中国の地名をつけたのではないか、という人もいる。中国の福建あたりは「閩=びん」と呼ばれたり、中国から琉球に渡ってきた人は「閩人」と言われたそうです。
 でも中国の地名をつけたというのは、ちょっと違うのではないだろうか。保栄茂は古くから「ほえむ」「ほへむ」と言われ、薩摩侵攻の後も、その名前を漢字で表記したというのだから、その後に、中国の地名をつけたとは考えにくい。中国の地名をつけたなら漢字もそれにふさわしい漢字を当てるだろう。
 いずれにしても、なぜ「びん」と読むのかについては、謎である。『保栄茂ぬ字史』でも、「その難問の解決はあとしばらくの時間が必要である」とのべている。結局は地元でもわからないそうだ。

 写真は秋の夕陽。地名とは無関係だ。ただ、夕陽の落ちる南の方向は豊見城市で、糸満市の方向に行くと、保栄茂がある。

2010年11月22日 (月)

組踊創始者・玉城朝薫の墓を訪ねる

 伝統芸能の組踊(くみうどぅい)がユネスコの無形文化遺産に登録され、組踊の創始者である玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)が改めて注目されている。前から一度行きたいと思っていた、お墓を訪ねた。

   004 やっとお墓の案内板を見つけた

 お墓は浦添市前田にある。前田と言えば、沖縄戦で前田高地が激戦の地となったことで有名だ。やはり戦争で、墓は破壊された。2005年に60年ぶりに復元された。1933年にこの墓を撮影した写真があり、それを参考にして復元したという。

   006 お墓は階段を上っていく

 階段を上るとすぐ墓が見えた。山の斜面を利用した石造りの墓だ。

   008 玉城朝薫のお墓

 墓は、17世紀後半から18世紀前半に、中国の影響を受けて亀甲墓が成立していく時期の特異な構造をしているという。亀甲墓に似てはいるが、亀の甲羅のような部分があまりない。屋根がある。家屋と同じように屋根のある破風墓と亀甲墓が融合した形で、県内でも例を見ないという。墓の内部は、墓室の天井を4本の柱で支える形式で、墓の前庭はバチの形に開いていてこれも珍しい。

   007 入口に説明板があった

 玉城朝薫の墓は、同時に辺土名家の墓とも書かれている。朝薫は、玉城間切(現在の町村にあたる)の総地頭職を務めた家柄の辺土名家の10代目に当たるという。朝薫は、首里王府で、芸能を担当する踊奉行(うどぅいぶぎょう)に任命され、中国から国王の任命のために訪れる冊封使(さっぽうし)を歓待する組踊を初めて創作した。
 朝薫が創作した「二童敵討」「執心鐘入」など5つの演目は「朝薫の5番」と呼ばれ、いまでも最もよく上演される組踊だ。朝薫は、薩摩や江戸にも上り、将軍の前でも芸能を披露したことがあった。大和の芸能にも精通し、能など大和の芸能の要素も取り入れながら、琉球独自の歌三線と台詞、踊りの総合楽劇・組踊を創り上げた。朝薫が組踊を創作したからこそ、今回の無形文化遺産の登録にもつながったいえなくもない。

  014_2  なんと墓はトンネルの真上にある

 墓から降りてきて改めてみると、墓はちょうどトンネルの真上にある。一瞬、「何、これ!、由緒あるお墓の下にトンネルを掘ったのか」と思ったがそれは、逆だった。朝薫の墓は、那覇市にあると思われていたが、実は1984年、道路計画で調査をして墓を発見し、朝薫生誕300年事業でこれが朝薫の墓であることを確認したという。墓の発見で、道路は山を崩さずに、トンネルを貫くことにしたという。だから、トンネルによって墓が守られたと言えそうだ。
 最近も参拝に来る人がいるようで、お墓にはお花が飾られていた。

   009 花が飾られたお墓の入り口

 

2010年11月21日 (日)

沖縄にカジノはふさわしくない

 沖縄の最大の産業と言えば観光である。いま沖縄にカジノを導入しようという動きが強まっている。現知事が、1000万人観光を目玉にして、その柱の一つにカジノ導入を進めようとしているからだ。すでに2007年から検討委員会を設置して、カジノ・エンターテイメント事業をを導入する場合の、課題と対応策などについて検討を重ねてきているからだ。いまたたかわれている県知事選でも、観光産業とカジノの問題が争点の一つになっている。

 でも、「沖縄にはカジノはまったくふさわしくない」というのが多くの県民の声ではないだろうか。沖縄への観光客は2009年、約565万人を数える。その観光客の大事な一部を担っているのは、修学旅行生である。昨年、沖縄を訪れた修学旅行生は、全国2458校から、41万2182人を数える。

 中高生らの沖縄への旅行は、とっても魅力があるし、学習にもなる。南島の青い海と空、サンゴと熱帯魚の海など豊かな自然がある。世界遺産になっている首里城はじめ城跡など歴史遺産と中国からの影響を受けた民俗と食文化も他県にない魅力がある。今回、ユネスコの無形文化遺産に指定された組踊など伝統芸能も独特の表情をもつ。さらに、悲惨な沖縄戦の戦跡と巨大な米軍基地の存在は、戦争と平和の問題を現地で直接見て、感じ学ぶことができる。これだけの観光資源、学習材料がそろっているところはないだろう。だから、観光客も修学旅行生も、増えてきたのだ。

 カジノといえば、刑法で禁止された賭博であり、犯罪行為である。当然、暴力団や外国人犯罪組織が関与してくることは、火を見るより明らかだ。外国で導入している国でも、売春行為がはびこるなど風俗も悪化する。どこから見ても、青少年への悪影響は避けられない。

 沖縄県民はいまでも、パチンコ・スロットなどがとても盛んで、メインストリートにデーンと大きな店舗を林立させている。パチ・スロ依存症に陥り、サラ金にはまり込み、借金漬けになっている人もかなりいる。その上、カジノができれば、賭博依存症やサラ金被害など、さらにひどくなることはもう目に見えている。

 カジノ・賭博の島に、修学旅行生が来るだろうか。修学旅行生は、あまり消費力がないように見る人もいるが、それは間違いだ。人数がまとまってくるだけに、観光にかかわる産業にとっては、とっても大切な旅行客だ。しかも、若い人たちは、修学旅行で受けた沖縄の印象と魅力は、強いインパクトを与えて、社会に出てからも、リピーターになる人がかなりいるだろう。そういう潜在力も持っている。

 日本の観光地では、温泉がとくに有名で、集客力も大きい。温泉地では、自然の景観や文化遺産など、観光の魅力がないところは、風俗的な営業で客を引き付けようとする。でも、自然など豊かな観光資源をもつ温泉は、そんな温泉のグレードを下げるようなことは避ける。魅力を最大限に生かすことに力を入れるという。私も、30年来、全国のかなり有名な温泉地を回る機会があったが、自分の実体験からその通りだと感じる。

 九州の由布院では、大型リゾート開発を進める案が出たことがあったが、乱開発を避けて、由布院らしい雰囲気を残しながら、映画祭や音楽祭を開くなど、由布院の魅力を最大限に生かすことに力を入れた。いまでは日本屈指の人気のある温泉保養地になっている。

 海外でも、ハワイは豊かな観光資源に恵まれ、世界のリゾート地になっている。でもカジノは入れていない。アメリカのカジノといえば、ラスベガスだが、砂漠の真ん中だ。ハワイにカジノを入れれば、観光地としての価値を低めることになるだろう。入れない選択は、賢明なことだ。

 県知事選では、現職候補は積極推進派である。前市長候補は、カジノに頼らない沖縄の魅力を生かした「沖縄型観光」をめざしている。両者の違いは、はっきりしている。

 観光資源に恵まれた沖縄で、もしカジノを導入すれば、観光客は増えるだろうか。逆に、先に述べた悪影響から、中高生の修学旅行はじめ、観光を避ける人が急増するだろう。沖縄を「米軍基地とカジノの島」に決してしてはいけない。

2010年11月20日 (土)

組踊は離島、村、字区でも上演される、その2

 「琉球新報」は20日付けで「組踊世界の宝に」とユネスコ無形文化遺産に登録されたことから、別刷り12ページの大特集を出した。そこには沖縄の誇る芸能が世界に認められたことへの、県民の喜びが反映されている。

 この特集の中に、県内各地で地域の伝統芸能として根付いていることを紹介している。前回のブログで紹介していないものがあり、それぞれとても貴重な組踊なのでこの特集から、補って紹介しておきたい。

 名護市屋部の組踊は、1865年、首里から伝わった冊封使を歓待する組踊「御冠船踊(うくぁんしんうどぅい)」が元になっており、県の無形民俗文化財にも登録されている。「大川敵討(おおかわてぃちうち)」など5演目がある。1演目を2年間上演し、10年で一回りする。20,30歳代の若手が多く参加し、配役からやく1ヶ月間の練習期間を経て、「八月踊り」という祭りで上演される。

 読谷村喜名(きな)区には、「忠臣護佐丸(ちゅうしんごさまる)」という組踊が伝わっている。明治時代に首里から読谷に移住した人が指導し、1906年に初演し、その後100年にわたり住民に親しまれているという。約2時間もかかる。喜名伝統芸能保存会が頑張っている。

 竹富島には「種子取祭(たなどぅい)」という600年以上もの歴史のある祭りがある。国の重要無形文化財に指定されている。ここで、玻座間(はざま)村が「伏山敵討(ふしやまてぃちうち)、中筋村が「父子忠臣(ふしちゅうしん)」という組踊を毎年上演している。石垣市に住む島の出身者が演じているという。ことしも10月8日に演じられた。

 ちなみに、この竹富町は、町役場はなんと石垣市にある。離島ならではの珍しいケースだ。竹富の組踊は、劇場の演目ではなく、神への奉納だという。沖縄では、芸能を奉納することはよくある。明治44年(1911)に、組踊が島に伝わった記録があるという。

 与那国島にも「北山敵討」などの敵討物、世話物が古くから演じられている。本島の本部町、今帰仁村にも組踊が多い、伊平屋島、伊是名島でも組踊が継承されているという。

 まだこれですべてではない。このように、沖縄全県内で、組踊は地域の伝統芸能として息づいている。これがスゴイことだと改めて思う。

 ただ、県民が組踊に親しんでいるかというと、まだ見たことがないという人も結構多い。でも無形文化遺産に登録されたことで、改めて沖縄の伝統芸能が世界的にも優れた価値あるものだと見直し、親しむ機会にもなるではないだろうか。

2010年11月19日 (金)

50年以上歌い続けるジャズシンガー、与世山澄子さん

 日本屈指のジャズ・ヴォーカリストと評される沖縄の与世山澄子(よせやますみこ)さんが、「第8回宮良長包音楽賞」を受賞した。16歳でデビューし、54年歌い続けてきた彼女のファンは、沖縄だけでなく、全国にいるし、アメリカにもいる。受賞を知ればみんな喜ぶだろう。昨年末、旅行で沖縄に来て、彼女の店にわざわざ歌を聞きに行き、涙を流した友人がいる。さっそく、受賞を知らせたところである。

 といっても、ジャズを聞かない人にとっては「与世山ってだれ?」かもしれない。八重山の小浜島に生まれ、もう70歳を数えるが、現役シンガーである。戦後、米軍基地のクラブで歌い、もっとも注目され、賞賛をうけた歌手だった。1957年、わずか17歳の頃に、ボブ・ホープとレス・ブラウン楽団と共演した。1972年の本土復帰の年に、ジャズ・スポット「インタリュード」を開いた。本土公演も増え、ジャズ評論家らから、賞賛された。

 米軍統治下で、沖縄ではジャズやロックなどを演奏するミュージシャンは米兵相手に演奏して腕を磨くなど、洋楽のレベルを上げ、名高いミュージシャンを輩出した。与世山さんは、戦後の沖縄洋楽界を代表する一人だろう。いま、メジャーで活躍する若者のロックグループに、沖縄出身グループが多いことも、そんな素地がある。

 与世山さんは、2006年には、TBS「情熱大陸」に出演した。映画にも中江祐司監督「恋しくて」や、森田芳光監督「サウスバウンズ」に続けて出演し、活動の場を広げている。テレビでは「今なお進化し続ける日本屈指のジャズ・ヴォーカリスト」と紹介された。

 というものの、ライブを聞きたいと思いながら、機会がないままだ。ユーチューブでは、いくつか映像で見て聞くことができる。「what a wonderful」「fly me to the muunn」「summer time」「the tennesee walte」などの名曲だ。いずれもライブの映像である。

 彼女のジャズは、声を張り上げるわけではない。美声ではなく、ハスキーである。静かな雰囲気の中で、語るように歌う。戦後の沖縄を生き抜いてきた、そんな人生が刻まれているような歌だ。歌詞をかみしめるように、自在に表現する。それは、魂を込めたジャズとでもいいたい。有名なジャズシンガーのヘレン・メリルに似ている。といっても少し違う。与世山澄子の独自の世界を作り上げている。歌を聴きだすと、その世界にいつの間にか引き込まれる。

 ベテランのジャズ・シンガーが、こういう名誉ある賞を受けるのは素晴らしいことだ。宮良長包は、近代沖縄音楽の先駆者といわれる音楽家であり、作曲家だ。与世山さんもきっと喜んでいるだろう。これからも、もっともっと長く、よいジャズを聞かせてほしい。

2010年11月18日 (木)

組踊は離島や村、字区でも上演される

 組踊がユネスコの無形文化遺産に登録された。組踊は、歌三線、台詞、踊りの総合楽劇である。スゴイと思うのは、組踊のプロが演じるだけでなく、離島や村から、字や区のレベルでも、上演されるということだ。

   003 組踊「銘苅子」の場面。沖縄テレビから

 毎年上演するところもあるし、2年や5年に一度とか定期的に上演したりする。有名な多良間島の「八月踊り」では、塩川、中筋の2つの字(あざ)で、それぞれ「忠臣仲宗根豊見親」(ちゅうしんなかそねとぅいみゃー)といった演目を2番ずつ、合計4番上演するという。多良間の組踊は、本島の首里、那覇から伝わり、明治20年代に始まり、島の古くからの祭事に溶け込んでいったそうである。

 もともと、組踊は中国からの国王認証のため訪れる冊封使(さっぽうし)を歓待する芸能だから「御冠船踊」(うかんしんうどぅい)とも呼ばれた。王国時代は、首里王府だけで上演されていた。それが地方に広まったのは、明治の廃藩置県の前後からだという。組踊が村芝居の演目に加えられるようになったらしい。

    042 組踊は女性も男性が演じる。沖縄テレビから

 南城市大里の大城区には組踊「大城大軍」がある。組踊「大城崩」を基礎にして、地区に残る伝承をもと新たに創作された区独自の組踊だという。戦後の混乱で一時途絶えたが、1989年に復活上演された。同市の知念字久手堅(くでけん)にも組踊「鐘の割」が伝わる。

 読谷村渡慶次(とけじ)では、5年に1度、「組踊大川敵討ー村原」を上演する。全編3時間近くかかる大作だという。宜野座村松田区では、豊年祭で2年に1度、組踊「本部大主」を松田区伝統芸能保存会が上演する。うるま市浜比嘉島の比嘉では、12年に1度の祭り「うふあしび」が2009年にあり、組踊が上演された。同市伊計島の伊計区は、今月に開かれる伝統芸能祭で、組踊を上演する予定だ。 

 長らく上演されていなかった演目を、100年、200年ぶりに上演するところも各地にある。伊江島の東江上区は、組踊を村踊と呼ぶが、「操義伝」(そうじでん)という演目を100年ぶりに復活した(2006年)。石垣市では、石垣字会がことし、組踊「伊祖の子」を1895年以来、115年ぶりに再演した。

 糸満市では糸満にゆかりのある組踊「月の豊多」(ちちぬとぅゆた)を、1756年の王府での冊封使市歓待の場での上演以来、243年ぶりに上演した(1999年)。東風平村(現八重瀬町)では、1756年の国王即位式以来となる241年ぶりに、組踊「身替忠女」を一部を創作して上演した(1997年)という。

 豊見城市では、同市ゆかりの組踊「未生の縁」を村の時代の1997年、241年ぶりに上演した。やはり1756年の冊封使の歓待で上演されてい以来だという。その後も豊見城市組踊保存会が再演している。

 蛇足になるが、この「未生の縁」は、平敷屋朝敏の「手水の縁」と同様に、愛情がテーマである。平良城の若按司と保栄茂(びん)の娘が、生まれる前から親同士の約束、つまり「未生の縁」があり、さまざまな困難を克服して深い愛情で結ばれるというストーリーである。組踊で恋愛物は極めて少ない。ただ、朝敏の「手水の縁」は、結婚は親が決めるのが当然という封建道徳、支配秩序を打ち破って結ばれるという勇気ある組踊だったところに、同じ愛情物といっても、大きな違いがある。

 これがすべてではない。ほかにもある。このように、地方でも組踊が伝統芸能として保存され、愛されている。これらは、島民、住民が日ごろの仕事の傍らに、稽古を重ねて上演にこぎつける。その苦労は大変なものがあるだろう。地方で芸能保存会、組踊保存会などがあり、保存に熱心に力を注いでいる。もともと沖縄は伝統芸能がとっても盛んだから、歌三線、踊り、村芝居などやれる人がたくさんいる。「芸能の島」であり、芸能の伝統が根付いている。そんな、芸能の底力がなければ、これだけ各地で組踊を継承できない。だから、文化遺産として登録されたのは、ただ国立劇場あきなわで上演する芸能保存者の存在だけでなく、その底辺にたくさんの庶民レベルでの芸能の力があるということを言いたかったのである。 

 

2010年11月17日 (水)

ユネスコ無形文化遺産に登録された組踊

 沖縄の伝統芸能「組踊」(くみうどぅい)がユネスコの無形文化遺産に登録され、沖縄中が喜びに包まれている。組踊は、歌三線、台詞、踊りの総合芸術である。中国から国王認証のために琉球に来た冊封使(さっぽうし)を歓待するために創作された。琉球王国には、踴奉行という役職まであり、玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)が初めて組踊を創作し、1719年上演したものだ。

   001 無形文化遺産登録を伝える沖縄テレビ

   002  沖縄テレビから

 日本では、能楽、人間浄瑠璃、歌舞伎、雅楽など13件が登録されているが、組踊は日本の伝統の要素も参考にしているが、琉球独自の芸能だ。こんな総合芸術は、日本でも他に例がないだろう。人類共通の遺産として保護すべきとされたのは、スゴイことだ。沖縄の伝統芸能が世界に誇るべき価値を有していることが示された。

  039沖縄テレビから

 朝薫が創作した5演目の「二童敵討」(にどうてぃちうち)「執心鐘入」(しゅうしんかねいり)「銘苅子」(めかるしー)「女物狂」(おんなむぬぐるい)「孝行の巻」(こうこうぬまき)は「朝薫の5番」として、300年近くたったいまでもたえず上演される。組踊は、王府が冊封使を歓待するのが目的だったので、そのテーマは封建的な道徳を反映し、仇討物や忠臣、忠孝を内容とするものが圧倒的に多かった。 

 唯一の例外である男女の恋愛をテーマにした組踊が、平敷屋朝敏作「手水の縁」である。結婚は親が決めるものだった王府の時代に、親の許しのない恋を、死罪の危険を乗り越えて成就させる内容だ。封建道徳と秩序を堂々と打ち破る画期的な組踊だった。朝敏は、政治犯として処刑されるという悲劇的な最期を遂げた。この組踊については、ブログにアップしてある「琉球悲劇の文学者ー平敷屋朝敏覚書」に詳しく書いたので、関心があれば読んでいただきたい。ブログは、2010年7月21日です。

 話は、少し横道に入った。無形文化遺産に登録された組踊は、「国立劇場おきなわ」で、常時、上演されている。伝統的な組踊に加えて、芥川賞作家の大城立裕氏らが新作組踊の脚本を書き、沖縄戦をテーマにしたものなども上演されている。残念ながら、国立劇場にまだ行ったことがなーい。一度、観劇に行きたいものだ。

 組踊のすごいところは、国立劇場だけではなく、離島や村から字区にいたる単位でも、村芝居の一つとして、組踊が上演されることだ。もう長くなったので、これは次にしましょうねえ。

2010年11月14日 (日)

遭難船を互いに救助し合った琉球と中国

 遭難したパナマ船籍の貨物船の中国人乗組員の救助問題について書いたついでに、琉球と中国は、数百年も昔から船の遭難に際して互いに救助した歴史があることにふれておきたい。

 東シナ海や琉球列島の周辺海域では、古来から中国や琉球、朝鮮などの船が、台風にあったりしてよく遭難した。琉球王国は14世紀以来、中国皇帝に朝貢し、皇帝から国王として認証を受けるという関係を500年にわたり続けてきた。だから、中国への朝貢や交易のために東シナ海を往来した。中国に行くのは「唐旅」と呼ばれ、それは遭難や海賊の危険があるので「死の旅」のように思われた。中国からも国王を認証するため冊封使(さっぽうし)の一行がやってきていた。

 それだけでなく、中国から各国への交易の船、漁船も航海し、琉球でも宮古、八重山との往来や400年前から琉球を支配する薩摩藩にも定期的に往来していた。それらの船がしばしば遭難して、中国や琉球に漂着した。そういうとき、中国と琉球は、互いに相手の国の船員を救助し、丁重にもてなし、そして相手の国にまで送り帰すのが慣例だった。

 琉球王府の外交文書を収めた「歴代宝案」には、海遭事故による漂流民についての記録がたくさん出ている。琉球の船が遭難すると、海流の関係だろうが、漂着する海岸は、福建省よりより北側にある浙江省が2倍くらい多かったそうである。でも 中国側は、漂着した船はどの場所に漂着しても福建省の福州に連れてきて、そこで取り調べにあたった。どこからやってきたのか、いつ出発して、どこへ行くのか、積荷の検査などもした。漂着民の扱いについての規定があり、滞在中は食事や衣服など支給した。

 帰国は、福州で進貢船など琉球から船が来るのを待つ。到着すればそれに乗せて送還する。このように救助と送還はシステム化されていたそうだ。

 琉球への中国船の漂着も、同様に救助し、送還した。尖閣諸島についてのブログでも書いたが、1920年(大正9年)に福建省の漁民が尖閣諸島に漂着し救助された時は、中華民国在長崎領事が当時の石垣村長に感謝状を贈った。

 ただ、遭難が悲惨な結末を迎えた事件もある。それは1871年(明治4年)、那覇に年貢を運んできて帰ろうとした宮古船が台風で遭難し、台湾に漂着した。不幸にも、琉球の役人や船頭など乗組員66人のうち、54人が殺害された。生存して帰国できたのは12人だった。

 明治政府は1874年、3600名余りの「征討軍」を台湾に派遣して、攻撃した。これが、明治政府が行った最初の海外派兵だった。琉球は清国から冊封を受ける関係を続けてきたので、この明治政府の「台湾征伐」には反対したという。この後、日本は、日清戦争、日露戦争と引き起こし、対外侵略の道を歩むことになる。

 東シナ海と琉球列島の周辺海域での船の遭難には、こんな歴史もある。船の遭難はどの国であったも、救助し合うことが、当然のルールである。海難救助のための国際条約では、どの国の船舶も、海上で生命の危険にさらされている者を発見した時は、援助を与えると定めている。まあ、そんな国際条約などできるずっとずっと以前から、琉球と中国は互いに海難事故で救助しあってきた歴史があることを、振り返ってみることも無意味ではないだろうと思う。

2010年11月13日 (土)

遭難した中国人船員を救助する映像を見て

 沖縄の西表島の南方海上で、パナマ船籍の貨物船が遭難して行方不明になり、第11管区海上保安本部の巡視船が中国人の乗組員5人を救助(うち2人は死亡}した模様を写した映像がテレビで流された。第11管区保安本部の撮影だった。25人の乗組員は全員が中国人で、まだ20人は行方不明で安否が心配される。

 映像は、海に漂う船員を必死で救助する様子が生々しく映し出された。こんな映像は、現場で救助にあたる海保でなければ、撮影できないだろう。映像のおかげでこの緊迫した救助の模様がリアルタイムで伝えられた。沖縄に住めば、海保は身近な存在のはずだが、日ごろはその活動についてもあまり知らない。でもこういう映像を見ると、海保の役割と活動がとてもよくわかった。

 それにつけても、思うのは、あの尖閣諸島の中国漁船の衝突事件である。やはり、ユーチューブに非公開の映像が流出したため、見ることができた。報道を見るだけでは、よくわからなかった衝突事件の実相が迫力ある映像で生々しく伝わってきた。なにも隠す必要のない映像だろう。衝突させた漁船の船長らを逮捕したのだから、今回の遭難した船員の救助のように、すぐに映像を提供して放送していれば、よかったのだ。そうすれば、国民にことの真相をわかりやすく伝えることができ、中国側の反発にたいしても、説得力ある対応ができたのではないだろうか。映像流出問題でこんな大騒ぎをすることもなかっただろう。

 それを、ことさら非公開にするから、「国民に知らせたかった」という海上保安官のよる映像流出問題が起きてくる。菅内閣の大失態にもなる。 中国と友好、平和の関係を発展させていくことと、領土問題や漁船衝突事件で、日本の道理ある立場を堂々と主張することとは、なんら矛盾することではない。中国側も、今回の船員の救助に当たり、中国大使館から海保に謝意が伝えられているという。

 中国人の船員の救助について、「中国は、尖閣諸島で衝突事件を起こしながら、今度は船の遭難で迷惑をかけるのか」というような意見が一部で聞かれるが、それとこれとは問題がまったく違う。船の遭難は、人道上も国際的なルールからも、互いに救助に当たることは当然である。琉球王国の時代から、琉球の船も中国の船も、お互いに海上で遭難し、漂着して、救助にあたってきた長い歴史がある。そのことにふれたいが、もう長くなるので、次回に回そうね。

2010年11月12日 (金)

沖縄には紅葉がない

 日本の秋といえば、色鮮やかな紅葉だろう。でも沖縄には紅葉がない。なぜなら、秋に色を染めて葉を落とす落葉樹が極めて少ない。ほとんどは常緑樹だからだ。まったくないかといえば、少しだけある。ハゼの木やカンヒザクラ、それにクヮーディーサーである。

       019 公園の木もほとんど常緑樹。写真はガジュマル

 いま「四季の喜び」という民謡をサークルで練習しているが、その中に「秋や野山ぬ紅葉に」とあるので、隣のおじいに「沖縄にモミジはあるんですか?」と質問した。「ないよ、モミジはない」と断言した。つまり、色づく木の葉は少しあるが、モミジはない。だから、大和のように山一面が紅葉するとか、モミジの鮮やかな紅葉は見られない。だからウチナーンチュにとって、紅葉は、雪に次いで一つのあこがれでもある。

     014 ハゼの木は例年色づくが今年は葉っぱが色づく前に大分散っている

     013 ハゼは実がたくさんなるので鳥の餌だ。鳩が10羽ほどとまっていた 

 落葉する樹木にあげたクヮーディーサー(コバテイシ、モモタマナともいう)は、葉っぱが掌より大きい。いま色づき始めた。でもこれは葉が大きすぎるし、色もあまり美しくない。だから紅葉と呼べるほどのものではない、と勝手に解釈している。なぜか、この木はお墓によく植えられている。

 面白いのは、この木が沖縄民謡、琉球古典曲にはいろいろ歌われていることだ。「屋慶名(やけな)クワデサ節」「踊くはでさ節」など。

    002 クヮーディーサーの葉が色づきはじめた。葉は大きい。紅葉より芽吹き始めたときの新緑が一番美しい

 屋慶名クワデサ節は「枝持ちぬ美らさぬよ」と歌われる。枝ぶりがとても美しいという意味だ。たしかに、木は横にしっかり枝が張り、枝ぶりは見事である。この唄は、木の美しさを入口にしているが、実は恋歌である。枝ぶりの美しい木の下で、遊んでいこう、前の浜に舟を浮かべて、美しい女性を乗せて遊ばせよう、という風に歌われる。

  003_2 枝ぶりは確かによいクヮーディーサー

 「踊くはでさ節」は、なぜか木のことは登場しない。「四つ竹」という竹片4枚を使いカスタネットのように鳴らす楽器を持ち琉球舞踊を舞う曲である。「四つ竹を打ち鳴らし、鳴らし、今日はお座に出て遊ぶうれしさよ」という歌意である。

 八重山には「石ヌ屏風節」(いしぬびょうぶぶし)という曲がある。やはり、八重山の代表的な古典女踊りの一つだという。自然の岩山が石の屏風のように立っている様やクヮーディーサーの枝ぶりの見事さに負けない、女性のそぶりの美しさを歌った曲だという。まだ聞いたことがない。

 でも、沖縄にもいろんな木があるのに、なぜクファディサーばかり、民謡でいろいろ歌われるのだろうか。それがよくわからない。

2010年11月11日 (木)

沖縄の未来がかかる県知事選挙

 米海兵隊の普天間基地の返還問題を大きな争点とした県知事選挙が告示された。夕刊のない沖縄では、4ページ建ての号外が宅配された。今回の選挙が、歴史的な重要性を持っているからだろう。現職と前市長の事実上の一騎打ちである。

 沖縄らしいのは、二人の候補者とも、早朝に、家族とともに仏壇や神棚に必勝を祈願している光景が、写真特集に掲載されていることだろう。シンボルカラーが、両方とも黄色というのは、偶然の結果か。でも紛らわしい。

 政権与党の民主党は候補者も立てられない、推薦もできないで自主投票という。こんな知事選はほかには例がない。県外移設を約束しながら、公約を投げ捨て、従来の辺野古移設に回帰する理不尽な行動をとったためだ。政府のすすめる日米合意の実行を公約に掲げて立候補すれば、その政党、候補者は沖縄県民から見捨てられるだろう。

 気になるのは、テレビ報道の一部が、現職候補は、県外移設に転じて、「県内移設はできない」ことでは二人とも一致していると述べていることだ。これは、事実をねじ曲げる報道であり、普天間問題の争点ぼかしにしかならない。マスメディアの見識が問われる。

 すでに行われた両候補による公開の討論会でも、現職は、県外移設は主張していても、県内移設に「ノー」「反対する」とは口が裂けても言わない。「不可能に近い」などと解説するだけだ。埋め立て申請が知事に提出された場合、拒否するとは絶対にいわないで口を濁す。つまり、政府が県内移設を進めた場合、容認の余地を残している。前市長は、県内移設は断固反対し、埋め立ても認めないと明言している。だから両者の違いは鮮明である。それに、現職候補は、県外移設を主張しているが、自民党本部は県内移設の立場を貫いていて、県外移設は絶対に認めない。だから、現職の推薦は自民党県連だけにしている。

 県民世論は、ことし5月の調査では、辺野古移設には8割が反対している。県民はこぞって投票所に足を運び、その良識をきっぱり示すのが、今回の県知事選ではないだろうか。

 

2010年11月10日 (水)

長宗我部一族とそのルーツ

 いまNHKの大河ドラマにしてほしい戦国時代の英雄で、人気のあるのは長宗我部元親(ちょうそうがべもとちか)だという。歴女に熱い人気があるらしい。沖縄に住む者には「長宗我部って何者?」という感じだろう。

 戦国の世に土佐で生まれた長宗我部元親は、土佐を征服し、さらに四国を制覇した英雄である。でも関ヶ原の合戦で石田三成陣営に組し、徳川陣営に敗れたため、国を奪われ、土佐は山内一豊の領地とされた。でもそれが、なんで沖縄と関係あるの? まったく何の関係もない。ただ、元親の弟、親房を初代とし17代目の友親氏が「長宗我部」という本を出版し話題である。共同通信の記者をしていた友親氏が、実は那覇支局にいたことがあるというのがいう唯一の縁である。それで最近、那覇市内の書店で講演会を開いたばかりだ。

 興味を引いたのは、そのルーツである。長宗我部の遠祖は、中国の秦の始皇帝であり、日本に渡来した秦一族の末裔が土佐に渡った。そして長宗我部を名乗ったという。2000年を超える血脈の歴史があり、70代ほど繋いできているとして、系図が掲載されている。長宗我部元親を祀った神社は「秦神社」」という。

 四国の覇者の遠祖が秦の始皇帝だというのに驚いた。でも先祖が中国といえば、沖縄ではあまり珍しいことではない。というのは、琉球は14世紀から、中国の明の皇帝に朝貢し、皇帝から国王として認証を受けていた。明から「閩人(びんじん)三十六姓」とよばれる中国人が琉球に渡来した。彼らが居住した地区を久米村(くにんだ)という。その子孫は、王府の外交や交易など大事な公職に就き、大いに貢献した。

 琉球が中国との窓口にしたのは福建省である。渡来した人々もこの地方の人たちが多かっただろう。なかでも、福建省には客家(はっか)の居住地がある。客家は、4,5世紀ごろから、中国の王朝のあった中原(ちゅうげん)が、北方騎馬民族の侵入、王朝の交代など見舞われるたびに、戦乱を逃れて南下し、長江を渡り、福建や広東などに落ち延びた。山深い地域に住み着き、地元住民から「よそ者」と見られて、「客家」と呼ばれたという。

 狭い地域で人口が増えると、東南アジアをはじめ海外に出かけ、華僑として活躍した。子弟の教育に熱心で、孫文をはじめ近代中国の偉大な人材を輩出したことで知られる。

 つまり、琉球に渡ってきた「閩人三十六姓」も、ルーツはこの客家ではないか、という説がある。実際に14世紀に琉球に渡来した鄭(てい)義才という人を始祖とする鄭氏門中会(父系の血縁組織)では、「我々鄭氏が客家であることの確信できる資料」が中国から贈呈されているという。

 いまの仲井真県知事も、中国から渡ってきた人の末裔だという。沖縄学の父といわれる伊波普猷氏も、祖先は福建出身ではないが、中国西部、甘粛省の天水というところの魚氏の子孫であり、先祖は明帝の侍医になっていたが、不老長寿の薬を求めて日本に渡ってきたと、自著でのべている。

 「もう長宗我部とまったく関係ないじゃないか!」といわれるだろう。その通りである。日ごろ、那覇市の「ひめゆり通り」を車で通っていると、通りに面して「梁氏呉江会」(りょうしごこうかい)という看板のあるコンクリート建ての家があり、「これってなんだろう?」と思っていたら、やはり先祖を中国にもつ人々の血縁組織であり、その事務所だった。こんな立派な事務所を持っているなんてスゴイな、と思って見ていた。それで、先祖が中国と聞くと、つい連想したのだった。お許し願いたい。

2010年11月 9日 (火)

首里の儀保周辺を散歩する

 11月は沖縄の気候としてもっともすごしやすい季節だ。気温は23,24度で暑くはないし、寒くもない。それに天気も晴れる日が多く、降水確率0%という沖縄では珍しい日がある。

 それでというわけではないが、ついでがあり、首里の城下町にあたる儀保(ぎぼ、方言ではじーぶ)から、少し散歩した。儀保から山川に向かう道路わきに松山御殿(うどぅん)跡がある。琉球最後の国王尚泰の四男、尚順が経営した農園があった。地名から「桃原農園」と呼ばれた。いまは、イタリアンレストラン「ラ・フォンテ」がある。前にランチを食べに来た。

   026 松山御殿跡のレストランの庭

 坂道を登ると由緒ある風情の玉那覇味噌醤油がある。王府末期に創業され、王家御用達にもなった首里の名産の味噌醤油だという。いまも手作り、天然醸造、無添加で製造されている。

   033  玉那覇味噌醤油、隣が工場

 元は、首里の士族の仲田家の屋敷、仲田殿内(なかたうどぅん)跡だという。

 向かいには「安谷川嶽」(あだにがーうたき)がある。首里大阿母志良礼(しゅりのおおあむしられ)と呼ばれる高級女神官の一人が司る御嶽(うたき、拝所)の一つである。

    036 アーチ状の門が見える

 アーチ門が拝殿の役割をする。琉球では、こういう門が拝殿の役割をするのがとても不思議な感じがする。首里城の園比屋武御嶽(そのひやんうたき)石門もそうだ。

    038 門で仕切られた内側

 内側は神聖な岩と木を中心にした石囲いがあり、背後に洞穴がある。

  さらに登っていくと、かつては琉球王国の王子が住む中城御殿があった旧県立博物館跡に出る。その南には龍潭池(りゅうたんいけ)が水をたたえている。

   042_2 龍潭池

 旧博物館跡の北側石塀のそばで思わぬ物に出合った。それは、「沖縄の子守唄の不思議」で紹介した「耳切り坊主」がつくられた伝説の場所だという案内板である。

   040_3  「耳切り坊主が鎌、小刀で泣く子の耳をゴソッと切る」と歌われた舞台の場所がここだという

  ここから坂道を下りていくと「上之橋」(いーぬはし)に出る。弁ヶ嶽を源流とする儀保川(じーぶがー)に架かる橋。首里は山の上に城があり、その中腹に住宅が密集している感じになっているので、川は驚くほど険しい。下流には「下之橋」(しむぬはし)がある。

   049 上之橋

 橋を渡ってくると琉球菓子で有名な新垣菓子店がある。「元祖、本家」と強調している。城下町だけに、菓子・餅屋、泡盛酒造所などはとても多い。

  050 新垣菓子店

 まあただの散歩で終わりました。首里は、歴史上の史跡がたくさんあるので、そのうち、史料を持ってゆっくり歩きたい。

2010年11月 8日 (月)

和の力で日本一になったロッテ

 ミラクルロッテが、ついに日本シリーズを制し、5年ぶりに日本一に輝いた。ロッテのキャンプ地、石垣島では、キャンプで選手が使う屋内練習場に200人を超える市民、ファンが詰めかけ、熱烈応援した。優勝の瞬間にはくす玉が割れ、指笛が鳴り響いたそうだ。

 ペナントレース3位からパリーグで勝利し、「ミラクル」と言われたが、さすがに中日が相手。中日は投手力では12球団随一とあって、下馬評は中日有利だったから、その分余計にロッテファンの喜びは大きい。琉球放送のスポーツ番組では、事前に「4対1で中日優勝」などと圧勝の予想を流していたので、DJもディレクターも「ロッテは強かった」と反省しきりだった。

 ロッテの石垣島でのキャンプは今春3年目だった。2007年には石垣出身の大嶺祐太君がロッテに入団し、まだ勝ち星は少ないが、一軍の先発に名を連ね、ことしから弟も入団した。さらに来年は、宮古島出身の伊志嶺翔太外野手が入団する。彼は、強肩強打俊足の三拍子そろった即戦力なので、活躍が期待される。ロッテに、県出身の三選手がいることになり、石垣のロッテ応援はさらに熱くなりそうだ。ファンは、ロッテが石垣にキャンプにきて日本一になったことを大喜びし、来春は優勝旗が石垣に来ると胸を膨らませている。

 石垣だけでなく、本島でもロッテファンは増えている。西村監督は人間として人柄もよい。バレンタイン前監督は、ヘッドコーチだった西村氏の意見などまるで聞かなかったらしい。西村氏はチームの「和」をスローガンに掲げた。野球は集団競技なので、チームの和、団結は強い力を引き出す。ロッテ野球を見ていても、飛びぬけたスターはいない、ホームラン量産の大砲もいない。でも選手はとても積極的な打撃と、「つなぎの4番、サブロー」に象徴されるように、つなぐ野球でチャンスを作り、広げ、加点していく。中日が誇る投手陣も、先発で勝ったのはチェンだけというように、ロッテの打線を防ぎきれなかった。西村監督の掲げた「和」の力が日本一を勝ち取ったといっても過言ではない。

 そういえば、高校野球で春夏連覇の偉業を成し遂げた興南高校のモットーも「魂、知、和」だった。なにか通じるものがあるだろうか。マスメディアでは、3位のチームが日本一になったので、もっぱら「下剋上」というが、もともとパリーグでは上位3チームの差は少なかった。うまく勢いにのったロッテが勝利した。それに、交流戦の成績を見ても、パリーグのチームが上位を占めており、パリーグのチームの力が勝っているということが、日本シリーズでも証明されたという面があるだろう。そういう点では「下剋上」というのもあまりしっくりこない。これからプロ野球はシーズンオフだが、沖縄では来春のキャンプが、一番身近に見聞きできる最大のチャンスである。ファンは楽しみにしている。

2010年11月 7日 (日)

沖縄の子守唄の不思議・総集編、その4

 宮古島の保良の子守唄は、驚くことが歌われる。父、母は上役人を殺すため毒魚を獲りに行っているという。なぜなのか、それには背景がある。沖縄の子守唄には「脅しの唄」はあまりないが、有名な「耳切り坊主」は、首里の伝説がもとになった「脅しの子守唄」である。近代沖縄音楽の先駆者といわれる宮良長包さんは、「非教育的」だとして嘆いている。最後に、番外編として、沖永良部島の子守唄を紹介して、終わる。

      040  「耳切り坊主」の舞台となった場所に案内板がある

      042 すぐそばには龍潭池がある

 「komoriuta.4.doc」をダウンロード

2010年11月 6日 (土)

沖縄の子守唄の不思議・総集編、その3

 八重山の子守唄で、有名な「月ぬかいしゃ節」は、子守唄と言いながら、立派な恋歌だ。これが不思議だ。子守唄で最も多いのは、「お父さん、お母さんはいま働いているよ」という唄だ。「ぺーぺーぬ草刈いが」もその一つ。「ぺーぺー」とはヤギのことだ。宮古では、「我んが守り」(平良の子守唄)が有名だ。「「私が子守りしてあげるよ」という意味である。その3は、こんな内容である。子守唄を聞いてみたい人は、動画の「ユーチューブ」で、検索すると有名な曲はだいたい出る。

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2010年11月 5日 (金)

沖縄の子守唄の不思議・総集編、その2

 日本の子守唄には、子どもを寝かせる「寝かせ唄」と「遊ばせ唄」そして「守り子唄」という3種類がある。子守唄は世界中どこにもあるが、日本の子守唄は特異だ。それは親元を離れて遠くに子守り行く「奉公守り子」の唄まで含まれているからだという。「守り子唄」には、「泣く子が憎い」という嘆きなど歌われる。沖縄の子守りは、奉公ではない。家庭で子守りできない家は、「守姉」が子守りした。子守りは楽しみであり、誇りでもあったという。その2は、こんな内容である。

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2010年11月 4日 (木)

パーマ屋は生きている

 ビギンの「パーマ屋ユンタ」についてブログに書いた。そこで「パーマ屋」という言葉自体がレトロな感じがすると書いた。もう「パーマ屋」という呼び名は死語になっているのかと思っていたら、糸満市では堂々とパーマ屋が営業していた。「ああ、パーマ屋はまだ生きているんだ!」と懐かしく見た。

   046 張ってあるポスターの写真も超レトロだ

  一か所ではない。ほかにもある。実は、糸満は、美容室がとっても多いことで有名らしい。「週刊レキオ」という新聞の「島ネタ調査班」が4年前、調べて報道したことがある。糸満は、美人が多いことでも有名である。だから交通安全のスローガンに「糸満美人多し、スピード落とせ」と横断幕を掲げているほどである。「糸満の女性はオシャレ好きさー」という。美人はオシャレで、美容院によく行くのだろうか。

    052  こんな看板も出ている

 戦前から糸満女性は、男衆が獲ってきた魚を那覇市まで歩いて行商にいっていたことで知られている。それだけ、糸満女性は経済力をもっていた。男に頼らない自立心もあったのだろう。経済力もあれば、オシャレもできる。

 それに「糸満女性は手に職をつける自立心がある。それで美容師をめざす人が多い」という(「週刊レキオ」から)。ウミンチュ(海人、漁師)の男たちを支えてたくましく生計を立ててきた糸満アンマーのパワーが多くのパーマ屋を生みだした背景にあるともいう。

 パーマ屋の多さは、半端じゃない。糸満市で110軒ある。とくに、中心部の糸満ロータリーから、FMたまん(ローカルラジオ局)のある場所までの約1・3㎞の間に17軒もある。70mに1軒ある勘定になるそうだ。これも「週刊レキオ」編集部が歩いて調べた結果である。

    053  美容室の看板は「パーマまき」

 といっても、今日の問題は、美容室の数より「パーマ屋」である。ちなみに、電話帳「タウンページ」をめくり、「パーマ」という名前のつく店を探してみた。ありました。あの沖縄戦の終結の地といわれる摩文仁(まぶに)に、文字通り「ぱーまやさん」という店名がある。糸満市内で合わせて3軒あった。ただ、写真に出ている店は、店名には「パーマ」とついていないので、この数には入らない。那覇市内で探すと「パーマ」のつく美容院は7軒ある。でも人口比で言えば、那覇は糸満の5倍余の人口だから、「パーマ」と名がつく店は糸満に多い。ほかの市町村でも店名を見たが、チラホラしかない。まあどうでもよいデータであるが。

 それはともかく、やっぱり「パーマ屋」という言い方には、なんか哀愁がある。ビギンの「パーマ屋ユンタ」のように、糸満のパーマ屋アンマーも、隣近所の子どもたちの髪を、小さいころから切ってきた間柄なのだろうか。そんなことを考えた。

 

2010年11月 3日 (水)

糸満のマチグヮーを歩く

糸満市に行ったので、久しぶりにマチグヮーを歩いた。中央市場のことだ。漁港のすぐ前にあり、古くからの糸満の雰囲気がある場所だ。

     054 中央市場の入口

 入口のすぐ角には「あんまー魚市場」がある。糸満は戦前、男たち漁師が獲ってきた魚を、アンマー(お母さん)たちが、頭に載せて那覇まで歩いて売りに行っていたことで知られる。この魚市場は、魚行商をしていたアンマーがつくったという。祝日なので、魚の卸売市場が休みで、魚市場も閑散としていた。

     055 一軒だけマグロを売っていた

 中央市場には、豚肉、野菜、糸満名物のかまぼこ、豆腐、カツオ節、揚げ菓子、衣料品など小さな店が50軒ほど入っている。

    034 豚肉を切っている

 海人(ウミンチュ)の町だから、旧暦の伝統行事がいろいろある。とくに旧盆や旧正月は、市場はとってもにぎわう。もう「糸満の台所」というほど客は多くない。この日もお客はチラホラだが、伝統的な対面販売なので、買い物客は店でゆんたく(おしゃべり)する。

    040  孫らしき子ども連れのおじいも買い物している

    035 上原食品にはおばあの肖像画が掲げられている

 なぜここに肖像画があるのかなあ。ほかにも絵が掲げられている。絵の上手い人がいるのだろうか。昔の映画の看板のようで、懐かしい雰囲気がある。

 市場の中央部には、市場ギャラリー、三角コーナーがあり、イベントはここでするという。おばあたちがゆんたくしていた。

     044  ゆんたくするおばあたち

  芝生のある三角コーナーは、店の裏側になると思ったら、食堂は裏からも、表からも入れるようになっている。

   048裏口にも看板がある

 沖縄戦の激戦の地である糸満は、いまなお不発弾が大量に見つかり、爆発事故もあった。やっぱり平和を大事にする。ありました。「平和食堂」。

  057平和食堂は市場入口にある

 中央市場が建設されたのは1965年(昭和40年)だという。「前は休まず店を開けていたが、お客は少なくなった。だから日曜は休むよ」と衣料品店のアンマーが嘆く。

 でも、やはりマチグヮーは、古い伝統と習慣、食文化などを感じることができる場所である。それ自体が残してほしい文化である。

2010年11月 2日 (火)

沖縄の子守唄の不思議・総集編、その1

 ブログに「沖縄の子守唄の不思議」について、何回か短文を書いてきた。断片的な話しに終わっているので、もう少しまとめておきたいと考えた。その後、少し調べてみた。一応まとまったので4回に分けてアップしたおきたい。これまでのブログに書いた標題と区別するため、ブログ上は「総集編」としておいた。

 第1回は、沖縄と大和の子守唄の違いはどこにあるのだろうか、同じ子守唄といいながら、まるで印象が違うのはなぜなのか?そんな内容である。

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2010年11月 1日 (月)

瓦屋の始まり、その3、土帝君

 琉球に瓦焼きを伝えた渡嘉敷家のすぐそばに、中国からやはり16世紀ころ、伝えられた土帝君(トゥ-ティークン)がある。那覇市の国場十字路から少し坂を上がったところだ。

         002 土帝君の入り口にある碑

  土帝君は、中国では土地神とされるが、この国場では、土地神だけではなく、農業、漁業、悪魔払いの神様として崇められているそうだ。旧暦2月2日には、土帝君祭が行われるという。そうはいっても、国場は海岸ではないので、なぜ漁業まで入るのだろうか。でも国場川があり、川は漫湖をへてすぐ河口で海に出られる。だから、昔は国場のあたりでも漁をする人がいたのだろう。でなければ、漁業は入らないから。    

        001 由来が書いてある

 碑の建つ入口から入ると、なかはこんなに広いスペースをとり、土帝君が祀られている。中央にある石造りの構造物が祠になる。珍しい形をしている。

         014_2 回りは住宅街である

      012  中央に土帝君が祀られ、両側にシーサーが鎮座している  

            010   土帝君の両脇にあるシーサー

 

     009    これが土帝君の本体

 土帝君の本体は、石で囲われて外から見えにくい。よーくよーく、中をのぞくとやっと本体が見えた。これだけ囲っているのは、なにか理由があるからだろう。沖縄戦でひどい目にあったのだろうか?そういえば、首から上は一度、とれたのか胴体と異なっている。そこに囲った理由があるかもしれない。

 国場の土帝君を実際に見るまでは、小さな祠があるぐらいだろうと思っていた。でも公園のように整備され、立派な祠があるので、驚いた。それだけ、国場の人々に、土地の守り神として、慕われてきたのだろう。この近くには、登野城御嶽(とのしろうたき)という拝所もある。ここも立派な御嶽である。

 那覇市内には、土帝君はこの国場と、裁判所近くにある餃子屋さんにしかないと民俗学の先生は言っていた。先日、その餃子屋の前を通ったら、もう店はなくなっていた。土帝君はどうなったのだろうか、心配になった。

 ちなみに、中国の影響の強い沖縄では、各地に土帝君がある。ネットで検索すると本部町の瀬底、西原町棚原、南城市佐敷地区字屋比久、伊是名島、久米島などにあるという。本部町瀬底の土帝君は、1712年に清国から木像を持ち帰り祀ったものだという。お供えの写真が出ているが、スゴイ。豚の丸焼き、山羊の丸焼き、生の鳥、グルクン(魚)、ソラマメ、餅という具合である。それだけ、信仰があついのだろう。

追記

1日、那覇市壷屋のやちむん(陶器)通りまつりに出かけたら、壷屋に「ニシノメー」(北の宮)という拝所があった。大正時代につくられたものだが、そこにはやはり土帝君と焼き物の神様が祀られていた。でも、ここでも祠にはカギがかけられ、見えないし、開かないように厳重に保管されていた。那覇の土帝君は2か所ではなかった。壷屋にもあったのだ。ほかにもあるのかもしれない。

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