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2011年3月29日 (火)

首里王府の別邸、御茶屋御殿跡を見る

 首里金城町の石畳道を歩いたことを前に書いた。この近くに首里王府の別邸だった御茶屋御殿(ウチャヤウドゥン)の跡がある。由緒ある場所であり、歩いてみた。
 首里崎山町の公園の一角に、大きな石造獅子がデーンと鎮座していた。059
 1677年に造られた王府の別邸、御茶屋御殿にあった石造りの獅子だ。とても大きく迫力がある。驚いたことに、この獅子は、前に見た八重瀬町富盛(トモリ)の石獅子と関係があるという。富盛の獅子は、火事が多かったため、「火の山」と見られた八重瀬嶽に向かって獅子が置かれていた。この首里の獅子も、火難をもたらすと考えられていた富盛の八重瀬嶽に向けられていたという。御殿を火災やその他災厄から守る獅子だった。
 この場所にもともとあったのではない。御茶屋御殿跡は、現在は首里カトリック教会の敷地となっており、もとはそこに置かれていた。でもがけ崩060 れの恐れがあり、いまの場所に移したという。

 すぐ近くに、雨乞御嶽(アマグイウタキ)がある。雨乞いの祈願をする御嶽(ウタキ、拝所)は、複数あるらしいが、ここはとても由緒あるところだ。
 なにしろ大干ばつに襲われたとき、国王みずからが神女を従えて、雨乞いの儀礼をおこなったという。
 057 低い石垣が円形にぐるっと築かれ、丸く囲んで区域が聖域とされ、石敷きの壇に香炉が設けられている。こんな円形の御嶽は見たことがない。珍しい。
 このあたりは、崖の上に位置し、眺望が素晴らしい。那覇市内から遠く慶良間諸島までよく見える。055_2  いよいよ御茶屋御殿だが、その前に、いったい御殿はどういうものだったのだろう。
 琉球は、中国の皇帝につかえるとともに、薩摩に侵攻されその支配下にあった。御殿は、薩摩の使者や中国から琉球国王の任命のためにやってくる冊封使(サッポウシ)をもてなすための別邸(離宮)である。
 1677年に、時の尚貞王が造営させた。また、国王が芸能奨励のため、家臣の茶の湯、立花、囲碁、音楽、舞踊、武芸を照覧されたところだという。首里城、識名御殿とともに、王朝文化の華を咲かせたところである。
 御殿があったあたりは、眺めがとてtもよいから別邸を造ったのではないだろうか。
001 左は昭和前期に田辺泰氏が撮影したという御殿だ。正面から見たもの。

 沖縄戦によって焼失、破壊され、もちろん今はない。しかも、戦後、首里カトリック教会がこの地を取得し、教会の敷地となっている。062だからまるで面影はない。

 教会の前まで歩いてきた。「さて、御殿跡は、この教会の敷地だと云うが、勝手に入っていいのかなあ」と立ち止まっている。ちょうどその時、そこにいたおじさんが声をかけてきた。「御茶屋御殿跡を見るのだったらこちらだよ」というと、何も返事もしない間に、もうすぐに先に立って案内をしてくれた。敷地に入るとすぐに「このあたりは沖縄戦で亡くなった方の死体がたくさんあったんだよ。その骨を埋めた場所だ。だから、だれもこの土地を欲しいという人がいない。それで教会066 が買ったんだよ」。
 由緒ある場所がなぜ教会の所有地となったのか、その理由を解説してくれた。首里城近くで王府にゆかりの史跡のある場所を、アメリカの教会が買い占有していることに、少し反発らしき感じを抱いていたが、おじさんの話を聞いて、なるほどと納得した。
 「ここが御殿の跡地にだよ」と案内してくれた場所には、標柱が立っていた。063_2 案内板もあった。

 すぐ側に、御殿の拝所があった。065
御殿跡の場所からの眺望には、意味があるという。石獅子のある場所からは、海がよく見えたが、御殿跡からは海ではなく、南部一帯の豊見城市、南風原町あたりがよく見える。
 おじさんが説明する。「このあたりからの眺めは海が見えず、昔は畑や田んぼが広く見えた。中国の冊封使なんかに、琉球は見渡す限り陸地で、海も見えないほど広いことを示したんだよ」。なるほど。
 そういえば首里王府のもう一つの別邸と庭園がある識名園(シキナエン)でも、同じような海が見えず、陸地が広がる眺望の場所がある。そこでも同じ説明を聞いたことがあるのを思い出した。冊封使は中国から船にのって来るから、琉球が島国であることは重々知っているのに、こざかしい知恵も使ったものだ。

004_2

 首里の古地図をのせておきたい。分かりにく いが、一番下に突き出したような場所が、御茶屋御殿である。細かく仕切られているところは、士族の屋敷である。親方(ウェーカタ)や親雲上(ペーチン)をはじめ王府の高い位階の士族や「アムシラレ」という王府の高級神女の御殿などもある。
 首里城などは復元されたが、この御茶屋御殿は破壊されたままだ。御茶屋御殿の復元を求める声も強い。
 それにしても、おじさんが案内してくれなければ、とまどっただろう。おじさんのおかげで場所のすぐわかり感謝!感謝!である。

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コメント

御茶屋御殿ってなんで「お茶屋」っていうんでしょうね。識名園は識名にあったからでしょう。御茶屋っていう地名はないと思うんだけど。冊封使がお茶したところだらかなあ。あのおじさんはどうして私たちが御茶屋御殿を探してるってわかったのかなあ。それ以外教会に来る人、いないからなかあ。うれしそうに案内してくれましたね。きっと由緒ある建物なので、地元の人にとっては誇りのあることなのでしょう。再建しないんでしょうかね。教会敷地内だからダメなのか。遺骨があったところだからダメなのか。確かに眺めが良くて敷地が広きくて首里でも一等地じゃないですかね。古い地図に乗ってる、親方とかペーチンとか、こんなにひしめいて暮らしてますけど、こんなふうに一か所に集結してたんですね。今住んでいる人はこの人たちの血縁者なんでしょうか。さすが士族の街首里って感じがよくわかります。地図を乗せてくれたんでありがたいです。

御茶屋御殿の名前の由来はわからない。地名ではないよね。でも別邸らしい響きがあります。復元の運動があるけれど、どこまできているかわかりません。もし復元をすることになれば、教会の土地は別の用地を提供して移ってもらえるんじゃないですか。でもあのおじさんは、「金がないから土地は用意できないから、復元は無理じゃないか」とか話していました。実際はどうなのか?
 首里城の周辺は、崎山だけでなく、みんなこんな風に密集して住んでいたでしょう。古地図で見ると、狭いようにみえるけれど、庶民の密集した地域よりは、屋敷は広いのではないですか。いま住んでいる人は、先祖からの土地に住む人もいれば、戦後新しく住みだした人もいるでしょう。でも、新興住宅地ではないから、古くから住んでいる人の家が多いでしょう。

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