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2011年4月

2011年4月29日 (金)

嘉手納の比謝川にこいのぼり泳ぐ

 基地の街で知られる嘉手納町を流れる比謝川(ヒジャガワ)にたくさんのこいぼりが空を泳いでいる。032
 広大な米空軍基地が広がる嘉手納だが、一歩街中に入ると、沖縄では珍しい深い緑いろの川がゆったりと流れている。中南部では随一といえる美しく、大きな川である。
写真は、比謝川橋からの眺め。

 この橋を少し下り河口に近い場所に、嘉手納総合福祉センターがあり、この場所で4月24日、第17回比謝川こいのぼりフェスタが開かれた。

「小さな夢 デッカイ夢 みんなで育もう かでなっ子の夢」をスローガンにフェスタが開かれた。子ども中心の祭りなのでこれには行かなかった。別の日に、こいのぼりを見に行ってみた。041  色とりどりのコイが空を泳いでいる。手作りで完成させた8㍍もあるこいもいる。「あすなろ学童」などの名前も見える。044

 いっ039 たい何匹いるのだろうか? 数えられなかった。報道によると今年はおよそ200匹だという。
 緑色の川面に、こいのぼりが映えている。

 子ども連れの家族たちが、次々と見に来ていた。

近くには、テキヤも出ていた。といってもお年寄り二人で営業している。045

046

 フェスタの開かれた総合社会福祉センターは立派な施設である。フェスタ当日は、こいのぼりのうた大会やビンゴ大会、ミニコンサートなど催され、川を巡る遊覧船も出たようだ。

 こいのぼりは5月5日まで掲揚される。

040_2  こいのぼりの少し上流に比謝川橋がかかっている。

041_2 比謝川の北側は、読谷村の渡具知(トグチ)になる。渡具知といえば、1945年4月1日、米軍が上陸した地点として有名だ。もちろん米軍は読谷から嘉手納、北谷にかけての海岸いったいから上陸した。66年前のその日は、嘉手納の沖合いは、米軍の艦船、上陸用舟艇で埋まっていただろう。
 川岸には古いお墓がいくつもあった。中国の影響を受けた亀甲墓である。

034  幸地家之墓とか記されてる。035 036

 4月は家族、親戚、門中(父系に血縁集団)でお墓に行って先祖を供養する清明祭(ウシーミー)のシーズンなので、土日、祝日にはいっせいにお墓に行っている。このお墓もお花が供えられていた。

 嘉手納基地の爆音被害に対してて、嘉手納町はじめ周辺5市町村の住民が、夜間・早朝の航空機離発着の差し止めや騒音による損害賠償を国に求めて第3次嘉手納爆音差し止め訴訟を4月28日、起こした。原告は、なんと2万2058人におよぶ。この種の訴訟として空前の規模である。住民の怒りの強さが、ここにも示されている。比謝川の周辺の住民もたくさん原告に加わっているだろう。
 比謝川の静かな流れを見るにつけ、夜間・早朝の離発着差し止めなど人間として最低限の願いの実現を願わずにはいられない。

 

2011年4月28日 (木)

死亡事故を起こしても米軍公務なら不起訴とは

 米軍関係者が交通事故で死亡させながら「公務中」を理由に起訴もされない。およそ植民地のような出来事が続いている。県民から大きな怒りをかい、市町村議会や県議会でも相次ぎ抗議決議を可決している。
 うるま市で2008年8月に起こった事故は、米海兵隊所属の兵士の車が、対向車線に進入してバイクと衝突し、那覇市の男性(38)を死亡させた。対向車線に進入して死亡させているので、重大な死亡事故として処罰されるべきものである。ところが、米軍側は「公務中」として、米兵は不起訴になった。

  写真はアメリカーの乗るYナンバーの車。といっても事故、文章とは無関係です。

060
 2011年1月、沖縄市では米軍軍属の男性が、やはり対向車線にはみ出して軽自動車と衝突して、成人式で愛知県から帰郷していた男性(19)を死亡させた。自動車運転過失致死容疑で送検されていたが、やはり「公務中」を理由に不起訴となった。
 二つの事故とも、まだ若い県民が、無謀な運転の犠牲になりながら、起訴もされないことに、遺族の無念の思いはいかばかりだろうか。1月の事故で遺族側は、検察審査会に不服申し立てをした。良識ある審査会で、このまま不起訴が通るはずがない。
 なぜこんな屈辱的なことが起きるのか。それは日米地位協定で、米兵らの公務執行中の犯罪などは米軍に第一次裁判権があると定めているためだ。
 では、米軍はまともに裁判をして処罰しているのか。2008年の事故で死亡した遺族には、3年近くもたっているのに、米側から処分内容はまったく通報がされていない。外務省は通報を受けていないのに、照会もしていなかった。遺族は「米軍側からは何も言ってこない。本人(米兵)は事故から1年後には沖縄から出ていると聞いていた」(「琉球新報」4月22日)。つまり重大な過失運転で死亡させながら、まともな裁きもなしに、本国に帰りのうのうと暮らしていることになる。
 もともと米側にまかせれば、読谷村で米兵が歩行者をひき殺して逃げた事件でも、米兵は無罪を主張しているぐらいだから、処罰されることはありえない。
 実際に、昨年9月に起きた、岩国基地所属の米軍属による死亡事故でも「公務中」を理由に不起訴になり、基地内の裁判で4カ月の運転制限という軽微な処分に終わったという。こんなものは処分ではない。無罪放免と同じである。
 しかも、もともと米軍は平時には軍属を軍法会議にはかけないという合衆国連邦裁判所の判例があるそうだ。

 写真はキャンプキンザーの入り口。事故、文章とは無関係です。115
 それに「公務中」というのも、米側の説明をうのみにしているだけだ。1月の死亡事故では、タイムカードの写しを提供されたが、偽造か確認していない、飲酒運転の確認もしていないという。
 米軍は、公的な行事で飲酒して帰宅した場合も「公務」としている。だから、レセプションなどで酒を飲んで酔って車を運転し、帰宅中に事故を起こして死亡させても、「公務中」となる。飲酒して死亡事故を起こせば重罪である。でも日本では裁けないことになる。こんな馬鹿げたことがあるだろうか。日本政府もさすがに、この規定の見直しを求めたが、米側は応じない。
 県議会の決議は、「公務中」の範囲の明示や交通事故の米国の第一次裁判権を放棄し、日本の司法で裁くこと、被害者への謝罪と完全な補償など求めている。さらに、北谷町議会などの決議は、日米地位協定の抜本的な改定を求めている。
 戦後66年もたっているのに、こんな状態がいつまで続くのか。過剰な米軍保護の現状を続ければ、重大な事故も事件も繰り返されることにつながる。こんな屈辱的で、非常識な現状は即刻改めるべきである。 

2011年4月26日 (火)

琉球には「ティダ(太陽)」の旗があった

 読谷村で、復元された進貢船を見たことを書いたので、ついでに進貢船の旗、ノボリについて書いておきたいことがある。020

 琉球王府が、中国に派遣していた進貢船は、上の写真の復元した船には見当たらないが、古い絵を見ると、三角旗に「日の丸」があしらわれている。
 これは進貢船だけではない。沖縄の古くからの伝統ある祭りや踊りを見ていると、女性たちが、白地に赤丸の扇子をもってよく登場する。これもはじめは、なぜ伝統ある踊りに「日の丸なのか?」と疑問に思った。でも、それは、琉球王国の時代に対する無知から出る疑問だった。
 船に着けている旗、ノボリは幾種類かあるが、かならず一つは「日の丸」がある。これは当然、明治政府が「日の丸」を国旗として扱うより何百年も前のことである。
 でも、それは大和でいう「日の丸」ではなかったのだ。赤い丸は、太陽そのものである。太陽神(ティダガミ)の象徴であった。
 古代から太陽は信仰の対象であった。太陽は自然の恵みの最たるものであり、信仰の対象と見るのは、日本でも世界各地でも見られることだ。Photo_3

 だから、「日の丸」とはいわない。「日輪」といわれる。
伝統ある踊りでも、扇子で使われているのは「日輪」である。エイサーでも、ティダの扇子を使ってよく踊る。

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 「かねて琉球船の“船印”でもありました。ただし、これはフリルをつけた三角旗で、航海の無事を太陽神に祈る意味で使用されたものです」。与並岳生著『新琉球王統史20 尚泰王下』では、こう指摘している。日輪旗は太陽神の象徴なのだ。
 右上のイラストの船は、わかりにくいが、中央マストの上から2つ目に、日輪の三角旗が見える。ちなみに、日輪の三角旗の下には「上日」を一字にした文字と「帰国」の文字が見える。前のブログに書いたように、天候に恵まれて航海を無事に終えて帰国できることを太陽神に祈っているのだろう。
009  日輪は、船舶だけでなく、王府が建てる石碑にも、シンボルとして刻まれているそうだ。琉球船は、日輪旗とともに、「航海安全を天に祈って北斗七星旗を掲げ、さらに海の魔を刺すためのまじないにムカデ旗なども掲げています」(同書)。
 だから、日輪旗は日本の「日の丸」とは、年代からいっても由来からいっても、まったく関係ない。
 日本の船印の日章旗の始まりは、1854年に琉球を支配していた薩摩藩の島津斉彬や徳川斉昭らの進言で、徳川幕府が日本の総船印に「日の丸」を用いるよう布告したためだという。
 島津斉彬が、その支配下にあった琉球の日輪旗を知っていたかどうかは分からない。常識的に考えれば、無関係だろう。つまり、琉球を植民地のように扱っているのだから、その日輪旗を幕府に進言するとは考えられないからである。
 「日の丸」は、軍国日本の無謀な戦争のもとで、侵略のシンボルのように扱われた歴史がある。ただし、沖縄では悲惨な沖縄戦のあと、アメリカの統治下に置かれたため、「日の丸」が異民族による支配への抵抗のシンボルとして掲げられた歴史もある。ただ、それももう過去のことである。日本に復帰しても、米軍基地の重圧は何ら変わりがないからである。

 写真は、沈む太陽。光る川面は漫湖である。記事とは無関係。

2011年4月25日 (月)

読谷村の「ゆんた市場」で楽しむ

 農業の盛んな読谷村に、初めてJAおきなわの002 ファーマーズマーケット「ゆんた市場」がオープンしたので、訪ねてみた。読谷といえば、紅イモが特産だ。これまで読谷に行っても、農業が盛んなわりにJAの農産物の直売所がなく、民間のがあっても小さくて、イモ類が中心で野菜の種類が少なく物足りなかった。直売所ができたのは大歓迎である。読谷はかつては「読谷山(ユンタンザ)」と呼ばれていた。市場名は、この方言読みからとられている。

003 この場所は、かつては日本軍が1944年に飛行場を建設した。1945年4月1日、北谷から読谷にかけての海岸に上陸した米軍が、3日にただちに占領した。60年余にわたり米軍が飛行場として使ってきたが、2006年に全面返還されたものだ。広大な土地である。

030  今回の「ゆんた市場」は、跡地の初めての民間施設だという。跡地は読谷村の発展のために有効に活用してほしい。

 直売所は、地元でとれる新鮮な農産物はじめ地元の野菜を使った「野菜スイーツ」のコーナーもある。JAおきなわの直売所では初めて、農産物の加工施設も設置された。

 オープンセールで、野菜類も特売されているし、周辺には出店のテントが並ぶ。地元の食べ物から、やちむん(陶器)の里があるので、シーサーや食器、さらに耕運機や植木も売られていた。

017_2019   018

 ゴーヤーも今年は寒さが続いて、近所でも店頭にあまり並ばなかったが、やっと安くなりたくさん並んでいた。ドデカ大根も出ている。これは青首大根ではなく、島大根のようだ。

008 出店では、読谷の名物ポーポー(左写真)があった。おばあちゃんが売っている。小麦粉を伸ばして焼いて丸めた沖縄の伝統菓子だ。クレープのような感じで、洋菓子のような味わいがある。もともとは中国からの影響で、炮炮(ポーポー)と書く。

 少し回ってから、お昼に買って食べようと思い、後から行くと「売り切れ」だという。困ったなあと思ったら、「帰ってまた焼いてこようね」というではないか。1時間半ほどたって店にいくと、ありました。売りきれれば、家に帰って焼いてくるというのが、いかにも手作りの食物として、読谷ならではの雰囲気である。それにしても、おばあちゃん、いくつなんだろう?元気だ。

013 読谷は、登り窯があり、やちむんの里として有名である。那覇のやちむんの里だった壷屋は、登り窯から出る煙が煙害となるため、この読谷に移ってきた窯元が多い。読谷で焼いて壷屋で売る店もかなりある。そのわりには、ここに出店している人は少なかった。

 特設ステージでは、芸能も次々に披露されて、まあオープンセールだけではなく、お祭りの雰囲気である。004
 苗木の無料配布もしていて、ゴーヤの苗となでしこの苗をもらってきた。沖縄は、苗木の無料配布が多くて、わが家のベランダにある花木は、すべてこれでもらった鉢である。でもゴーヤとキュウリの苗はもらっても、すぐに枯らした実績がある。今回は果たしてどうなるだろうか?

 この会場で今回、一番の注目は、実は野菜でも、食べ物でもやちむんでもなく、船だった。
 琉球は中国皇帝に朝貢して、皇帝から琉球国王として任命をしてもらっていた。琉球から中国に使者が乗船する船が進貢船(シンコウセン)である。復元された進貢船が、会場にドンと置かれているではないか。

010_2 「がんばろう!東北」の横断幕も見える。
 自由に乗船してよいというので、はじめて進貢船に乗ってみた。021

 「この船はどこから持ってきたのですか?」と係の人に聞いた。 「これは役場の倉庫に保管してあり、お祭りの時だけ持ち出すんですよ」とのこと。年1回、「よみたんまつり」がある時には、登場するらしい。読谷のシンボルになっている。

 なぜ読谷で進貢船なのか? それは、琉球の中山国の察度(サット)王が1372年、弟の泰期(タイキ)を、はじめて進貢使として当時の明国に派遣した。泰期が実はこの読谷村宇座の出身だったいう。026
 

 中国への進貢は、それにより中国との貿易が認められるので、琉球は貿易で大きな利益をあげられた。中国、東南アジア、日本、朝鮮をまたにかけ三角貿易で、繁栄していた。もっとも盛んだった15、16世紀頃は「大交易時代」と呼ばれる。初めての進貢から、大交易時代の幕が開かれたので、泰期はいまや読谷では「商売の神様」として尊敬を集めている。
 

010

色とりどりの旗が翻っている。その中に奇妙な字が書かれていた。上の字の下に日を書く。何と読むのだろう? 係の人に聞いてもわからない。ただ、この字の下に「捧帰国」とある。「これは上の日と帰国とあるから、よい天候に恵まれて帰国できるように」という願いを込めたものではないだろうか、と勝手に推測した。係の人も「そうかもしれませんね」と言っていた。この字は、ネットの漢字辞書で調べても、出てこない。
 ちなみに、泰期のモニュメントは残波岬に2008年つくられた。

2011年4月23日 (土)

伊江島に由来する島唄あれこれ

 沖縄には、島ごとに言葉があり、民謡をはじめ芸能がある。伊江島にまつわる民謡、古典音楽がいろいろな曲がある。島の公民館に行くと、敷地内に歌碑があった。009_2

 琉球古010 典音楽の「東江節」(アガリエブシ)の碑がある。大きな石には琉歌、小さな石には歌意が刻まれている。
 「東あかがれば 夜の明けんともて 月どぬきゃがゆる 恋し夜半」
 歌意は次のように記している。
 「東の空が白みかけると夜が明けると思っていたら、そうではなく月がのぼって来るのであった。それならば恋人ともう少し語り合う時間があったのに、急いで別れてしまって惜しいことをした。ああいつまでも忘れぬことのできぬ恋しい夜半だ」
 とっても優雅で味わいのある恋歌である。伊江島は、東江上、東江前などの地名がある。歌の題はそこに由来するのだろうか。
 古典の曲なので、まだ三線で弾いたことがない。

 20万株のテッポウユリが咲くリリーフィールドにも、恋歌の歌碑がある。これも琉球古典音楽の有名な曲で「仲村渠節」(ナカンダカリフシ)という。ただし、伊江島にある歌碑は、題名が少し違っている。琉歌は同じ内容である。

 歌碑は「仲村柄節」(ナカムラカラブシ)とある。
琉歌は「仲村柄そばいど 真簾(マスィダシ)は下げて あにらはもとまば 忍(シヌ)でいまうれ」。下に歌意が書かれている。
 「仲村柄家の母屋のそばいど(屋戸口)にすだれをさげてあるときは大丈夫だから忍んでいらっしゃい」

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 この歌には、哀しい伝説がある。仲村渠家は、島の旧家で、娘の交際にもうるさかった。この家の娘のマカトゥーは絶世の美女で、島の若者の憧れの的だった。しかし、彼女は海を隔てた伊平屋島(イヘヤジマ)に、松金という恋人がいた。彼に逢うのに海岸に出かけたところ、運悪く島の若者に見られてしまった。若者は嫉妬して、「マカトゥーを見たぞ!」と叫んだ。見られた彼女は、恥ずかしさのあまり、断崖から身を投げたという。そんな悲劇の伝説が残されている。この部分は、仲宗根幸市氏編著の『琉球列島 島うた紀行第三集』を参考にした。017

この歌碑は、実は今回は見る時間がなかった。2009年にテッポウユリを見に行った時に、撮った写真である。今回は遠くから碑を眺めただけだった。
 伊江島を舞台にした名作歌劇がある。「伊江島ハンドー小(グヮー)」という悲劇である。国頭村辺土名の娘、ハンドー小は、船が難破した伊江島の男・加那を助け、愛し合うようになる。ところが加那は突然、島に帰る。加那を信じるハンドー小は彼を追って島に渡るが、加那には実は妻がいた。ハンドー小はタッチューで死を選ぶ。
 残念ながらまだ、観る機会がない。
   文字通り、伊江島を歌った民謡がある。タッチューも、ハンドー小も登場する。
前川朝昭作曲の「伊江島渡し船」である。今の渡し船は、フェリーで大型バスも積めるので、大きい。
♪離り伊江島や あざやかな心 人ぬ咲く浜に 船路渡てぃ サー渡てぃ見(ン)だな伊江島かい
♪伊江島ぬ村や 守り神祭てぃ 絶ゆる間やねさみ 人ぬ拝み ハヤシ
♪城岳タッチュウ 眺みゆる姿 昔物語い ハンドーアバ小   ハヤシ
♪島村ぬ屋敷 見(ン)だん人居らん 世渡りぬ人ぬ 知らし所 ハヤシ
♪船頭主ぬ誠 志情(シナサキ)ぬ心 恵でぃ何時までぃん 人ぬ手本 ハヤシ

 歌意は大体分かるが、自己流で解釈してみた。
♪本島から離れた伊江島は 素晴らしい心もつ島の人々の花咲く浜に 船で渡ってみよう
  サー渡ってみよう伊江島へ
♪伊江島の村は守り神をお祀りしている 絶える間もなく人々が祈願する ハヤシ
♪島のシンボル・城山の姿を眺める 昔の物語にハンドー小の悲劇がある ハヤシ
♪島村の屋敷を見ない人はいない 世間の人々に広く知らせる所になっている ハヤシ
 (ハンドー小の物語の舞台になった島村の屋敷跡が観光公園になっている)
♪船頭主の誠実で、情けある心は いつまでも人々の手本になるよ ハヤシ
 (ハンドー小が加那を追って伊江島に渡るのを助けたのが舟の船頭を讃えている)
 

006

 歌詞はこの後、6番まであるが、省略する。伊江島ハンドー小の悲劇が歌詞の柱になっている。テンポがよくて人気のある曲だ。でも弾きこなすのはけっこう難しい。
 
 忘れてはならないのが、米軍基地の建設のため土地を奪われた住民が、米軍の横暴に立ち向かいたたかった時に歌われた曲である。有名なのが、本島に島民の窮状を訴えるためにつくられ、歌われた「陳情口説」(チンジョウクドチ)である。本島を縦断する「陳情行進」を、みずから「乞食行進」とも称した。だから「乞食口説」とも呼んでいる。120  写真は、土地を守るたたかいを伝える反戦平和資料館「ヌチドゥタカラの家」である。
 作詞は島の人で野里竹松さん。「口説」は、75調で歌い、旋律は共通している。
♪さてむ世ぬ中 あさましや いせに話せば 聞ちみしょり 沖縄うしんか うんにゅきら
♪世界(シケ)にとゆまるアメリカぬ 神ぬ人びと わが土地ゆ 取て軍用地 うち使てぃ
♪畑ぬまんまる金網ゆ まるくみぐらち うぬすばに 鉄砲かたみてぃ 番さびん
♪親ぬゆじりぬ畑山や いかに黄金(クガニ)ぬ土地やしが うりん知らんさ アメリカや
♪真謝ぬ部落ぬ人々や うりから政府ぬ方々に う願(ニゲ)ぬだんだん はなちゃりば
♪たんでぃ主席ん 聞ちみしょり わした百姓がうめゆとてぃ う願いさびしんむてぃぬふか
♪親ぬ譲りぬ畑山や あとてぃ命や ちながりさ いすじわが畑 取ぅいむるし
♪願ぬだんだんしちうしが 耳に入りらんわが主席 らちんあかんさ くぬしざま
♪うりから部落ぬ人々や 是非とぅむ沖縄ぬうしんかに 頼てぃうやびん 聞ちたぼり
♪那覇とぅ糸満 石川ぬ 町ぬ隅(シミ)うてぃ 願さりば わしたう願いん 聞ちみせん
♪涙ながらに 聞ちみそてぃ 町ぬ戻(ムド)ぅいぬ う情や 誠真実 ありがたや

007_2          上の地図で島の左上部分が米軍演習場である。

 標準語訳
・さても世の中はあさましいことだ 腹の中から話しますから 聞いて下さい沖縄の皆さん
 聞いて下さい
・世界にとどろきわたるアメリカの神のような人々が わが土地を取って うち使ってしまっ
 た
・畑の周りに金網を 丸くめぐらして そのそばに 鉄砲かついで番をしています
・親譲りの畑は黄金にまさった土地ですが それを知らない アメリカだ
・真謝の部落の人々は それから政府の方々にお願いし いろいろと話もしました
・どうか主席様聞いて下さい 私ら百姓があなたの前に出て お願いするのはただごとで
 はありません
・親譲りの畑があってこそ 命がつながっています すぐに私らの畑を取り返して下さい
・だんだんとお願いしましたが 耳にも入れないわが主席 らちもあかないこの仕業
・それから部落の人々は ぜひとも沖縄の皆さんに 頼っていますから 聞いて下さい
・那覇や糸満、石川の町の隅々で お願いをしたならば 私らの願いを聞いて下さいました
・涙ながらに聞いて下さって 帰りに誠真実ありがたいことだと 感じたことでした
 (歌詞と訳文は沖縄国際大学大学院地域文化研究科「ウチナーンチュのエンパワーメントの確立ーー沖縄音楽社会史の変遷を通して」を参照しました)

020_2

 「乞食行進」では、三線を弾きながらこの「陳情口説」を歌って回ったという。伊江島の土地を守るたたかいは、その後の全県的な「島ぐるみ闘争」へのつながっていったのである。
 なお、この曲のことは、ブログにアップしてある「戦世と平和の沖縄島唄」でも紹介している。関心のある方は、そちらものぞいてみて下さい。
 

2011年4月22日 (金)

伊江島には沖縄戦の縮図がある

 のどかで美しい島である伊江島のもう一つの顔は、沖縄戦の縮図のような悲劇の島だということである。106

 城山を正面に見る場所に、慰霊碑011 「芳魂之塔」が建っている。そのそばには、犠牲者の名前を一人一人刻んだ碑もある。
 1945年4月16日、米軍は伊江島に上陸してきた。6日間の激しい戦闘の末、日本兵2000人、住民1500人ほどが犠牲になった。芳魂之塔は、村民・軍人合わせて3500人余を慰霊するものである。
 かつてはのどかな島だった伊江島は、終戦の前年に日本軍が「東洋一」といわれる飛行場を建設していた。米軍は、これに目をつけて激しく攻撃した。そして占領したのである。

012     糸満市の「平和の礎」と同様の石碑は、村内は各地区ごとに、県内の他の自治体は市町村ごとに、県外は都道府県ごとに名前を刻んでいる。
 当時の島の住民の3分の1にあたる人々が犠牲になった。米軍上陸とともに、日本軍と住民はたちまち追い詰められ、軍によって一般住民も武器を持って突撃させられた。アハシャガマでは約120人もの住民が集団自決に追いやられるなど、地獄の様相を呈したそうだ。沖縄戦の実相を各地で聞くが、住民まで突撃させられた話は、伊江島でしか聞かない。

 島に行った直後の4月21日、戦闘が終わったとされる日に、この塔の前で平和祈願祭が行われたという。 

 伊江港の前にある伊江村資料館では、「絵画で伝える戦争体験」の展示がされ084 ていた。085

 展示では、伊江島への日本軍の飛行場の建設から米軍の上陸、米軍の占領、その後の住民の収容などパネル展示されている。
 展示はアップしても小さいのでとても見えないだろうが、伊江島の沖縄戦の一端を感じてもらえればと思い、アップしておく。

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 伊江074 港のそばには、「被爆慰霊碑」が建立されている。これは、戦争が終わった後の1948年(昭和23)8月6日午後4時過ぎ、島内東江上、東江前の北海岸地域一帯に集積された太平洋戦争中の爆弾を処理運搬する米軍爆弾処理船LCTの爆発事故が発生した。この時刻には、村営の連絡船が本島の渡久地から入港し、下船まもなく爆発した。乗客、船員ならびに出迎えの人を併せて102名(村内63名、村外39名)の尊い命が失われた。負傷者は73名(村内41名、ソンガイ32名)にのぼり、8家屋が全焼の被害を受けた。大参事の地である。

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 慰霊碑は「去った太平洋戦争が落とした大事故であり2度とこのような惨事が起こらない平和社会の建設を願う村民の思いをこめて建立する」と記されている。2001年2月に建立された。

 やはり、犠牲者の名前を石碑に刻んでいる。ただし、村内は63名全員の名前があるが、村外は13名の名前しかない。あと26人分の名前はないことになる。いまだ氏名の判明しない人がいるのだろうか。

 伊江島では、戦争が終わったあとも、米軍占領下で辛苦の生活を強いられることになった。Photo
 戦争で生き残った島民は、慶良間諸島に強制移住された。2年後に帰島してみると、島の半分以上は米軍により航空基地に整備されていた。
 住民は戦争で荒廃した土地を耕し、家を建てやっと暮らし始めたところに、1955年、武装米兵が土地を強制接収し、家をブルドーザーで破壊し、火を付け住民を追い払うという米軍の暴挙に直面する。
 住民は、命と生活の糧である土地を奪われては生きてはいけない。米軍の理不尽な土地の強奪と基地建設に、屈せずにたたかいに立ち上がる。島内でのたたかいだけでなく、島外の県民にたいして「土地を奪われてどうやて生きていけばよいのか」と、米軍の横暴と村民の実態を訴える「乞食行進」を繰り広げた。
 こうした土地を守るたたかいを語り継ぐ学習の場となった「団結道場」がある。これは、今回訪れたのではなく、2年前に島に来た時、撮った写真である(右上)。

 現在も島の35%は米軍基地で、海兵隊の飛行場・演習場があり、パラシュート降下訓練など、訓練が行われている。団結道場には「演習場をただちに撤去せよ」のスローガンが見える。
 伊江島に行った際も、島を往来する船で、米兵らしき人物がいっしょに乗り込んでいた。あえて前に撮影した写真をアップしておいた。

 

2011年4月21日 (木)

伊江島タッチューに登る

 伊江島のシン ボルは、島の中央にそびえる島唯一の山・城山である。伊江島のタッチューとして有名だが、この呼び名は島外の人で、地元の人は「グスィク」と呼ぶそうだ。標高172㍍ある。
 003_2  年配者の団体で行っていたが、タッチューに登りたいという声がみんな強い。
タッチューはその姿が、美しく、また特異であるため、海上でも遠くからすぐ伊江島と分かる。古くから、近海を航行する船が、目印にした山である。057
 中腹までは、車で上がれる。ただ岩山の部分は、歩いて登るしかない。これがとても傾斜がきつい。でも頂上まで、見事な石段があり、鎖を手でしっかり持てば、年配者でも登れる。
 おじいもおばあもおじさんもおばさんも登る。この日は若者の姿はなかった。
 「いや、きついね」「これほどだとは思わなかったサー」「もう2度とは登れないから、上がってみよう」。口々に話しながら、ひたすら登る。
 もうしゃがみこみ休む人もいる。でもあとが続いている。ひと休みしながらも登る。
 「さあ、もう少しだよ」。樹木がなくなってきた。岩と草になってくると、もう頂上が近い。「ああ、やれやれ頂上に着いたよ」。歓声が上がる。
 「すごい眺めだね」。360度見渡せる眺めは、文字通り絶景である。かつて、沖縄八景の第1位に選ばれたことがある。
 頂上にたどり着いた人たちから、おもわず「バンザーイ!」の声が上がった。
 階段を数えたおじいによると、293段+10段(とりつきの階段)ある。

058_2 

山頂には、伝説の足跡がある。060その昔、タンナーパという大男が隣村との戦いで、城山に登り攻めてきた敵に大きな石を投げつけ退散させた時、足を踏ん張ったため足跡が残ったと伝えられる。でも足跡の写真がない! 撮り忘れた。
 「80歳で登った記念だ。もうこれが最後だろう」。こうつぶやくおじいもいた。

059_2 061

  写真は、山頂からの眺めの一端である。自分の写真をおじいに撮ってもらおうと064_2 思ったら「もう俺は足がすくんで動けない」という。カメラを持つのも無理なのであきらめた。
 帰りも、降りる階段が急だから、よんなー、よんなー(ゆっくり、ゆっくり)降りる。065

 タッチューの山肌には、沖縄戦で打ち込まれた弾痕やくぼみが多数見られる。「戦争の悲惨さを今に伝える生き証人ともなている」と、案内板では記している。070
 この山は、グスク時代の遺跡の一つで、地域住民の信仰の対象になっている。山の中腹に当たる駐車場からの登山口のそばには、城山御嶽(グスクウタキと読むだろう)がある。

069 この御嶽には、ヲシアゲ森(神名ヨーセジ)と伊江セイ森(神名アマミヤガナシ)の2神のオイベが隣り合わせに祀られ、航海の安全と人々の健康、豊作を祈願する拝所となっているという。

 066 山に登る途中にも拝所があった。こちらは説明が何もない。岩の割れ目のような場所であり、これは南城市にある聖地・斎場御嶽(セーフォウタキ)に少し似ている。ミニ斎場御嶽のような感じである。

伊江島はまだ続く。

2011年4月20日 (水)

伊江島でユリとハイビスカスを見る

 伊江島といえばテッポウユリが有名だ。20万株、100万輪の花が咲くというでの、見に行った。でも今年は3月に寒かったので開花が遅く、ほとんどが蕾だった。018
 団体で行ったので、さっさとリリーフィールドを切り上げた。その後行ったのが「ハイビスカス園」だった。
 ここは、ゴルフ場などあるところに併設されている。「世界でも珍しい品種、伊江島オリジナル品種など1000種類」「千花繚乱」とうたう。
 ハイビスカスといえば、沖縄ではありふれた赤花だから、もう見慣れていると思っていた。ところが訪れてみて驚いた。なんという種類の多さ。花の色の開花の見事さ。ハイビスカスは、こんなにも華麗で美しい花だったのか!

 まずは1輪見てみたい。025

 ハイビスカスとは何か、という説明があった。
ハイビスカスは、アオイ科の植物である。品種は世界では1万種類近くあるという。花の色も、赤はもとより黄色、ピンク、オレンジその他、いろんな色の組み合わせがあり、鮮やかな色で多彩である。大輪で、ハイビスカスというより、バラのように見える華麗なものなどさまざまである。

 入口に、いろんな花が並ぶ花壇があった。ここは1株1000円で売ってるコーナーだった。
024

 見事な花であるが、ハイビスカスの花の寿命は短い。通常は、花は1日限りの寿命で、朝開いた花は、夜には花を閉じる。寒い時期や大輪の花は、2日もつものがあるが、たいていは1日に命だという。そのかわり、次々に蕾ができて花開くのがこの花である。
 大輪の花をいくつか紹介したい。028 上はピンク、下はオレンジだ。

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 花にはいろいろなタイプがある。「コーラルタイプ」「オールドタイプ」「ハワイアンタイプ」「伊江島オリジナル」などなど。ハイビスカス展示棟は広いが、別に栽培棟があり、そちらでは新しい品種の交配などを行っているという。

051042_2

036 ハイビスカスの人気投票があった。順位を上から5番まで紹介する。「初恋」「ラスベガス」「ピーチ姫」「ファーストラブ」「人魚姫」その他である。
 これら人気ある花がどれなのか、もうたくさんありすぎて探せない。写真では、アトランダムに花を紹介するしかない。039_2

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 伊江島オリジナルのハイビスカスも、18種類が紹介されていた。056 

 ハイビスカスといえば、ブッソウゲともいう。これは、沖縄でいわゆるアカバナの名前で親しまれている。ただブッソウゲとは、ハイビスカスの基本種のことをいうそうだ。
 ブッソウゲといえば、かつて高知県選出の衆院議員・山原健二郎さんが沖縄に来て、次の短歌を詠んだことがある。
 「仏桑花 そこには咲くな そこは基地 なが紅は 沖縄のもの」
 花に込めて、沖縄の心が詠まれている。

045

038

 これでも、まだまだ紹介しきれない。あまりにも種類が多過ぎて、短い時間では、見きれない。また、ゆっくりと見に来たい。 

 ハイビスカス園には可愛い猫がいて、見物に人が訪れても、われ関せずで、一人?でジャレて遊んでいた。おまけ。
 伊江島はまだまだ続く。

2011年4月19日 (火)

喜如嘉に燃え上がった革新の炎

 オクラレルカ(花菖蒲)を見に行った大宜味村の喜如嘉(キジョカ)は、芭蕉布の里と呼ばれ、山間の静かなたたずまいの集落である。この穏やかな風景の集落に、昭和初期、山原(ヤンバル)を揺るがす政治的なたたかいがあった。どれだけの人が知っているだろうか?107

 『喜如嘉誌』の中では、「村政革新運動」として紹介されている。
 「この運動は村長の専横に怒りを爆発させた喜如嘉の青年男女が中心となって起こったものだ。やがて師範学校、農林、中学在学中の学生たちも加わってこの運動を指導し、遠く県外に出稼ぎに出ていた同郷人も応援にかけつけた」
 沖縄では、昭和初期に入ると「ソテツ地獄」といわれた経済不況に見舞われた。また当時、大宜味村は、県内の42町村の中でも、税金が戸数割総額で第5位、一戸当たり平均で第2位、納税戸数で第20位という重税で村民は苦しめられていた。
 そんな時、村当局が公用林を売るという事件が起こり、これに端を発して有名な大宜味村政刷新運動へと発展した。

 1931年(昭和6)、村政革新同盟がつくられ、25歳以下の青年のほとんど全員が参加したという。
 村当局の無謀な財政政策に反対し、財政の革新、役場費削減、村長ら給料削減、制限外課税の撤廃、強制的夫役、不当寄付金の廃止などの要求を掲げた。さらには村民大会を開いて村長の辞職勧告決議を採択した。
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 運動は新たな発展をめざす。当時の部落の執行機関は上意下達で税金を搾り取るための組織のようになっているとして、真に自主的な住民組織をめざして、住民の代表者会議や婦人部会、少年の「仲良し会」などを結成した。
 さらに、消費組合を設立して、日用品を那覇から仕入れて配給した。既存の雑貨店と比べても品質や値段に格段の差があり、人気を博したそうである。

 1932年(昭和7)には、大宜味消費組合が、組合員ら160余人も喜如嘉に集合し、メーデーを行ったという。大宜味村政革新同盟歌を歌い、示威運動して喜如嘉を一巡して解散するということもあった。県内でも、農村でのメーデーは初めてだったという。
 「昭和初期に高まった社会主義思想の影響も受けて、大宜味村政刷新同盟」(別の資料では革新同盟と記されている)を結成して組織的運動へと発展した」「昭和初期の社会運動史のうえで特筆されるべき重要な意義をもっていた」(『喜如嘉誌』)
 この山原の地で、昭和初期に社会主義思想の影響も受けた村政革新のたたかいや消費組合まで設立する運動があったこと、その中心に青年が立ち上がり、婦人部会や少年の組織までつくられていたというのは、驚くべきことである。明治から昭和初期にかけて、沖縄の庶民による抵抗の運動のなかでも、特筆されるたたかいであることは間違いない。
 「今日であれば権力に対する民衆の抵抗と政治腐敗に対する民主化運動である」(同書)とも指摘されている。
 沖縄全県に波紋を起こしたこの刷新運動も、やがて官憲による徹底的な弾圧を受け、部落の部落の多くの青年たちが村にいたたまれず各地に散っていく結果に終わったという(同書)。109
 運動が弾圧された後、軍部や県と警察当局が喜如嘉の住民の権利や自由を奪い、軍国主義教育を徹底する中で、戦争に協力する「翼賛部落」に転じさせられていった。節約運動から生活の共同化、軍に協力する奉仕作業など、県内でも先端をいったという。そして、「その結果は沖縄戦の悲惨な体験であった」(『喜如嘉誌』)。

 いずれにしても、いまから80年も前に、これだけの運動があったことは、沖縄県民のたくましい抵抗の精神を示しており、歴史に刻まれる出来事である。現在でも、名護市辺野古や東村高江での米軍基地に反対する粘り強い運動にも、その伝統は引き継がれているのではないだろうか。そんな気がする。 

山城善光氏著『山原の火』なども参考にした。
写真は、文章とは関係がない。喜如嘉の風景である。

2011年4月18日 (月)

山内盛彬の歌碑を訪れる

  沖縄民謡「ヒヤミカチ節」をつくったことで知られる山内盛彬の生誕120年を記念して建立された歌碑が完成した。それで沖縄市に出かけた。067_3 
 「ヒヤミカチ」とは何回も取り上げたように、「えいっと気合いを入れる」意味のウチナーグチ(沖縄語)である。戦禍にあえぎ、米軍支配に苦しむ戦後の沖縄で、県民を鼓舞するのに一役かったのがこの民謡だった。066
 歌碑建立実行委員会がつくられ、資金集めをして、完成して除幕式が3月27日に行われたばかりである。碑が建立された場所は、沖縄市胡屋の沖縄長寿センター「緑樹苑」(右)の敷地内である。なぜこの場所なのか? 

 それは、山内さんが、1979年に開設された緑樹苑に最初に入所し、妻ツルさんとともにここで過ごしたという。同施設を運営する緑樹会の金城和昌理事長は「1年8カ月の(施設の)生活で山内さんは古謡を行事の折々に歌い、利用者間の親睦に努められた」と話している(「琉球新報」4月15日付)。

 歌碑は、ひらがなの「ひやみかち節」の歌詞と、この曲の五線譜が刻まれている。珍しい歌碑である。前にもブログで書いたように、この歌は、沖縄自由民権運動の活動家で、ハワイからアメリカに移民として渡った平良新助さんが、戦後、沖縄に帰ってきて詠んだ琉歌に山内氏が作曲した。下が歌碑の歌詞である。063  歌詞は、1番が平良新助、2番、3番が山内盛彬の作詞である。写真で歌詞はわかるので、歌意を自己流の解釈で紹介しておきたい。
 「♪七転び転び、気合いを入れて起き上がり、われらの沖縄を世界に知らせよう」
 「♪花が咲いた美しさ 音楽の鳴りひびく美しさ 聞かせよう世界に 音楽の腕前を」
 「♪私は虎だもの 羽をつけて下さい 波路太平洋を 飛び渡って見せよう」
 五線譜は、前奏からではなく、歌の部分の楽譜である。

065  前にも書いたが、この曲が誕生したエピソードを『山内盛彬著作集第3巻』から紹介しておきたい。戦後、東京にいた山内氏の家に恩人の玉代勢法雲先生が見えて「大戦で打ちひしがれた人心を復興するには、この歌を作曲して奮い立たしたらどうか」作曲を勧められた。「その歌を一回見るや、その熱意に動かされ、ヨシー、ヒットして同胞の目をさまそうと決意した。作曲というものはその意欲のクライマックスの感じをとらえることだ」、この歌が、多くの人の心をとらえ「燃えひろがったのは、平良氏の情熱の結晶した結果」だと記している。063_4

 しかし、山内氏自身が、平良に負けないような県民を奮い立たせる歌詞をつくっている。
 この曲のいきさつを知った当初は、平良が作詞し、山内が作曲したと単純に思っていた。でも実際は違っていた。

 歌碑には、山内氏が80歳のときに詠んだという琉歌も刻まれている。 
「滅びゆく文化 忍で忍ばれぬ もちと命かけて譜文に遺さ」。山内氏の自筆だという。
 立派な歌碑が完成したことで、山内氏もグソー(あの世)から見て、きっと喜んでいるだろう。
 山内盛彬も、「ヒヤミカチ節」が、高校野球の興南高校の応援歌になったり、東日本大震災の被災者を支援する歌になったりしていることまでは、予想できなかっただろう。 
 でも、沖縄民謡は、よい曲はすぐに替え歌をつくり歌ったり、歌詞をつくって付け加えたりすることは、ごく当たり前のことだので、なにも驚くことではない。
 それにしても、私が練習している「ヒヤミカチ節」の工工四(楽譜)では、この歌碑の歌詞よりも先に、平良、山内両氏以外の人が付け加えた歌詞が先に出てくる。でも本来は、この歌碑にある歌詞で歌うのが、この曲の精神にあっているではないだろうか。

 

 
 

2011年4月17日 (日)

ヒヤミカチ東北節

 東日本大震災の被災者を支援する取り組みが沖縄でも広がっている。沖縄では、昔から農作業で忙しいとき互いに助け合う「ユイマール」があった。このユイマール精神で、支援しようという声が高い。066

 「ヒヤミカチ東北節」という民謡が作られて、ラジオでも流されている。ラジオ沖縄の「民謡の花束~遊びでぃきらさ土曜日」で毎回流される。この番組でDJをつとめる當間由亮(トウマヨシアキ)も加わる「ヒヤミカチジャパン」で歌っている。

 ヒヤミカチとは、「えいっと気合いを入れる」意味だ。戦争で悲惨な状態にあった沖縄でつくられた「ヒヤミカチ節」は、復興に立ち上がる県民を鼓舞するうえで一役かった曲だ。平良新助作詞、山内盛彬作曲である。
 この曲の替え歌としてつくられたのが「ヒヤミカチ東北節」である。歌詞の全文がまだネットでもアップされていない。ラジオで聞いた要旨だけ紹介する。

♪みなで手とれば光さす 心うちあわちちばり  みしょり ヒヤヒヤヒヤ ヒヤミカチウキリ
♪時間とれるならボランティアしよう 波路パシ フィック渡ってはびら (ハヤシ)
♪他人事じゃない お互いに助け合い わしたユイマール世界(シケ)に知らさ ヒヤヒヤヒヤ
 ヒヤミカチ日本 ヒヤミカチ東北

 昨年夏の甲子園では、興南高校を応援する「ヒヤミカチ興南応援節」がつくられて、チャンスになるとこの曲が鳴り響いた。興南高校は、春夏連覇の偉業を達成した。
 東北の大震災の惨状を見たウチナーンチュは、沖縄戦での惨禍と重ねて心を痛めた人が多い。「ヒヤミカチ」は、困難に立ち向かう人たちを励ます言葉であり、精神である069 。そして力を発揮する。

 ところで、意外に身近なところで「ひやみかち東北」を見かけて。買い物に行く近くのスーパーの前にある、写真のプリント屋さんの前に、上の写真のノボリが林立しているではないか。
連れ合いが店で聞いてみた。「店はラジオ沖縄にコマーシャルを出しているので、協賛してこのノボリを出しているんですよ。募金箱を置いています。1000円寄付してくれた方には、1000円のステッカーをプレゼントします」とのこと。ただし、「ヒヤミカチ東北節」の民謡のことは知らなかった。

 被災者の応援と言えば、4月10日には、「がんばれ東北! がんばれ日本!」をスローガンにチャリティーコンサートが宜野湾市海浜公園で開かれた。沖縄出身と関係のあるアーティスト50組が6会場で演奏を披露した。begin mongol800 HY Dー51 ディアマンテス 南こうせつ 宮沢和史 登川誠仁 知名定男 前川守賢など、ロックから民謡まで、そうそうたつメンバーが無料で出演した。音楽関係の企業も無料で協力した。3万5000人が集まり、募金はすべて義援金として贈られるという。070
 

 ヒヤミカチ節は、時代を越えて県民の心をとらえる魅力を持った民謡であると、つくづく思った。これを作曲した山内盛彬さんの生誕120年の記念碑が、沖縄市に建立されたので、近く見に行きたいと思っている。
 
 右写真で、1000円寄付すると店員が手にしているステッカーをくれる。

 

 

2011年4月15日 (金)

喜如嘉のオクラレルカ

 芭蕉布の里でしられる大宜味村喜如嘉032_2(オオギミソンキジョカ)で 、いまオクラレルカが見ごろである。山間の水田は、紫色の花が一面に広がっている。

 オクラレルカは、花菖蒲の一種だそうで、本来は、葉を生け花用として、本土に出荷しているという。

 昨年も見に来たが、なんか昨年より葉の丈が長い感じ。花の咲きもよい。033  

111  売店では、5本100円で売られていた。見ていると、おじいがまだ花が開かない蕾の茎を切り取って集めている。どうするのかとおもうと、蕾のものも売るので、束にしてバケツに入れていた。「蕾はどれくらいで咲くんですか?」と尋ねると「もう今夜から咲くよ」という。随分早く咲くんだ。037

 オクラレルカだけではなく、コスモスも咲いている。115 

 コスモスといえば、秋桜と書いて大和は秋の花と思い込んでいるだろうが、沖縄は春に咲く。花菖蒲もコスモスもつつじもだいたい同じ頃さくのだ。

 オクラレルカの咲く中に、別の花があった。122

 ポンテデリアというらしい。オクラレルカとともに、売店でも売っていた。

 もう一つ、花ではないが、生け花に使う茎のようなものも植えていた。フトイというそうだ。120

 野鳥がたくさん水田には来るそうだ。フトイの間にも、鳥がやってきていた。119_2

 「野鳥の楽園」の看板も立てられている。060

 「喜如嘉のターブク(水田)みんなで守ろう」と呼びかけている。喜如嘉小学校の子どもたちが設置したものだ。
 この看板と合わせて、「おや?」と思う看板があった。それは、「ネコをはなすな!」と注意喚起をしている看板である。042

 はじめて見た時は、意味不明の感じがしたが、よく見ると簡単である。つまり、ネコをはなすと野鳥がせっかく飛んできても、ネコにやられてしまうということだろう。
 子どもたちが撮った野鳥の写真展も行われていた。048

 こんなにたくさんの種類の野鳥が飛来してくるのか、と驚くほどだ。それに野鳥をうまくとらえて撮影するのは難しいはず。でもとても上手に撮られていて感心する。049

051  

 野鳥は望遠で撮影しないとこんなに大きく、鮮明には撮れないはず。喜如嘉の小学生はエライ!

 

 オクラレルカに周りには、喜如嘉保育所の園児による看板もたくさんあった。
059 「ターブクでできたやさいだいすき」と書いてある。
小学生も保育園児も、ターブク(水田)をとても大事にしていることが、スゴイと思う。

 売店では、オクラレルカだけではなく、島らっきょうなど野菜類も売っていたが、いまいち欲しいものはなくて、今回はパスした。

112

2011年4月14日 (木)

勝連沖の島々、その2

 平安座島(ヘンザジマ)の144旧暦3月3日の伝統行事・サングヮチャーの続きである。
 拝所での儀式が終わると、大きなタマン(ハマフエフキ)の張りぼての神輿が出発した。担ぐのは、みんな中学生たちだ。島の南東約400㍍の沖合いにあるナンザ島に向かった。この頃は、潮の干満が大きい。午後2時過ぎが干潮だそうだが、今年は例年より海の潮が深いという。それに干潮を過ぎると、だんだん込みだしてくる時間になる。

154  ジャブジャブと海の浅瀬を歩いて、神輿は進む。海は潮が引いて浅いといっても、でこぼこがひどくて、カメラを持ち、写しながらでは、早くは歩けない。神輿はどんどん先に行く。

 中学生たちは「重い、重い」というけれど、若い力で、グングン海を歩く。  もうナンザに近づいた。私たちは、中間地点でついていくのをあきらめた。  

163

 神輿の一行は島に上陸した。岩場を上がっていくと、拝所があるそうだ。そこで大漁と豊年の御願176 をしているのだろう。 
 その間、浜ではおばあたちが太鼓を打ち鳴らして、みんなの帰りを待っている。ナンザまで神輿の往復する時間は、1時間近くかかるだろうけれど、太鼓が鳴りやむことはない。誰かが、打ち鳴らしている。三線も加わる。
 こういう光景を見ると、島に生きる人たちの、大漁や豊年にかける熱い気持ちが胸に伝わってくる。
 さあ、いよいよ神輿が帰ってくる。太鼓や三線の音は一段と活発に鳴り響く。
 浜に上がると、神輿をおろした。カチャーシーが始まった。仮装大賞を設けていて、島の青年会やグループ、会社・団体ごとに、仮装を披露しながら、カチャーシーを踊った。

200  神輿は、このあと自治会館に帰った。こちらで料理を食べ、飲み、夜まで楽しく歌い踊る。最後まではいられないので、途中で帰路についた。
 さて、島々を歌った民謡についてである。下の写真は、サングヮチャーの時のものである。
 「与勝海上めぐり」は、島々の風景をもっとも詳しく歌い込んだ曲ではないだろうか。歌詞を紹介する。
 「♪津堅浜平安座通い路ぬ港 通い舟乗やい廻る美らさ」
 (通い路の港、通い舟に乗って廻る景色の美しさよ)
 「♪車乗ていそさ 舟乗ていそさ 浮原ぬ満干平安座までぃん」
 (車に乗って嬉しいことよ 舟に乗って嬉しいことよ 干潟の満ち干平安座までも)
 「♪伊計離り廻て 浮原ぬ海や釣し楽しむる マブク タマン」
 (伊計島を廻って 浮原の海で釣りで楽しめる マブク タマン)
 「♪浜比嘉に渡て アマミチュゆ拝んで 見晴らしぬ美らさ島ぬ岬」
 (浜比嘉島に渡って 伝説のアマミチュを拝んで 見晴らしの美しい島の岬よ)

 この歌詞の中で、アマミチュとは、琉球開闢(カイビャク)をしたと伝えられるアマミキヨのこと。浜比嘉島に住んでいた、お墓もあるという。
 また、浮原という島が登場する。この島は、浜比嘉島の沖にある。でも、なんと日米で軍事演習場として利用している。昨年12月にも、日米合同演習の際、戦闘時に負傷した兵士を緊急輸送する215訓練をしたそうである。このあたり、昨年、普天間基地の移転先探しの騒動の際、当時の平野官房長官が移転先の候補地として狙ったことから、反対の声が噴き上がった。でも、結局は消えていった。

 「島めぐり」という曲がある。糸満、与那原、中城、具志川、名護の沖縄各地が歌われ、最後に浜比嘉島が登場する。
 「天下る人ぬ 昔始いぬ アマミチュぬ島や 此処(クマ)どやゆる やんどうふ 浜比嘉よいとこ めんそりよー」と歌う。
 その昔、天下ってきてこの国を始めたというアマミチュの島は、ここだよ、浜比嘉よいとこ、おいで下さい、というような意味だろう。
 
 津堅島には、いろんな歌がある。いまではニンジンの産地で有名だ。島出身の人気民謡歌手の神谷幸一さんが「キャロットアイランド」「津堅ビーチsong」などつくり、歌っている。

 でも津堅島が舞台の曲として有名なのは「取納奉行」(シュヌブヂョウ)である。取納奉行とは、琉球王府の時代に、徴収する税金を定める役人である。この役人が島に来る光景をユーモラスに歌っている。長い曲なので、あらすじだけ紹介する。
 取納奉行が意気込んで来る。今日は浜比嘉島から起こしになる。津堅島に着いた役人が言う。「今日は美しい女性を寄こしてくれよ、津堅の頭たちよ」。さあ奉行の接待に誰がなるのか、津堅神村祝女殿内の壺脱ぎカマドに頼もう、取納奉行の前に近寄るのに下着も下袴もない者にそのまま行かせるのか、とお話が展開する。最後は、役人の接待にいった娘が贈り物をもらって帰ることで終わる。
 ただ、島に来る役人が権威を利用して女性を世話させる、そんな傲慢が横行していた様子がうかがわれる。歌はそれを風刺していて、面白いお話である。これもとても軽快なテンポで、楽しい曲である。
 そんなわけで、勝連沖の島々にまつわる民謡はいろいろある。島には伝統芸能も生きている。サングヮチャーでは、ナンザから神輿が帰ってくると、浜で子どもたちもカチャシーを踊っていた。きっと島の祭りと芸能を受け継いでくれるのだろう。

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017_2  ただ、4つの島はうるま市が小中学校の統廃合を打ち出し、島ごとにある小中学校を廃止し、1校だけに統合しようとしている。住民はこぞって反対である。自治会館や島のいたるところに看板が掛けられていた。
 「学校や島ぬ宝物でむぬ いちん何時までん 守てぃいかな」と断固反対している。

 学校は地域になくてはならない存在である。島ごとの伝統や芸能、文化を受け継ぐうえでも学校は欠かせない。小規模校ならではの行きとどいた教育も可能である。サングヮチャーを見に行って改めてその感を強くした。
 民謡の歌詞の訳はネットの「島唄まじめ研究」など参考にさせていただいた。

2011年4月13日 (水)

勝連沖の島々、その1

 うるま市の与勝半島の沖合いに浮かぶ島々は、沖縄ならではの空と海と島との景観が美しい。同時に、島ならではの民俗、文化が残る地域である。
 それだけに、沖縄民謡では、たくさん島々を歌った曲がある。ことし旧暦3月3日から3日間「サングヮチャー」が行われた。4月6日に平安座(ヘンザ)島に見に行った。
 004 屋慶名(ヤケナ)から海中道路で渡ると、平安座島、宮城(ミヤギ)島、伊計(イケイ)島とつながっている。平安座島からは大きな橋で、浜比嘉(ハマヒガ)島に渡れる。さらにその南に津堅(ツケン)島がある。

 013 浜下りは、潮の満ち干が年間でも大きいこの日、女性は浜に降りて海水で身を清めるならわしがある。「女の節句」でもある。でも、平安座島のサングヮチャーは、琉球王府時代から200年の伝統のある行事である。大漁や豊年を祈願する島の人々の由緒あるお祭りである。年間で最大の行事で、この日をみんな楽しみにしている。

 行事は大きくいって二つある。一つは集落の拝所で、ノロ(神女)に生きた魚を銛で突いて捧げる儀式「トゥタヌイユー」が有名である。その後、大きなタマンの形をした神輿を担いで、島の南東、約400㍍沖にあるナンザ島に海を歩いて渡り、島の御嶽に御願する行事である。

 平安座自治会館のすぐ裏の拝所で、儀式が始まった。はじまりは、やっぱり歌三線による「かぎやで風節」だ。でも歌詞が違う。漁師の願いが込められた替え歌になっている。
 「♪海人(ウミンチュ)ぬ願や波風ん静か ちりてぃちゅうる魚(イユ)ぬ羽ぬ美らさ」
 (漁師の願いは波風が静かで海は穏やか 獲れる魚の羽が美しいことよ )   板に乗せられた魚は、毎年、タマン(ハマフエフキ)とマブク(シロクラベラ)の2匹に決まっている。漁師が前の日に必ず漁をして用意する。儀式では、お酒をノロ、神人に注いだあと、女性が銛を持つ。見事に突きさすと肩に担いで回りながら踊る。084  ノロさんも一緒に踊る。魚を捧げる儀式が終わると、カチャーシーになり、自治会長さんや周りで見ていたおばあ、おじいたちも次々に入って「唐船どーい」など早弾き曲で踊り舞う。

075

 さてここで、祭りを離れて、民謡の話をしておきたい。
 104 これらの島々が登場する民謡を見てみると、いろんな曲がある。
 「伊計離り節」(イチハナリブシ)、「高離節」(タカハナリブシ)、「与勝海上めぐり」、「屋慶名クファディーサー」、「島めぐり」などなど。
 「伊計離り節」では次のように歌う。
 「♪行けば伊計よ離りよ 戻てぃ浜よ ヘイヨー平安座よ」(行けば伊計島 離れ島よ 戻れば浜部落よ 平安座部落よ)
 「♪平安座前ぬよ 浜によ 山原(ヤンバル)がよ ヘイヨー着ちょんよ」(平安座の前の浜辺によ 山原船が着いているよ)
 「♪山原やよ あらんよ 大和戻い ヘイヨー 戻いよ」(山原船ではないよ 大和から戻った船だよ)
 歌はこの後、「平安座の娘たちが欲しい物は何かな 押す竹と張る竹よ 敷板、巻き板よ 前ぐさよ(いずれも機織りの器具のことらしい) 前ぐさとってどうするの 布を巻くのよ 巻いた布はどうするの 彼氏の上着と袴よ」と話が展開する。
 平安座島の光景から歌はいつの間にか、島の女性たちが愛しい彼のために布を織るという恋歌に発展している。テンポの良い曲で、演奏しても楽しい。
 「高離節」は、歌の舞台は隣の宮城島である。
 「♪高離島や物知らせどころ にゃ物知やべたん 渡ちたばぅれ」。
 歌意は「高離島は、さまざまなことを教えられるところです。でももう十分に思い知ることができました 私の生まれ育った地に願わくば命あるうちに帰りつけますように」
 この歌は、18世紀に薩摩に首里王府を告発する投書をしたことで、政治犯として処刑された悲劇の文学者、平敷屋朝敏の妻である真亀(マガミ)が、士族から百姓に落とされ、流刑にされた宮城島で詠んだ琉歌である。
 夫が悲憤の死を遂げ、島流しにあう辛さ、寂しさに耐えながら、故郷への思いを募らせる真亀の心情が込められている。宮城島の長めのよい場所に歌碑が建立されている。

 与勝半島の屋慶名の有名な曲「屋慶名クファディサー節」でも、島々の光景が歌われている。屋慶名のクファディサー(コバテイシ)の木は枝ぶりが美しい、木の下で遊んで行こう、前の浜に舟を浮かべて、若い女性を乗せて遊びたい、というのが主な内容である。これに続いて次のように歌う。
 「♪手取ら取ら見ゆる ハリヨ浜と比如平安座(ヒジャヘンザ)よ スリヨ浜と比如平安座よ 黒潮打ち寄して ハリヨ我自由またならんよ スリヨ我自由またならんよ」
 (手で取れば取れそうに見える浜と比嘉(浜比嘉島)、平安座島だよ、島との間に黒潮が打ち寄せて また思うようにならないよ)
 とても軽快な曲で人気がある。木の美しさを歌っているようで、結局は「♪私と愛しい彼女は、毎夜また向かい合う」と歌う。立派な恋歌である。

120

 さて、サングヮチャーに戻る。儀式が終わると、魚の神輿を担いてナンザに向かう行進になる。拝所を出ると、通りではデイサービスのお年寄りたちが、神輿に声援をおくっていた。なぜか、頭には、ザル籠に紙のお魚を入れている。豊漁の願いを込めているのだろうか。
 このあとはの長いので、次にしましょうね128 。 

 

2011年4月11日 (月)

期待される「お笑い米軍基地7」

 米軍基地を笑い飛ばす、「お笑い米軍基地7」の本島縦断オール新作ツアーが、6月18日からスタートする。さっそく6月18日の那覇市公演のチケットをゲットした。前回の「ツアー6」の時は、のんびりしていて最後尾付近の席しかなかったから早めに買った。
 公演するのは、お笑い集団の「FEC」、原案・脚本・演出は「まーちゃん」こと小波津正光である。
 毎回、本来は県民にとって深刻な問題である米軍基地の存在を、風刺のきいたギャグで笑い飛ばす。笑いの中に、基地問題の抱える問題点が浮き彫りになったり、日頃だれもが思っていることを代弁してくれて、うっぷんを晴らしたり、という具合である。そんな舞台だから、人気がある。
 前回も、若い層を含めて満員で、大受けの公演だった。本島縦断ツアーは、那覇市のほか、6月25日が沖縄市、、7月2日は名護市の3か所である。
 オール新作と銘打っている。7回目ともなると、創作のネタつくりも大変かなあー、と思う。でも、ネタの供給源である米軍基地は、半年、1年もたつと、笑い飛ばしたくなるようなネタを、次々提供してくれる。
 今回の主役は、なんといっても「沖縄の人はゆすりの名人」「ゴーヤーもつくれない」と言い放ったケビン・メア氏(前国務省日本部長)である。さっそく、FECオフィス代表の山城ともじ氏は、「琉球新報」11日付コラムで取り上げている。
 「あ~、今度の新作公演でもこのネタがコントになるだろうな~。メアさん役は誰だろう?」。

 それに、東日本大震災の被災地を支援する海兵隊の「トモダチ作戦」も、ネタにしたくなる。なにより、そのネーミングからして、笑いを呼ぶ。海兵隊が沖縄にいるから今度のような震災の支援もできると、大いにアピールしていたが、震災1カ月で12日、早くも任務を終えてうるま市のホワイトビーチに到着する予定だという。
 被災地は1カ月たっても、行方不明者が1万4608人もいて、避難者は15万人を超える。まだ仮設住宅さえ、ごく一部しか建っていない。「トモダチ」と言うわりには、わりと引き際が早いという声も出そうだ。米軍は、自分で「トモダチ」と言ったわけではなく、名付け親は日本政府だと繰り返している。
 

 まあ、公演の内容がどうなるのか、それは見てのお楽しみである。公演が終われば、感想をブログにアップしましょうねえ。 

 

2011年4月10日 (日)

那覇新都心の墓跡群を見る、その2

 新都心の伊是名殿内墓以外の墓跡群は、那覇市役所銘苅庁舎のすぐ裏にある。042 何度も庁舎に来て、窓から見ていたけれど、銘苅に墓跡群があることは知っていたが、うかつにも、これがそうだと意識していなかった。「なんだ、これが墓跡群だったのか!」。自らの愚かさにあきれた。
 ここは、グスク時代から琉球王府時代、さらに明治時代に続く大規模な墓跡群である。いま、調査が続き、まだ一般市民は立ち入り禁止になっている。

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  説明の看板が掛けられている。
 墓跡群は、周囲を金網で囲われて、立ち入りできない。038

 このあたり、緑の森の下は崖で、洞穴のようになっている。だから、昔から洞穴を墓として利用してきたのだろうか。亀甲墓のような形の墓も見える。
 
 国指定文化財等データベースでは、次のように説明している。
 保存地区には、崖面の岩陰前面に石積みをして墓室とした囲込岩陰墓2基、琉球石灰岩の下層に堆積した粘土層に横穴を掘り込んで墓室とした掘込墓26基、亀甲墓1基がある。いずれも基本的には墓室にいったん納めて白骨化させたのち、これを清めて改めて葬る洗骨葬である。囲込岩陰墓からは36体の風葬人骨が出土し、それがその谷上に営まれたグスク時代の集落、ヒヤジョー毛遺跡と同時期であり両者が関係すると考えられる。

032_2  墓の多くには蔵骨器(厨子甕)が納められており、それに被葬者の氏名、役職、死亡・洗骨年月日などを墨書で記した銘書をもつものが他の地区よりもかなり多いことが注目される。この銘書により墓の被葬者は主に琉球王府首里の士族層であったことが確認できる。045_2  このように銘苅墓跡群は岩陰における洗骨葬がグスク時代に成立し、近世以降、掘込墓などが展開したことを示すとともに、中国から伝わった最大規模の亀甲墓があり、文字資料による具体的な被葬者が明らかにできるなど、墓跡としては極めて貴重な事例である。ここにみる墓制や葬送儀礼は沖縄地方の歴史と文化の独自性を象徴するものでもある。よって、史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。047

 というわけで、とても貴重な墓跡だという。今後、整備して公開する予定だという。公開されれば、ぜひ見に来たいものである。
 ところで、墓跡群にはなぜかヤギが放し飼いにされている。草を食べている。子ヤギから大きいヤギまでいる。041

 墓跡群に立ち入れないように、周囲に金網を張ってあり、ヤギはその中にいるので、墓跡の洞穴のそばまでウロウロしている。
 数えてみると、8頭いた。ヤギにとっては、とても広い牧場のようなものだ。だれにも邪魔されず、のびのびと遊んでいる。
 なぜ墓跡群にヤギを飼っているだろうか? それはまだ謎である。

048  見に行ったのが土曜日だったので、市役所庁舎は警備のお兄さんしかいない。「ヤギは何のために飼っているんですか?」と尋ねた。「さあ、よくわからないですが、幼稚園の園児たちがよく見に来ていますよ」と話していた。

 というわけで、お墓とヤギの珍しい取り合わせでした。

2011年4月 9日 (土)

那覇新都心の墓跡群を見る、その1

 新都心には、グスク時代から琉球王府時代、さらに明治まで続く大規模でたくさんの墓跡がある。銘苅墓跡群(メカルハカアトグン)と呼ばれ、国指定文化財になっている。近くて便利な所なのに、まだ行ったことがなかった。
 037 その中の、伊是名殿内(イゼナドゥンチ)の墓へはじめに行った。その名前からも分かるように、伊是名、伊平屋(イヘヤ)両島の総地頭家(上流士族)の伊是名家の墓である。銘苅の墓跡群の中でも、他の墓とはその規模と造りまで大いに異なる亀甲墓(カメコウバカ)だ。

 那覇市役所の銘苅庁舎、消防本部のすぐ西側にある。この墓は、小高い山を三面に切り取り、切り取った土で敷地を造成して造られている。敷地が660㎡という県内最大級の亀甲墓である。建造技術は、県内の墓の中でも傑出したものだという。

013 風水思想にもとづいて造られている。入口には、本007 門と中門の2つの門があり、ヤナカジ(悪い風)が直接墓に当たらないように工夫されている。

 立派な石垣で囲われている。石垣の隅には、突出した石が置かれている。「隅頭」(スミカシラ)という。あたかも、上級士族の屋敷の囲いの石垣のようだ。022

 墓の庭に入ると、左手に石積みの穴がある。これは、葬儀に用いた用具などを処分するものだという。009

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 正面の右手には、棚のようなものが設けられている。これは、土地の神であるヒジャイ(后土神=コウドシン)を祀る祠らしい。011

 石垣がとても面白い積み方をしている。正面は、長方形の豆腐を積むような布積みである。018

 両サイドの石垣は、石を亀の甲のように組み合わせる相方積みだという。それにしても、一つ一つが扇のような形や半円型のように曲線に加工された石を積んでいる。019 とても手間のかかる石積みである。

 周囲の石垣も上にのせた隅頭の写真でみるように、石垣が少しカーブしている。手が込んでいる。

 墓を上部から見た写真があった。これをみると、より全体像がよく分かる。036

 墓の上部の円形になっている部分の周囲に、細い通路のようなものがある。何のためなのか、よくわからない。掃除のために墓の上に上がれるようにした通路なのか、雨が降った場合に、水が流れ落ちる水路なのか。わからないが、きれいに整備されている。023

 伊是名殿内には失礼だけれど、せっかくだからこの通路を通って上に上がってみた。

 正面には、半円形の大きな柱のようなものがあり、四角に切られた石積みと巧みに配置されている。

029  亀甲墓は、17世紀に中国南部から伝わり、琉球の士族階級に広がり、18世紀代に琉球で独自の発達をとげて完成された。この伊是名殿内の墓は、18世紀代の様式のものであることがうかがえるという。説明文にすべて書いてある。004

 いま那覇市の新都心としてにぎわう、おもろまち、このあたり一帯は戦後、米軍基地だった。住宅施設として使用されていた。

 1987年(昭和62)に全域が解放された。多くの古墓が存在することが知られていた。伊是名殿内墓とここから約100㍍東の墓跡群が保存地区にされている。

 長くなったので、ほかの銘苅墓跡群は次にしましょうね。

2011年4月 8日 (金)

数字の古い数え方が残る沖縄民謡

 沖縄民謡には、いろんな数の数え方が出てくる。沖縄では、1,2、3は、ティーチ、ターチ、ミーチというように数える。沖縄民謡は、恋歌が多いが、よく「二人」の男女の関係が歌われる。「二人」は「タイ」と呼ぶ。なれるまでは、なかなかなじめなかった。
 「月夜の恋」という唄では「♪二人が待ち所⋯⋯」と出てくる。「タイガマチドゥクル」と歌う。「♪二人や縁結で戻る嬉さ」は「タイヤインムシデ ムドゥルウリサ」と歌う。これは恐らく「フタリ→フタイ→タイ」と変化したのだろう。
 「一人」は「ヒチュイ」と言う。「白雲節」だと「♪一人淋々とぅ眺む白雲ん」は「ヒチュイサビサビトゥ ナガムシラクムン」と歌う。
 「三人」は「ミッチャイ」という。女性歌手3人で歌う唄に「女三人はなじゃかい」というヒット曲がある。「イナグミッチャイハナジャカイ」と歌う。 

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 写真は「さんしんの日」に「女三人はなざかい」 を歌った女性歌手3人(RBCテレビから)
 これは、大和で、ヒトツ、フタツ、ミッツと数えるのがなまったものだ。日本では、原日本語に由来する固有の和語の数え方だという。まだ使われているが、通常は「イチ、ニイ、サン、シイ⋯⋯」と数える。これは、中国から漢語とともに持ち込まれて、それが日本語化したものだ。こちらが主流になっている。まあ沖縄だけ、古い数え方が残っているということではない。
 問題は、10を超える数字だ。いま、日本では普通、12,13は「ジュウニ、ジュウサン」と数える。でも、これは漢語の数え方である。もともと日本の数え方は、10をl超えると、10に付け加える形で、13だと「トウ・アマリ・ミッツ」、20になれば「ハタチ」、30は「ミソジ」、40は「ヨソジ」と数えた。でも、これはもう大和では使われなくなった。「ハタチ」「ミソジ」「ヨソジ」なども年齢を表す数え方になった。
 050 ところが、沖縄ではこの古い原日本語に由来する数え方が残っている。とくに八重山、宮古などである。八重山の「月ぬかいしゃ節」は、「♪月ぬかいしゃ一〇日・三日(トウカ・ミカ) 女童(ミヤラビ)かいしゃ一七(トウナナツィ)」と歌う。「月が美しいのは13夜だよ 若い女性が美しいのは17歳だよ」という意味である。
 宮古民謡の「豆が花」(マミガパナ)では、「♪年数(ゆ)みば一七歳(トウナナツ)よー 肌見りば今童(ナマヤラビ)よー」と歌う。「娘の年を数えればまだ17歳だよ 肌を見ればまだ子どもではないか」という意味である。  写真は「さんしんの日」に八重山民謡を歌う宮良康正さん(RBCテレビ)。
 この唄は、人頭税を課せられた時代、宮古上布を織る織女の乙女を見染めた役人が、自分のものにしようと親に要求するが、親はこれを拒否するという気高い名曲である。
 数の古い数え方が沖縄に残っていることを、指摘したのは、沖縄学の父と呼ばれる伊波普猷(イハフユウ)氏である。『古琉球』では、次のように指摘している。
 「日本の数詞には固有ののと支那(中国)のと二通りあって、前者は殆んど後者に圧倒されたが、琉球に於ても同様の現象がある。しかし久しく文化の光に浴しなかった宮古、八重山には今なお固有ののが遺っていて、日本固有の数詞に髣髴(ホウフツ)たるものがある。国語で古くはトヲカアマリヒトヒ(十一日)ハツカアマリフツカノヒ(二十二日)ハツカミカノヒ(二十三日)といったように、宮古、八重山の方言では今なおトヲカミカ(十三日)トヲカヨカ(十四日)というように称えている。八重山では一から二十までは固有のとなえ方をしてトヲヒトツ(十一)トヲフタツ(十二)⋯⋯というようにいっている。宮古島に至っては一入(ヒトシオ)古代の面影を留めているのである。即ちハタツ(二十)ミスツ(三十)ヨスツ(四十)イスツ(五十)ムスツ(六十)ナナスツ(七十)ヤスツ(八十)ククススツ(九十)ムムツ(百)という数え方がある。また一人をタヴキャー、五人をイツヌピト、二十一人をパタヌピトタヴキャー、百人をムムヌピトととなえるのはよほど面白い」         写真は意味はなし。ただの飾りです。なぜかおじいは三線を持っている。

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 沖縄は、大和ではもう使われなくなった古い日本語が残っていることで、知られる。これが数字の数え方にも当てはまる。なれるまでは、苦労する。でも「♪月ぬかいしゃとか・みっか(13日)、美童かいしゃとお・ななつぃ(17歳)」と歌いなれてくると、こちらのほうが歌の雰囲気にあう。ちなみに「♪月ぬかいしゃじゅうさんにち、美童かいしゃじゅうなな歳」と歌えば、民謡の味わいをまるっきり損なう。「しまくとぅば」(島言葉)には、島人の肝心(ちむぐくる)がある。どんなに古い数え方であろうと、大事にしなければいけない。

2011年4月 7日 (木)

小禄の拝所巡りのおまけ

 那覇市小禄(オロク)の拝所で、まだ見残していたところや、見に行っても分からないところがあり、もう一度見に行った。それだけ、小禄には、いろんな由緒ある拝所があるということである。011
 一番見たかったのは、小禄里之子火ぬ神(サトゥヌシヒヌカン)である。地図で見ると分かりやすいはずである。通りから小道を少し入ったところで、おじいがいたので「小禄里之子火ぬ神はどちらですか」と尋ねた。「火ぬ神? この先にもあるけれど、まっすぐにはいけないから、この上の道を回っていかなければいけないよ」と言う。と言う間に、先に立って歩き出した。このあたり石畳の道が残る。
 「あそこに010 いるおじさんに聞いてみようね」。近くなので顔見知りのようだ。「○○さん、火ぬ神はどこにあるねー」と聞いてくれた。「火ぬ神なら、この下にもあるよ」と指差してくれた。駐車場の一角にある。二人のおじいらにお礼を言って見に行った。
 そこにあったのは「田原ヒヌカン」だった。字小禄の隣が田原(タバル)地区なので、田原の火ぬ神だ。
 先ほど教えてくれたおじさんが「この辺り、字小禄と田原の境になり、ここにあるのは田原ヒヌカンですよ」と言う。知らない火ぬ神を見たことはよかったが、これは探していた火ぬ神とは違う。
 火ぬ神とは、台所(かまど)の神様である。人間にとって、火はとっても大事なものだ。人間が火をおこせるようになったことは、人類の歴史上、画期的なことだった。沖縄では、どの家にも火ぬ神を祀ってある。家庭の見守ってくれる神である。それだけでなく、各集落には、火ぬ神があった。小禄はなんかとくに多いように感じる。012
 

 もう一度、出発点に立ち帰り、地図を手にして目を凝らしていると、民家への入り口のように見えた道が、なんか拝所に入る通路のような感じがする。歩いて入っていくと、立派な屋敷の前に、拝所が見えてきた。
 「あっ、これだこれだ」。ようやく探していた火ぬ神が見つかった。それが一番上にのせた写真である。
  立派な赤瓦の拝所である。小禄で見てきた火ぬ神の中でも、ぬきんでている。田原ヒヌカンと比べても、まったく異なる造り方である。その内部を見ると、右のようになる。
 なぜこんなに立派なのか?

014  それは、名前にあるように「小禄里之子火ぬ神」とは、小禄間切(いまの町村)を治めた地頭の火ぬ神だからだ。別名「地頭火ぬ神」と呼んだ。
 ついでに、ここの屋敷のブーゲンビリアがとてもきれいに咲き、火ぬ神を彩っていた。013  なんか今年は、どこのブーゲンビリアも勢いがよい。近くの漫湖公園のブーゲンビリアがここ数年、勢いがなかったが、ことしは、勢いがすごく、色鮮やかである。001_2_2

 もう一か所、前回来た時に、探しても地元の人に聞いても、分からなかったヒージャー(樋川)を偶然見つけることができた。「浜下り」で瀬長島に行った時、小禄を通ったので、もう一度、探してみようと、地図にある場所に車で行った。すると、道路わきにあるではないか。
 もう少し、大きいヒージャーだろうと、山の方ばかりに目をやっていたので、見逃した。分かってみれば、馬鹿みたいである。
 ヒーザーガー跡(後原ヒージャー小)という。
小禄の村ガー(共同井戸)の一つ。いまは樋から水は出ていない。でも最近までけっこう水が出ていたという。残念である。
 樋の横に小さな拝所がある。井戸(カー)、ヒージャーには、必ず拝所がある。

003_2_3  
 おまけ。拝所ではないが、小禄ノ嶽に行った時、山の上に御嶽があるが、その下の方の周辺には、お墓がたくさんあった。なかでも、亀甲墓が立派だった。4月に入り、沖縄では、先祖を供養する清明祭(シーミー)のシーズンである。お墓の掃除をしたあと、おもに土日曜日に、親族や門中(ムンチュウ、父系の血縁集団)が集まり、お墓の前で重箱料理などお供えして供養する。そして、みんなで料理を食べる。雰囲気的には、ピクニックのような感じである。こんな大きなお墓なら、門中も大きい集団だろう。007  門中を表すものがあった。このお墓とは無関係である。1952年になにか整備をした記念のようだ。「大里門中」の字が見える。

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2011年4月 5日 (火)

旧3月3日は「浜下り」

 沖縄では、旧暦3月3日である4月5日は、女の節句であり、「浜下り(ハマウリ)」である。この日は、一年でも潮の干満が大きい。那覇市周辺でも、浜辺では午後2時前後に、最も潮が引いた。豊見城市の瀬長島に出かけてみた。
 018 干上がった磯には、大勢の家族連れが来ていた。岩についた緑色のアーサーを採ったり、貝を拾ったり楽しんでいた。
 子どもたちもまだ、春休み中で、ちょうどよいお出かけである。天気も良く、海に足を浸しても気持ちよさそうだ。
 浜下りは、女性が海で身をきよめる禊(ミソギ)の日とされていた。同時に、女性たちがご馳走を作って、浜辺に出かけて遊ぶ日でもあった。
 この那覇の街でも、かつては浜辺で遊んだ後、こぞって沖縄芝居を観に行ったそうである。
 「サングヮチャー」とも呼ばれている。地域によって、多少違いがあるが、女性たちが公民館に集まって楽しく1日すごすところもある。神様にお供えをして、1年間の健康と家内安全をお願いするというところもある。
 010瀬長島は、かつては島だったがいまは、道路でつながっている。小さな島なので、車で数分で島を一周できる。
 島の周囲は、ぐるりと潮が引いて、広く広く干上がっている。008

 

 靴を脱いで浅瀬に入る女性や子どもが多い。
おばあ、おじいもたくさん来ている。ビニール袋を持って、盛んにアーサーを採っている。
011  

 島の周囲だけでなく、少し沖でも潮が引いて陸地が出ているところもある。
 瀬長島は、那覇空港のすぐそばである。だから、空港に降りる航空機が頭上をゆっくりと降りて行く。航空機の離発着が真近に見られるということでも、人気がある。

 観光スポットであるし、若いカップルのデートスポットとしても知られる。少しいる間だけでも、絶えまなく航空機が糸満方面から下りてくる。013

 この日は、昼過ぎから急に黒い雲が出てきた。少しの間、島でもスコールが降った。こういう雨は、沖縄では「カタブイ」ともいう。つまり、ごく狭い地域だけ、偏って降る雨だからだ。天候は、もう夏型に近付いているのだろうか。島で雨が止んだと思ったら、雨雲は海上に移動して、海の上で黒雲から滝のようにスコールが降る光景が見られた。写真ではわかりにくいかもしれない。雲の下、中央部で少し縦に灰色がかって見えるのがスコールである。

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 「空の駅 物産センター」に立ち寄ってみた。「ジョン万焼」の看板が目に付いた。「たしか前に来た時はこんなものはなかったはずだが、いつできたのだろうか」と思って、店内に入ってみた。
「ジョン万焼1個100円、ジョン万そば500円」とメニューが出ている。
 おやじさんに、いつからやっているのか聞いてみた。「ジョン万次郎の5代目当主の方が、見えて、作って下さいということだったので、作りだしたんです。橋本前高知県知事も見えて、ジョン万焼を食べて行かれました」という。

024 025 見せてくれたリーフレットは、昨年9月、沖縄ジョン万次郎会の創立20周年事業として、ジョン万次郎記念碑が建立されたときのものだった。この時、5代目当主がお見えになったのだろう。

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 なぜ、瀬長島でジョン万次郎なのだろうか? 
かつて1851年に中浜万次郎がアメリカから帰国する際、当時の琉球の大渡海岸に上陸して、豊見城村翁長(オナガ)に半年間、滞在させられた。その間、村人たちとも交流があったので、豊見城市はゆかりの土地となっている。だから、翁長には記念碑も建てられた。瀬長島も同じ豊見城市ということで、あやかりメニューが誕生したのだろう。
 「ジョン万焼」は上の写真のように、もち入りの今川焼のような感じだ。でも「ジョン万そば」は、「中味は沖縄そばですが、沖縄そばでは面白くないので、ジョン万そば、とさせてもらったんですよ」とおやじさんは話していた。中浜家お墨付きのようなので、次に行った時には、賞味してみよう。今回は、昼食の直後なので、さすがに食べる気が起きなかった。
 というわけで、 「浜下り」がいつの間にか、中浜万次郎の話になってしまった。

2011年4月 4日 (月)

「ともだち」作戦を政治利用しないで

 東日本大震災の救援に、在日米海兵隊も活動している。名付けて「ともだち」作戦という。ただし、海兵隊のホームページを見ると、名付けたのは日本政府だと何回も強調している。
 大地震に大津波、さらに原発災害まで加わる世界的にも未曾有の事態に、世界各国からさまざまな支援が寄せられていることには、大いに感謝しなければいけない。
 写真は、海兵隊のキャンプ・キンザー。補給基地である。 116
 こんなとき、日本に駐留する米軍がなにもしなければ逆に、世界から非難されるだろう。
 でも、救助活動を沖縄にある米軍基地と海兵隊が居座る根拠にすることは、やめてもらいたい。
 たとえば、普天間基地の司令官、デール・М・スミス大佐は、沖縄の海兵隊航空機が近くにあることで、救助活動の支援をするために、海兵隊員たちは早急に緊急物資や救援を派遣することができると強調している。普天間基地の位置が重要であるだけではなく、同基地の規模と構造が人道支援活動の援助を円滑にするために極めて有益である、と言う。
 海兵隊が沖縄にいなければ、救援活動もできないぞ、といわんばかりだ。でも、海兵隊は震災救援活動をするために、沖縄にいるわけではない。アメリカが海外ではじめる戦争で、いつも殴り込む役割を果たしているのが、海兵隊である。
 沖縄県民は「震災の救援をしてくれるから、沖縄にずっといてほしい」などと思っている人はいない。救援活動につけこんで、居座りを合理化する、ましてや辺野古への新基地建設を推進することは、絶対にやめてほしい。
 また、救助活動を「日米同盟の強化」など、政治的な思惑で見るのも、ごめんである。こういう震災救助の活動は、どの国であろうと、政治的な思惑ではなく、あくまで人道的な支援として行うものである。
 「沖縄の人はごまかしとゆすりの名人」などと発言し、猛反発を受けて米国務省日本部長を更迭されたメア氏が、今回の震災支援の米側調整担当官に就任したことにも、多くの県民が、アメリカは何も反省していない、と不信の念を抱いている。011
 そこにまた、嘉手納基地を離陸した海兵隊のAV8Bハリアー攻撃機が訓練用フレア(照明弾)を誤って発射する事故が起きた。危険極まりないことだ。にもかかわらず、米軍からなんの謝罪もない。嘉手納町、北谷町などの町議会は抗議決議を可決している。反省も謝罪もなければ、また事故が繰り返されることにつながる。
 やっぱり海兵隊は沖縄にも日本にもいらない。このことに変わりはない。

 写真は、道の駅かでなの屋上に掲示されている海兵隊機。このハリアーの同型機がフレアを誤射したものである。
  

2011年4月 3日 (日)

シーサーの日(4月3日)に壷屋まーい

 4月3日は「シーサーの日」。沖縄では、シーサーは家027 の門や屋根に魔除けとして置かれている。シーサーは、「やちむん(焼物)のまち」として有名な那覇市壷屋でたくさん作られている。シーサーの日に合わせて、壷屋を回る「壷屋まーい」があり、参加した。
 案内してくれるのは、壷屋焼物博物館友の会会長の与儀達憲さん(右)。

 壷屋は、沖縄戦でも破壊されなかったので、窯も古い町並みも残った。やちむんのまち・壷屋は、琉球王府の時代、1682年にそれまでの美里間切(いまの沖縄市)の知花、首里の宝口、那覇の湧田にあった三か所の窯を統合したのが始まりである。もう320年ほど昔だ。
 壷屋には、やちむんだけでなく、古いカー(井戸)や拝所もある。博物館を出発するとすぐ、「ウフガー」が028 あるが、いまは使われていない。
 商店の並ぶ通りを入ると製陶所が見える。新垣製陶所である。壷屋三人男と呼ばれた新垣栄三郎、小橋川永昌、金城次郎の中の、新垣栄三郎さんの製陶所だという。033

 壷屋通りからひめゆり通りに出る所に、東ヌカー(アガリヌカー)がある。村カー(共同井戸)の一つだ。300年ほど前、村ができて最初に掘られた壷屋の村カーで最も古い井戸である。035 命の源である井戸は拝所になている。東ヌカーは、水道が普及した今でも、壷屋の大事な拝所であることには、変わりない。

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 このカーを左に入ると仁王窯がある。壷屋三人男038_2 の一人、小橋川永昌さんの窯だった。このすぐそばに、有名な東ヌ窯(アガリヌカマ)と新垣家住宅がある。「この窯と赤瓦の住宅は、沖縄戦でも戦災にあわず残り、戦後の壷屋の窯の復興はここから始まった」と与儀さんは力説した。
 登り窯であり、食器や酒器、祭祀器など上焼の陶器を焼く窯だった。1971年ころまで焼いていた。周辺の都市化が進み、煙が立つので74年廃窯となった。
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043_2  ところが2009年、大雨のため由緒ある窯は崩壊し、いま修復中である。窯のある新垣家住宅は国指定重要文化財であるが、こちらもいっしょに改修がされている。まだ大分時間がかかりそうだ。修復が完成すれば、壷屋の名所として復活するだろう。

 裏通りには、工房などがいくつもある。ちょうど、にーにー(若い男性)がロクロを回して、製作中であった047 。この辺り、裏通りというか、細い昔からの道がある。壷屋らしい昔の面影が残る道なのだ。かつては石畳だった。

 沖縄では、魔除けの石敢当(イシカンドウ)がよくある。魔物は直進してくるので、T字路には魔除けとして、必ずある。といっても、壷屋のこの辺りは、王府時代からの古い石敢当がいくつか残っている。049

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 右の石敢当なんか、頭だけというか、「石」の字だけが見えている。「敢当」の字は土に埋もれているのだろうか。いずれにしても、写真の061 左右二つの物は古いものであることは、間違いない。

 下の石敢当は、2010年に那覇市の「景観賞」をもらっている。なかなか立派と言うか風情のあるものだ。字もとてもいい。

 「ビンジュルグヮー」という拝所に向かった。052 ここは、壷屋の土地と集落を守るタチクチ(村建て)の神様を祀っている。毎年、旧暦の1,3,6,8,9,12月の壷屋の拝みには、婦人会が中心になり、豊作や交通安全、壷屋の発展など祈るという。壷屋のすべての行事は、ここから始まり、ここで終わるといわれ、壷屋の人々にとって大切な場所である。
 それにしても、拝所は大きな網のようなもので正面は閉ざされている。

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 石垣にツタがたくさんからまる細い道が続く。「いしまち通り」と呼ばれる。またこんな細い道のことを沖縄では「スージーグヮー」と呼ぶ。その名前をとった喫茶兼沖縄そば屋もある。一度食べ070 に来たことだった。

 先の「東ヌ窯」と並ぶ壷屋のもう一つの登り窯「南ヌ窯」(フェーヌガマ)に来た。東は「アガリ」、南は「フェー」という。
 こちらは、王府時代に、窯場が統合されて、壷屋ができた頃に作られた窯だといわれる。王府から拝領した窯の一つと伝えられている。

 水甕、酒甕、厨子甕(ズシガメ)などの荒焼を焼いていた窯である。現有する荒焼窯では唯一つのものであるが、やはり煙害があり、いまは焼いていない。登り窯はいま、読谷村にある。

 南ヌ窯は、長さ20㍍、幅3㍍もあり、傾斜地を利用して、かまぼこ型に粘土で塗り固められている。

073  かつて焼いていた厨子甕がそばに置かれていた。080  これは、昔は亡くなった方を火葬ではなくお棺に入れ墓に置き、何年か立つと洗骨して骨を納める甕だった。
 最後は、博物館の裏にある「ニシヌメー」(西の宮)。昔は、ニシヌ窯という登り窯があったが、1918年(大正7)に窯を崩して大和風のお宮をつくった。土地を守る土帝君(トーティークン)と焼物の神様を祀っている。「北」はニシと言うので、この名前になっている。

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 友の会会長さんの案内で回れたので、とても表通りのやちむんの店を見ているだけではわからない、壷屋の歴史や昔の面影が残る景観、登り窯で何を焼いてきたのかなど、とてもよくわかり、興味深い「壷屋まーい」だった。企画してくれた博物館に感謝したい。

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2011年4月 2日 (土)

基地の中の喜友名泉を見た

 米軍普天間032基地のある宜野湾市には、たくさん湧水の名所がある。その一つに、「喜友名泉」がある。喜友名はいまの読み方は「キユナ」だが、この湧水は方言読みで「チュンナーガー」と呼ぶ。
 この湧水は、なんと米軍の「キャンプ瑞慶覽(ズケラン)」の中にある。でも、住民にとって生活用水としてなくてはならない泉で、由緒ある湧水である。だから、基地の中でも、金網は別に仕切られて、住民が立ち入れるようになっている。勝手には入れない。市教育委員会文化課に連絡すれば、鍵を開けて入れてくれるというので、さっそく電話した。年度末の忙しい時だけれど、わざわざ担当者が鍵を開けに来てくれた。『ぎのわんの文化財』の冊子もいただいた。038

 那覇から国道58号線を北上し、伊佐の交差点から普天間デイゴ通りに入るとすぐに、左側に「喜友名泉」が見える。入口からして立派だ。040

 入口にもすでに石造りの樋川が造られている。高い場所なのに、水が流れ出ている。現在でも喜友名泉は、ポンプアップして、簡易水道として、畑の散水などに使われている。この入口の水もこれを利用しているそうだ。045 

 左が金網の入口。鍵も米軍仕様だそうで、市販の鍵とは違う。開けてもらった鍵を閉めるにも、やはり合い鍵がないと閉められないというシロモノだ。

 金網を入ると、坂道を降りて行く。石畳の道もある。047 金網から基地の中が少し見える。

053_2  

 見えてきた、見えてきた。昔からの湧水らしいとても雰囲気のある泉である。普通、湧水は「井戸(カー)」や「樋川(ヒージャー)」という名前が多いが、ここは「泉」の字を使っている。

 ここの泉は、国指定有形文化財(建造物)だという。喜友名区には、7湧泉がある。そのうち2つがここにある。
 石積みが見事である。豆腐を重ねたような布積み、石を亀の甲羅のように組み合わせた相方積みなど、精巧に石を組み合わせた石垣だ。

 他では見られない特徴は、左側の「ウフガー」は「イキガガー」と呼ぶ。「イキガ」とは男性を意味し「男の泉」。右側の「カーグヮー」は「イナグガー」と呼ぶ。「イナグ」とは女性なので「女の泉」を意味する。下写真は「イナグガー」である。

059  イナグガーの正面の壁には、なんと3か所も湧水口がある。湧水口の上には、庇(ヒサシ)がついている。
 主060に、日々の飲料水や洗濯によく利用されたという。「イナグ」の名がついたのは、水汲みや洗濯などは主に女性が担っていたので、女が使う泉として名付けられたのではないだろうか。名前の由来は、冊子にも書いていない。私の推測である。

 湧水口の前に、長い机のようなものが二つある。
もしかして、これに腰をかけて洗濯などするために置いたのではないだろうか。
 左側の二つの湧水口の間に、ちょっとした張り出しがある。その上に小さな窪みがあり、そこには琉球石灰岩で造られた香炉が置かれているという。ただ、写真では草で隠されてよく見えない。

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 湧水口とは反対側の壁際には、石造りの棚のような形のものが置かれている(左写真)。これは何のためだろうか? 
 やはり、水を汲んだカメや桶、洗った野菜、洗濯物など置くためだろうか。わざわざ窪みがある。考えられるのはそんな用途である。ちなみに、左側の「男の泉」には、こんなものは何もない。
 「イナグガー」の左側に、石積みで仕切られた三角形の空間がある。これはなんだろうか? 
 前に同じ宜野湾市の「森の川」を見たとき、円形の石積みで仕切られた場所があった。それは水浴びをするためだった。こちらの三角形の場所も衝立で仕切った形なので、水浴びをしたのかもしれない。でも、仕切っても天井はないので、周りから丸見えである。だから違うのかもしれない。謎である。
 「イキガガー」(男の泉)は、左側の壁と正面の壁の2か所に湧水口がある。あとは何も置かれたものはない。064 こちらは、部落の節々の拝みや正月の「若水」(ワカミジ)汲み、子どもが生まれた時の「産水」(ウブミジ)、人が亡くなった時の「死水」(シニミジ)など人生の折り目の時に使われたそうだ。
 もう一つ別名がある。「ウマアミシガー」と言う。つまり牛馬の水浴びに使われたという。これは男の仕事だっただろう。でも、拝みは女性が担うのが普通である。
 この泉はいつ造られたのか? 右の「イナグガー」に置かれた香炉は、明治22年(1889)の奉寄進で、この年に新造ないし修造されたと考えられている。それほど古くない。左の「イキガガー」は、もっと古い感じがする。

 「喜友名泉の水源利用の開始及びウフガーの築造年代は、湧泉の周辺に生えている樹齢数百年のアコウ大木から推測されます」(『ぎのわんの文化財』)と言う。築造がいつか断定していないが、琉球王府時代からのものであることが推測される。068

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 この湧水は、喜友名の集落からは、相当低い位置にある。集落から泉に来るのに、急勾配の石畳の坂道が約100㍍も続く。高低差が25㍍もあるという。昔は、飲料水など水汲みは、主に女性の仕事にされていた。それで、水汲みがきついので、喜友名には、他の部落からお嫁さんのきてがなかったという。その半面、水汲みをするためか、喜友名の嫁さんは「働き者」という評判だったそうである。
 でもやはり、喜友名の娘さんたちの朝夕の願いは、カービラ(泉に降りる坂道)が少しでも低くなるように願ったそうである。052_2

 住民の中でも、いまでも御願(ウガン)に来る人がいるのだろうか、金網の外側にお線香を焚いた残りがあった。たぶん、金網の中に入りたかったけれど、鍵が閉まっていたので入れず、金網の外で御願をしたのだろう。076

 これも米軍基地の中に、由緒ある泉があるがためである。
金網の中には、古い石垣のような跡も見られた。

050  この喜友名地区は、南側は広大な普天間基地があり、北側はキャンプ瑞慶覽がある。米軍基地にサンドイッチされたような住宅街なのである。
 基地の中には、住民が古くから利用してきたこういう湧水や拝所、お墓などがある。なぜ、わが郷土の由緒ある場所が外国基地として占拠されているのか。鍵で開けてもらわないと入れないのか。理不尽さを痛感する泉である。

2011年4月 1日 (金)

那覇・小禄の拝所を巡る、その2

 那覇市の小禄の森口公園近くを回り、ノロ殿内(ノロドゥンチ)を見たあと、真玉御嶽(マダマウタキ)に向かった。途中に「メーミチ」という通りを横断したが、この通りはとても面白い形だ。通りの中央が広場のようにふくらみ、四方八方に道が伸び045 ている。これはヨーロッパの街づくりに似ている。ヨーロッパでは、よく町の中央に広場があり、広場から道が伸びている。それと似ている。日本の町ではあまりない。でも、たしか糸満市喜屋武にも同じ光景があった。狭い街中なのに、広場があった。この小禄の「メーミチ」は、かつては馬場があったそうだ。近くに、王府時代の間切役所の番所(バンジュ)跡がある。この周辺は昔から小禄の中心地だったのだろう。
  

 ここから南に少し行くと、小禄自治会館があり、そのすぐ南側に真玉御嶽があった。

029「琉球国由来記」の中で、「真玉嶽、神名トモヨセノ御イベ」と記されているという。「メーヌウタキ」とも呼ばれ、「ウマヌファ(南)」の神様をおまつりすると伝えられている。031

 台所の神様である「火の神」の拝所もある(左下)。034_2

 普通、御嶽といえば、大きな岩があったり、樹木がうっそうと茂っていたりするが、ここは趣が少し違う。拝所は随分立派に整備されている。住民がたくさん寄付をしたのだろう。「奉納金100万円也」とか記した標柱が、拝所に登る階段に林立していた。
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 沖縄の御嶽は、村を守ってくれる神様や海の彼方にあるニライ・カナイからやってくる神様をお祀りしてる神聖な所である。
 階段を登っていくと、拝所が見えてきた。この拝所にはビックリした。なんと、9つもの神様を祀っている。この拝所は、字小禄の部落内にあるいろんな神様を移して祀っているらしい。大きなコンクリートの巨大なお墓のような建造物に、順序良く、それぞれの神様が並んでいる。あちこちの御嶽を見てきたが、こんな、拝所は見たことがない。

040  それぞれ神名がつけられていて、御願(ウガン、祈願)をするようになっている。まるで、神様のマンションのような感じがする。
 うーん、なんといえばよいだろうか。由緒ある拝所にしては、超合理的だ。すこし味気ない気がするが、他所者が口を挟むことではない。

 右は、拝所の一つ。「ニーガン(崎山殿内、思いヌミザマヌ神)と刻まれている。036_2
小禄には、この真玉御嶽と小禄ノ御嶽の二つの御嶽がある。御嶽は、首里王府が公認するので、原則として一つの部落には一つであり、二つあるのは特殊な例だと聞く。

 この拝所の下に、赤い建物、神社があった。

042 ただ、どういう神社なのか、何も示すものがない。草もボウボウで、何か看板を外したような雰囲気がある。もしかして、これはもう使われていないのだろうか。

 すぐ、そばを見ると、「平和記念堂」の石碑があった。この神社が平和記念堂だったのだろうか? 疑問が残る。
 小禄自治会館に、小禄地区の史跡、拝所など記した史料があればと思い立ち寄ってみた。
 「歴史散歩マップ 小禄まーい」の資料があり、いただいた。

043  会館にいたおじさんが話しかけてきた。

 「あなたたちがいま見ていたのは、小禄自治会が建てたものだけれど、もう糸満市の平和記念公園に移したから、何もないよ」という。詳しくは聞けなかったけれど、戦後この地区の戦没者を祀っていたのを、糸満の方に移したということだろうか。この「平和記念堂」の石碑が何かを物語っている気がした。

 このあと、番所跡の付近に、「原石(ハルイシ)」や「ウィヌカー」という井戸があるので見に行った。しかし、地図では、すぐ近くのはずなのに分からない。通りがかりの人から、家にいるおばあちゃん、獣医師、商店主など何人も聞いたが、分からない。通りがかりの主婦は、自分は分からないので、自宅のおばあちゃんに携帯で電話までしてくれた。でも分からない。とうとうあきらめた。帰りがけに、まだ見残したヒージャー(樋川)を見ようと、これも何人にも聞いたが、これも分からない。なんで、こんなに、分からないんだよー!と叫びたくなった。

 

 順序が逆になったが、真玉御嶽と並ぶもう一つの「小禄ノ嶽」(金満御嶽)に行った。こちらは、近代化された真玉御嶽とは対照的に、うっそうとした森の中にあり、いかにも古くからの御嶽の雰囲気がある。014_2  小禄ノ嶽は、神名は「ミキヨチヤマベノ御イベ」、「後のウタキ・カニマヌタキ」とも言う。
006 岩の前が拝所になっていて、「金満ミテン」と石に刻まれている。ほかにも、いろんな拝所があるが、自治会でもらった資料には、一つ一つの拝所までは、書いていない。それぞれにみんな由来と意味があるが、詳しい地元の人の説明を聞かなければ、残念ながら分からない。
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分かるのは「火ヌ神」ぐらいである。

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 右も岩が拝所になっている。
階段があった。階段を上っていくと、「ウトゥーシ所」と表示されていた。これは、どこかに向かって御願(ウガン)する場所だろう。だから、遠くを見通しできる一番高い場所にある。
 そういえば、那覇の辻に「二十日正月」の行事を見に行った時、やはり丘の上に「ウトゥーシ所」があり、琉球国王のいた首里城に向かって遙拝していた。ただ、小禄ノ御嶽のこの拝所の向きは、首里城や久高島の方角ではないようだ。どこに向かって御願するのだろうか?  008
 岩では002 なく、とても古くて立派な建物があった。でもこれは、拝所ではなく、お墓ではないだろうか。拝殿は、こういう場所にはないはずだ。この御嶽の下の方は、お墓がたくさんある所である。

 というわけで、いろいろ見て回ったが、小禄の御嶽や殿は、他では見られない特徴がある。同じ那覇市内でも、いろいろ地域によって、民俗、習慣が少し違う。資料を見てもよく分からないことが多い。できれば、5月、6月のウマチーにはぜひ来て見たいものである。

 帰り道、民家の庭に琵琶が色づいていた。

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