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2011年4月19日 (火)

喜如嘉に燃え上がった革新の炎

 オクラレルカ(花菖蒲)を見に行った大宜味村の喜如嘉(キジョカ)は、芭蕉布の里と呼ばれ、山間の静かなたたずまいの集落である。この穏やかな風景の集落に、昭和初期、山原(ヤンバル)を揺るがす政治的なたたかいがあった。どれだけの人が知っているだろうか?107

 『喜如嘉誌』の中では、「村政革新運動」として紹介されている。
 「この運動は村長の専横に怒りを爆発させた喜如嘉の青年男女が中心となって起こったものだ。やがて師範学校、農林、中学在学中の学生たちも加わってこの運動を指導し、遠く県外に出稼ぎに出ていた同郷人も応援にかけつけた」
 沖縄では、昭和初期に入ると「ソテツ地獄」といわれた経済不況に見舞われた。また当時、大宜味村は、県内の42町村の中でも、税金が戸数割総額で第5位、一戸当たり平均で第2位、納税戸数で第20位という重税で村民は苦しめられていた。
 そんな時、村当局が公用林を売るという事件が起こり、これに端を発して有名な大宜味村政刷新運動へと発展した。

 1931年(昭和6)、村政革新同盟がつくられ、25歳以下の青年のほとんど全員が参加したという。
 村当局の無謀な財政政策に反対し、財政の革新、役場費削減、村長ら給料削減、制限外課税の撤廃、強制的夫役、不当寄付金の廃止などの要求を掲げた。さらには村民大会を開いて村長の辞職勧告決議を採択した。
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 運動は新たな発展をめざす。当時の部落の執行機関は上意下達で税金を搾り取るための組織のようになっているとして、真に自主的な住民組織をめざして、住民の代表者会議や婦人部会、少年の「仲良し会」などを結成した。
 さらに、消費組合を設立して、日用品を那覇から仕入れて配給した。既存の雑貨店と比べても品質や値段に格段の差があり、人気を博したそうである。

 1932年(昭和7)には、大宜味消費組合が、組合員ら160余人も喜如嘉に集合し、メーデーを行ったという。大宜味村政革新同盟歌を歌い、示威運動して喜如嘉を一巡して解散するということもあった。県内でも、農村でのメーデーは初めてだったという。
 「昭和初期に高まった社会主義思想の影響も受けて、大宜味村政刷新同盟」(別の資料では革新同盟と記されている)を結成して組織的運動へと発展した」「昭和初期の社会運動史のうえで特筆されるべき重要な意義をもっていた」(『喜如嘉誌』)
 この山原の地で、昭和初期に社会主義思想の影響も受けた村政革新のたたかいや消費組合まで設立する運動があったこと、その中心に青年が立ち上がり、婦人部会や少年の組織までつくられていたというのは、驚くべきことである。明治から昭和初期にかけて、沖縄の庶民による抵抗の運動のなかでも、特筆されるたたかいであることは間違いない。
 「今日であれば権力に対する民衆の抵抗と政治腐敗に対する民主化運動である」(同書)とも指摘されている。
 沖縄全県に波紋を起こしたこの刷新運動も、やがて官憲による徹底的な弾圧を受け、部落の部落の多くの青年たちが村にいたたまれず各地に散っていく結果に終わったという(同書)。109
 運動が弾圧された後、軍部や県と警察当局が喜如嘉の住民の権利や自由を奪い、軍国主義教育を徹底する中で、戦争に協力する「翼賛部落」に転じさせられていった。節約運動から生活の共同化、軍に協力する奉仕作業など、県内でも先端をいったという。そして、「その結果は沖縄戦の悲惨な体験であった」(『喜如嘉誌』)。

 いずれにしても、いまから80年も前に、これだけの運動があったことは、沖縄県民のたくましい抵抗の精神を示しており、歴史に刻まれる出来事である。現在でも、名護市辺野古や東村高江での米軍基地に反対する粘り強い運動にも、その伝統は引き継がれているのではないだろうか。そんな気がする。 

山城善光氏著『山原の火』なども参考にした。
写真は、文章とは関係がない。喜如嘉の風景である。

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コメント

あんな静かな山間の部落にそんな熱い革新のたたかいがあったとは知りませんでした。80年も前のことというより、まだ80年前のこと、という感じです。村のご高齢者は当時のことを知ってる人がいらっしゃるでしょうか。生れたばかりだから知らないか。その運動の先頭に立った方というのはどんな方なんですか?だれかの影響を受けたのでしょうか。重税苦に耐えられず立ち上がるというのは、宮古にもありましたね。沖縄って革新の運動の足跡があちこちであったんですね。

 「山原の火」を書いた山城善光も、若き情熱をたぎらせた一人であり、普通の村の青年が中心になりがんばった。同時に、那覇から当時の先進的な思想をもった活動家が入って、ともに考え行動したそうです。消費組合の活動では、全国の会議に東京まで代表を派遣して注目されたそうです。
 宮古の人頭税廃止のたたかいでも、宮古の農民が中心になり、新潟から来ていた中村十作ら島外の人のアドバイスも受けて、国会請願までするなどがんばったのと共通するものがある気がします。
 喜如嘉はとても教育に熱心な地域で、各分野に人材を生みだしたそうです。

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