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2011年4月 3日 (日)

シーサーの日(4月3日)に壷屋まーい

 4月3日は「シーサーの日」。沖縄では、シーサーは家027 の門や屋根に魔除けとして置かれている。シーサーは、「やちむん(焼物)のまち」として有名な那覇市壷屋でたくさん作られている。シーサーの日に合わせて、壷屋を回る「壷屋まーい」があり、参加した。
 案内してくれるのは、壷屋焼物博物館友の会会長の与儀達憲さん(右)。

 壷屋は、沖縄戦でも破壊されなかったので、窯も古い町並みも残った。やちむんのまち・壷屋は、琉球王府の時代、1682年にそれまでの美里間切(いまの沖縄市)の知花、首里の宝口、那覇の湧田にあった三か所の窯を統合したのが始まりである。もう320年ほど昔だ。
 壷屋には、やちむんだけでなく、古いカー(井戸)や拝所もある。博物館を出発するとすぐ、「ウフガー」が028 あるが、いまは使われていない。
 商店の並ぶ通りを入ると製陶所が見える。新垣製陶所である。壷屋三人男と呼ばれた新垣栄三郎、小橋川永昌、金城次郎の中の、新垣栄三郎さんの製陶所だという。033

 壷屋通りからひめゆり通りに出る所に、東ヌカー(アガリヌカー)がある。村カー(共同井戸)の一つだ。300年ほど前、村ができて最初に掘られた壷屋の村カーで最も古い井戸である。035 命の源である井戸は拝所になている。東ヌカーは、水道が普及した今でも、壷屋の大事な拝所であることには、変わりない。

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 このカーを左に入ると仁王窯がある。壷屋三人男038_2 の一人、小橋川永昌さんの窯だった。このすぐそばに、有名な東ヌ窯(アガリヌカマ)と新垣家住宅がある。「この窯と赤瓦の住宅は、沖縄戦でも戦災にあわず残り、戦後の壷屋の窯の復興はここから始まった」と与儀さんは力説した。
 登り窯であり、食器や酒器、祭祀器など上焼の陶器を焼く窯だった。1971年ころまで焼いていた。周辺の都市化が進み、煙が立つので74年廃窯となった。
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043_2  ところが2009年、大雨のため由緒ある窯は崩壊し、いま修復中である。窯のある新垣家住宅は国指定重要文化財であるが、こちらもいっしょに改修がされている。まだ大分時間がかかりそうだ。修復が完成すれば、壷屋の名所として復活するだろう。

 裏通りには、工房などがいくつもある。ちょうど、にーにー(若い男性)がロクロを回して、製作中であった047 。この辺り、裏通りというか、細い昔からの道がある。壷屋らしい昔の面影が残る道なのだ。かつては石畳だった。

 沖縄では、魔除けの石敢当(イシカンドウ)がよくある。魔物は直進してくるので、T字路には魔除けとして、必ずある。といっても、壷屋のこの辺りは、王府時代からの古い石敢当がいくつか残っている。049

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 右の石敢当なんか、頭だけというか、「石」の字だけが見えている。「敢当」の字は土に埋もれているのだろうか。いずれにしても、写真の061 左右二つの物は古いものであることは、間違いない。

 下の石敢当は、2010年に那覇市の「景観賞」をもらっている。なかなか立派と言うか風情のあるものだ。字もとてもいい。

 「ビンジュルグヮー」という拝所に向かった。052 ここは、壷屋の土地と集落を守るタチクチ(村建て)の神様を祀っている。毎年、旧暦の1,3,6,8,9,12月の壷屋の拝みには、婦人会が中心になり、豊作や交通安全、壷屋の発展など祈るという。壷屋のすべての行事は、ここから始まり、ここで終わるといわれ、壷屋の人々にとって大切な場所である。
 それにしても、拝所は大きな網のようなもので正面は閉ざされている。

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 石垣にツタがたくさんからまる細い道が続く。「いしまち通り」と呼ばれる。またこんな細い道のことを沖縄では「スージーグヮー」と呼ぶ。その名前をとった喫茶兼沖縄そば屋もある。一度食べ070 に来たことだった。

 先の「東ヌ窯」と並ぶ壷屋のもう一つの登り窯「南ヌ窯」(フェーヌガマ)に来た。東は「アガリ」、南は「フェー」という。
 こちらは、王府時代に、窯場が統合されて、壷屋ができた頃に作られた窯だといわれる。王府から拝領した窯の一つと伝えられている。

 水甕、酒甕、厨子甕(ズシガメ)などの荒焼を焼いていた窯である。現有する荒焼窯では唯一つのものであるが、やはり煙害があり、いまは焼いていない。登り窯はいま、読谷村にある。

 南ヌ窯は、長さ20㍍、幅3㍍もあり、傾斜地を利用して、かまぼこ型に粘土で塗り固められている。

073  かつて焼いていた厨子甕がそばに置かれていた。080  これは、昔は亡くなった方を火葬ではなくお棺に入れ墓に置き、何年か立つと洗骨して骨を納める甕だった。
 最後は、博物館の裏にある「ニシヌメー」(西の宮)。昔は、ニシヌ窯という登り窯があったが、1918年(大正7)に窯を崩して大和風のお宮をつくった。土地を守る土帝君(トーティークン)と焼物の神様を祀っている。「北」はニシと言うので、この名前になっている。

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 友の会会長さんの案内で回れたので、とても表通りのやちむんの店を見ているだけではわからない、壷屋の歴史や昔の面影が残る景観、登り窯で何を焼いてきたのかなど、とてもよくわかり、興味深い「壷屋まーい」だった。企画してくれた博物館に感謝したい。

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コメント

「シーサーの日」で思い出すのは、5年前、手話サークルをやっていた頃のことです。「来週のサークルの日は、『シーサーの日』なので、みんなで壷屋に行きましょう」という提案が出たんだけど、大半のサークル員は高齢のろう者。耳が聞こえないので手話ができない一般のひととはコミュニケーションできないので、無料シーサー作り体験もできないし、できることは限られているわけですよ。「シーサーの日」は、壷屋焼物博物館が無料開放だというので、結局みんなで博物館に行き、いろんな焼物やシーサー見て喜んでいたけれど、今回の「壷屋まーい」みたいな、健常者にしか理解できないような企画には参加できませんでしたね。壷屋の奥ふかい魅力というのは、壷屋まーいで見たような、拝所とかカーとか窯とか昔ながらのスージグヮーとかで、そういうのを知らないで博物館だけとか壷屋通りのヤチムンの店だけ見てもつまらないと思うんですね。
ビンジュルというところは初めていきましたね。集落にはどこにでも御嶽があって、ノロがウマチーなどの時に拝みをしますが、壷屋という集落は字壷屋じゃなかったんでしょうかね。御嶽もないし、ノロさんもいないような気がしましたが。ノロさんの代わりを婦人会がやっているんでしょう。
金城次郎さんの窯もとも知りたかったですね。与儀さんが壷屋の街をこよなく愛しておられることが伝わってきました。

 こういう企画は、健常者でないと参加は無理かもしれない。若い女性が乳母車に小さい子どもを乗せて参加していたけれど、本人は見たいでしょうが、子どもには無理です。障害者でも参加できるような別の企画があればいいですね。
 ビンジュルは、霊石の一種のことだそうなので、網のようなもので閉ざされた祠の中は霊石でしょうね。ここが村建て「タチクチ」の神を祀っているといってたので、ここが壷屋の御嶽のような場所でしょうか。壷屋は焼物をするのにはじまったので、通常の農村などとは成り立ちが違うのでしょうね。
金城次郎さんの焼物はあるけれど、窯がどこだったのか説明がなかった。たぶん息子たちが、読谷など他所に移って壷屋にいま工房がないんじゃないですか。勝手な推測です。
 

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