三重城は聖なる場所
那覇港の入口にある三重城(みいぐしく)に立ち寄った。 倭寇の襲来から防御するために、16世紀に造られた。対岸には屋良座森(やらざもり)城もあった。海に海中道路のように突き出た堡塁だった。い まは埋め立てられ、ロワジールホテルがそばにある(右)。
入口の階段(左)のそばには「水神 」もある。湧水の「カー」があったのだろうか。
上がっていくと 「三重城は皆様の安全と祈りの聖地です、汚さずキレイに致しましょう」との第11管区海上保安本部看板がある。この上には、海上保安庁の信号所もある。
階段の上に鳥居がある(右下)。 鳥居は大和風俗である。この三重城は、防衛のための軍事施設であったが、同時に、港から中国や薩摩・大和へ船で旅に出る人を見送る場所だったという。だから、航海の安全を祈る拝所(うがんじゅ)も造られている(左下)。
いま三重城に行っても誰もいないだろうと思って、上がっていくと、なんと御願(うがゎん)に来ている人が何人もいた。左の拝所に、数人がお供えを並べたりしていた。だから史跡であるとともに、いまも「安全と祈りの聖地」として人々が訪れるのである。
三重城は、もう一つ別の御願の場所である。それは、八重山や宮古など離島の人が、旧暦1月16日は、「16日=じゅうるくにち」といって、グソー(あの世)の正月にあたり、離島に帰れない人は、この三重城から、海のかなたの郷里のお墓に向かって、御願をするのが習わしである。旧正月は2月3日なので、まだ先だから、人はいないと思ったら、こちらにも来ていた(右)。
連れ合いが、話を聞いたところ、なんと、夫が喜界島(きかいじま)の出身だという。いまは那覇市に住んでいるが、「夫の命を受けて『うがみとおし』にきている」とのこと。「うがみとおし」とは、はるか喜界島に向かって祈り通す、つまり遙拝をすることだ。
御願のために、「ビンシー」と呼ばれる祭祀用具を収納する専用の木箱を持ってきて、並べていた。ビンシーには、お酒と杯、花米(はなぐみ)が入っている。それと、沖縄の線香である「ひらうこー」と「うちかび」(あの世のお金)を持ってきていた。「うちかび」を燃やして線香をあげる。
旧暦ではいま年末であり、沖縄では旧12月24日頃までに、「ウグヮンブトゥチ」(御願解き)とヒヌカン(火の神)の昇天を行う。一年間の幸いなことに感謝し、災いはなくなるように願い、ヒヌカンが天の神によい報告をしてもらうように祈る。またその前に「シディガフー」といって、その年にお世話になった神々、拝所、宮や寺を回り感謝の祈りをする。そんな大事な時である。
訪れた人も「旧暦の年末ですから、24日ごろまでに一年のしめくくりの御願をするんです」と、連れ合いに話していた。喜界島も沖縄と同様の風習があるようだ。
旧正月は「初御願」(はちうがゎん)、16日は「じゅうるくにち」をまた来てするそうだ。
旧暦12月24日は、新暦1月27日にあたる。ラジオのリスナーも「旧暦24日だから一日仕事を休んで、御願に回ります」と言っていた。
ところで、この 三重城を歌った有名な曲がある。「花風」(はなふう)という。
「♪三重城にぬぶてぃ、手巾(てぃさーじ)もちやりれば 早船の習ひや一目ど見ゆる」。「愛しい人を見送りするため、三重城に登って手拭をうち振れば、船は早いので一目しか見えないで遠く消え去ってしまった」。意訳すればこうなる。見送りするのは、遊女で、愛しい人は士族という関係だ。この曲は、明治中期に創作されたが、遊女たちが歌っていた曲ともいわれる。
三重城はもう、昔の面影はないが、海に突き出た地点に立ち、海を見ていると、なにか当時の人たちの心情が分かるような気がする。
この三重城からは、対岸が見えるが、もう屋良座森城はない(左上)。というか、米軍の那覇軍港になっているからだ。軍港からは、米軍の軍用車両、物資など積みだされる。この日も、眺めると、軍用車両が並んでいた。
那覇市民にとっては、一番間近な物騒な米軍基地である。軍港は、もう1974年に日米で返還合意がされているのに、移設が条件のため、37年たってもいまだに返還されていない。一日も早く返還してほしい。三重城から見て改めてそう思った。
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コメント
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喜界島の遙拝をしていた人たちも、祠に御願に来ていた人たちも全部女性でした。やっぱりここに、「うない神」の島というか、比嘉先生が言っていた「女性優位に男性原理」の沖縄社会の構造があらわれているような気がします。神様への御願ごとはすべて女性の力を借りておこなうべし。女性がやらなければ意味がない。女性にこそ神様へのお礼や願いが通じるという力がある。かつて三重城で、男性が御願してるの、見たことありますか。
私も昨日、喜界島に向かって遙拝している女性に、「ここでのやり方は全部決められているのよ。お母さんにちゃんと教えてもらって、その通りにやらないとだめよ」と何度も念押しされました。
それから遙拝している人と、祠に御願している人と、お供えものが少し違いましたね。祠に御願してた人はバナナとか花とかそえていました。これに対して喜界島の人はビンシーとうちかびとひらうこうだけでした。それぞれ御願の対象が違うのでしょうかね。
「ウグゥワンブトゥチ」は通常、火ヌ神や屋敷の神様が対象だから、三重城ではやらないんじゃないですか。それぞれの家内でやるんじゃないでしょうか?
投稿: いくぼー | 2011年1月27日 (木) 09時00分
そうですね。女性は霊力を持っていると見られて、御願ごとは女性が担っているんですね。家で日常の仏壇やヒヌカンへの御願も女性が担っているんでしょう。ただ、お墓に参拝する時など、男もみんなで行くのに、こういう場合は女性ばかりですね。
一年中の御願ごとはとても多いので、沖縄の女性はしっかり覚えないと妻の役割を果たせないので、結構苦労するでしょうね。
投稿: レキオアキアキ | 2011年1月27日 (木) 09時12分