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2011年3月17日 (木)

「島分け」の悲劇を象徴する野底岳

 東北地方は、地震災害に加え、原発災害が加わり、憂慮すべき事態が続いている。地震は、天災だが、原発は人災である。当初から、原子力発電の危険性、とくに地震列島の上に集中建設する危険性が厳しく指摘されていた。実際に炉心溶融など最悪の状態に進んでも、まともに制御もできない。国民を未曾有の危険にさらした電力会社と政府の責任は重大である。あらゆる力と知恵を集めて、なんとか沈静化させてほしい。
 126 石垣島の続きである。島の西海岸をドライブしていると、吹通川を過ぎると野底(ノソコ)集落がある。特異な形容をした野底岳がよく見える。
 その前に、海にそそぐ吹通川の川沿いにはマングローブ林が続いている。マングローブは樹木の名前ではない。メヒルギ、オヒルギなどの群落である。このあたり、手つかずの自然が残っている感じだ。

127

 川の水も澄んでいてキレイだ。カヌーで川を上っていくと、気持良いだろう。川岸には、カヌーもおいてあった。

 

 さて、野底岳が見えてきた。135 上の川の写真を見ても分かるように、このあたりは山が連なっている。でも、この野底岳は、他の山容とはまるっきり異なり、鋭い三角形で、山がそそり立っている。どこから見ても、野底岳は、よく分かる。
 標高282㍍だから、とくに高いわけではない。でも、この山には、哀しすぎる伝説があることで有名だ。琉球王国の時代、王府の命令で、石垣島の南西にある黒島から、住民を石垣島のこの地に強制移住させた。黒島に住む男・カナムイと乙女・マーベーは恋仲だった。しかし、村の道を境にして、移住する者と残留する者が決められた。マーベーは移住させられ、カナムイは島に残された。道一つで恋人も引き裂く血も涙もないやり方がまかり通った。「道切り」と呼ばれた。133 島や集落(シマ)を分けるので「島分け」とも言う。
 マーベーが移されたのが野底である。マーベーは、故郷の黒島にいる彼を見たいと思って、険しい野底岳に命がけで登った。でも、野底岳の南西には、沖縄で最高峰526㍍の於茂登岳(オモトダケ)がそびえ立ち見えない。それでも、毎日毎日人目を忍んで山に登り、神に祈った。祈りながらマーベーは次第に石と化していった。いまも山にはその岩があるという。
 この野底マーベーの悲劇を歌った民謡がある。「チンダラ節」という。
 「♪泣く泣く分けられ いやいや分けられ」と歌う。
 八重山や宮古島では、17,18世紀に強制移住が繰り返された。黒島だけで、1692年から1732年の間に4回の移住があった。1732年には、なんと約400人も移住させ、野底村という新村をつくったという。134
薩摩に支配され、搾り取られて、財政が悪化した琉球王府は、王府の収入を増やすため、未開の土地に住民を移住させ、開拓をさせたのである。しかし、未開の土地は、マラリアの危険地域が多く、住民は大変な過酷な状態を強いられた。新村をつくっても、結局は廃村になったところがたくさんある。
 野底岳の、険しい山容を見ると、いかにも悲劇の伝説が生まれそうな雰囲気を感じさせる山である。
 島の東海岸側から野底林道で、山に15分で登れる地点まで行けると聞いたので、車を走らせた。野底林道に登り始めたが、道が雨でえぐられ、とても上がれそうにない。いろいろ探したが、上がれそうにないのであきらめた。また石垣島にくる機会があれば、もっと山に接近し、できれば山頂まで登ってみたいという思いを強くした。
 なお、八重山や宮古島の強制移住とこれらをテーマとした民謡については、2010年7月に「愛と哀しみの島唄(下)」に詳しく書いてあるので、関心のある方は是非お読みください。 

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コメント

野底部落にも御嶽があるそうです。ヌスクオンといって創建は黒島からの開拓者による部落ができた以前からあったものだそうです。『石垣市史』によると、オンは「野城御嶽 桴海村」というのが正式名称で、桴海村の所属になっていたと考えられるとのこと。そこへ黒島からの寄人(入植者)によって新しく野底村が建てられ、独立村になったもの。ところが野底村は1905年行政上廃村となり、信仰も途絶えて久しく、今や一体はうっそうとしたジャングル化している。しかしこのオンは1945年、野底村に入植した多良間開拓団の人たちによって一時信仰されていたようだ。故郷の土原豊見城親を神とし、野底御嶽の一隅にイビを建てて一緒に信仰したが、そのような措置はよくないという批判が出て信仰は沙汰止みになったという。御嶽の一帯は雑木やつる草がからみあって完全にジャングル化しており、信仰の絶えた末路を物語っている、と記してあります。結局、王府が無理やりに島分けしてまで開拓しても、村は衰退したわけですよね。マーペーの悲劇だけでなく、野底村すべての悲劇があるように感じます。黒島からの入植者による野底村は廃村になっていたなんて、知りませんでした。それなのに今度は多良間から強制移住させたんですね。それでも島人のよりどころになった御嶽が途絶えたということは、野底で生きていくことがどれほど過酷なものだったかを示しているようです。

 開拓したところは多分、マラリアの有病地区だったでしょう。マラリアのない所は早くから人が住んでいるので、開拓されていなかったところはマラリアがあるというところが多かったようです。
 黒島はけっこう人が多かったようで、船越にも移住させたことがあるそうです。開拓移民をさせても廃村になったところはとても多いですよ。
 でも御嶽をめぐる話は知りませんでした。ありがとうございました。

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