私は南洋生れよ
民謡三線サークルで、歌った中に「南洋小唄」があった。沖縄から戦前、南洋諸島にたくさん移民で出かけたので、南洋諸島を歌った民謡はいくつもある。
隣にいるKおじいが「南洋では儲けたのかねえ?」と聞いてきた。ウチナーンチュのおじいが大和の私に聞くのも変だ。でも一応「サトウキビを作りに行ったそうですね」と答えた。「南洋小唄」は、とても味わいのある曲で、好きな唄の一つだ。訳するとこんな歌詞になる。
「♪恋し故郷ぬ親兄弟と別れ、憧れの南洋に渡ってきたよ」「♪寝ても覚めても朝夕 胸内の思いは、男として立身の手本を示すこと」「♪年が明けて初春の花咲くころには 故郷に錦を飾り誇らしく戻ってくるよ」。移民は、サイパン、テニアン、ロタ、パラオなどに多く出掛けた。民謡歌手でも、嘉手苅林昌さんはじめ何人も行っていたようだ。
この歌詞から、Kおじいは、儲けて帰ってこれたと思ったのだろうか。そこへ突然、前に座るBおばあから声が飛んだ。「でも南洋では戦争でたくさん死んだよ」。その通りだ。一旗揚げることを夢見て、沖縄からたくさん出かけた島は、米軍の進攻で地獄の戦場と化した。例えば、サイパンでは、日本人4万2547人のうち、なんと61%が沖縄出身者だった。だから沖縄の犠牲者の比重が高い。沖縄出身の犠牲者は、1万人を超えるという。
「私は南洋生れよ」とBおばあから、思わぬ声が飛んだ。「南洋のどこなの?」「どこかよくわからないけれど⋯⋯」。そこへ隣のHおじいが声を上げた。「おれはテニアン生まれだよ」「えっ、ああ私もテニアンかも⋯⋯」とBおばあ。「テニアンはどこ?飛行場の近くか?」「いやー、よくわからないのよ。姉といっしょだったけれど」。まだ幼かったからだろう。記憶ははっきりしないが、テニアン島らしい。
テニアン島は、第1次世界大戦でドイツが敗北してから日本に支配権が移り、国際連盟から日本の委任統治領となった。開拓移民は、初めは森林を伐採して椰子栽培をしたが、害虫や干ばつで全滅した。その後、開発会社が沖縄や東北からも移民を集めて、砂糖やコーヒー、綿花など栽培した。昭和初期には砂糖の生産量が東洋第2位になったというから、サトウキビ栽培が盛んだっただろう。1944年6月時点で、日本人は15700人もいたという。
テニアンには、南洋群島で最大のハゴイ飛行場があった。Hおじいのいうのは、この飛行場だろう。
「テニアンから、原爆を積んで飛んでいったから、それを記した物があるよ」という。1944年8月に島を占領した米軍は、日本の本土空襲の基地をし、広島、長崎への原爆投下もここからBー29が発進した。
毎年、南洋群島への墓参団が行っている。Hおじいも、碑のことを知っているのだから、一度、行ったことがあるのだろう。
南洋をテーマにした曲は「南洋数え唄」「南洋浜千鳥」「南洋帰り」などいろいろあるし、「移民小唄」もある。なお、戦前、戦後の戦争にかかわる民謡や移民について、興味のある方は「『戦世』と平和の沖縄島唄」をブログで昨年6月にアップしているので、見ていただきたい。
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