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2011年3月27日 (日)

首里の桃原付近の湧水を巡る、その2

 首里の桃原(トウバル)本通りの付324 近は、湧水がとても多い。この辺りはとても急傾斜地である。普通の谷川はあるが、排水も流れてくるので、飲料にはならなかったのだろう。なんといっても、暮らしに欠かせないのは、湧水である。モノレールの儀保(ギボ)駅から少し下ると、宝口樋川(タカラグチフィージャー)の標柱がある。
 この標柱だけでは場所がわからない。通りかかった若い女性に尋ねると、「谷川に沿って少し下るとありますよ」と教えてくれた。湧水はどこでもけっこう分かりにくい場所にある。近くにいる人でも、地元に住んでいる人でないと尋ねても分からない。
 宝口樋川は、この地によい水が湧くことは知られていたけれど、不便な場所であること、当時、住民がそんなに水に困っていなかったことから、顧みられなかったという。
 宝口よりもう少し上に登ったところの当蔵(トウノクラ)村の宮城筑登之親雲上(ミヤギチクドゥンペーチン)という人が、その湧水を惜しみ、賛同者をつのり24人が費用を出し合い、道を整え、樋川を設けた。宝口という地名に湧く樋川なので「宝樋」と名付けたという。

335  樋川は大雨にあって一度壊れて、修理しようとしたが、費用がかかり困っていた。ところが、赤田村に住む宮城筑登之の母親から費用負担の申し出があったので、無事工事を進めることができて、樋川はよみがえったという。
 ここには、とても立派な碑(右)がある。右から「宝碑」と記され、この樋川の由来など記されれている。                          

                                                                        
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 碑の表は1807年に記されたもの。碑の裏は、1842年に記されているという。とても由緒ある石碑である。この碑も、沖縄戦で失われた。それが1986年、下を流れる真嘉比(マカヒ)川の改修工事によって、川床から碑の大部分が発見された。現物は、かなり破壊され、摩耗が激しいため、新たに復元することになり、1995年に復元されたそうだ。
 この宝口樋川の近くに、紙漉所跡(カミズキショアト)の案内板があった。琉球王国時代から昭和初期にかけて、この宝口では紙漉が行われていたそうだ。
 322 琉球では、1694年に大見武憑武(オオミタケヒョウブ)が、薩摩から紙漉の技法を習得して帰り、首里で紙漉をするようになった。
 1840年、儀保村の一角、宝口に家屋を建て、製紙区域として、製造が途絶えていた百田紙の製造を行わせたのが始まりだと言う。
 首里の山川町では、芭蕉紙、宝口では、百田紙が作られた。百田紙は、コウゾの樹皮でつくる和紙である。

 紙漉は、水がなければできない。宝口樋川があったので、この地で紙漉ができたのだろう。
 

 桃原大通りを南に行った山川の近くの急傾斜地の道と階段を下りて行くと、「さくの川」の樋川に出る。急な崖下から湧き出る地下水を導き出した共同井戸だ。347_2  地下水は、崖の相当奥にあるようで、巾30㌢、長さ80㌢に加工された琉球石灰岩を10個ばかりつないだ樋で水を導いている。この水路の中も、内部が崩れないように、石垣を設けているという。344 まるでトンネルのようになっている。

 この水は、村人の飲料水や生活用水として使われた。
 水汲み広場は、約1㍍ほど掘り下げ、樋口から外に向かって扇形に造られている。
 ここからあふれ出た水は、北西に流れをつくり、その谷間の南斜面には、王家御用の芭蕉園があった。ここの芭蕉を用いて、紙漉が行われていた。芭蕉紙が作られた。
 この辺りは「紙漉山川(カビシチヤマガー)」と呼ばれていたそうだ。この水は、飲料、生活用だけではなく、紙漉という産業にも用いられていた。
 この場所を探して、最初は急傾斜地なので、車で下から接近しようとした。ホテル日航グランドキャッスルのすぐ近くだ。でもホテルの下は、細い道路(スージグヮー)ばかりで、行き止まりも多く、もう迷路に入り込んだようで、とても接近できない。車はあきらめて、桃原大通りから歩いて降り、ようやく見つけた。さくの川のそばにも家があり、車がある。でも地元の詳しい人でないと、車では接近できない。
 井戸(カー)や樋川(ヒージャー)を見ていると、琉球王国時代からの人々の暮らしや生業、湧水に込めた思いや願い、石積み技術など、さまざまなことが見えてくる。まだまだ、各地にたくさんのカー、ヒージャーがある。湧水めぐりはまだ止められそうにない。

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コメント

宝口樋川は随分立派ですね。飲料用でなく、紙漉だけに使っていたんですか?石碑も随分立派ですが、だれが書いたんでしょうか。碑文があるところをみると、宝口樋川は由来の深い、拝所になってもよいような場所の気がします。仲村渠ヒージャーとか、受水走水なんか、今も水が湧いてて子どもたちの水遊び場になってたりしてるけど、拝所ですよね。宝口樋川もそうなってもよさそうな感じの立派さでした。「さくの川」のヒージャーは、あの水を曳いてくる樋がものすごく長かったですね。あれを作る技術も相当なものと思います。あそこ、駐車している車がありましたから、きっと道に慣れた人なら車で来られるんでしょうね。
紙漉屋がたくさんいたとは、ヒージャーめぐりして初めて知りました。ヒージャーから見える琉球王府時代の人たちの暮らしなどが偲ばれて、やめられないですね。

 湧水は貴重なので、飲料にも洗濯など生活用水にも使い、紙漉もしたと思いますよ。いまあるコンクリートの水槽は、飲料と洗濯用に分けられているそうです。樋川もかならず拝所があるでしょう。石碑は誰が建てたのか、説明がないですね。
 紙漉は、最初は前に見た首里金城町で、大見武憑武が薩摩で技術を習得して帰って始めたので、金城町の金城大樋川で、和紙をすいていたそうです。

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