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2010年12月 7日 (火)

黒岩恒の顕彰碑を訪ねる

 尖閣諸島の命名者として、新たな注目をされている黒岩恒の顕彰碑が、名護市大中にあり、先日訪ねた。073_2黒岩恒先生顕彰会が昭和43年(1968)に建立した。大城昌隆氏の撰文、仲村三男氏の謹書である。
 碑文は次のように記されている(抜粋)。
 「高知県高岡郡佐川町立野で生れ、明治二十五年(1892)沖縄師範学校教諭として赴任、明治三十五年(1902)国頭郡各間切組合立農学校創立に當り初代校長として迎えられ、沖縄在住二十八年其の間十有三年間の農学校長としての功績が最も顕著であり、文部省から選奨の栄誉に浴し、またそのすぐれた薫陶を与えた教え子四百余名を農民指導者として社会に送り出し、自からその最高指導者となり農産物有用植物家畜等優良品種の導入増殖普及に努力、原始的であった沖縄の農法を科学的近代の農法の改革する基礎を創出した事は歴史的に記録さるべきである」
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 顕彰碑の裏面には、漢詩が刻まれている。この漢詩は、明治40年(1907)に、昆虫植物採取の帰途、名護町許田(きょだ)で詠まれたという。詩は、平和で静かな許田部落の夕餉の民家のたたずまいや夕陽が西に傾き没せんとする名護湾、磯辺で戯れる一群の鷺が飛び立つ姿など、風光明美な名護湾曲の絶景を賞賛した内容である。
 顕彰碑の左隣には、この漢詩が後に独立の小さな碑として建立されている。
 黒岩恒は、沖縄在住の間、沖縄の動植物から、地質、民俗など広く関心を持って調べ、多数の新種も発見した。「クロイワ」の名のつく動植物は数十種類におよぶ。
 078 黒岩恒に関心のある方は、「尖閣諸島を命名した高知人・黒岩恒さん」を9月27日にアップ しているのでご覧ください。
 黒岩顕彰碑の隣には、真新しい碑があった。黒岩が初代校長を務めた「甲種国頭農学校跡」と記された記念碑である。一昨年(2008年)3月21日、沖縄県立農林学校同窓会が建立したという。
 明治35年(1902)設立された同校は、1911年に、県立移管によって沖縄県立農学校と改称された。
 日本三大農学校の一つとして、その名声を博し、幾多の有為な人材を各界に輩出したという。 この碑を見てきづいたことがある。それは農学校の名称だ。黒岩顕彰碑では「国頭郡各間切組合立」となっているが、この農学校跡の記念碑では「国頭郡各間切島組合立」とあり、「島」が入っている。いろんな文書で国頭農学校の名称を見たが、「各間切島組合立」とあるのは初めてだ。なぜ「島」がつくのかよくわからない。でも記念碑なのでこれが正式名称なのだろう。「甲種国頭農学校」とあるのも、これまでは見たことがなかった。これも正式名称は「甲種」とつくが、通称では省略されていたのかもしれない。碑文などは、やはり直接見ることが大事だと思ったことだ。081_2

 

 この顕彰碑、農学校跡の碑071 ともに、この場所にはもう一つ碑がある。「沖縄県立第三高等女学校発祥之地」の碑である(左写真)。その下には、第三高女の校歌が刻まれている。第三高女は、沖縄戦では、「なごらん学徒隊」として、沖縄陸軍病院北部分室に配属された歴史を持つ。
 こんな大事な碑が3つもあるにしては、関係者以外にはあまり知られていないのか、ここにたどり着くまでに苦労があった。半年前に名護に来た時、名護市教育委員会発行の市内にある碑を集めて紹介した本の地図を見てきたけれど、分からない。近所の公民館で聞いたら、別の場所を教えられた。今回は、教育委員会に電話して、確かめてから訪れた。それでやっと分かった。
 右上写真が、3つの碑の全体の配置である。手前から黒岩恒の漢詩の碑と顕彰碑、中央が国頭農学校跡の碑、右奥が第三高女発祥之地の碑である。

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 これらの碑は、沖縄県立北部病院(左写真)の駐車場にある。駐車場の敷地の、北西の隅にあたる場所にある。

 黒岩恒は、沖縄を離れた後、和歌山県高野口村で没したので、生まれ故郷の高知県佐川町には帰らなかった。だから、黒岩の三歳年下で、黒岩の採取した沖縄の植物を検定した植物学者の牧野富太郎は、とても有名だが、黒岩恒のことは町民にはほとんど知られていない。その黒岩が、はるか沖縄の名護で、このような立派な顕彰碑、漢詩の碑まで建立されていることは、感慨深いものがある。

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コメント

県立農大はいまでも、学生たちがさまざまな研究をして品種開発をしていますね。チャーグーとか。よく「道の駅許田」で販売してます。学生たちは黒岩さんという偉大な先達がいたことをどれほど知っているのでしょうか。農林学校の校長だったのなら、一連の碑文は県立農大内にあってもいい感じがします。北部病院がもともと学校があった場所なんですか?なごらんの碑もどうしてあそこにあるんでしょうね。佐川町では牧野富太郎に比べて黒岩さんは有名じゃないんですか?

 黒岩さんが初代校長になった農学校は、現在は県立北部農林高校になっています。農学校跡に碑があるので、かつてはこの地にあったのでしょうね。だから、黒岩顕彰碑をこの地に建てたのでしょう。
 県立農業大学校は、本土復帰のあとの1975年に設立された新しい学校だそうです。チャーグーは、北部農林で開発して飼育、販売していると思います。
 黒岩さんの出身地の佐川町は、土佐の山内家の家老が住んだ土地で、幕末に名教館という学校があり、「文教の町」と言われるように教育に熱心でした。名教館で黒岩も牧野も勉強した仲ですが、黒岩は遠い南島で長く住んだので、郷里ではほとんど知られざる人です。牧野富太郎は、植物では世界的な名声を得た人なので、知名度では大きな開きがありますね。

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