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2010年12月15日 (水)

久米島の年貢の7割は紬だった

153  久米島といえば、伝統ある織り物の久米島紬(つむぎ)で知られる。久米島紬は、純粋な植物染料と泥藍の深い茶の色調で特殊な風合いと着心地の良さが特徴だという。 久米島紬の伝統を継承するため、「久米島紬の里ーゆいまーる館」がある(左写真)。
 久米島絣は、大島紬、久留米絣、結城紬よりも、古い歴史がある。つまり、日本の紬は、久米島から広がったのだ。
 15世紀に中国から養蚕の技術を導入し、紬を製造するようになった。紬ができるまでには、蚕を飼うことから糸を紡ぎ、染色して織り上げるまで、気の遠くなるような作業だ。その工程をビデオで上映していて見ることができた。
 琉球王府の時代、各集落に染物文子(テグ)と呼ばれる担当係が指導する「布屋」という建物があった。そこが機織りの工房になっていたという。
 ビデオを見ていたら、悲しいエピソードが紹介された。少女が自分の着ている着物が破れたので、紬を織る糸を足してほころびを繕うために使ったところ、それが役人に知られてひどいお仕置きにあった、ということだ。
 王府に上納するために織る紬は、すべて貢納するためであり、一片といえども織女らの物にはならない。それは、八重山、宮古では、人頭税に八重山上布、宮古上布を織ったのも同じだ。
 157久米島の城跡でも書いたが、久米島は、かつて中国や東南アジアへの中継貿易の寄港地として重要な役割を果たしていた。首里王府は1510年頃、この久米島に軍を派遣して、各地に城(グスク)を築いていた按司(豪族)を討伐した。それ以降、首里王府の支配に組み入れられた。1609年には、薩摩藩が琉球に侵攻し、支配するようになった。
 このもとで、久米島の民衆も重税を課せられた。「琉球王府への貢納の負担は重く、年貢の70%を紬で代納しました」と町役場のホームページでも書いている。
 久米島は、琉球王府の時代、仲里間切と具志川間切があった。間切はいまの町村の単位だ。間切の中に、仲里は10カ村、具志川は9カ村があった。村はいまの字の単位だ。
 役人は、地頭代以下、村吏が31人いた。2つの間切の地租は、米にして1673石8斗6升2合で、その内の1023石7斗2升8合は米で納めず、久米島紬の反物で代納することになっていたという。
 明治15年(1882)、当時の沖縄県の上杉県令が久米島を巡回した時の日誌に出てくる。地租に占める反物の割合は61%に達する。右写真は、展示されている久米島紬。
 地租の代納として織る紬は「御用布(ダイフ)と呼ばれた。仲里間切だけでいえば、紬の実数は、明治14年で494反にのぼった。これは、地租958石余りのうち626石分の代納にあたり、代納率は65%にのぼる。やはり「地租の6・7割を紬で代納した」(『仲里村誌』)と伝えられる。つまり、主要な税金は、貢布だったことを意味する。
180_2  御用布の製作は、仲里では15歳以上45歳までの女性に課せられた。上中下にランクづけられ、負担額を割り立てた。本来、各人への割り当ては、各戸の地租の納付額に準ずるのが妥当なのに、地租の多少は無視して、上中下のランクだけで不公平な人頭割り当てだった。しかも、役人と村の耕作当、山当の役職にある人の妻は、免除された。久米島では、年貢は女性に特に重くのしかかっていたのである。
 それ以外にも、昔どおり夫銭や棉花や棉侶縄(しゅろなわ)まで納めなければならなかった(新屋敷幸繁著『沖縄県史物語』)
 178_2 ついでながら、久米島に養蚕の技術を伝えたのは、前の城跡の項で紹介した「堂の比屋」(ドウノヒヤ)だった。その功績をたたえて石碑が建てられている(左写真)。ついでに言うと、この碑のそばには、「堂の比屋」が太陽を観測した「ウティダ石」がいまもある(右写真)。「堂」というのは、仲里村にあったムラ(集落)の名前で、「比屋」は、ムラの草分けの家である根所・根屋の男主人のことである。だから「堂の比屋」とは、個人の名前ではなく、世代ごとにいて、いろんな分野で活躍したそうだ。
 『仲里村誌』、新屋敷幸繁著『沖縄歴史物語』を参考にさせてもらった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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コメント

ビデオを見ていてオヤと思ったのは、養蚕から染色、機織りまでほとんど確かに女性がやっているんですけど、染料になる樹の皮はぎは、男性だけでやっていました。つまり男性も久米島紬の貢納には参加していたということになるんでしょうか。久米島には田んぼがなかったんでしょうか。米作りしなかったんでしょうか。年貢の7割となると、とても女性だけでは無理な感じがします。それにしても過酷な重税です。歌が残っていないのが不思議ですね~。

久米島の年貢は、1673石とかコメで上納するのが基本なので、水田がありコメを作っていたでしょう。久米島の米作の歴史は古く、コメに由来する球美(くみ)という島名を奈良時代に持っていたことが、日本の古い記録にも残されているそうです。島の地形を見ても水田には適しているようですね。でも、コメの収穫がどれほどあったのかよくわからないけれど、限りがあるので、久米島紬で代納したのでしょう。八重山、宮古も同じですね。紬をつくるにも男性の力も必要だったでしょう。でも、蚕を飼うところから、糸紡ぎ、染色、機織りとほとんどは、女性がおこなったと思います。
 紬についての民謡もきっとあっただろうけれど、廃れてしまったでしょうね。

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