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2011年2月

2011年2月28日 (月)

JA真和志の農協まつりを楽しむ

 私が住む地域は、昔は那001_2 覇と首里に挟まれた真和志村だった。それで、JAおきなわ真和志支店になっている。今年31回目の農協まつりが2日間行われた。規模は大きくないが、地元に密着した面白さがある。
 004 野菜を畑から直送した「はるさー市」は人気がある(左)。

 014 沖縄と言えば「サーターアンダギー」(左下)。黒糖とカボチャを買った。サークルの先生とばったり会った。天ぷら屋と知り合いというから、この店だろう。
 手作りのジーマーミ豆腐(ピーナッツ豆腐)も買った(右下)。デザートのようで美味しい。                           
024      



 JAといえば「TPP交渉への参加反対」。ここでも署名への協力を呼び掛けていた。なぜか、「JAのお墓」「墓地あります」のコーナーだった(左下)。010
 2月といってももう暑い。子どもにはかき氷が大人気だ(右)。ほとんどの子どもが食べていた。祭では、年中売られている。 013           

昔懐かしいものもある。射的と金魚すくいである。子どもに人気だ。大人もやれる。我が連れ合いも射的をやって、チョコマーボを射止めた。012                                                         060                                       

 

 農協まつりの恒例がいくつもある。その一つが黒糖作り。サトウキビはいま収穫のシーズンだ。機械にサトウキビを入れて汁を搾り出す。汁を煮詰めて、黒糖を作る。昔もこんなにして、みんな黒糖を作っていたのだろう。020_2
019

   



 

 やっぱりヤギ汁もある。沖縄そばとともに、売られていた(左下)。062 JA女性部は、漬物など加工食品を売るのが恒例だ。おそろいのピンクのTシャツ、エプロン姿(右下)。別の売り場で大根のシークワーサー022漬けを買った。少し甘い。

 

 舞台では、子どもの舞踊、エイサーなど演舞が続いた。可愛い!027 029_2

 これも恒例の餅つきが始まった。子どもたちが杵をふるう。杵に振り回される子もいる。

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 つき上がった餅は、すぐに女性たちがきな粉をまぶしてみんなにふるまう。子どもからおばあまで、何回ももらいいっては食べる。われわれも何回も食べた。つきたての餅の味は格別である。

 県産のお米を買ったら福引券をもらった。021 3等の自転車が吊り下げられている。クジ運はあまり良くない。8等賞2つでおしまい。われわれの前で、女の子が2等のゲーム機を当てて大喜びしていた。
 苗木の配布が始まった。今回はキューリの苗。さっそく帰って鉢に植えていた。さて無事に育つだろうか?056

2011年2月27日 (日)

首里・万松院で沖縄の民俗を学ぶ

 首里を歩いた際、予定にはなかった041 った万松院(ばんしょういん)に立ち寄った。臨済宗妙心寺派のお寺である。2009年に新築したとかで、今まで見た沖縄の寺では、もっとも壮麗な寺だ。
 沿革を見ると、1613年に始まっているから400年に及ぶ歴史がある。やはり、沖縄戦ですべて焼失し、戦後徐々に復興してきたという。
 入口には、水を使わない「枯山水」の禅の庭が造られている。沖縄ではあまり見ない。042

 万松院の見どころは、実は壮麗な建物ではない。本殿の入り口に行くと、たくさんの張り紙と言うか、説明文が張られている。よく見ると、沖縄の歴史年表のようだ。しかも、琉球王国の歴史を書いているのかな、と思って見ているとそれだけではない。沖縄でお墓に親族一同が集まり、先祖を供養する一代イベントの清明祭(ウシーミー)のいわれについて書かれている。035
 中国の明代に琉球に渡ってきた久米36姓の影響で、清明祭が士族、平民と伝わったという。お墓へのお供え物も、豚、トリ、魚の三身の三品だったのが、生きている者の食したいという希望によって、年を経るにしたがい、変化して、豚は三枚肉、魚は天ぷらに変わり、かまぼこや揚げ豆腐も加わり、品数が多くなった。持ち運びに便利な重箱に詰めていった。お餅も、もちがよい保存食として重宝された。餅も重箱に詰め、2箱になった(下は辻の旧二十日正月の時の重箱料理)。
 お供えした料理を下げるのを「ウサンデー」というが、これがみんなに十分にいきわたり満足できるように増やして、重箱が4個となった。

015_2 お寺が言いたいのは、伝統の重箱料理は、亡くなった先祖のことを思ってではなく、生きている人の都合で変わってきたものだということ。そこから、大胆にも次のように主張する。
「このようなお供えはやめて、左のようなお供えをなさるようにおすすめします。
 精進料理。なーべーらー(ヘチマ)、ごまどうふ、じーまーみどうふ(ピーナッツ豆腐)、ゴーヤー、もずく、野菜のかきあげてんぷら、ゼリー お好きな品々を加えて下さい」。なるほど、簡素化のすすめである。
 といいながら「すし、オードブル等をお供え希望の方はどうぞ」ともいっている。寿司やオードブルとなると、ボリュームがあり、とても簡素化とは逆になるが、どうなのだろうか。 

 下の写真のように、絵入りで重箱料理の変遷や精進料理のすすめを説いている。面白いことに、さらに、これに共鳴する人の感想のような文章も掲示されている。ウチナーグチと訳文であるが、訳したもので一部を紹介したい。

 「意味もよくわからないで、昔からの風習とかしきたりで、お供えをすればいいと思っていたが、そうではなかったんだねー。親や先祖に失礼していたんだねー。これからは形式ではなく、真心のこもったお供え物をお供えしていかなくては。皆さん、肝(チム)にそめようね」。038 037_2                                                  なるほど、清明祭と重箱料理のいわれとその関係、さらに時代による変化が、生きている人の都合で変わってきたものだということがよく分かった。お寺で、沖縄の民俗の大事な一つを学べるとは、意外だった。お寺を訪ねると、いろいろ特色があるものである。

043 029 下はお寺の門と梵鐘である。まだ初詣には来たことがない。

2011年2月26日 (土)

首里・龍潭通りの周辺を歩く、その2

 首里でも前に一度来たことのある地域を、連れ合いを案内して歩いた。061 途中で、史跡ではないが、まるでシーサーのように、石の上にのって、じっと座りこんでいる犬に出合った(右)。動かない。知らない人を見ても吠えない。番犬の役割も果たさない。文字通りシーサーの代わりの置き物みたい。
 前に来た場所でも、見落としていた井戸があった。安谷川(アタニガー)という。070石段を降りていくとあった。

 ついでに、沖縄の石段には特徴がある。階段というよりも、坂道と階段を組み合わせたような感じだ。つまり、一つの段が長くて、それが坂になっている。一段を一歩では歩けない。ここだけではない。古い城跡では、こういう階段が多い。段が坂道の上に、石がゴツゴツ出ていて、かなり歩きにくい。なぜこういう石段が多いのだろうか?069

 さて、首里は山のような丘陵の斜面に町が広がっている。だから深い谷川もある。なのに、山の斜面のような場所で、よくこれだけたくさん水の湧く井戸があるものだと感心する。狭い地区に、とても人口も多かったから、水も豊富にないと生活できなかっただろう。左が、安谷川(井戸)である。
 

すぐその上には、玉那覇味噌醤油の店と工場が075 ある。古い歴史のある店だ(右)。

076中に入ってみると、いろんな種類の味噌が並んでいた(左)。 072_2 奥に工場がある。見事な石垣があり、しかも首里城の石垣のように丸くカーブしている(右)。
 石垣にそって奥に入ると、羽地朝秀の生誕地があった。これも知らなかった。彼は唐名(カラナー)を向象賢(コウショウケン)という。琉球王国で最高074 のポストである摂政に就任した。古い行政を改革し、重すぎる百姓の負担を軽減し、王府祭礼の合理化をするなどすすめた。その政策は「羽地仕置き」と呼ばれ、琉球の政治史でも特筆される。王府の正史「中山世鑑」を編集した。よく、後でふれる蔡温(サイオン)と並列して評価されるが、私個人としては、羽地朝秀こそ王国で最大の政治家だろうと考える。蔡温は辣腕をふるったが、庶民の苦しみを軽減する政策を進めたとは聞かないからである。といっても、生誕地はいま駐車場だ。説明板があるだけだ。

 坂を上がると、安谷川嶽(アガニガータキ)に出た。アーチ型の門があ079 り、それが拝殿に当たる。前もふれたが、門が拝殿になるのが琉球ならではの拝所である(下の右左)。。081

082

首里王府の高級女神官の一人、大阿母志良礼(オオアムシラレ)が司る御嶽(ウタキ)の一つである。由緒ある拝所だ。門のなかが聖なる場所(上)。といっても、何かがあるわけではない。御嶽とは、神が降りてくる場所だから、何もなくてよい。
 このほか、板井戸(イチャガー)という井戸、先にふれた琉球の政治家、蔡温の旧宅跡があった(した)。やはり旧宅跡といっても駐車場だけだった。063 蔡温は、官僚トップの三司官にまでなった。山林視察を行い、治山治水をおこなったという。八重山、宮古では、開拓のため住民を強制移住させたことで、幾多の悲劇も生れたことで知られる。

 おまけ。小さな可憐な花、リュウキュウスミレがあちこちで咲いていた。071

2011年2月25日 (金)

首里・龍潭通りの周辺を歩く、その1

 かつての王都・首里は世界遺産の002_2 首里城などだけでなく、近辺には琉球王国の時代からの歴史を刻む由緒ある史跡が多い。大通りを歩くだけでは、分からない。龍潭(リュウタン)池のある大通りから、一歩中に入り、周辺を歩いてみた。
 裏通りの小道は「後の道」(クシヌミチ)と呼ぶ(右)。車一台通るくらいの狭い道「スージグヮー」が網の目のように張り巡らされ、民家が密集している。沖縄の古い集落はみんなこんな感じ。とくに首里は城下町であり、密集度は大きい。
 当蔵村屋(トウヌクラムラヤー)跡があった。王国時代は「村屋」と呼ばれ、地域の共同体「ゆいマール」の集まりなどに利用されたという。昔のものはもう何もない。
 すぐ近くに「泰山石敢当」(タイザンイシガントゥー)がある。009_2 石敢当は魔除けだ。魔物は直進してくると考えられ、T字の三叉路によく建っている。この石敢当はとても古い。泰山とは、中国の秦の始皇帝の頃から崇められた山だ。琉球最後の国王・尚泰王の時代に、国王の名前が刻まれていることはまかりならんと消そうとしたとか。「尚泰」と同じ「泰」の文字のところがたしかに削られている。石の字ははっきりしているのに(左)。
 少し歩くと「伊江殿内(イエドゥンチ)庭園」があった。十数年計画で修復工事をしているところだ。この庭園は、天然の岩山に巧みに奇岩をはめ込んでいる。
 よく見ると、虎の形をした岩が、池に足を踏ん張っているようにみえる(右下)。修復が完成して池に水をたたえれば、よい景観になるだろう。

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 龍潭通りにも史跡があった。天王寺(テンノウシ)跡だ。臨済宗の寺院だった。15世紀に、第1尚氏の国王をクーデターで倒し、第2尚氏の王統を開いた尚円王が創建した。琉球の黄金時代を築いた第3代目の尚真王の生誕地でもある。由緒ある寺だが、いまは石垣が残るだけ。寺の跡は首里教会になっている(左下)。 

023 寺の跡の道路を挟んで向かい側には、天王寺井戸(テンノウシガー)がある。寺の敷地内に水がなかったので、寺はこの井戸を使ったという。蓋がしてあり、028 面白みはない井戸だ。 

 首里汀良(テラ)町に来た。古い獅子舞があるので知られている。旧暦8月15日の夜、村の厄払いと百姓の親睦を目的に、アスイ森嶽(アシイームイタキ)の境内で、獅子舞を催す伝統がある(左下)。054 ここは首里汀良村の拝所になっている。

獅子舞は県内各地にあるが、他の地域はユーモラスだが、首里汀良町は、凄みがあり勇猛な獅子舞だという。テレビでは、見たことがあるが、実演を一度見てみたいものだ。046

 

 すぐ側のこむで森(クンディムイ)には、祠のような建物があった。「これは何が入っているんですか」といた人に尋ねると「獅子を入れていたんですよ。いまは入れていないですが」とのこと。厄払いなど住民にとって大切な獅子058 だったから、しっかり保管していたんですね。
左写真の岩山の右側にある建物に獅子を入れていた。

056
琉球を統一した尚巴志の代に地方からこの地に、獅子を舞う人たちを移住させた時に獅子舞は始まったと伝えられているそうだ。だから500年の伝統がある。
 この場所は今は公園になり、汀良自治ふれあい館があり、お年寄りなど集まっていた(左)。屋根にはとても大きいシーサーがいた。060 獅子舞の獅子のようだ(右)。

 この近くにも新井戸(ミーガー)があった。首里汀良町の村ガー(共同井戸)だ。でも飲み水用ではなく、防火用水のために、首里王府が費用を出して掘られたという。あちこちで随分、井戸(カー)を見てきたが、防火用水の井戸は初めてだ。それだけ、火事を恐れたのだろう。ただ、水はとても清らかで、豊富だったので、豆腐水として重宝されたという(左下048 )。

2011年2月24日 (木)

「天ぷら王国・沖縄」を直撃する値上げラッシュ

 このところ、食用品や062 ガソリンなど値上げが相次いでいる。農林水産省が、輸入した小麦粉の製粉会社への売り渡し価格を4月から18%も値上げするいう。それに、天ぷら油など食用油も、大手のJオイルミルズが、1月に1割強値上げしたばかりなのに、4月からまた15%以上も値上げするという。

 小麦粉と天ぷら油が値上がりすると、沖縄県民にとって一大事である。というのは、沖縄といえば、「知られざる天ぷら王国」であるからだ。とにかく、天ぷらが大好きだ。小麦粉と天ぷら油は、必需品でたくさん使う。だから、値上げには、一般家庭も困るし、とくに天ぷら屋は痛いだろう。
 右写真は、那覇の市場の天ぷら屋さん

 どこの家庭でも、野菜からイカ、カジキ、マグロなどの魚、もずくなど、すぐに天ぷらにする。年中行事でよくつくる重箱料理でも、天ぷらは欠かせない。また、魚を丸ごとから揚げするのも好きだ。街の市場や商店でも、天ぷら屋がやたら多い。
 なんでこんなに、揚げるのが好きなのか、と思うほど。多分、暑い日が多いので、生ものは腐りやすい。だから、揚げるという背景もあるだろう。魚なんか、焼いて食べることはしない。サンマでも、焼かない。揚げるが煮るかだ。003
 左下は、「離島フェアー」で魚の唐揚げを売るお店。
 しかも、天ぷらはご飯のおかずというだけではない。おやつにも食べる。恐らく天ぷらをおやつにするところは、大和では聞いたことがない。でも、でも、沖縄ではフツーのことだ。
 天ぷらが美味しいと評判の南部の奥武島(おうじま)では、ドライブしてきた人たちが、天ぷらを買って、おやつに食べる。
 当然、家で食事としても食べるが、買う量が半端じゃなく多い。わが家など、買っても2種類、4個程度。沖縄では、もう10個、20個単位で買う。家族も多いこともあるだろうが、1人が食べる天ぷらも多いだろう。
 天ぷら以外にも、炒め物のチャンプルーも、沖縄の定番料理だ。食用油をよく使う。食用油なしには、沖縄の食生活は成り立たない。
 沖縄の天ぷら好きは、県民のメタボの一因にもなっているらしい。男性の肥満率は、全国でもトップクラスだ。でも、天ぷら好きは、誰も止められない。
 沖縄テレビの人気番組「郷土劇場」の「Oh! 笑いけんさんぴん」という長寿番組のテーマ曲がある。「わしたウチナーけんさんぴん」の中に、こんな一節がある。
 「♪アメリカ、ソビエト人工衛星上げてる ウチナー負けずに天ぷら揚げよ」
 そうとう古い、1960年代の雰囲気の唄だが、「ウチナーが負けずに揚げるのは天ぷら」である。そんなわけで、小麦粉と天ぷら油の値上げは、沖縄食生活に直接ひびく。
 沖縄戦の後、米軍占領下で物がない時代、天ぷら油もないので、自動車用の「モービルオイル」で天ぷらを揚げ、モーレツな下痢に悩まされたという逸話は有名である。天ぷら油が高くなったからと、またモービルオイルで揚げるわけにはいかない。値上げラッシュをなんとかしてほしい、というのは多くの県民の思いである。

2011年2月23日 (水)

伝統ある辻の「二十日正月」、その2「ジュリ馬」

那覇市の花街として知られた辻の「旧二十日106 正月」で、一番の見物は「ジュリ馬」である。神人(カミンチュ)が各拝所で御願(ウガン)をして回り、「辻開祖之墓」まで来ると、「ジュリ馬」が始まった。
 辻は350年の歴史がある。遊女は「ジュリ」(尾類)と呼ばれた。馬の頭の形をした「春駒」を帯にかけて、あたかも馬に乗ったような姿と華やかな衣装で踊る。
 たずなの紅白のヒモを持ち、シャンシャンと鳴らし「ユイユイ」とはやしながら、三線の歌と音に合わせて踊る。114

 とても軽快で、手拍子を打ちたくなる。でも、拝所の前で演じるのは、奉納演舞である。最初は、「火の神」(ヒヌカン)の前で、御願が終わったあと、舞った。「二十日正月」を祝う雰囲気がある。
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 「ジュリ馬」は、大和の「春駒」という門付芸と似ている。「春駒」も、商売繁盛や家族の息災を願い,踊るという。
 ジュリの多くは、売られてきて、借金を返済しないと実家に帰れない身だった。この「旧二十日正月」の「ジュリ馬行列」の時だけは、家族に元気な姿を見せる機会だった。日頃は会えない肉親は、見物客にまぎれて密かに顔を合わせることができたという。それは「親子の情愛の深さを輝くように表現している」(旧二十日正月実行委員会の趣意書)という。117

 ジュリ馬は3か所で演舞したあと、辻の人々が作る「辻新思会」の建物の中で、「ジュリ馬」と数々の奉納演舞を披露した(左下)。
「狭いですが、どうぞ中で見ていって下さい」というので、少し舞踊も見ることができた。最後まではいられなかったが、この後、見物の人たちまで、料理がふるまわれたそうだ。135

 「ジュリ馬」は「売春を助長する儀式」という批判もある。
 ただ、初めて見た限り、そこには、貧しい庶民と哀しい女性が歩まざるをえなかった歴史の一端が刻まれている。同時に、琉球350年の歴史をもつ民俗・信仰の行事としての伝統と文化を見ることができる。
 この行事を担っている辻の人たちは、なにか誇りをもって伝統を受け継いでいることも強く感じた。
 辻やジュリの歩んだ道は、沖縄女性史を考える上では欠かすことができないものである。民謡の恋歌のテーマとしても、士族と遊女の恋愛が、数多く歌われている。また、辻とジュリは、大和の遊郭と遊女とは、同じではなく、相違があるともいわれる。これを機会に、もっと深く知りたいという気持ちになったことだけは確かである。036 

おまけ。拝所を回る際は、ドラを叩きながらまわる。とてもにぎやかだ。その一員に、なんと外国人の若者がいた(右)。日頃はなにをしているのだろうか、気になった。

 「ジュリ馬」を見てみたい方は、「ユーチューブ」で検索すると、あまり鮮明な動画ではないけれど、出ますよ。                           

2011年2月22日 (火)

伝統ある辻の「二十日正月」、その1

 沖縄の正月はいくつもあると書いてきた。いよいよ正008 月の終わりである。2月22日、旧暦1月20日は、「二十日正月」(ハチカソーガッチ)と呼ばれ、正月の祝い納めになる。「終わり正月」ともいう。正月用の飾りは取り除き、料理もすべて食べ終わる。昔は、正月用に豚を年末にと殺して、カメに塩漬けにした。「スーチカー」と呼ぶ保存食だ。旧20日には食べ終えて、カメを洗うので「カーミアレー正月」も呼ばれた。沖縄でも中南部でよく行われたそうだ。
 とくに盛んなのが、花街として有名だった那覇の辻である。辻のジュリ(遊女)たちが、商売繁盛や豊年を祈願して、地域の拝所をめぐり御願(うがん)の神事を行う。そのあと、奉納演舞を披露する。かつては、那覇大綱曳き、那覇ハーリーとともに、那覇三大まつりといわれたそうだ。この伝統文化を初めて、辻に見に行ってみた。
 右は、辻の拝所廻りに出発するところ。白い衣装の女性が神人(カミンチュ)。

 この地域の御嶽(うたき)、拝所7か所を回る。
022

最初に行ったのは、亡くなったジュリを祀るお寺だった。見かけは普通の小さな民家だが、中には仏壇がある。
 花街である辻むらが公設されたのは350年も前だ。薩摩に支配された後、薩摩の役人や中国から琉球国王の任命のため来た冊封使(さっぽうし)らを接待するため、首里王府が設立を試みたという。ときの王女と王女の側近、三司官の娘を辻につかわしたことから始まったと伝えられる。
 遊女たちが集まり、花街ができていったそうだが、百姓たちが極貧のため、見売りされる子女が増えていった。数々の悲運の遊女の姿がある。同時に、歌舞音曲、料理や教養を身につけ、伝統文化を築いていったとも言われる。039
 お寺の次に、志良堂御嶽・辻根家に向かった(左)。拝所であり、「根屋(にーや)」というから辻のムラの草分けの家があったところだろう。
祈願にまわるには、重箱に詰めた料理、お餅・菓子、果物、「ビンシー」という酒や花米など祭祀用具の木箱、平香という沖縄の線香、あの世のお金「ウチカビ」など持って回り、お供えしてから、御願(うがん)をする。
 那覇市内でも、特有の伝統ある行事だから、報道や民俗行事に関心ある人、カメラマンなど、たくさんの人たちが詰めかけている。われわれもその一人だが。

067 次は、井戸(カー)を祀る場所だ。駐車場の一角にあり、狭い。
こういう行事でもなければ、そばを通っても気付かないだろう。「この井戸の上に、首里王府からきた王女ら3人が住んでいたんです。だから、この井戸の水は生活用水として大事な命の水だったんですよ」。祭の法被を着たおじさんが話してくれた。
 077 沖縄では、谷川は少ないので、湧水が生活用水になっている。だから、井戸(カー)は、生活に欠かせないだけでなく、命の水なのだ。どこでも御願の対象になっている。
 井戸の次は、「火の神」(ヒヌカン)である(左)。
台所の神様だ。この「二十日正月」そのものが「火の神」と関係があるとも、さきのおじさんは話していた。
 いよいよ、王女たちが住んでいたという小高い場所に登る(左)。087 花城御嶽と呼ばれるようだ。
 頂上部に拝所があるのかと思ったら違っていた。そのすぐ下に、拝所があった。099











 御願をしているのは、首里城に向かってである。国王のいる首里城に対する遙拝である。

拝所回りも最後になってきた。122
 祠が3つ並んでいる。中には、辻を開祖したという由来の王女ら3人の名前が記されている(左)。
「辻開祖 花の代」として「マカトカニ」「ウトゥダル」「ウミチル」の名前である。こちらは、遺骨とかはないで、開祖として祀っている。 
 左下は「辻開祖之墓 うないみやらびぬ墓」とされ、こちらは遺骨を祀っているそうだ。
 最後にっもう1か所「火の神」に御願をして終わった。
 辻の由来と歴史、民俗については、まだ素人でよくわからない。ただ、民謡で遊女と士族の恋歌を歌っているだけなので、これ以上、詳しい説明はできない。
 まだ、メインイベントともいうべきことが残っているが、長いので次にしましょうね。


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2011年2月21日 (月)

巨人軍、初の那覇キャンプを見る

 読売巨人001 軍が初めて沖縄にキャンプで来た。セルラースタジアム那覇はわが家に近いので見に行った。前日は楽天とのオープン戦があり、1万6567人も詰め掛けた。野球場のある奥武山公園への入り口は、歓迎のノボリが林立している(右)。004

沖縄限定のオリジナルグッズも売られている(左)。「ちばりよージャイアンツ」(頑張れジャイアンツ)の泡盛の応援ボトルも並べられていた(右下)。005

 巨人以外の球団は、朝はみんな10時開始なのに、巨人は9時30分開始だ。球場に入るとすぐに、柔軟体操が始まった(左下)。

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 小笠原、ラミレスらがすぐ目の前で体をほぐしていた。体操が終わると、軽いランニング(右下)。014

さあ、キャッチボールが始まった。投手も野手も一緒にやっているが、一番の注目は、今年のルーキーナンバーワンの呼び声が高い澤村拓一である。背番号15だ。いたいた。一番端っこで投げている(左下)。015_2
このあと投球練習場で投げたのを見たラジオのディレクターによると、「スゴイ、剛球だ。モノが違う」と驚くほどだ。先発陣に入り、新人王に一番近いのではないか。
 投手では、やたら外国人が多い。名簿では7人、台湾出身を入れて9人になる。どれほど使えるのか、よくわからない。
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 投手が投げ、内野ゴロで併殺をとる連携プレーを始めた(右)。感心したのは、とっても声がよく出ること。それに、練習メニューが連続していて、遊びがない。キャンプも、もう後半になりオープン戦が始まったので、とても実戦的な練習になってきているのだろう。
 それにしても、他に見た球団より、緻密にきびきびやられている感じがした。
 ウチナーンチュもいるし、大和から来たジャイアンツファンも多い。やけに若い女性ファン024_2 が目立つ。みんな031 オレンジのタオルを頭にかけている(左)。

選手のユニフォームで一番多いのが「坂本勇人背番号6」である(右)。ユニフォームを売っている店の人も「坂本選手が一番売れます」と話していた。

 022 前日のオープン戦は満員だったが、さすが平日なので観客は少なくて見やすい(左)。といっても、日ハムは別にして、他球団より多い。27日までキャンプするので、次の土、日のオープン戦はまた満員だろう。
 まだ終わりではない。投手の投球練習場に行ってみた(右下)。043

内海、外人の2人らが投げている。もう変化球を投げていた。「次はチェンジアップをいってみよう」とキャッチャーから声が飛ぶ。048

内海の投球に熱が入る(左)。昨年は、いまいち監督の期待に応えきれなかった。開幕投手をめざしているのだろう。この練習場で澤村が投げると、ベテラン投手でも横で投げるのを嫌がるそうだ。自分の球が遅く見えるから。ホントかな? 
 少し見てから外に出ると、もう入場制限をしていた。外で待っている人がかなりいた(右)。他球団のキャンプでは、投球練習場は、中に入れてくれず、外の狭い窓から中をのぞくのが通例だった。巨人はよく見えた。早く入れてラッキーだった。049

 選手の名簿をもらいに行ったら、「那覇キャンプガイドブック」の冊子をくれた。これまで見た他球団は、紙切れに印刷したもの、リーフレットくらいだったが、さすが巨人。選手一人一人の079 写真からデータが掲載されていて便利だ。
 なにやらほめてばかりいた。だけど、断じて巨人ファンではない。ただ属人的には応援したい選手がいる。もちろん、ルーキーの澤村。それと2軍で那覇にはきていないが、糸満出身の宮国椋丞くん。まあ高卒ルーキーだから、3年後くらいが楽しみだろう。
 それに来年は、一週間ではなく、もっと長くキャンプに来てほしい。やはり巨人キャンプの経済効果は抜群である。原監督も、球場など練習環境はすばらしいと評価していた。だから実現するかもしれない。そんな期待を持つ県民が多いのではないだろうか。

2011年2月20日 (日)

基地内フリーマーケットに初めて行く、その2

 浦添市のキャンプキンザーのフリーマーケットの続き。フリマでは、みんな044_3 車の前に品物を並べている。いろんな物があるが、やはり「アメリカー」ならではの物がいくつかあった。
 子どもが絵本を売っていた。他にも本やCDなど売っている。といっても、英語の本だ049_2 からあまり買う人は見当たらない。

リカちゃん人形やミニチュアハウスもあったが、やはり、ベットに横たわるリカちゃんは金髪だった。

053 054_2

 靴はやはり半端じゃなく多い。

066_3 家にある不要なものを持ってくるのだったら、こんなに靴はないだろう。どこかで仕入れているのだろうか、履いていないような新しい靴もある。でも、デカイ!
 基地のフリマならではの物がある.。迷彩色の服、帽子が並ぶ。061

062

 

 それに「us.air.force」のマークが入ったパーカーもある。嘉手納空軍のものだろうか。050

 

 お菓子やピーナッツなど食べ物も売っていた。食べ物では、もう「売り切れsol dout」に058 なったものもある。何を売っていたのだろうか?ハンバーガーではない。フランクフルトかもしれない。
 

ちょっと意味不明な看板もあった。059  「自分で持ってきた持ち物は責任を持て」と言う。何のため?忘れ物が多いのだろうか?それとも、盗まれることがあるのだろうか?そうではないようだ。フリマが終わった後に、持ち主不明の物が残ることがあるということだろう。他では、あまり見かけない看板であることは確かだ。

 「お子様から目を離さないように」とも言っている。子どもたちは、フェンス際が坂になっているので、そこでよく遊んでいた。041_2

 基地は、フリマの時だけ、一部を開放して自由に出入りできるようにしている。といっても、フリマの区域以外は、ブロックして入れないようにしている。068はやりここは基地である。

 まあ、一度、基地内のフリマ体験をしたけれど、もう行かないかもしれない。

2011年2月19日 (土)

基地内フリーマーケットに初めて行く,その1

042_3 浦添市にある米軍海兵隊のキャンプ・キンザーでフリーマーケットがあったので初めて行った。米軍基地では、土曜日ごとに、各キャンプをめぐりフリーマーケットが開かれている。第3土曜日は、このキャンプキンザーである。
 昼の12時から3時まで開かれる。早く行かないと、掘り出しものはないとかで、たくさんの人たちが詰めかけている。
 といっても「がらくたが多いので、あまり期待しない方がよい」という声があったが、やっぱりあまり買いたいものはなかった。アメリカーフリマを初めて味わってみた。

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 看板は、英語もあれば日本語もある。他の場所のキャンプフォスターは北谷町、キャンプコートニーはうるま市である。朝開くところもある。
 米軍基地内に入るのは、初めてだ。やっぱり広大だ。キャンプキンザーは、浦添市の西海岸の国道58号線沿いに、約3043 ㎞にわたり巾1kmの基地である。「キンザー」の名は、沖縄戦で戦死した海兵隊先任伍長の名前からつけたそうだ。軍需物資の貯蔵、補給、修理をする。牧港補給基地とも呼ばれる。
 出店できるのは、米軍関係者だけだ。でも買い物は誰でも自由。売り手は、米兵らしき男性もいれば、家族の女性、カップルで売っている人もいれば、子どももいる。
051  

 工具を売っているところでは、売り手も買い手もオッサンばかりだ。
 かなり中南米系をはじめマイノリティーの売り手が目につく。日本人かと見まがう人もいる。

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 車を連ねているが、やはり「Yナンバー」の車が多い。060

 売り手は「アメリカー」だが、買い手は「アメリカー」は少なく、ウチナーンチュが多い。だから「ハウマッチ?」と聞くと「100エン!」と答える。聞かなくても、品物をもって見せるだけで、「200エン」だとか声をかけてくる。
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 売り物は、とにかく衣類が多いが、とにかく整理していなくて、山積みにしたり、箱にぶち込んでいる。それも、子ども物も大人物も、ごちゃ混ぜになっているので、探すのが一苦労だ。
 みんな混ぜっ返して掘り出し物を探している。なぜか、靴がとっても多い。それも、サイズがデカイのが多い。だから、並べているわりには、買う人が少ない。052

 値段は安い。50円、100円のものがけっこうある。25円もある。といっても、それは値段だけのものというか、タダでも要らないものがかなりある。

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2011年2月17日 (木)

「旧16日祭」はグソー(あの世)の正月

 2月18日は、旧暦で1月16日。この日は「16日祭=ジュウルクニチ」と言って、グソー(あの世)の正月である。ご先祖様と新年を祝う。スーパーの広告は「旧16日祭」特集ばかりだ。
 沖縄でも地域によって異なる。旧暦が生きる地域は、お墓参りをする。恒例の重箱料理をつくり、お供えをする。あの世の通貨である「ウチカビ」を燃やす。
 先日の「ホーメルでこんにちは」の公開放送の際も話題になった。海人の街・糸満市は、正月も旧正月だから、「16日祭」をきちんとやるようだ。民謡歌手の盛和子さんは、新暦は「ヤマト暦」、旧暦は「ウチナー暦」と表現していた。
 「糸満はみんな旧暦だから16日はお墓に行くんですよね」と尋ねると「そうです」とおばあが応える。「重箱もつくるんですか?」と聞くと「作りますよ」とまた応える。糸満だけではない。
 民謡サークルで一緒の、Kおじいも「金曜日は16日だから、山原に行かなければいけない」と言う。おじいは大宜味村の出身だ。「お墓参りですか?」と聞くと「そうそう。4月の清明祭(しーみー)と16日は墓に参るからね。帰らないといけない」と話していた。おじいはマイカーはないから、バスを乗り継いで帰る。
 とくに山原地方と八重山、宮古島は「16日祭」が盛んだ。山原は、清明祭以上に「16日祭」が盛んだとも聞く。007 親族一同がお墓に集まり、先祖を供養するそうだ。
 だから、この日に郷里に帰る人がけっこういる。 前に「三重城」(みいぐすく)のことをブログに書いた。この「16日祭」に、八重山、宮古島など先島生れで、島に帰れない人はその代わりに、三重城からはるか故郷の島のお墓に向かって、ご先祖様に対しウートートー(御願)をする。
 左写真は、旧暦12月24日の三重城の様子だ。年末の御願に離島の人が来ていた。「16日祭」には、もっとたくさんの人たちが来るだろう。
 宮古島は、清明祭はやらなくて、「16日祭」に、お墓に親族が集まり、重箱料理をお供えして、供養するそうだ。
 大和では、まだこの時期は寒くて、お墓などいかない。なにより「16日祭」というのは、私の知る限りでは、大和の田舎でも聞かなかった。やらなかった。その代わりというか、沖縄は、春秋の彼岸にはお墓参りなどしない。「清明祭」を盛大にやるから、その必要もないだろう。
 自分たちが生れ、育ち、いま生きているのも先祖があってこそ。その先祖への感謝を忘れない。また、先祖が子孫たちを護ってくれるという強い思いがある。だから、この「16日祭」も「清明祭」も大事にするのである。
 

2011年2月16日 (水)

パラシュート降下訓練の恐怖

 米空軍は065 16日、嘉手納基地で県と市町村の中止要求を無視して、パラシュート降下訓練を行った。前日、嘉手納基地を見に行ったところだったので、この訓練には余計にワジワジする。写真は、琉球放送とテレビ沖縄の画面から紹介する。輸送機の上の光は、太陽ではない。カメラの光である。
 基地に無関係に暮らしている人には、この訓練の怖さが分からないだろう。
 怖さを端的に表すのが、1950年と65年に読谷村で落下物によって人間がつぶされて死亡する事故が起きている事実である。
 65年の事故は、演習中の米軍輸送機Cー130から投下されたトレーラーが、自宅近くにいた同村字親志の棚原隆子ちゃん(当時喜友名小学校5年生)の上に落ち、圧しつぶして死亡させた。圧殺である。この悲惨きわまりない事故に、怒りと抗議の声が全県にわき上がった。

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この事故で,抗議を受けたアメリカ民政府のフライマス渉外局長は、交通事故と同じだと開き直り、県民の怒りはさらに増大したという。
 この死亡した女の子と幼馴染だった人は、今回の訓練について「人間や物がぽんぽん落ちてくる光景は恐怖で今でも鮮明に覚えている」と語っている(「琉球新報」16日付)。
 事故は過去の話だけではない。今年も1月7日、伊江島補助飛行場で実施された降下訓練では、基地フェンスから30㍍も離れた農地に、米兵一人が降りてきたという。
 降下訓練による事故は、復帰後だけで44件も起きているという。
 パラシュート降下訓練は、戦後読谷村で行われていたが、073 事故が続出して自治体や県が訓練中止を求め、1996年のSACO(日米特別行動委員会)最終報告で、伊江島に移転を決定していた。ところが、2007年に続いて、また嘉手納基地で実施された。これで5回目になる。
 米軍は「天候不良」を理由にしているが、16日は、伊江島も好天であり、理由にならない。
 16日は、МC130特殊作戦機から6人の兵士が、次々降下した。
 政府は、口を開けば「沖縄の負担軽減」を言うが、現実は逆である。嘉手納基地では、ステルス性能を持つF22ラプターなど外来機が来て訓練を繰り返すなど、住民への被害と不安は増大している。その上に、パラシュート訓練である。「一歩間違えば大惨事につながりかねない」「負担軽減というのも方便か」という声が噴出している。
 菅内閣は、「例外的」だといって、訓練の中止も求めず、容認している。沖縄の怒りはつのるばかりである。 

2011年2月15日 (火)

盛和子さんの「ホーメルでこんにちは」

 民謡歌手の盛和子さんは、情け唄を歌うと抜群の雰囲気がある人である(右下)。ラジオ沖縄で、なんと二つも番組を担当している。035 その一つが「ホーメルでこんにちは」。月曜から木曜まで昼に10分間流れる。いつも、県内各地のスーパーで月曜日午後12時50分から公開放送する。そのあと火曜から木曜日までの放送分を収録する。なぜスーパーでいつもやるかといえば、「ホーメル」がハム・ソーセージ、ポーク缶詰など「アメリカ生まれの県産品」を販売しているからだ。ウチナーンチュにとって、ポーク缶、コンビーフハッシュなどは、食卓に欠かせない。
 糸満市のタウンプラザかねひでサンプラザ糸満店で、公開放送があった。盛さんとラジオ沖縄の前仲美由紀さんのコンビでやっている。ウチナーグチのクイズや季節の話題をテーマにしたクイズがある。でも一番の聞きどころは、木曜日の民謡である。
 この日は、八重山出身で糸満市内に住む比屋根孝子さんが出演した(左下)番組収録は1曲だが、番組以外に演奏がいくつかあるのが聞きどころだ。
 比屋根さんは、八重山古典民謡保存会で学び、師範となり、八重山古典民謡研究所を糸満で開いている。沖縄では、なぜか民謡を教えるところを「研究所」と名乗る。舞踊も同じく「研究所」だ。これも不思議なところである。041

 比屋根さんは、八重山の「デンサー節」「安里屋ユンタ」を披露した。「デンサー節」は、教訓歌である。「安里屋ユンタ」は、八重山で歌われる原曲の方である。唄は、武富島の安里屋に生れたクヤマは幼い時から美女だった。村の助役、村長にあたる役人から賄女に望まれたが拒否した、という内容である。(但し、この歌詞は竹富ではなく、石垣島で歌われる内容である)。
 比屋根さんは、とても恰幅のよい方だ。歌も上手いが、三線の音色が味わいがあった。
 少し体を悪くして休んでいたが、回復してきたので、「盛先生から呼ばれてきました」と話す。
 盛和子さんは「夫婦船」(みいとぶに)を歌った。夫婦の愛情がテーマの曲である。
 盛さんは、芸能一家である。夫は吉田安盛さんで、ラジオ沖縄で「暁でーびる」(夜明けですよの意味)という民謡番組を、1986年からやっていた。でも、2009年12月に安盛さんが急逝した。その後、二男の「のーりー」と親子で番組を続けている。三男は、人気バンド「Dー51」の「YASU」という一家なのである。043
 吉田さんが亡くなられた直後、やはり「ホーメルでこんにちは」の公開放送があった。心配していたら、不幸があっても休まずに、きちんとつとめあげた。さすがプロ根性というか、気丈な方だと思った。
 「暁でーびる」は、月曜日から金曜日まで、毎朝5時10分から6時55分まで、2時間近い番組を、25年も続けているから、スゴイ!
 盛さんは、会話はすべてウチナーグチで話すので、正確には分からないところが多い。でも、前仲さんや集まったリスナーと話すときは、そこそこ分かる。037

  この公開放送は、民謡が聞けるとともに、もう一つ人気があるのは、クイズに答えたり、最後に恒例のカチャーシーを踊ると、ホーメル商品がプレゼントされることだ。
 この日の方言クイズは「走る」をウチナーグチで何と言うかだ。正解は「はーえー」だ。左の帽子をかぶった女性が答えた。
 放送とは別に、最後に民謡の曲名あてのクイズもあり、われわれも2人それぞれ、ホーメル商品をもらった。わが家は、通常は食べないので、買わない。でも賞品なので遠慮なくいただいた。045
 さあフィナーレは、「のーりー」が演奏する早弾のカチャーシー。前は「唐船どーい」が定番だったが、最近はいろいろ弾く。見事なノリである。たちまち、おばさん、おじさん、おばあ、おじい,。それに可愛い子どもが飛びだし踊りだした。
 入れ替わり立ち替わり、踊り出す。そのうち、この番組の「追っかけ隊」のおばさんまで048 登場した。

 始まる前は、人がパラパラで、どうなる事かと思っていたら、番組が始まるとぞくぞく人が集まった。カチャーシーが鳴りだすと、もうじっとしていられない。ウチナーンチュのDNAだろう。みんな踊りが上手い。最高潮に盛り上がったところで、終了した。050

 

2011年2月14日 (月)

ウチナーフォーク歌手F&Yを聞く

 ラジオで毎週聞く番組に「フ003 ォークTIDABOX」がある。ウチナーフォーク歌手の「ふーみー」がDJをしている。彼と仲間のユニット「F&Y」のライブがあるというので、聞きに行った。沖縄市のショッパーズ泡瀬だった。
 ユニット名は「hu-mi-yoshiaki」のイニシャルからつけている。ボーカルは主に「hu-mi」。yoshiakiはギターの名手だ。
 hu-miは、中学校に上がるころからギターを弾きはじめ、「かぐや姫」が大好きだ。かれらは、オリジナル曲ではなく、70年代のフォークグループの曲を中心に歌う。
 この日も、最初から南こうせつとかぐや姫の曲でスタートした。「うちのお父さん」「22歳の別れ」と続けた。こうせつとかぐや姫の曲ならなんでも歌える。ちなみに沖縄には、別に「かぐやひも」というコピーグループもある。006
 humiは、長身で歌も語りもさわやかで、好青年、というよりもうナイスミドルである。恩納村の出身で、いまも恩納村を拠点に、県内と地元の店や各地のライブハウス、イベントに出演する。その一方、三線も弾き、地元のエイサーの地謡(じかた)をやり、結婚式披露宴の司会など多彩な活動をしている。ギターのyoshiakiは、読谷村の出身。かれは、フォークグループ「NSP」の大ファンだ。2人は意気投合して、2007年からユニットを組んだという。
左がhu-mi,右がyoshiaki.014  

 彼らの「懐かしい青春のフォーク」には、ファンが多い。この日のライブは、始まったときは、パラパラだったが、時間とともに、聞き手も増えていった。
 「懐かしい」といっても、私は少し世代が違うので、「NSP」や「ふきのとう」はほとんど聞いてなかった。でも、フォーク世代は年代が広い。フォークというだけで、そのサウンド自体が、懐かしい響きがある。
 演奏は、NSPの「夕暮れ時はさびしそう」「八十八夜」、「アリス」の「冬の稲妻」「チャンピオン」とメドレ016 ー。熱演が続く。もう汗びっしょりだ。前の方にいたからよくわかる。
最後は、「ふきのとう」の「春雷」だった。
 ここで不思議なのは、沖縄でフォークグループと言えば、なぜか「ふきのとう」が抜群の人気だったことだ。だから、ラジオの「団塊花盛り」や「ふーみー」の番組でも、いまでもリクエストがとても多い。「ふきのとう」は、北海道出身の二人組だ。沖縄は北海道にはあこがれがある。それが人気の要因なのか? そうでもない。「ふきのとう」の曲のフィーリングが、ウチナーンチュの感性にあったのだろうか。いまだによくわからない。
 沖縄でとても人気があったため、彼らは1978年に、「ここは沖縄」「五色のテープ」という沖縄限定のレコードを発売したそうだ。010
というわけで、「ふきのとう」がエンディング曲だった。
 この日、ショッパーズ泡瀬のイベントは、フォークともう一人、人気芸人「川満しぇんしぇ~」が出演していた。子どもたちにとても人気がある。フォークの前に、すでにワンステージを終えて、最前列で歌を聞いていた(右)。
 ライブが終わったので、連れ合いが「ふーみー」に挨拶した。「ラジオいつも聞いていますよ。このライブもラジオで知りました」と話し、ラジオネームを伝えると、「じゃあ、那覇から来られたんですか」とても喜んでいた。
 私も「でもラジオ番組は30分しかないので短すぎて、あっという間に終わります。もっと長くやってほしいですね」と要望すると、「前は1時間番組だったんですけどね。要望は局側に伝えておきます」と話していた。この番組は2002年から続いているので、もう10年目になる。
 それにしもて、ライブをやったショッパーズ泡瀬は、とても大きな複合商業施設なのに、客が少ない。なぜだろう。帰りにもそれが気になった。
 

2011年2月13日 (日)

あきれた鳩山前首相の証言

 鳩山前首相が、普天間基地問題でインタビューに応えた記事には、あきれた。琉球新報など13日付で、大きく報道した。
 2009年の衆議院選挙で「最低でも県外移設」と公約したのに、政権につくと、閣僚は「国外は言うまでもなく県外も無理だという思いが政府内にまん延していたし、今でもそうである」「県外の主張は私を含め数人にとどまってしまった」という。
 しかし、閣僚を任命したのは、首相であるし、閣僚を指揮するのも首相である。要するに、党首が公約して政権についても、ただ鳩山個人の思いだけで、政権としてそれを実行する意欲も意思もまるでなかったことになる。「私のようなアイデアは一笑にふされていたところはあるのではないか」とも言う。これでは、「私はその気はあったけど、みんなやる気はなかったので無理だった」というのに等しい。あまりにも軽すぎる。すべて人のせいにしている。
 あたかも県外の移設先を探しているように言っていたのも、まったくのパフォーマンスだった。アメリカ側と県外移設に向けた具体的な交渉もなかったことを認めたという。「腹案がある」と言ったのも、徳之島のこと。「腹案」なんかになりえない。地元の猛反発で完全に閉ざされた。結局、最初から県民をまるっきり裏切っていたことになる。
 辺野古に戻ってきたさい、「海兵隊の抑止力」を理由にしたことについて、「抑止力でないと皆さん思われる。私もそうだと理解する。それを方便と言われれば方便だが」と認めたことには、驚いた。自分Photo で「抑止力」を理由に押し付けておいて、「あれは方便だった」とは、およそ前首相がいう言葉ではないだろう。
 海兵隊が抑止力でないと理解しながら、それを根拠に沖縄に押し付けるとは、県民をもてあそぶのもはなはだしい。県民から強い反発を呼んでいるのは、当然である。
 もし、鳩山前首相の態度で、唯一、県民に与えた影響があるとすれば、「最低でも県外」と言った公約を裏切ったことで、普天間基地の移設問題への県民の意識を奮い立たせ、県内移設反対の県民ぐるみの世論と運動を巻き越したことだろう。もう、県民は後戻りできないところまできている。民主党政権は、アメリカに顔を向けるのではなく、沖縄の総意を真剣に受け止めるべきである。普天間基地はもう、アメリカ本国に持って帰ってもらうしか解決方法はない。 写真は、嘉数高台からみた普天間基地。

2011年2月12日 (土)

八重瀬城ゆかりの組踊があった

 八重瀬町富盛(ともり)の石彫大獅子の近くに、八重瀬嶽があり、八重瀬公園があ050 る。昔は、八重瀬城(ぐすく)があった。八重瀬公園は、桜の名所でもある(右)。
 桜を見ようと思って行くと、すでに大分葉桜になっていた。沖縄の桜前線は、寒い北から南に南下するので、那覇市は満開である。那覇よりはるかに南の八重瀬町がもう葉桜とは、とても不思議だった。
 でもでも、連れ合いの一言で、納得した。「那覇より寒いんじゃないの」。そうなんだ。沖縄本島の南部、南城市や八重瀬町あたりは、海に面して潮風の影響が強いのか、いつも気温が那覇より低い。そういえば、離島の久米島、渡嘉敷島も、気温が那覇より1,2度は低い。なるほど、八重瀬町は寒いから、早く咲いたのだ。カンヒサクラの法則に合っている。005
 八重瀬城は、一名、富盛城(ともりぐすく)とも言った。約600年前に築かれたのではないかという。八重瀬按司(あじ)の居城だった(左)。按司は、豪族のような存在である。城址には、本殿跡などが残っている(右下)。004

053 城址をさらに上がると、思いがけなく組踊(くみうどぅい)の碑があった(左)。組踊は、歌三線、台詞、踊りの総合芸能である。ユネスコ無形文化遺産に 登録された。
 碑は「組踊身替忠女ゆかりの地」と彫られている。この組踊は、田里朝直の作品である。田里は、組踊を創作した玉城朝薫、政治犯で処刑された平敷屋朝敏の後に続く人で、この2人と合わせて「組踊御三家」と呼ばれている。
 なぜ、八重瀬町のこの場所が、ゆかりの地なのだろう。説明を書いた看板がちゃんと立っていた(右下)。
 組踊は、この地の八重瀬按司が、糸数按司に夜討ちをかけられ、亡くなる。その時逃れた若按司が、仇を討つというストーリーである。
 多分、伝説をもとに作られたのだろう。
 この組踊の脚本が、石垣島在住の伊舎堂氏所有の「組踊集」の中に入っていたという。1997年に、実に241年ぶりにこの組踊を再演することができたそうだ。

052 それで、ゆかりのこの地に、碑を建立したのだ。公園に来る前には、まったく予備知識がなかったので、思わぬ出会いであった。沖縄は、とにかく碑がとっても多いところだ。いまでも、いろんな碑を建てる取り組みがされている。
 ところで、この八重瀬嶽は、すぐ近くの与座岳とともに、南部一帯を見渡せる高地になっている。昔も城があったように、軍事上も重要な場所であった。
 沖縄戦では、首里の第32軍の司令部が、糸満市の摩文仁に撤退すると、北から南下してくる米軍に対して、八重瀬嶽・与座岳とつらなる高地は、「最後の防御線の緊要地」だったという。
002  日本軍の陣地があり、野戦病院があった。「白梅学徒看護隊之壕」の碑が立っている(右)。NHK沖縄でも紹介され、昨年一度、見に来たことがあった。野戦病院の壕は、巨石と樹木に囲まれた場所だった(左下)。
 白梅学徒隊は、沖縄県立第二高等女学校の女子学生によってつくられた。この八重瀬嶽が攻撃を受けると、解散命令が出て、砲弾が飛び交う戦場に投げ出された。ようやく糸満市国吉の壕に移ったが、多数の犠牲者を生んだ。国吉には「白梅之塔」があり、「自決之壕」と呼ばれる壕と碑がある。
 
                                                                      
003  八重瀬嶽の付近も、米軍の猛攻の前には、たちまち突破されていった。この付近でも、どれほどたくさんの犠牲者が出たことだろう。八重瀬嶽と与座岳は、いまはなんと自衛隊の基地がある。陸上自衛隊八重瀬分屯地、航空自衛隊与座分屯地である。那覇にある航空、陸上の自衛隊基地の分屯地とされている。巨大なアンテナが立っている。八重瀬嶽には、「対空火力の骨格部隊」がいるという。
 八重瀬嶽と公園は、いろんな顔があり、歴史があるのである。

 

2011年2月11日 (金)

沖縄で最古の富盛の石彫大獅子

 沖縄では、家を守るシーサーだけではなく、村の石獅子が各地にある。八重瀬町の富盛(ともり)の石彫大獅子は名高い。地図にも掲載さ048_2 れているほどだ。
  石彫大獅子は、坂道を登っていくと、勢理城(じりぐすく)という小高い場所にあった.(右は案内板)。039_2
 城(ぐすく)の名がついている(左)。かつて城があったのだろか。

 

 大獅子が見えてきた(右)。石獅子のそばに、なぜここに大獅子を造ったのか、その由来を記した碑文があった(左)。044

 県内各地にある村落祭祀上の目的でつくられた獅子のなかでも「最大最古のもの」だという。だから、県指定有形民俗文化財に指定されている。040
   
    大獅子は、火除け(火返し)として、いまから300年以上前の1689年に設置された。「フィーサン」(火山)といわれる八重瀬嶽に向かって立っているという(右下)。
 昔、富盛村では火災が多く、村人は困ったことが、琉球王府の史書『球陽』に書かれている。
 旧暦の10月1日、防火儀礼の行事として、この大獅子を拝んでいるという。
047 よくわからないのは、八重瀬嶽が「フィーサン」(火山)と呼ばれていることだ。このあたり、たいした山ではない。標高160㍍くらいの高地で、崖になっているが、とても噴火をした火山があったとは聞かない。そんな地形ではない。
 伝え聞くところによると、火災に悩まされた村人が、風水を見てもらった。すると八重瀬嶽には、火の性があるとのことで、そちらに向けて獅子を置くように、ということになった。それから火災は起きなくなったそうだ。なぜ「フィーサン」と呼ばれたのか、ようやく分かった。
 ところで、この付近も、沖縄戦では激しい戦闘が続いたところだ。なんと、この石獅子には、銃撃の弾痕がある。042_2

  実は、見た時には気付かなかった。後から、調べていて分かったので、弾痕をアップした写真はない。獅子の側面に小さな丸い穴が見えるのが弾痕である。
 この勢理城の石獅子のある高い場所は、広場のようになっている。なにか、御嶽(うたき、拝所)のような雰囲気がある(右下)。でも実際には、見渡したところ、この広場には拝所はない。
 眺めはとても良いところである(左下)。
 富盛は、青年会のエイサーでも知られる。大きな地域でもないだろうに、たくましい若者たちが、勇壮なエイサーを披露する。今年の夏も、どこかで富盛のエイサーに出会うだろう。楽しみである。

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2011年2月10日 (木)

沖縄自由民権運動の父、謝花昇の銅像を訪ねる

 沖縄で自由民権運動といえば、029 謝花昇(じゃばなのぼる)である。
 謝花のことを知ったのは、もう40年以上も前のことだ。林業関係の専門雑誌で、その業績を取り上げていた。当時は、復帰前であり、読んでもその意義がいまいちよく理解できていなかった。でも、記憶には残っていた。
 沖縄に移住してから、東風平に記念碑があることを知り、一度訪ねたいと思っていた。それが実現した。記念碑ではなく、立派な銅像があった(右)。東風平総合運動公園の中にある。
 謝花は、1865年に東風平(こちんだ)村の農家に生れた。現八重瀬町である。第1回県費留学生として上京し、帝国農科大学(現東大農学部)を卒業し、沖縄県の技師となった。
 当時の奈良原繁知事が進めていた杣山(藩有林、農民が共同で管理・利用していた)の開墾に住民が強く反対していた。開墾は、下級士族の救済を名目にしていたが、実際に許可されたのは、有力士族や本土からの寄留商人、上級役人らだった。謝花は、この開墾に反対し、知事と鋭く対立する。
 沖縄の実情を訴える場がないことを考え、ついに職を辞して、藩閥政治の打破と参政権獲得の運動に奔走する。政治団体の沖縄倶楽部を結成し、『沖縄時論』を発行して、奈良原知事を厳しく追及した。
 奈良原や知事と結びついた旧支配層は、反対運動を徹底して弾圧し、運動は行き詰まり、仲間も四散する。運動の再起をはかろうと本土に渡り、山口県に職を得て行こうとして、神戸駅で病に倒れた。帰郷して7年後の028 1908年、悲運の44歳の短い生涯を閉じた。
 左写真はその生涯を記した碑である。
 謝花らの運動は後に実り、参政権は謝花が没して4年後の1912年に実現した。といっても、本土から遅れること22年の後であった。
 謝花の先駆的な主張と行動は、県民からも高く評価され、なにより地元の誇りでもあり「義人」と称されている。
 戦前に昭和10年(1935)に銅像が建立されたが、第2次世界大戦に突き進むなか、国のため応召された。戦後になり、1964年に銅像再建期成会が結成され、現在の銅像が建立されたという。
 謝花の神戸駅での発病について「発狂」したとも言われる。大里康永氏は『沖縄の自由民権運動ーー先駆者謝花昇の思想と行動』で、「奈良原の暴政が彼を狂気せしめた」と表現している。
031  銅像を見ても、実に理知的な表情をしている(右)。東京で農科大学在学中は、中江兆民に師事し、木下尚江、幸徳秋水らとも交友があった(宮城栄昌著『沖縄の歴史』)というから、若くして進歩的な思想とも出会ったようだ。
 近代沖縄で、傑出した勇気ある知性と行動の人物の一人だと言えるだろう。038

  銅像が建っている足元の地面には、謝花の年譜が円盤に記されて埋め込まれている(左)。銅像の立つ場所への入り口には、立派なシーサーが左右に2頭配されて、銅像を守っている(下)。
 銅像を見るまでは、悲運の死を遂げた彼が、地元でどれほどの評価をされているのかが、よくわからなかった。でも、この銅像を見て、「沖縄自由民権運動の父」「義人」として、尊敬され、評価されていることがよく分かり、とてもうれしく思った。

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2011年2月 9日 (水)

真冬にひまわりが満開

 北中城村でひまわりが満開にな010 っているので、見てきた。毎年、見に行っている。つい数日前まで、沖縄も例年以上に寒かったので、少し開花が遅れ気味だった。でも20度を超す陽気が続き、ひまわりは見ごろだ。
 「ひまわりIN北中城」という実行委員会が、まつりを開いている。
 毎年、ひまわりは少しずつ増えている。昨年の30万本から今年は40万本に増えたという。008 昨年より、少し背丈が低い感じだ。

 でも大輪の花には、ミツバチが来ていた。見えにくいかもしれない、アップしてみた(右)。
 那覇市内は、カンヒサクラが満開だ。コスモスが咲いている所もある。ひまわりも桜もコスモスも、同じ時期に咲くのが沖縄である。季節がチャンプルーという人もいる。まあ、冬といっても、沖縄の冬の気温は、大和でいえば、晩秋か春くらいなので、秋の花、春の花がいっしょに咲いても珍しくない。ひまわりも夏の花といわれるけれど、県内各地で、いろんな時期に咲く。沖縄のひまわりは、いったいいつがベストシーズンなのだろう。よくわからない。
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今年は、初めてひまわり畑で結婚式を挙げた人がいる。畑の中に式のスペースやバージンロードをつくり挙式した。その様子はテレビの報道でも見た。でも、ひまわり畑の中に、そのためのスペースをつくるのは、花を観賞する立場からすれば、あまりいただけない。
 といっても、平日でもかなり人が見に来027 て、盛んにカメラで撮っていた。ちょうど、幼稚園の園児も先生に連れられてやってきた。
 子どもたちもみんなひまわり畑に入って大喜び。先生が子どもたちにポーズをさせて、写真を撮っていた(右)。
 地元の農産物、特産物を売る売店も設けられていた。ひまわりも花の束を売っている。休016 日ならもっとにぎわうだろう(左)。

畑を歩いていると、かわいい犬に出合った。なんと、お父さんの懐から、犬が顔だけのぞかせている。あまりに可愛いので、1枚写真を撮らせてもらった。ちゃんと、顔を出してくれた。023

2011年2月 8日 (火)

沖縄はいまも「アメリカ世」か?

 沖縄民謡の大御所だった嘉手苅林昌の歌に「時代の流れ」がある。沖縄の時代の変化を見事にとらえた曲である。琉球王国が中国皇帝に朝貢して、臣従していた時代、薩摩に侵略されて、大和・薩摩の支配を受けた時代、廃藩置県の後は、日本の統治下に組み入れられた。さらに沖縄戦の後は、アメリカ統治にさらされ、1972年ようやく、日本に復帰した。
 小さな島国の琉球は、支配者がたびたび入れ替わった歴史がある。それぞれ時代の特徴を「○○世(ゆー)」というように表現する。
 「時代の流れ」は、次のように歌う。
 「♪唐の世から 大和の世 大和の世から アメリカ世 ひるまさ変たる 此ぬ沖縄(うちなー)」。「♪中国の世から大和の世、大和の世からアメリカ世 不思議に変わったこの沖縄」という意味だ。歌は、この後、沖縄の社会と風俗が様変わりした様子を巧みに歌い込んでいる。ただし、復帰前に作られたので、「アメリカ世から大和の世」はまだ歌われていない。
この後に「大和の世」が付け加えればよいのだろう。
 といっても、ことはそう単純ではない。いまの沖縄は、まだ「アメリカ世」が続いているのではないかと錯覚するような現実があるからだ。復帰によって、形だけは「大和の世」になったのに、日本の政府は、アメリカに弱腰過ぎるからだ。046
 米軍は沖縄をどのように見ているのか。「軍は島全部を基地だと思っている」という(「琉球新報」2月6日付)。これは復帰前に、海軍高官に会った米国防総省次官補代理が受けた印象だ。「島全部を基地」という米軍の認識は、現在でも続いているのではないか。
 それは、あまりにも沖縄の空も海も陸を勝手放題に使っているからである。
 空軍嘉手納基地など、深夜・未明・早朝の飛行は規制されているはずだが、自由に飛び回る。普天間基地では、市の要望を無視して、平気で住宅、学校、病院の上空を低空で飛行する。海での訓練は訓練区域が決まっているのに、区域外で勝手に訓練する。陸上も先の日米共同統合訓練では、パトリオット・ミサイルを公道を使って移動訓練していた。
          写真は、昨年の普天間飛行場の早期閉鎖・撤去を求める県民大会。
 みずから「危険な基地」と認める普天間基地の返還を約束しながら、辺野古に新基地建設をしなければ、動こうとしない。これらは「島全部が基地」という感覚そのものである。
 問題は、沖縄県民の命を危険にさらし、暮らしをぶち壊すような米軍の横暴に対して厳しく抗議しても、日本政府がまったく応えようとする姿勢がないことだ。外務省、防衛省にしても、自治体や県民の代表が要請にいっても、もう米軍の代弁者のような態度しか見せない。
 「琉球新報」2月8日付社説は、区域外訓練を容認する政府見解が閣議決定されたことに対し「無原則極まる米追随だ」と批判した。とくに、「民主党政権下で、自公政権でも見られなかった対米追随と軍事優先が色濃くなっていることに強い危惧を抱く」と断じている。
 これは多くの県民がいま抱いている思いをストレートに代表しているだろう。
 これ以上、付け加えることはない。「沖縄はいまでもアメリカ世ねー」といいたい。

 

2011年2月 7日 (月)

名護城の桜を見る

 北部の桜の名所の一つ、名護市の名護050 城(なんぐすく)の桜を見に行った。少し盛りを過ぎかけたくらいだ。でもとても人が多い。
 ここは、長い石段の両脇が桜並木になっている。樹齢も古く、大きな桜だ。2万本あるといわれる。
 ここは、今から600年ほど前の14世紀のはじめころ、名護按司(領主)が山上に城を構えたという。約200年後に、尚真王の時代に、中央集権によって、名護按司も首里に移った。この地に住む住民は、この城址に氏神を祀ったという。
 昭和3年に、神殿と拝殿を改築した記念に、城青年団が参道沿いに桜を植えたそうだ。由来を書いた碑があった(右)。だからもう80年以上の樹齢である。052

 長い長い石段を登らなければいけない(左)。元気な人はよいが、お年寄りや障害を持った人には、無理だ。車も上がるが、参道沿いに桜があるので、車で上がるとよく見えない。それに、この日は車は通行止めになっていた。石段を上がるしかない。
 名護城跡といっても、ここは沖縄の城跡にはつきものの石垣がない。不思議だ。だから、城跡らしい風景はない。参道には、石の灯篭も並ぶ。いかにも神社の参道である。

 人が多いので、立ち止まって写真を撮ろうとすると、人波の渋滞が起きるほどだ(左)。

055  桜はとても見事だ。木が大きいので見ごたえがある。色も鮮やかである。
 北部の桜の名所といえば、八重岳と今帰仁城跡が名高い。八重岳は、桜は多いが、道路の両側に植えられていて、車で通りながらみるので、あまりゆっくり散策することにはならない。
 今帰仁城跡は、惜しむらくは桜の本数が少ない。戦後植えたので、木も小さい。城跡は、石垣が見事であり、門から入って本殿のある場所に上る道に植えられているから、城跡と桜の取り合わせがいいが、桜そのものは見ごたえがない。
 その点は、名護城の桜は、見事である。難点は、石段の長さだろう。063

 かなり登ると、道路に出る。鳥居がある。とりあえず、今回はここまでとした。上からの桜の眺めがもっとも美しい(左)。
 なぜか、この日はアメリカーがとっても多かった。家族連れだ。辺野古のキャンプ・シュワブや金武町のキャンプ・ハンセンからは近い。休日で桜見物に来たのだろう。その数は半端でない(右)。057

 

 

 八重岳ではあまり見かけなかったけれど、なぜ名護城は多いのだろうか。基地から近いし、石段の桜で雰囲気があるし、ちょうど満開だから、やってきたのだろうか。

 この土日は、一方で、飲酒した米兵が住居に侵入したり、酒気帯び運転など、沖縄市と宜野湾市で5日未明に3件の事件事故が起きている。6日には、北谷の基地外の民間アパートに住む米空軍嘉手納基地の米兵が殺害されるぶっそうな事件も起きている。事件のあったアパートは、中日がキャンプしている野球場からも近い場所。住民は不安を感じている。まあ、家族で桜を見るのはいいが、飲酒による事件事故や物騒な事件は、根絶してほしい。

2011年2月 6日 (日)

宜野座・阪神キャンプは関西弁が飛び交う

 宜野座村の阪神040 キャンプを初めて見てきた。人気球団で休日だから人多し。他の球団と違うところは、関西弁がやたら飛び交うところ。他球団の観客は、県内からが多いが、阪神は別だ。いかにも、024 「熱狂トラキチ」のスタイルの人が目につく。関西からファンがキャンプを見に、たくさん来ている。
 タイガーマスクも登場(左)。なにやらキャンプガイドを熱心に見ている。
 「勝っても負けても虎命」のTシャツすがたのおっさんもいる(左下)。022_2 この週末は、晴れ上がり、もう暑いほど。だからTシャツで「ちょどええ」という感じだ。
 タイガースグッズの売り場も大賑わい。015 そばには、虎の等身大のハリボテ(?、左下)があるし、虎模様のフォルクスワーゲン018 も置かれている(右下)。この車、実際に町中を走っているのだろうか。疑問である。                     

017                                 

 さて、肝心の選手はなかなか現れない。午前10時を大分過ぎてようやく現れた。すこし、のんびりし過ぎで027 はないか。中日のキャンプはとてもハードで知られている。
 ようやくランニングが始まった(左)。この好天気で暑いくらいなのに、半分以上、ウィンドブレーカーを着ている。背番号が分からないと、選手名も分からない。
 ベースランニングに移った。さすがに、金本選手は、ランニングでも気を抜かない(下)中央で走っているのが金本である。なかには、全力疾走しない選手も見かけられる。029
 

                   

                                                                                                                        

030_2 近くの人の目がグラウンドではなく、後ろにいっせいに向けたので、振り向いてみると、なんと、阪神で俊足好打でならした赤星元選手ではないか。フリーアナウンサーの宮根誠司のインタビューを受けていた。引退しても、赤星の注目度は抜群である(左)。
 グラウンドでは、面白い光景を目にした。というのは、真弓監督が見守っていたけれど、手にはグローブとボールを持っている。選手ではないのに、グローブを持つのは、奇妙だ。
 ランニングが一通り終わると、突如、監督は、1塁側ベンチの上の壁に向かって、一人キャッチボールをやりだした(右下)。036 なんのためか?
 すぐ上のスタンドは、カメラマン席で、カメラがズラッと並んでいたので、サービスのためだったのだろうか。
 投手陣の練習場の方に行ってみた。選手が、サブグラウンドにやってくるので、ファンがサインをお願いできるチャンスと待ち構えている。045

 ちょうどそこへ、いまや日本を代表する抑えのエース・藤川球児が通りかかった(左)。阪神で一番見たい選手といえば、藤川なので、ラッキーだった。子どもたちが、色紙を持って何人も追いかけてきていた。
 ただ、軽い遠投くらいしか見れなかったのは残念。
 阪神キャンプといえば、球場前にあるパーラーぎのざが有名(左下)。何といっても、メニューが笑える。人気選手にあやかった料理がいろいろある。想像もできないようなメニューである(右下)。048
 「球児快速球ー食べ物なので投げないで」「アニキの鉄人バット」「マートンさん、待っとん丼」という具合である。昨年は、阪神は最後に競り負けた。要因はいくつかある。どれだけ、戦力をアップさせられたのか。キャンプの真価が問われる。阪神は17日で沖縄を切り上げて、高知の安芸に向かう。健闘を祈るしかない。

043

                  

2011年2月 5日 (土)

花と食のフェスティバルを味わう

 003 恒例の「おきなわ花と食のフェスティバル」が那覇市奧武山(おうのやま)公園で開かれたので、出掛けた(左)。晴れ上がり、汗ばむほどだ。
 農林漁業の産物が県内の各地から集まり、文字通り地産地消のイベントである。
 最初に目についたのが、海ぶどうだ。商品化されているのは、いつも目にするが、養殖している様子を見たのは、これがはじめてだった。006 右写真がそれである。めったに見れないものだ。

 サメを使ったサメハンバーガーなるものも初めて見た(左下)。「さあー、サメを使ったハンバーガーですよ」と盛んに売りこむが、サメと聞いても、反応はいまいちのようだ。009

 我らも、当然食べる気が起きなかった。でも、サメよりフカは昔、さし身でよく食べたことがある。ぬた味噌で食べると美味しい。

 

 祭りといえばなんといっても、サトウキビによる黒糖作りの実演だ。いまサトウキビを刈り取る「ウージトーシ」のシーズンだ。刈り取って、製糖工場に搬入する。
 黒糖づくりは、昔から沖縄の各地で、みんな力を合わせて行ってきたので、手慣れたものだ。015 まず016サトウキビを機械に入れて搾る(左下)。

 

  

搾った汁を大きな鍋で煮詰めていく(右上)。017 一番奥の鍋はもう、煮詰まってきている。かき回す(左下)。これを取り出して固めると、黒糖の出来上がり。試食のために、ドンと出している(右下)。通りかかる人は、みんな黒糖をつまんで食べていく。私も大きな固まりを二つの口に入れた。「まーさん」(美味しい)。019 

 農林高校も、北部、中部、南部の各高校と農業大学校が出店していた。020 023

 左は南部農林、右は農業大学校。沖縄の農学校は、野菜や花卉、肉類の販売にとても熱心だ。北部農林など、独自に「チャーグー」という豚の品種を開発し、豚肉ブランドとして道の駅でも常025_2 時売っている。
肉といえば「まーさん市場」(左)。県内の和牛、あぐーなど豚、鶏、それに今回は山羊まで、美味しそうな肉が集まっている。山羊肉を売るおじさんに「前に山羊のさし身を居酒屋で食べたらとっても固くて食べられなかった。それ以来トラウマになっているんですけれど」と言うと、「それは、歳とった山羊に肉だったんだろう。若い山羊は固くなくて美味しいよ。これ、臭みもとってあるから」と話していた。結局、山羊は焼いたのを試食することにした。柔らかくて美味しかったけれど、なんかラム肉に近い感じだった。
 すでに、海の幸から、お菓子、黒糖、お餅、かまぼこまで、試食三昧をしてきたが、この「まーさん市場」こそ、本命。片端から食べ回った。もう試食でお腹が満杯になるほどだ。これも「花と食のフェスティバル」の醍醐味なのである。
 055 祭りといえば、芸能は欠かせない。子どもたちがエイサーを勇壮に踊る。獅子舞も登場した。獅子も歌と踊りに聞き入っている様子だった。004
   最後に、おまけは大道芸。何組か次々と芸を披露していた。後ろでは、TTP(環太平洋連携協定)反対の署名を訴えていた。大道芸は署名に協力してやっているのかな?関係はなさそうだ。
 TTPに参加すると、この日出店しているサトウキビから肉類まで、沖縄の基幹産業が大打撃を受ける。県議会でも反対決議をしている。「参加するな」というのは、県民大多数の声である。

2011年2月 4日 (金)

海人の街・糸満の旧正月風景、その2

 糸満の海人(うみんちゅ)たちの守り神として、有名な白銀堂には、2117 月3日、旧正月の朝からたくさんの参拝者が訪れていた。漁師たちはじめ地元の人々は、航海の安全と豊漁、家内安全を祈願する。
 この場所は、巨大な岩があり、いかにも由緒ある御嶽(うたき、拝所)の雰囲気がある。お堂の中は、自然石の石筍が神として祀られている。115かつては、ノロ(神女)がいたそうだが、いまは誰もいない。家族連れでみんな、来ているが、ひざまずいて、御願(うがん)をする。なかには、正座して御願する姿も見られた。

 このお堂だけでなく、敷地121 の中には、5か所ほど、小さな拝所があり、それぞれに御願をして回る(左)。124_3

 みんな、ビンシーという、祭祀用具を入れた木箱をもってきている(右下)。お酒と杯、花米(はなぐみ)など入っている。線香を何本も集めた平香(ひらこう)という沖縄の線香に火を付け、その後泡盛をかけていた。だから、白銀堂の敷地内は、とても泡盛の香りが漂っていた。

 白銀堂には、とっても有名な由来がある。
 その昔、糸満村の118 マンクーとい漁師が、漁に出ていて大波にのまれて漁具をすべて失った。そのため薩摩の児玉左衛門という武士にお金を借りた。でもお金を返したいが期限がきても返せない。武士は怒って刀を振り上げた。マンクーは、お金は必ず返します。年寄りから聞いた言葉に「意地ぬ出らあ手引き 手ぬ出らあ意地ひき」ということがあります、と伝えた。これは「短気を起こしたら手を引きなさい、手が出ようとしたら心をしずめなさい」という意味のことわざである。
 それを聞いた薩摩の武士は、今回は勘弁しようと言って、薩摩に帰った。
 帰ってみると、家の玄関に男物の履物がある。部屋に入ると、妻が男と寝ていた。武士は思わず刀を振り上げた。その時、マンクーの言葉を思い出した。よく見ると、寝ていたのは男物の着物を着た母親だった。夫がいないので用心のために、そうしていたのだった。
 翌年、武士が糸満に来ると、マンクーはお金を返そうとしたが、マンクーのお陰で妻を死なせずにすんだので、武士はお金を受け取らなかった。
 マンクーは、お金を洞窟に埋め、その前にお堂を建て、海上の平安と村の繁栄を祈ることにした。人々はその洞窟を拝むようになり、白銀堂と呼ぶようになった。そんな伝説がある。
 このことわざを記した碑が建っていた127 (右上)。
 今回、初めて発見しものがある。白銀堂の敷地をもう一歩、奥に入ると、お墓のようなものがあることに気がついた。
「根人腹門中二代目 故糸満馬子之墓」と刻まれている。「根人」(ニーチュ)とはムラの草分けの家「根家」(ニーヤ)の当主。「腹」と「門中」(ムンチュウ)は、父系の血縁集団のことである。その二代目だという。
 糸満馬子(イチマン・マンクゥー)とは何者か。説明する物は何もなかった。馬子とは、恐らく先に紹介した漁師・マンクーのことだろう。白銀堂を建てたという由来からして、ここにマンクー(馬子)のお墓を建てたのだろう。とすれば、白銀堂にくれば、かならず見るべきお墓だった。
 このことわざは、沖縄のことわざのなかでも、とっても有名なものの一つだろう。いまでも、人々の暮らしの中に生きている格言である。 

2011年2月 3日 (木)

海人の街・糸満の旧正月風景、その1

 2月3日は節分だが、沖縄は旧正月である。といっても、旧正月でやっているところは、いまは少なくなっている。糸満など漁師の街は旧正月が生きている。那覇など新正月でやっているところでも、「親が山原の出身だから、旧正月もやらなければいけない。なぜ2回正月をやらなければいけないのかねー。もっと簡素化できないのかねー」と嘆く主婦の声もある。
 また、中国から旧正月を楽しむため、沖縄に来てる観光客もいて、ホテルでは今朝も正月の祝いの料理を出したというところもある。まだ、いろんな旧正月風景がある。

132  さて、旧正月気分を味わうため糸満市に出かけた。漁師は朝早くから、港の漁船に大漁旗をたくさん飾りつけて、正月を祝っていた。
朝飾るため、大晦日にあたる昨夜、「トゥシンユールー」は、あまりお酒も飲まずに備えたとも聞く。

 糸満漁港のU字型の岸壁には、船がたくさん係留され、それぞれ旗が風になびいている。なかには、高く10枚近くも飾った船もある。朝のうちは、青空も見えて、青い空と海に、船と鮮やかな大漁旗が映える。
137

  糸満ならではの旧正月風景をカメラで撮りに来た人も何人もいるし、テレビの取材でも盛んに映像に収めていた。
 旧正月の漁港を見るのは初めただ。
 漁港の前は、昔からのマチグヮー(中央市場)である。市場でなければ買えない正月用品もある。旧正月の買い物は、昨日までにすませ、正月はてっきり休んでいると思ったら、かなり営業していた。当日買いに来る人もいる。

 糸満といえばかまぼこが有名である。なかでも西南門小(にしへーじょうぐゎー)かまぼこは、一番人気だ。かまぼこ屋が並んでいた。途切れなく客が来て、大きなかまぼこだが、赤白2本を買っていた(右下)。144

139  

お餅も売っているが、赤い餅が並ぶ(左)。
 「ええ、これは旧正月用ですね」と店主。

 

142 140色鮮やかな落雁もあるが、とてもデカイ(右下)。こんな大きいのは、沖縄でも見たことがなかった。小さい方が先に売れ、デカイのが、まだ多く残っていた。連れ合いが聞いてみると、「大きいのが残っているから、値段は小さいのと同じでいいよ」と言っていたという。豆ヨーカンなるものも、売っていたが、羊羹といっても、これもデカイ。糸満は、なんでもデカイのが好きなのだろうか。地元の人たちは、家族が多いので、みんなで食べるのには、大きいのがいいということだろう。145
 正月飾りとして、松の小枝と竹の笹を売っていた(右)。おじさんたちがよく買っていた。正月に笹を飾るのはあまり聞かない。「糸満では飾りに、笹を使うんですよ。那覇では笹は使わないでしょう」と売っていた女性は言う。港の船にも、松の小枝を飾っていたのを見た。松、竹(笹)はめでたい、ということだろう。 141
 

 花屋さんにも、お客がよく訪れていた。豪華な生け花も並べられていた(左)。糸満では、那覇の市場のような「炭と昆布」なんかは売っていない。そういう習慣はないのであろうか。同じ沖縄でも、ところ変われば、習慣にも違いがあるのだろう。
 糸満の旧正月といえば、漁人(うみんちゅ)の守り神である白銀堂が名高い。長くなったのでそちらは、次にしましょうね。

2011年2月 2日 (水)

米軍キャンプの経済効果はいま

 前に書いたように、沖縄のキャンプといっても、野球だけではない。米軍は戦後、65年以上、広大な県土を占領してキャンプ(基地)としている。キャンプ・ハンセン、キャンプ・シュワブ、キャンプ・キンザー、キャンプ・フォスターなどなど。
 かつては、「沖縄は基地がないと食べていけない」と思われていた。でも、いまやそれは「神話」に過ぎない。おりしも「琉球新報」では「ひずみの構造ー基地と沖縄経済」の連載を始めた。第1部が「依存神話」である。
 米軍基地は、デーンと居座ったままだが、それでも在沖米軍人はかなり減少している。最高時の1972年には3万9350人いたのが、2007年で2万2720人に減った。軍関係者・家族もそれに伴って減っている。Photo
 基地で雇用される従業員も、1972年に1万9890人いたのが、2006年で8928人と半分以下に減少した。当然のこととして、県民総所得に占める軍雇用者の所得の割合も、1972年に4・8%だったのが、2006年には1・3%に過ぎないという(福地行政書士事務所)。
 こうしたもとで、基地収入は、日本への復帰前は県民総所得の15・5%を占めていたが、年々低下を続け、2008年は、わずか5・27%にとどまっているという(「琉球新報」連載)。
 米軍基地は、住民の暮らしと安全の脅威だけでなく、経済効果の面でも、返還して、商業・サービス施設などに活用した方が大きな経済効果があることが、すでに実証されている。
 右は嘉数高台から見た米軍普天間基地。

Photo_2  かつて、米軍の射撃訓練場と飛行場があった北谷町の美浜、ハンビー地区は、いまや若者らでとてもにぎわう街になった。
 両地区の返還前の基地関連収入は、年間わずか3億3千万円だった。それが、返還後の商業の店舗、サービス産業の売上高や施設の建設投資など合わせて、直接効果は573億円にのぼる。なんと返還前の174倍にもなるのだ。
 それだけではない。雇用者数のまるっきり違う。ハンビーは、返還時の基地従業員は約100人にすぎなかった。それが、返還後の1999年時点の就業者数は、9600人を超える。100倍近くも増えたことになる。
左は北谷の観覧車からみた米軍住宅。

 米兵と家族らが買い物をする消費でも、昔のように、基地の外で買い物をする必要があまりなくなってきているという。それはなぜか。基地の中に、商業施設が造られているからだ。
 米空軍嘉手納基地では、昨年10月、空軍基地では、世界で2番目の規模のショッピングモールができた。軍人の福利厚生のため、一般商業施設よりも安く売られているという(「琉球新報」連載から)。円高だから、基地内でドルで買う方がなおさらお得となる。
 もし沖縄の米軍基地をすべて返還すれば、どんな経済効果があるのだろうか? 昨年県議会事務局が試算結果を発表した。
 生産誘発額は、現在基地がもたらしている金額4206億円余から、9185億円余へ2・2倍に増える。基地の雇用者の年間所得額は、現在の1154億円余から2409億円余へと2・7倍に増える。
 それだけではなく、基地があるために得られない逸失利益は年間4998億円にものぼる。その上、日本が支払う義務のない米軍駐留にともなう「思いやり予算」は、毎年2000億円前後にのぼる。これも基地ある故の膨大な損失である。
 書きだすと、まだまだたくさんの問題があるが、長いのでもうやめておきたい。いずれにしても、米軍には、もうお引き取りを願えば、沖縄には明るい未来があることだけは確かである。

 

2011年2月 1日 (火)

キャンプの経済効果が倍増

 沖縄でのプロ野球キャンプが、2月1日からはじまった。話題満載の今年は、観光客がそうとう増えて、経済効果が、101億円にのぼるという。りゅうぎん総合研究所の試算である。昨年の2倍になる。先日も書いたように、巨人が初めて来ることや、日ハムに斎藤佑樹が入団したことなどで、人気を呼んでいる。巨人効果が約20億円、斎藤効果が約15億円というから、「巨人・斎藤さまさま」である。
 沖縄観光も伸び悩んでいたので、観光が最大の産業である沖縄にとっては、大歓迎である。もうすでに、県民あげての歓迎ムードである。
 1月30日には、千葉ロッテが一足早く石垣島に入り、市内で優勝パレードをした。なんと、竹富島の水牛車も登場して、約800mパレードした。沿道には25000人が詰めかけたという。石垣市の人口は約49000人なので、市民の半分が詰めかけたことになる。ロッテを島をあげて歓迎していることがここにも表れている。
 とかく、巨人、斎藤に話題が集中しているが、星野仙一新監督になった楽天は、久米島空港に1000人を超える人が歓迎に集まったという。斎藤の那覇空港到着に負けない歓迎であったそうだ。
 1日は、名護市の日ハムのキャンプには、北海道からも来ていて、中には「1ヶ月間マンションを借りて名護にいます」という熱烈ファンもいて驚いた。斎藤君にあやかったグッズ、あやかり商品の売れ行きも好調で、「ハンカチ王子」にあやかり、桜をあしらったハンカチは、1人2枚とか制限するほどだったという。
 県民の心配はただ一つ。この時期の沖縄は、天候がいまいちである。晴れの日は少ない。曇りか雨がときおり降る。だから雨天練習場が完備していないと、キャンプはできない。それでも、雨天の日が多いと、県民は「球団に申し訳ない」とみんなが心を痛める。だから、わがことのように、天候がよいことを祈っているのである。幸い、キャンプインとともに、気温も上がり、週末からは天候もよいので、みんなホッとしている。
 「さあ、キャンプ回りに行こう」「佑樹君を一目見たい」。こんな声が県民の間でわき上がっている。この土日は大変な混雑になるだろう。
 ところで、キャンプの経済効果といえば、沖縄ではもう一つのキャンプがある。そう、米軍キャンプ(基地)の経済効果のことである。かつては、沖縄経済は基地に依存しているといわれたが、いまは様変わりである。もう長いので、これはまた別の機会に書きましょうね。

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