国史跡に指定された内間御殿を訪ねる、その1
西原町にある「内間御殿(うちまうどぅん)」が国史跡に指定されたので、見に行った。内間御殿とは、琉球王国で第二尚氏の王朝をひらいたことで有名な、金丸(後の尚円王)の旧邸宅に創建された神殿を中心とした祭祀施設である。訪ねてみると、国史跡になったからだろうか、良好に残されている石垣は、すっぽりとブルーシートに覆われていた。
金丸は伊平屋島(いへやじま)の平民の子に生まれ、のちに首里にのぼり、越来(ごえく)王子(のちに尚泰久)の家臣となる。1459年に内間領主に任じられた。
尚泰久の亡き後を継いだ尚徳王と対立し、1468年内間村に隠遁した。翌年、尚徳王が亡くなり、群臣から推挙され王位に就いたという。
実際は、琉球を統一した尚巴志の後継の7代目の尚徳王をクーデターで追放し、金丸が国王となり、第2尚氏の王統を打ち立てたのだ。
日本の天皇は万世一系だという建前だが(本当は断絶があるらしく怪しい)、琉球は王統は何回も交代している。この金丸も百姓から国王につき、その後の琉球王朝の安定と発展の土台をつくった。その後、第二尚氏は400年にわたり続いた。
尚円王の死後、190年を経て、王府の政治改革を行った摂政の羽地朝秀(はねじちょうしゅう)が、金丸が内間地頭でいた時の旧宅跡に、神殿をつくった。以来、ここは国家的な聖地とされてきたという。 内間御殿は左図のような配置である。
神殿は、東江御殿(あがりうどぅん)と呼ばれ、はじめは茅葺きで、1689年に瓦葺きに改築された。
その後、1706年にその北側に、西原間切(いまの町村)の農民が尚円王を追慕して西江御殿(いりーうどぅん)を建てたそうだ。東江御殿に賊が入ったのをきっかけに、竹垣から石垣積に改修された。
でも沖縄戦でいずれも焼失した。その中で、石垣の遺構や先王旧宅碑の台座は残った。
下の写真が先王旧宅碑の台座。
石垣はとても立派だが、東江御殿と西江御殿の二つの神殿は、トタン葺きで、とても神殿とは思えない建物だ。それは、昔の神殿の通り復元した建物ではないからだ。住民の手によるものだ。
戦後、東江御殿は、1951年に、大屋門中(男系血縁組織)やハワイ在住の一門らによって、トタン葺きの神殿が建てられ、その後ブロック造りに改修された。西江御殿も、伊礼門中によって、木造トタン葺きの神殿が再建されたという。
左が東江御殿。右下が西江御殿である。西原町では、かつてこの地で、1976年に開発計画が持ち上がったけれど、住民の反対で中止させた経過がある。住民が守ったのである。これまで昔の神殿の様子がわかる写真がなかったけれど、2000年に、戦前の写真が見つかった。西原町は革新町政で、町は来年度から、調査して整備管理計画をつくり、復元期成会の発足や発掘作業、関連施設整備など進めるという。ぜひ、戦前の神殿を復元して、整備を進めてほしいものである。
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国指定の史跡になった途端立派な石垣が「保護」されてしまい、往時をしのぶことができず残念です。「国家的聖地」というのは「斎場御獄」みたいな国王らが拝詣した場所ということですか。「東江御殿」とかいて「あがりえうどぅん」じゃないんですね。トタン屋根も早く修復してほしいです。そういえばカーは見なかったような・・・。あそこは水場ですね。きれいな鳥が川面に休んでいました。
投稿: いくぼー | 2010年12月 5日 (日) 06時43分
国家的聖地といっても、国王が来たのかどうかは知りませんが、首里に近いし、農民にも慕われたそうですから、いろんな人が来たでしょうね。まあ、ブルーシートで囲われてたのは残念ですが、町が整備するのを期待したいね。
投稿: レキオアキアキ | 2010年12月 5日 (日) 07時41分