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2010年12月 2日 (木)

岩崎卓爾と黒岩恒

001  尖閣諸島を名付けた黒岩恒(くろいわひさし)のことを前に書いた。そのブログを読んだ方から、「黒岩恒と岩崎卓爾(いわさきたくじ)についてとても関心がある。二人は出合ったことはないだろうか」と問い合わせがあった。それまで、岩崎のことはまるで関心がなかった。
 岩崎は、開設された直後の石垣島測候所に明治31年(1898)に東北の仙台から30歳で赴任した。退職後も島にとどまり、68歳で死ぬまで40年近く暮らした。測候所長のかたわら、動植物から民俗、文化にまで関心を持ち、10種類もの昆虫に名を残した人物だ。
右写真は『岩崎卓爾一巻全集』から。   005_2

   

 先日「日本トランスオーシャン航空機内誌「coralway」を見る機会があった。そこで奇しくも写真のように「岩崎卓爾の歩いた石垣島」の特集(文・足立倫行氏)が掲載されていた。それで、一言紹介をしておきたいと思った。岩崎は、写真で見るように、死ぬまで着物に袴姿。自分で作ったヘチマの帽子を愛用していたという。
 台風や干ばつなどに苦しむ石垣・八重山で、気象観測を続け、台風を研究し、観測結果を記録に残した。同時に、彼が発見した昆虫の中で、イワサキクサゼミは、日本最小のセミだ。昆虫だけで10種類、他にヘビも2種類発見している。私が興味を引くのは、八重山の社会と民俗、歴史や文化への関心である。
 右下写真は、岩崎卓爾の特集を組んだ『coralway』2010年11/12月号。 

006

 『岩崎卓爾一巻全集』を見ると、石垣島の地誌から御獄(石垣ではオンとよぶ拝所)の由来、首里王府に反乱を起こしたオヤケアカハチの居跡、「あかまた祭」についての私見、雨乞いの祭、伝説、婚礼から葬式などの習俗、女性の入墨の習慣、与那国島から尖閣列島まで離島の概況、海や山の産物、八重山の童謡まで紹介している。
 さらに、 「火玉及び火に就いての観察」や「火の神(ひぬかん)」「フリヤー・ヌ・カム(厠神、トイレの神)について観察している。八重山俚諺集(ことわざを集める)、八重山の民間療法、「ユングンドウ」(叙情謡)も採取している。
 八重山の民俗全般にわたり、関心を持ち記録している。だから、のちに日本の民俗学で名高い柳田國男が、八重山を訪問した際は、岩崎氏が御嶽などを案内したそうだ。
 岩崎氏は、周りの住民から「天文屋の御主前」(テンブンヤーヌウシュマエ)と呼ばれた。「測候所の旦那様」という意味だ。芥川賞作家の大城立裕さんは、岩崎氏の伝記的な小説「風の御主前」を書いている。そこでは、岩崎と黒岩恒の両氏の出会いを書いている。
 黒岩が古賀辰四郎に依頼されて尖閣諸島の調査に向かったのは明治33年5月のこと。小説では、古賀が黒岩と理学士・宮島幹之助とともに、石垣の岩崎を訪ねる。岩崎は、「黒岩の野武士のような風貌に心をひかれた」。黒岩の地質学に関する論考をかつて読んでいた。3人が尖閣調査をした後、再び岩崎を訪ね夕食をともにする。
 黒岩は「岩崎君、きみは有望な書生だ」と励ました。当時、黒岩は44,45歳で岩崎は30歳くらいだ。一回り黒岩が年上である。
 「沖縄というところは、まだ学問の処女地だよ、きみ。もちろん歴史上に古文献はいろいろある。それを今後現代科学にのせなければならぬのだ。私は、浅学非才ながらその使命を負うているものと覚悟していて努力している。沖縄から八重山まで自分の仕事だと思ってやってきた。しかし、これからは八重山のほうはきみにまかせる」。黒岩は熱をこめて語る。その気持ちは卓爾の胸によく響いた。
 「この土地の特異性に興味をもたなければ嘘だよ」とも言う。黒岩から八重山の学問を任されたことが、若い岩崎卓爾の心に深くきざまれた。
 大城さんの小説では、あらましこんなふうなやり取りの場面が描かれている。どこまで史実を反映しているのか、二人の出会いそのものから創作なのか、直接大城さんに聞かなければ分からない。ただ、尖閣踏査で石垣に寄った際、測候所の所長と会うのは、必然性がある。会えばこんな会話になたのではないか、というのも想像がつくところである。
 黒岩氏は、岩崎氏が石垣島に来る前に、すでに沖縄本島から、久米島、宮古、石垣島など離島を含めて、博物学上から自然、地質、動植物、民俗、ことわざまで広く採取したり、研究して、雑誌に発表していた。だから岩崎氏も、当然そういう黒岩氏の著作を読んでいただろう。また、採取した昆虫などは、黒岩、岩崎両氏とも同じく北海道帝大の松村松年教授に送って検定してもらっている。二人とも、遠く大和からこの南島に渡ってきて、同時代に島に生きて、同じように沖縄の自然と社会に魅かれて研究する間柄として、互いに交流や協力があっただろう。岩崎氏と黒岩氏の間で協力があったと記した文献もあるが、いまのところまだ確認できる資料を見ていない。でも、交流や協力があったと見る方が自然である。
 

  

                                     

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コメント

コーラルウェイの「岩崎卓爾が歩いた石垣島」を読んだけど、岩崎さんて家族と離れて暮らして、一生涯を石垣の研究にどっぷり体をつけたんですね。八重山民俗の父、喜舎場永珣さんも慕っていたとか。あれだけ八重山の世界を追求するということは、それだけ魅力にあふれた場所だったのでしょう。黒岩さんにしても岩崎さんにしても、ヤマトゥンチュが沖縄を愛し、粉骨砕身して後にさまざまな業績を残す、というのは同じヤマトゥとしてうれしいです。岩崎さんは仕事が観測だったから、天候に恵まれないと地元住民から恨まれたりもしたそうですね。岩崎さんがやられた大変なお仕事、頭が下がります。m(__)m
今度石垣島に行けたら、時間があればできるだけ岩崎卓爾さんの足跡を見てみたいものですね。

 明治に大和からの訪問者では、いろいろよい仕事をした人がいますね。新潟出身の中村十作は、宮古島の人頭税廃止で住民を助けて運動の指導者の一人になった。青森の弘前出身の笹森儀助は、沖縄中を訪問して、『南島探検』を書いたけど、先島の住民を苦しめる人頭税の過酷さを告発したりした。これらは、沖縄の訪問者にすぎないけれど、仙台出身の岩崎さんは、石垣島で死ぬまでいたのは、それだけ島への情熱を注いだのですね。

BaUc6qZ=, www.vipcall.biz/sp, 女の子の見極め, http://www.vipcall.biz/sp/?p=88

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