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2010年12月

2010年12月31日 (金)

沖縄の新聞・元旦号は大晦日に配られる

 沖縄では、「琉球新報」「沖縄タイムス」の二紙とも、元旦号は年内の大晦日の夕方には、各戸に配られてきた。東京で長く暮らしていた体験から、1日付は元旦朝、配るのが常識だ。沖縄に来て最初の正月、というか、その前の31日夕、元日号が配られたので、ビックリ仰天した。「ところかわれば品変わる」というのはこのことだ。まあ、どうせ31日は、ニュースもたいしてないし、早く印刷して配り終えれば、記者も早く帰れるし、配達員も心おきなく正月と2日と休める。まあ、考えてみれば、合理的かもしれない。
 元日号の目玉は何か。トップニュースは「嘉手納爆音訴訟、第3次訴訟で、原告が第2次訴訟の4倍、2万人を超える」ということだ。これまでの全国の基地被害についての訴訟では、第4次厚木爆音訴訟が原告約7000人が最も多いというから、その3倍だ。
 原告は、嘉手納町、北谷町、沖縄市、うるま市、読谷村の住民である。いかに、周辺市町村の住民に耐えがた被害を与えているのかが、よくわかる。わが那覇市だって、戦闘機がこの年末も飛び回り、うるさいことこの上ない。
 元日号の紙面は、なんと114ページもある。それは、第1集から第4集まであるからだ。第2集は「つながる未来」で、ことし10月に「第5回世界のウチナーンチュ大会」が開かれることなど伝えている。第3集は「スポーツ」だ。2010年は、興南高校の甲子園春夏連覇をはじめ、宮里藍ちゃんのゴルフ全米ツアーで年間5勝など、大いに県民が歓喜する場面があった。2011年への期待も高い。プロ野球に新規入団した選手への期待もある。2011年から、巨人軍が春のキャンプで初めて沖縄セルラースタジアムに来ることが、もっぱらの話題である。
 第4集は、「芸能、テレビ・ラジオ」の話題。なんと、あの南沙織がデビュー40周年で登場。「故郷へのメッセージ」を語っている。これは、元日号の最大の目玉かもしれない。彼女は、嘉手納町で生れ、宜野湾市など基地周辺でずっと暮らしたという。お母さん、基地で働くフィリピン人の義父、妹2人、弟1人という家族だったという。
 「普天間のような人口密集地になぜ、いまだに飛行場があるんでしょうか。移設先が辺野古というのもだめ」「とにかく海を汚してほしくない。これが絶対条件です」と語る。そんな元日号である。
 2011年、沖縄と世界に「みるくゆがふ」を願っている。「みるくゆがふ」とは、「平和で幸せな世の中」というような意味である。

2010年12月30日 (木)

歳末の那覇公設市場を歩く

 083 年末年始の買い出しと言えば、那覇市では伝統ある牧志公設市場。大型店がたくさんあるなかで、市場でなければ、という買い物もある。
 長い行列ができていたのが、手打ちそばの店。沖縄ではあまり行列はない。でも、ここだけは別。そばの麺はどこでも売っているのに、よほど手打ちの評判の店だろう(右)。
 買うのも、1人前とかではない。もう大きなビニール袋に一杯詰めている。
 正月飾りもたくさんある。これも、普通の鏡餅などスーパーで売っているけれど、市場なら070 ではのものがいくつかもある。

 

 

 稲穂の束(左)があった。これと、金色の米俵など飾りのセットもある。
 なんといっても、沖縄ならではのものと言えば、「炭と昆布」。「たんとこんぶ」と読むので「たんと喜ぶ」に通じるので縁起が良いとされている(右下)。
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「新しい年を迎え、炭と昆布を飾って心も体も若くなるよ」という願いをこめた琉歌が、一緒に張られている。炭だけでも売っている。  
089  鏡餅も「火の神」(台所の神)の専用のものは、スーパーにはない(左)。
 鏡餅のそばに赤い紙を巻いたものがあるので、何かと思えば、鏡餅を置く敷紙。「大和は白い紙ですが、沖縄は赤、黄色、白の三色の紙ですよ」とお店のおばさんが説明してくれた(右下)。093

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 次は食材。やっぱり豚肉(左)。三枚肉、ソーキ(アバラ)、テビチ、中味(内臓)と山積みされている。大量に買うので、やはり市場がよいのだろう。とくに、中味汁、イナムドゥチ(沖縄風の豚汁)など、正月の定番料理は、市場で買うのがよい。だって中味だけ、こんなに多くはスーパーでは売っていない。大きな籠に中味がどさっとつまっている(右下)。

115  かまぼこも欠かせない。大和のかまぼこよりも、大きい。赤、白、それにカステラ121 かまぼこが並ぶ(左)。

 魚は、マグロやメカジキの天ぷら用の切り身が並ぶ。ハリセンボンは、正月とは関係ないだろうけど、写した(右107 )。

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  カツオ節は、汁物の出汁用なのか、どーんと並ぶ。いつも市場では、並んでいるけど。いつもより多いのではないか(左)。

 野菜類で、多いのは田芋(ターム)だろう。文字通り水田で栽培する。店頭で売られているのは065 、里芋などとは違い、煮物にしないのが沖縄料理。店ではすでに茹でたものが売られている(右)。煮た田芋をすりつぶして、砂糖醤油で味付けしたから揚げや田楽で食べるという。これはまだ、わが家では調理したことがない。
105 ごぼうも煮物では定番だ。店の奥では、おばさんがごぼうの皮を削いでいた。泥つきごぼうとともに、皮を削いだ白くキレイなごぼうを売っている。

まだまだあるが、もう際限ないからここらで終わります。市場のみさなん、年末までご苦労さま!

2010年12月29日 (水)

正月はやっぱり「かぎやで風節」

091_3  沖縄の正月に三線で弾き歌う曲と言えば「かぎやで風節」(かぢゃでふうぶし)である。お祝いの席では、必ず最初に弾く。わがサークルでも、新年会では、この曲と「恩納節」(うんなぶし)「辺野喜節」(びぬちぶし)の3曲を弾く。曲にあわせて女性陣が踊る。
 「かぎやで風節」といえば、その歌詞は「♪けふのほこらしゃや なをにぎやなたてる つぼでをるはなの つゆきやたごと」 歌意は「今日のうれしさは 何にたとえようか ちょうど蕾でいる花が 朝露にあって開いているような気持ちだ」。
 はじめてこの曲の工工四(くんくんしー、譜面)を見た時は、「かぎやで」という「ひらがな」なのに、「かぢゃでぃ」と別の読み方があるので戸惑った。もうそれにはなれてきた。では、「かぎやで風」とは何を意味しているのか。これには諸説あるそうだ。
 ところで、正月に歌う時には、正月用の別の歌詞で歌う。
 「♪新玉の年に 炭と昆布かざて 心から姿 若くなゆさ」。歌意はわかりやすい。「新しい年を迎えて 炭と昆布を飾って 身も心も若くなるようだ」。右写真を見て下さい。「かぎやで風(お正月歌詞)と書いてある。
 これは、那覇市の牧志公設市場の前のお店だ。29日に市場に行くと、正月の飾り、食品など、年末年始用品の売り出しでにぎわっていた。

 この歌詞を見て、「おや?」と思うのは、炭と昆布を飾るということだ。これは「火の神」へのお供え、お正月飾りとして、炭を昆布で巻いたものを飾る習慣があるという。
094  なぜ、炭と昆布なのだろうか。昆布は日本では昔から「よろこぶ」に通じるので、縁起が良いとされている。でも炭と昆布の取り合わせは、沖縄ならではの風習だ。
 「炭(タン)と昆布(コンブ)」で、「たんとよろこぶ」に通じるので、縁起が良いとされているそうだ。
 市場で、その実物を見た。丸い炭を7,8㌢の長さに切り、それを昆布を湿らせて巻き、その上から、「寿」と書かれた赤い紙を巻く。これを飾りにする。炭だけでも売っている。右下写真がその実物である。左写真は、お店のおばちゃん。炭と昆布巻きの写真を撮っていたら、さっそく上の琉歌を書いたボードを取り出して、「はい、この琉歌を撮ってね。お正月はこれだだから」。ついでに写真お願いすると「はいはい、どうぞ」と快くOKしてくれた。 
 ついでに、炭と昆布巻きの隣には、鏡餅を売っているが、これは「火の神」専用だ(左下写真)。少し小さい。仏壇は別にある。「火の神」専用の鏡餅があるのは沖縄ならではだろう。
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 市場で、これらを見て、ようやく正月用の琉歌の持つ意味が、よくわかった。
 ここまで書いてきたが、「かぎやで風節」を、正月、祝いの席などで演奏するのは、沖縄でも本島と周辺だけだ。石垣島や宮古島では、別の曲がある。
 石垣では、有名な「鷲の鳥節」がある。「バスィヌトゥルイブシ」と読む。この唄は、文字通り正月の情景を歌っている。
 「♪綾羽ば 生らしょり ぶぃる羽ば 産だしょり バスィヌ トゥルィ ヤウニ ガユナバスィ」「♪正月ぬすぃとぅむでぃ 元日ぬ朝ぱな ハヤシ」「♪東かい 飛びつぃけ 太陽ばかめ 舞いつぃけ ハヤシ」。八重山方言はまた難しいので、読み方はここでは省略する。
 歌意は3番まで含めて、次の通りである。
「♪綾のように 美しい羽の鷲の子を生みなさり ふさふさした羽の鷲の子を 産みなさり 正月の朝 元日の朝もやのなかを 東の方に飛び立ち 太陽(ティダ)を冠のようにいただいて舞っていった」。
 情景が目に浮かぶような、見事な歌詞である。石垣では、新年や祝いの席などで、この曲を歌うのが恒例である。民謡であるが、なにか格調の高い名曲である。
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 宮古島では、これに代わるのが「とうがに」である。この曲の歌詞は、正月や結婚、出産祝いや夫婦相和、子孫繁昌、家運繁昌、慶事を祝う歌詞がそれぞれ、ちゃんとある。正月用だけ紹介する。
 「♪かぎ正月の参たりやど 大世や人ぱい 諸作物満作みるくゆがふ 年重びうて 八十八まうわりさまちよ」。これも、読み方は省略する。
 歌意は次の通りである。「♪めでたいお正月を迎えこの世とともに人も栄えて 農作物は豊年満作 平和で幸せな世の中よ 年齢を重ねて88歳までも 健康で長生きしたい」。
 今年も残りあとわずか。よい新年を迎えたい。「いい正月でーびる 若くないみそうちー」(よい正月ですね。お若くなられましたね)という新年のあいさつをしたいものである。

2010年12月28日 (火)

お笑いでも活躍、ウチナー芸人「スリムクラブ」

 若手漫才の日本一を決める「Мー1グランプリ」で、惜しくも優勝を逃したが、2位となった「スリムクラブ」は沖縄出身。県出身の漫才で初めて決勝に進出した。上位3組による最終決戦で、優勝した「笑い飯」4票、スリムクラブ3票だったが、ネットでは「スリムクラブが上だった」「笑い飯より面白かった」と評判だ。県内でも、話題になっている。「琉球新報」1面コラムは「独特のテンポと間合いで不思議な面白さを醸し出した」と評した。スポーツ選手の活躍とともに、県民に年末の明るい話題を提供している。
 彼らの漫才を見た人は分かるが、その笑いは沖縄ならでは。「よんなー、よんなー漫才」と勝手に名付けたい。「よんなー」とは、ウチナーグチで「ゆっくり、ゆっくり」。漫才と言えば、しゃべくり漫才、それも機関銃のようにまくし立てるのがもてはやされる。でも、スリムクラブは、とくに出だし、短い言葉を発すると、沈黙の長ーい時間を置き、そこから笑いを誘う。短い時間に、言葉を詰め込む漫才スタイルから言えば「もったいない、しゃべらないなんて」と言われる。でも、その「しゃべらない時間」が見る側の想像を掻き立て、よけい笑いを呼ぶ。その後の展開も、「沖縄時間」ならではの、ゆるさ、ゆったり感をもって展開する。その話の展開と飛躍も、想像を超える意外性がある。決勝で1度聞くと、2度目は慣れるからどうかと、思ったがやっぱり2度目も涙が出るほど笑えた。
 彼らは、二人とも那覇市の出身。琉球大学で知り合ったそうだ。漫才もゆるいが、どこかインテリジェンスがある。上京してからの苦労は半端じゃないだろう。一応、東京吉本の所属というが、そのスタイルは沖縄風だ。
 沖縄でも、お笑い芸人がたくさんいる。正月には、沖縄の若手漫才ナンバー1を決める沖縄テレビの「Oー1グランプリ」がある。先日も予選があったばかりだ。もっかのところ「こきざみインディアン」というコンビが3連覇を果たしている。その前優勝したコンビは、上京した。テレビに出演するお笑い芸人でも、何人か沖縄勢がいる。
 沖縄漫才は、やっぱりウチナーネタが一番笑える。ウチナーの風俗、民俗、おばあ、おじいの生態などをネタにするものだ。でもこれは、大和では通じない。東京で売り出すには、とても苦労があるだろう。「スリムクラブは来年活躍するのでは」という声がある。この「よんなースタイル」は、いまのテレビでは、受け入れられにくい。でも、大いに活躍してほしい、というのはウチナーンチュの期待だろう。
 

2010年12月27日 (月)

若水を首里城に献上

 正月を迎えるにあたり、首里王府に若水を献上する伝統行事を再現する催しが26日、行われた。行事は「美御水(ヌービー)の奉納祭」という。若水は、はるか国頭村辺戸区の大川で水を汲み首里まで届けたという。この辺土大川の水汲みは「あすむい祭り」といって再現されている。
 26日は、浦添市沢岻(タクシ)の桶川(ヒージャー)で水を汲み、首里公民館から首里城まで、王府の役人や祝女(ノロ)、女菅に扮した人々約40人が、辺土大川の水と沢岻桶川の水を持って練り歩いた。首里城の北側にある円覚寺総門前で、取水した二つの水を混ぜ合わせで、首里城正殿裏に入り、女菅の阿母志良礼(アムシラレ)に水を献上した。
 この行事は、なんと首里当蔵(トウノクラ)町自治会が主催している。伝統行事を大事にしている。首里城の若水の奉納は、新年を迎えるにあたり、王国の安寧と国王の長寿を願って行われたものだ。
 なぜ、若水を献上するのか。沖縄では、正月には若水を汲みから始まる。昔は、家の男の子が元旦早朝に近くの井戸や泉に水を汲みに行った。そして、火の神や仏壇に捧げたそうだ。若水を飲むことによって若返ると考えられた。いまは、水道の水でもよいそうだ。いまでも、若水を汲む伝統があるようだ。南城市の奥武島(オウジマ)では、地域の青年たちが、旧正月の元旦の朝、島の各家々を回り、若水を配るという「若水汲み」の伝統行事を復活させて取り組んでいる。
 沖縄の伝統の文化・芸能・自然のテーマパーク「琉球村」では、やはり旧正月には、朝早く若い男性社員が若水を汲んで、社員の健康祈願、厄払いのために若水を各民家に配るそうである。

 といっても、これは沖縄の民俗ではなく、大和で行われてきたと聞く。平安時代から宮中でもあったそうだ。元旦の朝、最初に汲む水を若水といい、これを飲むと生気がみなぎり、厄払いになるとされた。でも、いまでは大和でどれだけ残されているのか? 沖縄では、400年前の薩摩の琉球侵攻のあと、大和文化として持ち込まれたのだろうか。それにしても、沖縄にはいまも根強く生きているようだ。ついでに、新暦の正月は「ヤマトショウガチ」、旧正月は「ウチナーショウガチ」とも呼ばれた。

2010年12月26日 (日)

沖縄には正月がいくつあるのか?

 2010年も押し詰まってきた。新しい年を迎える正月が近い。でも旧暦が生きる沖縄は、正月は一つではない。海人の町・糸満など、とくに旧暦で正月をする。まあ新正月が一般的ではあるが、地域によりさまざまだ。
  ややこしいのは、正月と名のつく行事はそれだけではない。年末にも一つあった。
 22日の冬至(トゥンジー)もその一つだ。この日は、具たくさんの沖017 縄風炊き込みご飯のジューシーを作る。わが家も今年は作って食べた。火の神やご先祖様にジューシーをお供えをして、家族の健康と家庭の繁栄を祈願する。
 トゥンジージューシーを食べると、年齢が一つ増えるということで「トゥンジー正月」とも言われるそうだ。琉球王府では、冬至を元旦同様の行事としていたという。右写真はわが家のトゥンジージューシー。下写真は、冬至の夕陽である。
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 年が明ければ正月だが、沖縄ならではの風習がある。それは正月の行事は、若水汲みから始まる。若水とは若返る水だそうだ。
 沖縄の正月のあいさつは、「いい正月でーびる。若くないみそうち」(よい正月ですね。若くなられましたか)である。年をとるはずの正月が若返りの意味があるそうだ。でもまだこのあいさつは、残念ながら聞いたことがない。
 旧正月は、糸満など盛大に行われる。
 本島から少し離れた粟国島には面白い風習がある。「マースヤー」(塩売り)という行事だ。旧暦の大晦日夜から、新年にかけて、島内の各所で、家々を回り、塩売りの口上を唱えながら、歌三線や踊りを披露し、家庭の健康繁栄を祈願するそうだ。
 正月は、これで終わらない。次には「グソー(あの世)の正月」といわれる「ジュールクニチー」(16日のこと)がある。お墓にお参りしてお供えする。ただ、もうやらない地域もある。もっとも盛んなのは、宮古・八重山や本島では北部の山原(やんばる)である。那覇から先島に帰る人もいる。帰れない人は、那覇港の入口にある三重城(ミーグスク)で、島に向かって、お墓に向かってウトゥーシ(お通し、遙拝)する。私も前に、三重城に行った時、線香に火を付け、あの世のお金である「ウチカビ」を燃やし、祈願した跡が残されていた。沖縄の線香は、6本の束になった「ひらうこう」(平香)なので、燃え切らないで残る。
 まだ終わりではない。二十日(ハチカ)正月もある。「送り正月」「オワリ正月」ともいう。正月飾りの残りを片づける。正月の終わりを告げるそうだ。この日は、那覇市でかつて遊郭だった辻では、ジュリ馬行列などの新年行事が行われる。
 正月の行事については「御願ハンドブック」を参考にした。
 やっぱり南島の正月は、大和とは違う特色がありますね。

2010年12月25日 (土)

沖縄はクリスマスが大好きだ

 今日クリスマスは、いまや全国どこでも同じ様相だと思う。でも、クリスマスは楽しみかどうかを、全国で1万4118人から意識調査をした結果によると、盛り上がりようにはかなり差がある。
 037 民間のこの調査によると、クリスマスは「超楽しみ」「楽しみ」を合わせて、3人に1人は楽しみではないという。なかでも全国最下位の福井県はわずか50%で、半数しか楽しんでいない。では一番楽しみにしているのはどこか。やはりというか沖縄である。なんと75%に上る人が楽しみにしている。ちなみに東京は64%である。
 なぜ、沖縄が1位なのだろうか。いわずもがな、戦後のアメリカ支配のもとで、否が応でもアメリカ文化になじんだからだろう。そういえば、イースターなんかもとても盛んである。右写真は、ホテルマリオットのクリスマスツリー。

 クリスマスに盛り上がるのはいいけれど、アメリカーははしゃぎすぎる。というのも、米軍はクリスマス休暇なのだろうか、24日から25日にかけて、飲酒による事件が相次いでいる。
 25日には、キャンプハンセンのある金武町で、米兵2人が民家の寝室に酒に酔って入り込んだとして、海兵隊の2人が警察に住居侵入の疑いで逮捕された。
 入り込んだ男は、キャンプハンセン所属の伍長らだ。この民家の男性は、目が覚めたらアメリカ兵が土足で部屋をうろうろしていた、「外へ出ろ」と言ったが、言葉が通じず、そのまま家にいて足が震えた、と言っている。目が覚めたらこんなことになっていたら、誰でも驚き、足が震えるのも当然だろう。
 25日未明には、那覇市で、酒を飲んで運転したとして、アメリカ空軍兵士の男が、酒気帯び運転の疑いで逮捕された。さらに25日未明に、アメリカの嘉手納基地所属の空軍の上等兵が、那覇市天久の国道58号線で、車の運転中に警察の検問にかかり、基準のおよそ3倍のアルコールが検出されたとして、逮捕された。24日にも、浦添市でアメリカ陸軍兵士が酒気帯び運転の疑いで逮捕されている。 (以上は、NHK沖縄のニュースから)

 クリスマスで大騒ぎするのは勝手だが、酔っ払って民家に侵入したり、飲酒運転をするのは、もってのほかだ。騒ぎたければ、基地の中で騒げと言いたい。

2010年12月24日 (金)

サトウキビの製糖シーズン始まる

 サトウキビを刈り取り、製糖するシーズンにな004 った。わが家の近くの豊見城市に、翔南製糖(右写真 )がある。いよいよ原料の搬入が始まった。
 サトウキビは、冬のこの時期に刈り取る。「ウージトーシ」という。「ウージ」はサトウキビ、倒すから「トーシ」という。サトウキビ農家にとっては、大変重労働の忙しい時である。「ウージトーシ」のときは、集落の人々は共同で作業をした。「ユイ」、「ユイマール」である。お互いに助け合い、共同で刈り取るのだ。
 この時期になると、人気あるGS(グループサウンズ)バンドの「SSカンパニー」のリーダー、真ちゃんこと、瀬底正真さんも、ラジオで「今日もウージトーシで大変でした」と語る。人気バンドといっても、居酒屋を営みながら、農業をやっているからだ。
 車でドライブしても、ウージ畑は、あちこちで刈り取り風景が見られる。
010  なにより、ウージトーシがはじまると、道路をウージ満載の大型トラックが頻繁に走り出す。北中城から南のサトウキビは、みんなこの製糖工場に運び込まれるためだ。「すべての道は製糖工場へ通ず」と言わんばかりに、道路はもう「ウージロード」と化す。
 左写真は、運び込まれるサトウキビだ。でも、これはまだ、積む量がなまちょろい。
 もっとスゴイトラックが来る。荷台を板で囲っているが、積まれたウージは、荷台から完全にはみ出し、いまにもこぼれ落ちそうなトラックが走っている。来た、来た、来た!007

右写真のトラックだ。荷台から大きくはみ出ている。このトラックが通り過ぎると、そのはみ出しぶりがいっそうよくわかる。左下写真。
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 よくこぼれ落ちないものだと感心する積み方だ。でも、実際にはかなり落ちる。このシーズンになると、トラックの荷台から、ウージがこぼれ落ち、道路に散乱することがしばしばだ。あちらでも、こちらでも、道路にウージが横たわる。誰も拾ったりしない。片付けもしない。このトラックも、どうやら無事に工場に搬入できた。右下写真。メデタシ、メデタシ。009 ウージを降ろしたトラックは、また出てきてウージ畑に向かう(左下写真)。
 製糖シーズンには、3万2千台のトラックが行き来するそうだ。ピストン輸送のようになる。だから、道路もしばしば渋滞する。キビ生産量は、前年を上回る見通しだという。
 工場では、これを圧搾してサトウキビの汁を取り出し、それで製糖する。工場は、来年3月20日まで、年末年始もフル操業らしい。合計では、13万3千トンのサトウキビが搬入されて、1万6千トンの砂糖を生産する見込みだという。前年を4千トン上回るという。かつては、製糖工場が3社あったけれど、生産量も少なくなり、いまはこの工場だけに統合されたそうだ。
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 工場の煙突に何か、書いてある。よく見ると、二つの標語が書かれていた(右下写真)。「さとうきびは沖縄の宝もの」
「砂糖は脳のエネルギー源」とあった。
 なるほど、サトウキビと黒糖は、確かに沖縄の宝ものである。012_3 

    

 この製糖工場は、野菜の買い出しに行くのに、よく横を通る。製糖がはじまったので、ウージを搾る時に出るのだろうか、甘ーい香りが辺り一面に漂う。「うーん、甘い香り、たまらん、たまらん」と思わず口に出る。

 でも、その隣は、なぜか食鶏加工工場(右写真)がある。003_2 こちらは、とても「ヤナカジャー」、いやな臭いが漂う。「勘弁してよー」と言いたくなる。
 とくに、車ではなく、バイクで通ると、モロに「ヤナカジャー」がくる。でもすぐに、ウージの甘い香りの方に進むので、なんとか救われる。
 これから春まで、製糖シーズンは続く。沖縄の風物詩である。

 

2010年12月23日 (木)

基地より住民移転とは、アベコベでは

 このところ、菅首相、前原外相と相次ぎ、政府の要人が沖縄に来て、その言動が強い反発を呼んでいる。菅首相は、普天間基地を辺野古沖に移設するのは、県民にとって「ベターな選択」といった。県民の圧倒的多数は、県内反対であり、「ベター」ではなく、最悪の選択である。こんな分かりきったことを、わざわざ沖縄に言いに来るのは、何のためなのか、みんな不信と疑惑の目で見ている。だから、県民は「カン、カン、カン」とアキ缶を叩いて抗議の声を上げた。
 そこへ、さらに前原外相である。彼は、さらに、移設までの危険性除去の対策として、普天間基地の周辺にある小学校、病院、お年寄り施設などを移転させる考えを示し、「知事から要望があれば、政府としてしっかり考えたい」と述べた。これにはまったくあきれた。普天間基地は「世界一危険な基地」である。だから早期に閉鎖・返還すべきである。危険性除去というなら、いますぐにでも、米軍が好き勝手に市の上空を飛び回り、騒音をまき散らす現状に対して、騒音防止協定や飛行ルートを守ることなど、やることはある。
 基地の閉鎖・撤去ではなく、市民生活に必要不可欠な学校、病院などを移転させるという前原発言は、市民・県民の願いとはまるでアベコベの発想である。普天間は居座ったまま、住民の施設を移転させれば、かえって基地はそのまま居座ることになりかねない。
 056 もともと、住民の土地を強奪して勝手に基地をつくったものだ。市民を危険にさらしながら、その危険性を日米政府も認めて返還に合意しているのに、なぜ住民が出ていかなければならないのか。しかも、辺野古移転が進まなければ、基地は固定化するかのような言動は、沖縄県民への愚かな恫喝である。
 沖縄のメディアは、「優先すべきは住民生活で、移転し撤去すべきは危険な基地だ」(「琉球新報」23日付社説)厳しい批判をしている。県民の多数の声を代表するものである。
 左写真は、県内移設反対の県民の総意を示した4月25日の県民大会。 

 おりしも、外務省の外交文書が公表された。1968年の琉球主席公選で日米政府が親米保守派の西銘順治候補を支援する裏工作をしていた事実を示す文書があった。沖縄返還時に原状回復費約6500万㌦(当時のレートで234億円)を日本側が肩代わりしていたことを裏付ける極秘メモも含まれていた。こんな、国民に隠したまま日米でうごめいていた事実が明らかになると、いまの政府の言動にも、その背景に何かあるのではないかと、疑いたくなる。
 菅首相や前原外相に続いて、北沢防衛相、馬淵沖縄北方担当大臣も沖縄に来るという。県民の願いに応える中身はなにもない。仲井真知事さえ「県外移設」の態度を明確にしているのに、ただ辺野古移設の押し付けのために、入れ替わり立ち替わり来るのは不可解だ。
 「普天間移設のことを一生懸命努力しているとアメリカに見せるためではないか」という見方が県内識者からも出ている。しかも「基地より学校など移設を」というに至っては、「アメリカの御用聞きをしているだけではないのか」といいたい気持ちになるのは、私だけだろうか。

2010年12月22日 (水)

山芋スーブもたけなわ

 沖縄も冬のこの時期になると、山芋が獲れるシーズンだ。101 沖縄の山芋は、大和の山芋とは、まるっきり概念が違う。種類が違うようだ。大和で、山芋掘りといえば、山で山芋のツルを手繰って、生えている場所を定めると、斜面の土を慎重に掘って、細く長い山芋を掘り出す。スーと長く、スリコギのような芋である。
 ところが、沖縄の山芋はそんなチャチなものではない。これが芋なのか、と思うほど、デカイ。しかも、動物の手のように、一つの根からたくさんの太い、太い芋が伸びている。右写真を見ていただきたい。だから、一つの根から巨大な山芋が獲れる。数十キロの重さがある。
088    沖縄山芋は、大薯(ダイジョ)といい、台湾山芋ともいうらしい。白山芋や紅山芋など種類がある。とても粘りが強い。
 沖縄ならではの面白いのは、この山芋の大きさというか、重さを競い合う大会があることだ。「山芋スーブ(勝負)」という。
 今年も、さる10日には、恩納村の宇加治(うかじ)地区で「第6回山芋スーブ」が行われた。このスーブで、長濱さんという方が掘り起こした山芋は19個、合計204・1キロもあったという。
 昨年は、恩納村産業まつりに行ったら、宇加治山芋スーブをやっていた。左上写真がそれである。今年は残念ながら行けなかった。097_3

 うるま市でも、産業まつりが18,19日に開かれた。そこでも名物が「第12回全沖縄やまいもスーブinうるま」だった。こちらも昨年行ったので、今年は参加できなかった。右写真は、昨年の会場風景である。
 なぜか、「全沖縄やまいもスーブ」を名乗っている。うるま市は、山芋の産地なのだろう。
 昨年の「やまいもスーブ」の模様を写真でいつくか紹介する。098 もう1株で獲れた山芋が200キロ、300キロの重量がある。ド迫力である。
 うるま市のスーブは、白やまいもと赤やまいもの2部門で競い合っていた。102_2

 

 こんな山芋は大きすぎて、買ってもどう食べるが、苦労するほどだ。産業まつりの会場では、さまざまな山芋料理が作られ、販売されていた。
JAの直売所でも、よく売られるから、いつでも食べられる。さあ、どう料理して食べようか?
 下写真は赤やまいもである。

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2010年12月21日 (火)

お歳暮は年明けも続くよ

 今年も残り少なくなってきた。大型店に行くとお歳暮コーナーがにぎわっている。でも、旧暦が生きる沖縄は、年末といっても、1回ではない。新暦では年は押し詰まっているが、旧暦では、まだ11月半ばなのだ。旧正月は来年2月3日である。「年末といっても、まだまだ先だ」と冗談を言う人がいる。
 沖縄でも、新暦の年末年始がもう一般的であるが、地域によって、家によっては旧暦で行うところもまだある。実際に、お歳暮も、旧暦が習慣の人は、年明けてからだ。だから町のスーパーでは、年明けても、まだお歳暮商品が少なくなってはいるが、残っている。大和から来た人には、不思議な光景である。でも沖縄では、ごくフツーの日常風景である。
 12月24日といえば、「クリスマスイブ」以外にないだろう。でもでも、沖縄で12月24日といえば、「ウガヮンブドゥチ」である。漢字で書けば「御願解き」である。ただし、これは旧暦でしかやらない。だから、クリスマスとはガチンコしない。「ウガヮンブドゥチ」というのは、「ヒヌカン」つまり台所の神、カマドの神であり、家庭を見守ってくれるという「ヒヌカン=火の神」に対して、年末の24日、一年間の成就した事や幸せだったことに感謝して、不幸な出来事や災いごとは解消するようにお願いをするのである。
 それはこの日、ヒヌカンは天に帰り、その家庭の功罪を天の神に報告するそうだ。だから、天の神によい報告をしてもらい、不足することは火の神様に補ってもらい、新しい年にはより力を増して家に帰ってもらうように祈るという。「ヒヌカンの昇天」というそうだ。だからこの日には、各家庭で、この1年を振り返って、感謝と反省をするのだそうである。ヒヌカンをとても大切にする沖縄では、大事な行事である。
 「ウガヮンブドゥチ」は、なぜか旧暦だけで新暦ではやらないようだ。
 大晦日のことは「トゥシヌユルー」(年の夜)という。新暦では、12月31日であるが、旧暦では12月30日となる。来年2月2日にあたる。やっぱりこれは両方ある。
 というわけで、年末風景も、沖縄には大和と違う風習があるということだ。

2010年12月20日 (月)

久米島の泡盛酒造所を見る

 久米島には、泡盛酒造所が2か所ある。沖縄の酒とい205 えば、泡盛。県内に酒造所は48か所あるという。でも泡盛の酒造所の見学にはまだ行ったことがなかった。久米島といえば「久米島の久米仙」が有名だ。久米島だけでなく、いまや全国展開をしている。県内の泡盛の出荷量では、5本の指に入るという大手の酒造所である。
 大手メーカーだから、本社の事務所は立派な建物があるだろうと思って訪ねていった。でも、細い道路を入ると、工場の建物ばかりで、どこが事務所かわからない。いったんあきらめて、別の場所で地元の人に聞いて、もう一度訪ねた。やっとわかった。敷地の片隅に小さな建物があり、女性事務員が5,6人いた。「あの、酒蔵の見学をさせてもらえますか?」と尋ねると、「いいですよ。私が案内します」と女性事務員が、すぐに案内してくれた。194
 ただし、見学できるのは、泡盛を貯蔵している蔵と出荷する所だけだ。左写真は、泡盛を大きな甕に入れて貯蔵しているところだ。一甕で一升瓶1000本分入るという。
 泡盛は、長く貯蔵するほど、まろやかで香りも良くなる。3年以上貯蔵すれば「古酒」(クース)という。10年以上貯蔵してる古酒もある。
 甕とは別に、アルミニウムの巨大な貯蔵タンクも、ズラッと並べられていた(右下写真)。
 泡盛の好きな方は、自宅に甕を置き、貯蔵している。そして、人生の節目や祝いのとき、例えば子供が20歳になる、子供が結婚するとか、自分の生年祝い(トゥシビー、12年に一度の生まれた干支の年)とかに、この古酒を飲むそうだ。ただ、泡盛を入れたまま、開けないのではない。仕次ぎといって、少しずつ新しい酒を入れて貯蔵するそうだ。けっこう手間がかかるので、そこまで手が出ない。195
196  事務所では、見本の泡盛をたくさん陳列してあり、試飲もさせてくれる(左写真)。私は運転するので飲めなかったが、同伴者はいくつか試飲した。12年物、43度の古酒が一番おいしかったそうだ。久米島でキャンプするプロ野球の楽天のラベルの泡盛もいくつか出されていた。
 面白いのは、「ここで買うより、本島のお店で買った方が安く買えますから」と本島で買うことをすすめたことだった。同社は、本島の浦添市に営業部門がある。

 この後、帰り道で町内大田の土産物店に立ち寄った。そこで泡盛を見て001 いると、店のおかみさんが「この泡盛は、この裏の米島酒造で作っているんですよ。見学もできるから見ていったらいいよ」というではないか。久米島といえば「久米仙」しか眼中になかった。でも、小さな酒造所があることは、前に新聞で読んだ記憶が蘇った。さっそく訪ねてみた。
 米島(よねしま)酒造という。こちらは、手作りで家族経営の小さな酒造所だ(右写真)。つくった泡盛の90%は島内で飲まれていて、本島でもお目にかかれない、まあ希少な泡盛だ。さっそく入っていくと、作業服姿のお兄さんがいた。「見学できますか」と聞くと、「じゃあ、私が案内します」とすぐに案内してくれた。
 驚くことに、こちらはすべての工程を見せてくれることだ。泡盛は、もともと、タイから製法が伝わった酒だ。だからタイ米を使う。米を洗って蒸し、黒麹菌を混ぜ、菌を繁殖させて麹(こうじ)を仕込み、醗酵させたもろみを蒸留すると泡盛ができる。手作り酒造所なので、お兄さんは、一つ一つの行程を見せながら、丁寧に説明してくれた。初めて泡盛のできるまでを、間近に見ることができた。ただし、工程は写真では撮影できなかった。
238  「私たちのつくる泡盛は、ほとんどが島内で飲まれるので、少しでも味が落ちると、お客から『味が落ちてるよ』と声が届くんです。すぐ味を見直して調整するんですよ」。手作りの酒造所ならではの話だ。
 この酒造所のことを教えてもらえなければ、近くを通っても気づかないほど小さい酒造所。教えてもらえてラッキーだった。「感謝!感謝」、手厚くお礼を述べた。
 近くの地元スーパーらしき店に入ると、米島酒造の泡盛があったので、さっそく買い求めた。30度の古酒「美ら蛍」(チュラボタル)だ。久米島は「クメジマホタル」で有名なのだ。それからの命名である。 
 なかなか飲みやすい古酒だった(左は一升瓶。右下は、泡盛が入っていた立派な衣装箱)。237_2
 沖縄には、こういう小さな泡盛の酒造所がたくさんある。離島にもある。それぞれ地元で愛されている。離島フェアーにも、米島酒造が出店していた。「離島の泡盛、頑張れ!」。

2010年12月19日 (日)

歌って踊れる介護福祉士

 「歌って踊れる介護福祉士!」。最初にこの言葉を聞いたときは「なぜ?」と思ったが、沖縄では、介護福祉士は歌って踊れるのが当たり前らしい。沖縄アカデミー専門学校のキャッチフレーズが「幸咲かせ アカデミーんちゅ 歌って踊れる介護福祉士」である。同校のテレビのコマーシャルで、いつもこのキャッチフレーズが流れる。
 同校のホームページを見ると、6人の若い男女が、三線とパーランク(小さな太鼓)を持ち、歌って踊っている姿が出ている。同校の卒業生の声が出ているが、その一人の働く老人福祉施設の職場は、ほとんどの職員が特技や芸をもっているらしい。この卒業生も琉舞を披露したり、お年寄りに踊りを教えたりしているそうだ。仕事に芸が見事に生きている。
 この専門学校は、カリキュラムの中に、「沖縄の生活文化」がある。なぜなのか?お年寄りの多くは、いまも伝統文化の中に生きて、日常の会話も方言(沖縄語)が中心である。だから、生活に密着した風習や言語など学び、先祖を大事にする沖縄独自の心を養うという。歌と踊りも、その大事な要素なのだろう。
014  数年前に、NHK教育テレビで、沖縄の歌い踊る介護が注目され、紹介されたことがある。老人福祉施設のデイサービスで、約40人のお年寄りが、民謡の「安里屋ユンタ」を楽しそうにみんなで歌っていた。ウチナーンチュのお年寄りは、子どものころから民謡や踊りに親しんでいる。もう体に染みついている。だから、三線や太鼓の音を聞くと、自然に唄を口ずさみ、体が動き出す。
 ここでは「ボケない小唄」という替え歌もある。「♪頭と足腰使う人 絶対ボケません」という具合に歌う。
 施設までは通ってこれないお年寄りには、訪問リハビリを行うが、そこにも歌と踊りが欠かせない。脳梗塞で失語症の後遺症のある人が、大好きな唄には、言葉が出るという。(左の写真は、記事とは関係ない。沖縄のおばさん、お年寄りはみんな、歌と踊りが大好きである)
 沖縄の踊りといえば、早弾きの演奏に合わせて踊るカチャーシーである。踊りながら、指、ひじ、肩の関節の運動を取り入れているそうだ。カチャーシーを踊れば、楽しい気分になり、表情もイキイキしてくるという。歌と踊りの力はスゴイ!
 私の知り合いで三線の教師免許を取っている人は、デイサービスに毎週出かけている。ボランティアで三線を弾き、お年寄りがよく知っている曲を演奏して、みんなで歌っている。
 「沖縄ならではの介護 それは琉球民謡を生かした介護です」。
 大和の各地の老人福祉施設でも、芸能を持つ人を招いて、歌や踊りを披露してもらうことは、よくやっているだろう。でも、沖縄は、介護福祉士が歌って踊れる人がいるところに、沖縄ならではの特徴がある。それに。お年寄りたちが、たんに歌と踊りの芸を見る、聞くことにとどまらず、民謡をみんなで歌い、カチャーシーを踊ることも沖縄ならではだろう。単に見聞きするだけでなく、みずから歌い踊ることによって、楽しさは倍増するし、心も体もイキイキすること間違いなし。
 歌って踊れる介護福祉士から、プロの歌手になった人もいる。宮古島市出身の砂川恵理歌さんだ。私もよく行く豊見城中央病院の老人福祉施設で、介護リハビリ助手として働いていた。2006年に日本テレビの「歌スタ!!」のオーディションに参加して、目にとまり歌手デビューした。末期ガン患者を歌った「一粒の種」がヒットして、沖縄だけでなく、全国各地でも演奏している。
 やっぱり、歌って踊れる沖縄の介護福祉士は、エライ!

 
 

 

2010年12月17日 (金)

「コザ騒動」から40年、変わらない現実

 40年前の1970年12月20日未明、「コザ騒動」が起きた。「基地の街」・コザ市(現沖縄市)で米兵の運転する車両が具志川市(現うるま市)の男性をはね、米憲兵隊(МP)が出動し、加害者のアメリカ人を連れ去ろうとして民衆が抗議。さらに外国人による衝突事故が起き、騒ぎとなったところへМPが発砲したため、米軍車両に次々火を放った。数千人が怒りの行動に参加した。米軍報告書では車両被害は82台、負傷者は米軍、地元住民を合わせて88人にのぼった。沖縄の新聞は、事件から40年にあたり、連日、連載や特集を組み、報道している。全国的には、ほとんど報道されていないだろう。
 「鉄をもとかす怒りの爆発」といわれるような事件が、なぜ起きたのか。当時は、ベトナム戦争の最中で、沖縄は戦場と直結されていた。米兵による強盗、婦女暴行はじめ凶悪犯罪が多発していた。危険な毒ガスの持ち込みと移送など県民の不満、憤りがうっ積していた。事件の9日前には糸満市で、米軍車両が女性をひき殺しながら、軍事裁判で米兵は無罪放免とされた。コザでも「糸満の二の舞をふむな」と民衆の憤激が高まったのだ。事件は「占領下、人権軽視に激怒」(「琉球新報」17日付)のあらわれであった。
 問題は、この事件から40年をへても、沖縄の現実が本質的には何ら変わっていないことである。施政権は形の上では日本に返されても、「本土並み返還」はまったくの嘘だった。日本にある米軍基地の75%は、小さな島である沖縄に集中したままだ。沖縄の米軍基地から、イラク、アフガニスタンに出撃しているように、基地が戦場に直結している現状も変わらない。
 先に行われた日米合同演習では、パトリオット・ミサイルが嘉手納基地から公道を使って県内の他の基地に移動する訓練が、住民無視で行われた。普天間基地のヘリコプター墜落事故など、県民の命と安全は米軍基地によって脅かされ続けている。米兵による強盗、女性への乱暴、飲酒運転によるひき逃げ殺人など、事件事故は依然として続発している。
 米軍基地は、縮小されるどころか、逆に、名護市の辺野古沖への巨大新基地建設が計画されているありさまだ。
 おりしも、菅首相が17日、沖縄に来た。間もなく「コザ事件から40年」を迎えることなど眼中にないだろう。首相は、沖縄県民の声にはまるで耳を傾けず、辺野古への建設が「ベターな選択」といって、はばからない。ひたすら日米合意を押し付けようとする厚顔な態度である。
 いまだに占領者のようにふるまう米軍、県民に背を向ける菅政権への県民の憤りは、マグマのように渦巻いていることを、日米両政府は深く認識すべきである。

 

2010年12月16日 (木)

久米島の蔵元跡を見る

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 久米島には、琉球王朝時代は、具志川間切と仲里間切があった。間切とは、いまの町村の単位だ。そのうち仲里間切の蔵元跡を見た。蔵元は、間切の行政を行う役所だった。もう建物はなく、周囲の石垣が残っている。役所らしいを威厳を示すような石垣だ。
 敷地は532坪もあるからとても広い。王府時代に建てられ、何回か改築された。1924年に移転する際解体されたという。隣には、約300坪の貢納布の紬を染めるスミヤ(染屋)があり、間切中の紬糸はここで染めた。でも石囲いは取り壊されいまはない。
左写真は、蔵元の正門である。石垣は、役所とはいうものの、実際は城(グスク)のように高く積まれ、アーチ門も2か所ある。
 正門の石垣をよく見ると、石積みが曲線を描いている。それだけでなく、一番下にある巨石は、長さ1㍍ほどもある石そのものが曲がっている。わざわざ巨石を削って、カーブさせたのだろうか。そうとしか思えない。103

アーチ門(左写真)は、北側と西側に2か所あるが、アーチの組み104 方がそれぞれ異なっている。細工が細かい。右上写真のアーチは、中央の部分に継ぎ目をつくっている。でも、右下アーチは、中央に継ぎ目をなくしている。

109  石垣部分も、とても技巧をこらした石積みがされている。105左写真の石は、わざわざ上と下の石に凹凸をつくり、かみ合わせている。左下写真の石は、カンヌキのように石を削ってかみ合わせている。
下右の石は、上と下の石に、凹凸をつくりかみ合わせている。下中央の写真の石もやはり、カギのように石を削ってかみ合わせている。
 県内各地の城跡の石積みを見た。豆腐のような切り石を積む布(ぬの)積み、ゴツゴツのままの石を積む野面積み、カメの甲羅のように積み合わせる相方(あいかた)積み、という3種類の積み方はある。同じ布積みでも、こんな細かく石に凹凸やカンヌキのように削って組み合わせたのは、見た107_2記憶がない。見逃したのかもしれないけれど。なぜここまで、技巧をこらした石積みをするのか、その理由はわからない。不思議な石積みである。106

108 前にも書いたが、久米島は、15世紀の初め頃までは、平穏な部落生活を営んでいたところに、島の外から武力を持つ侵入者が現れ、按司(豪族)として島民を支配するようになる。
 16世紀には、その按司も首里王府に征服され、王府の支配下に組み入れられた。1609年には琉球は薩摩に侵略され、検地が行われ、住民への搾取は強められた。この過程で、久米島にも役所の蔵元が置かれただろう。
 久米島の住民への年貢は、米を基本に久米島紬で代納がされ、紬が年貢の6、7割を占めてことにふれた。
 さらに、久米島の税制そのものが、独特だったようだ。「沖縄本島や他の離島の『代掛地租』(代は税率のこと)に、宮古・八重山の人頭割税を加味していたので、折衷税と称されている」(『仲里村誌』)という。久米島でも、悪税の人頭税が加味されたことは初めて知った。重税は民百姓にのしかかっていた。
 その上、地頭らが野菜や魚介類、肉、薪炭・材木など、日常生活の必需品は、手形を発して買い上げることになっていた。ところが、買い上げといっても、話にならないほど安く、むしろ徴発されるようなものだったという。このような搾取で百姓は苦しめられた。「いっぱん農民は呼吸・欠伸(イーチ・アクビ)もできず、果ては間切が破産するという奇怪な例さえ起きた」(同)という。
 久米島でも、薩摩と首里王府の支配下で、役所が百姓の上に君臨し、その影でどれほど民百姓が貧窮にあえいだことだろうか。石垣を見ながら思いをはせたことだった。

2010年12月15日 (水)

久米島の年貢の7割は紬だった

153  久米島といえば、伝統ある織り物の久米島紬(つむぎ)で知られる。久米島紬は、純粋な植物染料と泥藍の深い茶の色調で特殊な風合いと着心地の良さが特徴だという。 久米島紬の伝統を継承するため、「久米島紬の里ーゆいまーる館」がある(左写真)。
 久米島絣は、大島紬、久留米絣、結城紬よりも、古い歴史がある。つまり、日本の紬は、久米島から広がったのだ。
 15世紀に中国から養蚕の技術を導入し、紬を製造するようになった。紬ができるまでには、蚕を飼うことから糸を紡ぎ、染色して織り上げるまで、気の遠くなるような作業だ。その工程をビデオで上映していて見ることができた。
 琉球王府の時代、各集落に染物文子(テグ)と呼ばれる担当係が指導する「布屋」という建物があった。そこが機織りの工房になっていたという。
 ビデオを見ていたら、悲しいエピソードが紹介された。少女が自分の着ている着物が敗れたので、紬を織る糸を足してほころびを繕うために使ったところ、それが役人に知られてひどいお仕置きにあった、ということだ。
 王府に上納するために織る紬は、すべて貢納するためであり、一片といえども織女らの物にはならない。それは、八重山、宮古では、人頭税に八重山上布、宮古上布を織ったのも同じだ。
 157久米島の城跡でも書いたが、久米島は、かつて中国や東南アジアへの中継貿易の寄港地として重要な役割を果たしていた。首里王府は1510年頃、この久米島に軍を派遣して、各地に城(グスク)を築いていた按司(豪族)を討伐した。それ以降、首里王府の支配に組み入れられた。1609年には、薩摩藩が琉球に侵攻し、支配するようになった。
 このもとで、久米島の民衆も重税を課せられた。「琉球王府への貢納の負担は重く、年貢の70%を紬で代納しました」と町役場のホームページでも書いている。
 久米島は、琉球王府の時代、仲里間切と具志川間切があった。間切はいまの町村の単位だ。間切の中に、仲里は10カ村、具志川は9カ村があった。村はいまの字の単位だ。
 役人は、地頭代以下、村吏が31人いた。2つの間切の地租は、米にして1673石8斗6升2合で、その内の1023石7斗2升8合は米で納めず、久米島紬の反物で代納することになっていたという。
 明治15年(1882)、当時の沖縄県の上杉県令が久米島を巡回した時の日誌に出てくる。地租に占める反物の割合は61%に達する。右写真は、展示されている久米島紬。
 地租の代納として織る紬は「御用布(ダイフ)と呼ばれた。仲里間切だけでいえば、紬の実数は、明治14年で494反にのぼった。これは、地租958石余りのうち626石分の代納にあたり、代納率は65%にのぼる。やはり「地租の6・7割を紬で代納した」(『仲里村誌』)と伝えられる。つまり、主要な税金は、貢布だったことを意味する。
180_2  御用布の製作は、仲里では15歳以上45歳までの女性に課せられた。上中下にランクづけられ、負担額を割り立てた。本来、各人への割り当ては、各戸の地租の納付額に準ずるのが妥当なのに、地租の多少は無視して、上中下のランクだけで不公平な人頭割り当てだった。しかも、役人と村の耕作当、山当の役職にある人の妻は、免除された。久米島では、年貢は女性に特に重くのしかかっていたのである。
 それ以外にも、昔どおり夫銭や棉花や棉侶縄(しゅろなわ)まで納めなければならなかった(新屋敷幸繁著『沖縄県史物語』)
 178_2 ついでながら、久米島に養蚕の技術を伝えたのは、前の城跡の項で紹介した「堂の比屋」(ドウノヒヤ)だった。その功績をたたえて石碑が建てられている(左写真)。ついでに言うと、この碑のそばには、「堂の比屋」が太陽を観測した「ウティダ石」がいまもある(右写真)。「堂」というのは、仲里村にあったムラ(集落)の名前で、「比屋」は、ムラの草分けの家である根所・根屋の男主人のことである。だから「堂の比屋」とは、個人の名前ではなく、世代ごとにいて、いろんな分野で活躍したそうだ。
 『仲里村誌』、新屋敷幸繁著『沖縄歴史物語』を参考にさせてもらった。

2010年12月12日 (日)

久米島の城跡を見る、その2、宇江城城跡

173  宇江城(ウイーグシク)城跡(右写真)は、久米島で一番高い宇江城岳(310㍍)の頂上にある。やはり本島の城跡と同じように、石積みがされ、曲線を描いている。こんな高い山の頂上に大量の石を上げて積むのは、相当の労働力の動員が必要だ。
 最上部の一の郭のあるところに登ると、石垣というよりも、平板な石を積み上げて、城壁にしている。これは、本島の石積みには見たことがない積み方だ。

176  久米島も、沖縄戦で空襲を受けたりしたが、激しい地上戦には至らなかった。この宇江城城跡も石垣が比較的、損壊が少なくて、昔の面影をとどめていた。でも、島に来た米軍が、基地をつくるのに、石塁・城壁のほとんど壊して使用したという。、「物見」という東端の一部だけ残された。
 城跡からは360度、見渡せる。眺めは、最高である。久米島だけでなく、沖縄の城(グスク)として、もっとも高い場所にあるそうだ。 

175  左上写真は、最上部の一の郭。右写真は、平板な石を積み上げた一の郭の城壁。
 15世紀に、島外から久米島に渡ってきてもっとも勢力が強かった伊敷索(イシチナ)按司の、長男は久米中城(宇江城)、二男は具志川城、三男は登武那覇(トンナハ)城の城主として、君臨した。
 もともとのこの地域の有力者だった「堂の比屋」(ドウノヒヤ)は、この久米中城城主の家来頭として、住民をまとめたという。
 それにしても、この高い山の上に、これだけの大量の石を持ち上げ、城壁をつくるのは、並大抵のことではない。武力による支配と共に、地元の有力者を取り込んで、住民を大動員したのだろう。
170  沖縄本島では、城(グスク)の起源は、単に軍事だけの役割だけではない。拝所や墓地、按司の居宅などだったとも言わる。時代とともに役割が発展したことも考えられる。
 でも、久米島の場合、外来の勢力が城を築いたのなら、もともと住民のための御願(ウガン)や墓地などの役割ではなく、最初から軍事と按司の居城という性格だったのだろうか。
 それにしても、島外から渡ってきて、城を築き、争いがあった時代は、意外に短く、80年ほどだったと言われる。つまり15世紀の初め頃、渡ってきたとしても、16世紀、1510年ころには、首里王府が久米島に、軍を派遣して征服した。城を築いた按司たちの時代は終わり、首里王府による直接の支配になっていったのである。
 左写真は、宇江城城跡の案内板。簡単な歴史が記されている。右下写真も石積み城壁。
171

2010年12月11日 (土)

久米島の城跡を見る、その1、具志川城跡

004久米島の城跡、具志川城跡

久米島に初めて行った。そんなに大きな島ではないが、城跡がいくつもある。そのなかで、具志川(グシカワ)城跡と宇江城(ウイーグシク)城跡を見た。
 城跡があるということは、争いがあったことを意味する。「小さな島で、力で民衆を支配する豪族がそんなに生まれたのか?」と疑問を持っていた。久米島の歴史を知ると、様相は少し違う。
 久米島の社会の発展の中で、城を築く按司(豪族)が生まれたのではない。島外から少なくても2度にわたって、武力を持った侵入勢力があったという。
 時は15世紀初め。沖縄本島で、尚巴志(しょうはし)が三つの国に分かれていた琉球を統一(1429年)した前後のことのようだ。
 当時の久米島は、有力者は生まれてきていたが、まだ武器を振り回すこともない平穏な時代だった。侵入してきた武装勢力には、立ち向かえない。取り入って、妥協したようである。 侵入者の一人と見られる真達勃(マタフツ)が築いたのが、この具志川城だという。恐らく、本島の南部にあった国、南山で、内部争いに敗れた勢力の一部が、久米島に逃れてきたことが考えられる。

001  その後、伊敷索(イシチナ)一族が久米島にやってきた。具志川城は、真達勃の子の真金声(マカネゴエ)の代に、この伊敷索按司の二男に乗っ取られたという。
 まあそんな伝説を含めた歴史のあるのが、この城だ。写真で見るように、やはり、見事な石積みの城壁がそそり立つ。場所は、島の北西部の海岸の断崖の上にある(右下写真)。城跡から見下ろす海岸は、大和泊、唐泊という港になっていたそうだ。いまでは、港らしいものは見えない。
 003

  久米島は、琉球から中国や東南アジア諸国への交易のさい、絶好の寄港地となった島だ。大和にも古くから航海していたらしく、814年、奈良の都に南島から人が来た記録に「球美」とあり、これが久米島だと見られている。
 この具志川城跡でも、中国の元や明代の青磁片、海外からの輸入陶磁器など見つかっており、盛んに南方貿易をしていたことがうかがえるという。左上写真は、城跡の遺構。

005 左の案内板には、具志川城跡の説明が書いてある。

 具志川城を乗っ取られた真金声は、沖縄本島に逃れて、南部の糸満市喜屋武(きゃん)に具志川城を築いたと伝えられている。この喜屋武にある具志川城跡も、昨年見に行った。糸満市の南端、喜屋武岬に近い海岸にある。「こんな突端になんで城を築いたのだろうか?」と疑問がわいたが、久米島から逃れてきた勢力によって築かれたと聞くと、納得がいく。もともと、南山から久米島に逃れてきた人たちなら、久米島で新たな勢力によって、追われれば、もう一度、糸満市方面に逃れてきたというのも、ありうる話ではあると思う。
 尚巴志が琉球を統一して打ちたてた第一尚氏の時代は、まだ按司たちが、各地に割拠して、城を築いたり、武装もしていて、独自に海外貿易も行っていた。だから、城を築くこともできただろう。
 でも、琉球王朝は、農民上がりの金丸が、クーデターで第一尚氏の王統を廃し、みずから尚円王を名乗り、第二尚氏の王朝を打ち立てた。尚円の息子の尚真王の時代、16世紀の初めには、中央集権を強め、久米島にも軍を派遣して、討伐した。具志川城も宇江城も落城したという。これ以降、久米島は首里王府に組み入れられることになる。012

 城跡とは関係ないが、近くに「ミーフガー」と呼ばれる岩がある。巨岩と巨岩の間にポッカリ穴が空いていて、女性の象徴にたとえている。島の反対側、南側の海岸には、男性のシンボルもある。
 久米島の海岸は、島の南側は、サンゴ礁があり、沖合にリーフがあって、浅瀬が広がっている。でも、北側は、断崖が連なり、ビーチはほとんどなくて、海はすぐに深くなっていく。東シナ海の荒波が打ち寄せる。同じ島でも、海岸はまったく異なる様相である。

2010年12月10日 (金)

ウコンの力を試そう

 「お酒を飲む日に沖縄ウコン 酒豪伝説」「毎日元気に乾杯 ウコンの力」などと、ウコンを使った商品の宣伝が盛んである。ウコンの主な生産地は、沖縄である。沖縄では「酒豪伝説」がいたるところで販売されている。024
 ウコンといっても、春ウコン、秋ウコン,紫ウコン、白ウコンなど種類がある。それぞれ含まれる成分が違う。だから春ウコンは、五臓六腑によいという。お酒を飲む人によいのは、秋ウコンだ。それはクルクルミンが最も多く含まれているからだそうだ。
 秋ウコンは、肝臓の肝汁の分泌を活発化させ、肝臓の働きを良好にするという。
 クルクルミンが、肝臓の解毒機能を高めて体内の毒素を除去するともいう。
 それに、アルコールの分解速度を速める作用があるともいう。
 ただし、大量に摂取すると副作用もあるらしい。
 効能はよく聞くが、実際にどれほどの効果があるのかは、自分で飲んでみないとわからない。いまは、お酒をそんなに飲んではいないが、昔は結構よく飲んだ。それで、ウコンを試してみることにした。。左写真は、秋ウコンである。商品化されたものは、やはり値段もそれなりに高い。それでJAの直売所で、ウコンそのものを買った。
 これを、皮をむいてスライスして、干してみた。022 鮮やかな黄色である。

 インドでは、カレーの黄色はこのウコンによる着色だという。飲んでみると、かなりよさそうである。ただし、長く飲んでみなければ、効果はわからない。とりあえず、来年の健康診断まで試してみよう。
 そう思っていたところに、琉球新報に興味深い記事が出た。オリオンビールが、2009年12月発売したウコン配合のゼリー商品「ウッチンチャージ」の検証試験の結果についてである。
 025 記事によると、この商品を6週間食べ続けた被験者の飲酒後の血中アルコール濃度を調べると、アルコール濃度が低下することが科学的に確認されたという。だから、ビールメーカーは、「ウッチンチャージ」を飲んで、ビールをもっとドンドン飲んで下さいということかもしれない。両方で儲かることになる。
 それはともかく、体内のアルコール濃度を低下させてくれるのはうれしい。ウコンは、「アルコールの分解速度を速める作用がある」といわれたことを実証するものだろう。
 左写真は、秋ウコンの粉である。粉をお湯で溶かして飲んだが、どうしても粉が溶けきれなくて、ザラザラが少し残る。やはり、ウコンそのものをスライスして乾燥させ、ウコン茶として飲むのが一番よいようだ。まあとにかく、ウコン茶を飲み続けたい。
 それにしても、沖縄には健康によりお茶がいろんな種類がある。薬草も多い。いろいろ試したいが手が回らない。まずはウコンである。

 

 

2010年12月 9日 (木)

「トイレの神様」は沖縄ではフツーのこと

 植村花菜が歌った「トイレの神様」がヒットし、第42回日本有線大賞の有線音楽優秀賞をもらい、日本レコード大賞の優秀作品賞の一つに選ばれた。NHKの紅白歌合戦への出場も決まった。
 この歌は、彼女のおばあちゃんが話したことが歌詞になっている。「♪トイレには、それはそれはキレイな神様がいるんやで、だから毎日キレイにしたら、女神さまみたいにべっぴんさんになるんやで」。初めてこの歌を聞くと、トイレと神様という意外なとりあわせに、ちょっと驚く人が多かったのではないだろうか。
 でも、でも、でも、沖縄ではトイレに神様がいることは、昔からの風習として、フツーのことなのである。
033  沖縄ではトイレのことは、「フール」という。トイレには「フール神」(フルヌカン)がいると信じられて、拝む対象になっていた。沖縄の、古い家では、屋敷で豚を飼い、豚小屋と便所は一体になっていた。つまり、人間の排せつ物を豚に餌として食べさせた。
 左写真は、久米島の上江洲家。こういう琉球王朝時代からの古い建物は、豚小屋兼便所(036 右下写真)があった。

 沖縄は、民間信仰が根強い。御嶽(うたき)と呼ばれる拝所はいたるところにある。それだけでなく、家にも神がいる。
 「火の神」(ヒヌカン)は、台所に祀られ、家の守り神とされ、毎日拝む人もいるし、毎月1日、15日に家族の健康や家内安全を祈願する。
 「屋敷神」(ヤシチガミ)は、土地や家屋の守り神で旧暦の2月、8月の2回、火の神、屋敷の四隅や中央など拝み、日ごろの感謝、家内安全を祈願する。そのさい、便所jの神も拝む。
 「神の島」といわれる久高島の「便所の神」を紹介する。
 「戦前まではほとんどの家庭に、石造りの豚小屋兼便所があった」「旧暦2月と8月におこなわれる屋敷のお祓いのとき、最後に便所に対して御願(ウガン)がおこなわれる。そのとき便所に<フルヌハミサマ>(便所の神様)と呼びかけている。また願い詞に『便所の神様、排泄は水の流れのようにスムーズにさせて、健康にさせてください』とある」。これは比嘉康雄著『日本人の魂の原卿沖縄久高島』から紹介した。
 なぜ便所の神を拝むのか?。010
 比嘉氏は「便所を軽く考えると便所の神様が怒り病気になる。つまり、人間の健康状態を司っているのが便所の神様ということである」と解説している。また、火の神、水の神、屋敷の神などそれぞれ礼拝する。これら実生活と結びついた火、水、便所、屋敷など「これらを総称して御恩(グウン)といっている。つまり、感謝すべきものということである」と述べている。
 もともと、厠、井戸、屋敷の四隅などには、神がいるから常に清めなければならないと教え、みずから実践したのは、琉球王朝時代の名高い政治家、蔡温(さいおん)だ、という口碑があるそうだ。結局は、疫病など災厄から守られるために、また便所を汚さないように考えて神様が祀られるようになったと解釈する人もいる(ネット「おもろ琉球風水」)。
 もちろん、いまでは沖縄でもトイレはほとんど家の中にあるし、豚を自宅の敷地で飼っている人も少ないだろう。でも、トイレが人間の健康にとってとっても大事なことは、いまも昔も変わらない。 
 面白いのは、与那国島の祖納(そない)集落に伝わるという話だ。
 フール(便所)、井戸、カマ(カマドのこと)の神様たちが、だれがフールの神様になるか話し合ったさい、もっとも美人の神様が「フルヌカン」(便所の神様)になった。だからトイレはキレイにしていなくてはいけない、そうである。
 この話になると、もう植村花菜の「トイレの神様」に出ているおばあちゃんの話に通じる点がある。 もしかして、植村さんのおばあちゃんは、沖縄の「トイレの神様」のことを知っていたのだろうか?。そんな想像をしてみたくなる。
 右上写真は、「トイレの神様」に御願しお供えをしている風景(「新報生活マガジンunai」から)。 

2010年12月 8日 (水)

12月8日は沖縄の地獄の始まり

 12月8日と言えば、69年前の1941年のこの日、日本軍が真珠湾を奇襲攻撃し、無謀な太平洋戦争に突入した日である。
 沖縄では、1944年10月10日にアメリカによる那覇市を中心とする空襲が、沖縄戦の始まりだとされている。本島で初めて死傷者1500人にのぼる戦争の犠牲者が出た。そのためだろうか、12月8日の開戦の日は、あまり重視されていない気がする。本日付の新聞でも、開戦についての記事が出ていない。沖縄戦を当時のリアルタイムのスタイルで報道した優れた戦争企画の琉球新報「沖縄戦新聞」も、始まりは1944年7月の「サイパン陥落」からである。
 でも、現実には、沖縄の運命が大きく転回していったのは太平洋戦争への突入によってである。沖縄は昔から軍事基地があったように思っている人がいるが、それはまったく違う。明治の帝国日本は、日清戦争で台湾を奪い取ったので、沖縄は国境の島ではなくなった。1941年の開戦直前の夏までは、沖縄は、日本軍の常駐部隊も軍事施設も存在しない、全国唯一の県だった。「沖縄県には軍馬一頭」といわれる平和な島だった。
 戦争が激しくなると、沖縄の民謡も戦意高揚の民謡軍歌が盛んにつくられた。1943年からは、本島の読谷村や伊江島はじめ沖縄各地の十数か所に日本軍の飛行場が次々建設された。1944年3月には、沖縄守備軍・第32軍が創設され、大部隊が大挙してやってきた。南方の島々が、米軍の反攻によって次々陥落すると、いよいよ沖縄が焦点になってくる。平和な島は、戦時一色に染められ、戦争の最前線に立たされる。そして、本土防衛と天皇制の国体護持のために、沖縄は時間稼ぎの捨て石にされたのだ。
 米軍の上陸とともに、「鉄の暴風」とよばれるほどの、住民を巻き込んだ唯一の地上戦で、県民の4人に1人が犠牲になるという悲惨な結果をもたらしたことは、周知の事実である。
 さらに沖縄戦は終わっても、米軍が沖縄を「太平洋の要石」と位置づけ、軍事占領と支配を続けた。日本に復帰してからも、「血を流して取った島は手放せない」と言わんばかりに、米軍と巨大な米軍基地が居座り続けている。事件事故の続発で県民に数々の犠牲を与え続ける現実も、無謀は対米開戦がなければなかっただろう。
 そういう意味では、沖縄にとって69年前の12月8日は、決して忘れることはできない日である。いまでは、沖縄の自衛隊も増強を続け、尖閣諸島問題など口実に、先島への配備など意図している。「戦争は絶対に繰り返してはならない」と誰もが言う。これからも、ますます12月8日の意味を、問い続けていかなければならないと思う。

2010年12月 7日 (火)

黒岩恒の顕彰碑を訪ねる

 尖閣諸島の命名者として、新たな注目をされている黒岩恒の顕彰碑が、名護市大中にあり、先日訪ねた。073_2黒岩恒先生顕彰会が昭和43年(1968)に建立した。大城昌隆氏の撰文、仲村三男氏の謹書である。
 碑文は次のように記されている(抜粋)。
 「高知県高岡郡佐川町立野で生れ、明治二十五年(1892)沖縄師範学校教諭として赴任、明治三十五年(1902)国頭郡各間切組合立農学校創立に當り初代校長として迎えられ、沖縄在住二十八年其の間十有三年間の農学校長としての功績が最も顕著であり、文部省から選奨の栄誉に浴し、またそのすぐれた薫陶を与えた教え子四百余名を農民指導者として社会に送り出し、自からその最高指導者となり農産物有用植物家畜等優良品種の導入増殖普及に努力、原始的であった沖縄の農法を科学的近代の農法の改革する基礎を創出した事は歴史的に記録さるべきである」
 076
 顕彰碑の裏面には、漢詩が刻まれている。この漢詩は、明治40年(1907)に、昆虫植物採取の帰途、名護町許田(きょだ)で詠まれたという。詩は、平和で静かな許田部落の夕餉の民家のたたずまいや夕陽が西に傾き没せんとする名護湾、磯辺で戯れる一群の鷺が飛び立つ姿など、風光明美な名護湾曲の絶景を賞賛した内容である。
 顕彰碑の左隣には、この漢詩が後に独立の小さな碑として建立されている。
 黒岩恒は、沖縄在住の間、沖縄の動植物から、地質、民俗など広く関心を持って調べ、多数の新種も発見した。「クロイワ」の名のつく動植物は数十種類におよぶ。
 078 黒岩恒に関心のある方は、「尖閣諸島を命名した高知人・黒岩恒さん」を9月27日にアップ しているのでご覧ください。
 黒岩顕彰碑の隣には、真新しい碑があった。黒岩が初代校長を務めた「甲種国頭農学校跡」と記された記念碑である。一昨年(2008年)3月21日、沖縄県立農林学校同窓会が建立したという。
 明治35年(1902)設立された同校は、1911年に、県立移管によって沖縄県立農学校と改称された。
 日本三大農学校の一つとして、その名声を博し、幾多の有為な人材を各界に輩出したという。 この碑を見てきづいたことがある。それは農学校の名称だ。黒岩顕彰碑では「国頭郡各間切組合立」となっているが、この農学校跡の記念碑では「国頭郡各間切島組合立」とあり、「島」が入っている。いろんな文書で国頭農学校の名称を見たが、「各間切島組合立」とあるのは初めてだ。なぜ「島」がつくのかよくわからない。でも記念碑なのでこれが正式名称なのだろう。「甲種国頭農学校」とあるのも、これまでは見たことがなかった。これも正式名称は「甲種」とつくが、通称では省略されていたのかもしれない。碑文などは、やはり直接見ることが大事だと思ったことだ。081_2

 

 この顕彰碑、農学校跡の碑071 ともに、この場所にはもう一つ碑がある。「沖縄県立第三高等女学校発祥之地」の碑である(左写真)。その下には、第三高女の校歌が刻まれている。第三高女は、沖縄戦では、「なごらん学徒隊」として、沖縄陸軍病院北部分室に配属された歴史を持つ。
 こんな大事な碑が3つもあるにしては、関係者以外にはあまり知られていないのか、ここにたどり着くまでに苦労があった。半年前に名護に来た時、名護市教育委員会発行の市内にある碑を集めて紹介した本の地図を見てきたけれど、分からない。近所の公民館で聞いたら、別の場所を教えられた。今回は、教育委員会に電話して、確かめてから訪れた。それでやっと分かった。
 右上写真が、3つの碑の全体の配置である。手前から黒岩恒の漢詩の碑と顕彰碑、中央が国頭農学校跡の碑、右奥が第三高女発祥之地の碑である。

084  
 これらの碑は、沖縄県立北部病院(左写真)の駐車場にある。駐車場の敷地の、北西の隅にあたる場所にある。

 黒岩恒は、沖縄を離れた後、和歌山県高野口村で没したので、生まれ故郷の高知県佐川町には帰らなかった。だから、黒岩の三歳年下で、黒岩の採取した沖縄の植物を検定した植物学者の牧野富太郎は、とても有名だが、黒岩恒のことは町民にはほとんど知られていない。その黒岩が、はるか沖縄の名護で、このような立派な顕彰碑、漢詩の碑まで建立されていることは、感慨深いものがある。

2010年12月 6日 (月)

国史跡に指定された内間御殿を訪ねる。その2

086  内間御殿のある場所は、西原町嘉手苅(かでかる)という。いまは住宅街で左写真のようなところだ。それにしても、値打ちのある石垣は、ブルーシートで覆われ、神殿らしくない。
 内間御殿は、国家的な聖地といいながら、東江御殿は、王府の羽地朝秀が造ったそうだが、西江御殿は人民、農民が造ったというのは、ここを訪れて初めてわかった。金丸、のちの尚円王を農民が追慕したという。その理由はわからないわけではない。
 琉球を最初に統一した尚巴志の王統・第一尚氏は、まだ国内では内乱が起き、支配は不安定だった。国家は「内乱と外征に疲れて」いたという(伊波普猷氏)。王府の軍事的な負担も重かったのだろう。
082  その上、7代目の尚徳王はまれに見る暴君で、国内は乱れ、悪人がはびこり、善人が虐げられる社会になっていたという。クーデターで政権についた農民上がりの尚円の子、尚真王の時代には、王府が国内の「刀狩り」をして武器は国家が管理するようにした。以後、琉球では日本の武士のように、腰に刀を差す姿はなく、士族(サムレー)も丸腰になった。だから琉球は「武の国」でははく「文の国」と呼ばれた。
 話はそれたが、尚円王が追慕されたというのには、そんな背景もあるのではないだろうか。
 右写真は、東江御殿のそばにある「ウビシル」と呼ばれる拝所である。西江御殿にも同様なものがある。なにを祀っている拝所なのか、よくわからない。

 東江御殿の入り口には、とても立派なサガリバナ(さわふじ)の大木がある。070_2こんなサガリバナの大木は見たことがない。よく見ると近くには、たくさんサガリバナの木がある。名所のようだ。咲いた時、見に来たいと思ったが、なにしろこの花は、夜中に咲き、朝日がさすと散ってしまう。だから、ここまで夜、見に来るのも大変だ。サガリバナがどんな花か、知りたい人は、このブログのプフィールのところに花をアップしているので見て下され。それにしても、こんな大木に、幻想的なサガリバナがライトアップされて咲けば、壮観だろうなあ。内間御殿のもう一つの顔である。

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2010年12月 4日 (土)

国史跡に指定された内間御殿を訪ねる、その1

 西原町にある「内間御殿(うちまうどぅん)」が国史跡に指定されたので、見に行った。内間御殿とは、琉球王国で第二尚氏の王朝をひらいたことで有名な、金丸(後の尚円王)の旧邸宅に創建された神殿を中心とした祭祀施設である。
083訪ねてみると、国史跡になったからだろうか、良好に残されている石垣は、すっぽりとブルーシートに覆われていた。
 金丸は伊平屋島(いへやじま)の平民の子に生まれ、のちに首里にのぼり、越来(ごえく)王子(のちに尚泰久)の家臣となる。1459年に内間領主に任じられた。
 尚泰久の亡き後を継いだ尚徳王と対立し、1468年内間村に隠遁した。翌年、尚徳王が亡くなり、群臣から推挙され王位に就いたという。
 実際は、琉球を統一した尚巴志の後継の7代目の尚徳王をクーデターで追放し、金丸が国王となり、第2尚氏の王統を打ち立てたのだ。
 日本の天皇は万世一系だという建前だが(本当は断絶があるらしく怪しい)、琉球は王統は何回も交代している。この金丸も百姓から国王につき、その後の琉球王朝の安定と発展の土台をつくった。その後、第二尚氏は400年にわたり続いた。
 尚円王の死後、190年を経て、王府の政治改革を行った摂政の羽地朝秀(はねじちょうしゅう)が、金丸が内間地頭でいた時の旧宅跡に、神殿をつくった。以来、ここは国家的な聖地とされてきたという。
066  内間御殿は左図のような配置である。
神殿は、東江御殿(あがりうどぅん)と呼ばれ、はじめは茅葺きで、1689年に瓦葺きに改築された。
 その後、1706年にその北側に、西原間切(いまの町村)の農民が尚円王を追慕して西江御殿(いりーうどぅん)を建てたそうだ。東江御殿に賊が入ったのをきっかけに、竹垣から石垣積に改修された。 
 でも沖縄戦でいずれも焼失した。その中で、石垣の遺構や先王旧宅碑の台座は残った。
 下の写真が先王旧宅碑の台座。

073  

 石垣はとても立派だが、東江御殿と西江御殿の二つの神殿は、トタン葺きで、とても神殿とは思えない建物だ。それは、昔の神殿の通り復元した建物ではないからだ。住民の手によるものだ。
 戦後、東江御殿は、1951年に、大屋門中(男系血縁組織)やハワイ在住の一門らによって、トタン葺きの神殿が建てられ、その後ブロック造りに改修された。西江御殿も、伊礼門中によって、木造トタン葺きの神殿が再建されたという。

 074 左が東江御殿。右下が西江御殿である。西原町では、かつてこの地で、1976年に開発計画が持ち上がったけれど、住民の反対で中止させた経過がある。住民が守ったのである。これまで昔の神殿の様子がわかる写真がなかったけれど、2000年に、戦前の写真が見つかった。西原町は革新町政で、町は来年度から、調査して整備管理計画をつくり、復元期成会の発足や発掘作業、関連施設整備など進めるという。ぜひ、戦前の神殿を復元して、整備を進めてほしいものである。

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2010年12月 3日 (金)

石垣島の童謡には「昼のうた」「夜のうた」がある

002  岩崎卓爾さんのことをブログにアップしたが、彼の著作にある「八重山童謡集」についてふれたい。前に書いた「沖縄の子守唄の不思議」のなかで、「昼の子守唄」と「夜の子守唄」があると紹介した。でも、その実際については、まだよくわからなかった。今回、岩崎氏の「八重山童謡集」を見ると、驚くことに「昼のうた」「夜のうた」に分類されているではないか!八重山の古謡集など見ても、こういう分類は見たことがなかったので、とても興味をもった。
 では岩崎氏は、どういう唄を昼と夜に分類しているのだろうか? それは岩崎氏が勝手に分類したのではなく、明治時代には石垣島では童謡が分類されていたのを岩崎氏が採取して記録したのだろう。童謡は、子守唄や民謡も同じだが、やはり島の人々の暮らし、民俗を映し出している。それで、強い関心を持ったのだろうか。童謡も社会の変化、時間の経過とともに、消えていく。岩崎氏のこの「童謡集」は、石垣島に伝わる童謡の貴重な記録だ。
 右写真は「岩崎卓爾の歩いた石垣島」から

 「昼のうた」には、次のような唄がある。歌詞は、自己流に訳しなおした。
「昼のうた」で多いのは、「父や母が出かけて家にいない」という内容だ。
 「♪坊やのお母さんどこに行った、大畑に行った、大きなお芋を取ってきて、坊やには美味しいのをあげよう、姉(あんま)には美味しくないのを煮てあげよう」。なぜ、坊やと姉が差別されているのだろうか。男の子を優遇したのか、下の子を甘えさるのか、よくわからない。
 「♪坊やのお父さんどこへ行った、蔵元に出勤した、何の御用で蔵元にお勤めか」と、役所に行った父を歌う唄もある。
 また、お母さんは、「中筋に木綿花を摘みに行った」とか「大山に薪木とりに行った、大木を取ってきたら、明後日は泡盛をつくり、明後々日には坊やのお祝いをしよう」などと歌う。やはり、父や母は働きに出ていないが、帰ってきたら何かいいことがある、という内容だ。童謡というが、子守唄のような感じだ。
 次も子守唄のようだ。「♪坊やのつとめは眠ること、姉の役目は子守りするお役だよ」。眠らせ唄のようだ。
 ちょっと異色の唄は、政治色を伴った唄だ。「♪唐の馬に乗ろうか、大和の馬に乗ろうか、はえど」と歌う。琉球は中国皇帝に朝貢し臣下となりながら、薩摩の支配を受けていた。唐(中国)と大和(薩摩)と両国につかえる、琉球王府の両属政策を皮肉ったものだ。これが、童謡だというのは、なんとも不思議な唄である。

113  「夜のうた」には、次のような唄がある。
 「♪寺の符札には魔を除ける黄金の花が咲きおる、さかりょうり、ほうい、ちょうが」。これは「月ぬかいしゃ節」にある歌詞だ。他にもこの曲の歌詞がたくさん出ている。「月ぬかいしゃ節」は、典型的な夜のうたである。
 また「♪どこが舟宿よ、蔵元のまいはまよ、どこに舟の錨を下ろし舟をつなごうか、美崎泊へ錨を下ろして舟をつなぎなさい」という唄もある。これは、私の勝手な想像だが、離島の島々から年貢の米や貢布を上納するのに、舟で蔵元のある石垣島に渡ってきた。その舟をどこに着けようか、という様子を歌ったのではないだろうか。
 次の唄も意味はよくわからない。「♪新家の姉が失踪をなしたそうだが、人知らぬも草や木は知っておる」。なぜ、新家の姉さんがいなくなったのだろうか。密かに想いを寄せる彼と逢引きをしているのだろうか。それとも、役人に見染められて、賄いをさせられているのだろうか。真相はよくわからない。でも「人はしらぬも草や木は知っている」という。なにか秘め事のような感じがする。
 「♪寺の西のいんちゆ姉が、馬の児を孕んで臨月になったから、兄の子だとか、弟の子だとか」。この唄も、なにかいわれがありそうだが、残念ながらこれだけではよくわからない。
 「♪与那国家の後方にある栴檀木(せんだんぎ)は、大舟三艘を作るような巨木だが、その家の乙女が嫁入りの吉日には、抽出箱をつくりご祝儀しましょう」。
 これらの「夜のうた」は、これがなぜ童謡なのかという歌詞が多い。「夜のうた」は、月の夜を歌っているという昼夜の関係だけではない。恋や結婚、妊娠などにかかわる「大人の唄」がかなりある。そういう意味で「夜のうた」にされているのではないだろうか。やはり、沖縄の童謡も不思議がいっぱいである。
 なお、沖縄の子守唄に関心のある方は、ブログの11月分に「沖縄の子守唄の不思議・総集編」を4回にわたりアップしているので見て下さい。
 右上の写真は、糸満市の上空に昇る満月。

2010年12月 2日 (木)

岩崎卓爾と黒岩恒

001  尖閣諸島を名付けた黒岩恒(くろいわひさし)のことを前に書いた。そのブログを読んだ方から、「黒岩恒と岩崎卓爾(いわさきたくじ)についてとても関心がある。二人は出合ったことはないだろうか」と問い合わせがあった。それまで、岩崎のことはまるで関心がなかった。
 岩崎は、開設された直後の石垣島測候所に明治31年(1898)に東北の仙台から30歳で赴任した。退職後も島にとどまり、68歳で死ぬまで40年近く暮らした。測候所長のかたわら、動植物から民俗、文化にまで関心を持ち、10種類もの昆虫に名を残した人物だ。
右写真は『岩崎卓爾一巻全集』から。   005_2

   

 先日「日本トランスオーシャン航空機内誌「coralway」を見る機会があった。そこで奇しくも写真のように「岩崎卓爾の歩いた石垣島」の特集(文・足立倫行氏)が掲載されていた。それで、一言紹介をしておきたいと思った。岩崎は、写真で見るように、死ぬまで着物に袴姿。自分で作ったヘチマの帽子を愛用していたという。
 台風や干ばつなどに苦しむ石垣・八重山で、気象観測を続け、台風を研究し、観測結果を記録に残した。同時に、彼が発見した昆虫の中で、イワサキクサゼミは、日本最小のセミだ。昆虫だけで10種類、他にヘビも2種類発見している。私が興味を引くのは、八重山の社会と民俗、歴史や文化への関心である。
 右下写真は、岩崎卓爾の特集を組んだ『coralway』2010年11/12月号。 

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 『岩崎卓爾一巻全集』を見ると、石垣島の地誌から御獄(石垣ではオンとよぶ拝所)の由来、首里王府に反乱を起こしたオヤケアカハチの居跡、「あかまた祭」についての私見、雨乞いの祭、伝説、婚礼から葬式などの習俗、女性の入墨の習慣、与那国島から尖閣列島まで離島の概況、海や山の産物、八重山の童謡まで紹介している。
 さらに、 「火玉及び火に就いての観察」や「火の神(ひぬかん)」「フリヤー・ヌ・カム(厠神、トイレの神)について観察している。八重山俚諺集(ことわざを集める)、八重山の民間療法、「ユングンドウ」(叙情謡)も採取している。
 八重山の民俗全般にわたり、関心を持ち記録している。だから、のちに日本の民俗学で名高い柳田國男が、八重山を訪問した際は、岩崎氏が御嶽などを案内したそうだ。
 岩崎氏は、周りの住民から「天文屋の御主前」(テンブンヤーヌウシュマエ)と呼ばれた。「測候所の旦那様」という意味だ。芥川賞作家の大城立裕さんは、岩崎氏の伝記的な小説「風の御主前」を書いている。そこでは、岩崎と黒岩恒の両氏の出会いを書いている。
 黒岩が古賀辰四郎に依頼されて尖閣諸島の調査に向かったのは明治33年5月のこと。小説では、古賀が黒岩と理学士・宮島幹之助とともに、石垣の岩崎を訪ねる。岩崎は、「黒岩の野武士のような風貌に心をひかれた」。黒岩の地質学に関する論考をかつて読んでいた。3人が尖閣調査をした後、再び岩崎を訪ね夕食をともにする。
 黒岩は「岩崎君、きみは有望な書生だ」と励ました。当時、黒岩は44,45歳で岩崎は30歳くらいだ。一回り黒岩が年上である。
 「沖縄というところは、まだ学問の処女地だよ、きみ。もちろん歴史上に古文献はいろいろある。それを今後現代科学にのせなければならぬのだ。私は、浅学非才ながらその使命を負うているものと覚悟していて努力している。沖縄から八重山まで自分の仕事だと思ってやってきた。しかし、これからは八重山のほうはきみにまかせる」。黒岩は熱をこめて語る。その気持ちは卓爾の胸によく響いた。
 「この土地の特異性に興味をもたなければ嘘だよ」とも言う。黒岩から八重山の学問を任されたことが、若い岩崎卓爾の心に深くきざまれた。
 大城さんの小説では、あらましこんなふうなやり取りの場面が描かれている。どこまで史実を反映しているのか、二人の出会いそのものから創作なのか、直接大城さんに聞かなければ分からない。ただ、尖閣踏査で石垣に寄った際、測候所の所長と会うのは、必然性がある。会えばこんな会話になたのではないか、というのも想像がつくところである。
 黒岩氏は、岩崎氏が石垣島に来る前に、すでに沖縄本島から、久米島、宮古、石垣島など離島を含めて、博物学上から自然、地質、動植物、民俗、ことわざまで広く採取したり、研究して、雑誌に発表していた。だから岩崎氏も、当然そういう黒岩氏の著作を読んでいただろう。また、採取した昆虫などは、黒岩、岩崎両氏とも同じく北海道帝大の松村松年教授に送って検定してもらっている。二人とも、遠く大和からこの南島に渡ってきて、同時代に島に生きて、同じように沖縄の自然と社会に魅かれて研究する間柄として、互いに交流や協力があっただろう。岩崎氏と黒岩氏の間で協力があったと記した文献もあるが、いまのところまだ確認できる資料を見ていない。でも、交流や協力があったと見る方が自然である。
 

  

                                     

2010年12月 1日 (水)

古い風景が残る与那原を歩く

035  かつては沖縄北部のからの「山原(やんばる)船」が着く港町として、戦前は軽便鉄道も走ってにぎわった与那原(よなばる)町の中心地を歩いた。右写真は役場から眺めた町の風景だ。
006_2  与那原といえば、400年以上の歴史をもつ与那原大綱曳きが有名だ。左写真は大綱曳きのポスター。

 昔からの与那原の商店街は、狭い通りで、やたら一方通行が多い。でも、街のあちこちに、古くからの拝所などあり、民俗を知るのには面白い。与那原は、琉球王朝の時代、国王が聖地・久高参詣や王府の神女の最高位だった聞得大君(きこえおおきみ)が御新下り(おあらおり、即位式)の際、首里を出て通るのが与那原だった。それで由緒ある拝所がある。
005  大綱曳資料館のそばに「親川(ウェエガア)」がある(右写真)。天地開闢の昔、天降りした天女が出産の産場とした神話に発して、国王、聞得大君が首里を出て最初の拝所とし、休憩の用水を献じた所と伝えられる。立派な拝所の建物なので、中に何を祀っているのか、のぞいてみると、まさしく水の湧き出る「カー」だった。川と書いても川ではなく井戸だ。各地でわき水の井戸を見てきたが、住民にとって水は命なので、水の湧く井戸は拝所になっている。でも井戸の上に、こんな立派な建物があるのは初めてだ。それでけ、由緒があり、人々の篤い信仰の対象なのだろう。
 聞得大君は、この親川の水に中指を浸し、額をなでることで、霊力を獲得する「お水撫」の儀礼がされたと伝えられている。
 

041 御殿山(ウドゥンヤマ)も、本島南部の拝所を回る「東御廻り(あがりまあい)」の巡礼地の一つで、聞得大君の御新下りの際の休憩所があった場所だ。
 左写真が拝所である。
 御殿山の名前の由来は、御殿があったのではなく、山原から首里の御殿に納める木材の置き場に指定されたことによるという。
 山原からは、大切な燃料だった薪木が与那原に運ばれた。首里の酒造所ではこの薪木がよく使われたそうだ。

 

 031 東名大主(アガリナウフス)に向かった。町役場のすぐ前にある。ここは、町中から少し離れた丘の上にあり、町の全体が眺められる場所だ。一番上の写真は、ここからの眺めである。与那原開拓の祖である東名大主が祀られている拝所だという(右写真)。とても由緒ある拝所だ。でも人に尋ねると、なかなか分からない。近くに来てやっと「役場の前のがそうではないか」という女性の言葉でやっと見つかった。
034

小さな祠もあった(写真左)。草むしている。井戸もあるがいまはもう蓋をされていた。

016もう一つ拝所がある。「阿知利世主(アチリユウヌシ)」という。これは町中にある。でも、阿知利原という小字があることと、与那原大綱曳のときの御願場所の一つに、この拝所がされているということ以外には、よくわからないらしい(左写真)。
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 拝所の中は、仏壇のようになっている(右写真)

 

 ちなみに、大綱曳きの際は、町の拝所に来年の豊作と健康を祈願して、東名大主から出発して5か所の拝所をめぐるそうだ。糸満大綱曳きにしても、まず拝所に祈願する。綱曳きがただの遊びでもスポーツでもなく、豊年や大漁、健康や子孫繁栄など願う伝統行事であるから、いわば当然のことかもしれない。

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 与那原で、もう一つ面白いのは、町中に立っている石獅子だ。少し歩いただけで4か所もあった。沖縄のシーサーといえば、赤瓦の屋根の上に立つ。いまではマンションでも立てる。門の上にもよく建っている。ここのは少し違う。街角に立っているのだ。なぜなのか。012 025いずれも石造りでずんぐりしている。 村落獅子とも呼ばれるらしい。石獅子は、悪霊の侵入や火難を防ぐ目的で、集落の入り口などに置かれたそうだ。なるほど、与那原の石獅子も、3か所は集落の南東の隅に、1か所は北西の隅にあたる場所にある。これは、きっと町の集落への出入り口にあたる場所だったのだろう。
 右写真の石獅子だけが、北西にあり、他は南東にあった。それにしても、中央写真の石獅子は樹木に頭をぶつけていて痛そうだ。なぜこうなったのでしょうねー。木が大きくなるとますます圧迫されますねー。でも石獅子はみんな、なんかユーモラスというか、歯を出して笑ったりしていて、表情が面白い。
 村落獅子というのは、沖縄全体にあるのではなく、なぜか南部に多いらしい。この与那原や南風原、八重瀬町、那覇市にもある。この石獅子は古くからあるそうで、屋根の上のシーサーは、明治時代になってからだという。大工さんが家を新築したとき、屋根の材料である赤瓦と漆喰を使って、シーサーをつくり、家のお守りとして置いたそうだ。
052  そのうち、南部の村落獅子も訪ねてみたいものだ。
 途中、JAの直売所がありのぞいた。美味しそうな島バナナがあった。でも大きいので、これは調理用らしい。聞いてみると「そうです。天ぷらとかにして食べますよ。まあそのまま食べられないことはないけれど、甘くないのでね」。家では、天ぷらは作らない。あまりに色づきがよいので、「甘くなくてもよいや」と思い、買った。すぐ食べてみると、甘さ控えめだが、酸味があって、これはこれで「ジョウトウーバナナ」。しかも一房250円と通常のバナナより半分以下の安さだった。やっぱい実際に食べてみないとわからないものだ。

  

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