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2011年3月 5日 (土)

パシフィック飛び渡った平良新助さん、その2

 沖縄からハワイに次々と移民が渡った。沖縄移民は、さらにアメリカ大陸に渡り、ハワイは「海外発展の跳躍台」になった。アメリカ大陸では、とても労働需要が増大し、賃金の安い移民は歓迎された。
 平良新助も、1904年(明治37)、ハワイからサンフランシスコに上陸した。皿洗いなど仕事を転々とするうちに、ニューメキシコに出て、ハウスボーイ、ガーデンボーイ、コック、バーテンなど下積みの生活で、朝4時から夜9時まで2年間働き続けた。白人にこき使われながら耐え、ようやくマトンという町で約1600坪の土地を買い家を建てた。039
 1919年(大正8)、ラトンからカリフォルニア州のブロレー市に移った。農業に適した土地で、日系人が多く、沖縄県人600家族が農業を経営していた。平良は、この日本人町でボーイ時代の経験を生かしてレストランを経営し、たちまち繁昌した。大勢の使用人を使うようになり、日用雑貨、食糧品など一般商品の販売にも手を広げた。
 この時、生活に困る人のため、食糧品を与えて生活を援助していたと報告されている。日系人の向上発展にも尽力し、日本人会、沖縄県人会長その他の要職にもつき、幅広く活動した。
 とくに、移民の向上発展を目的に沖縄海外協会設立に努力した。そのためわざわざ沖縄に帰り、その設立の必要性を説き、官民の間を奔走した。1924年(大正13)、ついに沖縄県会議事堂で設立総会を開くに至った。帰米後は同協会支部長や理事をつとめ、県人の海外発展に貢献した。
 1940年(昭和15)、ブロレー市の店を譲りロスアンゼルスに移った。彼は4男2女がいて、教育熱心で子どもの教育のため移ったという。日系人と沖縄出身も多数住んでいたロスの目抜き通りにホテルと雑貨店を経営した。
 ところが、翌年日米戦争が始まり、1942年に、米政府の敵国民立ち退き命令に従って、アリゾナ州ヒラの砂漠の日本人収容所に入れられ、抑留生活を送った。彼の男の子は兵役に服し、70歳の平良は妻と女の子を伴って、この収容所で3年間、毎日苦役を強いられた。1945年の終戦でやっと解放され、ロスに引き揚げた。そこから次の詩が生まれた(一番だけ)。
 すぎし3年の長年月 比良の砂漠の唯中に 押し込められて籠の鳥 馴れぬ暑さにかりの小屋 口も手足もままならぬ 番犬つける生活も 見張りの門を押し出され 苦労かたげていざさらば
 ロスで再びホテルを再建した。平良が経営するニューヨークホテルは規模を拡大してロスでも指折りのホテルになったという。
 平良は、沖縄の戦禍のことを聞き、戦後沖縄に配属された軍籍にある息子の便りで、戦禍が想像以上なのに驚いて、矢もたてもいられず1953年(昭和28)に急ぎ帰郷した。78歳だった。ロスのホテルは長男に任せた。荒廃した郷土にたって詠んだのが、後に「ヒヤミカチ節」の本歌となった琉歌である。
 「Photo_2 七転び転でひやみかち起きて わしたこの沖縄世界(うちなしけ)にしらさ」

 平良と親交の深い島松次という人は、平良の性格を次のように述べている。
 「平良は意志が強い、進取の気性に富み、熱血で思った事は何でもやってみたい、何事も人間の出来ないものはない、出来ぬは人が成さぬにあるのだと云う」「社会のため正義のために向かっては、たとえ身を殺しても戦って行くと云う信念の人である」「あの謝花昇が社会解放の父であり、当山久三が移民の父であれば、平良新助は北米移民開拓者の父であると云いたい」
 1963年、平良は88歳になり米寿で、子どもや親戚の者は世間並みの祝いしようと考えたが、断る。毎年村の「としよりの日」に招待されても「わしの性にあわん」と辞退したという。90歳で東南アジアを旅行し、インドにも行き、ガンジーの墓参りをした。1965年には、海外移民の功労者として琉球新報賞を受賞した。
 帰郷した翌年、今帰仁村に家を建て妻と余生を送った。これまで紹介した大里康永著『平良新助伝』が完成した後、1970年(昭和45)、平良新助は94歳で亡くなった。
 右は『平良新助伝』に掲載されている「ひやみかち節(大衆曲)」の工工四(クンクンシー、楽譜)
 波乱万丈の生涯であるが、「ヒヤミカチ」精神を体現するような熱血漢であり、不屈の信念の持ち主だったようだ。「ヒヤミカチ節」を弾くたびに、平良さん、山内盛彬さんが頭をよぎる。

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コメント

平良新助さんは相当な熱血漢で、正義感、使命感にあふれる方だったんですね。人生、まさに「七転び八起き」じゃないですか。それにしても長生きですね~。収容所生活を全うしただけでもすごい。沖縄にいたときは困窮する農民のために奔走し、アメリカに渡っては沖縄移民の生活向上のために粉骨砕身する。「ヒヤミカチ節」が語られる時、山内盛彬さんに焦点があてられがちですけど、平良新助さんの人生あっての唄ですよね。今年秋には「世界のウチナーンチュ大会」があります。平良さんのことがもっととりあげられればいいですね。

平良新助さんは相当な熱血漢で、正義感、使命感にあふれる方だったんですね。人生、まさに「七転び八起き」じゃないですか。それにしても長生きですね~。収容所生活を全うしただけでもすごい。沖縄にいたときは困窮する農民のために奔走し、アメリカに渡っては沖縄移民の生活向上のために粉骨砕身する。「ヒヤミカチ節」が語られる時、山内盛彬さんに焦点があてられがちですけど、平良新助さんの人生あっての唄ですよね。今年秋には「世界のウチナーンチュ大会」があります。平良さんのことがもっととりあげられればいいですね。

 そうですね。何回も困難にぶち当たりながらたくましく乗り越え、しかも困っている人のために尽くす。そして自分も大いに成功したわけだから、感心するね。山内盛彬さんの生誕120年で碑を建立するためのイベントがあるけれど、「ヒヤミカチ節」を口にする時には、必ず平良さんのことを紹介してほしいですね。

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