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2010年11月10日 (水)

長宗我部一族とそのルーツ

 いまNHKの大河ドラマにしてほしい戦国時代の英雄で、人気のあるのは長宗我部元親(ちょうそうがべもとちか)だという。歴女に熱い人気があるらしい。沖縄に住む者には「長宗我部って何者?」という感じだろう。

 戦国の世に土佐で生まれた長宗我部元親は、土佐を征服し、さらに四国を制覇した英雄である。でも関ヶ原の合戦で石田三成陣営に組し、徳川陣営に敗れたため、国を奪われ、土佐は山内一豊の領地とされた。でもそれが、なんで沖縄と関係あるの? まったく何の関係もない。ただ、元親の弟、親房を初代とし17代目の友親氏が「長宗我部」という本を出版し話題である。共同通信の記者をしていた友親氏が、実は那覇支局にいたことがあるというのがいう唯一の縁である。それで最近、那覇市内の書店で講演会を開いたばかりだ。

 興味を引いたのは、そのルーツである。長宗我部の遠祖は、中国の秦の始皇帝であり、日本に渡来した秦一族の末裔が土佐に渡った。そして長宗我部を名乗ったという。2000年を超える血脈の歴史があり、70代ほど繋いできているとして、系図が掲載されている。長宗我部元親を祀った神社は「秦神社」」という。

 四国の覇者の遠祖が秦の始皇帝だというのに驚いた。でも先祖が中国といえば、沖縄ではあまり珍しいことではない。というのは、琉球は14世紀から、中国の明の皇帝に朝貢し、皇帝から国王として認証を受けていた。明から「閩人(びんじん)三十六姓」とよばれる中国人が琉球に渡来した。彼らが居住した地区を久米村(くにんだ)という。その子孫は、王府の外交や交易など大事な公職に就き、大いに貢献した。

 琉球が中国との窓口にしたのは福建省である。渡来した人々もこの地方の人たちが多かっただろう。なかでも、福建省には客家(はっか)の居住地がある。客家は、4,5世紀ごろから、中国の王朝のあった中原(ちゅうげん)が、北方騎馬民族の侵入、王朝の交代など見舞われるたびに、戦乱を逃れて南下し、長江を渡り、福建や広東などに落ち延びた。山深い地域に住み着き、地元住民から「よそ者」と見られて、「客家」と呼ばれたという。

 狭い地域で人口が増えると、東南アジアをはじめ海外に出かけ、華僑として活躍した。子弟の教育に熱心で、孫文をはじめ近代中国の偉大な人材を輩出したことで知られる。

 つまり、琉球に渡ってきた「閩人三十六姓」も、ルーツはこの客家ではないか、という説がある。実際に14世紀に琉球に渡来した鄭(てい)義才という人を始祖とする鄭氏門中会(父系の血縁組織)では、「我々鄭氏が客家であることの確信できる資料」が中国から贈呈されているという。

 いまの仲井真県知事も、中国から渡ってきた人の末裔だという。沖縄学の父といわれる伊波普猷氏も、祖先は福建出身ではないが、中国西部、甘粛省の天水というところの魚氏の子孫であり、先祖は明帝の侍医になっていたが、不老長寿の薬を求めて日本に渡ってきたと、自著でのべている。

 「もう長宗我部とまったく関係ないじゃないか!」といわれるだろう。その通りである。日ごろ、那覇市の「ひめゆり通り」を車で通っていると、通りに面して「梁氏呉江会」(りょうしごこうかい)という看板のあるコンクリート建ての家があり、「これってなんだろう?」と思っていたら、やはり先祖を中国にもつ人々の血縁組織であり、その事務所だった。こんな立派な事務所を持っているなんてスゴイな、と思って見ていた。それで、先祖が中国と聞くと、つい連想したのだった。お許し願いたい。

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コメント

「ちょうそかべもとちか」であろうが「いはふゆう」であろうが、「祖先が中国」ということになると、なんでも反応しちゃうんですね。「久米三十六姓」は確かに「客家」かもしれないですね。でも「久米三六姓」のことを書きたいなら、ちょうそかべもとちかの祖先の話から始まらなくてもいいような・・・。「客家」といえば、私の生まれ育った横浜中華街の華僑の祖先もそうですか?。長崎の中華街の人たちのルーツもそうですかね。長崎といえば、NHKの大河ドラマ「龍馬伝」の重要な舞台ですね。あれには中華街は出てこないけど~。

 うーん。中国と琉球の交流史はすでに書いてブログにアップしてあるので、書くことはあまりありませーん。まあ連想ゲームのように、連想したに過ぎません。横浜や神戸など中華街の人のルーツを調べてはいませんが、東南アジアなどの華僑は、客家の出身が多いみたいですね。孫文は清朝を倒すのに、随分華僑の人々に援助してもらったそうです。
 「龍馬伝」には中華街は出てこないといっても、長崎には中国文化の影響は相当入っていますよね。龍踊りや龍舟のペーロン競争もあるし。江戸時代は、長崎の中国人は唐人屋敷に隔離され、一般の日本人は入れなくされ、入れたのは丸山遊女だけだったそうです。
 

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