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2011年3月

2011年3月31日 (木)

那覇・小禄の拝所を巡る、その1

 那覇空港から近い小禄(オロク)地域は、琉球王府の時代からの古い拝所がたくさんある。車で通り過ぎると見えないが、歩いて回ると、昔からの風景が残る地域だ。森口公園から歩いて回った。010
 小禄は、琉球王府時代の1673年、いまから338年前、真和志間切(マワシマギリ)と豊見城(トミグスク)間切から11村を割いて新たに小禄間切をつくったそうだ。間切はいまの町村にあたる。1954年に那覇市に合併されるまでは、小禄村だった。
 中でも森口公園の周辺は、字小禄にあたる由緒ある所である。公園の一番高いところに上がると、広場に出たが、なんと、そこはやたら拝所がたくさんあった。
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 多いのは門中(ムンチュウ)の拝所だ。門中とは、男系の血縁集団だ。「東門(アガリジョウ)門中」、「沢岻(タクシ)門中」などの小さい拝所が点在している。草に少し埋もれているのもある。

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 「参拝される皆さんへ」という掲示がされていた。「線香などに火をつけないで拝みましょう」と呼びかけている005 。沖縄の線香である平香に火がついたままでは危ないからだろう。「など」というのは、沖縄では「あの世の通貨」とされる「ウチカビ」をお墓で燃やす習慣があるからそれを指しているのだろう。
 面白い名前の拝所があった。「思い門中」という。006 なぜ「思い」なのかよくわからない。

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 祠の横に奇妙な石があった。「殿」とだけ書かれている。見た時は何を意味するのか分からなかった。あとから小禄自治会で資料をもらってやっと分かった。「殿(トゥン)」とは、小禄の嶽(ウタキ)のおまつりをする場所を指す。ここから先は、神女のノロと3,4人の神人(カミンチュ)しか入れなかった。今でも、毎年5月ウマチー、6月ウマチーが行われる。ウマチーとは稲や麦の豊作を願う祀りである。この「殿」には、神様を迎えて祀りをするにしては、なぜか神殿に当たる建物がない。でもそれがここの「殿」の特徴だ。それは古い形態が残っているのだという。何も予備知識なしに尋ねた拝所のたくさんある広場は、祀りをおこなう神聖な場所だったのである。

008_2  「殿」から少し降りると、高い場所なのに、「クサイカー」という井戸がある。その下に降りると、またたくさんの拝所があった。
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 「ヒジュン」と呼ばれる。これは、作物を豊かにする神様で、村の拝所の一つになっている。4月には「クシユックイ」という祀りがあり、料理を詰めた重箱をお供えするという。013 

 小さな拝所は、草が絡まった古いものや真新しいものまで、いくつもある。
 この辺りは、高い場所にあるので、展望はとてもよい。007

 字小禄は、古い集落の形が残る地区なので、道はとても狭い。昔からの石畳の道も何か所も残っている。

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 石畳を降りて行くと、ノロ殿内(ドゥンチ)に出た。王府時代に、王府から任命された小禄間切小禄村のノロの屋敷跡だ。ノロは正式には「ノロクモイ」という神女のこと。ノロが管轄する1~3の村落のウマチー(祀り)など農耕儀礼をはじめとする村落祭祀の中心的な役割を果たした。021_3

 小禄のノロは、代々照屋家の女性から任命された。王府が任命するノロ制度は、1879年の沖縄県の設置により崩壊したが、小禄ノロ殿内のように、ノロが現在でも引き継がれて、村落の祭祀に携わっている地域もあるという。下が祭礼を行う神アシャギ。023  代々ノロが任命された照屋家は、屋号を「ノロ殿内」(ヌンドゥンチ)と言う。家の表札にもその通り記されていた。照屋家は、立派なお家だ。玄関左側の一角に神アシャギがある。

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 もうすぐ5月、6月ウマチーがある。きっとノロさんが祭礼を担うのだろう。
 すぐ前に小さな拝所があった。022 「ノロ火の神」を祀っている拝所があるというから、きっとこれだろう。なぜか可愛い猫が、拝所を守るかのように、寝そべっていた。

 拝所と関係ないが、このノロ殿内跡の上には、「字小禄ハワイ会館」がある。この地域の公民館だという。なぜ「ハワイ」なのだろうか。
 それは、明治の末頃、ハワイへの農業移民の許可がおりたとき、字小禄から約40名が移住した。沖縄戦で、祖国が壊滅状態になったと知り、復興を願ったハワイ在住の沖縄県人会のみなさんの救援金で、この建物が建てられたそうである(ネット「民宿コバルト荘」から)。
017  会館の中には、旗頭の先につける大きな飾りが置かれていた。青年会が頑張っているのだろう。019

2011年3月30日 (水)

サツマイモを普及させた恩人・儀間真常

 いまサツマイモと呼ばれる甘藷が、琉球に初めて渡って来たのは1605年のこと。嘉手納出身の野國総管(ノグニソウカン)が中国から持ち帰った。そのイモを普及させたのは、儀間真常(ギマシンジョウ)という人である。儀間は琉球の5人の偉人の一人に数えられる。儀間のお墓が、首里の御茶屋御殿(ウチャヤウドゥン)の近くにあり、初めて見ることができた。068
 儀間は、1557年に那覇港の近く、垣花(カキノハナ)で生れた。1593年に真和志間切(マワシマギリ)儀間村の地頭に任じられた。真和志は、私が住む地区である。間切は今の町村、村は字にあたる。その村の村長役になった。1624年には親方(ウェーカタ)についた。親方とは、相撲の親方とは違う。琉球王府の位階で、間切を領地としてもらえる高い地位だ。1644年に88歳で亡くなったというから、とても長生きした人だ。
 儀間は、野國総管が中国から持ち帰ったイモを分けてもらい、その栽培と普及に力を注いだという。イモが普及したおかげで、どれだけの人々が、飢餓から救われたことだろう。
 下の写真が儀間真常の墓だ。儀間は唐名(カラナ、中国式の名前)を麻平衡(マヘイコウ)という。琉球では、唐名と大和名の2つの名前があった。麻と名乗ったように、一門は麻氏であり、墓は「麻氏一門の神御墓」となっている。沖縄は個人墓ではない。だから一門の墓になっている。それにしても、こういう家のような墓は珍しい。

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 イモは、その後、薩摩が目をつけて持ち帰り、さらに青木昆陽によって全国に普及することになる。それは、100年以上の後もことである。儀間が野國総管からイモを分けてもらい、国中に普及させなかったら、薩摩と青木昆陽もイモを知らず、今日のサツマイモもなかったかもしれない。
 儀間は、また鹿児島から木綿の種子を持ち帰り、その栽培と木綿布の織り方を広めた。さらに、中国からサトウキビから砂糖を製造する技術を導入して、砂糖づくりを琉球中に広めたことでも知られる。この後、砂糖は沖縄の一大輸出品となっていった。

069_2 070 墓の両側に、儀間真常の業績など刻んだ石碑が建てられている。







 儀間は、甘藷を広めて沖縄の人々の命を救い、木綿織物を取り入れて衣服を与え、砂糖の製造法を広めて産業の発展に貢献したと評されている。「沖縄の産業の恩人」である。
 ただし、儀間は首里の出身ではないのに、なぜ首里に墓があるのだろうか? そこには沖縄戦とアメリカがからんでいる。
 もともと墓は、那覇市の住吉町にあった。しかし、戦後アメリカ軍の港湾施設として接収され、跡形もなく敷ならしされたため、1959年、この地に移転建立された。その後1993年に現在の立派な墓に建て替えられてという。もとの墓のあった場所は、現在も米軍が占有する那覇軍港である。儀間真常と一門の墓も、米軍基地の犠牲者だったのである。

 ここからは、ついでのおまけ。イモを中国から持ち帰った野國総管の銅像をアップしておきたい。020「道の駅かでな」の前の広場にある。左手にイモを持っている。当時、中国からイモは持ち出し厳禁だったので、命がけで持ち帰ったという。嘉手納のイモは「野國イモ」と呼ばれ、名産品になり、いろんな食べ物にも加工されている。「野國いもソフトクリーム」も売られている。

 野国総管とは、名前ではなく、野國村出身で、中国に渡る進貢船の事務長格の総管だったから、そう呼ばれている。彼の生れた野國の地は、今は米空軍嘉手納基地の中にある。それにしても、イモを普及させた功労者の野國総管も儀間真常014の二人とも、生れた地や墓のあった所が、いずれもいまは米軍基地の中とは、沖縄の姿がここにも表れている。

2011年3月29日 (火)

首里王府の別邸、御茶屋御殿跡を見る

 首里金城町の石畳道を歩いたことを前に書いた。この近くに首里王府の別邸だった御茶屋御殿(ウチャヤウドゥン)の跡がある。由緒ある場所であり、歩いてみた。
 首里崎山町の公園の一角に、大きな石造獅子がデーンと鎮座していた。059
 1677年に造られた王府の別邸、御茶屋御殿にあった石造りの獅子だ。とても大きく迫力がある。驚いたことに、この獅子は、前に見た八重瀬町富盛(トモリ)の石獅子と関係があるという。富盛の獅子は、火事が多かったため、「火の山」と見られた八重瀬嶽に向かって獅子が置かれていた。この首里の獅子も、火難をもたらすと考えられていた富盛の八重瀬嶽に向けられていたという。御殿を火災やその他災厄から守る獅子だった。
 この場所にもともとあったのではない。御茶屋御殿跡は、現在は首里カトリック教会の敷地となっており、もとはそこに置かれていた。でもがけ崩060 れの恐れがあり、いまの場所に移したという。

 すぐ近くに、雨乞御嶽(アマグイウタキ)がある。雨乞いの祈願をする御嶽(ウタキ、拝所)は、複数あるらしいが、ここはとても由緒あるところだ。
 なにしろ大干ばつに襲われたとき、国王みずからが神女を従えて、雨乞いの儀礼をおこなったという。
 057 低い石垣が円形にぐるっと築かれ、丸く囲んで区域が聖域とされ、石敷きの壇に香炉が設けられている。こんな円形の御嶽は見たことがない。珍しい。
 このあたりは、崖の上に位置し、眺望が素晴らしい。那覇市内から遠く慶良間諸島までよく見える。055_2  いよいよ御茶屋御殿だが、その前に、いったい御殿はどういうものだったのだろう。
 琉球は、中国の皇帝につかえるとともに、薩摩に侵攻されその支配下にあった。御殿は、薩摩の使者や中国から琉球国王の任命のためにやってくる冊封使(サッポウシ)をもてなすための別邸(離宮)である。
 1677年に、時の尚貞王が造営させた。また、国王が芸能奨励のため、家臣の茶の湯、立花、囲碁、音楽、舞踊、武芸を照覧されたところだという。首里城、識名御殿とともに、王朝文化の華を咲かせたところである。
 御殿があったあたりは、眺めがとてtもよいから別邸を造ったのではないだろうか。
001 左は昭和前期に田辺泰氏が撮影したという御殿だ。正面から見たもの。

 沖縄戦によって焼失、破壊され、もちろん今はない。しかも、戦後、首里カトリック教会がこの地を取得し、教会の敷地となっている。062だからまるで面影はない。

 教会の前まで歩いてきた。「さて、御殿跡は、この教会の敷地だと云うが、勝手に入っていいのかなあ」と立ち止まっている。ちょうどその時、そこにいたおじさんが声をかけてきた。「御茶屋御殿跡を見るのだったらこちらだよ」というと、何も返事もしない間に、もうすぐに先に立って案内をしてくれた。敷地に入るとすぐに「このあたりは沖縄戦で亡くなった方の死体がたくさんあったんだよ。その骨を埋めた場所だ。だから、だれもこの土地を欲しいという人がいない。それで教会066 が買ったんだよ」。
 由緒ある場所がなぜ教会の所有地となったのか、その理由を解説してくれた。首里城近くで王府にゆかりの史跡のある場所を、アメリカの教会が買い占有していることに、少し反発らしき感じを抱いていたが、おじさんの話を聞いて、なるほどと納得した。
 「ここが御殿の跡地にだよ」と案内してくれた場所には、標柱が立っていた。063_2 案内板もあった。

 すぐ側に、御殿の拝所があった。065
御殿跡の場所からの眺望には、意味があるという。石獅子のある場所からは、海がよく見えたが、御殿跡からは海ではなく、南部一帯の豊見城市、南風原町あたりがよく見える。
 おじさんが説明する。「このあたりからの眺めは海が見えず、昔は畑や田んぼが広く見えた。中国の冊封使なんかに、琉球は見渡す限り陸地で、海も見えないほど広いことを示したんだよ」。なるほど。
 そういえば首里王府のもう一つの別邸と庭園がある識名園(シキナエン)でも、同じような海が見えず、陸地が広がる眺望の場所がある。そこでも同じ説明を聞いたことがあるのを思い出した。冊封使は中国から船にのって来るから、琉球が島国であることは重々知っているのに、こざかしい知恵も使ったものだ。

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 首里の古地図をのせておきたい。分かりにく いが、一番下に突き出したような場所が、御茶屋御殿である。細かく仕切られているところは、士族の屋敷である。親方(ウェーカタ)や親雲上(ペーチン)をはじめ王府の高い位階の士族や「アムシラレ」という王府の高級神女の御殿などもある。
 首里城などは復元されたが、この御茶屋御殿は破壊されたままだ。御茶屋御殿の復元を求める声も強い。
 それにしても、おじさんが案内してくれなければ、とまどっただろう。おじさんのおかげで場所のすぐわかり感謝!感謝!である。

2011年3月28日 (月)

牧野清著『八重山の明和大津波』を読む

 石垣島に初めて行った日に、東日本大震災が起きた。それで、八重山を1771年に襲った明和の大津波の史実に改めて関心を持ち、牧野清著『八重山の明和大津波』を読んだ。おりしも、東日本を襲った未曾有の大津波をリアルタイムで映像で見て、240年前にこの八重山に甚大な被害をもたらした大津波を、肌で感じる思いがした。
 牧野氏の著書から、その実相を少し紹介する。
 石垣島の東南約40キロメートルの海域で発生した津波の強烈な第1波は、白保崎に到達し、震源地の方向に向かって大きく湾口を開いている宮良湾に進入し、山手深く入り、陸地を横断して名蔵湾に流入したという。416 右写真は津波が横断して流入したという名蔵湾。
 津波による溺死行方不明者は、八重山群島で9313人、宮古群島で2548人、合計1万1861人に達し、琉球歴史上最大の惨事である。
 240年も前なのに、犠牲者が細かくつかまれているのはなぜか。王府時代は、先島は貧富に関係なく人間の頭割で税金をかける人頭税が実施されていた。だから、当時の住民の人数と犠牲者を正確に把握したといわれる。
 津波について、石垣島にあった八重山の政庁・蔵元から首里王府に詳しく報告した記録が残されている。「大波之時各村形行書」(おおなみのときかくむらのなりゆきしょ)という。本書に原文が収録されている。それによると、津波の到達した最高地点の高さは、宮良村85・4㍍、白保村60・0㍍、野原崎46・7㍍、大浜村44・2㍍、登野城村12・2㍍、石垣村9・2㍍、新川村8・2㍍などとなっている。当時は、メートルではなく最高地点は「28丈2尺」というように表記されている。それを㍍に換算したものだ。高さは、「潮上り」といい、陸上に打ち上げられて潮の到達したところの高さである。
 牧野氏は、この報告書の数字が事実であるのか、当時正確に計測できる測量技術があったのか、について検証している。すでに薩摩に侵攻され支配されていた琉球は、薩摩から測量などの技術を学んでいたと考えられる。大津波より30数年前の1735年、王府の名高い政治家・蔡温が本島北部の羽地大川を改修したさい、平面測量、高低測量など役立っていた、と言う。だから、報告書の高さは正確だと考えている。
 下写真は大浜の崎原公園にある津波大石(ツナミウフイシ)。 191_2 死亡・行方不明者について、石垣島では、当時の人口1万7349人のうち、死亡・行方不明者が8439人で、人的被害の比率は48・6%にのぼる。特に被害がひどい村として、仲与銘村100%、白保村98%、安良村96%、大浜村92%、伊原間村87%、宮良村86%、登野城村55%などあげられる(少数点以下四捨五入)。
 八重山の大津波の特徴の一つは、大きな石が津波で打ち上げられたことだという。牧野氏が、調査した結果を報告している。大石の打ち上げは、サンゴ礁があったために起きた現象である。その数は、合計で310個を数える。
 津波石を大きさ、重さ別に分類している。16トン級以下の小型231個、54トン級の中型48個、128トン級の大型22個、250トン級の特大型9個もある。
 津波石が次第に邪魔者扱いされ、相当数の石がすでに破砕されて姿を消しているという。
 牧野氏の著書は、古記録を精査し、自分で歩いて現地を見て、津波石を調べ、古老から伝承など話を聞き、さらに地震、津波の研究者からも学んで、明和の大津波の全容をまとめた労作である。169
 右写真は、津波で壊滅状態になった大浜集落に波照間島から強制移住させられた人々が、故郷・波照間の名石集落の大石御嶽から分神して祀ったという大石御嶽(ウイヌオン)。
 
 ところで、この牧野氏の見解に対し批判があるという。津波の高さは、最高は海抜25㍍地点であり、竹富島では死者はゼロだった、津波石は科学的根拠がない、津波は押しより引きが強いので、石が高地から低地へひきおろされた、石垣島の津波は大幅に小さく考え直すべきなどという意見である。
 しかし、今回の東北の巨大津波を見ていると、津波研究者さえ、予想をはるかに超える巨大津波で、避難場所や病院の4階まで津波が押し寄せ犠牲者を出している。このすざまじい巨大津波を見ていると、八重山の明和の大津波がせり上がった地点の高さが、85㍍という記録もありうることだと思える。しかも、最高地点だけではなく、それ以外にも60㍍、50㍍近くの高さも記録されている。
 津波石にしても、東北の津波を見ると、大きな船が道路にまで打ち上げられている。引く力も強いが、打ち上げる力も巨大であることをうかがわせる。海外でも、巨大な岩が打ち上げられている実例がある。
 津波石と呼ばれる石の中で、仮に津波で運ばれたものではない石が何個かあったとしても、300を超える津波石の存在が重要である。津波の威力、怖さを後世に伝える実物であるからだ。
 下写真は、大津波で壊滅的な被害を受けた白保地区の現在の集落の様子である。

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 竹富島で被害が少なかったことは、牧野氏も大サンゴ礁が天然の防波堤の役割を果たした、との見解を示している。これをもって、石垣島の津波を低く見る理由にはならない。

 あれこれ素人の思い付きを述べた。史実はそれとして正確にしなければならないが、琉球史上でも最悪の津波被害を受けた人々が、その悲惨な事実と恐ろしさを後世に伝えようとした古記録や言い伝えをおろそかにはできない。津波の到達した高さの昔の測量に多少不正確さがあったとしても、津波の破壊力、怖さを過小評価すべきではない。それは、またいつくるか分からない地震、津波への備えをおろそかにすることにつながりかねない。明和の大津波の実相を明らかにした牧野氏の労作は、今後の防災を考える上で、とても今日的な意義をもっているといえるのではないだろうか。
 

2011年3月27日 (日)

首里の桃原付近の湧水を巡る、その2

 首里の桃原(トウバル)本通りの付324 近は、湧水がとても多い。この辺りはとても急傾斜地である。普通の谷川はあるが、排水も流れてくるので、飲料にはならなかったのだろう。なんといっても、暮らしに欠かせないのは、湧水である。モノレールの儀保(ギボ)駅から少し下ると、宝口樋川(タカラグチフィージャー)の標柱がある。
 この標柱だけでは場所がわからない。通りかかった若い女性に尋ねると、「谷川に沿って少し下るとありますよ」と教えてくれた。湧水はどこでもけっこう分かりにくい場所にある。近くにいる人でも、地元に住んでいる人でないと尋ねても分からない。
 宝口樋川は、この地によい水が湧くことは知られていたけれど、不便な場所であること、当時、住民がそんなに水に困っていなかったことから、顧みられなかったという。
 宝口よりもう少し上に登ったところの当蔵(トウノクラ)村の宮城筑登之親雲上(ミヤギチクドゥンペーチン)という人が、その湧水を惜しみ、賛同者をつのり24人が費用を出し合い、道を整え、樋川を設けた。宝口という地名に湧く樋川なので「宝樋」と名付けたという。

335  樋川は大雨にあって一度壊れて、修理しようとしたが、費用がかかり困っていた。ところが、赤田村に住む宮城筑登之の母親から費用負担の申し出があったので、無事工事を進めることができて、樋川はよみがえったという。
 ここには、とても立派な碑(右)がある。右から「宝碑」と記され、この樋川の由来など記されれている。                          

                                                                        
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 碑の表は1807年に記されたもの。碑の裏は、1842年に記されているという。とても由緒ある石碑である。この碑も、沖縄戦で失われた。それが1986年、下を流れる真嘉比(マカヒ)川の改修工事によって、川床から碑の大部分が発見された。現物は、かなり破壊され、摩耗が激しいため、新たに復元することになり、1995年に復元されたそうだ。
 この宝口樋川の近くに、紙漉所跡(カミズキショアト)の案内板があった。琉球王国時代から昭和初期にかけて、この宝口では紙漉が行われていたそうだ。
 322 琉球では、1694年に大見武憑武(オオミタケヒョウブ)が、薩摩から紙漉の技法を習得して帰り、首里で紙漉をするようになった。
 1840年、儀保村の一角、宝口に家屋を建て、製紙区域として、製造が途絶えていた百田紙の製造を行わせたのが始まりだと言う。
 首里の山川町では、芭蕉紙、宝口では、百田紙が作られた。百田紙は、コウゾの樹皮でつくる和紙である。

 紙漉は、水がなければできない。宝口樋川があったので、この地で紙漉ができたのだろう。
 

 桃原大通りを南に行った山川の近くの急傾斜地の道と階段を下りて行くと、「さくの川」の樋川に出る。急な崖下から湧き出る地下水を導き出した共同井戸だ。347_2  地下水は、崖の相当奥にあるようで、巾30㌢、長さ80㌢に加工された琉球石灰岩を10個ばかりつないだ樋で水を導いている。この水路の中も、内部が崩れないように、石垣を設けているという。344 まるでトンネルのようになっている。

 この水は、村人の飲料水や生活用水として使われた。
 水汲み広場は、約1㍍ほど掘り下げ、樋口から外に向かって扇形に造られている。
 ここからあふれ出た水は、北西に流れをつくり、その谷間の南斜面には、王家御用の芭蕉園があった。ここの芭蕉を用いて、紙漉が行われていた。芭蕉紙が作られた。
 この辺りは「紙漉山川(カビシチヤマガー)」と呼ばれていたそうだ。この水は、飲料、生活用だけではなく、紙漉という産業にも用いられていた。
 この場所を探して、最初は急傾斜地なので、車で下から接近しようとした。ホテル日航グランドキャッスルのすぐ近くだ。でもホテルの下は、細い道路(スージグヮー)ばかりで、行き止まりも多く、もう迷路に入り込んだようで、とても接近できない。車はあきらめて、桃原大通りから歩いて降り、ようやく見つけた。さくの川のそばにも家があり、車がある。でも地元の詳しい人でないと、車では接近できない。
 井戸(カー)や樋川(ヒージャー)を見ていると、琉球王国時代からの人々の暮らしや生業、湧水に込めた思いや願い、石積み技術など、さまざまなことが見えてくる。まだまだ、各地にたくさんのカー、ヒージャーがある。湧水めぐりはまだ止められそうにない。

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2011年3月26日 (土)

首里の桃原付近の湧水を巡る、その1

 首里は湧水がとても多い。首里金城町に続いて、首里の山川から儀保に抜ける桃原(トウバル)本通りの付近の湧水を訪ねた。 281  最初に行ったのは、佐司笠樋川(サ277 シカサヒージャー)だ。ここは、琉球最後の国王、尚泰の四男、尚順の屋敷だった「松山御殿」(マツヤマウドゥン)のすぐ裏側にある。でもいまだに尚家の敷地内だ。といっても、かつての桃原村の貴重な水源だったので、自由に出入りして下さいとの表示があった。でも、地元の人は、いま水汲みには来ない。命の源である湧水はどこでも、祈願の対象だ。だから「拝みをなさる方へ」呼びかけている。
 入っていくと、驚くほど立派な樋川だった。琉球の黄金時代を築いた尚真王の長女、佐司笠按司加那志(サシカサアジカナシー)が、フクギの大木にいつも鷺(サギ)が止まるのを見て、掘り当てたという由来のある樋川だ。見事な琉球石灰岩の円形の石垣が三段に積み上げられている。これほど見事な円形の石積みは、樋川でも指折りだろう。
 どんな干ばつにも水は枯れずに住民を助けた。村の貴重な水源だった。いまでも水量が多く、井戸拝み(カーオガミ)に訪れる人が後を絶たないという。
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 降りて行くと、石垣の奥の水源から石造りの樋で水を流している。水槽は半円形で、これも見事な石積みだ。

 そばに奇妙な石があった。301 直径1㍍くらいはある。なんのためだろうか。他の井戸では見たことがない。説明は何もないので分からない。それにしても、よく固い石をこれほど丸い形に仕上げたものだ。丸い石が置かれた外側の敷石も、この円形に石に合うように、石を加工している。

 琉球王府時代の石積みの技術には、つくづく感心する。それに、この樋川は、沖縄戦で激戦の地なのに、破壊されずに残ったのだろうか。説明はないので、多分残ったのだろう。

 同じ敷地内のすぐ側に、「昔石道」(ンカシイシミチ)があった。石畳の道を降りて行く。トンネル283 のようなところを通りぬけて、さらに降りる。
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 トンネルというのは、実際は橋の下をくぐる。そこを出ると、また湧水があった。
 世果報御井小(ユガフーウカーグヮー)という井戸だ。王朝時代より炊事、洗濯など生活用水として使われた泉である。水がわいているので樋はない。288_2
 沖縄戦で埋没したけれど、昭和61年(1986)に掘り出された。その際、古い鍋や食器類が出土し、戦争中にここで炊事をし飢えをしのいだ悲惨な状況が偲ばれたという。説明を書いた案内板が、もう剥げてきて字がまともに読めない。推測を含めてこんな説明だった。
 桃原大通りを下に少し降りると、谷川のそばに加良川(カラガー)がある。谷川が流れているが、この川の岸に共同井戸がある。川岸にある岩の洞穴から流れ出る水をせき止め、その前に石畳の水汲み広場が設けられている。ただ、いまは危ないから鉄板で蓋をしている。313_2

 この井戸の上に橋がある。橋から井戸に降りてくる石畳の道が残っている。道幅を広くとり、川沿いに一段と高い道を設けて、水汲みに集まる人々が、順序良く出入りできるように工夫されているそうだ。316

 右写真の真ん中の上に碑が建っている。この碑は、井戸とは関係ない。
 実は、琉球王府の時代、18世紀に初めて歌三線と台詞、踊りの総合芸能である「組踊(クミウドゥイ)」を創作した玉城朝薫(タマグスクチョウクン)の生誕の地を示す碑である。
 朝薫は、王府で踊奉行をつとめ、中国から琉球国王を任命するためにやってくる冊封使(サッポウシ)を歓待するために、「組踊」を創作した。朝薫の創作した「執心鐘入」など「5番」と言われる「組踊」は、いまなお繰り返し繰り返し、いろんな時に上演される。
 昨年、「組踊」はユネスコの無形文化遺産として認定された。朝薫も、自分が創作した芸能が世界で認められるとは、思いもしなかっただろう。ただ、もともと創作した目的は、冊封使に見せるためだったので、当時の中国は世界の超大国であり、本来、外国の賓客に見せるという国際性をもった芸能でもあったのである。
 朝薫については、昨年浦添市にあるお墓を見に行ったことを、ブログで11月にアップしているんで、関心のある方は見てみて下さい。

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 参考のため、朝薫のお墓の写真ものせておきましょうね。011

2011年3月25日 (金)

石垣島の官庁・蔵元には絵師がいた

 石垣島の昔の姿などの資料を見ていると、庶民の風俗など描いた絵をよく見る。前に、人間の頭割で税金をかける「人頭税」について、「人頭税哀歌」を書いた時、女性が貢布を織る機織りの図絵を勝手に彩色して使わせてもらったことがある(右)。Photo_3

 八重山の人にとっては、常識だろうが、素人の私にとっては、まだ誰が描いた絵なのか、わからないままだった。石垣島に行って、八重山博物館の立ち寄った際、これらの風俗の絵に出合った。それは、琉球王府の時代から、八重山の政治をつかさどる蔵元政庁に、絵師がいて、かれらが描いたものだった。「八重山の蔵元にお抱えの絵師がいたとは!」と驚いた。
 博物館には、八重山風俗図絵が展示されていた。庶民の日常の様子、風俗や行事など描かれていて、とても興味深かった。
 なぜ、蔵元に絵師がいたのだろうか? 博物館にも多少説明があった。別途、八重山の民俗、古謡などに詳しい喜舎場永珣氏著『八重山民俗誌下』に詳しい解説があったので、よく分かった。これから、少し紹介したい。004

 蔵元には、常時絵師が2人ずつ勤務していた。絵師になるには、試験があった。この試験は、首里王府から派遣された役人の在番奉行と同在番筆者(2人)の3人と、三つの間切(今の町村)の頭3人の計6人の最高行政官等が出題して決めた、この試験に合格した優秀な者だけが絵師に採用された。採用者で優秀な者はさらに、首里王府へと稽古のため研修派遣された。
 2人の絵師は、常時蔵元詰めの役人として、平日はもっぱら絵の稽古に精を出した。
 絵師の任務は何か。絵師という特殊技能をもった行政上の一役人だった。とくに、重んじられたのは、在番奉行や頭などが蔵元管内の005_2 各島村を巡回する旅に立つ、いわゆる「親廻り」の時に随行員の一員として行動をともにすることだった。
 その最も重要な任務の一つが、八重山に来島する西洋などの異国船の報告資料の作成があった。公文書の文章は蔵元の筆者などが取り扱ったが、絵師は必ず通事(通訳)とともに、漂流漂着の難破船の船着き場にかけつけ、これら異国船の船形の実写はもとより、その他異国人の肖像、風俗などを正確に写し取って、首里王府へ報告したという。
 写真のない時代、いわば絵が写真代わりになったのだろう。首里王府でも、報告分と合わせて、絵を見れば様子が分かりやすかったのだろう。

 絵師には、もう一つ大事な任務があった。

006 人頭税で、女性には貢布の上納が義務付けられていた。八重山上布が有名である。布を織るのに、蔵元から図柄を示して織らした。絵師にその図柄も描かせたそうだ。
 「人頭税の上納貢布の各村へ配布する図柄の作成、また御嶽(拝所)仏閣などにおける壁画も殆んど彼等絵師の筆によるものが多い」。

 絵師は、公的な絵画に関する一切の任務を担っていたという。

 蔵元政庁は、明治30年(1897)に廃庁となったが、最後の絵師は、宮良安宣といい、明治24年から7年間務めた。

009_2  ここに紹介した 「八重山風俗図絵」は、喜舎場氏の『八重山民俗誌下』に掲載されているものの一部をアップした。この「風俗図絵」は、蔵元の最後の絵師であった宮良安宣の画稿を中心とするものだが、古くは、200年前のものも含まれているようだ。「当時の生活や風俗を知るうえで極めて貴重な史料的価値を持つ」と指摘している。010_2
 

2011年3月24日 (木)

よみがえった竹富島のデイゴ

 東日本大震災の影響で竹富島でわずかな1時間の滞在だったが、沖縄の県花であるデイゴが咲いているのを見た。デイゴは、本島では4月下旬の開花である。早い開花だ。レンタル自転車屋さんの車で移動中に見た。運転手は「竹富のデイゴは害虫のヒメコバチにやられて咲かなくなっていたのを昨年、薬剤を注入した効果で、咲くようになったんですよ」という。そういえば、石垣島でもデイゴがヒメコバチにやられていたのを、薬剤を注入して、市役所の前のデイゴが咲きだしたというニュースを見たばかりだ。
 005 実は竹富島では、帰りの車中でデイゴを見かけただけので、写真には撮っていない。右写真は、那覇市内で2009年に撮影したものだ。

 デイゴの花は、燃えるように赤く見事な花であり、県花にふさわしい。そのデイゴが咲かないと、なにかとても寂しい。わが家の近くでの漫湖公園でも、害虫にやられたデイゴの大な木が、何本も根元から切られた。
 あとから分かったことだが、竹富島では、もう5,6年前からヒメコバチにやられてデイゴは咲かなくなった。なんとかデイゴを再び咲かせたいと、竹富町では、2010年に島のデイゴに薬剤の樹幹注入をしたという。薬剤だけで1回200万円もかかるそうだ。竹富島だけで、何百万円も費用がかかるが、町には予算がない。それで、何と公民館からお金を借りて実施したそうだ。昨年4月下旬に、30人ほどで薬剤をデイゴの樹幹に注入した。
 デイゴはたちまち元気を取り戻し、葉が青々と茂った。そして、2011年3月には、見事に花が咲いたという。
 私たちが竹富島にいった3月12日、真っ赤なデイゴの花が、少しだが咲きだしたところだった。 カラスもいっぱい止まっているという。花に蜜をめがけてなのだろうか?沖縄南部にカラスはいないが、なぜか八重山の石垣島にも竹富島にもカラスがいる。デイゴが咲きカラスも喜んでいるのだろうか。Deigo
 竹富島のデイゴの再生には、多くの人たちの支援の輪があった。「竹富島のデイゴを救おう」というブログでの呼びかけも行われた。格闘家の長洲力の関連商品の収益も一部を寄付したらしい。デイゴチャリティコンサートも開かれた。
 町役場の職員が、ラジオで語っていたことによると、支援が広がり募金が何百万円も集まり、公民館にも借りたお金を返済できたという。
 竹富島では、学校の卒業式にデイゴの花をいけて、卒業生をおくる習慣があったという。デイゴが咲かないと伝統行事も途絶える。でも、今年は3月14日の竹富中学校の卒業式は、デイゴがいけられ、卒業生を見送ったという。
 竹富島のような、もっとも沖縄らしい景観の残る島で、デイゴが咲かないのは、とっても寂しい。町の努力と全国的な支援の広がりもあって、デイゴが再生したのは、とってもうれしいことだ。那覇市内のデイゴも、なんとか再生させてほしい。それにしても、樹幹に注入する薬剤がなんで、ウン百万も費用がかかるのだろうか。

2011年3月23日 (水)

津波の被害を免れた竹富島の伝説

 東日本大震災で大津波の恐ろしさをまざまざと見せつけられた。その時、八重山にいたが、津波警報が解除され、竹富島に渡れたことを前日書いた。ついでに、1771年の明和の大津波のことにふれておきたい。この津波で、石垣をはじめ八重山、宮古島などで死者約1万2千人におよぶ大被害を受けた。ところが、竹富島はほとんど津波による被害を受けなかったという。写真は、竹富島の美しいビーチ。

446_2  同じ八重山の島でも、黒島や新城島(アラグスクジマ)など津波が島の大部分を洗い、大被害を受けた。黒島は293人、新城島は205人が死亡・行方不明になった。竹富は人家のある島の中心部分は津波の洗礼を免れた。死亡した27人は、ちょうど人間の頭割りで税金をかける人頭税の納入の時期で、税を納めるため石垣島に渡っていて被害にあったという。
 なぜ、震源に近く、平たんな地形の竹富は被害にあわなかったのか? 一つの伝説がある。当時竹富島の人々は、「津波のとき島が浮き上がって助かったと誇り、且つ説明したという。大浜(石垣島)でも竹富島は津波のとき島が浮き上がったという伝承が残されている」。地震で多少の隆起が起きることはありうるが、島が浮き上がることは考えられない。それは石垣とはあまりに対照的に被害がなかったために、伝説が生れたのだろう。
 では、なぜ被害を受けなかったのか? この伝説を紹介した牧野清氏著『八重山の明和大津波』で、次のように指摘している。003_2 
 牧野氏は調査の結果、「それは石垣島から東方海上までのびている優勢な珊瑚礁、ウマヌファピー、アーサピー、ユクサンピーなどが、天然の防波堤としてのひじょうに力強い役割を果たしてくれたためであると判断している」と明らかにしている。本書に添付されている珊瑚礁分布図(右)を見れば、よく分かる。竹富島の東南、南方に、巨大な珊瑚礁が伸びている。これが天然の防波堤の役割を果たしたのだろう。竹富島より北西、後方にある小浜島、鳩間島でも、ごく少ない犠牲しか出ていない。やはり、珊瑚礁が津波の勢いを弱めたのだろう。
 津波は、珊瑚礁や海岸の地形によって、島や地域で影響と被害に大きな差異が出ている。それは今回の津波でも同様である。

 津波にまつわる伝説は、他にもたくさんある。そのついでにもう一つ、人魚伝説を紹介しておきたい。これも牧野氏の著書からである。
 石垣島の東海岸の野原崎で、上半身人間の形をした珍しい魚が網にかかった。「野原村(ぬばれーむら)の漁師たちは、これが数日前から夜な夜な海上で、美しいこえで歌をうたっている人魚というものであろうと考えたが、せっかくとったから殺して食べようと相談していた。そのときこの不思議な魚がものをいい出した。『私は人魚です。私を助けて下さったら、恐ろしい海のひみつをお教えします』という。漁師たちはびっくりして、相談の結果海にはなすことにした。すると人魚は『あすの朝おそろしい、なん(津波のこと)が来るので、山ににげて下さい』といいのこして波の間に消えて行った。はたして翌朝人魚の予言どおり、おそろしい大波が島をおそったが、漁師たちは山に逃げて無事であったという」。
 当時、この人魚の話を白保村の役人に急報したが、一笑にふされて、白保村は津波に一番ひどくやられたという。人魚伝説はほかにもあるという。

 ここまで書いたところで、今回の津波で日本三景の一つに数えられる宮城県の松島が津波から住民を守ったという話を知った。松島町は、島々をつなく橋が壊れるなどの大きな被害は受けたが、松島湾に面した松島町の死者は、現在まだ一人(行方不明者はいる)にとどまっている。すぐ隣の東松島市は犠牲者が650人を超え、他の沿岸市町村でも甚大な被害が出ているのと比べて、大きな差がある。

 地図を見るとよく分かる。松島湾は町のすぐ沖に松島がある。さらに、松島湾の入り口にあたる所に、宮戸島をはじめ奥松島の島々が連なっている。まるで巨大な天然の防波堤が二重に張り巡らされているようだ。これら松島や奥松島が巨大な津波の破壊力を削いだのではないか。ただ、奥松島では、大きな津波被害が出たのは、痛ましいことだ。
 松島町の住民は「島が津波から守ってくれた」と感謝しているという。地元の漁師は「昔の大津波では島が一つなくなった」とも言っているそうだ。島を一つなくするとは、すざましい津波の力だ。
 今回、松島湾に点在する島々が津波の勢いを弱めたことは確かだろう。津波被害を免れた竹富島ととてもよく似ていると感じた。

2011年3月21日 (月)

「安里屋ユンタ」の故郷・竹富島を訪ねる

 石垣島の目の前に竹富島が浮かぶ。高速艇で10分の近さだ。赤瓦の家が並び、沖縄らしい風景を伝える島だ。石垣島に行った日に、東日本大震災が起き、津波警報が出た。その翌日も警報は続き、島に渡る船は止まった。でも午後2時ごろになり、津波注意報に変わったので、船が出ることになった。島に滞在する時間は、1時間しかない。だが、石垣に来て、竹富に行かないのでは、心残りになるので船に乗った。

456 竹富島と言えば、有名な民謡「安里屋ユンタ」の生れた地である。といっても「♪サー 君は野中のいばらの花かー サーユイユイ」と歌う曲ではない。こちらは、昭和9年に八重山生れの作曲家・宮良長包さんが元歌をアレンジして作曲した「新安里屋ユンタ」である。
 元歌は、実在の人物をもとに歌われた曲である。人物とは安里屋に生れた美女クヤマさんである。
 写真は、島の中央部にある島一番の高台、なごみの塔から見た竹富島の風景である。このなごみの塔のすぐ南側に、クヤマさんの生誕の地があった。

454_2 竹富島で歌われる「安里屋ユンタ」の歌詞を紹介する。歌詞は方言で長い物語になっているので、出だしは次のようになっている。
 「♪安里屋のクヤマによ あん美(チュ)らさ生りなしよ 目差主(メザシシュ)ぬくゆだらよ あたろやぬ望(ヌズ)むたよ 目差主や ぱなんぱよ あたろやや くりやおいす⋯⋯」と続く。
 「安里屋のクヤマ女は 素敵な美人に生れていた 目差主(役人)に見染められ 当る親(与人役人)に望まれた 目差主は私はいやだ 与人役へご奉公します⋯⋯」。
 琉球王府の時代、島を統治する役人に与人(ユンチュ=村長、あたる親と尊称していた)と目差(助役)などがいた。役人は島に3年勤務で交代する。妻子の同伴は禁止されていたので、賄女(マカナイ)を奉公させる慣例があった。460

 

 歌は続く。クヤマに嫌われた目差主は、面当てに隣の中筋村に走り行き、村を探しまわっていたら、素敵な美人に出会った。イシケマという。親のもとに飛んで行き、娘さんを私に下さいと頼み、親は欲しいなら連れて行って下さいと言う。宿舎に連れ帰り、腕を組んで寝むった。男の子は島の統治者 女の子は良妻賢母に生まれますように。
 こんなお話である。クヤマ生誕の地の入り口には、歌詞の一部が書かれていた。 
 「安里屋ぬクヤマによう 目差主ぬくゆだらよう」
 ただし、竹富島ではこの歌詞だが、石垣島など他の地域では、歌詞がまるで違った展開になっている。
 「♪目差主ぬくゆだら あたろやぬ望もたら 目差主やぱなんぱ あたろやや くりゆむ」
 「目差役人に見染められ 当る親に望まれた 目差役人は私はいやです 当る親(与人)も私は否やです」と村長も助役もイヤですと拒否する。そして、「後のことを思って⋯⋯島461_2 の夫を持たなければ」と、島の男を夫にすることが後のためになる、ときっぱりと歌う。クヤマさんの気高い姿が描かれている。
 実際はどうなのか。安里屋のクヤマさんは、1722年に安里屋に生れ、1799年に78歳で亡くなった。1738年に新任役人が赴任したさい、16歳の若さで村長である与人の賄女として奉公し、与人の寵愛(チョウアイ)を受けた。いよいよ転任のとき、与人は竹富きっての一等地をクヤマに与えたという。
 以上の歌の歌詞や歌の解説などは、喜舎場永珣(キシャバエイジュン)氏著『八重山民俗誌下巻』を参考にさせてもらった。
 クヤマの例に見るように、役人の賄女になれば、恩典があった。だから「若い女性にとっては憧れでもあり羨望の的であり、また名誉でもありました」と喜舎場さんは言う。
 その点には私は異論がある。別の島では、賄女にされることを嫌がった、恐れたという例もたくさんあるからだ。詳しくは、別稿の「愛と哀しみの島唄」を2010年7月のブログにアップしてあるので、関心のある方は読んでみて下さい。
 ではなぜ、石垣島などでは、逆の抵抗の歌詞になったのだろうか。喜舎場さんは「これは治者階級の士族に対する平民のレジスタンスであります。不可能とは知っていたが、せめてこの歌を謡って自ら慰安を求めていたような感じがします」と指摘している。これは、的を射た見解だと思う。
 462 島の美人といえば、若者たちの憧れでもある。それを役人が権威にまかせて賄女として横取りすることに、民衆は面白くない。不満も感じていただろう。だから、クヤマさんが、役人の要求を拒否して島の男を選ぶという、気高い女性像として描いたのではないだろうか。
 喜舎場さんは、竹富島の歌詞で歌うべきだと言う。ただ、自分で歌ってみると、役人の要求を拒否して島の男を選ぶという、石垣島などの歌詞の方が好きだ。気持ちが入る。

 
左は、安里屋の今の家。ブーゲンビリアが美しかった。463
                           

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2011年3月20日 (日)

丘の上は満開近い東村つつじ祭り

 沖縄の春をつげるというキャッチフレーズで、第29回東村つつじ祭りが、4日から「村民の森つつじ園」で開かれている。今年は寒いし天候不順で開花が遅れているので、例年より遅く18日に見に行った。025
 まだ早かった! 右写真でみるように、3分咲きくらいだろう。日陰ではまったく咲いていない。本来なら、約5万本のつづじで「丘の上は満開前線」のはずだ。祭りは21日で終わるのに、満開はもう少し先になる。この分では、4月半ばまで楽しめるかもしれない。
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といっても咲いているところは、さすがに美しい。白、赤、ピンクと色とりどりで、つづじの甘い香りが漂っている。024














 

 花にはミツバチが飛んできて盛んに蜜を吸っている。014
東村といえば、世界で活躍する女子ゴルファーの宮里藍ちゃんの故郷。藍ちゃんが優勝するたびに、村長以下、村の人たちが集まり祝賀会を開いている。このつづじ祭りに合わせて、宮里藍写真展も別会場で開いている。でも、今回は見なかった。001





 つつじ園は、小高い丘の上にあり、丘から眺める景色は、絶景だ。平良湾の海の色がとっても美しい。008

 花は寂しかったが、天候も良くて眺めは最高。
それと、今の季節、山原(ヤンバル)は燃え立つような新緑が鮮やかである。
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010

015

 新緑と言っても、緑だけではない。薄茶色の新しい葉もたくさんある。新緑は、太陽に光を浴びて、キラキラと輝いている。
 沖縄の山原には、巨大なシダがある。シダも新芽を出している。009

 つつじ祭りの会場では、地元の農産物やつつじなど花を売る店も並んでいる。新ジャガイモが美味しそうなので買った。面白い大根が並んでいた。026 

 4月にもう一度行ってみたいな、と思った。4月に入れば、大宜味村喜如嘉(キジョカ)のオクラレルカ(花菖蒲)が咲きだすはずだ。

2011年3月19日 (土)

石垣島の不思議なお墓

 東日本大震災の被災者の支援が広がっている。沖縄県でも、最大数万人の規模で被災者を受け入れる方針だ。住宅費などだけでなく、食料、医療をはじめ生活そのものの支援もしっかりやって、支えてほしい。 
 石垣島がまだ続く。島で、沖縄本島でも見ないお墓の形に出合った。それは、お墓に大きな屋根がついているこ149 とだ。まるで、お墓がお家のようになっている。
 沖縄のお墓は、とっても大きいことでは有名だ。でも、那覇市の最大の墓地、識名霊園を見ても、小さな屋根ならあるが、これほど大きな立派な柱と屋根がついているのは、見た覚えがない。
 なぜ墓に屋根があるのだろうか?
考えられるのは、沖縄では、4月には、先祖を供養する清明祭(ウシーミー)がある。親族や父系血縁集団の門中(ムンチュー)がお墓に集まる。お墓の前で、重箱料理を食べたり飲んだりする。まるでピクニックのような感じがする。151_2 4月と言えば、晴れると直射日光は暑い。雨の降る時もある。だから、識名霊園を見ても、清明祭の時には、墓の前にテントを張ったり、ブルーシートを屋根代わりに張っていることが多い。でも、石垣の墓のように、固定の屋根があれば、テントを張らなくてもよい。だから、お墓には屋根がいるんだ、ということではないだろうか。

 写真のお墓は、平安名崎の近くで見たものだ。他の場所でもたくさん見かけた。
 石垣など八重山特有のものなのか、と思ったが違っていた。先日、本島北部の山原(ヤンバル)に行ったら、山原にも屋根付きのお墓があった。石垣だけではなかった。
 ネットで検索すると、屋根つきは離島、山原だけではない。県内のお墓販売業者が売りだしている。「屋根長大型デラックス」と名づけている。雨の多い沖縄でいつでも安心してお墓参りできるし、暑い日差しでも日避けができるというのがセールスポイントだ。やっぱりそうだった。「むんちゅ~が多い方にオススメです」とも宣伝している。
 石垣では、墓所のことをハカまたはシーヌヤーと呼ぶ。シーヌヤーとは「後ろの家」という意味らしい。昔は、家の近くや敷地内に墓があった時期があるという。それでこういう呼び名がついたようだ(「石垣市史 民俗下」)。 421

 石垣のお墓は、古くは、自然の洞穴を利用した洞穴墓、住居近くの砂地や土を掘って埋めた埋葬墓、石を積み上げた石積墓、回りに石を積み上部は竹やススキなどで覆ったヌーヤー(野屋)墓、自然の崖を横に掘った壁龕(ヘキガン)墓などがあり、18世紀に亀の甲を伏せたような形の亀甲(キッコウ)墓が八重山にも伝わり、屋根のつくりが破風型をした破風(ハフウ)墓が本島から伝わった。破風墓は、もとは王家の専用の形式であり、庶民に普及したのは、明治12年(1879)の廃藩置県の後だという。さらに、火葬の普及で、塔式の墓が普及しているという(同書)。
 塔式の墓は、大和ではほとんどこの形だ。でも、石垣では塔が立っていても、まったく違う。バンナ公園に行った帰りに、西表郷友会共同墓地があった。郷友会(キョウユウカイ)とは、郷里を同じくする人たちが集まっている組織である。424 八重山では、離島から中心的な島である石垣島に来ている人が多いのだろう。
 沖縄本島では、山原など地方や離島から那覇など都市部に出てきている人は、みんな郷友会に属している。県外にもこの組織がある。郷土愛が強い沖縄では、郷里を離れてもこんな形で結束をしている。
 話はそれてしまったが、左の墓は下段に大きな納骨堂があり、その上に墓碑の塔がのっかっている。これは、石垣に来て初めて見た。
 429
 

  これは沖縄本島では見ない形のお墓である。しかも大きな屋根がしっかりとついている。この共同墓地のお墓はみんな立派である。474 これだけ屋根も広ければ、雨が降っても清明祭ができるだろう。左写真を見れば、屋根の大きさがよく分かる。
 お墓が立派なのは、それだけ先祖を大事にしているということだろう。なにしろ先祖は、いまを生きている子孫を守ってくれるのだから。

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西表の共同墓地の隣のお墓は、同じ納骨堂に塔がのっかっている形式でも、下段の部分が小さい。すこし大和のお墓に近い感じがする。
 ネットのお墓業者の説明によると、この型は、大和風のお墓で「和式角柱型」と呼ばれるそうだ。本土出身者からこういう型のお墓の希望があるとか、墓地のサイズが小さくなってきているので、好まれる人が増えているともいう。石垣島でも同じ事情なのだろうか。

 石垣の清明祭について、追記する。清明祭はもともと中国から伝わり、首里士族を中心に普及し、次第に地方の農村への伝搬していった。石垣市では旧士族系の家で、一門の人々が集まり行う。でも平得や大浜、宮良では行っていないという。
 石垣では旧暦の正月1月16日に、祖先供養の「ジュールクニチィ(16日祭)」で、墓参りをして、重箱に御馳走を詰めて、お供えして盛大に行われる(「石垣市史 民俗下」)。

2011年3月18日 (金)

石垣島の岬を巡る

 東日本大震災は、福島原発からの放射性物質の放出は心配だ。政府は、半径20キロ圏は避難させ、30キロ圏までは屋内退避ですませている。でも県外に脱出する住民が続出している。米軍は93キロ圏内には入らない、80キロ圏内にいる米国民は避難を勧告している。なぜこんな違いが出るのだろう。東京電力と政府への不信の声も聞こえる。日本の対策はドタバタだと海外からも批判の声が出ている。国民の命を最優先して、あらゆる力を集めて収拾に万全を尽くしてほしい。
 さて、石垣島はまだ続く。島をドライブすると、023 角ばった岬に景勝地がある。左回りで島を一周した。
 最初は、観音崎だ。灯台がある。でもここは見るほどのものはない。それより、この付近では冨崎観音堂が有名だし、唐人墓が欠かせない。
 1852年、中国のアモイで集められて400人余りの労働者「苦力」(クーリー)は米国商船ロバート・バウン号でカリフォルニアに送られる途中、あまりの暴行、虐待に耐え切れず決起して船長ら7人を打殺した。船は石垣島の崎枝沖で座礁し、380人が下船した。米英兵船が3回来島し、武装兵が上陸して捜索。中国人たちは銃撃や逮捕され、自殺者も出た。
 このとき琉球王府と八重山の政庁・蔵元は人道的に対応し、島民も同情して密かに食糧などを運び渡したという。交渉の結果、生存者172人を琉球の船で福建省に送還したという。
 冨崎原一帯に中国人の墓が数多く点在した。024
 1971年に石垣市は、不幸な人々を合祀慰霊するために唐人墓を建設した。左の碑文は後年のものだが、建設当時の碑(右下)がある。019












 「人間が人間を差別し、憎悪と殺戮がくりかえされることのない人類社会の平和を希い、この地に眠る異国の人々の霊に敬虔な祈りを捧げる」という琉球政府行政主席の屋良朝苗さんの言葉が刻まれている。028

029_2

 お墓には128人を祀っているという。こんな極彩色のお墓は初めて見た。

 島の西端にあるのが御神崎(ウガンザキ)。断崖の上に灯台がある。「夕日とテッポウユリ、そして白亜の灯台」が見ものだという。
 前方には、西表島、小浜島、鳩間島が見えるというが、この日はよく見えなかった。リーフがないので、波が岩に直接打ち付けている。038

 この沖合で1952年12月8日、那覇から貨客を満載して石垣へ帰る途中の八重山丸(40トン)が折からの季節風のために遭難して、死者・行方不明者35人を数える大参事となった。まだ米軍による占領下で、大和ではほとんど知られていない遭難事故だ。
 それから25年後の1976年、遭難者の碑が建設された。この灯台が建設されたのは、1983年というから、随分遅れている。航海の安全を見守っているという。040

      右写真にみえるのが、遭難の碑のようだ。 近くには行かなかったので、確かめてはいない。
灯台の下は、断崖である。

041

  石垣島は、北に平久保半島が長く伸びている。半島の根っこのところは、狭くくびれていて、西と東の海岸の間は、わずか300㍍ほどしかない。かつては、舟が半島を回ると時間がかかるので、舟を担いで陸上を越えたという。だから地名は「船越(フナクヤー)」という。156  右上は、玉取崎(タマトリザキ)展望台から、平久保半島を見た景観である。 
 1771年の明和の大津波のときは、船越は全集落が津波で流失したという。今回の東日本大震災と同じような津波による集落の壊滅だったのだろう。その翌年に、黒島から167人を移住させたそうだ。石垣は、強制移住でつくられた集落があちこちにある。

137

 石垣島の最北端、平久保崎に着いた。最北端の標柱がある。突端には灯台がある。
 よく晴れた日には、石垣と宮古島の中間にある多良間島が見えるそうだが、残念ながら見えなかった。さすがに眺めはとてもよい。平久保崎の東側は、湾曲したビーチが広がる。平野の浜だという。139 テッポウユリも一輪咲いていた。

146




 帰りは、島の東海岸を通った。玉取崎展望台がある。とっても見晴らしの良い場所だ。島の東側、西側の両方の海が見える。 エメラルドグリーンの海が鮮やかだ。159 157_2

 ドライブの最後は、岬ではない。バンナ公園のエメラルドの海を見る展望台に行った。416ここは、ほんとうに360度の展望が楽しめめる。 名蔵アンパルがよく見える。名蔵川が海に流れ込む湿地帯と干潟があり、ラムサール条約に登録された。

 海だけでなく、山の新緑も鮮やかだった。418

2011年3月17日 (木)

「島分け」の悲劇を象徴する野底岳

 東北地方は、地震災害に加え、原発災害が加わり、憂慮すべき事態が続いている。地震は、天災だが、原発は人災である。当初から、原子力発電の危険性、とくに地震列島の上に集中建設する危険性が厳しく指摘されていた。実際に炉心溶融など最悪の状態に進んでも、まともに制御もできない。国民を未曾有の危険にさらした電力会社と政府の責任は重大である。あらゆる力と知恵を集めて、なんとか沈静化させてほしい。
 126 石垣島の続きである。島の西海岸をドライブしていると、吹通川を過ぎると野底(ノソコ)集落がある。特異な形容をした野底岳がよく見える。
 その前に、海にそそぐ吹通川の川沿いにはマングローブ林が続いている。マングローブは樹木の名前ではない。メヒルギ、オヒルギなどの群落である。このあたり、手つかずの自然が残っている感じだ。

127

 川の水も澄んでいてキレイだ。カヌーで川を上っていくと、気持良いだろう。川岸には、カヌーもおいてあった。

 

 さて、野底岳が見えてきた。135 上の川の写真を見ても分かるように、このあたりは山が連なっている。でも、この野底岳は、他の山容とはまるっきり異なり、鋭い三角形で、山がそそり立っている。どこから見ても、野底岳は、よく分かる。
 標高282㍍だから、とくに高いわけではない。でも、この山には、哀しすぎる伝説があることで有名だ。琉球王国の時代、王府の命令で、石垣島の南西にある黒島から、住民を石垣島のこの地に強制移住させた。黒島に住む男・カナムイと乙女・マーベーは恋仲だった。しかし、村の道を境にして、移住する者と残留する者が決められた。マーベーは移住させられ、カナムイは島に残された。道一つで恋人も引き裂く血も涙もないやり方がまかり通った。「道切り」と呼ばれた。133 島や集落(シマ)を分けるので「島分け」とも言う。
 マーベーが移されたのが野底である。マーベーは、故郷の黒島にいる彼を見たいと思って、険しい野底岳に命がけで登った。でも、野底岳の南西には、沖縄で最高峰526㍍の於茂登岳(オモトダケ)がそびえ立ち見えない。それでも、毎日毎日人目を忍んで山に登り、神に祈った。祈りながらマーベーは次第に石と化していった。いまも山にはその岩があるという。
 この野底マーベーの悲劇を歌った民謡がある。「チンダラ節」という。
 「♪泣く泣く分けられ いやいや分けられ」と歌う。
 八重山や宮古島では、17,18世紀に強制移住が繰り返された。黒島だけで、1692年から1732年の間に4回の移住があった。1732年には、なんと約400人も移住させ、野底村という新村をつくったという。134
薩摩に支配され、搾り取られて、財政が悪化した琉球王府は、王府の収入を増やすため、未開の土地に住民を移住させ、開拓をさせたのである。しかし、未開の土地は、マラリアの危険地域が多く、住民は大変な過酷な状態を強いられた。新村をつくっても、結局は廃村になったところがたくさんある。
 野底岳の、険しい山容を見ると、いかにも悲劇の伝説が生まれそうな雰囲気を感じさせる山である。
 島の東海岸側から野底林道で、山に15分で登れる地点まで行けると聞いたので、車を走らせた。野底林道に登り始めたが、道が雨でえぐられ、とても上がれそうにない。いろいろ探したが、上がれそうにないのであきらめた。また石垣島にくる機会があれば、もっと山に接近し、できれば山頂まで登ってみたいという思いを強くした。
 なお、八重山や宮古島の強制移住とこれらをテーマとした民謡については、2010年7月に「愛と哀しみの島唄(下)」に詳しく書いてあるので、関心のある方は是非お読みください。 

2011年3月16日 (水)

石垣島に見る沖縄戦の戦跡

 東日本大震災の被災地の映像を見て「空襲の跡のようだ」と語った人がいる。町中がわずかなビルを残して焼け野原のように壊滅した姿は、太平洋戦争の後の広島・長崎や沖縄を見る思いがした。66年前は、沖縄も、大震災の被災地と同じ惨状だった。そこから一歩一歩、「ヒヤミカチ精神」で気合いを入れて立ち上がってきたのだと改めて想起した。
406  石垣島の続きである。八重山地方は、連合軍が直接、上陸はしなかったが、米軍機の空襲やイギリス艦船による艦砲射撃などで、戦争被害を受けてきた。それだけではなく、戦争マラリアで3000人を超える死者を出すという悲劇があったことで知られる。
 石垣のバンナ岳のふもとに広がるバンナ公園に行くと「八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑」があった。沖縄戦の末期、日本軍の作戦展開の必要性から住民が悪性マラリアの有病地域である石垣島、西表島の山間部への避難を強いられ、過酷な生活の中で相次いでマラリアに罹患し、三千余名が終戦前後に無念の死を遂げるにいたった。
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 戦時中、石垣島で日本軍は、3つの飛行場を建設し、石垣島を中心に各地に陣地を築き、約一万人もの兵隊が配置されていたという。
 「住民の多くがマラリアのはびこる山岳地帯に強制的に避難させられたため、その半数余がマラリアにかかり、3647人(人口の11%)が死亡した。とくに波照間島の被害は大きく、全人口の三分の一がマラリアで亡くなったといわれる」(新城俊昭著『琉球・沖縄史』)。
 この慰霊の碑は、国が県に行った八重山地域マラリア死没者慰藉事業の一環として一九九七年に建立された。遺族が思いを込めて御霊(ミタマ)の名を小石に記して納めてあるという。
 「その悲惨さを後世に伝え、世界恒久平和創造への礎となることを願う」。当時の大田昌秀知事の名前で、こう刻まれている。
 意外なところで戦争の痕跡を見た。それは沖縄気象台である。ここには、岩崎卓爾氏の銅像がある。岩崎は、かつて新設された石垣島測候所に明治31年(1898)赴任し、「テンブンヤヌウシュマイ」(天文屋の御主前)と呼ばれ親しまれた。268


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 岩崎は、人生の大半を台風の最前線で気象業務に従事し、科学的な気象の普及に努め、島の人々の生命を守ってきた。気象の延長として、八重山の自然生態への強い関心を持ち、氏が中央へ報告し、新発見となったものはイワサキコノハチョウなど十数種類に及ぶ動植物がある。八重山の歴史や民俗に対しても強い関心を持ち、いくつもの著作がある。68歳で死ぬまで40年近くを、石垣島で暮らした。274
 この像を見た後、この近くに戦争の弾痕が残る場所があるというので、連れ合いが気象台に尋ねていった。すると、大震災で忙しいにもかかわらず、職員が来て説明してくれた。「実はこの岩崎さんの像にも弾痕があるんですよ」と言う。像をなめるように見ていて「ここです」と指さしてくれた。
 背中の左上の丸く削れたような跡が、弾痕である。この像は、戦争前に建立されたものだ。石垣には連合軍は上陸はしなかったが、米軍機からの銃撃によるものだろう。

 もともとは、この近くにある弾痕のことを尋ねた。「それは気象台の敷地内にあった倉庫のことです。弾痕がありますが、現在は石垣港に近い新栄公園に移されています。そちらに行けば見えますよ」と親切に教えてくれた。
 さっそく新栄公園に向かった。公園は、なんと平和に関わる碑文などが集中する場所だった。

 

 倉庫の一部が置かれていた。なるほどコンクリートが大きくえぐられている。しかし、説明文が何もないので、知らない人が見ると、これが戦争の弾痕だとは気付かないだろう。

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  この弾痕のコンクリートが置かれたすぐそばには、「戦争の放棄」と大書された碑があった。憲法9条の条文が刻まれている。9条の会が建立したものだ。それにしても、大きくて立派な碑である。
 裏に回ると、鳩の姿が刻印されていた。369















   「戦争の放棄」の碑はとても立派なもので驚いた。公園内にはさらに、平和の鐘が二つもあった。なぜ二つのあるのかよく分からない。
 石垣島に、防衛省は自衛隊の配備を企図している。でも、戦争マラリアは、島に日本軍が駐留していたため、軍によって引き起こされた犠牲である。軍隊が住民を守らない、逆に3000人以上の尊い命を犠牲にした実例がここにもある。住民が自衛隊の派遣に反対するのは当然である。

2011年3月15日 (火)

オヤケアカハチの乱と女の戦い

 東日本大震災で、福島原発は、とても心配な事態が続く。なんとか沈静化することを願うばかりだ。187_2
 石垣島で首里王府に反乱をおこして1500年に鎮圧されたオヤケアカハチの続編である。
 前日のブログに「いくぼー」さんからコメントがあったが、アカハチの乱では、女の戦いがあったことで知られる。新城俊昭氏著『琉球・沖縄史』で簡潔に書かれているので、紹介したい。
 王府軍は、46隻の軍船と約3000人の軍勢を石垣島に派遣した。「迎え撃つアカハチ軍は、石垣村の海岸を多数の民兵で固め、戦闘態勢を整えていた。王府軍が船を進めていくと、数十人の巫女(ミコ)が木の枝を打ち振って奇声をあげ、官軍を呪い倒そうとしているのが見えた。アカハチも自ら剣を手にし、ひるむことなく官軍に挑みかかろうとしている。そのため王府軍はなかなか上陸できなかった。
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それに対し、王府軍の巫女である久米島の君南風(チンペー)は、竹の筏(イカダ)を幾隻も作り、日暮れを待ってその上に竹木を連ねて火を放って流し、アカハチ軍の目をくらまそうという奇策を練った。はたして、アカハチ軍はこれに惑わされ、火の流れる方向へと兵を動かしていった。そのすきに王府軍は二手にわかれ、登野城と新川から上陸してアカハチ軍を挟み打ちにして破った」
 石垣島でアカハチと覇を争っていた石垣地域の首長・長田大翁主(ナータウフシュ)は王府軍に味方したので、乱の後、古見首里大屋子(コミシュリオオヤコ)という役職に任ぜられた。長田大翁主には2人の妹がいた。妹の古乙姥(クイツバ)を政略結婚でオヤケアカハチのもとに嫁がせ、隙をみて暗殺するように指示したが、クイツバはアカハチを愛した。その結果、アカハチとともに王府軍に殺された。
 姉の真乙婆(マイツバ)は、兄に従い王府軍のために働き、乱鎮定の後、王府軍が首里まで無事に帰れるように祈願した。それで、永良比金(イランビンガニ)という神職を授けられた。その後、人々の尊敬を集め、死後は立派な墓が造られ、この墓地は真乙姥御嶽(マイツバーオン)として多くの人々から崇敬されるようになったという。
 マイツバは最初、大阿母という神職を授けられたが、恩のある人にこれを譲り、改めて永良比金の職を与えられたという。
 

 久米島の君南風は、その子孫に代々神職の君南風をつかさどる栄誉を与えられたという。

 014 500年前といえば、まだ沖縄は古琉球の時代と呼ばれ、古代的な要素が強かった。王府には行政組織とともに神女組織があり、国王とともに最高の神職・聞得大君(キコエノオオキミ)が並び立っていた。戦争をするにも、神女の加護を頼りにしていた。だから、派遣する軍勢のなかに、君南風をわざわざ引き連れていった。対抗するアカハチ軍も神女の呪いの力を使い、女の戦いが繰り広げられた。
 姉妹でも敵味方に分かれて生死を分けたのは、日本の戦国時代を見ているようだ。
 昨年11月に、久米島に行った際、石垣島に派遣されたという君南風殿内(チンペードゥンチ)を見た。とても立派で、鳥居があり神社のような感じだ。
 

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2011年3月14日 (月)

英雄・オヤケアカハチの像を見る

 東日本大震災は、まだ安否不明者が15000人以上もいるという。福島原発の3機の炉心溶融は予断を許さない状況が続く。とにかく、安否不明者が一人でも多く無事でいられることを願うばかりだ。このブログにコメントを寄せてくれていた「ミヤギのツブヤキ」さんが無事だったことが分かったことにはホッとした。165
 石垣島の続きである。
 明和の大津波はなんと、1771年の3月10日(旧暦)に起きたという。津波石を訪ねたのは、偶然にも3月11日だった。
 この津波石のすぐそばに、石垣島で首里王府に反乱を起こしたオヤケアカハチの碑と像がある。
 アカハチは、もとは波照間島の生まれだが、石垣島に渡り大浜村に居を構えた。なかなかの豪傑で、群雄割拠していた時代に、有力豪族として勢力を広げた。首里の尚真王が、使者を八重山に派遣して、イリキヤアモリという祭祀は淫祠邪教だと厳禁した。これに島民は憤激し、アカハチは先頭に立って反旗をひるがえし、王府への朝貢を3年間断った。尚真王は1500年、大里王子を大将とし、副将ならびに神女・君南風(チンペー)らとともに、精鋭3000人を兵船48隻で反乱鎮圧に派遣し、アカハチは奮戦したが敗れたという。166

















邪教を禁止したというのは間違いだとも言われる。この銅像は、2000年に500年祭があり、そのとき建立されたという。像の碑文は、アカハチの人間像を描いている。
 「体つきが人並みはずれた大男、抜群の力持ち、髪は赤茶けて日本人ばなれのした精悍な顔つきの若者と伝えられている。正義感が強く、島民解放のため先頭に立って精力的に立ち向かい、大浜村の人々から太陽と崇められ信望を一身に集めていた」。168
 オヤケアカハチについては、一人ではなく「おやけ赤発、ふんがわら両人」と記した史料もあり、二人説もある。いずれにしても、この乱の真相は、史料が不足しているのでよくわからないという。
 当時は、八重山諸島の覇権をめぐって、宮古諸島の豪族・仲宗根豊見親(ナカソネトユミヤ)と対立していた。首里王府軍は、宮古島の仲宗根豊見親らが先導して石垣島に向かった。だから「琉球王府への反逆というよりは、八重山統一を賭けた一大決戦だったというのが真相に近いだろう」(ウィキペディア)とも言われる。

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  この像より前に、「オヤケ赤蜂之碑」が建立されていた。こちらは1952年に建てられている。碑も像を建立されているのは、それだけ尊敬されているからだろう。そこには、いつの時代も、権力に圧伏されてきた民衆にとって、島民の先頭に立って権力に立ち向かったヒーローへの思いが込められているのだろう。
 「オヤケアカハチは封建制度に反抗して、自由民権を主張し島民のためにやむにやまれぬ正義感をもって戦ったのである」。この碑文に記された文言は、後知恵の感じがするが、民衆の願望が込められている。
 アカハチの碑の隣にあるのは、古乙姥(クイツバ)の碑である。彼女は、島の石垣島の豪族・長田大主の妹であり、アカハチと結婚してアカハチと長田大主は義兄弟の契りを交わしていたという。しかし、首里王府が反乱鎮圧のためにやってくると、長田大主は王府側についた。アカハチが敗れ、クイツバも処刑されたという。
 この碑は、500年祭で、像とともに造られ、アカハチの碑の横に建てられたという。500年を経て、夫婦の碑が並び建てられたわけである。

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2011年3月13日 (日)

大津波の恐ろしさに石垣島で思いはせる

 東日本大震災は想像を絶するような惨状にあり、心からお見舞いを申し上げたい。亡くなられた方に哀悼の意をささげます。161_2
 地震が起きたその日、石垣島にいた。島内を回っていて地震のニュースはラジオで聞いた。
 石垣島といえば、今から240年前の1771年、明和の大津波があった。大地震のあと3度も津波が襲ってきて、島の東海岸の村々は壊滅した。最高85・4㍍の地点まで津波が押し寄せた。時の王府への報告では、八重山全人口の3分の1にあたる9913人が死亡したという。
 石垣市大浜に、その時、大津波で運ばれてきたと伝えられる巨岩があるので、見に行った。場所は、大浜小学校のすぐ側だった。
 学校の塀には、今春卒業する生徒が描いた獅子舞やミルク(弥勒)様の壁画があった。
 学校の前は、いくつも拝所の御嶽(石垣ではオンと呼ぶ)がある。それらを見ていると、学校の3階の窓から「おじさーん、危ないよ、津波が来るよ!」と大声で子どもたちが叫んだ。私に呼び掛けているようだ。振り返ると3人の生徒が叫んでいた。「石垣は大丈夫なんだろうー」と声を返した。地震があったのは東北だから、勝手にそう思い込んでいた。「津波が来るよー!」となおも叫ぶ。「ありがとう!」と応えた。まもなくどこからか放送が聞こえてきた。
 石垣島でも津波警報が出ているので、避難するようにという呼びかけである。ラジオで確かめると、石垣島に津波が到達するのは、午後6時過ぎなので、まだ時間がある。せっかくだからもうしばらく見ることにした。津波で運ばれた巨岩は、学校の西側の公園の一角にあった。 191  こんな巨大な岩を津波が運ぶとは信じがたいほどだ。でも、東北の大津波のすざましい模様をテレビで見ると、ありうることだと実感する。大浜の古老によると「ナンヌムチケール」(津波が持ってきた石)という言い伝えだそうだ。近くにいたおばさんに聞いても「これが津波が持ってきた岩だと聞いています。まだ他の民有地にも津波が持ってきた石がいくつもありますよ」と話してくれた。津波石と呼ばれる石は、八重山各地に300あまりもあるそうだ。

188 岩の裏側には、なんと階段があった。登れるようになっている。登るのはやめたが、恐らく拝所があるのではないだろうか。でなければわざわざこんな巨岩に階段は造らない。津波の犠牲者を追悼するためか、再び恐ろしい津波が起きないように願うためだろうか。
 翌日、国指定の重要文化財になっている宮良殿内(メーラドゥヌス)を見に行った時、この屋敷に住む古老も話していた。「明和の大津波では、1万とも3万ともいわれる人が亡くなったよ。その翌年も、食べ物ができないから1万人くらいが死んだんだ」。
 東北の津波の生々しい映像を見るにつけ、石垣島でもあのように島の集落を飲み込んでいったんだと改めて思った。そして、東日本大震災の被災者に思いをはせた。242
 小学校の校庭を見ると、生徒たちが集合していた。どうやら避難訓練をしているようだ。「危ないよ」と声をかけてくれた生徒に感謝しなければいけない。 

 市内を歩いていると、避難場所を示した看板があった。地震と津波の際の避難場所だろう。海岸より中に少し入った場所の、小学校などが避難場所に指定されている。
 宿泊したホテルでも、津波のことを心配する声があったが、フロントでは「うちのホテルも避難場所になっていますから、大丈夫ですよ」と応えていた。
 沖縄は地震のない島のように見る人もいるが、けっしてそうではない。幾度も地震がおきているし、明和の大津波のような大参事の歴史もある。
 悲劇が繰り返されないように願うばかりである。
 

2011年3月10日 (木)

メア米国務省日本部長の更迭で号外

 「沖縄の人はごまかしとゆすりの名人」など沖縄と日本を侮辱する発言で、猛反発を受けていたメア米国務省日本部長が10日、更迭された。夕方、郵便001 ポストを見ると「琉球新報」の号外が配達されていた。
 沖縄では、号外を街頭で配るだけではなく、時に宅配までしてくれる。更迭で号外を出すところに、沖縄県民の怒りの強さがある。

 メアは、駐日米大使館安全保障課長、在沖米国総領事をつとめていたが、号外は、改めて彼の発言語録を掲載している。それを見ても、彼が「普天間は飛行場として特に危ないとは思わない」とか、米兵少女強制わいせつ事件で「一般社会でも起こりえる」などと、県民の怒りをかう発言を繰り返してきた人物だったことがよくわかる。003

 それにしても、日本政府の弱腰は救い難い。まともな抗議もできなかった。遺憾の意を表明したのも、米大使館から声をかけてくれたからだ。キャンベル国務次官補が、謝罪の意を表明したら、早く幕引きするために配慮してくれたと、米政府の態度に大喜びするありさまだ。
 しかし、メアを更迭すれば一件落着とはなりえない。もともと、メアを評価して、在沖総領事や国務省日本部長にすえて、日本と沖縄への政策を進める上で重用していたのは、米政府自身だ。今回のメアの発言は、彼の言動から見れば、予想されうるものであった。メアの発言は、メアの本音であるとともに、米政府自身の本音を反映している。
 メア更迭を聞いた県民の反応も「メア個人をやめさ005 せればすむという問題ではない」「日本政府の態度が問題」などの声が出ている。
 いまだに米軍は占領意識を持ちつづけ、わがもの顔にふるまっている。米軍基地の存在そのものが、広大な県民を土地を奪い取り、宜野湾市や嘉手納町など、町のど真ん中を占拠し、住民は片隅に追いやられ、著しい差別扱いを受け、耐えがたい騒音や墜落の危険、米兵による事件、事故の危険にさらされ続けている。
 だから、メア更迭だけで、この現実は何も変わらない。「普天間基地は危険ではない」などのメア発言も正しくないと思うなら、世界一危険とアメリカも認めた普天間基地は即刻閉鎖して返してほしい。ましてや辺野古移設はやめてほしい。
 さらには、基地の重圧から開放してほしい、というのが県民の願いである。

2011年3月 9日 (水)

首里金城町の石畳道周辺を歩く、その2

 首里金城町の石畳道の周辺は、ガー(井戸)、フィージャー(樋川)と呼ばれる湧水が、とっても多い。038 村屋(ムラヤー)から東に歩いて行くと、「上ヌ東門(ウィヌアガリジョウ)ガー」に出た。沖縄では、東はアガリ、西はイリという。これは太陽が東から上がり、西に入るから分かりやすい。門はジョーと読む。なぜ門がジョーなのかいまだによく分からない。

 このガーは、18世紀頃造られた共同井戸である。樋川と名のつくところは、石造りの樋で地下水を導いているが、ガーと名のつくところは、樋はない。文字通り井戸である。ただ、ここの井戸にはしっかりフタがしてあった。もう使われないのだろう。
 このガーでは毎年、旧暦9月に行われる「ウマーチヌウグヮン」と呼ばれる、防火防災の祈願で拝所の一つになっているそうだ。039

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ここ045_2 から下に下がったところに「下ヌ東門(シチャヌアガリジョウ)ガー」がある。でも、入る道がどれかわからなかった。ちょうど、そこへ人間一人がやっと通れる細道から、おばあが降りてきたので、連れ合いが行き方を尋ねた。
、「この道を上がっていけば東門ガーがあるよ」と教えてくれた。
 こちらは、フタはない。やはり共同井戸の一つで、18世紀頃に造られた。前面に水汲み場の石敷広場が設けられている。上下2段に分けられ、下段の広場は水を溜めて、洗濯やイモ洗いなどできるようになっている。この井戸に上から降りてくる道は、石畳である。

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 首里金城町の共同の井戸は、みんな18世紀頃に造られている。 なぜだろうか? 推測してみると、かつて、日照りで水がなくて 困ったことがあり、水源を探して井戸、樋川を造ったのではないだろうか。
 どの井戸、樋川も、見事な円形の石垣が築かれ、半月形の貯水池がある。そして広場は2段に分けられ、飲料に使った後、下の段では洗濯など出来る。さらに、排水溝があり、使用後の水は農業用水にも使うなど、とっても合理的な使い方をしている。水は人間の生存と生活に不可欠であり、かつ湧水だから、それほど多くはない。だから、とても貴重な資源であり、みんな大切に使った事がよくわかる。
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石畳を少し離れ、マルソウ通りに上がり、首里寒川町に入り、道路から少し降りると「寒水川樋川(スンガーヒージャー)」があった。おじいたちが、草刈り、清掃をしてくれている。
 「ごくろうさまです」と声をかけると、「樋川はこの下にあるよ」と教えてくれた048

 

 こちらも18世紀頃に造られた村ガー(共同井戸)の一つ。上水道が普及するまで住民の大切な生活用水だった。樋口の奥にある水脈から琉球石灰岩で造られたかけ樋で水溜りに導かれている(左上)。あふれた水は、下手の水溜りに集められ、洗濯などしたあと、農業用水として活用された(左下)。046

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041 歩いていると、やはりいろんな花に出合う。写真の花はあまり見かけないので、名前は分からない。
 首里の湧水は、まだ他にもあるが、首里金城町にこれだけ集中してあるのはなぜだろうか。
 人々が井戸を使うのには、道が欠かせない。飲み水を桶に汲み、この石畳の道を運んだことだろう。洗濯や芋など担いで洗いに通ったことだろう。昔の暮らしに思いをはせた。

2011年3月 8日 (火)

首里金城町の石畳道周辺を歩く、その1

 首里金城町の石畳道は、琉球王府時代か002_2 らの古い石畳が続き、沖縄らしい風情をかもす歴史の道である。500年もの間、風雨や戦乱にもめげず、耐えてきた道だ。首里城から南部に行く要路であり、ここに住む人々の生活に欠かせない水の確保にも貢献したという。
 といっても、石畳道が水の確保に欠かせないとは、どういうことだろうか? 実は、今回ここを歩いたのは、この付近がとても湧水が多い地域だったので、古い井戸(カー)などを見るためだ。この石畳道も、ここに降った雨は、地下を流れて井戸に流れていくという。この石畳道は、急傾斜の集落の中を、上下に通じる004 坂道だけでなく、縦横に石畳道が伸びている。
 下から石畳道を登ると、すぐ左に「新垣(アラカチ)ヌカー」がある(左)。005首里金城町の共同井戸の一つである。

 琉球王府時代の末期に、この屋敷の主である新垣恒俊氏が男子出産を祈り、私費を投じて造った井戸だという。
 この日、7か所回ったが、同じ湧水でも、「ガー(井戸)」と呼ぶ場所と、「樋川(フィージャー)」と呼ぶ場所がある。一体、どう違うのだろう。一つ一つ見てみると、その違いが分かった。「ガー」とは、文字通り井戸のように、その場所で水が湧き出ている。「樋川」とは、石垣より奥に水脈があり、そこから琉球石灰岩で造られた樋(トイ)で水を導き、半月形の貯水池に溜まる。必ず、樋から水が出る仕掛けになっている。上の写真の新垣ヌカーは、井戸だから樋がない。010_2
 新垣ヌカーから左に進むと「金城大樋川(カナグシクウフフィージャー)」がある(左)。こちらはとても規模が大きい。やはり共同井戸だ。二つのかけ樋で地下水を導き出している。
 昔は、坂道を上下する人馬が、水で喉を潤し、一息入れた場所だった。ここの少し東の方に、薩摩に学び、琉球で最初に和紙をすいた人の屋敷跡がある。17世紀末頃、この樋川の水で和紙が作られたという。由緒あるフィージャー(樋川)である。011

場所を文字で説明しても分かりにくい。案内板があった。016 

 この近くに「潮汲ガー」があるはずで、探したが、道路拡張の工事中で、よくわからない。やはり共同井戸の一つであるが、不思議なことに井戸の近くまでかつては入江があり、水に塩気があったという。坂道を少し登ったこんな場所で、入江がきていたとか、塩気があったとは、にわかに信じがたい。でも残念ながら、このガーは分からなかった。

 
008_2   石畳道の両側の民家には、いろんな花々が咲いている。右は「メイフラワー」。和名は「フブキバナ」というそうだ。たしかに、花が散ると、細かな吹雪のように舞い落ちている。

 斜めに少し上がると「仲之川(ナーカヌカー)」があった。東には、先に見た金城大樋川があり、西には寒水川樋川(スンガーヒージャー)があり、その中間にあるからこの名前がついた。水質や水量がとても優れていて、日照りでも水量が枯れなかった。だから王府時代は、日照りの時は、首里城内の御用水になっていたという。 022
  見事な石積みのカーである。樋はない。石垣の右上に020_2 小さく見えているのは、このカーの拝所である。水は命の源であり、井戸、樋川は祈願の対象である。だから、かならず拝所がある。
 1883年6月の大雨の際に、壊れて王府の役職者、百姓ら45人が五万貫文を拠出し、王府に願い出て修理をしたことがある。その由来を刻んだ石碑がカーの入り口にあったが、沖縄戦で破壊され、いまその土台と碑の一部が残っている(右)。
 集落の中央部の石畳道に戻ってくると、赤瓦の家があり、開けっ放しで、とても開放的な家なので、何かな、と思って行くと「村屋(ムラヤー)」だった。いわば地域の公民館のようなものだ。石畳道は、観光客がとても多いので、そういう人たちも自由に使って下さいという。032
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 村屋をこんな形で開放しているところは、初めてだ。さっそく中に上がらせてもらった。部屋に入って、なにより目を引くのは、旗頭の頂部に載せる飾りである。
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見事な飾りである。これを太くて長い竹竿の頂部に載せる。若者たちが、交代でこれをお腹に載せて勇壮に舞う。祭りにはつきものである。034
 ちょうど、旗頭を持って舞っている写真があった。首里金城町の旗頭は「雄飛」の言葉が掲げられている。この文句は、町によってすべて異なる。鉦や太鼓に合わせて、揺らせると、頂部の飾りがユサユサと、踊るように揺れる。
 11月の首里城祭の時には、首里城の近くを国王、王妃をはじめとする王府時代の行列を再現する古式行列がある。その時、首里金城町の旗頭も見た記憶がある。

 最後におまけ。ネコが3匹のんびりと日向ぼっこをしていた。近づいても逃げない。
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沖縄で猛反発を受けるメア発言

 米国務省日本部長のケビン・メア(前在沖総領事)が、沖縄人は「ゆすりの名人」「怠惰」などと発言したことが、県民の猛反発を受けている。発言は昨年12月、アメリカン大学の学生に向けた講義だ。
 メアいわく。米軍基地は田んぼの中に造り、沖縄人が基地周囲を都市化した。
 (沖縄の)3分の1は軍隊がなければ平和になると信じている、話をするのは不可能だ。
 沖縄県知事は、「お金が欲しければ(移設案に)サインしなさい」。
 沖縄の人々は日本政府を巧みに操り、ゆすりをかける名人である。
 沖縄の人は、ゴーヤーを怠惰すぎて栽培できない。
 普天間飛行場は、福岡空港や大阪伊丹空港と同じように危険だ。
 あまりにも低劣で、偏見と無知に満ち、怒りを通り越してあきれる。沖縄はアメリカが血を流して取った島だという感覚、県民を見下す植民地主義者のような感覚だ。
 彼は、沖縄にいた時代から、県民を逆なでするような暴言を繰り返し、一度はカフェで、コーヒーを浴びせられたこともある。コーヒーをかけるのは、適切ではないが、それだけみんなのひんしゅくをかっていたのだ。
 県内では、ただちに県議会が全会一致で抗議決議を上げるのをはじめ、各界から怒りと抗議の声が噴き上がっている。このような人物を日本部長に任命するオバマ大統領にも、怒りの矛先は向かっている。メアのような県民を愚弄する言動は、戦後に幾度となくあった。嘉手納基地の爆音を「自由のメロディ」という司令官の「軍政府はネコで沖縄はネズミ。ネズミはネコが許す範囲でしか遊べない」などなど。やはり、広大なアメリカ軍基地が戦後66年がたっても居座り続け、県民の命と暮らしを脅かしていることに、こうした人物と言動が出てくる根源がある。
 ただ、今回とても救われる思いがするのは、メア講義を受けた学生が、昨年12月に沖縄を見て、実際の沖縄と県民はメア発言とは違うと感じ取っていることだ。
 「琉球新報」8日付によると、学生は、激戦地・糸満の轟の壕に入り、沖縄戦の体験を聞き涙を流したり、普天間基地を見て、民間地に近く危険だと感じた。稲嶺名護市長と面談し、「沖縄はまだ軍と戦争に囲まれている。米国は沖縄の人々を傷つけている」と思った。米軍ヘリパット建設が進む東村高江で、抵抗する住民の姿に「わずかな人数で大きな米軍と闘っている」と勇敢さに驚いたという。
 メア発言の実際の沖縄の現実との乖離に気付いたという。
 アメリカの若い学生たちが、素直な目で見れば、他国の美しい島に、巨大な米軍基地が存在し続ける沖縄の異常さは感じ取れるはずだ。メア発言は、アメリカ人にも受け入れられないものであることがよくわかる。

2011年3月 6日 (日)

「トイレの神様」のおばあちゃんは沖永良部島出身だった

植村花菜さんの「トイレの神様」について、12月にブログにアップした。「12」さんがコメントしてくれて、植村さんが雑誌「文芸春秋」3月号のエッセイで、彼女のおばあちゃんが沖永良部島(オキノエラブジマ)の出身だと書いているそうである。なぜか「コメント返し」がうまくできないので、別に書いておくことにした。「12」さん、コメントありがとうございました。010
 「トイレの神様」がヒットして、沖縄では「歌っている人は沖縄の人じゃないの」という声がある。それは、トイレに神様がいると考える人は、沖縄しかいないじゃないか、と思うからである。たしかに,沖縄では普通のことだが、大和では考え付かない発想だ。だからとても、この歌は意外性をもって受け止められた。
 植村さんのおばあちゃんがなぜ「トイレに神様がいる」と思っていたのか、その理由がこれまでわからなかった。しかし、沖永良部島の出身だと聞けば、おばあちゃんの謎が一気に氷解した。沖永良部島も沖縄と同じように「トイレに神様がいる」と考えられているという。
 沖永良部島は、奄美諸島の中でも、沖縄にとても近い。昔は琉球王国に属していたので、沖縄の民俗・文化の共通点が多い。いわば「琉球文化圏」といえるだろう。
 植村さんは、自分のブログで書いている。
 「私のおばあちゃんの故郷です。おばあちゃんの家には昔から沖永良部島の写真を飾っていました」。幼い頃「花菜が大きくなったら一緒に行こうね」と約束していたそうだ。
 ようやく今年になり、念願のこの島に行ってきたという。松岡修造の「修造学園」という番組の収録でいったそうである。植村さんは、島で「トイレの神様」を実際に見てこれたのだろうか。そこまでは、ブログには書いていない。
 沖縄では、トイレは「フール」という。だから「フールの神様」である。写真は、琉球新報の副読誌「うない」から紹介させてもらった。「トイレの神様」に祈願してお供えをしている風景である。

2011年3月 5日 (土)

パシフィック飛び渡った平良新助さん、その2

 沖縄からハワイに次々と移民が渡った。沖縄移民は、さらにアメリカ大陸に渡り、ハワイは「海外発展の跳躍台」になった。アメリカ大陸では、とても労働需要が増大し、賃金の安い移民は歓迎された。
 平良新助も、1904年(明治37)、ハワイからサンフランシスコに上陸した。皿洗いなど仕事を転々とするうちに、ニューメキシコに出て、ハウスボーイ、ガーデンボーイ、コック、バーテンなど下積みの生活で、朝4時から夜9時まで2年間働き続けた。白人にこき使われながら耐え、ようやくマトンという町で約1600坪の土地を買い家を建てた。039
 1919年(大正8)、ラトンからカリフォルニア州のブロレー市に移った。農業に適した土地で、日系人が多く、沖縄県人600家族が農業を経営していた。平良は、この日本人町でボーイ時代の経験を生かしてレストランを経営し、たちまち繁昌した。大勢の使用人を使うようになり、日用雑貨、食糧品など一般商品の販売にも手を広げた。
 この時、生活に困る人のため、食糧品を与えて生活を援助していたと報告されている。日系人の向上発展にも尽力し、日本人会、沖縄県人会長その他の要職にもつき、幅広く活動した。
 とくに、移民の向上発展を目的に沖縄海外協会設立に努力した。そのためわざわざ沖縄に帰り、その設立の必要性を説き、官民の間を奔走した。1924年(大正13)、ついに沖縄県会議事堂で設立総会を開くに至った。帰米後は同協会支部長や理事をつとめ、県人の海外発展に貢献した。
 1940年(昭和15)、ブロレー市の店を譲りロスアンゼルスに移った。彼は4男2女がいて、教育熱心で子どもの教育のため移ったという。日系人と沖縄出身も多数住んでいたロスの目抜き通りにホテルと雑貨店を経営した。
 ところが、翌年日米戦争が始まり、1942年に、米政府の敵国民立ち退き命令に従って、アリゾナ州ヒラの砂漠の日本人収容所に入れられ、抑留生活を送った。彼の男の子は兵役に服し、70歳の平良は妻と女の子を伴って、この収容所で3年間、毎日苦役を強いられた。1945年の終戦でやっと解放され、ロスに引き揚げた。そこから次の詩が生まれた(一番だけ)。
 すぎし3年の長年月 比良の砂漠の唯中に 押し込められて籠の鳥 馴れぬ暑さにかりの小屋 口も手足もままならぬ 番犬つける生活も 見張りの門を押し出され 苦労かたげていざさらば
 ロスで再びホテルを再建した。平良が経営するニューヨークホテルは規模を拡大してロスでも指折りのホテルになったという。
 平良は、沖縄の戦禍のことを聞き、戦後沖縄に配属された軍籍にある息子の便りで、戦禍が想像以上なのに驚いて、矢もたてもいられず1953年(昭和28)に急ぎ帰郷した。78歳だった。ロスのホテルは長男に任せた。荒廃した郷土にたって詠んだのが、後に「ヒヤミカチ節」の本歌となった琉歌である。
 「Photo_2 七転び転でひやみかち起きて わしたこの沖縄世界(うちなしけ)にしらさ」

 平良と親交の深い島松次という人は、平良の性格を次のように述べている。
 「平良は意志が強い、進取の気性に富み、熱血で思った事は何でもやってみたい、何事も人間の出来ないものはない、出来ぬは人が成さぬにあるのだと云う」「社会のため正義のために向かっては、たとえ身を殺しても戦って行くと云う信念の人である」「あの謝花昇が社会解放の父であり、当山久三が移民の父であれば、平良新助は北米移民開拓者の父であると云いたい」
 1963年、平良は88歳になり米寿で、子どもや親戚の者は世間並みの祝いしようと考えたが、断る。毎年村の「としよりの日」に招待されても「わしの性にあわん」と辞退したという。90歳で東南アジアを旅行し、インドにも行き、ガンジーの墓参りをした。1965年には、海外移民の功労者として琉球新報賞を受賞した。
 帰郷した翌年、今帰仁村に家を建て妻と余生を送った。これまで紹介した大里康永著『平良新助伝』が完成した後、1970年(昭和45)、平良新助は94歳で亡くなった。
 右は『平良新助伝』に掲載されている「ひやみかち節(大衆曲)」の工工四(クンクンシー、楽譜)
 波乱万丈の生涯であるが、「ヒヤミカチ」精神を体現するような熱血漢であり、不屈の信念の持ち主だったようだ。「ヒヤミカチ節」を弾くたびに、平良さん、山内盛彬さんが頭をよぎる。

2011年3月 4日 (金)

3月4日は「さんしんの日」心ひとつに

 3月4日は、ゴ023 ロ合わせで「さんしんの日」である。「三線の楽しみを多くの人と分かち合いたい、沖縄中を一つにできることはないか」と、琉球放送の元ディレクターで、パーソナリティの上原直彦さんが1993年に提唱して始まった。今年で19回目となる。
 メイン会場は、読谷村文化センター・鳳ホールである。正午から午後9時まで、時報に合わせて、いっせいに三線を弾く(右)。なにしろ、沖縄では、25万丁の三線がある、5人に1人が持っている計算だ。
 県内外から海外まで、一つの楽器で一つの曲を1時間ごとにいっせいに演奏する、という催しは他にないだろう。三線ならではの、とってもユニークな企画である。演奏するのは、沖縄の代表的な祝い曲「かぎやで風節」(カジャディフウブシ)である。写真は、琉球放送のテレビ放送から紹介させてもらった。
 027 メイン会場がなぜ読谷村なのか? それは今から500年前に、沖縄に三線と歌を広め「歌三線の始祖」ともいわれる赤犬子(アカインコ)が生れた土地だからだろう。
 会場の舞台には、「かぎやで風節」の巨大な工工四(楽譜)が掲げられ、覚えていない人でも弾ける。時報の前には、「チンダミ」をしてみんなの音を調弦する。会場は、3部入れ替え制で県内各地から集まった愛好家が時報ごとに演奏した。古典音楽や民謡の演奏、琉球舞踊が披露された。031

 会場に行けない人も、自宅でいっしょに演奏できるのがこの企画の魅力だ。今年は、パソコンでも動画でライブ中継を見られたので、会場内外の模様が手に取るように分かった。わが家でも、時報に合わせて3回演奏してみた。最初は、ラジオの音が小さく、バラバラになったが、2回目からはなんとか合った。県内外の人たちと一体感が持てた。

054_2 会場では、民謡界の若手、中堅、大御所が次々に登場して、見事な歌三線を披露した。与那国島出身の宮良康正さんは、小浜節など聴かせた(右下)。045

 県内各地の催しも多彩である。離島の伊是名島、久米島、石垣島、宮古島をはじめ、本島の本部町、宜野座村、うるま市、那覇市、豊見城市、与那原町などで集まり、いっせいに演奏した。読谷村では、赤犬子宮で奉納007 演奏、奉納舞踊が行われた。左はパソコンの動画から、赤犬子宮の演奏。
 那覇市で視覚障害者福祉協会・若松の会、与那原町東浜では、名曲「兄弟小節」(チョーデーグヮーブシ)の作者・前川朝昭さんの一門である前川本流一門会が、この名曲の歌碑の前で演奏した。私の知り合いのHおじいもこれに駆け付けたようだ。豊見城市では、八重山、宮古の民謡協会の人たちが独自の催しもした。県立芸術大学でも取り組まれた。

 テレビでは、楽屋裏の光景も「突撃リポート」がされた。右は、歌手の前川守賢、RBCの箕田和男アナウンサーから取材を受ける女性歌手の3人組042

県外では、東京、神奈川、千葉、長野、兵庫の各都県でイベントがあったようだ。「三線毛遊び」と昔、野原に出て歌い遊んだのにちなんだ企画もある。さらに、沖縄ならではというのは、戦前からハワイ、北南米など海外に移民でたくさんのウチナーンチュが出ていったので、海外で三線文化を受け継ぎ、広めている。だから、ハワイをはじめ海外でも沖縄と心を一つにして、ともに演奏した。
 来年は20回目の節目となる。提唱者の上原直彦さんは、もう「明日から、『さんしんの日』まであと365日」と張り切っている。028

2011年3月 3日 (木)

パシフィック飛び渡った虎・平良新助、その1

 「ヒヤミカチ節」の本歌を詠んだ平良新助さんは、波乱万丈の生涯を送っている。大里康永著『平良新助伝』をもとにして、少し紹介したい。これを読むと、時代に向き合い、自分の信じる道をひたすら駆け抜けた人だとわかる。
068  平良は1876年(明治9)に今帰仁村で生れた。村から選抜されて、首里の中学校に進学した。当時の奈良原県知事が明治26年頃から、貧窮士族の救済の名目で、住民が薪炭、用材を採取するなど共同で利用していた杣山の開墾政策を進めた。開墾は、山林を乱伐し、一部特権階級と知事の関係者らに払い下げるものだった。その結果、本部、今帰仁等の農民は苦境に追いやられた。農民はこの開墾政策に強く反発した。この時、県の開墾事務取扱主任だった謝花昇がこれに反対した。今帰仁村では、開墾阻止に村民の猛烈な抵抗が行われた。
 平良は当時、間切(今の町村にあたる)の総代になっていた。さっそく各字から総代27名を招集し、交渉団体を結成し、その先頭に立ち、果敢な闘争を展開した。左写真は、平良さんの生れた今帰仁村の今帰仁城跡。

 一方、謝花は、抗議集会や演説会を開き、農民の喚起を即していた。謝花の熱と意気に感動した熱血漢の平良は、学業を投げ打ってその門下に走った。平良は、謝花らとともに、農民のため各地をかけてきた経験を生かして頑張った。「此の時の彼の奮斗ぶりは実にあざやかで、農民の信頼を一身に集めたようである」。
 この後、謝花らは奈良原知事の暴政に対抗し、政治結社の沖縄倶楽部を結成し、参政権獲得、政治的な自由獲得をめざす自由民権運動を展開する。運動のメンバーは、謝花が33歳で、30歳前後の若者が多い中、平良は20歳の最年少で身を抗争に投じた。
 民権運動の闘士たちが心血を注いだ参政権獲得も、結局時期尚早とされ、同志たちは窮地に追いやられた。「自由の失われた沖縄にとどまるよりも、海外に雄飛して自由の天地を建設し、理想の社会を想像することが大切である」という声があがり、海外移民運動を起こすことになる。とくに当山久三は、先頭に立って進めた。
 025_3 平良は、東京に出て外国語学校で英語を学んだ。沖縄からハワイにわった人たちは、契約移民として、サトウキビ畑で過酷な労働を強制された。その後、契約制からは開放されたが、移民の酷使、虐待の噂が沖縄にも流れた。
 海外雄飛に心を向けていた平良は、1901年(明治34)ハワイに着く。ハワイの事情や移民の動静、労働事情など詳しく現地報告を行い、正確な情報を提供した。
 この頃、ハワイからさらに広大な米大陸へ転航するものが増える。アメリカは労働需要が増え、賃金の安い移民が歓迎された。ハワイには第2次、3次と移民が来る。平良は、耕地を転々とする移民たちの、移転に当たって必要な問題の解決や一行の就職、読み書きできない人たちへの指導や啓蒙、一身上の世話など、移民が定住する基礎を確立するため努力した。
 「ヒヤミカチ節」の替歌である「私は虎である 羽をつけてくれれば波路パシフィックを飛び渡っていく」という歌詞は、山内盛彬さんの作歌であるが、平良さんの人生そのもののようである。

 写真は「メイフラワー」。文字通り5月の花だが、沖縄ではいま盛りの花だ。平良さんと無関係。ただ、400年近く前、イギリスから移民を乗せアメリカに渡った貨物船の名前が「メイフラワー号」だったことを思い出した。
 長くなるので、平良さんがアメリカ大陸に渡って以降は、次にしましょうね。

2011年3月 2日 (水)

「ヒヤミカチ節」余聞その2、平良新助と山内盛彬

 「ヒヤミカチ節」について、作曲した山内盛彬(せいひん)さんがいきさつを書いているのを紹介した。これに関わり、作詞をした平良新助さんの伝記を読んでいる。大里康永氏が書いた『平良新助伝』である。大里さんは、沖縄自由民権運動の先駆者、謝花昇についての名著がある。謝花のもとでこの運動に加わった平良さんの伝記も残したいと、民権運動の唯一の生存者だった91歳の平良さんにインタビューして、1968年に書き上げた著作である。
 平良さんの生涯について、別にふれたい。アメリカに移民として渡った平良さんが、戦後帰郷したさい、「ヒヤミカチ節」の民謡になった琉歌を詠んだいきさつを記している部分を紹介したい。039_2
  「平良は帰郷の際ロスアンゼルスのホテルを長男の一三にまかせ、52年間のアメリカの生活に別れを告げて郷里に帰って来たのである。帰郷後一時首里に住む二男の東虎の家に身を寄せていたが、終戦直後のことで人心はすさび世相は暗かった。彼は荒廃した郷土に立って次の琉歌を詠んでいる。
 七くるびくるびひやみかち起きて わしたこの沖縄(うちな)世界(しけ)にしらさ
 この歌は後に『ひやみかち節』として山内盛彬が作曲した。現在沖縄でこの歌を知らないものはない位に多くの人に愛唱されているが、この歌詞には、平良の魂が盛りこまれて、彼の一面がうかがい知ることが出来る。そして現実に平良の生活は、七転びくるびひやみかち起(う)きての連続であった」。
 右写真が平良新助さん。大里康永氏著作の伝記から紹介させてもらった。

 この伝記の最後に、「ひやみかち節(大衆曲)」の工工四(楽譜)が掲載されえいる。作歌平良新助、作曲山内盛彬と書かれているが、面白いのは、最後に歌詞として3つの琉歌が載せられ、解説がついていることだ。これをみると、本歌と替歌に分かれている。
 本歌「七転び転でひやみかち起きて わしたこの沖縄世界に知らさ」(平良作)
 替歌「花や咲き美(ヂュラ)さ音楽(ガク)や鳴り美さ 聴かさなや世界(シケ)に音楽の手並(テナミ)」(山内作)
   「我身(ワン)や虎だいむぬ(デムヌ)羽(ハニ)つけて給ぶれ 波路パシフィック渡て身やべら(シャビラ)」(山内作)
 解説の中では、平良さんの琉歌を引用して「ロスアンゼルスの熱血児平良新助氏の民族興振の作歌に作曲した」と記されている。山内さんが記したような解説文である。
 というわけで、平良さんが作詞したのは本歌で、替歌として山内さんが、2つの琉歌を詠んでいる。Photo
 山内さんは、琉球古典音楽を研究し、琉球王府おもろを継承するなど琉球音楽に精通する一方で、とても広く海外に目を向けていた。戦後、北南米、アフリカ、インドネシア、中国を民族音楽を調査して回った。ブラジルで開かれた国際民族音楽会議に出席している。ヘブライ文化と琉球芸能の関係を考察するなど、国際的な視野をもつ人だ。
 「私は虎だ、羽をつけてくれれば波路パシフィックを飛び渡っていくよ」というような、勇躍する琉歌を、山内さんが詠んだことももっともだ。これを読むまでは、平良さんがアメリカに移民として渡った経験から、詠んだ琉歌なのかと誤解していた。でも、山内さんの作歌であることが、とてもよく納得できた。

 右写真は、『山内盛彬著作集第1巻』から紹介させてもらった。

2011年3月 1日 (火)

「ヒヤミカチ節」余聞その1、山内盛彬さん

 山内盛彬(せいひん)さんと言えば、琉球音楽の研究者で、「王府のおもろ(神歌)」の伝承者であり、かつ名曲「ヒヤミカチ節」の作曲で知られる。今年は、生誕120年にあたり、記念事業として山内さんの歌碑を建立するそうだ。3月14日には、そのための資金造成公演もあるという。
 「ヒヤミカチ節」については、前にもブログで書いた。山内さんの著作集を見ていたら、この曲の作曲のいきさつを書いていたので、紹介しておきたい。著作集第3巻、「ふるさとの音楽」の中に「ひやみかち節」と題する短文があった。017
  写真は、「ヒヤミカチ節」が演奏された離島フェアー。

 「七転び転でひやみかち起きて わしたこの沖縄世界(しけ)に知らさ ヒヤヒヤヒヤヒヤミカチウキリ 
 私はこの曲を作ったのを忘れていたが、帰郷早々バスの中できかされ、この曲が私よりも先に来て、私を迎えてくれたのには恐縮した。この歌はアメリカから錦を飾って帰郷された今帰仁在の詩人平良新助さんの力作です。氏がロスアンゼルス在中、ハワイの仏教界の恩人玉代勢(たまよせ)法雲先生がこの歌を持って東京の私の家にみえ『大戦でうちひしがれた人心を復興するには、この歌を作曲して奮い立たしたらどうか』とすすめられた。その歌を一回見るや、その熱意に動かされ、ヨシー、ヒットして同胞の目をさまそうと決意した。作曲というものはその意欲のクライマックスの感じをとらえることだ。そして旋法も民族心理にぴったりする嬰陰旋法をとった」(注・嬰陰旋法とは山内さんが名付けたもの)
 当時、山内さんは東京に住んでいたようだ。平良さんの琉歌に込められた熱意に突き動かされ、沖縄戦で郷土が地獄と化した上に、異民族の統治下にある沖縄の同胞を鼓舞しようと決意して作曲したことがわかる。平良さんと山内さんの思いが重なって生れた名曲だったのである。
 レコード吹き込みの意外ないきさつも記されている。
 舞踊家の榊原氏が「沖縄の学校で舞踊講習をするが、何かよい曲はないか」ときかれたので、この曲をあげたら、コロンビア社で、オーケストラに山内さんの三線を入れて吹き込んだという。
 「このレコード歌は童謡式であるにも関わらず、学校の門を越えて社会にもとびこみ、山奥の青年会や婦人会や子どもにまで、燃えひろがったのは、平良氏の情熱の結晶した結果で外人にも最も好かれた歌曲である」
 ただ、「ヒヤミカチ節」の歌詞は、手元にある工工四(楽譜)では6番まであるが、全部平良さんが歌詞を作ったのではない。「七転び転で」の琉歌だけのようだ。」山内さんも作っている。他の人が作った歌詞も加わっていると聞く。
 山内盛彬さんは、自分でいろんなところで、琉歌を詠んでいる。
 「ブラジルのサンパウロで、土地の有志方の企てで、自作自書の琉歌碑、サンパウロの日本荘に建てた」と言って、次の琉歌を紹介している。
 「平和しぬくゆる 武器よさめ楽や 原子爆弾も 吹きよ散らせ」
 「(解)音楽は世を和やかにする平和の武器で、原子爆弾を吹き散らすのは音楽である」
 この琉歌について「世界平和の希望に燃えている心の叫びである」と述べている。
 山内さんの平和への熱い願いが込められた琉歌である。
 ヒヤミカチ節については、まだ次に続く。

 

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