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2011年3月14日 (月)

英雄・オヤケアカハチの像を見る

 東日本大震災は、まだ安否不明者が15000人以上もいるという。福島原発の3機の炉心溶融は予断を許さない状況が続く。とにかく、安否不明者が一人でも多く無事でいられることを願うばかりだ。このブログにコメントを寄せてくれていた「ミヤギのツブヤキ」さんが無事だったことが分かったことにはホッとした。165
 石垣島の続きである。
 明和の大津波はなんと、1771年の3月10日(旧暦)に起きたという。津波石を訪ねたのは、偶然にも3月11日だった。
 この津波石のすぐそばに、石垣島で首里王府に反乱を起こしたオヤケアカハチの碑と像がある。
 アカハチは、もとは波照間島の生まれだが、石垣島に渡り大浜村に居を構えた。なかなかの豪傑で、群雄割拠していた時代に、有力豪族として勢力を広げた。首里の尚真王が、使者を八重山に派遣して、イリキヤアモリという祭祀は淫祠邪教だと厳禁した。これに島民は憤激し、アカハチは先頭に立って反旗をひるがえし、王府への朝貢を3年間断った。尚真王は1500年、大里王子を大将とし、副将ならびに神女・君南風(チンペー)らとともに、精鋭3000人を兵船48隻で反乱鎮圧に派遣し、アカハチは奮戦したが敗れたという。166

















邪教を禁止したというのは間違いだとも言われる。この銅像は、2000年に500年祭があり、そのとき建立されたという。像の碑文は、アカハチの人間像を描いている。
 「体つきが人並みはずれた大男、抜群の力持ち、髪は赤茶けて日本人ばなれのした精悍な顔つきの若者と伝えられている。正義感が強く、島民解放のため先頭に立って精力的に立ち向かい、大浜村の人々から太陽と崇められ信望を一身に集めていた」。168
 オヤケアカハチについては、一人ではなく「おやけ赤発、ふんがわら両人」と記した史料もあり、二人説もある。いずれにしても、この乱の真相は、史料が不足しているのでよくわからないという。
 当時は、八重山諸島の覇権をめぐって、宮古諸島の豪族・仲宗根豊見親(ナカソネトユミヤ)と対立していた。首里王府軍は、宮古島の仲宗根豊見親らが先導して石垣島に向かった。だから「琉球王府への反逆というよりは、八重山統一を賭けた一大決戦だったというのが真相に近いだろう」(ウィキペディア)とも言われる。

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  この像より前に、「オヤケ赤蜂之碑」が建立されていた。こちらは1952年に建てられている。碑も像を建立されているのは、それだけ尊敬されているからだろう。そこには、いつの時代も、権力に圧伏されてきた民衆にとって、島民の先頭に立って権力に立ち向かったヒーローへの思いが込められているのだろう。
 「オヤケアカハチは封建制度に反抗して、自由民権を主張し島民のためにやむにやまれぬ正義感をもって戦ったのである」。この碑文に記された文言は、後知恵の感じがするが、民衆の願望が込められている。
 アカハチの碑の隣にあるのは、古乙姥(クイツバ)の碑である。彼女は、島の石垣島の豪族・長田大主の妹であり、アカハチと結婚してアカハチと長田大主は義兄弟の契りを交わしていたという。しかし、首里王府が反乱鎮圧のためにやってくると、長田大主は王府側についた。アカハチが敗れ、クイツバも処刑されたという。
 この碑は、500年祭で、像とともに造られ、アカハチの碑の横に建てられたという。500年を経て、夫婦の碑が並び建てられたわけである。

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コメント

オヤケアカハチは漢字で表記すると、遠弥計赤蜂あるいは於屋計赤蜂ともいうですね。名字は異なりますが、名前は「赤蜂」です。なんで「赤蜂」なんだろう・・・。こんな名字と名前の人、波照間にいたんですかね。俗称でしょうか。おもしろい名前です。それに碑文に記されている彼の風貌、ちょっと人間離れしてますよね。実際の人物が伝承のなかでふくらまされたのではないでしょうか。それだけ民衆の期待を背負い英雄に値する人だったのでしょう。年貢を3年も納付しないなんて当時は信じられないことだったのでは。長田大主は妹のクイツバを政略結婚させ暗殺を試みるも、クイツバが赤蜂を愛してしまい失敗。クイツバの妹のマイサイ(真乙姥)は兄の長田大主に従って従軍し、勝利をおさめたので、彼女を祀った真乙姥オンが字新川にあります。オヤケアカハチの乱後、彼女は美崎山に参籠して王軍の無事凱旋を祈願し、その功により平得村のターダヤオナリとともに上国し、尚真王から神職を授けられました。つまり大阿母になったわけですね。真乙姥オンは、彼女を葬った墓が御嶽として崇拝されるようになったものですが、その詳細は明らかではないです。この御嶽では毎年旧暦6月、四カ字(登野城、大川、石垣、新川)のプーリーが盛大に挙行されています。この祭はムラプーリーと呼ばれています。プーリーでも御嶽のみでおこなうのがオンプ-ルで1日目におこない、字をあげておこなうのをムラプールといいます(以上『石垣市史』。
 で、何を言いたいかというと、夫の赤蜂と行動を共にしたクイツバはマイサイのように崇められず、御嶽もなく、銅像碑にその文字があるだけにたいし、王府に見方したマイサイの方が大阿母となった関係もあり、後世にわたり村人に尊敬され崇められたという矛盾がおもしろい、ということです。
 つけくわえると、『石垣市史』にはオヤケアカハチの乱の時、オヤケアカハチが首里軍を迎え撃つべく、陣を敷き、八重山の婦女十人をして、手に木の枝を持たせ、天を仰ぎ、地に伏して首里軍を呪詛せしめた、⋯⋯これは古琉球の戦闘では、それに先だって神女たちの呪術合戦があったことを語るものとして引き継がれてきたものである⋯⋯とあります。オヤケアカハチを応援した、しかも呪詛で呪い殺そうとした事実があるなんて面白いじゃありませんか!これは当時すでに、政治的な支配者の動きと呼応して活動する神女が存在していたことも物語っている、市史にあります。つまり真乙姥が最初の神女ではなく、八重山ではすでに神女はいたそうです。真乙姥が大阿母になったことによって以後、八重山の神女たちも神女組織に組み込まれることになったそうです。
 オヤケアカハチの乱に「女の戦」があったことはとても興味深いです。

 長田大主二人の姉妹は、数奇な運命を歩んだんですね。マイサイは王府軍に味方したので勝利者となり、のちに最高の神女大阿母となり崇められたけれど、クイツバは処刑とはね。日本の戦国時代のようですね。NHK大河ドラマの「江」でも、3姉妹は姉の茶々は豊臣、3女の江は徳川と対立して悲劇的な結末になるのと、似た感じです。
 韓国では国民的英雄ホンギルトンがアカハチと同一人物という説もあるそうです。韓国の文献に「ホンギルトウが1500年の秋、仲間とともにユートピアを求めて南に行き、南の国の王になった」という記録があるという。しかし、アカハチはその大分前から大浜村で豪族として勢力を強めていて、1486年には、首里王府が使者を派遣して介入をはじめていた。1500年には討ち死にしているから、とても時間的に無理ですね。アカハチを描いた絵本では、かれの風貌から、なんと波照間に流れ着いた西洋人かその子どもがアカハチとして活躍するという物語になっていた。
 まあ、時代とともに、民衆の憧れによってアカハチ像もふくれあがっていくのでしょう。

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