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2011年2月12日 (土)

八重瀬城ゆかりの組踊があった

 八重瀬町富盛(ともり)の石彫大獅子の近くに、八重瀬嶽があり、八重瀬公園があ050 る。昔は、八重瀬城(ぐすく)があった。八重瀬公園は、桜の名所でもある(右)。
 桜を見ようと思って行くと、すでに大分葉桜になっていた。沖縄の桜前線は、寒い北から南に南下するので、那覇市は満開である。那覇よりはるかに南の八重瀬町がもう葉桜とは、とても不思議だった。
 でもでも、連れ合いの一言で、納得した。「那覇より寒いんじゃないの」。そうなんだ。沖縄本島の南部、南城市や八重瀬町あたりは、海に面して潮風の影響が強いのか、いつも気温が那覇より低い。そういえば、離島の久米島、渡嘉敷島も、気温が那覇より1,2度は低い。なるほど、八重瀬町は寒いから、早く咲いたのだ。カンヒサクラの法則に合っている。005
 八重瀬城は、一名、富盛城(ともりぐすく)とも言った。約600年前に築かれたのではないかという。八重瀬按司(あじ)の居城だった(左)。按司は、豪族のような存在である。城址には、本殿跡などが残っている(右下)。004

053 城址をさらに上がると、思いがけなく組踊(くみうどぅい)の碑があった(左)。組踊は、歌三線、台詞、踊りの総合芸能である。ユネスコ無形文化遺産に 登録された。
 碑は「組踊身替忠女ゆかりの地」と彫られている。この組踊は、田里朝直の作品である。田里は、組踊を創作した玉城朝薫、政治犯で処刑された平敷屋朝敏の後に続く人で、この2人と合わせて「組踊御三家」と呼ばれている。
 なぜ、八重瀬町のこの場所が、ゆかりの地なのだろう。説明を書いた看板がちゃんと立っていた(右下)。
 組踊は、この地の八重瀬按司が、糸数按司に夜討ちをかけられ、亡くなる。その時逃れた若按司が、仇を討つというストーリーである。
 多分、伝説をもとに作られたのだろう。
 この組踊の脚本が、石垣島在住の伊舎堂氏所有の「組踊集」の中に入っていたという。1997年に、実に241年ぶりにこの組踊を再演することができたそうだ。

052 それで、ゆかりのこの地に、碑を建立したのだ。公園に来る前には、まったく予備知識がなかったので、思わぬ出会いであった。沖縄は、とにかく碑がとっても多いところだ。いまでも、いろんな碑を建てる取り組みがされている。
 ところで、この八重瀬嶽は、すぐ近くの与座岳とともに、南部一帯を見渡せる高地になっている。昔も城があったように、軍事上も重要な場所であった。
 沖縄戦では、首里の第32軍の司令部が、糸満市の摩文仁に撤退すると、北から南下してくる米軍に対して、八重瀬嶽・与座岳とつらなる高地は、「最後の防御線の緊要地」だったという。
002  日本軍の陣地があり、野戦病院があった。「白梅学徒看護隊之壕」の碑が立っている(右)。NHK沖縄でも紹介され、昨年一度、見に来たことがあった。野戦病院の壕は、巨石と樹木に囲まれた場所だった(左下)。
 白梅学徒隊は、沖縄県立第二高等女学校の女子学生によってつくられた。この八重瀬嶽が攻撃を受けると、解散命令が出て、砲弾が飛び交う戦場に投げ出された。ようやく糸満市国吉の壕に移ったが、多数の犠牲者を生んだ。国吉には「白梅之塔」があり、「自決之壕」と呼ばれる壕と碑がある。
 
                                                                      
003  八重瀬嶽の付近も、米軍の猛攻の前には、たちまち突破されていった。この付近でも、どれほどたくさんの犠牲者が出たことだろう。八重瀬嶽と与座岳は、いまはなんと自衛隊の基地がある。陸上自衛隊八重瀬分屯地、航空自衛隊与座分屯地である。那覇にある航空、陸上の自衛隊基地の分屯地とされている。巨大なアンテナが立っている。八重瀬嶽には、「対空火力の骨格部隊」がいるという。
 八重瀬嶽と公園は、いろんな顔があり、歴史があるのである。

 

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コメント

富盛の石獅子から始まって、八重瀬嶽の桜、組踊の碑、野戦病院壕、自衛隊基地と、話はどんどん発展していきますね。組踊の碑は誰が建立したんですかね。随分立派でしたけど。ストーリーを読みましたけど長すぎて途中で断念。要するに仇討の話ですか。野戦病院壕はあんなに狭い場所に何千人と負傷兵がかつぎこまれたんでしょう。白梅の方の証言聞いたとき、とても胸がつまりました。沖縄戦の犠牲になっていった人たちにウートートー。

 話が次々、飛ぶのは、私の観念の産物ではなく、八重瀬公園が歴史的にいろんな要素が刻まれている場所だからです。沖縄戦のとき、八重瀬嶽の麓に軍が陣取っていたそうで、その配置を見て、山の頂上の方が手薄だと注意した八原参謀が指摘したそうだけど、山頂部は水がないから配置できなかったそうです。それにしても、あそこで看護にあたった白梅に人たちには、胸をうたれますね。

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