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2011年3月 8日 (火)

首里金城町の石畳道周辺を歩く、その1

 首里金城町の石畳道は、琉球王府時代か002_2 らの古い石畳が続き、沖縄らしい風情をかもす歴史の道である。500年もの間、風雨や戦乱にもめげず、耐えてきた道だ。首里城から南部に行く要路であり、ここに住む人々の生活に欠かせない水の確保にも貢献したという。
 といっても、石畳道が水の確保に欠かせないとは、どういうことだろうか? 実は、今回ここを歩いたのは、この付近がとても湧水が多い地域だったので、古い井戸(カー)などを見るためだ。この石畳道も、ここに降った雨は、地下を流れて井戸に流れていくという。この石畳道は、急傾斜の集落の中を、上下に通じる004 坂道だけでなく、縦横に石畳道が伸びている。
 下から石畳道を登ると、すぐ左に「新垣(アラカチ)ヌカー」がある(左)。005首里金城町の共同井戸の一つである。

 琉球王府時代の末期に、この屋敷の主である新垣恒俊氏が男子出産を祈り、私費を投じて造った井戸だという。
 この日、7か所回ったが、同じ湧水でも、「ガー(井戸)」と呼ぶ場所と、「樋川(フィージャー)」と呼ぶ場所がある。一体、どう違うのだろう。一つ一つ見てみると、その違いが分かった。「ガー」とは、文字通り井戸のように、その場所で水が湧き出ている。「樋川」とは、石垣より奥に水脈があり、そこから琉球石灰岩で造られた樋(トイ)で水を導き、半月形の貯水池に溜まる。必ず、樋から水が出る仕掛けになっている。上の写真の新垣ヌカーは、井戸だから樋がない。010_2
 新垣ヌカーから左に進むと「金城大樋川(カナグシクウフフィージャー)」がある(左)。こちらはとても規模が大きい。やはり共同井戸だ。二つのかけ樋で地下水を導き出している。
 昔は、坂道を上下する人馬が、水で喉を潤し、一息入れた場所だった。ここの少し東の方に、薩摩に学び、琉球で最初に和紙をすいた人の屋敷跡がある。17世紀末頃、この樋川の水で和紙が作られたという。由緒あるフィージャー(樋川)である。011

場所を文字で説明しても分かりにくい。案内板があった。016 

 この近くに「潮汲ガー」があるはずで、探したが、道路拡張の工事中で、よくわからない。やはり共同井戸の一つであるが、不思議なことに井戸の近くまでかつては入江があり、水に塩気があったという。坂道を少し登ったこんな場所で、入江がきていたとか、塩気があったとは、にわかに信じがたい。でも残念ながら、このガーは分からなかった。

 
008_2   石畳道の両側の民家には、いろんな花々が咲いている。右は「メイフラワー」。和名は「フブキバナ」というそうだ。たしかに、花が散ると、細かな吹雪のように舞い落ちている。

 斜めに少し上がると「仲之川(ナーカヌカー)」があった。東には、先に見た金城大樋川があり、西には寒水川樋川(スンガーヒージャー)があり、その中間にあるからこの名前がついた。水質や水量がとても優れていて、日照りでも水量が枯れなかった。だから王府時代は、日照りの時は、首里城内の御用水になっていたという。 022
  見事な石積みのカーである。樋はない。石垣の右上に020_2 小さく見えているのは、このカーの拝所である。水は命の源であり、井戸、樋川は祈願の対象である。だから、かならず拝所がある。
 1883年6月の大雨の際に、壊れて王府の役職者、百姓ら45人が五万貫文を拠出し、王府に願い出て修理をしたことがある。その由来を刻んだ石碑がカーの入り口にあったが、沖縄戦で破壊され、いまその土台と碑の一部が残っている(右)。
 集落の中央部の石畳道に戻ってくると、赤瓦の家があり、開けっ放しで、とても開放的な家なので、何かな、と思って行くと「村屋(ムラヤー)」だった。いわば地域の公民館のようなものだ。石畳道は、観光客がとても多いので、そういう人たちも自由に使って下さいという。032
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 村屋をこんな形で開放しているところは、初めてだ。さっそく中に上がらせてもらった。部屋に入って、なにより目を引くのは、旗頭の頂部に載せる飾りである。
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見事な飾りである。これを太くて長い竹竿の頂部に載せる。若者たちが、交代でこれをお腹に載せて勇壮に舞う。祭りにはつきものである。034
 ちょうど、旗頭を持って舞っている写真があった。首里金城町の旗頭は「雄飛」の言葉が掲げられている。この文句は、町によってすべて異なる。鉦や太鼓に合わせて、揺らせると、頂部の飾りがユサユサと、踊るように揺れる。
 11月の首里城祭の時には、首里城の近くを国王、王妃をはじめとする王府時代の行列を再現する古式行列がある。その時、首里金城町の旗頭も見た記憶がある。

 最後におまけ。ネコが3匹のんびりと日向ぼっこをしていた。近づいても逃げない。
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コメント

金城の石畳道は観光名所ですが、たいてい真ん中の一本を下って、首里殿家のところに出たら終わりです。今回カーとフィージャーめぐりをしてみて、石畳が横にも長く幾重にも伸びていることがわかりました。金城の石畳でカーを見ないで何をみたことになるか!という感じです。ナーカヌカーは大きくて立派なのでフィージャーみたいですね。和紙つくって王府に献上してたんですかね。王府の役人がつくりに来てたんですかね。
ムラヤーにあった、旗頭なんですけど、たしか、私のパーマ屋の仲宗根さんが金城のかなぐすくだったかもしれません。首里城祭のときの旗頭行列のときは子どもが出るから大変だって言ってましたよ。

 金城の石畳道は、細かく見ると見どころがありますね。昔の琉球の姿、暮らしの様子がうかがえて面白い。和紙を造ったのは、近くに屋敷のある人で、このあたりは王府の役人、士族が住んでいたでしょう。士族は、けっこう泡盛も造ったりしていたので、和紙もつくったのでしょう。和紙は、金城大樋川で造ったけれど、大見武筑登之親雲上という人の屋敷ですから、士族で役人ですね。
 首里城祭のときは、みんな町ごとに参加するから、仲宗根さんの子どもも行列に参加したのでしょう。行列では、子どもはとても多いから。

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