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2011年3月30日 (水)

サツマイモを普及させた恩人・儀間真常

 いまサツマイモと呼ばれる甘藷が、琉球に初めて渡って来たのは1605年のこと。嘉手納出身の野國総管(ノグニソウカン)が中国から持ち帰った。そのイモを普及させたのは、儀間真常(ギマシンジョウ)という人である。儀間は琉球の5人の偉人の一人に数えられる。儀間のお墓が、首里の御茶屋御殿(ウチャヤウドゥン)の近くにあり、初めて見ることができた。068
 儀間は、1557年に那覇港の近く、垣花(カキノハナ)で生れた。1593年に真和志間切(マワシマギリ)儀間村の地頭に任じられた。真和志は、私が住む地区である。間切は今の町村、村は字にあたる。その村の村長役になった。1624年には親方(ウェーカタ)についた。親方とは、相撲の親方とは違う。琉球王府の位階で、間切を領地としてもらえる高い地位だ。1644年に88歳で亡くなったというから、とても長生きした人だ。
 儀間は、野國総管が中国から持ち帰ったイモを分けてもらい、その栽培と普及に力を注いだという。イモが普及したおかげで、どれだけの人々が、飢餓から救われたことだろう。
 下の写真が儀間真常の墓だ。儀間は唐名(カラナ、中国式の名前)を麻平衡(マヘイコウ)という。琉球では、唐名と大和名の2つの名前があった。麻と名乗ったように、一門は麻氏であり、墓は「麻氏一門の神御墓」となっている。沖縄は個人墓ではない。だから一門の墓になっている。それにしても、こういう家のような墓は珍しい。

071

 イモは、その後、薩摩が目をつけて持ち帰り、さらに青木昆陽によって全国に普及することになる。それは、100年以上の後もことである。儀間が野國総管からイモを分けてもらい、国中に普及させなかったら、薩摩と青木昆陽もイモを知らず、今日のサツマイモもなかったかもしれない。
 儀間は、また鹿児島から木綿の種子を持ち帰り、その栽培と木綿布の織り方を広めた。さらに、中国からサトウキビから砂糖を製造する技術を導入して、砂糖づくりを琉球中に広めたことでも知られる。この後、砂糖は沖縄の一大輸出品となっていった。

069_2 070 墓の両側に、儀間真常の業績など刻んだ石碑が建てられている。





 儀間は、甘藷を広めて沖縄の人々の命を救い、木綿織物を取り入れて衣服を与え、砂糖の製造法を広めて産業の発展に貢献したと評されている。「沖縄の産業の恩人」である。
 ただし、儀間は首里の出身ではないのに、なぜ首里に墓があるのだろうか? そこには沖縄戦とアメリカがからんでいる。
 もともと墓は、那覇市の住吉町にあった。しかし、戦後アメリカ軍の港湾施設として接収され、跡形もなく敷ならしされたため、1959年、この地に移転建立された。その後1993年に現在の立派な墓に建て替えられてという。もとの墓のあった場所は、現在も米軍が占有する那覇軍港である。儀間真常と一門の墓も、米軍基地の犠牲者だったのである。

 ここからは、ついでのおまけ。イモを中国から持ち帰った野國総管の銅像をアップしておきたい。020「道の駅かでな」の前の広場にある。左手にイモを持っている。当時、中国からイモは持ち出し厳禁だったので、命がけで持ち帰ったという。嘉手納のイモは「野國イモ」と呼ばれ、名産品になり、いろんな食べ物にも加工されている。「野國いもソフトクリーム」も売られている。

 野国総管とは、名前ではなく、野國村出身で、中国に渡る進貢船の事務長格の総管だったから、そう呼ばれている。彼の生れた野國の地は、今は米空軍嘉手納基地の中にある。それにしても、イモを普及させた功労者の野國総管も儀間真常の二人とも、生れた地や墓のあった所が、いずれもいまは米軍基地の中とは、沖縄の姿がここにも表れている014

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コメント

野國総監が中国から持ち帰ったのは、イモそのものじゃなくて種イモですね。それを、最初は野國総監が自分で植えて、イモの栽培に成功したのです。同じ頃儀間真常は飢饉をどうにかできないかと毎日考えあぐねていて、野國総監がイモの栽培に成功したことを知り、駆けつけて、「先生、私にイモを作らせて下さい」と懇願、栽培の仕方を伝授してもらったっていうような話を何かで読んだことがあります。大切な墓がいまも米軍基地の中とか、故郷は米軍基地の中という人は、偉人じゃなくてもウチナーンチュには大勢いますね。去年の4・25県民大会のとき、テレビを見ていたら大会関連特集で取材された88歳の宜野湾市字宜野湾に住む男性の老人が、「あの基地の中に私の先祖の墓がある。私の土地がある。生きているうちにその地をこの足で踏みたい」と言っていたのが今でも忘れられません。儀間のように沖縄の民のために身を粉にして働いた人の墓もそのような目にあっているわけです。こういうのを不条理というのではないでしょうか。

 儀間の墓は立派だかれど、野國総管の墓のことは聞かないけれど、どうなっているんでしょうね。
いまだに米軍基地は広大だから、自分の故郷は基地の中と言う人はたくさんいます。それにお墓や拝所などの基地の中にたくさんある。集落ごと基地のなかに囲われ、昔の伝統ある集落がいまはないというところもいろいろありますね。ホントに不条理そのものです。

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