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2010年11月14日 (日)

遭難船を互いに救助し合った琉球と中国

 遭難したパナマ船籍の貨物船の中国人乗組員の救助問題について書いたついでに、琉球と中国は、数百年も昔から船の遭難に際して互いに救助した歴史があることにふれておきたい。

 東シナ海や琉球列島の周辺海域では、古来から中国や琉球、朝鮮などの船が、台風にあったりしてよく遭難した。琉球王国は14世紀以来、中国皇帝に朝貢し、皇帝から国王として認証を受けるという関係を500年にわたり続けてきた。だから、中国への朝貢や交易のために東シナ海を往来した。中国に行くのは「唐旅」と呼ばれ、それは遭難や海賊の危険があるので「死の旅」のように思われた。中国からも国王を認証するため冊封使(さっぽうし)の一行がやってきていた。

 それだけでなく、中国から各国への交易の船、漁船も航海し、琉球でも宮古、八重山との往来や400年前から琉球を支配する薩摩藩にも定期的に往来していた。それらの船がしばしば遭難して、中国や琉球に漂着した。そういうとき、中国と琉球は、互いに相手の国の船員を救助し、丁重にもてなし、そして相手の国にまで送り帰すのが慣例だった。

 琉球王府の外交文書を収めた「歴代宝案」には、海遭事故による漂流民についての記録がたくさん出ている。琉球の船が遭難すると、海流の関係だろうが、漂着する海岸は、福建省よりより北側にある浙江省が2倍くらい多かったそうである。でも 中国側は、漂着した船はどの場所に漂着しても福建省の福州に連れてきて、そこで取り調べにあたった。どこからやってきたのか、いつ出発して、どこへ行くのか、積荷の検査などもした。漂着民の扱いについての規定があり、滞在中は食事や衣服など支給した。

 帰国は、福州で進貢船など琉球から船が来るのを待つ。到着すればそれに乗せて送還する。このように救助と送還はシステム化されていたそうだ。

 琉球への中国船の漂着も、同様に救助し、送還した。尖閣諸島についてのブログでも書いたが、1920年(大正9年)に福建省の漁民が尖閣諸島に漂着し救助された時は、中華民国在長崎領事が当時の石垣村長に感謝状を贈った。

 ただ、遭難が悲惨な結末を迎えた事件もある。それは1871年(明治4年)、那覇に年貢を運んできて帰ろうとした宮古船が台風で遭難し、台湾に漂着した。不幸にも、琉球の役人や船頭など乗組員66人のうち、54人が殺害された。生存して帰国できたのは12人だった。

 明治政府は1874年、3600名余りの「征討軍」を台湾に派遣して、攻撃した。これが、明治政府が行った最初の海外派兵だった。琉球は清国から冊封を受ける関係を続けてきたので、この明治政府の「台湾征伐」には反対したという。この後、日本は、日清戦争、日露戦争と引き起こし、対外侵略の道を歩むことになる。

 東シナ海と琉球列島の周辺海域での船の遭難には、こんな歴史もある。船の遭難はどの国であったも、救助し合うことが、当然のルールである。海難救助のための国際条約では、どの国の船舶も、海上で生命の危険にさらされている者を発見した時は、援助を与えると定めている。まあ、そんな国際条約などできるずっとずっと以前から、琉球と中国は互いに海難事故で救助しあってきた歴史があることを、振り返ってみることも無意味ではないだろうと思う。

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コメント

でも、今回の中国漁船衝突事件は、たとえ中国が尖閣諸島を「自国の領海だ」とする立場をとっていたとしても、「衝突」じゃなくてあきらかに故意な「追突」ですから、領土問題を解決するのにあまりに乱暴なやり方じゃないですか。海難事故は国境の枠を超えて助け合うが、領海侵犯はやり得というのはなんだかしっくりきません。これは自然な国民感情じゃないでしょうか。

おっしゃる通りです。尖閣諸島は日本の領土であることは明確ですし、領土侵犯には毅然とした対応をとることは当然ですね。

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