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2011年3月26日 (土)

首里の桃原付近の湧水を巡る、その1

 首里は湧水がとても多い。首里金城町に続いて、首里の山川から儀保に抜ける桃原(トウバル)本通りの付近の湧水を訪ねた。 281  最初に行ったのは、佐司笠樋川(サ277 シカサヒージャー)だ。ここは、琉球最後の国王、尚泰の四男、尚順の屋敷だった「松山御殿」(マツヤマウドゥン)のすぐ裏側にある。でもいまだに尚家の敷地内だ。といっても、かつての桃原村の貴重な水源だったので、自由に出入りして下さいとの表示があった。でも、地元の人は、いま水汲みには来ない。命の源である湧水はどこでも、祈願の対象だ。だから「拝みをなさる方へ」呼びかけている。
 入っていくと、驚くほど立派な樋川だった。琉球の黄金時代を築いた尚真王の長女、佐司笠按司加那志(サシカサアジカナシー)が、フクギの大木にいつも鷺(サギ)が止まるのを見て、掘り当てたという由来のある樋川だ。見事な琉球石灰岩の円形の石垣が三段に積み上げられている。これほど見事な円形の石積みは、樋川でも指折りだろう。
 どんな干ばつにも水は枯れずに住民を助けた。村の貴重な水源だった。いまでも水量が多く、井戸拝み(カーオガミ)に訪れる人が後を絶たないという。
 296

 降りて行くと、石垣の奥の水源から石造りの樋で水を流している。水槽は半円形で、これも見事な石積みだ。

 そばに奇妙な石があった。301 直径1㍍くらいはある。なんのためだろうか。他の井戸では見たことがない。説明は何もないので分からない。それにしても、よく固い石をこれほど丸い形に仕上げたものだ。丸い石が置かれた外側の敷石も、この円形に石に合うように、石を加工している。

 琉球王府時代の石積みの技術には、つくづく感心する。それに、この樋川は、沖縄戦で激戦の地なのに、破壊されずに残ったのだろうか。説明はないので、多分残ったのだろう。

 同じ敷地内のすぐ側に、「昔石道」(ンカシイシミチ)があった。石畳の道を降りて行く。トンネル283 のようなところを通りぬけて、さらに降りる。
287

 

 トンネルというのは、実際は橋の下をくぐる。そこを出ると、また湧水があった。
 世果報御井小(ユガフーウカーグヮー)という井戸だ。王朝時代より炊事、洗濯など生活用水として使われた泉である。水がわいているので樋はない。288_2
 沖縄戦で埋没したけれど、昭和61年(1986)に掘り出された。その際、古い鍋や食器類が出土し、戦争中にここで炊事をし飢えをしのいだ悲惨な状況が偲ばれたという。説明を書いた案内板が、もう剥げてきて字がまともに読めない。推測を含めてこんな説明だった。
 桃原大通りを下に少し降りると、谷川のそばに加良川(カラガー)がある。谷川が流れているが、この川の岸に共同井戸がある。川岸にある岩の洞穴から流れ出る水をせき止め、その前に石畳の水汲み広場が設けられている。ただ、いまは危ないから鉄板で蓋をしている。313_2

 この井戸の上に橋がある。橋から井戸に降りてくる石畳の道が残っている。道幅を広くとり、川沿いに一段と高い道を設けて、水汲みに集まる人々が、順序良く出入りできるように工夫されているそうだ。316

 右写真の真ん中の上に碑が建っている。この碑は、井戸とは関係ない。
 実は、琉球王府の時代、18世紀に初めて歌三線と台詞、踊りの総合芸能である「組踊(クミウドゥイ)」を創作した玉城朝薫(タマグスクチョウクン)の生誕の地を示す碑である。
 朝薫は、王府で踊奉行をつとめ、中国から琉球国王を任命するためにやってくる冊封使(サッポウシ)を歓待するために、「組踊」を創作した。朝薫の創作した「執心鐘入」など「5番」と言われる「組踊」は、いまなお繰り返し繰り返し、いろんな時に上演される。
 昨年、「組踊」はユネスコの無形文化遺産として認定された。朝薫も、自分が創作した芸能が世界で認められるとは、思いもしなかっただろう。ただ、もともと創作した目的は、冊封使に見せるためだったので、当時の中国は世界の超大国であり、本来、外国の賓客に見せるという国際性をもった芸能でもあったのである。
 朝薫については、昨年浦添市にあるお墓を見に行ったことを、ブログで11月にアップしているんで、関心のある方は見てみて下さい。

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 参考のため、朝薫のお墓の写真ものせておきましょうね。011

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コメント

いやー、松山御殿の後ろにあんな立派な樋川があったとは!いつもあそこにはランチ食べに行って、御殿の庭しかみないから・・・。改めて樋川を見ると、そこで暮らしがあったことの実感がわきますな。繁多川のカーまーいをしたときに案内してくれた地元の老人が教えてくれましたが、首里、繁多川周辺にあるカーや樋川は立派な石積みの頑丈な造りをしているが、当時石大工職人が首里城下に多かったことを表しているとのことでした。なるほど、サシカサヒージャーなどを見ると、とても素人にはできない、造れないですね。それにしても今でも水が湧き出ていて、首里って水が豊富なんですね。見ごたえがあります。金城、桃原意外にヒージャーやカーはもうないんでしょうか。行ってみたいものです。ただし、石段が急なので、膝が痛くなりますけど。(苦笑)

 佐司笠樋川を探していて、付近にいた人に聞いたけど、地元の人でなかったのか分からなかった。でも実際は、目の前の尚家敷地の庭にあった。一見してただの庭なのに、こんな見事な樋川があったとは、驚きですね。
沖縄は、山のある北部以外は、通常の川がほとんどないから、みんなどの地域も湧水がある。首里付近もそれぞれの地区にあるはずよー。南部一帯はよい井戸、樋川が多いね。でも隣の浦添市も湧水が多いけれど、首里ほど立派な石積みはないみたい。首里に石大工が多かったからでしょうね。それと費用もかかるので、首里の方は費用が用意できたのかなあ?

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