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2011年1月

2011年1月31日 (月)

マングローブ林は伐採すべしか?

 マングローブといえば、南島らしい河口の風景である。河口付近の汽水域に生えている樹林である。沖縄本島でも、山原(やんばる)の慶092 佐次(けさじ、右下写真)や南部では、わが家の近くの漫湖に広がっている。漫湖は、渡り鳥が干潟に飛来するので、1999年にラムサール条約に登録された貴重な場所である。
 世界では、マングローブ林の破壊が問題になているが、沖縄では逆にその拡大が問題にされ、伐採が繰り返されている。
 那覇市と豊見城市の境にまたがる漫湖は、オヒルギ、メヒルギ、ヤエヤマヒルギが国場川、饒波(のは)川の岸辺や干潟に広がっている。河口に近いので、潮が引くと干潟が出て、水鳥が多数飛んでくる。
 ところが、川岸のマングローブが増えて、悪臭を放つと地域住民から伐採の要望があったとして、2006年に500mの区間の一部を伐採した。でも、マングローブにゴミがたまるのは、マングローブが悪いのではない。ゴミを流すのが悪い。しかも、一部を伐採しても、まだ樹林は長く残っているので、悪臭はなくならない。それに、一部根本かから切られた区間など、景観はとても悪い。また、漫湖公園に人が集まるので、川と公園の間に樹林がある方が、水鳥など寄ってきやすいだろう。だから、伐採が適切なのか、効果があるのか、よくわからないままだ。
 環境省はまた、1月24日、伐採に向けた検討委員会を開いた。なぜ伐採するのか? それは渡り鳥が、かつて1980年代には最大7000羽が観察されたのに、この数年は400羽前後に減少しているそうだ。その原因が、マングローブの分布が拡大し、干潟の陸地化が進行し、水鳥に生息環境に悪影響を与えていることにあるという。だから渡り鳥の飛来を取り戻すために、伐採が必要だというのが、理屈である。
 環境省はそう言うが、ただ、素人考えでも、なんか理屈があっているようで、あってない感じがある。前は、マングローブが広がり、それに土砂がたまって陸地化が進んでいるから、と説明していた。でも、漫湖に土砂が堆積するのは、上流での大規模な土地改良などで土砂が流れてくるなどの要因だと聞く。マングローブがあると余計、堆積しやすいのかもしれない。でも、検討委員会では「農地からの土砂の流出を防ぐことが最大の課題だ」という意見が出たという。
 一番の疑問は、渡り鳥の飛来の減少は、本当にマングローブの拡大が原因なのか、その確証があるのか、ということである。いまでも結構、干潟は広い。マングローブ林が広がっただけで、渡り鳥がこれほど激減するだろうか? マングローブを伐採すれば陸地化が止まるのだろうか。とてもそうは思えない。渡り鳥の現象には、もっと別の要因も考えられるのではないだろうか。検討委員会でも、渡り鳥の飛来数とマングローブ域の拡大について「直接的な関係はない」という意見があったとも聞く。
 そればかりは逆に、伐採区域にあるマングローブ林の一部が、渡り鳥のねぐらになっているとの指摘が、検討委員会でもあったという。マングローブを伐採したからといって、渡り鳥が激増するとはとても思えない。
 また、マングローブ林は、カニなどの甲殻類や貝、魚類など、さまざまな生物が生息していることでも知られる。もちろん、マングローブがただ広がればよいというものではない。弊害があるのなら、適切な伐採も必要だろう。ただし、いろいろ異論もあるなかで、慎重にすすめる必要があるのだはないだろうか。
 

2011年1月29日 (土)

島唄の男と女の呼び方、その2

 彼女のことを「無蔵」(ンゾウ)と呼ぶ。これでは、女性像は想像できない。なぜおかしな表現になったのか? それは前にも書いた。繰り返しになるが、「無蔵」とは、日本語の「無惨」からきているという。無惨なことは「可哀そう」に転化し、さらに「可哀そう」が、「可愛い」に転化し、さらに沖縄では「可愛い」のは「彼女」と転化したそうである。「無惨」からはまるで無関係な「彼女」となったとは、言葉の変化は面白い。
 これに対して、彼氏のことは「里」(サト)といい、「里前」(サトメ)とも言う。なぜ、彼のことを「里」というのだろうか?
 「里」とは、言葉の意味としては、人家の集まっている所である。日本古語では、里は古代の行政区画の名でもあり、宮仕えの人が自家をさして言う言葉でもあった。これが沖縄では、恋愛関係にある男の住んでいる所をさして「里」と呼び、さらには好きな彼のことを「里にいる彼」という意味で「里」というようになったのではないだろうか。
 011 私流に考えるのは、この言葉は、遊女から出たのではないだろうか。「辻」など遊郭のあった街から、一般の街には勝手に外に出歩いてはいけなかった。遊びに来る士族は、主に首里から遊郭に通っていた。だから、遊女は、首里にいる好きな男のことを「里にいる彼」、つまり「里」と呼んだのではないだろうか。それがいつの間にか、一般の人の間にも広がったのではないか。それ以外に、どうも理由が思い浮かばない。
 右は、ラジオ番組に出演したネーネーズ。記事内容とは関係ない。

 「西武門節」(にしんじょうぶし)は、遊女と士族の恋愛模様を歌った典型的な唄だ。
 「♪今日や首里登て 何時や参が里前 面影と連れて忍で来さ無蔵よ」(きょうは首里に登り帰られて 今度はいつ来られますか あなたの面影に引かれて 忍んでくるよ彼女よ)と歌う。こういう士族と遊女の関係では、里前と無蔵の呼び方がぴったりくる。士族の夫と妻では、後から紹介するような、別の言い方があるので、こういう表現にはならないからだ。
 男女の表現は、他にもいろいろある。美しい若い女性、乙女を「美童」(ミヤラビ)という。
 「♪月ぬ美しゃや十日・三日、美童美しゃや 十七(とうなな)つぃ」(月の美しいのは13夜、女性の美しいのは17歳頃だよ)と歌う(「月ぬ美しゃや」)。
 もう少し年の上に女性を「姉小」(アングヮ)ともいう。「♪姉小が匂いぬしゅらさ」(姉さんの香りの芳しいことよ)などと歌う(「谷茶前=タンチャメ」)。
 若い男は、「二才達」(ニーセター)と呼ぶ。「♪ニーセターよ 三線片手に弾き鳴らし」(「片手に三線を」)。
 愛しい女性を「かぬしゃま」という使い方もする。「かぬしゃま 誠ぬ胸やりば 歌ば聞き 走り来んだらよ」(愛しい彼女の気持ちが真実のものならば、歌を聞いて走ってくるだろう)などと歌う(「トゥパラーマ」)。文字通り「かぬしゃま」という題名の民謡もある。
 女性から見た彼氏、妻から見た夫を、「うんじゅ」と言う使い方もある。
 「うんじゅが情けど頼まりる」という唄がある。「あたなの情けが頼りなのよ」という意味の題である。「♪うんじゅが姿の忘ららん 思い焦がれてやしはてて」(あなたの姿が忘れられない 思い焦がれて痩せはてている)というように歌う。
 最後に、夫婦の呼び方である。なぜか「夫」はそのまま「夫」であり、発音は「ウトゥ」。妻は「トゥジ」と言う。これは、沖縄ではいまでも普通に使われえいる。「うちのトゥジが⋯⋯」という具合に。夫婦の深い結びつきを歌った「夫婦船」(ミイトゥブニ)はこう歌う。
 「♪夫や帆柱に 妻や船心 如何(イチャ)る波風ん 共どぅやる」(夫は船の帆柱 妻は船の心だ どんな波風が強くても いつも一緒だよ)。
 この妻をなぜ「トゥジ」というのか、はじめは不可解だった。妻という字は、本来の字ではなく当て字のようだ。「トゥジ」とは、本来は「刀自」である。これは、日本語で、古い時代に家の戸主の意味で、家事をつかさどる主婦を刀自(とじ)と呼んだ。大和でも、古代、中世は女性の地位がまだ高かった。それが、封建的な家父長制にもとで、女性の地位は低くなり、戸主ではなくなった。
 沖縄では、古代からの女性優位が色濃く残っていた。儒教的な男性原理の側面も強まったが、「刀自」という言葉は現代まで残った。「トゥジ=妻」を表す言葉になった。いつの間にか「トゥジ」は刀自ではなく、妻の字を当てるようになったのだろう。
 長々書いたが、男と女の表現も多彩で、それぞれに色合いをもって使われているということである。

2011年1月28日 (金)

島唄の男と女の呼び方、その1

 041 沖縄の民謡は、とても恋歌が多いことは、このブログでもすでに書いてある。民謡を歌って、最初に戸惑うのは、男と女、彼と彼女の呼び方が、ウチナーグチ(沖縄語)では、とてもややこしいことだろう。
 まず男と女は「男=イキガ」と「女=イナグ」である。ウチナーグチは、あまり使わない若い世代でも、女性を「イナグ」とよく呼ぶ。これは、大和でも、女性を「オナゴ」と呼ぶので、それがなまったものかと思う。
 たとえば「肝がなさ節」(チムガナサブシ)。題名の意味は「心がかわいいでしょう」となる。この中でこう歌う。「♪男(イキガ)生りとてぃ、女(イナグ)生りとてぃ、かなさねんむぬや、ただぬ葉(フワー)ガラー」。「男が生まれても女が生まれても、かわいがりのない人はただの木の葉のようなものだ」という歌意である。
 右写真は離島フェアーで。中央は新垣小百合さん。「肝がなさ節」が得意だ。
 沖縄の古くからの民間信仰には「をなり神」信仰がある。これは、女性の姉妹「をなり(うない)神」が、男の兄弟「うぃき」を守るという信仰である。兄弟、姉妹が結婚しても、姉妹は兄弟を霊的に守護すると考えられたそうだ。昨年亡くなられた民俗学者の比嘉政夫さんからうかがったことがある。この男兄弟「うぃき」が、男の「イキガ」に通じているのではないだろうか。
 女のことは、「無蔵」と書いて「ンゾー」と読むことは、ブログでもふれた。あとでまた書くが、彼女であっても、男性を捨てていった女性の場合などもう「無蔵」ではない。「イナグ」とよぶ。「ほたる火」という唄は、捨てられた男の惨めな心情を歌う。あまり好きになれないが、こんな歌詞がある。「♪無情ぬゆむ女(イナグ) 我ん捨てぃてぃ 他所になりてぃ」。この唄は、いつまでも愛し合おうと語り合った二人なのに、彼女の心が変わり、無情な女は私を捨てて、他所の男とよい仲になってしまった、と歌う。この「イナグ」には、憎しみが滲んでいる。
 好きな彼と彼女は「彼=里、もしくは里前(サトメ)」、「彼女=無蔵」と呼ぶ。思いを寄せる男性を「思里」(ウミサト)とも言う。これが、民謡では最も多いだろう。

 「肝がなさ節」では、「♪里がするかなさ 肌がなさかなさ 年重び(トゥシカサビ)重び肝ぬかなさ」と歌い出す。「彼がする可愛がりは、肌の可愛がり 年々年を重ねるたびに 心の可愛がりになる」という歌意である。
 士族の男と遊女が掛け合いで歌う「川平節」(カビラブシ)では、里前も無蔵も出てくる。
 「♪無蔵が面影に引かりて我身や 笠に顔隠ち 忍で行ちゅん」(貴女の面影に魅かれて私は、笠に顔を隠して忍んで会いに行きます)
 「♪繰返し返し 思りわん里前 我がやなやびらん 他所にいもり」(繰り返し貴方を思ってみても 私はどうにもなりません 他所に行ってください)
 遊女はあきらめるように言う。でも、彼はあきらめない。いっそここで一緒に死のうとまで言い、ついに彼女も、貴方と一緒になりたいと結ばれるという歌意である。
 もう少し、書きたいことがあるが、長くなるので、続きは次にしようね。

2011年1月26日 (水)

三重城は聖なる場所

 那覇港の入口にある三重城(みいぐしく)に立ち寄った。018 倭寇の襲来から防御するために、16世紀に造られた。対岸には屋良座森(やらざもり)城もあった。海に海中道路のように突き出た堡塁だった。い001 まは埋め立てられ、ロワジールホテルがそばにある(右)。

 入口の階段(左)のそばには「水神002 」もある。湧水の「カー」があったのだろうか。 

 上がっていくと003 「三重城は皆様の安全と祈りの聖地です、汚さずキレイに致しましょう」との第11管区海上保安本部看板がある。この上には、海上保安庁の信号所もある。

 

 階段の上に鳥居がある(右下)。005 鳥居は大和風俗である。この三重城は、防衛のための軍事施設であったが、同時に、港から中国や薩摩・大和へ船で旅に出る人を見送る場所だったという。だから、航海の安全を祈る拝所(うがんじゅ)も造られている(左下)。
015  いま三重城に行っても誰もいないだろうと思って、上がっていくと、なんと御願(うがゎん)に来ている人が何人もいた。左の拝所に、数人がお供えを並べたりしていた。だから史跡であるとともに、いまも「安全と祈りの聖地」として人々が訪れるのである。
 010 三重城は、もう一つ別の御願の場所である。それは、八重山や宮古など離島の人が、旧暦1月16日は、「16日=じゅうるくにち」といって、グソー(あの世)の正月にあたり、離島に帰れない人は、この三重城から、海のかなたの郷里のお墓に向かって、御願をするのが習わしである。旧正月は2月3日なので、まだ先だから、人はいないと思ったら、こちらにも来ていた(右)。
 連れ合いが、話を聞いたところ、なんと、夫が喜界島(きかいじま)の出身だという。いまは那覇市に住んでいるが、「夫の命を受けて『うがみとおし』にきている」とのこと。「うがみとおし」とは、はるか喜界島に向かって祈り通す、つまり遙拝をすることだ。
 009 御願のために、「ビンシー」と呼ばれる祭祀用具を収納する専用の木箱を持ってきて、並べていた。ビンシーには、お酒と杯、花米(はなぐみ)が入っている。それと、沖縄の線香である「ひらうこー」と「うちかび」(あの世のお金)を持ってきていた。「うちかび」を燃やして線香をあげる。
 旧暦ではいま年末であり、沖縄では旧12月24日頃までに、「ウグヮンブトゥチ」(御願解き)とヒヌカン(火の神)の昇天を行う。一年間の幸いなことに感謝し、災いはなくなるように願い、ヒヌカンが天の神によい報告をしてもらうように祈る。またその前に「シディガフー」といって、その年にお世話になった神々、拝所、宮や寺を回り感謝の祈りをする。そんな大事な時である。
 訪れた人も「旧暦の年末ですから、24日ごろまでに一年のしめくくりの御願をするんです」と、連れ合いに話していた。喜界島も沖縄と同様の風習があるようだ。
 旧正月は「初御願」(はちうがゎん)、16日は「じゅうるくにち」をまた来てするそうだ。
 旧暦12月24日は、新暦1月27日にあたる。ラジオのリスナーも「旧暦24日だから一日仕事を休んで、御願に回ります」と言っていた。

 ところで、この012 三重城を歌った有名な曲がある。「花風」(はなふう)という。
 「♪三重城にぬぶてぃ、手巾(てぃさーじ)もちやりれば 早船の習ひや一目ど見ゆる」。「愛しい人を見送りするため、三重城に登って手拭をうち振れば、船は早いので一目しか見えないで遠く消え去ってしまった」。意訳すればこうなる。見送りするのは、遊女で、愛しい人は士族という関係だ。この曲は、明治中期に創作されたが、遊女たちが歌っていた曲ともいわれる。
 三重城はもう、昔の面影はないが、海に突き出た地点に立ち、海を見ていると、なにか当時の人たちの心情が分かるような気がする。
 

 この三重城からは、対岸が見えるが、もう屋良座森城はない(左上)。というか、米軍の那覇軍港になっているからだ。軍港からは、米軍の軍用車両、物資など積みだされる。この日も、眺めると、軍用車両が並んでいた。

013  那覇市民にとっては、一番間近な物騒な米軍基地である。軍港は、もう1974年に日米で返還合意がされているのに、移設が条件のため、37年たってもいまだに返還されていない。一日も早く返還してほしい。三重城から見て改めてそう思った。

私は南洋生れよ

 民謡三線サークルで、歌った中に「南洋小唄」があった。沖縄から戦前、南洋諸島にたくさん移民で出かけたので、南洋諸島を歌った民謡はいくつもある。
 隣にいるKおじいが「南洋では儲けたのかねえ?」と聞いてきた。ウチナーンチュのおじいが大和の私に聞くのも変だ。でも一応「サトウキビを作りに行ったそうですね」と答えた。「南洋小唄」は、とても味わいのある曲で、好きな唄の一つだ。訳するとこんな歌詞になる。
 「♪恋し故郷ぬ親兄弟と別れ、憧れの南洋に渡ってきたよ」「♪寝ても覚めても朝夕 胸内の思いは、男として立身の手本を示すこと」「♪年が明けて初春の花咲くころには 故郷に錦を飾り誇らしく戻ってくるよ」。移民は、サイパン、テニアン、ロタ、パラオなどに多く出掛けた。民謡歌手でも、嘉手苅林昌さんはじめ何人も行っていたようだ。
 この歌詞から、Kおじいは、儲けて帰ってこれたと思ったのだろうか。そこへ突然、前に座るBおばあから声が飛んだ。「でも南洋では戦争でたくさん死んだよ」。その通りだ。一旗揚げることを夢見て、沖縄からたくさん出かけた島は、米軍の進攻で地獄の戦場と化した。例えば、サイパンでは、日本人4万2547人のうち、なんと61%が沖縄出身者だった。だから沖縄の犠牲者の比重が高い。沖縄出身の犠牲者は、1万人を超えるという。
 「私は南洋生れよ」とBおばあから、思わぬ声が飛んだ。「南洋のどこなの?」「どこかよくわからないけれど⋯⋯」。そこへ隣のHおじいが声を上げた。「おれはテニアン生まれだよ」「えっ、ああ私もテニアンかも⋯⋯」とBおばあ。「テニアンはどこ?飛行場の近くか?」「いやー、よくわからないのよ。姉といっしょだったけれど」。まだ幼かったからだろう。記憶ははっきりしないが、テニアン島らしい。
 テニアン島は、第1次世界大戦でドイツが敗北してから日本に支配権が移り、国際連盟から日本の委任統治領となった。開拓移民は、初めは森林を伐採して椰子栽培をしたが、害虫や干ばつで全滅した。その後、開発会社が沖縄や東北からも移民を集めて、砂糖やコーヒー、綿花など栽培した。昭和初期には砂糖の生産量が東洋第2位になったというから、サトウキビ栽培が盛んだっただろう。1944年6月時点で、日本人は15700人もいたという。
 テニアンには、南洋群島で最大のハゴイ飛行場があった。Hおじいのいうのは、この飛行場だろう。
 「テニアンから、原爆を積んで飛んでいったから、それを記した物があるよ」という。1944年8月に島を占領した米軍は、日本の本土空襲の基地をし、広島、長崎への原爆投下もここからBー29が発進した。
 毎年、南洋群島への墓参団が行っている。Hおじいも、碑のことを知っているのだから、一度、行ったことがあるのだろう。

 南洋をテーマにした曲は「南洋数え唄」「南洋浜千鳥」「南洋帰り」などいろいろあるし、「移民小唄」もある。なお、戦前、戦後の戦争にかかわる民謡や移民について、興味のある方は「『戦世』と平和の沖縄島唄」をブログで昨年6月にアップしているので、見ていただきたい。
 

2011年1月25日 (火)

今年のキャンプは盛り上がる

 いよいよ2月には、プロ野球のキャンプが始まる。24日には、県庁前で歓迎のバナー(垂れ幕)掲揚式も開かれた。野球ファンばかりでなく、県民の間で、もう話題が沸騰しつつある。日本の10球団、韓国の4球団がキャンプする。
 例年以上に盛り上がる理由は、いくつかある。その一つは、巨人が2次キャンプで那覇市のセルラースタジアム(右下)に来ること。1週間だけれど、沖縄も巨人ファンは多い。しかも、オープン戦が何試合か見られることだ。
 026 もう一つの話題は、日本ハムに入団した斎藤佑樹君だ。すでに千葉の鎌ヶ谷で斎藤フィーバーが起きているが、それが名護に移ってくる。こんどは長期だし、本格キャンプであり、練習試合やオープン戦もある。もう、名護近辺のホテルは一部で満杯だとか、北海道からの航空便も満席だとか、噂が流れている。
 「名護に見に行きたい」。この言葉が、野球ファンから飛び交い、ミーハーのにわか佑ちゃんファンまで急増しているようだ。すでに昨年も、日ハムの練習試合などある日は、名護に向かう高速道の許田インターは、大渋滞だった。今年は許田インターと宜野座インターの間が、工事中で3月末まで片側1車線しか通れない。これにどっと押し掛けたら、もう大大渋滞になるだろう。229
 久米島でキャンプする楽天の新監督に星野仙一が就任したことも話題だ。11月に久米島に行った際、ホテルや居酒屋、泡盛メーカー、土産物店まで、楽天歓迎のポスターやグッズ235 など、いろいろあった。

 キャンプが予定されている久米島野球場に立ち寄ってみた。もうすでにグランドの土の整備などしていた。作業していた男性は「星野監督からも言われているので、念入りに整備をしておかなければ」と汗を流していた(左)。

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 プロ野球のキャンプは、これで来ないのは、西武とソフトバンクだけになった。キャンプフィーバーで、経済効果も相当上がると、観光業の関係者が喜んでいる。右は、楽天のラベルが貼られた泡盛「久米島の久米仙」。
 石垣島では、プ野球の公式戦も可能な新野球場が建て替えオープンした。ロッテは、石垣でキャンプして日本一に輝いたので、島でパレードもするという。石垣でキャンプしたロッテの優勝や、高校野球の駒大苫小牧もキャンプして甲子園で優勝した。石垣島には「野球の神様がいる」と評判だという。高校、大学などキャンプするところが増えているそうだ。
 野球以外に、サッカーのJリーグのチームもいくつかキャンプする。宮古島では、FC横浜が来て、FC琉球との練習試合も予定されているとか。というわけで、話題満載の沖縄キャンプである。

 キャンプと言えば、野球だけではない。米軍もたくさんある。「キャンプキンザー」「キャンプハンセン」「キャンプシュワブ」「キャンプフォスター」「キャンプコートニー」などなど。嘉手納空軍基地には、ステルス性能をもつFー22が多数来ていて、5月までいるそうだ。一度見て、爆音も味わって帰るのもいいかもしれない。これはジョークであるが。キャンプといっても、沖縄にはいろいろあることを言いたかっただけである。

2011年1月24日 (月)

桜は冬の花、沖縄の桜の不思議

 もう何回か、沖縄の桜について書いたが024 、もう一度、大和の桜と違う不思議をまとめておきたい。
 その1。なによりソメイヨシノは沖縄になくて、カンヒザクラであること。白はなく、ピンクであること。ピンク一色だと、桃の花みたいだ。ただし、同じ木で、ピンクと白が混じって咲いていることがかなりあるのも変である。
 その2。桜前線は南下する不思議。一度寒さがきて、暖かくなってきて咲くので、沖縄でも一番気温の低い北から、それも山の上から咲きだす。だんだん低い所に降りてくるし、北から順次、南でも咲きだす。
 今年も、沖縄本島では、1月7日に開花宣言が出たが、もっと南で暖かい石垣島は12日に開花したという具合だ。桜は春ではなく、冬の花なのだ。これが一番の不思議である。
011  その3。花が釣鐘状になっているので、下に向かって咲く(右上)。花びらが散るといっても、ソメイヨシノのように、風に花びらがヒラヒラと舞う光景はない。釣鐘状の花全体が、ボトリと落ちるので、あまり風情はない。したがって、大和のように、桜吹雪が舞うとか、水面一面に花びらが浮くなどという光景はない。そこいらに、ボトリ、ボトリと落ちている。
 その4。大きな木がない(左)。ソメイヨシノは大木がけっこうある。でも、沖縄戦で焼けた木も多いかもしれない。それにしても、小さな木が多い。八重岳はさすがに古い木が道路の両側に並木になっていて、桜の木のアーチになっている。木の成長が悪いのではない。沖縄は台風がよく来て、風が強いので樹木は上に伸びては折れるから、しっかり根を張り枝を横に伸ばす。桜の木も、ずんぐりしている。大和のソメイヨシノのような大木は、ボキッと折れてもたないだろう。042
 その5。桜の美しさを歌った唄がない。大和では、いまも「桜歌ブーム」ではないかと思うほど作られている。昔から、和歌でもよく詠まれている。でも、島唄には桜を歌った曲はほとんどないといってよい。琉歌はあまり知らないが、わずかに舞踊曲「貫花」の「竹富節」に、「川に流れる桜花をすくいとり貫いて花飾り(レイ)を作ろう」という歌がある。でも、カンヒザクラで、貫花は作れないと思う。不可解な歌詞である。沖縄では、桜が特別の花ではないからだろう。
 その6。桜の木の下で、お花見をしない。沖縄は、よく野外に出て、飲んだり食べたりする。月見も盛んだ。でもお花見はしない。「花より団子」とばかりに、花の下でブルーシートを敷いて、宴会をして騒ぐ、なんていう東京の光景など、ばか騒ぎにしか見えない。
 先日、お花見で行った本部町の八重岳なんか、山に登る道路が桜並木なので、少し大きい車だと、桜の枝が当たり、木を傷つける。車でゆっくり走りながら花を見る。少し車を止められるなら、車から降りて花を見たり、写真を撮る。途中で、桜の下で食べたり、飲んだりは絶対にできない。テキヤは広場にたくさん出ているが、車だしみんな飲む人なんかいない。わが家の近くの、与儀公園、漫湖公園も那覇市内の桜の名所だ。桜まつりがあるが、飲む人はいない。桜を見て、舞台の芸能発表を楽しむ。せいぜい、沖縄そばやカレーライス、ぜんざいなど、学校の父母たちが出店しているので、買って食べるぐらい。それがすべてだ。
 まあ、大和でもお花見をしない地方も結構あるらしいので、お花見がどこでもあると思うのが間違いのようだ。
037  その7。メジロが花の蜜を吸いに群がる(右上)。これは、ソメイヨシノでもある。でも、東京ではメジロそのものがあまり見かけない。だから花見に行ってもメジロが来る姿は見た記憶がなかった。沖縄は、とにかく桜の季節には、メジロが群がるように集まる。どこからこんなにたくさんやってくるのか、と思うくらいだ。
 057 その8。。花が終わると、サクランボがとてもたくさん実をつけ、真っ赤に色づく(左)。一見して美味しそうに見えるが、種ばかりで食べるところがない.。ソメイヨシノも実をつけるようだが、残念ながら見た記憶がない。
 その9。ソメイヨシノはたいてい、お城が桜の名所であるが、沖縄の城跡は、桜の名所と言えば、今帰仁城跡か名護城跡ぐらい。世界遺産の首里城も勝連城跡も中城城跡も座喜味城跡も、みんな桜はほとんどない。庭園の識名園にもない。今帰仁城跡は、すぐ近くの今泊集落の人たちが戦後、桜を植えて育てたという。右写真は、昨年今帰仁城跡に行った時のもの。今年はまだ行っていない。
 その10。桜見物のツアーに、たんかん狩り、ひまわり祭がいっしょに組まれること。たんかんとは、ミカンである。ミカンといえば大和では秋だろう。でも沖縄は冬の今がシーズンだ。ひまわりは当然のことながら大和では夏の花。大和では春の桜と秋、夏の花、果物が、沖縄では一緒の楽しめるというのが、また不思議である。

2011年1月23日 (日)

沖縄市の産業まつりを楽しむ

 冬のこの017_2 時期、産業まつりが多い。22,23日は、嘉手納町、沖縄市、29日から西原町、先週は大宜味村だったが、悪天候で中止になった。寒さも緩み、ポカポカ陽気のよい天気なので、沖縄市産業まつりに出かけた(左下)。
 007 産業まつりは、いわば物産展なので、美味しいもの、特産品が並ぶ(右)。試食がたくさんできるのがうれしい。

 沖縄市と言えば、かつてはコザ市だった。コザ騒動が起きたあと合併で沖縄市になった。でもコザの地名がついた食物が、いろいろあっ010 た。「コザ十字路そば」(左)。まだ食べたことはない。お客もまだ少ない。004

 饅頭の上に赤で「の」と字を書く「のまんじゅう」は、沖縄ではよく食べられる。「のし」の「の」であり、「のし」代わりに持っていくので,まんじゅうに「の」と書くそうだ。でも売られていたまんじゅうは、なぜか「コザ」と書いている(右)。
 「コザと書いてあるのはなぜですか?」と店主に尋ねると「ああ、産業まつりだからね。まつり仕様ですよ」といって、二ッコリと笑った。でもなにか不思議なまんじゅうである。012
 沖縄のまつりでつきものは、汁物。あったあった、山羊汁。まだ準備中のようだ。1杯1000円。結構山羊汁は高い。ちなみに牛汁は500円。食べてみたいが、臭さが気になり遠慮する。以前、山羊の刺身を注文したら、肉がとても固かったのがトラウマになているのかもしれない。
003  

 黒糖もまつりには、つきものだ。

 といっても、なぜか西表島の黒糖だ。レンガのようなブロックで仕入れているのだろうか。黒糖の固まりを積み上げ、それを細かく砕いてビニール袋に入れて売っている。016
 三線も売っていた(右)。こちらは体育館の中。太鼓もある。
 私の三線を買った店も出店していた。でも、三線を買った那覇市の平和通りの店は、閉めたそうで、寂しい。沖縄市とうるま市の店で営業しているそうで、毎年この産業まつりには、出店している。写真は、別の三線店である。

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JA女性部の店は、賑わっている(左下)。ホットぜんざいがあったので食べた。金時豆がとても美味しい。店の人に「ぜんざい、とっても美味しかったですよ」というと、「昨日から仕込んで作ったのよ。やっぱりたくさんつくると美味しくできるんですよ」と満足げだった。ほめていると、シークワーサージュースを飲ましてくれた。

 沖縄市と姉妹都市の関係にある県外の市町村から出店していた。山形県米沢市、愛知県東海市、長野県阿智村か005 ら、リンゴやお酒、玉こんにゃくその他たくさんの特産品を持ってきている。米沢の店の人が、「上杉の城下町・米沢」の法被を着ていたので、「上杉の家系の上杉茂憲氏が明治に沖縄県令として来ていて、立派な仕事をされていますよ」と話すと「上杉もちのり(茂憲)ですね。ありがとうございます」と喜んでいた。
 上杉茂憲は最後の米沢藩主だ。廃藩置県で殿さまではなくなった。1881年に沖縄県令となり、赴任すると全島を視察して「上杉県令巡回日誌」をまとめた。貧窮する民百姓の姿や、王府時代の旧制度のままに税金を搾りとられ、地方役人が威張って、不当な利得を得ていることなどを報告し、政府に是正を上申したことで知られる。このためか2年で県令をやめさせられた。沖縄を去る時、当時の3000円、いまの貨幣価値で1億円を奨学金として寄付していったという。話は横道にそれた。米沢と沖縄の縁についてふれたいだけである。
 買い物は、ゆず巻大根の漬物、田芋入りムーチー(餅)、田芋入りあん餅、ぜんざい、新じゃがいも、三線の滑りどめ、さらにお土産で人にあげるのに、長野産の干し芋、野沢菜漬け。以上である。

2011年1月22日 (土)

今帰仁の天底といえば民謡の名曲がある

061_2写真のワルミ海峡の左側は、今帰仁村の天底。

 ワルミ大橋の続きである。橋の今帰仁側は、天底(あめそこ)という地域である。方言読みでは「あみすく」という。天底の名前のつく有名な民謡がある。「今帰仁天底節」という。薄幸の女性をモデルにしており、とても哀感のこもった歌である。
 歌詞は、要旨次のような内容である。
 「♪私が生れたのは、今帰仁村天底である。7つになる年に、叔母を頼って大阪に出た。罪のない私を叔母は朝夕、ムチをあていじめ、家を出された。哀れにも、泣く泣く花街に落ちていった。顔では笑い、心で泣いて、知らない客を相手に花の身の勤めをしている」
 天底の地名がついているが、モデルの女性が生れたのは、実際には同じ今帰仁の吾我山(ごかやま)だという。差しさわりがあるので、天底にしたそうだ。
 島唄に詳しい仲宗根幸市さんが、作者を突き止めたと「『しまうた』をおいかけて」で書いている。料亭に行った際に、歌うと遊女たちが、覚えて歌い広めた。「今帰仁天底節」の曲名がついたそうだ。唄が広がっていくうちに、歌詞も旋律も少し改作されて、作者がつくったものとは、ちょっと変わっているそうだ。昭和の新民謡である。
 私も好きでよく歌う。歌うほどに、気持が入り、いつの間にかウルウルしてくる。
 わが民謡サークルでも、人気がある曲だ。といっても、先日、あるおばあが「この唄、天底の人は、いい気持ちしないはずよ」というではないか。民謡も地名を歌っているからと言って、歓迎されるとは限らない。
 この唄を聞いてみたい人は、ユーチューブで検索すると、視聴できる。出てくるのは男性の唄だが、この唄はやはり女性が歌っている方が味わいが出る。

 

2011年1月21日 (金)

新たな絶景の地、ワルミ大橋

 今帰仁村天底(なきじんそん068 あめそこ)から名護市の屋我地島我部(やがちじまがべ)に架かるワルミ大橋が2010年12月18日に開通したので、ドライブで初めて通った(左)。
 予想以上の絶景の地だ。大橋は、アーチ橋でワルミ海峡にかかり、全長315㍍、アーチ支間は210㍍あり、アーチ橋では国内で5番目の長さだ。足がすくむほどの高さがあり、なによりワルミ海峡の海の色が素晴らしい。074
 エメラルドグリーンというのだろう。海の色が鮮やかな沖縄でも、こんな色の海は珍しい(右)。しかも、本島と屋我地島の間は狭くて、まるで川のようであり、それも入り組んでいて、蛇行した川みたい。海の色と入り組んだ陸地の緑とが、見事な景観をつくりだしている。
 屋我地島からは古宇利島(こうりじま)に、すでに橋がかかっている。古宇利島は、今帰仁村であり、飛び地のようになっている。これまで、本島の名護市を回らないと役場などに行けなかった。でもワルミ大橋の開通で、約20分ほど065  短縮されたという。ここから、古宇利大橋も見える(左)。
 海峡は、今帰仁側から見て、左手は東シナ海に通じる。右側は、羽地内海である。ミニ瀬戸内海のような、浅い海の内海である。羽地内海を見渡すのに、これまでよい展望台がなかったが、この橋からはとてもよく見える。だから、橋からは、右を見ても、左を見ても、どちらも趣があり、かつ絶景である。
 これだけの、新たな景勝の地で、観光で来る人も多いのに、橋の手前にある駐車場は、とても狭い。これでは、シーズンには、橋の上にズラリと車が駐車する恐れがある。この橋の魅力を軽く見ているのではないだろうか。069
  右が、羽地内海である。海峡の部分は深いので、海の色が濃いけれど、内海は浅いので、海の色も少し異なる。
 位置関係は、文字で説明しても分かりにくい。地図で見れば一目瞭然である。関心のある人は、地図を見てほしい。
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 屋我地島の方面076_2 から、子どもたちが歩いて渡ってきた。10人くらいの集団だ。橋を渡るのは初めてだろう。楽しそうだ(左)。
 橋の中央部に、風向計がある(右)。風見鶏ではなく、飛行機の模型にプロペラがついたものだ。「あれは、なんだ!」「飛行機だ」「プロペラがある」など、騒いでいる。何のためにあるのかは、わからないまま通り過ぎた。
 ワルミ大橋のたもとの、天底は、地名の付いた有名は民謡がある。もう長いので次にしようね。

 

2011年1月20日 (木)

羽衣伝説の森の川を見る

 宜野湾市に、森の川(ムイヌカー)と呼ばれる由緒ある泉がある。033 森川公園になっている。石積みが見事な泉である(右)。この辺りは湧水がとても多いところだという。水源は、この公園の北側にある米軍普天間基地だという。035 水路から、こんこんと水が流れている(左)。

 その昔、この森の川に、奥間大親が来たところ、天女が水浴びをしていたので、木にかけていた衣を隠した。困った天女を家に連れて帰った。一男一女が生れ、その子・察度(サット)は後に、中山王に就いた。まだ琉球が統一される前の中山国である。だから、森の川は羽衣伝説の地として知られる。037 察度王は、当時の明国に朝貢し、中山国王として任命してもらう冊封(さっぽう)関係を結んだことで知られる。
 この水路の奥に、実は円形の石積みの囲われた空間がある(右)。この日は、シルバー人材センターのおじさんたちが、清掃をしていた。何か、誇りを持って丁寧に清掃していた。
 「ここは囲われているから、水浴びをする場所だっただろうね」と説明してくれた。写真では、残念ながら円形が見えない。「沖縄戦で壊されたのですか?」と聞くと「いや、少し壊れたところは、白い石で復旧してあるが、他はほとんどは壊れずに残ったので、昔からの石積みですよ」というではないか。沖縄のあちこちで、城跡をはじめ石積みの遺跡をみるが、ほとんど壊されて、戦後に復元させたものだ。でもここはよくぞ残ったものだ。なぜだろうか? それは、日本軍が陣地を造っていたのは、宜野湾でも、もっと南に当032 たる嘉数高台から那覇にかけての高地だった。だから、読谷近辺に上陸した米軍は、嘉数高台までは、日本軍の抵抗はほとんどなく、一気に進軍したので、壊されずに残ったようだ。おじさんも「そのようですよ」と肯定していた。
 左の絵は、昔の住民か水場を利用していた風景である。
 「この辺りはカー(泉)が多いので、戦前は那覇にも導管で送っていたよ。この北側にも、ここよりもっと大きいカーがあるよ」という。「エッ、もっと大きいんですか! その場所って、ひょうとして普天間基地の中じゃないですか」と言うと、「そうそう、基地の中だから、自治会でカギ借りないと入れないよ」「そうですか、じゃあ、カーで何か行事のある時は、カギで開けて入るわけですね」「そうそう」。おじさんは、こともなげに話す。
 028 この泉の隣には、これまた由緒ある「西森御嶽(ニシムイウタキ)」がある。神聖な拝所である。碑もあり、その前に石門が造られている(右)。琉球王国の時代、由緒ある拝所の前には026 門を造っていた。門の中は神聖な森である。他には何もない。

 左写真の奥に、碑が見える。027 「西森碑記」の標柱があり、そばには森の川の由来を示す天女が描かれた石碑もある(右)。いまでも、御願(ウガン)に来る人が絶えないようだ。拝む用具が見える。

 琉球王国の尚清王につながる向氏伊江家の人々が、18世紀に森の川の石積みと石門を建てたそうである。上の石碑は、その工事の完成を記念して建立し031 たという。
 公園内には、また別の碑があった。「森川之塔」である。ここには、日中戦争から太平洋戦争まで、この地区の戦没者の名前を刻040 んだ碑だった。
 普天間基地の中には、昔からの御嶽もある。お墓もある。カー(泉)もある。一日も早く、閉鎖、返還されれば、自由に出入りできるだろう。

2011年1月19日 (水)

梅が咲き、名曲「梅の香り」が流れる

 沖縄民謡の名曲に「梅の香り」がある052 。沖縄に来て、三線を弾き出してすぐこの曲を知り、魅力にとりつかれて、毎日弾いていた。新川嘉徳氏が作詞作曲した。出身地の西原町小那覇(おなは)に、顕彰碑があるので出掛けた。
 児童公園の一角にある。そこには、梅の木が植えられ、白梅がちょうど咲き誇っていた(右)。碑を訪ねるには、もっともふさわし時節だ。
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 左写真で見る通り、中央に歌碑があり、右に新川さんの顕彰碑、左に「梅の香り」の歌詞が刻まれている。
 この曲の歌詞は、1~4番まである。要旨を紹介する。
 042 「朝夕水をかけ、心をこめて育てた梅が咲くのはいつだろうか、奥山の花も季節を待って咲く、梅が咲かないはずがない。さあ咲いた初花の香りのいいことよ」。清楚で美しい梅の花と香りをほめたたえた唄である。右は歌詞が刻まれた碑。
 1937年にレコードが発売された。「琉球音楽に洋楽の影響が潜み、グローバルで斬新な曲と評価され親しまれている」。顕彰碑では、こう記されている。
 そういえば、沖縄民謡ではあるが、他の曲とは曲調がまるで異なり、どこかセンスがよく、それが魅力として感じていたようだ。やはり、洋楽の影響があるという。それは、経歴を見れば納得がいく。
 1899年2月10日に生れた新川氏は、14歳でハワイに渡った。一旦帰郷したのは1936年だから、20年余りハワイなど外国暮らしをしていたようだ。沖044 縄から戦前、たくさんの人たちがハワイへ移民として出掛けた。ハワイで、働きながら電気機械工学を学び、蓄音器関連の発明で、米政府から特許もとったという。蓄音器の針を自動交換する仕組みだという。その一方では、音楽にも関心を持ち、演奏会なども行っていた。

 電気機械工学の知識があり、音楽でも作詞、作曲、演奏まで行うとは、とても豊かな才能を持っていたのだろう。
043  ところで、「梅の香り」に親しみだした時から、不思議だったのは、沖縄にはあまり梅の木がない。あるけれど少ない。それに、大和では、寒い冬を過ぎて、梅が咲き出すと「梅一輪、一輪ほどの温かさ」の句がすぐ頭に浮かぶように、春の兆しを感じる花である。でも、冬でもいろんな花がある沖縄で、梅への思い入れはあまりない。なのに、これほど、梅への思いを込めた唄がなぜ、できたのだろうか、と思っていた。
041  新川氏は、14歳で沖縄を離れ、1936年にいったん帰郷した後、大阪に渡り、「梅の香り」などの新作レコード吹き込みを行ったという。沖縄だけでなく、外国暮らし、大阪などの生活を体験しているので、こうした「梅の香り」のような曲が作れたのだろう、と自分で勝手に納得した。新川氏は、他にも「平和行進曲」を広島市平和文化センターへ寄贈したというから、平和への思いも深かったのだろう。

 この顕彰碑のある場所で、一番の目玉は、実は「梅の香り」の唄が聞けることだ。左に見るように、赤いボタンを押すと、録音がスピーカーから流れる。しかも、3種類の歌手の録音がある。せっかくだから、全部聞いてみた。古いのは、なんと1939年の録音だ。さすがにシャリシャリと音を出しながら唄が流れる。あとの2つは、2006年のもの。049 有名な女性歌手、古謝美佐子さんの唄も聞ける。周りの住宅にうるさがられないか、心配しながらも、全部聞いてみた。
 この録音は、なんと小那覇では、正午を知らせる時報代わりに流れるそうだ。
 これらの顕彰碑は、有名な「梅の香り」を作った新川氏が、小那覇の出身だと知った地元の有志が歌碑建立実行委員会を立ち上げ、10年前の2001年に建立した。唄が聞ける装置だけは2006年に追加して、設置された。
 2002年からは毎年、「『梅の香り』うた遊び大会」を開いているという。一度、聞いてみたいものである。
 「梅の香り」を聞きたい方は、ユーチューブで出るので、一度聞いてみて下さい。 

2011年1月18日 (火)

基地の「負担軽減」叫ぶほど「負担加重」される沖縄の逆説

 日米両政府は、在沖米軍基地の新たな負担軽減策として、嘉手納基地のF15戦闘機の訓練の移転先にグアムまで含めることで基本合意した。ただし、グアムへの訓練移転は、普天間基地の辺野古移設とパッケージだというから、インチキくさい。
 それもさることながら「基地負担の軽減」が声高に叫ばれると、実はゾッとする感じがある。というのは、「軽減」というたびに、負担が加重される現実があるからだ。
 新年の幕開けとともに、米アラスカ州エレメンドルフ基地所属のF22Aラプター戦闘機が12日から3度にわたり合計15機が飛来した。一時配備とやらで、なんと4ヶ月間も駐留する。
 F22ラプターは、ご存じの通り、レーダーや赤外線探査装置でもとらえにくいステルス戦闘機だ。愛称の「ラプター」とは、猛禽類を意味する。なんでこれが愛称なんだよ!と言いたい。まさに世界最強クラスの戦闘能力を持つ。
 米空軍嘉手納基地では、これまでも「負担軽減」と称して、F15戦闘機の訓練を県外に一部移転された。だが、昨年までにわずか10回、1回当たり1週間程度で、参加機は2~6機と少ない(「琉球新報」16日付)。
 このF22は、2007年2月から5月に暫定配備されたのをはじめ、再三飛来している。嘉手納以外の外来機飛来が常態化している。嘉手納基地の周辺の騒音被害は、軽減されたのか? 県環境部の調査でも、2009年度に飛行が制限されている夜間・早朝の騒音発生回数は、大幅に増えている。2010年も増加している。何が負担軽減なのか!

 そこへまたしてもF22の新たな飛来である。F22以外にも、アラスカ州アイルソン空軍基地第18アグレッサー(仮想敵)中隊所属のF16戦闘機6機も飛来を予定しているという。嘉手納基地はいま、滑走路を修理中で、住宅地に近い一本しか使えない。それなのに、F22など外来機が長く駐留し、訓練を続ければ、住民への騒音はいっそうひどくなることは、目に見えている。
 F22は一時配備といっても、4カ月もいて、それが繰り返されている。住民からは「事実上の常駐化だ」という声が上がるのも当然だ。しかも、F15の訓練のグアム移転の合意が発表されたばかりだ。「だましたのか」の声さえ出ている。

 大和では、沖縄の「負担軽減」「訓練移転」というニュースばかり流れると、沖縄も少しは軽減されていると錯覚する人も出だろう。だが、「軽減」の実相はこんなものである。

 嘉手納飛行場に関する3市町連絡協議会は19日、関係機関に抗議と要請に訪れる予定だ。

2011年1月17日 (月)

雪はなく、冬の虹

 沖縄も寒い日々だ。でも雪は降っていない。16日は、久米島であられが降ったそうだ。ただ、本島の北にある伊是名島(イゼナジマ)では、空から白いタンポポの綿毛のようなものが降ったのを目撃した人がいる。しかし、沖縄気象台では確認していない。
 沖縄ではなく、奄美大島では、島の最高峰の湯湾岳(694m)で、雪が舞ったという。

 この数年で一番の寒さであることは間違いない。003
沖縄では、雪が降ったことはないのだろうか? 実は、昔、久米島で降った記録があるそうだ。でも、なぜ久米島なのか、というと、沖縄の本島に比べて、周辺の離島、久米島や慶良間諸島がいつも気温は1,2度低い。また北部の国頭も、中南部よりは寒い。同じ沖縄でも地方によって違いがある。

 雪は降らないが、虹は出た。冬の虹は沖縄でも珍しい。しかも、とても色鮮やかだった。
 沖縄の冬は、曇天の日が続く。あまり、虹の出る気候ではない。でも、17日は、東を見れば、晴れ。西を見れば雨、という感じ。虹が出やすい気象条件だった。朝、見事な虹が出現した。

004_2  しかも、虹はまた見事な半円形を描き、さらにその上にもう一つの虹が出て、二重の虹の橋がかかった。それで、思わずカメラで撮った。夜のテレビのローカル番組でも女性キャスターが「私も虹を見ましたよ。とても優雅な感じでした」と話していた。普段は、虹は珍しくない沖縄だが、冬の鮮やかな虹は、みんなの印象に残り、結構話題になっているようだ。

2011年1月16日 (日)

「武器を持たない国」・琉球王国の実像、その6

 沖縄は空手がとっても盛んだ。空手が発達した背景にも、「武器を持たない国」になったこととも関係あると見られる。琉球のサムレー(士族)は、刀の代わりに扇子を広帯に一本さして歩いたという。小さな島国が、なまじ軍備を持って対外的に対応しようとすれば、かえって危険をまねくとして、「柔よく剛を制す」を006 琉球王国の理念としていた。武器に頼らずに、礼節をつくし、周りの国々と交易と友好の関係をつくり、東アジアの「架け橋」にもなっていた琉球の伝統は、誇るべき歴史である。沖縄と日本の未来を考える上でも、今日的な意義があるのではないだろうか。
その6はこんな内容で、終わりとなる。

右写真は、名護の山から眺めた古宇利島(こうりじま)。「アダムとイブ」に似た伝説がある美しい島だ。記事とは関係ない。

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2011年1月15日 (土)

カンヒザクラが那覇でも開花

 桜が開花した。といっても、大和のようなソメイヨシノではない。カンヒザクラであ036 る。15日から、山原(やんばる)の本部町八重岳で、日本一早い桜まつりが始まった。
 那覇市内でも、桜の開花が始まったので、首里にある末吉公園に開花状況を見に行った。
 といっても、ご覧のように、一部の木で、咲き始めたところだ(右上、下)。月末にかけて、那覇市内でも相当開花するだろう。
 カンヒザクラは、一度冷え込みがないと咲かない。だから、本島でも寒い北部の標高の高い山の上部から、だんだん下の方に下りてくる。そして南部の方に桜前線が南下してくる。桜前線が北上するソメイヨシノとは、まったく逆である。大和の桜を見てきた者には、とても不思議な感覚である。
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 左のように、もうすぐ開くピンク色の蕾もたくさんできている。
 カンヒザクラは、ソメイヨシノとは多くの違いがある。ピンク色であることはもちろん、花が釣鐘状なので、下に向かって咲く。それに、花が散る時も、ソメイヨシノのように、花びらが散って舞うのではなく、釣鐘状016 の花の全体がボトリと落ちる。あまり美しくない。ちなみに、沖縄民謡には、桜の美しさを歌った曲は、ほとんどない。梅は「梅の香り」など、名曲があるのに、奇妙だ。
 この後、22日からは、今帰仁城跡や名護城跡の桜まつりと続き、2月には那覇市内へと移る。桜まつりも、北から南下してくる。
 北部への桜見物のツアーが始まったが、なんとひまわり畑の見学とセットになっている。これが沖縄ならではだ。ひまわりも咲く。コスモスも咲く。沖縄は季節もチャンプルーと言われる由縁である。
 桜見物のツアーはあるが、大和のように、桜の下でブルーシートを広げて酒宴を催す「花見」はまったくない。そんな習慣はないのが沖縄だ。

 桜が開花し始めた末吉公園は、山の斜面が公園になったようなところで、那覇市内ではもっともうっそうとした森のある場所だ。谷川もある。夏でも、森の中に入ると、とても涼しい。桜も那覇市内では名所の一つである。

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  山の上には、琉球八社の一つである末吉宮という由緒ある神社もある。山の上のように見えるので、下から行けば相当登る。でも、実は神社の裏側は、すぐ近くを道路が通り、車で行けば、上から歩いて下りれば近い。
 首里そのものが、高地のようになっているので、公園からの眺めはとてもよい(下)。観光客は来るところではない。地元の住民にはとても親しまれている。それに、神社だけでなく、昔からの拝所がいくつもある。そこが、普通の整備された公園とは、違うところである。

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2011年1月14日 (金)

「武器を持たない国」・琉球王国の実像、その5

 琉球に来た外国人と言えば、中国から国王の任命のために来た冊封使(さっぽうし)の記録が数々ある。1609年に薩摩が琉球に侵攻する直前に来た冊封使・夏子陽は、琉球があまりに防衛の構えがなく、警戒心もまったくないのに驚いて、忠告して、武器を増やし整備をさせたほどだったという。
 王府の役人は、武術の鍛錬ではなく、芸能の腕を磨いた。組踊(くみうどぃ)など芸能で、冊封使を歓待することは、王府にとってもっとも重要な任務だった。右は、ユネスコ無形文化遺産に登録された組踊(テレビ沖縄から)。
 琉球は「武の国」ではなく「文をもって治める国」と見られていた。それは、薩摩の島津氏や明治の日本政府でも、共通の認識だった。その5はこんな内容である。

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2011年1月13日 (木)

80年ぶりに出版された「板垣退助君伝記」

 これは「レキオ」とも「島唄」とも無関係。番外編である。013
 宇田友猪著、公文豪校訂の『板垣退助君伝記』(原書房)が出版され、沖縄県立図書館にも入った。全4巻の大著である。労作を出版にこぎつけた校訂者が、知人なので、あえてふれておきたい。
 右の板垣退助の肖像は、同書から。
 著者の宇田は、土佐藩士の3男で、自由民権運動の昂揚期に青春をすごした。高知の土曜新聞はじめいくつかの新聞社で記者をしたが、自由民権運動の指導者・板垣退助に終生師事した。板垣監修の名著『自由党史』も原著者は宇田である。今回の大著も「板垣伝であると同時に維新革命史、政党沿革史、立憲政体史そのものである」という。
 大著であり、とても容易に読み切れそうにない。なのに、ここで紹介しようと思ったのは、この本書が日の目を見たことが、とても重要な意義を持つと思ったからである。
 というのは、この宇田著の板垣伝の原稿が存在することは、一部の人には知られていた。しかし、原稿が複数の人物によって私蔵されていて、公的機関に寄贈されるまでは所在も不明だった。通読したものは、ほとんどいなかったという。
 本書は、大正13年(1924年)から執筆を開始し、7年をかけて、隈板内閣(第一次大隈内閣)成立直前までを脱稿したところで、宇田は63歳で惜しくも死去した。「何卒板垣拍伝記を完全な立派なものにして世に出して下さい」と遺言した。しかし、残念ながら、実行されずに終わった。それ以来、宇田が「全身全霊を捧げた完成した唯一最高の生産物」といわれる5000枚を超える毛筆の原稿は、80年間も活字にならないまま、眠っていたのだ。そして近年では、その存在すら忘れ去られていたという。
 本書の編集は、2003年11月から、高知県立歴史民俗資料館や東京・渋谷区の郷土資料室にある原稿をすべて写真撮影することから始まった。
 「原稿入力、校正、校訂を経て完成するまでにほぼ3年を費やした」という。気の遠くなるような地道な作業である。校訂者は「宇田友猪のこの大労作が、今後の板垣退助や明治史研究の進展に資することができれば、編者のこの間の苦労は十分に報われる」とのべている。
 5000枚を超える原稿が、一枚も欠けることなく保存されていたこと自体、「奇跡的」だと校訂者がいう。同時に、土佐の自由民権運動を研究する校訂者が、この原稿の存在とその価値に着目し、これを出版する意欲と努力を惜しまなかったからこそ、出版までこぎつけることができたのだろう。もともと出版され、絶版となっていたものを復刻することはよくあることだ。でも、それとはまったく違う。
 著者が遺言で出版を切望しながら、出版できなかったことには、それなりの事情や困難があっただろう。さまざまな困難を乗り越えて、出版に至ったのは2009年9月からだ。執筆から出版までの事情そのものが、一つの物語をなしている。出版の歴史をみても、かなれ希有なことではないだろうか。校訂者の熱意の産物である。「死せる宇田、生ける校訂者を走らせる」という気がしてならない。宇田も出版が希望より遅れたとはいえ、遺言が80年後に実現したことを、グソー(あの世)から感謝しているのではないだろうか。
 
 

 
 

2011年1月12日 (水)

「武器を持たない国」・琉球王国の実像、その4

028  薩摩は、琉球の武器管理を徹底し、鉄砲の 所持を禁止し、新たな武具の持ち込みも禁止した。だから琉球は、中国に渡る船が海賊に襲われるので大砲など武器が必要だが、大砲は薩摩から借りて訓練していた。
 「武器を持たない琉球」の姿は、琉球に渡航してきた外国人らも、驚異の目で記録している。その4はこんな内容である。
 右は、座喜味城跡。まだ国内の武装解除する前の城である。本文とは無関係です。

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2011年1月11日 (火)

「武器を持たない国」・琉球王国の実像、その3

 琉球王国では、なぜ国内の武器を取り上げた027 のか。琉球が統一された後も、まだ争いが絶えなかった。兵乱で国内が荒れることがないように、武装していた按司たちを首里に住まわせ、武装を解除したことが、その後の平和と安定につながったことは確かだ。琉球では、もう戦闘の訓練もなくなった。さらに、薩摩が侵攻して、支配した後は、武器管理がいっそう徹底された。その3は、そんな内容である。
 写真は、世界遺産の勝連城跡。勝連の按司、阿麻和利(あまわり)の居城だった。首里王府に謀反を起こしたとして、王府に討たれた。

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2011年1月10日 (月)

沖縄のムーチーを食べる日

 旧暦12月8日は、沖縄033 では「ムーチー」(餅)を食べ、厄払いと健康を願う日である。今年は1月11日だ。「ムーチー」は、大和の餅のような、もち米を蒸して臼でつくという方法ではない。もち粉に、黒糖、紅芋の粉、カボチャの粉末など、種類によっていろいろ混ぜて、こねたものを、サンニンガーサ(月桃の葉)でくるみ、蒸す、という作り方だ。右は蒸し上がる前のムーチーである。左下は、蒸す前の紅芋ムーチーである。

 カーサで包むのは、魔除けの効果があるといわれるから。食べることで、厄払い、魔除けになるといわれる。ムーチを蒸した後の汁も、魔除けになるという。鬼の足にかかると、鬼の足が焼けただれる。鬼は、健康の邪魔をするので、追い払う意味がある。
024  家の天井や門に、ムーチーを吊るしておくと、魔除けになる。裏戸や門に「鬼の足、焼こうねえ」とかいって、ゆで汁をこぼすこともある。ムーチーは「鬼餅」とも言われる。
 ムーチーは、その年に子どもが生れた家は、ムーチーを親戚や知り合いなどに配る習慣がある。

023 ムーチーには面白い伝説がある。首里金城町に兄と妹がいた。兄は大里(現在南城市)に住み、夜ごと村を襲い、山羊や牛を盗み、人間まで食べ「大里鬼」になった。洞窟に住んでいた。妹は鬼を退治しようと、鉄を入れた餅を作った。鬼に食べさせ、鬼は崖から転落して死んだ。鬼を退治したのが12月8日で、この日、厄払いの「鬼餅(ウニムーチー)を食べるようになったという。他にも別の伝説もある。

 大里では「ムーチーの発祥の地」として、毎年「ふるさとヌムーチーさい」を開いていた。この祭りでは、巨大な鍋で、約2000人分の巨大ムーチーを作る。2008年12月、出掛けた。ムーチーをいただいて食べた。右の写真は、これから蒸すところだ。ことしはまだないので、問い合わせてみると、ことしから中止になったそうだ。伝統ある行事がなくなるのはさびしい。

 ムーチーの日のころは、とても寒くなるので「ムーチービーサー」と呼ばれる。「ビーサー」は冷えるがなまった言葉だろう。

 天気予報では、これから2週間ほどは、沖縄は例年より寒くなるという。やっぱり「ムーチービーサー」は生きている。

2011年1月 9日 (日)

「武器を持たない国」・琉球王国の実像、その2

 琉球王国が、国内の武器を撤廃し、武器は国家が管理することにした。だから、外敵に対処するための武器まで、すべて撤廃したのではない。国内の武装解除をしたあと、八重山から奄美まで、何回か遠征をしていることや、首里城の増強や那覇港口に砲台を備えた保塁を造るなど、防衛体制を整備した史実もある。041
 多少の武器を所有していたといっても、戦国時代をたたかった大和の幕府や薩摩藩と比べると、とても貧弱なものだった。第2回は、そんな内容である。

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 右写真は、琉球でまだ按司たちが、城に割拠していた時代の中城城跡

2011年1月 8日 (土)

「武器を持たない国」・琉球王国の実像、その1

Img041  沖縄を訪れて、世界遺産の首里城を見ると、ほとんどの人が「これは戦さのための城というより宮殿だ」と思うだろう。
 大和の城といえば、石垣が高くそそり立ち、天守閣を持つ。そこには、刀や槍、鉄砲、鎧など、武器と武具が陳列され、いかにも戦さのための城だ。でも、首里城は、石垣は高く築かれても、美しい曲線を描き、カラフルな正殿は壮麗である。武器や武具は見かけない。戦さの血なまぐさい臭いはまったくない。
 この違いは、たんに外観の違いというだけではない。琉球王国は、およそ500年ほど昔、国内で「刀狩り」、武装の解除が行われた歴史がある。大和の武士のように、腰に刀を差すようなことはない。「武器を持ち歩かない」「武器を見かけない社会」となっていた。ただし、「刀狩りは間違い」という意見もある。「武器を持たない琉球王国」の実像をさぐってみたい。これから、何回に分けて論考をアップしていく。

 写真は、首里城での正月の儀式の再現である。すべて中国式で行われる。

 第1回は、琉球を統一した第一尚氏の王朝に代わる第二尚氏の王朝の3代目、尚真王の時代に「刀狩り」が行われたといわれる。では「刀狩り」とは何か、なぜ国内の武装解除が行われたのか、を考えてみたい。

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2011年1月 7日 (金)

ジョン万次郎の写真を宝物とする高安家

 中浜万次郎が半年間滞在した、豊見城市翁長(おなが)の高安家の当主、高安亀平さん(81)は、万次郎の写真を高安家の宝物として床の間に飾っているという。「琉球新報」1月3日付「家族の宝物」という企画で登場している。
 055 万次郎が、漁船で漂流して助けられた、アメリカから帰国する際、琉球の大渡(おおど)海岸(糸満市)に上陸し、当時の豊見城村に留め置かれた。王府の取り調べを受けた。滞在した高安家は当時、屋号で徳門家と呼ばれる名家だった。万次郎は、温情あふれる接遇を受け、短い間にも、琉球方言を学んだり、伝統の綱曳きにも参加し、村民とも交流があったという。
 亀平さんは、もう159年も昔のことなのに、「父親から万次郎が地域の綱引きやウマチー(集落の拝所に祈願する行事)に参加したとか、ヒンプン(家の入口にある衝立のようなもの)を軽々と飛び越えて出掛けたと聞かされて育った」と語っている。高安家では代々、万次郎のことを語り継いできたことがうかがえる。
 右写真は、翁長に昨年建てられた「ジョン万次郎記念碑」。

050  高安家と中浜家とは、いまでも交流が続いているという。万次郎の伝記や中浜家の家系図なども保管しているそうだ。実は、戦前に、万次郎の写真や資料を、万次郎の長男から贈られ、宝物として保存していた。しかし、米軍の空襲で家が全焼して全部、焼けたという。それで、戦後、亀平さんのお父さん・公平さんが、中浜家の親類に頼んで、また集めたという。
 万次郎が、滞在して翁長を去る際に、自分で製作した六尺棒を形見として、同家に進呈した。後年、病魔が南部一帯で広がった時、徳門家の家族は誰一人病気にならなかったのは、この六尺棒のおかげだとして、守護神のように大事にしていたが、沖縄戦でやはり焼失したという(長田亮一著『ジョン万次郎物語』)。もし、焼けていなければ家宝として保管されていただろうに、残念である。
 左上写真は、記念碑を建てた由来を記している。「日本開国の先駆者・ジョン万次郎が翁長に滞在された史実と、人間味あふれる先代の行動に感謝し、この地に記念碑を建立する」と書かれている。碑を建てた「沖縄ジョン万次郎会」のメンバーに、高安亀平さんの名が見える。
 「沖縄で愛される中浜万次郎」をこのブログにアップしているので、興味のある方はご覧ください。

 

2011年1月 4日 (火)

糸満の長谷寺を訪れた

 東京から沖縄に来て寺を建てた 人がいると、知人から079_3 聞いて、初詣を兼ねて訪れた。それが、糸満市潮平にある沖縄山城間院長谷寺である。真言080 宗豊山派のお寺だ。外観は、お寺らしくない(右)。城間巌氏の邸宅を引き継いで、お寺にしたからだ。入口には梵鐘がある(左)。
 

沖縄戦の激戦の地、糸満市にお寺を開創したのは、2006年10月のことだという。
085

 予告もなしに訪ねると「こちらへどうぞ」と岡田弘隆住職が親切に案内してくれた。お寺の中は084 、南無観世音菩薩の立派な仏像が目を引く(左)。

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「2階に上がると、観音様のお顔がよく見えますよ」と案内されて上がると、実に福々しい表情がよく見える(右)。こんな高いところから仏像を見るなんて、初めてだ。仏像芸術としても、観賞しても飽きない、見事な観音様である。
 さらに、住職は、「観音様の両足にさわっていいですよ」という(左)。いわれるままに、両手で両足にさわりながら、願いごとをつぶやいた。これも初めての体験である。
 岡田住職は082 、東京では、東京大空襲の犠牲者の追悼の取り組みなどにもかかわっていたという。沖縄でおびただしい犠牲者を生んだ激戦の地にお寺を開いたことからも、平和への願いを深く抱いている方である。
 住職は、実はもう一つの顔がある。なんと弁護士さんである(右)。住職と弁護士を兼ねるとは、希有の人だと思うが、他にも例があるそうだ。沖縄に来てからはもう住職が中心だという。玄関には、お寺の看板と共に、岡田法律事務所の看板が掲げられている(右)。
 住職は、「私の目的は、沖縄に三十三観音霊場を開創することです。それが私への観音様の夢のお告げでした」という。
099  その一歩として、広い屋敷の境内を生かして、「潮平三十三観音霊場」を昨年、つくったという。さっそく、いくつか回らせてもらった(左)。

 「第1番青岸渡寺」から順次斜面を利用して西国三十三観音霊場の写しが並んでいる(右)。それぞれ奉納者の名前と「家内安095 全・病気平癒の為」など願いが記されている。
 山の斜面を利用してつくられているが、一つの境内で三十三観音霊場が回れるのは、お年寄りや体力のあまりない方には、利用しやすいだろう。
 岡田住職は、「現在沖縄には約百のお寺があります。そのうち観音様をご本尊としたり脇侍とするお寺を三十三集めるのですから、そんなに困難はないと思われます」と意欲を燃やされていた。092

 

 国土のわずか0・6%の沖縄に米軍基地の75%が集中しており、「その基地の中の観音霊場の素顔も、内地からの巡拝の方々には知ってもらいたい」「やがて霊場の神通力も加わって、米軍基地は過去の話となるはずです」と、住職は「六大新報」2011年新春特集号で書いている。
 危険な米軍基地は撤去してほしいという沖縄県民の願いと運動に、観音様の神通力が応援に加われば力強いだろう。

 さらに、長谷寺は最大で二十名は宿泊できるという。住職は大和の人たちに「ぜひ沖縄にお出かけください。長谷寺によられて南部の沖縄戦激戦地の慰霊行脚をされて、また最先端の沖縄を味わっていただければと願っております」と同紙で呼びかけておられる。
 実は、この長谷寺のすぐそばに、糸満で名高い戦跡がある。それは、次にしましょうね。

 

2011年1月 3日 (月)

正月は恒例の「元ちゃん」ライブ

 正月といえば、毎年恒例になっているのが、「元ちゃん」こと、民謡歌手の前川守賢のミニライブを聞きにいくことだ。元ちゃんは、毎年、正月の2,3日と母の日には、大型ショッピングセンターで、ミニライブをする。094
 元ちゃんは、正月とは深い縁がある。お父さんは、前川守康という漫談家で芝居役者だった。1960年1月28日、元ちゃんが名護の劇場で生れた。この日は、ちょうど旧正月元旦だったので、元ちゃんと呼ばれるようになった。生れた時から、芸人のなるべくしてなったようだ。おばあ、あじいに絶大な人気がある。
 午前11時半からのライブだったが、早く行くと、ちょうど本番前のリハーサルで三線を弾きながら歌っていた。2階からリハーサル風景を撮ろうとしたら「撮影禁止です」とイベント係に止められた。それで、右写真は、ライブ会場のステージの上の風景である。正月らしい飾りがあった。
 1983年に「かなさんどー」でデビューした。ことし50歳。在宅のねたきり高齢者を訪れ、演奏する活動を続け、琉球新報活動賞(社会活動)を昨年、受賞している。
 舞台は、いつも、和服姿で登場する。30分のライブなので、6,7曲演奏する。もちろん無料である。
 今年は、珍しく「芭蕉布」を披露した。ヒット曲の「かなさんどー」「遊び庭(アシビナー)」と続く。演奏が続くにつれて、もう、1人、2人、3人と踊る人が前に出てくる。ついに、元ちゃんは、舞台に引き上げ、みんな歌いながら踊る。元ちゃんのライブのいつもの光景である。
 元ちゃんのトークでは、かならず、お年寄りが多いので「健康第一」「元気で長生きを」と話す。それに、いつも欠かさないのが「平和であってこそ」ということ。今回の正月ライブでも、「平和な世の中」の願いを込めて「世果報でーびる」を歌った。「ユガフデービル」と読む。
 「世果報」は、沖縄民謡に歌われるキーワードの一つである。「豊年の世」という意味だ。「弥勒世」(ミルクユ)ともほぼ同じ意味である。ただ、実際にはもう少し、広い意味をこめて使われる。「平和で幸せな世」を示す。「でーびる」は「でございます」というような意味である。
 この唄の歌詞は「♪我した沖縄(ウチナー)ヒヤルガヘイ 長寿ぬ島やさ果報ぬ島 いや栄い いや栄い 果報や寄てぃたぼり アッネヒヤルガヘイ アッネヒヤルガヘイ 果報や寄てぃたぼり」。「わが沖縄は 長寿の島だよ 果報の島だよ さあ栄え さあ栄え 果報や寄ってきて下さい」というような意味である。3番の歌詞には「命どぅ宝」(ヌティドゥタカラ)の言葉も入っている。
 この唄には、「みんなが元気で、遊び、踊り、年と共に若々と、長生きしてほしい、命こそ宝 平和で幸せな世の中であってほしい」という願いが込められている。だから、彼は毎回、この歌を欠かさない。
 お年寄りは、生き残った人々もみんな沖縄戦の地獄を味わっている。戦後の廃墟から米軍支配の基地の島での苦労を味わっている。だから、民謡歌手も誰もが平和の大切さを口にする。島唄も平和であってこそだから。
 ついでに、大晦日の紅白歌合戦では、沖縄生れの人気グループ「HY」が、「時をこえ」を歌って感動を呼んだ。これは、メンバーの一人のおばあの沖縄戦の体験を聞いて作られた歌である。若いミユージシャンも、みんな平和への思いを抱いているのである。
 

 

2011年1月 2日 (日)

首里のお寺に初詣

065  お正月といえば初詣。行きました。沖縄のお寺といえば那覇市の首里城周辺が多い。それも、大半は臨済宗の寺だ。王府が庇護したからのようだ。今年は、モノレール儀保駅に近い大日山盛光寺に行った。臨済宗妙心寺派だという。お寺は、二階建てになっている。首里は狭いし、お寺は二階になっている寺がけっこうある。
061 お寺に入ると、一階は儀保(ぎぼ)のお地蔵さまが目に入る(左)。

 お地蔵さまとは、お釈迦さまと弥勒仏までの橋渡しをする救世主だという。
 (下に説明がある)。062_2

 

 盛光寺といえば、すぐ前に首里で有名な「のまんじゅう」の店があった。白い饅頭の上に大きく赤で「の」の字が書いてある。大きくて美味しい饅頭だ。前に、買い求めに行ったら、引っ越してなくなっていた。引っ越し先前、追っかけて行ったのは、もう3,4年前だ。

 盛光寺の入り口の両脇には、見事な仁王様が立っていた(下左右)。
064_2 066

 

 

本堂は2階である。なぜか、「お米はこちらにお入れください」という070_2 注意書きがあり、米入れのビンがたくさん並べられている。左写真の手前に並ぶ机の上には、お米を入れるビンが置かれている。ほかのお寺ではあまり見かけない。おもしろい光景である。おみくじなど売る所で、連れ合いが、ことしの干支のウサギのお守りを買おうと探すと「うちは猿と羊です。ほかの干支はないですよ」というではないか。「えっ!なぜ?!」と聞くと、首里の4つのお寺で12支の分担があるそうだ。観音寺、安国寺、達磨寺に他の干支があり、「卯」は達磨寺にあるというのでそちらに向かった。達磨寺は昨年も行った寺だ。

083_2078  達磨寺西来院という曹洞宗のお寺だ。ここも2階建になっている。1階は駐車場である(右)。「なでだるま」がある。みんなに撫でられ077 て、頭は白く光っている(左)。
 達磨寺は、参拝者がとても多い。おみくじをみんなひいて、木に結び付けていた。
 なぜか、泡盛の一升瓶がたくさんお供えされていた(右)。

088  こちらはお守りなどの売り場は、別会場になっていた(左下)。ウサギのお守りもたくさんあるし(左)、ほかにもネコをはじめいろんなお守りというか、置物がある。もちろん達磨寺だからダルマも売っていた(右)087

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こう見てくると、お寺の初詣風景は、大和も沖縄もたいした違いはないようだ。お守り、おみくじなども沖縄県産ではない。「京都から来るんですよ」と盛光寺で話していた。

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