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2010年12月 1日 (水)

古い風景が残る与那原を歩く

035  かつては沖縄北部のからの「山原(やんばる)船」が着く港町として、戦前は軽便鉄道も走ってにぎわった与那原(よなばる)町の中心地を歩いた。右写真は役場から眺めた町の風景だ。
006_2  与那原といえば、400年以上の歴史をもつ与那原大綱曳きが有名だ。左写真は大綱曳きのポスター。

 昔からの与那原の商店街は、狭い通りで、やたら一方通行が多い。でも、街のあちこちに、古くからの拝所などあり、民俗を知るのには面白い。与那原は、琉球王朝の時代、国王が聖地・久高参詣や王府の神女の最高位だった聞得大君(きこえおおきみ)が御新下り(おあらおり、即位式)の際、首里を出て通るのが与那原だった。それで由緒ある拝所がある。
005  大綱曳資料館のそばに「親川(ウェエガア)」がある(右写真)。天地開闢の昔、天降りした天女が出産の産場とした神話に発して、国王、聞得大君が首里を出て最初の拝所とし、休憩の用水を献じた所と伝えられる。立派な拝所の建物なので、中に何を祀っているのか、のぞいてみると、まさしく水の湧き出る「カー」だった。川と書いても川ではなく井戸だ。各地でわき水の井戸を見てきたが、住民にとって水は命なので、水の湧く井戸は拝所になっている。でも井戸の上に、こんな立派な建物があるのは初めてだ。それでけ、由緒があり、人々の篤い信仰の対象なのだろう。
 聞得大君は、この親川の水に中指を浸し、額をなでることで、霊力を獲得する「お水撫」の儀礼がされたと伝えられている。
 

041 御殿山(ウドゥンヤマ)も、本島南部の拝所を回る「東御廻り(あがりまあい)」の巡礼地の一つで、聞得大君の御新下りの際の休憩所があった場所だ。
 左写真が拝所である。
 御殿山の名前の由来は、御殿があったのではなく、山原から首里の御殿に納める木材の置き場に指定されたことによるという。
 山原からは、大切な燃料だった薪木が与那原に運ばれた。首里の酒造所ではこの薪木がよく使われたそうだ。

 

 031 東名大主(アガリナウフス)に向かった。町役場のすぐ前にある。ここは、町中から少し離れた丘の上にあり、町の全体が眺められる場所だ。一番上の写真は、ここからの眺めである。与那原開拓の祖である東名大主が祀られている拝所だという(右写真)。とても由緒ある拝所だ。でも人に尋ねると、なかなか分からない。近くに来てやっと「役場の前のがそうではないか」という女性の言葉でやっと見つかった。
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小さな祠もあった(写真左)。草むしている。井戸もあるがいまはもう蓋をされていた。

016もう一つ拝所がある。「阿知利世主(アチリユウヌシ)」という。これは町中にある。でも、阿知利原という小字があることと、与那原大綱曳のときの御願場所の一つに、この拝所がされているということ以外には、よくわからないらしい(左写真)。
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 拝所の中は、仏壇のようになっている(右写真)

 

 ちなみに、大綱曳きの際は、町の拝所に来年の豊作と健康を祈願して、東名大主から出発して5か所の拝所をめぐるそうだ。糸満大綱曳きにしても、まず拝所に祈願する。綱曳きがただの遊びでもスポーツでもなく、豊年や大漁、健康や子孫繁栄など願う伝統行事であるから、いわば当然のことかもしれない。

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 与那原で、もう一つ面白いのは、町中に立っている石獅子だ。少し歩いただけで4か所もあった。沖縄のシーサーといえば、赤瓦の屋根の上に立つ。いまではマンションでも立てる。門の上にもよく建っている。ここのは少し違う。街角に立っているのだ。なぜなのか。012 025いずれも石造りでずんぐりしている。 村落獅子とも呼ばれるらしい。石獅子は、悪霊の侵入や火難を防ぐ目的で、集落の入り口などに置かれたそうだ。なるほど、与那原の石獅子も、3か所は集落の南東の隅に、1か所は北西の隅にあたる場所にある。これは、きっと町の集落への出入り口にあたる場所だったのだろう。
 右写真の石獅子だけが、北西にあり、他は南東にあった。それにしても、中央写真の石獅子は樹木に頭をぶつけていて痛そうだ。なぜこうなったのでしょうねー。木が大きくなるとますます圧迫されますねー。でも石獅子はみんな、なんかユーモラスというか、歯を出して笑ったりしていて、表情が面白い。
 村落獅子というのは、沖縄全体にあるのではなく、なぜか南部に多いらしい。この与那原や南風原、八重瀬町、那覇市にもある。この石獅子は古くからあるそうで、屋根の上のシーサーは、明治時代になってからだという。大工さんが家を新築したとき、屋根の材料である赤瓦と漆喰を使って、シーサーをつくり、家のお守りとして置いたそうだ。
052  そのうち、南部の村落獅子も訪ねてみたいものだ。
 途中、JAの直売所がありのぞいた。美味しそうな島バナナがあった。でも大きいので、これは調理用らしい。聞いてみると「そうです。天ぷらとかにして食べますよ。まあそのまま食べられないことはないけれど、甘くないのでね」。家では、天ぷらは作らない。あまりに色づきがよいので、「甘くなくてもよいや」と思い、買った。すぐ食べてみると、甘さ控えめだが、酸味があって、これはこれで「ジョウトウーバナナ」。しかも一房250円と通常のバナナより半分以下の安さだった。やっぱい実際に食べてみないとわからないものだ。

  

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コメント

町教育委員会はもうちょっと史跡案内を丁寧に設置してほしいものです。「親川」以外の拝所には、なんの説明文も解説も表示していなかったではないですか。「アチリユウヌシ」のなかがなぜ仏壇のようになっておるのか、見当がつかない。ウコーロとチャーギがきちんと並べられていたから、普段から手入れがされており、ということは、地域住民に崇められているということはうかがい知れる。が、「なんでなのさ~」という疑問が残る。よって、祠の近くにただ「史跡●●●●」とだけ表記するのではなく、きちんと説明文もほしいものだ。そういうのがないところに、「はたして与那原町は史跡を他所の人にも知ってもらう、町としても大事にする、という気持ちはあるのか」という疑義が生じてくる。
そういえば道を歩いていたら「ちゃんぷるー市」というのぼりが並んでいたけど、4日に「えーがーで網がる与那原ちゃんぷるー市」がおこなわれるそうです。親川通りと親川拝所の間で、4日正午から午後8時まで、与那原町の特産品販売やレディース・タグローブ(綱曳き)選手権、ヨナバルファイタースリーショーなど(問い合わせ・同商工会)がくりひろげられるそうですよ!綱曳き選手権、面白そうですね!与那原って「ご当地ヒーロー」がいなかったっけ?
石獅子ってなんで南部に集中してるんでしょうね。軽便鉄道が与那原にも伸びていたのは、与那原がやんばるとの交通の要衝でもあったからですか?長いコメントすみません。m(__)m

 史跡には案内板が欲しいですね。東名大主と御殿山には、絵入りの案内板があったけど。阿知利世主は、どうも由来がよくわからないみたい。そのせいでしょうか。
 軽便鉄道は北は嘉手納から那覇、糸満まで走っていたけれど、東海岸の与那原を通ったのはきっち港町で北部からの物産も集まる交通の要衝だったからでしょうね。沖縄の地形を見ると、本島は「く」の字型に曲がっているので、山原と与那原は船で航海するのに近い。西海岸は大回りになる。それに、与那原は、王朝時代の首都・首里に近いし、いまの県都・那覇とは近いうえに平地で通るので、物資の運搬にも便利だったのでしょう。
 ローカルヒーローは、そういえば以前、テレビで紹介されていた記憶があるけれど、すっかり忘れていました。

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