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2011年3月 3日 (木)

パシフィック飛び渡った虎・平良新助、その1

 「ヒヤミカチ節」の本歌を詠んだ平良新助さんは、波乱万丈の生涯を送っている。大里康永著『平良新助伝』をもとにして、少し紹介したい。これを読むと、時代に向き合い、自分の信じる道をひたすら駆け抜けた人だとわかる。
068  平良は1876年(明治9)に今帰仁村で生れた。村から選抜されて、首里の中学校に進学した。当時の奈良原県知事が明治26年頃から、貧窮士族の救済の名目で、住民が薪炭、用材を採取するなど共同で利用していた杣山の開墾政策を進めた。開墾は、山林を乱伐し、一部特権階級と知事の関係者らに払い下げるものだった。その結果、本部、今帰仁等の農民は苦境に追いやられた。農民はこの開墾政策に強く反発した。この時、県の開墾事務取扱主任だった謝花昇がこれに反対した。今帰仁村では、開墾阻止に村民の猛烈な抵抗が行われた。
 平良は当時、間切(今の町村にあたる)の総代になっていた。さっそく各字から総代27名を招集し、交渉団体を結成し、その先頭に立ち、果敢な闘争を展開した。左写真は、平良さんの生れた今帰仁村の今帰仁城跡。

 一方、謝花は、抗議集会や演説会を開き、農民の喚起を即していた。謝花の熱と意気に感動した熱血漢の平良は、学業を投げ打ってその門下に走った。平良は、謝花らとともに、農民のため各地をかけてきた経験を生かして頑張った。「此の時の彼の奮斗ぶりは実にあざやかで、農民の信頼を一身に集めたようである」。
 この後、謝花らは奈良原知事の暴政に対抗し、政治結社の沖縄倶楽部を結成し、参政権獲得、政治的な自由獲得をめざす自由民権運動を展開する。運動のメンバーは、謝花が33歳で、30歳前後の若者が多い中、平良は20歳の最年少で身を抗争に投じた。
 民権運動の闘士たちが心血を注いだ参政権獲得も、結局時期尚早とされ、同志たちは窮地に追いやられた。「自由の失われた沖縄にとどまるよりも、海外に雄飛して自由の天地を建設し、理想の社会を想像することが大切である」という声があがり、海外移民運動を起こすことになる。とくに当山久三は、先頭に立って進めた。
 025_3 平良は、東京に出て外国語学校で英語を学んだ。沖縄からハワイにわった人たちは、契約移民として、サトウキビ畑で過酷な労働を強制された。その後、契約制からは開放されたが、移民の酷使、虐待の噂が沖縄にも流れた。
 海外雄飛に心を向けていた平良は、1901年(明治34)ハワイに着く。ハワイの事情や移民の動静、労働事情など詳しく現地報告を行い、正確な情報を提供した。
 この頃、ハワイからさらに広大な米大陸へ転航するものが増える。アメリカは労働需要が増え、賃金の安い移民が歓迎された。ハワイには第2次、3次と移民が来る。平良は、耕地を転々とする移民たちの、移転に当たって必要な問題の解決や一行の就職、読み書きできない人たちへの指導や啓蒙、一身上の世話など、移民が定住する基礎を確立するため努力した。
 「ヒヤミカチ節」の替歌である「私は虎である 羽をつけてくれれば波路パシフィックを飛び渡っていく」という歌詞は、山内盛彬さんの作歌であるが、平良さんの人生そのもののようである。

 写真は「メイフラワー」。文字通り5月の花だが、沖縄ではいま盛りの花だ。平良さんと無関係。ただ、400年近く前、イギリスから移民を乗せアメリカに渡った貨物船の名前が「メイフラワー号」だったことを思い出した。
 長くなるので、平良さんがアメリカ大陸に渡って以降は、次にしましょうね。

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コメント

平良新助さんは沖縄の暴政下にあっても、ハワイにあっても、貧しい人たちや苦しめられている人たちを放っておけなかったんですね。謝花らがとりくんだ参政権獲得運動ですが、情勢的には時期尚早だったのかもしれませんが、「だからこれからは海外に転地し自由の社会をつくる」というのは、残された困窮した農民たちを捨てることになりませんか。参政権は謝花らが解散したあと、ほどなくして実現したんじゃありませんか。
確かに海外移民が多かったから、その人たちへの援助や移住して困難に陥らないための策に東奔西走した、平良さんの存在の大きさは特筆されると思いますが。

 謝花、平良さんらの参政権獲得の運動は、大和より大分遅れたとはいえ、しばらくして実現し、運動の努力は歴史的な意義を持ったと思います。ただその時は、奈良原知事の追放が実現せず、厳しい弾圧にあい、運動はとん挫して、海外移民に走ったことは、逃避の側面もあるでしょう。ただ自分たちだけ海外に行くのではなく、苦しい県民のこれからの行き先として、海外への開拓移民に展望を見出した。だから当山久三さんなんか、移民を組織して送りだすことに努力した。苦しい県民を見捨てることではないでしょうね。当山さんなんか、いまも地元でとても尊敬されています。ただ今から見ると、自由民権がなぜ海外移民に転換していくのか、まだ理解しがたいところがあるけれど。
 平良さんは、今帰仁の地主の息子だったそうですが、曲がったことは大嫌いで、正義のためなら全力であたる熱血漢だったようです。

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