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2011年3月28日 (月)

牧野清著『八重山の明和大津波』を読む

 石垣島に初めて行った日に、東日本大震災が起きた。それで、八重山を1771年に襲った明和の大津波の史実に改めて関心を持ち、牧野清著『八重山の明和大津波』を読んだ。おりしも、東日本を襲った未曾有の大津波をリアルタイムで映像で見て、240年前にこの八重山に甚大な被害をもたらした大津波を、肌で感じる思いがした。
 牧野氏の著書から、その実相を少し紹介する。
 石垣島の東南約40キロメートルの海域で発生した津波の強烈な第1波は、白保崎に到達し、震源地の方向に向かって大きく湾口を開いている宮良湾に進入し、山手深く入り、陸地を横断して名蔵湾に流入したという。416 右写真は津波が横断して流入したという名蔵湾。
 津波による溺死行方不明者は、八重山群島で9313人、宮古群島で2548人、合計1万1861人に達し、琉球歴史上最大の惨事である。
 240年も前なのに、犠牲者が細かくつかまれているのはなぜか。王府時代は、先島は貧富に関係なく人間の頭割で税金をかける人頭税が実施されていた。だから、当時の住民の人数と犠牲者を正確に把握したといわれる。
 津波について、石垣島にあった八重山の政庁・蔵元から首里王府に詳しく報告した記録が残されている。「大波之時各村形行書」(おおなみのときかくむらのなりゆきしょ)という。本書に原文が収録されている。それによると、津波の到達した最高地点の高さは、宮良村85・4㍍、白保村60・0㍍、野原崎46・7㍍、大浜村44・2㍍、登野城村12・2㍍、石垣村9・2㍍、新川村8・2㍍などとなっている。当時は、メートルではなく最高地点は「28丈2尺」というように表記されている。それを㍍に換算したものだ。高さは、「潮上り」といい、陸上に打ち上げられて潮の到達したところの高さである。
 牧野氏は、この報告書の数字が事実であるのか、当時正確に計測できる測量技術があったのか、について検証している。すでに薩摩に侵攻され支配されていた琉球は、薩摩から測量などの技術を学んでいたと考えられる。大津波より30数年前の1735年、王府の名高い政治家・蔡温が本島北部の羽地大川を改修したさい、平面測量、高低測量など役立っていた、と言う。だから、報告書の高さは正確だと考えている。
 下写真は大浜の崎原公園にある津波大石(ツナミウフイシ)。 191_2 死亡・行方不明者について、石垣島では、当時の人口1万7349人のうち、死亡・行方不明者が8439人で、人的被害の比率は48・6%にのぼる。特に被害がひどい村として、仲与銘村100%、白保村98%、安良村96%、大浜村92%、伊原間村87%、宮良村86%、登野城村55%などあげられる(少数点以下四捨五入)。
 八重山の大津波の特徴の一つは、大きな石が津波で打ち上げられたことだという。牧野氏が、調査した結果を報告している。大石の打ち上げは、サンゴ礁があったために起きた現象である。その数は、合計で310個を数える。
 津波石を大きさ、重さ別に分類している。16トン級以下の小型231個、54トン級の中型48個、128トン級の大型22個、250トン級の特大型9個もある。
 津波石が次第に邪魔者扱いされ、相当数の石がすでに破砕されて姿を消しているという。
 牧野氏の著書は、古記録を精査し、自分で歩いて現地を見て、津波石を調べ、古老から伝承など話を聞き、さらに地震、津波の研究者からも学んで、明和の大津波の全容をまとめた労作である。169
 右写真は、津波で壊滅状態になった大浜集落に波照間島から強制移住させられた人々が、故郷・波照間の名石集落の大石御嶽から分神して祀ったという大石御嶽(ウイヌオン)。
 
 ところで、この牧野氏の見解に対し批判があるという。津波の高さは、最高は海抜25㍍地点であり、竹富島では死者はゼロだった、津波石は科学的根拠がない、津波は押しより引きが強いので、石が高地から低地へひきおろされた、石垣島の津波は大幅に小さく考え直すべきなどという意見である。
 しかし、今回の東北の巨大津波を見ていると、津波研究者さえ、予想をはるかに超える巨大津波で、避難場所や病院の4階まで津波が押し寄せ犠牲者を出している。このすざまじい巨大津波を見ていると、八重山の明和の大津波がせり上がった地点の高さが、85㍍という記録もありうることだと思える。しかも、最高地点だけではなく、それ以外にも60㍍、50㍍近くの高さも記録されている。
 津波石にしても、東北の津波を見ると、大きな船が道路にまで打ち上げられている。引く力も強いが、打ち上げる力も巨大であることをうかがわせる。海外でも、巨大な岩が打ち上げられている実例がある。
 津波石と呼ばれる石の中で、仮に津波で運ばれたものではない石が何個かあったとしても、300を超える津波石の存在が重要である。津波の威力、怖さを後世に伝える実物であるからだ。
 下写真は、大津波で壊滅的な被害を受けた白保地区の現在の集落の様子である。

435
 竹富島で被害が少なかったことは、牧野氏も大サンゴ礁が天然の防波堤の役割を果たした、との見解を示している。これをもって、石垣島の津波を低く見る理由にはならない。

 あれこれ素人の思い付きを述べた。史実はそれとして正確にしなければならないが、琉球史上でも最悪の津波被害を受けた人々が、その悲惨な事実と恐ろしさを後世に伝えようとした古記録や言い伝えをおろそかにはできない。津波の到達した高さの昔の測量に多少不正確さがあったとしても、津波の破壊力、怖さを過小評価すべきではない。それは、またいつくるか分からない地震、津波への備えをおろそかにすることにつながりかねない。明和の大津波の実相を明らかにした牧野氏の労作は、今後の防災を考える上で、とても今日的な意義をもっているといえるのではないだろうか。
 

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コメント

高さ85メートルとは実に巨大な津波ですね。被害が100%の村というのは、つまり村ごとなくなったってことですよね。おそろしい。今の東北と同じじゃないですか。なぜ、津波大石は津波がもちあげたものでなく、山から下ろされたものだなどという理屈が出回るのでしょうか。白保には十数分しかいなかったので、よく見られませんでしたが、先日牧野さんの本を読んだら、白保海岸にはたくさんの津波大石が点在していました。壊滅的な被害を受けた島がこれだけ今日復興したのを見ると、人間の力強さを感じます。でも同じような津波がまた来たら、防潮堤など造ってない村もたくさんあるし、あっても役立たないことが東北で実証されたので、どうしたらいいのでしょうね。牧野さんの著書は防災については何か具体的なことは提示しているのですか。

大津波で全村が波に洗われ家がほとんど流され、壊滅状態になった村が、白保、大浜、伊原間、宮良、真栄里、仲与銘、安良、屋良部の8カ村にのぼるそうです。石垣島のどの集落でも、堤防はあっても低いので、大津波が来れば、とても防げない。牧野さんは、津波対策についても、いくつか意見をのべています。住宅はコンクリートであっても万全ではない。明和津波では、とにく女性、子どもが逃げ切れず犠牲になったこともあげ、「津波のおそれのある場合、女や子供たちの避難は、とくに緊急に対処せねばならない重大問題である」と述べています。各人、各家庭で平素から避難目標を考えておくこと、緊急避難は常に高所を指向することが常識だと述べています。三陸大津波の研究者で、今回被災した山下文男さんも、堤防はあればいいけれど、とても大津波は防げない。一刻も早く高いところに逃げるしかないので、日常の防災教育の徹底が重要だと話していますね。

牧野清著『八重山の明和大津波』を読む: レキオ・島唄アッチャー

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