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2011年5月

2011年5月30日 (月)

国頭にある木遣り歌

 国頭村安田(クニガミソンアダ)のシヌグ祭りのことを書いた。山に依存した暮らしだったという。安田のあたりは、海岸近くまで山が迫り、水田は少なかった。海の幸は豊富だが、昔は魚を獲っても、食糧として食べるのが主目的である。安田の産業は山が中心だったという(宮城)鉄行著『国頭村安田の歴史とシヌグ祭り』)。

 山の仕事といっても、鋸が入ったのは比較的新しい。昔は、山男たちは、山の中で角材に適当な木を探し、山原オノで伐り倒し、オノで丸木をはつって立派な角材に仕上げた。角材に仕上げた方が、運び出すのに軽くなるからだという。068

 琉球王府にとって、山原(ヤンバル)の森林は、建築材や造船、薪炭用など重要な資源だった。だから山原の間切(今の町村)の番所(役所)や村(今の字)の村屋には、無数の山役人が置かれていたという。安田には、詰山筆者(ヤンピサ)はじめ数人の山当、山工人、山師などがいて、山の管理、保全にあたった、と宮城氏は推量している。
 有名な木こりの唄がある。「国頭(クンジャン)サバクイ」という。「サバクイ」(捌吏)とは、間切の上級役人のこと。ここでは、山の管理にあたった役人を指すだろう。
「♪サー首里天加那志(シュイティンジャナシ)のヨイシーヨイシー、サー御材木(ウゼムク)だやびる サーハイユエーハーラーラー サーハイガヨイシー サーイショショショーショ イーイヒヒヒーヒ アーアハハハーハ」(首里の国王様の御用達の材木だよ)
「♪国頭捌吏(サバクイ) 御嶽(ウタキ)の前(メー)から ハヤシ同じ」(国頭の番所のお役人の指図で 拝所の前から)
「♪名護山かしじゃ重(ンブ)さぬひからん ハヤシ」(名護山の樫の木は重いので引けない)
「♪御万人(ウマンチュ)まじりや みな肝揃(チムスル)とてぃ ハヤシ」(万人の間切のみんなで心を一つにそろえて)
 首里王府の御用達の材木を、役人の指図のもとに、村の住民らが総がかりで運ぶ様子がうかがえる。やんばるの広大な森から材木を伐り出し、角材などに加工して、運搬して船に積み、与那原の港まで運ぶ。そこから首里王府まで運ぶ一連の作業は、たいへんな重労働だったのだろう。
 沖縄の民謡は、作業をするさいみんなで歌う作業歌は少ないが、この唄は珍しく作業歌である。みんなが歌いながら作業すれば、つらい労働も少しは軽く感じたのだろう。とってもテンポがよい。ハヤシが他の民謡とは少し違い、独特である。いまでは、国頭、山原だけでなくいろんな場所で歌われる。
 写真は、海人(ウミンチュ)の街・糸満市の大綱曳きで、「国頭サバクイ」を踊る若者たち。071

 この唄は、実は本歌がある。「奥間の国頭捌吏(サバクイ)」という。
「♪国頭捌吏(サバクイ) 酒飲み捌吏(サバクイ)」(国頭間切の役人 酒飲み役人)
「♪国頭山から出じたる御材木」(国頭の山から伐り出したお材木)
「♪北の御殿(ウドゥン)の御材木だやびる」(北の御殿のお材木である)
 ーー略ーー
「♪美童(ミヤラビ)、若者肝(チム)てぃーちあわしば」(乙女、若者が心一つに合わせれば)
「♪肝一つ合わせしば片時どや」(心一つに合わせれば短時間だぞ)
 いかにも、材木を運び出す作業は、重労働だけれど、みんなで心を合わせてやれば短い時間でできるぞ、と歌っている。首里の国王を讃えるような内容はない。
 いかにも、大木を大勢で運ぶときに歌った仕事歌、木遣り節である。歌詞の内容から、こちらの方が本歌の感じがする。

 さて、この唄にもあるように、国頭の木材は、首里・那覇の都市部にも運ばれた。そのためには、船が重要な運搬手段だった。昔は、間切や村に共有船があったそうだ。
 「貢納品の運搬は地船が利用された。これは村で造ったようで国頭間切の各村内法には共有船があり⋯⋯安田と安波の分は与那原経由首里蔵に納められた」(『国頭村史』。引用は『安田の歴史とシヌグ祭り』から)。

012               安田にあった拝所。何を祀っているのか分からない。

 船といえば山原船が有名だが、実際につくられたのは1700年代に入ってからで、それ以前は地船といわれる船だった。首里王府から間切、村ともこの地船の所有が義務付けられていたという。
 安田など国頭村の東海岸は、「陸の孤島」と呼ばれたが、でも船の航海から見ると、陸路で行くのとはだいぶ違う感じがする。沖縄本島はゆるい「く」の字型に少しだけ湾曲している。だから、「く」の字の左、つまり西海岸周りは、本部半島も突き出しており、かなり遠い。でも、右側の東海岸回りは、意外に西海岸周りより距離が近い。
 これは、日本列島も同じである。日本列島は「く」の字の逆に湾曲している。だから日本海側を船で航海すると近い。昔は北前船が、北海道の松前や東北の秋田などから京都に走ると、太平洋側よりはるかに近かった。秋田には京都の文化が入っていた。
 国頭と首里・那覇は海路でつながっていた。首里に近い与那原や中部のうるま市平安座島(ヘンザジマ)には、いつも山原船がたくさん入港していたという。山原の人たちは、材木を運んだ帰りの船で、生活物資を買い入れ運んだという。
 もう「国頭サバクイ」とは、関係のない話にそれた。国頭村安田に行ったので、山原の森林や山原船に興味をもっただけである。 

デイゴ咲き、台風直撃

 数年ぶりにデイゴの花がたくさん咲いたと喜んだら、台風1,2号と相次ぎ沖縄本島を直撃した。とくに2号は、那覇市で最大風速55㍍という5月では最大のモーレツな強風で被害をもたらした。デイゴがたくさん咲くと台風が多いというのは、今年は当たっているようだ。
 わが家も、一昼夜どころか一昼二夜も停電し、おまけにマンション屋上の水槽に水をあげるモーターが止まり、水道まで断水した。マンションで停電によって断水にるのは予想外はじめてのこと。みんな飲み水からトイレまで困った。トイレしたくなるたびに、スーパーやコンビニに駆け込むしだいだった。

011
 台風の被害と影響はいろんなところに表れた。
 その1。街路樹はいたるところで枝が折れ、公園では根元からごそっと大木が、十本ほども倒れていた。カンヒザクラもボキッと折れた木が何本もある。折れない樹木も、一夜にして木の葉が茶色に変色して枯れていた。台風が運んだ海水をかぶった影響だ。「潮枯れ」というそうだ。こんなの初めて見た。痛々しい。
 下の写真は金武町。本島を車で走ってみると、街路樹、公園の樹木から山の木々まで、茶色に変色している。これほど樹木の葉が枯れたのは最近ではないことらしい。

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 その2。交差点の信号が止まり、信号なしで車がいきかう。点灯している信号も、強風で信号が曲がり、交差点の斜めの方向にあり、どちらの方向の信号なのか分からなくなっていた。危ない。
 その3。畑のある付近は、ビニールハウスが風で吹き飛ばされ、電柱、電線にあちこちで白く大きなビニールがぶら下がっている。ビニールハウスは大被害だ。とくに高価なマンゴーは、ビニールハウスで作っている人が多い。もう半分ダメになったとか、大損失である。
 その4。ガソリンスタンドは、車の大行列。台風で潮をかぶっているので洗車するためだ。それに、木の葉が車のボディにびったりとついていて、洗車しないととてもみっともない。わが家は早めに洗車にいって30分まちで完了した。でも2時間待ちもあるほどだった。台風のあとは洗車が沖縄では必須である。
 その5。ホームセンターに行くと、レジが大行列。みるとみんな掃除道具を手にしている。これほどの台風だと思わずに、あわてて掃除道具を買いに走る人が多い。
025              これは台風と関係のない写真である

 わが家も被害にあった。とにかく風速50㍍ほどの暴風雨が吹き付けるので、恐怖を感じるほどだった。夜11時ころ、ベランダで異常な物音がするので、外を見ると、なんと隣の家との仕切のボードが割れている。その割れた三角形の破片が無数にわがベランダに飛び込んできたのだ。台風で怖いのは、よそから飛んできた物が窓ガラスを割ることだ。一応、ベランダのガラスは、沖縄仕様なのか、金網が入っているけれど油断できない。後から気がついたが、鋭角に割れたボードの破片が、網戸を切裂き、網戸は刀で切られたようになっていた。でも網戸があったから、ガラスを守ったのかもしれない。
 それにしても、停電の復旧が大幅に遅れ遅れになり困った。沖縄電力に電話しても受付電話は話し中でつながらない。マンション住民が直接、会社に駆け込んで復旧を求めた。その後も住民から何度も電話し、マンション管理会社からも電話で復旧を求めたが、夜になっても復旧しない。周りの住宅、アパートなどみんな復旧しているのに、停電のまま。「これはたんなる多忙で遅れているのとは違う、おかしいぞ」と思って、電話で「わがマンションの付近は、忘れられているか、放置されている。周りがみんな復旧しているので、わが付近も復旧済みとされて、放置されているのではないか!」と厳しく主張した。あとから、修理担当者から、電話がきた。やっぱり「そちらは14時に異常はなく復旧すみで、停電はマンション側の問題です」という。「そんなバカな。マンションだけでなく、付近の住宅も停電だ。断水もしてこのままでは夜も越せない。すぐに来てくれ!」と必死で訴えた。
 その後、夜10時頃、やっと電力下請けが来て見たら、やはり電線が一本、碍子からはずれていたのが停電の原因だった。実際の復旧工事屋がきたのは、もう夜中。寝ている間、工事がされたようだ。朝起きたらようやく通電していた。まる30時間くらい停電していたことになる。
 ベランダのゴーヤーがネットにツルを巻きつけ、順調に育っていたが、台風で根ごとごそっと引き抜かれて、ネットだけ残して消えていた。
 「もうことし台風はいらない」というのがみんなの声である。

2011年5月24日 (火)

国頭村安田の神アシャギを見る

 019_2 国頭村(クニガミソン)に行った際、かつては「陸の孤島」と呼ばれた東海岸の集落、安田(アダ)に行ってみた。地図では、右端の太平洋岸に安田の地名が見える。

「安田には有名な祭りのシヌグがあるなあ」と思いながら、集落の中を回っていると、あった、あった、シヌグ祭りの際、使われる神アシャギがあるではないか。まるで、縄文時代の住居を思わせるような建物なので、すぐ目にとまった。

 安田のシヌグは、沖縄でもお祓いの行事の古い姿をとどめていることで知られる。1978年に、国の重要無形民俗文化財として指定された。藁ぶきの建物は、神アシャギと呼ばれ、いわば拝殿みたいなもの。ここで祈願が行われる。  

  014  アシャギは、沖縄本島の北部の各地にあるが、すでに建物はコンクリート造りなどに建て替えられ、安波の集落のアシャギは、まるでギリシャのパルテノン神殿のような建築である。
 安田も2004年改築されたけれど、もとの古い姿のままで改築されている。こういうアシャギは、もう安田でしか見れない。
 安田に行く際、シヌグのことは気にしないで行って、たまたま行きあった。シヌグは、男が山に入り、木の枝や葉を体に巻きつけ降りてくる異様な姿が印象に残っている。

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 シヌグのことを聞こうと思ったが、神アシャギのある安田公民館には誰もいない。都合よく、そばに安田協同売店があった。協同売店とは、通常は共同売店と書く。交通不便だった北部の各地には、個人経営ではなく、集落の住民が共同で経営する商店がどこにもある。共同コンビニのようなもの。住民の必要とする食料品、日用品が売られている。店の女性に尋ねた。    019_4

     左写真は、神アシャギの内部
 「今年はシヌグは何時ですか?」「旧暦の7月の初亥の日にあるので、今年は7月31日から8月1日までのはず。今年は山登りのあるウフシヌグ(大シヌグ)ですよ。山登りは2年に1回。山登りがないい年はシヌグンクヮー(シヌグ小)。山登りは、男たちが3カ所の山に入り、草木をさして、太鼓を合図に『エー・ヘー・ホーイ』と掛け声をかけながら帰ってくると、待っていた女性たちにお祓いをする。最後にみんな浜に行き、身につけた草木を海に流す。いまはもう海に流さないですけれどね。夕方からアサギマー(拝所広場)で、ウシデーク(古い舞踊)を女性たちが舞うんですよ」。

 安田のシヌグについては、宮城鉄行氏著『国頭村安田の歴史とシヌグ祭り』が詳しい。シヌグの写真もたくさん収録してある。写真は宮里昇氏。

018_2_2 沖縄では、霊力を持つのはだいたい女性で、祭りの拝所で祈願するのはノロ(神女)など女性である。でも安田のシヌグは、村の男たちが山に入り、セジ(霊力)を授かり、一日神として、村を祓い浄め、部落の発展と安全を祈願するという。 012_2_2
 国頭村は、広大な山原(ヤンバル)の森が広がっている。ただし、いまは米海兵隊の演習場が居座っている。

 なぜ、山ヌブイなのか? それは「昔の安田の富の源泉は山にあり、山の幸が大きな比重を占めていたであろう」。安田は、造船、家屋建築などの材木を首里・那覇や、他の島に運送販売し、それで得た資金で生活物資を買い入れていたという。「したがって、山を大切にする思想、畏敬(イケイ)の念は自然に成長し、これが信仰、祭りのかたちになったのが、山ヌブイに代表されるシヌグ祭りである」(宮城著書から)。     

 女性たちによるウシデークの踊りは「山のセジによって祓い浄められ、晴ればれとした女性たちの感謝と喜びを体現した舞踊であろう」(同書)

 一度、山登りのあるウフシヌグを見てみたい。その日は、都市部に出ている安田出身者も、帰ってきて大勢参加し、にぎやかな祭りになるそうだ。「それに、報道の人たちもたくさん来ますよ」と協同売店の女性は言う。015 今回は、神アシャギを見れただけで満足だった。

021 神アシャギのある広場の隅に、歌碑があった。琉歌が彫られている。

「生まりしま安田に 桜花咲かち しまぬいやさかゆ 共に願わ」
 われらが生まれた安田に 桜花を咲かせ このシマ(地域)が大いに栄えることを ともに願おう、という意味だろう。

昭和16年生れ 安田出身者(ハブ会)が寄贈したものだという。郷里への愛情が込められている。

2011年5月21日 (土)

梅雨にあじさいの色鮮やか

 梅雨の時期、毎年みごとなあじさいを咲かせる沖縄北部の本部町にある「よへなあじさい園」を訪れた。059

 山肌に20万本といわれるあじさいが、ちょうど満開の時期を迎えていた。毎年、見に来ているが、今年はなにか青の色が例年よりも、鮮やかに感じる。圧倒されるような彩である。
 今年は、例年より寒い日が続いたので、開花は少し遅れ気味だった。まだ少し早いかな、と心配したが、心配は無用。いまが一番の見ごろだろう。

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 この日は、土曜日とあって、たくさんの人たちが来ている。子ども連れ、それも、お母さんと子どもとおばあちゃんという組み合わせが多い。お父さんの姿は少ない。

 このあじさい園は、饒平名(ヨヘナ)ウトさんが、一人でコツコツとあじさいを植え、育ててきたものである。ウトさんは、ことし94歳だという。おりしも、すぐ目の前を歩いているのは、ウトおばあちゃんではないか。連れ合いが声をかけたら、やっぱりウトさんである。003 004

 「お元気そうですね。長生きの秘訣はなんですか?」「そうねえ。畑仕事をずっとやってきたことと、食べ物は好き嫌いなく、なんでも食べることかねえ」と笑いながら答える。笑い顔がとてもチャーミングだ。011
 「いつ94歳になられたんですか?」「大正5年(1916年)生れだから、12月15日が誕生日だよ」という。
 「もうすぐカジマヤーですね」「いやあ、まだまだ」と答えた。カジマヤーとは数え年で97歳になったお祝いだ。童心にかえる意味で風車(カジマヤー)を持たせることから、この名称になっている。ウトさんは「まだ」というが、今年12月15日で95歳になるから、もうすぐだ。
 右は、ウトさんのお家。まだ草取りなどはやるそうだ。いま連日、たくさんの人が花を見に来るので、あじさい園の中にある茶店のあたりにいると、声をかけられるようだ。
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 「あじさいの青はどうして青な010 の?」。こういう掲示をしてくれていた。それによると、あじさいの花の色は、土壌の性質で決まる。
 花がブルー(青)は、酸性土壌。花がピンクはアルカリ性土壌だということである。

 あじさい園を回ると、本土ものあじさいのコーナーもある。沖縄のあじさいと本土ものはどう違うのか、あまりたいした違いはなさそうだ。

 あじさい園は、実はあじさいだけではなく、他にもたくさんの花が咲き誇っている。名前もよく知らない花が多い。009

 「マグニスカ」「コートダジュール」「マナナス」「ビョウヤナギ」「」各種ベゴニア「緋桐(ヒキリ)」「八重クチナシ」などなど。まあ、あじさいだけではない、花園なのである。

 映りのよくない写真は、実はデジカメで撮ったものではない。DVDの動画で撮ったものである。映りが悪いのは、そのためである。

   子どもたちも多かった。可愛い子どもの写真をアップして、あじさい園は終わり。

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2011年5月19日 (木)

山内盛彬生誕120年記念「ひやみかち」公演

 琉球古典音楽の研究と継承や民謡「ひやみ020 かち節」作曲などで名高い山内盛彬(セイヒン)さんの生誕120年記念事業で、歌碑が建立されたことは、前にブログで書いた。これに関連して歌碑建立「ひやみかち」公演があった。公演には行けなかったが、その模様がテレビ沖縄の人気番組「郷土劇場」で5月17日に放送された。写真は、いずれテレビ沖縄の「郷土劇場」から、紹介する。

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  沖縄市に建立された山内盛彬歌碑は、4月に見に行ったことをブログでも書いた。公演は、歌碑建立資金の造成も兼ねていた。民謡界の大御所、登川誠仁をはじめ多彩な顔ぶれが出演して、なかなか興味深い島唄公演だった。なかでも、山内盛彬のひ孫、山内もりたかさんも登場して、演奏したのが注目された。

 山内さんは、民謡では平良新助さんが018_2 、移民として渡っていたアメリカから戦後、沖縄に帰ってきて、気合いを入れて立ち上がろうと歌った琉歌に感動して「ひやみかち節」を作曲したことや、捕虜収容所の悲哀を歌った「屋嘉節(ヤカブシ)」の作曲で知られる。

 公演で、この2曲を歌ったのは、登川誠仁、弟子の仲宗根創、そしてひ孫の山内もりたかの3人だった。右写真が山内もりたか。左下は、仲宗根創。019

 

 

 屋嘉節は、「♪なちかしいや沖縄 戦場(イクサバ)になやい 世間(シキン)御万人(ウマンチュ)ぬ 流す涙」と始まる。わが懐かしい故郷、沖縄が戦場になってしまった 世の中のたくさんの人々が 悲しみ涙を流したことだ、という意味である。私の持っている工工四(クンクンシー、楽譜)では、6番まで歌詞がある。恩納山に登って戦さをしのいだこと、彼女は石川村の茅葺の長屋にいるが、我が身は屋嘉村の浜の砂地を枕に寝る日々だ、などと歌う。
 登川誠仁は、味わいのある歌唱で聞かせる。とくに、最後に、私の知らなかった歌詞でしめた。「♪戦世の跡の 焼け野原見りば 又ん無ん如に お願しやびら」。戦争の跡、焼け野原となった沖縄を見れば、このような悲惨な戦争は、再び繰り返すことのないようにお願いします、という歌意である。003 001  屋嘉節は、最後にこの歌詞があれば、歌はいっそう聞きごたえのあるものになる。これからは、この歌詞を取り入れたいと思った。

 「ひやみかち節」も3人で歌った。歌った歌詞は、私が持っている工工四とは、順序がまったく異なった。次の順で1,2番と歌った。
「♪七転び転でぃ ヒヤミカチ起(ウ)きり 我(ワ)した此(ク)の沖縄 世界(シケ)に知らさ」(七転び転んで、気合いを入れて起き上がり わがこの沖縄を世界に知らせよう)
「♪我んや虎でむね 羽付(ハニチ)けてぃたぼり 波路パシフィック 渡てぃはびら」(私は虎だから 羽をつけてくれれば 波路太平洋を飛び渡っていきましょう)

012  1番目の歌詞は、平良新助さんが詠んだ。2番目の歌詞は、山内盛彬さんが詠んだだものだ。どちらも、戦災で打ちひしがれた沖縄県民の気持ちを奮い立たせる内容のすばらしい琉歌である。でも、私が持っている通常の工工四では、この歌詞は、5番、6番と最後に回されている。歌のはじめの方には、その後誰かが付け加えた歌詞が置かれている。付け加えられた歌詞の方は、作者には悪いが、平良、山内両氏の歌詞には遠く及ばない、通俗的な内容だ。だから、前に山内さんの歌碑が建立されたことを書いた際、わたくし的には、平良、山内両氏のこの琉歌をまず歌うべきだと記しておいた。
 実際に、登川誠仁は、この両氏の歌詞をはじめに歌った。その思いは、これらが二人が詠んだもともとの歌詞であることをよく知っているからだろう。
 ちなみに、「ひやみかち節」は、いまはみんなとても早いテンポで弾くが、登川誠仁はあまり早くない。早弾きの神様のような彼が、あまり急がずに弾くのをみると、もともとこういうテンポで弾くように考えられていたのだろうか、と思った。022  古謝美佐子さんは、「白雲節」「ナークニー」など、とても張りのある声を響かせて、聞かせた。ハプニングが一つあった。ひやみかち節を歌っている最中に、登川誠仁は山内もりたかに向かって、なんと「もっと大きな声で歌って」と呼びかけたのだ。島唄公演では、異例のシーンだった。歌い終わったあと、「彼は私に遠慮して小さな声で歌っているから、遠慮せず大きな声で歌って、と言ったんですよ」と、聴衆に向かって説明した。「オレに遠慮せず歌えよ」と舞台で声を出して言えるのは、さすが登川誠仁である。
 こういう島唄公演があったことは、山内盛彬もグソー(あの世)で喜んでいるだろう。

2011年5月18日 (水)

月桃の花が咲いた

 月桃(ゲットウ)の花が咲いた。沖縄はいま、梅雨の真っ最中だ。その中で、白い清楚な花が、あちこちで花を咲かせている。沖縄では、サンニンと呼ばれている。014  熱帯から亜熱帯のアジアに分布する花だ。ショウガ科ハナショウガ属だという。日本では、沖縄から九州南部に咲く。下の写真が、花開く前の蕾である。もうすぐ、黄色い包みが割れて、花が開くだろう。月桃は、5,6月に花を咲かせ、9,10月には赤い実をつける。
 葉っぱは、とても長くて広いので、餅粉を練ったムーチー(餅)を葉に包んで蒸して食べる。旧暦12月8日、ムーチーの日には、スーパーでも、ムーチーの材料とともに、月桃の葉を束にして売っている。防虫効果や消臭効果もある。芳香剤やお茶にも利用される。葉からとった油で、アロマオイルや香料としても使用される。とても、身近で親しまれる花と葉っぱである。ちょっとして草が茂っているところ、樹木が生えているところなど、よく月桃は育っている。

 016  でも、この清楚な花には、悲しい思い出が付きまとう。というのは、月桃の花が咲く季節は、66年前に沖縄で地上戦がもっとも激しくなり、住民が艦砲射撃や砲弾の「鉄の雨」の中を逃げまどい、たくさんの肉親や友人、学友らを亡くした時期だからだ。
 日本兵による虐殺や集団自決を強いられる悲劇も数々生まれた。月桃の花を見ると、どうしても、あの悲惨を極めた戦争、地獄のような苦しみ、悲しみがよみがえってくるという人が少なくない。生きるために人間が鬼と化した思い出したくない記憶もある。
 沖縄戦の体験記など読んでいても、かならず月桃の花がいろんな場面で出てくる。そういうことを聞いているナイチャーも、月桃の花を見ると、「ああ、美しい花だなあ」というだけではすまない。沖縄戦の惨状に思いを致す。
     015_2  沖縄戦終結50周年を記念して作られた映画に「月桃の花ーGAМA」がある。戦争を生き延びた女性と娘との秘められた過去をさかのぼり、沖縄戦の実相を描いた優れた作品だ。映画の総入歌に「月桃」がある。音楽を通して平和を訴える海勢頭豊(ウミセドユタカ)氏の作品である。ブログにアップしてある「戦世と平和の沖縄島唄」でも取り上げたが、もう一度歌詞を少し紹介しておきたい。
「♪摩文仁の丘の祈り歌に 夏の真昼は青い空 誓いの言葉 今も新たなふるさとの夏」 
「♪海はまぶしくキャン(喜屋武)の岬に 寄せる波は変わらねど 変わるはてない 浮世の情け ふるさとの夏」
「♪6月23日待たず 月桃の花散りました 長い長い煙たなびく ふるさとの夏」
「♪香れよ香れ月桃の夏 永久に咲く身の花心 変わらぬ命 変わらぬ心」

2011年5月17日 (火)

民謡「恋の花」と薬師堂、余聞

 那覇市の波上宮の「なんみん祭」のことを書いた。その中で「恋の花」の歌詞にある「薬師堂」とは何を意味するのか、私見を書いた。これについて、民謡の仲間に聞いてみた。

 「恋の花」なかで薬師堂は次のように歌われる。
「♪波之上(ナンミン)に行ちゅみ 薬師堂に行ちゅみ 慣れし薬師堂や ましやあらに」
 (波之上に行こうか 薬師堂に行こうか 慣れた薬師堂の方がよいのでは)

085          写真は波上宮。その他の写真を含め文章とは関係ない。

 Hおじいに「この薬師堂というのは薬師如来をまつった仏堂のことですか?」と尋ねた。「うーん、薬師堂というのはあまり聞かないね」。それを横で聞いていたTおばあが「薬師堂という芝居があるよ。観たことあるさあ」と言ってきた。
 「そうらしいですね。伊良波尹吉(イラハインキチ)さんの作った沖縄歌劇で、沖縄5大悲劇の一つといわれていますよね」。「そうねー。悲劇があるのかねえ。この薬師堂は芝居を観に行こうということなのかなあ」。Hさんもよく分からない様子だ。
 そこへ、前にいたUさんが割り込んできた。「薬師堂と言う地名があるんだよ」。「そのようですね。このお芝居は、薬師堂の浜で男が娘さんを見染める話しなので、薬師堂という場所は浜辺なんですね」と聞いてみた。「ああ、薬師堂はね、アメリカのペリーが上陸したところだよ。いまは那覇軍港になっているさあね」。
 ここでペリーが登場するとは意外だった。ペリーは、日本に行く前に琉球にやって来た。1853年5月26日に、琉球王府の反対を押し切って、那覇港から上陸して、強引に国王のいる首里城を訪れた。158年前のことだ。
 そういえば、那覇港に近い山下町や小禄、金城の付近には「ペリー内科」「ペリー歯科」「ペリー美容室」「ペリー保育園」などやたらペリーの名前のつくところが多い。まあこれは、話の本筋とは無関係の余談である。
 <注>その後、資料によって、薬師堂があったのは、現在の那覇軍港ではない。いまの通堂町であることがわかった。でもおじいの話なので、そのままにしておく。

 097           波上宮の隣にある護国寺。鐘がある。

 沖縄歌劇「薬師堂」は、若者が旧暦3月3日の「浜下り(ハマウリ)」という潮の干満が大きい日に、学友とともに薬師堂の浜に出かけて、美しい娘、鶴(チルー)を見染める。その後、毎夜のように彼女の屋敷に忍んで行き、逢っていたが、親に見つかり鶴は勘当される、というような物語だ。ただ、まだ観たことはない。浜下りに若者たちが出掛けるような、よい浜辺だったのだろう。
 薬師堂が地名だとすれば、歌の意味が「♪波之上に行こうか、薬師堂の浜に行こうか、慣れた薬師堂の浜がいいよ」ということになる。「波之上」というのも地名であり、薬師堂も地名ということはありうることだ。薬師堂の地名があったとすれば、これは沖縄の固有の地名ではない。かつて、昔にこの付近に薬師堂が実際にあったのだろうか。でなければ、薬師堂と言う地名があるのが不思議だ。真相はまだ分からない。

  088

 そこに新たな解釈がまた表れた。隣にいたKおじいが口を挟んできた。
 「前に詳しい人に尋ねたことがあるよ。薬師堂というのは、実際にはないんだって。だから架空のことを歌っているそうだよ」。「えっ! そうなんですか。薬師堂という仏堂は聞かないからないというのはその通りだと思うけれど、ない物を空想で歌っているんですか!」。驚いてそう聞き返した。「オレも、わざわざ詳しい人に尋ねてみた。だから、ないから架空のことなんだって」と重ねて言う。
 そういえば、一番の歌詞に「♪庭に雪が降り、梅の花が咲いている」というのも、沖縄では見ることのできない架空の風景である。庭に雪がふり梅が咲くという、大和的は風景を描いている。薬師堂も沖縄にはないけれど、大和にはよくあるから、薬師堂のことを知って歌詞に盛り込んだのだろうか? 
 でも、こんな具体的な建造物を、架空で作るということがありうるだろうか。まだ疑問がある。というわけで、薬師堂については、芝居も地名もあることが分かった。歌の歌意としては、Kおじいが確かめたとのことだから、それが一番確かなことだろう。
 ただ、地名や沖縄歌劇に置き換えても、歌としては立派に通用する。いろんな可能性を想像してみるのも楽しいかもしれない。
 追記(2011.5.25)
 前に薬師堂の話をしておいたHさんは、民謡研究所に通っているが、そのお仲間に薬師堂のことを聞いてくれたそうだ。

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 「あの薬師堂というのは、遊びに行くところだったそうだよ。だからやっぱり地名だね。近くに遊郭のある渡地(ワタンヂ)などもあった。ジュリ(遊女)を連れて遊びに行くところだったそうだよ。だから、歌詞に、波之上にいくか薬師堂に行くか、と歌われた。いまは、その場所はなくなって分からないが、昔は薬師堂と言えばすぐ分かったんだろうね」。どうもこの解釈が一番あたっているかもしれない。

2011年5月16日 (月)

波上宮の「なんみん祭」を見る

 那覇市の由緒ある波上宮(ナミノウエグウ)の伝統ある祭り「なんみん祭」があった。5月17日が例大祭で、その前15日に、おみこし行列があった。波上宮からパレットくもじ前まで歩いた後、イベント広場で奉納演舞など披露された。
   波上宮は、琉球王朝の時代は、王府の信仰が厚く、国家の平安と繁栄を祈願していたとかで、琉球八社の第一位にされていたという。戦前は、官幣社とされていたので、「なんみん祭」はとてもにぎやかで、小学校なども休みになるほどだったという。
 014  おみこし行列では、大太鼓が「ドーン、ドーン、ドンドンドン」と打つ。昔は子どもたちが「なーん、なーん、なんみんさい」とはやしてついて歩いたそうだ。行列は、大きいみこしから小学生の担ぐ小さいものまで3つもある。006  みんな楽しそうに担ぐ。先頭の人はときおり、バケツから水を汲んで振り掛けている。獅子も歩き、いっしょに天狗も歩いている。沖縄に来て天狗を見るのは初めてだ。002_2 ただ、沖縄の祭りにはつきものの歌三線がない。どこか大和めきたる印象がある。それは多分、この波上宮そのものと関係がありそうだ。090_2
 

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 波上宮は、海に突き出した小高い崖の上に神社がつくられている。「古くは、沖縄独特のニライカナイ信仰(海の彼方から幸福をもちくる神々に祈る)に始まる」と鳥居の下の波上宮の説明文に書いてある。海の眺めの良い崖の上なので、古来、ニライカナイの神々に祈願するには、うってつけの場所だったのだろう。
 

 その後、神のお告げにより琉球王府が熊野権現三神を祀ったという。王府だけでなく、庶民にも「なんみんさん」と親しまれたという。
 沖縄の伝統行事はすべて、旧暦で行われるのに、「なんみん祭」だけは新暦で5月17日が例大祭と決まっているのも、戦前に官幣社とされた名残りがあるようだ。
 沖縄戦では、やはり焼けて戦後、1953年に本殿、社務所など再建したが、これには戦前に移民としてハワイに渡った人たちの支援があったという。ここにも、沖縄の歴史が刻まれている。

 波上宮といえば、「恋の花」という有名な古典民謡がある。042
「♪庭や雪(ユチ)降ゆい 梅(ウンミ)や花咲ちゅい 無蔵(ンゾ)が懐(フチュクル)や 真南風(マフェー)どぅ吹ちゅる」(庭には雪が降り梅の花が咲いているが 彼女の懐は南風が吹いている)
 とても艶っぽい歌である。ただ、庭に雪が降り梅が咲くとは、沖縄ではありえない風景だ。この琉歌も大和めいている。このあと3,4番に波之上が登場する。
「♪波之上(ナンミン)に行ちゅみ 薬師堂に行ちゅみ 慣りし薬師堂や ましやあらに」(波之上に行こうか 薬師堂に行こうか なれた薬師堂の方がよいではないだろうか)
 デートに行くにはどこが良いかな、と歌っている。波之上は波上宮が名所だから分かるが、薬師堂が問題である。薬師堂といえば薬師如来を本尊とする仏堂と思うけれど、那覇市で名高い薬師堂があったとは聞かない。寺ではないが「薬師堂」という沖縄歌劇がある。沖縄五大悲劇の一つで、薬師堂の浜で美しい娘を見染め逢引きを重ねるが親に見つかり娘は勘当されるというストーリーだ。明治から昭和にかけて活躍した伊良波尹吉(イラハインキチ)の作である。もしかして、「波之上に行くか、薬師堂の芝居を見に行くか、慣れた薬師堂の芝居の方がよいのでは」という意味かもしれない。

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「♪波之上ぬ開鐘(ケジョウ)や首里の開鐘とぅ思てぃ 里起(サトゥウ)ちやらち 我肝(ワチム)やむさ」(波之上の鐘の音を首里の鐘の音だと思って 彼氏を起こして行かせてしまうのではないか、と私の心を痛める)
 波之上は、すぐ近くに有名な辻の遊郭があった。首里から士族が遊びに来ていた。多分、士族の彼氏が好きな遊女のもとに泊ったけれど、波之上には護国寺もあり鐘をつくのだろう。その鐘の音を聞いて、自分の家のある首里の鐘の音だと思って、目を覚まして急ぎ帰ってしまうのではないか、と彼女が気をもんでいるのだろう。そんな様子がうかがえる琉歌である。いずれも恋歌だ。
 写真は、「なんみん祭」で撮ったもので、文章とは関係ない。

 ついでに、「恋の花」には八重山にそっくりの古典民謡がある。新城島「クイヌパナ節」という。「恋の花」のような艶っぽい恋歌ではない。新城島のクイヌ端の物見台に登って浜崎を見れば「マカ」が布を晒している大石に登って干瀬を見れば「松」が章魚(タコ)を採っている。松はタコを「クヤ」という2号に渡した。これを見ていた本妻ペーマは⋯⋯ というようなお話だ。もう「恋の花」とは、まったく関係がない。というか、元歌の旋律をベースにして、まったく別の歌詞の歌をつくったということだろう。こういう例は、とっても多い。ごくフツーの出来事である。

063 もう「なんみん祭」とはまったく関係のないオタク話になってしまった。もう一度、「なんみん祭」の奉納演舞から写真だけ紹介しておきたい。上は獅子舞。波上宮獅子舞保存会や首里末吉獅子舞保存会など次々に獅子舞を披露し、合計9頭も出てきて壮観だった。078 子どもたちのエイサーもとっても楽しそうだった。子どものエイサーは、女の子ばっかり。男の子は、なぜか一人しか見なかった。

2011年5月13日 (金)

嘉手納がまた狙われた

 海兵隊普天間基地をめぐり、米上院軍事委員会のカール・レビン委員長らが、名護市辺野古移設は「実行不可能」として、米空軍嘉手納基地への統合を中心とする移設案を検討するようゲーツ国防長官らに求める声明を出したことに、沖縄ではあらたな驚きと怒りが噴出している。
 もう嘉手納統合案は、何度も出てきてそのたびに反対の声と米軍も無理として消えた案だ。つい一昨年来、当時の岡田外相が言いだして猛反発を受けて、消えたばかりだ。
 なんで、また嘉手納が狙われるのだろうか。一つには、辺野古移設案が、名護市、宜野湾市だけでなく、県知事を含めて県内移設反対で一致し、辺野古移設は誰の目にも不可能であることが見えているからだ。政府は、日米合意を振りかざすけれど、それはまったく破たんしていることを、米上院軍事委員の有力議員も認めざるを得ないということだろう。

006          写真は米空軍嘉手納基地

 声明では、嘉手納基地の空軍機能の一部をグアムや日本国内の他の地域に分散させる、などと言っている。そんなごまかしはもう通用しない。當山宏嘉手納町長は、「現在でさえ、受忍限度を超える騒音、悪臭被害を被っている。どのような理由、条件でも断じて容認できない」(「琉球新報」5月13日付)と断言している。町議会も緊急に臨時議会を開いて抗議決議を可決する予定だ。仲井真知事は、負担が軽減されるなら話の入り口になるかのようなことを口走った。それは、地元自治体や県民の声に反する危うい態度だ。それに、知事自身も、県内移設に反対することを明言してきたことを、もう忘れ始めているのだろうか。そんなことはないだろう。

057  上の写真は、普天間基地の県内移設反対の県民大会。挨拶する仲井真知事は、県民の前で県内移設反対を表明した。
 嘉手納基地は、負担軽減と言いながら、実際には外来機の飛来が常態化して、騒音は減るどころがひどくなっているのが実態だ。4月28日には、夜間・早朝の航空機の離着陸禁止など求めて、実に2万2058人の大原告団が第3次嘉手納爆音訴訟を起こしたばかりである。住民は、人間らしく生きる権利を侵害され、もう我慢の限度を超えている。
 しかも、普天間には垂直離着陸輸送機МVオスプレイが配備されることが明らかになったばかりだ。欠陥機と言われる同機も移設することになる。嘉手納基地周辺の住民は、米空軍機による爆音や墜落の危険に加え、オスプレイをはじめ海兵隊のヘリコプターによる騒音、墜落の危険にもさらされることになる。そんな無謀なことは許されない。
 これから、周辺住民と自治体、県民の反対と抗議の声が急速に盛り上がるだろう。辺野古が不可能なら、嘉手納も不可能である。移設先探しをする限り、行き詰る。普天間基地は、やっぱり閉鎖して、アメリカ本国に帰ってもらうのが、一番の解決の道ではないだろうか。

 

2011年5月12日 (木)

男女のデュエット曲の難しさ

 沖縄民謡を聞いていて、慣れるまでとても気になったことがある。それは、女性の声がとても高いことだ。男女デュエットというか、掛け合いというか、一緒に歌う曲がとても多い。掛け合いでなくても、女性がハヤシを入れた曲も多い。その場合、ときには金切り声に近いほど、高い声もある。
 なぜ、女性の声が高く聞こえるのだろうか。そこには、ある秘密がある。それは男と女のキーの高さが違うことに起因する。

 カラオケに行くと、男が女性歌手の曲を歌う場合、2度上げるとだいたい合う。上げるといっても、男は、通常は女より一オクターブ下を歌っている。つまり、女と男の声は、一オクターブ近い違いがある。ただ、女性歌手の曲を、そのまま一オクターブ低く歌うと、音程が低い部分は低すぎることになる。だから、2度上げて一オクターブ下で歌うとちょうどいいくらいのキーになるわけである。

   写真はラジオ沖縄の「ホーメルでこんにちわ」で歌う盛和子さんと息子ののーリー。
   文章とは関係ない。

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 ちなみに、歌謡曲の男女デュエット曲の場合、このキーの違いをどうするかが工夫のしどころである。男女どちらかのキーを軸にして作曲すると、片方は声を無理することになる。だから、男女ともあまり無理をしなくても、声を出せる音域で歌えるようにすることが多い。
 よく知られがデュエット曲を例にとる。懐かしい橋幸夫と吉永小百合の歌う「いつでも夢を」、石原裕次郎と牧村旬子の歌う「銀座の恋の物語」、ヒロシ&キーボーの歌う「三年目の浮気」といった曲を見ると、男女とも割合、楽に歌える旋律になっている。音域があまり広くないのだ。
 また、多少高い音を使っていても、その部分はどちらか分担して歌うようにすればよい。つまり、歌謡曲の場合は、はじめからデュエット曲として、男女の歌手も想定して作曲しているから、双方があまり無理しなくてもよいように作られている。017  この写真も文章とは関係ない。昨年の離島フェアーの芸能の舞台である。

 ところが、沖縄民謡の場合は、事情がまるで違う。男女掛け合いの歌だからといって、男女の音域にうまく合うようにとか、そんな考慮はしていない。通常、民謡を演奏する場合は、三線のキーは、「4」=「C」や、低ければ「3」、プロは「5」「6」とかも使う。これは、私が思うには男性のキーが基本になっている。だから、男性のキーで歌う場合、女性はまるきり一オクターブ高く歌うことになる。私は通常キーは「4」にする。
 私の知り合いの女性は、「これでは高すぎて歌えない」と言い、彼女と歌う場合はキーを低くし「2」にする。つまり、キーで2度違いがある。でも、みんなが演奏する場合は、そうはいかない。だから、女性は高い「4」などのキーで一オクターブ上を歌うことになる。
 女性歌手が、一人で歌う場合、三線のキーは低くしている人もいる。三線入門書の付録についているCDは、やはりキーは「2」にしてあった。女性のことを考慮したのかもしれない。

 たとえば、夫婦の情愛を歌った「夫婦船」(ミイトゥブニ)、戦前に沖縄で盛んだったパナマ帽作りを歌った「帽子くまー」、桃売り女性と彼との愛情をテーマにした「桃売アン小(モモウイアングヮー)」、沖縄戦のあと収容所があった名護市二見(フタミ)での出会いと別れを歌った「二見情話」など、たくさん掛け合い曲はある。
 歌謡曲のように、特に男女が歌いやすいことを考えて作曲しているわけではない。だから、女性は甲高い声を出さざるを得ない。といっても、のびやかな高音が出れば、それはそれでとても魅力的である。
 女性のハヤシで、感心するのは、八重山の代表的な民謡である「ツパラーマ」である。「彼女のことを思って通えば千里の道も1里に思える。でも帰りの道はまたもとの千里のように遠く感じるよ」と歌う。この間に「ツンダサー、ツンダサー」とハヤシがはいるが、美しい上手な人がハヤシを歌うと、天空に吸い込まれるように、高く響く。どこからこんな美しい高音が出るのだろうか、と思うほどである。
 まあ、あまり沖縄民謡を聞いたことがない人は、「ユーチューブ」でいくつか動画がアップされているし、とくに「ツパラーマ」も出ているので、聞いてみてほしい。
 なぜこんなマニアックな話しを書いたのか。それはサークルで、いつもキーの高さが問題になる。それとカラオケに行くと、いつもキーの設定で悩まされるからである。それだけのことである。

 

2011年5月10日 (火)

比謝橋を恨んだ吉屋チルー

 琉球の17世紀に生きた女性の歌人に吉屋チルーがいる。先日、こいのぼりが揚っているのを見に行った嘉手納町の比謝川に架かる比謝橋を恨んだ琉歌が有名である。

 なぜ、橋を恨むのか? チルーは、恩納村の出身で、8歳のとき、家が貧困で那覇の仲島の遊郭に売られた。「吉屋」は、名前ではなく遊郭の屋号である。比謝橋は、読谷村と嘉手納の境に架かっていた。
 「恨む比謝橋や 情ねん人ぬ 我身(ワン)渡さとも思て 掛きてうちえさ」。これは「恨めしい比謝橋よ 情け知らない人が 私を渡そうと思って かけておいたのだろうか」という意味である。写真は、現在の比謝川。

032  チルーは、恩納村山田の生れと伝えられるが、読谷村に行けば読谷出身とも言う。私の推測では、これはどちらも当たっているのではないか。なぜなら、山田の生まれだとすると、山田は昔は読谷山(ユンタンザン)間切だったからだ。間切は現在の町村にあたる。1673年に読谷山と金武(キン)間切の一部を分割して、恩納間切をつくった。だから、山田はそれ以後には恩納になったという。

 それはともかく、チルーが売られたのは、那覇の仲島である。仲島はかつて橋で渡っていた。なぜ遊郭のある仲島に渡る橋ではなく、まだ那覇にははるかに遠い嘉手納の比謝橋を恨むのだろうか? 比謝川を実際に見るまでは、それが疑問だった。でも比謝川を見て、その疑問は解けた。
 沖縄は中南部は、川がきわめて少ない。その中で、比謝川は大きくて深い。恐らく村から外に出たこともない少女にとって、知らない土地の知らない遊郭の世界に売られていく。その不安と辛さはどれほどだろう。そんな気持ちを抱えながら、故郷を後にして大きな川と橋を渡る。恨みを込めて渡った心境がわかる気がした。

041_2_2   上の写真は昔の比謝橋の場所より下流にあたる地点に架かる比謝川大橋

 チルーは、仲島で15歳頃には、美貌と琉歌の才能で評判になっていたそうだ。チルーは、首里の領主階級の士族だった仲里按司(アジ)と恋仲になる。琉歌を愛する若者だ。でも、二人の恋は実らず、チルーは仲島の橋の上から身を投げたと伝えられる。薄幸の歌人である。チルーを歌った民謡がある。「吉屋物語」(小浜守栄作)という。

 「♪あてなしが童(ワラビ) 家庭(チネエ)の困難に 女郎花(ジュリハナ)に落てて 行じゃるいたさ」(物心つかない子どもだが 家庭の貧困のため 遊女に落ちて 行かざるをえなかった)
 「♪仲島ぬ花と 美(チュ)らさ咲きなぎな 詠だる琉歌数に 心(ククル)くみて」(仲島の花とその美しさは咲きながら 琉歌の数々に心を込めて詠んだ)
 「♪琉歌にちながりて 見染みたる里と 想い自由ならん 此ぬ世しでで」(琉歌を通して見染めた愛しい彼と 恋の思いは自由にはならない この世では)
 6番まである歌詞は、当然琉歌であるが、その間に、チルーが詠んだ琉歌を挟んである。「恨む比謝橋⋯⋯」の琉歌もある。110509_091302_1_2
 実はこの琉歌を刻んだ歌碑が、国道58号線沿いの比謝橋のたもとにあるが、まだ残念ながらこいのぼりは見たのに、歌碑を見ていない。そのうち行ってみたい。

 チルーが売られていった仲島は、いまは那覇のバスターミナル付近であり、昔の面影はまるでない。
 ただし、昔からこの場所にあるという仲島の大石が、バスターミナルの一角にある。高さが6㍍、周囲が25㍍もある。左の写真がその大石である。電話ボックスと比べると大きさがわかるだろう。

 大石には、かつて波に浸食されてくぼんだ「ノッチ」という跡がある。それが、昔はこのあたりは海岸であったことを示している。110509_091102_3

 仲島の大石について説明した碑があった。もう文字がかすれて読みにくい。
 この近くで中国系の人々が住んでいた久米村の人からは、村の風水にかかる縁起の良い大石として珍重されていたそうだ。
 チルーのことも記されている。
 「この付近に仲島の遊郭があり、多くの遊人が訪れて賑わっていた。歌人として有名な『よしや(吉屋チルー)』も、この遊郭で短くはかない生涯を終えたと伝えられている」。
 「1908年(明治41年)には仲島の遊郭は辻に合併移転し、大正初年までにはこの付近は埋めたてられ現在に至っている」。

 チルーは登場しないが、仲島そのものをテーマにした民謡がある。文字通り「仲島節」という。
「♪仲島ぬ小橋 あいん有る小橋よ ぢるが小橋やら 定みぐりしゃ」(仲島の小橋はあんなにある どれが約束の小橋なのか なかなか定めがつかない)
110509_091103「♪仲島ぬ小橋 人繁(シジ)さあむぬよ 袖し顔かくち 忍でいもり」(仲島の小橋は 人が頻繁に通るから 着物の袖で顔を隠して 忍んできて下さい)

「♪仲島ぬ小橋 朝夕音立ててよ 恋の往来(オウレエ)ぬ 首尾ゆ聞かち」(仲島の小橋は 朝夕に音を立てて人が通る 恋の往来の首尾はどうなったのか聞かせて)

「♪例い仲島や 音絶いて居てんよ いちゃし忘りゆが 恋ぬ小橋」(たとえ仲島の評判が絶えてしまっても  どうして忘れられようか 恋の小橋を)

 こんな歌詞である。文字通り小橋を中心に恋模様を描いた歌である。なかなか味のある歌なので、毎日弾いている。
 写真は、仲島の大石の下にある拝所。 

 仲島といえば、先日浦添市美術館で葛飾北斎の「琉球八景」を見た。この中に、仲島の風景が描かれて、この大石も描かれていた。ただ、北斎は、琉球に来たことはないので、中国から琉球に来た冊封使の書いた本の絵を参考にして、描いたものだ。だから、雪が積もった風景もある。北斎らしい達筆ではある(下)。

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 ついでに、那覇にあった遊郭について紹介しておきたい。
 尚貞王の時代、1672年に遊郭が王府によって公認されたそうだ。
 それで17世紀以来、西村の辻、東村の渡地(ワタンヂ)、泉崎村の仲島が遊郭としてあった。遊女は、どれくらいいたのだろうか。1890年(明治23年)の数字では、辻には1000人、仲島には349人、渡地には110509_091202 225人がいたという(新屋敷幸繁著『沖縄県史物語』)。
 それが先に書いたように、仲島と渡地は辻に合併移転されたという。だから那覇の花街といえば、辻となっていった。

 というわけで、本島で歌われる恋歌は、とにかく遊女と士族をめぐる民謡が多いのである。
 右写真は、仲島の大石の上にも、何か拝所のようなものがあった。確かめられなかった。
 

 

  

              

2011年5月 8日 (日)

「母の日」は民謡ライブ三昧

 「母の日」の5月8日は、沖縄ではとっても重視する。とくに、高齢の元気なおばあちゃんが多いので、母親であるおばあちゃんを大切にする。「母の日」には、ショッピングセンターのイベントは、圧倒的に民謡歌手によるミニライブが、盛んだ。おばあ世代はみんな民謡が大好きだからだ。
 近くのショッピングセンターをハシゴして、民謡ライブを楽しんだ。中でも、おばあの人気が高いのが「元ちゃん」こと、前川守賢である。この日は、3か所をかけ歩きライブをこなす元ちゃん。豊見城市のサンエーで、午前中ミニライブがあった。

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 もう開店して間もない10時過ぎには、たくさん席取りがされている。杖をついたり、車いすで来たり、娘さんに手を引かれたり。会場はぎっしり埋まり、立ち見が出るほどだった。    上の写真が元ちゃん。「三線の日」の琉球放送のテレビから。文章とは関係ない。
 元ちゃんは、いつもは三線を手にするが、今日は三線を持たず、最初から着物姿で踊りながら歌う。「愛してるよ」という意味の「かなさんどー」、平和で豊かな世を願う「世果報(ユガフ)でーびる」、「遊び庭(アシビナー)」などヒット曲を次々に披露した。
 「てぃー、たー、みー、ゆー」(1,2,3,4)では、「一歩でも2歩でも、後戻りはしないで前に進もう」との思いを込めて歌う。客席からおばあの手をとり舞台に引き上げ、いっしょに踊る。最前列に座っていたおばあは、元ちゃんに近寄ると、着物の懐に「おひねり」を差し込んだ。元ちゃんも喜んで、何回もお礼をする。
 最後の「カチャーシーどんどん」では、流れ落ちる汗をハンカチで拭いてくれたおばあの手をとり、舞台で踊りながら歌う。舞台に上がったおばあたちも、堂々といっしょに踊るところが、さすがである。若いころから、日頃なにかにつけてカチャーシーなど舞い踊ってきたのだろう。おばあたちは、だれもが踊りが上手い。

              下の写真も同じテレビから。文章とは関係ない。037_2 

 次に回ったのは、同じサンエーの南風原町にある津嘉山シティ。こちらは、饒辺(ヨヘン)愛子さんの民謡ショー。「肝(チム)かなさ節」が大ヒット作で、みんな大好きな曲の一つだ。「愛ちゃん」と呼ばれる。やはり最初から踊りながら歌う。
 「肝かなさ節」の題名は、「心がかわいい」という意味である。「♪彼の可愛がりは、はじめは肌の可愛がりだが、年が重なるに従って、心の可愛がりになる」というような意味の歌詞で始まる。ハヤシの部分は、聴衆にマイクを向けて歌わせる。最後の5番にきた時、私たちも最前列に座っていたので、マイクを向けられた。「♪肝がなさらや 思(ウ)みいかなさらや」(心から可愛いでしょう 思いが可愛いでしょう)と思いきり歌った。001  写真は、愛ちゃんの民謡ショーとはまったく関係ない。ラジオ沖縄の番組「ホーメルでこんにちわ」の収録のさい、最後にカチャーシーを踊っているところ(南風原ジャスコで)。実は、サンエーのイベントはすべてカメラ撮影が禁止されているので、使えない。それで無関係な飾りの写真を使っている次第である。
 
 あいちゃんの民謡ショーは、ワンマンではなく、専門の琉球舞踊が入り、さらに民謡界の大御所、登川誠仁の一番弟子である仲宗根創(ナカソネハジメ)くんも登場して歌った。
 とくに創くんは、18歳で名曲を歌って競う「ナークニー大会」で優勝した若手のホープだ。テレビで見たことがあるが、実物は初めて。着物姿が似合うとても純朴な若者だが、三線は上手いし、歌も若いの味わいのある歌い方だ。愛ちゃんといっしょに何曲か歌った。30分あまりのショーだが、中味の濃いライブだった。
 最後はやはり、「多幸山(タコウヤマ)」「唐船どーい」といったカチャーシーの名曲を弾き鳴らし、もう舞台前におばあたちも踊り出てカチャーシーを舞う。隣に座っていた、わが連れ合いもいつの間にか踊り出て、みんなと一緒に踊っていた。
 というわけで、「母の日」のショッピングセンターは、民謡ショーもあるからなのか、日頃よりもとてもおばあ、おじいが多かった。「母の日」は、ホテルでの食事やディナーショーなども盛んであるが、お金のかからないこういうスーパーの民謡ショーも、大きなステージとは違い、歌い手と聴衆が一体になり、踊り歌うという面白さと親しみがある。おばあたちにとっては、とっても楽しめて、うれしい舞台なのである。

2011年5月 6日 (金)

ドラマ「24」そっくりのビンラディン殺害

 アメリカがアルカイダの指導者、ビンラディンを殺害した報道をテレビで見て、「これって、ドラマ24そっくりじゃないか!」と思った。アメリカのドラマ「24ーtwentyfour)にはまたっていた人は、きっとそう思うはずだ。
 ドラマは、テロとたたかう米連邦機関CTUロスアンゼルス支局の捜査官・ジャック・バウアーの超人的な活躍を描く。荒唐無稽なようでいて、ドラマのストーリーや設定には、アメリカの現実、国際政治の動向が巧みに取り入れられて、リアリティがある。ドラマが始まったのは、2001年だから、例の9・11テロがあった年である。032  使った写真は、文章とはまったく関係ない。
 米軍放送で流されていた映像である。何時、どこの映像かもわからない。

 どこが、ドラマとそっくりなのか。それは、なによりも、テロ集団を撲滅するためなら、どんな手段を使ってもよい、国際法など無視してよい。テロ集団は無差別殺戮をするから、これを防ぐためなら、違法手段だって許されるという論理に、徹底して貫かれていることだ。
 ビンラディンの潜伏する場所を突き止めた情報の一部は、拘束中のテロ容疑者の鼻や口から大量の水を注ぐ「水責め」の拷問で供述させたと伝えられる。拷問で、テロリスト指導者の居場所を白状させるシーンが、繰り返し繰り返し出てくるのが「24」である。ジャック・バウワーは、違法な拷問を常套手段としているが、テロリストと闘うためには、止むをえないと割り切っている。議会から、拷問は違法だと、追及されるが、そんなことは度外視する。今回の、拷問を使ったことも、すべて米政府の承認なのだろう。結果よければすべてよしなのだろう。
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 作戦を実行したのは米海軍特殊部隊「シールズ」だという。隠れ家のレプリカをつくり、構造や間取りを完全に把握するためシュミレーションを繰り返した。ヘリコプター4機で急襲したという。「24」でも、テロ対策の特殊組織のようなCTUが、隠れ家を突き止めると、その構造、間取り、武器の保有から警備の配置まで、衛星画像など駆使して把握して、急襲する。「24」のシリーズでは、毎回、市街地の住宅に潜むテロ指導者を、ヘリも使って急襲する場面が必ず出てくる。そっくりだ。違うのは、ドラマはバウアーが超人的な働きをするところだけだ。

 036 ビンラディンが武器を持っていなかったのに、殺害したという。もともと拘束する計画もなく、最初から殺害を狙っていたようだ。これも、「24」では、テロ指導者は殺害しても構わない論理で走る。
 ドラマでは、たえずバウアーらの法を無視した無謀なやり方について、法と正義を唱えて、理性的に対処するよう求める人物がいるが、そういう人々は必ずテロ対策の妨害者と位置付けられている。今回のビンラディン殺害でも、パキスタン政府に事前に知らせず、他国で勝手に住宅を攻撃し、殺害するという無法なやり方にたいし、ホワイトハウス内で国際法に沿った対応を求める意見があったとしても、排除されただろう。
 約40分間の作戦の一部始終をオバマ大統領らはホワイトハウスで見守っていた。現場からの映像を交えてリアルタイムで作戦司令室に伝えられた。殺害が伝えられた瞬間、オバマ氏は「仕留めた」とつぶやいたともいう。ドラマでも、バウアーらと大統領は直結していて、作戦を見守り、成功すると歓声をあげる。まったく同じようなシーンを何度も見た。

037  それだけドラマが、アメリカの現実をよく反映しているということだろう。ただし、「24」は一方でテロ対策の名でイスラム教徒への人権侵害を批判的に描いたり、イラクなどで民間軍事企業への戦争の請負化が進んでることを下敷きにして、民間軍事企業が巨大化してアメリカを支配しようとする危険を描くなど、現実にするどく切り込んだドラマ仕立てになっている。想像を超えるようなストーリーとドラマのテンポのよい展開で、見だしたら止められない、面白さがある。だからついつい見てしまう。

 それはさておき、なぜ、ビンラディン殺害をここで取り上げたのかというと、米軍基地の集中する沖縄は、テロの標的にもなりかねない危険がわずかであってもあるからだ。2001年テロのさい、9月11日深夜に、普天間基地入り口に向かった琉球新報の記者2人が、海兵隊員にライフル銃を向けられ、「手を上げろ、車から出ろ」と命令された。取材だと言っても、無理やりカメラを奪って記録カードを抜き取る事件が起きたという。それだけ基地はピリピリしていたということでもある。今回も、米軍基地は、かなり緊張した状態にあるだろう、と想像する。
 だから、テロの問題は、アメリカやパキスタンの出来事というだけではすまない面があるのだ。

 

2011年5月 5日 (木)

那覇ハーリー終わる

 若夏の風物詩といわれる那覇ハーリーが5月3,4,5日044 の3日間、那覇港新港ふ頭で行われた。今年は梅雨入りして悪天候で、結局4日にはハーリー会場に行ったが、爬龍船の競争のある3,5日は行けなかった。でも、その模様の一端を書いておきたい。

 4日は競争はなく、爬龍船への体験乗船や各種イベントがあった。テレビ沖縄の人気お笑い番組「oh!笑いけんさんぴん」や沖縄プロレス、エアロビクス大会、夜はラテンバンド「ディアマンテス」などライブもあった。でも雨が降るのでライブも見なかった。それでも、お笑いなど結構楽しめるのが、那覇ハーリーの見どころである。027_2

会場に入口で、恒例の団扇を配っている。「団扇もらっていただけますか?」となぜか低姿勢で配る。例年だと、もう5月に入ると若夏で日差しがきつい。団扇はありがたい。でも今年は、連休中はずっと、雨模様ばかりで、暑くもない。逆に上着を着ていくほどだったので、団扇は要らない。でも恒例だからもらった。

 海上保安庁の巡視船「りゅうきゅう」が一般無料公開され、市民が乗り込んでいた。「守ります沖縄の海! がんばれ東北!」が今年のスローガンだ。040 「海猿の訓練を見てくれ」とヘリコプターでの救助訓練もしていた。海保は沖縄ではとても身近な存在である。

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メイン舞台のお笑いは、会場も爆笑に次ぐ爆笑で大受けだった。036  さて肝心の爬龍船の競争は、5日にテレビ沖縄ではライブで放送したので、家にいながら観戦?した。以下にのせた写真は、すべてテレビ沖縄の画面からである。
 前に書いたように、沖縄に中国から龍船競争が伝えられて600年ほどの歴史がある。那覇ハーリーは、廃藩置県で1879年に禁止されたと聞く。1975年に100年ぶりに復活した。たんなるレースではなく、豊漁と航海の安全を祈願する伝統行事である。013

 1日には、ハーリーの発祥の地とされる豊見城市の豊見城御嶽(ウタキ)で、豊見城龍船協会に那覇爬龍船振興会が加わり、五穀豊穣とユガフハーリーの安全の祈願した。
 5日のハーリーでも、「御願(ウガン)バーリー」があり、三隻の船に乗り込んだ人々が、伝統の祈願をした。

 那覇ハーリーは、往復630㍍を三隻の船で競い合う。一般のハーリーに先立ち、3日には、市内の中学校の男女別で対抗のハーリーが行われた。

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 一般のハーリーの中に「カデナショーグン」という女性チームがあった。たぶん、米空軍嘉手納基地所属の屈強な女性たちのチームだろう。毎年、米軍と自衛隊は毎年出場する。018_3

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そういえば、ハーリー会場に「u.s.army okinawa」と書かれたテントがあった。米軍チームが使うのだろう。

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 予選を行い、勝ち残った3チームで決勝を行う。「本バーリー」と呼ばれ、那覇、泊、久米の三地区の船に乗り込んで競う。

 各チームが熱戦を繰り広げた。ハーリーは、力だけでなく、櫂がよくそろわないといけない。それにUターンするさいの、カーブの仕方が大事だ。大回りをすると、せっかくリードしていても、復路で逆転される。見どころがいろいろある。020  乗船した経験のある人の話だと、最初は全力で漕いでいるが、なかなか続かない。バテてくる。漕いでも漕いでも、進まないような錯覚を覚えるそうだ。とくに、櫂がそろわず、バラバラになれば、余計にそういう感じがするだろう。強いチームは、見事にそろっていて、力強く、こぐ力が船をグングン前に進める感じがする。終盤になると、「立ち漕ぎ」といって、全員が立って漕ぐチームもある。009_2 勝利したチームは喜びを爆発させている。本バーリーでは、初出場の糸満のチームが優勝した。勝つだけあって、猛練習を積んできたらしい。最後は立ち漕ぎでグングンスピードを出していた。022 岸壁では、各チームの応援団が、盛んな声援を送っていた。というわけで、今年は悪天候で見れなかったので、すべてテレビからの写真に終わった。来年は、本バーリーを見に行きたい。 019 その前に、今年の旧暦5月4日(ユッカヌヒー)がハーリー、ハーレーの本番である。伝統ある競争が各地で行われる。毎年、糸満市に行っていたが、今年はできれば、南城市の奥武島(オウジマ)に行きたい。橋の上から飛び込んで船に乗り込み競争するのが名物である。楽しみだ。

2011年5月 4日 (水)

那覇でもデイゴ咲く

 沖縄の県花であるデイゴがようやく咲きだした。デイゴは、南島らしい華麗な花である。県花だけに那覇市内でも、たくさん巨木がある。しかし、害虫のヒメコバチにやられて花が咲かない木、枯れた木が多い。004
 散歩コースである漫湖公園でようやく3輪ほど咲きだした。でも少ない。新都心のおもろまちにある新都心公園のデイゴが咲いていると聞いたので見に行った。上の写真がそれである。
 デイゴの木の東側にあたる部分で、たくさん花が開いていた。008_2 デイゴはもともと年によって咲き方が異なる。「♪デイゴの花が咲き 風を呼び 嵐がきた」とthe boomの名曲「島唄」でも歌われている。デイゴの咲き方で、台風が多いとか少ないとかいうけれど、ホントなのかどうかよくわからない。 009  問題はそれより、ヒメコバチである。漫湖公園でも3年ほど前に、木が枯れてきて何本もデイゴの大木を根元からバッサリと伐り倒した。痛ましかった。
 ヒメコバチは瞬く間に、本島に広がったようだが、この害虫からデイゴの木を再生させる方法はある。薬剤を幹に注射すればよい。すでにデイゴにやられていた石垣島や竹富島では、この方法で、デイゴが再生させた。ことし花を咲かせて話題になっている。このブログでも、竹富島のことを紹介した。013_2  デイゴの花にはメジロがたくさん飛んできていた。盛んに花から蜜を吸っている。 
 薬剤の費用がとても高い。デイゴの木もたくさんあるので、那覇市などまだ、再生の動きは出てこない。県花とされている花が、ヒメコバチにやられて、花が咲かない、枯れていくのを放置してよいのだろうか。心を痛めている人は多い。
 竹富島では、ネットで「竹富島のデイゴを救おう」と呼びかけがされて、費用は善意の寄付でまかなえたそうだ。那覇市など、大きな財政力もあるし、再開発などには巨額の費用を投じている。無駄を削り、デイゴ再生を進めてほしいと願う市民、県民が多いだろう。020  すでにデイゴの花が散って、花びらが地面を彩っていた。
 新都心公園は、とても広い。デイゴの木の付近でも、天気が悪いけれど、散歩する人、体操する人らを見かけた。015  新都心地区は、戦後、米軍によって1953年、強制収容されて、米軍牧港住宅地区とされ、米軍住宅などあったが、1987年に全面返還された。その跡地を新都心として造成し、大型ショッピングセンターなど商業施設や官公庁、県立博物館・美術館もある。021  「♪この木なんの木気になる木 名前も知らない木ですから」という日立のコマーシャルに出てくるような樹木があった。名前は実際に知らない。目立っている。025 こちらは見事なガジュマルである。縦に幹が伸びているだけでなく、真横にも伸びているのが面白い。
 広い公園内には、テニスコートやジョギングコース、多目的広場から若者向けのスケートボードコートも備わっている。なんか変な形をした気になる器具もいろいろあった。024 023

2011年5月 3日 (火)

沖縄のハーリーの起源の続き

 那覇ハーリーが3日から始まったが、沖縄はあいにく梅雨入りして天気が良くない。だからハーリーをまだ見に行っていない。ハーリーの起源の続きで書いておきたいことがある。

 中国から龍船競争が琉球に伝わった話は前回、書いたが、中国の龍船競争の起源はどうなっているのだろうか? これにはよく知られた由来がある。中国が紀元前の春秋戦国時代、楚(ソ)の政治家で名高い詩人、屈原(クツゲン)にまつわる伝説である。
 屈原のことは司馬遷(シバセン)の名著『史記』に列伝があり、読んでいた。でも、屈原が龍船競争の由来にかかわることは、沖縄に来るまで知らなかった。「エッ、ハーリーになぜ屈原なのか!」。とっても意外な感じがした。     写真はいずれも2010年の糸満ハーレーのもので、文章とは関係ない。

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 屈原は、当時の秦(シン)の張儀の謀略に楚の懐王が騙されようとしているのを見抜いて王を諌めたが、聞き入れられない。その後さらに政界から追われ、ついには楚の将来に絶望して入水自殺した。「世はことごとく濁れるに、清らかなるはわれひとり⋯⋯さればこそ、放逐の身にされたるぞ」と語ったという。「石をふところにするの賦(ナガウタ)」を作り、実際に石を懐に入れて入水したという。037

 ここまでは、龍船と関係ない。入水した屈原を村人が救おうと、魚が屈原に寄りつかないように太鼓を叩きながら船を出した。また魚が体を食べないようにちまきを放り投げたとも伝えられる。これが龍船競争、ドラゴンボートレースの由来だという。香港では、レースをする時期に、ちまきを食べる習慣もあるそうだ。
 龍船競争は、中国でも長江から南の地方が盛んだという。各地に広がったのは、本当に屈原に由来するのだろうか? 屈原が死んだのは、もう2200年以上も昔のことだ。
 司馬遷が書いた『史記』の屈原の列伝には、龍船の由来にかかわる逸話はなにも出ていない。後世の人が付け加えた逸話かもしれない。019
 また前回書いたように、比嘉政夫先生の話では、中国の龍船競争の源流は、中国内陸部の湖沼や河川に結びつく農耕民族のものだという。

 ちなみに、比嘉先生は「沖縄民族文化の特性」の論考の中で、龍船競争の機能について、台湾の研究者の考察を紹介している。それによると、龍船競争には6つほどの機能というか役割がある。
①雨乞い②豊作祈願③水神祭④水死者の鎮魂⑤厄除祓災⑥屈原を救う。
 つまり屈原にかかわることは、最後に出てくる。ほとんどは、農耕の豊穣を願う雨乞いや豊作祈願や鎮魂、厄払いのための行事であるということだ。040
 龍船の「龍」そのものが「雨をもたらす」「多産をもたらす」「水を司る」などといった呪力を持つと考えられているという。だから、由来については、屈原の伝説があるとしても、龍船競争が各地に広がり、盛んに行われているのは、雨乞いや豊作、豊漁、航海安全など、それぞれの民衆の願いごとを託す行事として、発展してきたのだろう。沖縄でハーリー、ハーレーが広がったのも、屈原とは直接、関係はない。いまは、大漁や航海安全などを祈願する海人の祭典とされている。まあ、由来を詮索するより、なにより祭りを楽しむことである。
 
 
 

2011年5月 2日 (月)

沖縄のハーリーの起源は?

 5月3日から那覇ハーリーが3日間行われる。1日には、沖縄のハーリーの発祥の地といわれる豊見城市で、第9回ハーリー由来まつりが開かれた。
 爬龍船の競争であるハーリーは、1393年、南山王のおいの汪応祖(ワンオウソ)が中国の南京に留学中、龍船の競争を見て感動し、漫湖に船を浮かべて遊覧したのが始まりとされる。
 そういえば2008年に民俗学者の故比嘉政夫先生の講演を聞き、ハーリーの起源についても話していたことを思い出した。 012  写真はいずれも2010年那覇ハーリーの時のものである。中学生らが漕いでいる。

 比嘉先生は、ハーリーも外来文化と土着文化が融合したものだという見解だった。先生によれば、沖縄の祭祀行事で、船漕ぎをともなうものには次のものがある。
①旧暦5月4日の爬龍船の行事 (注・那覇は新暦ゴールデンウィークに行うが、糸満市など
 伝統あるハーレーは旧暦5月4日に行われる)
②沖縄北部のウンジャミ行事、八重山のシツ(節)、豊年祭など豊穣祈願の儀礼と結びつい
 た船漕ぎ競争がある

 このうち、旧暦5月4日の爬龍船行事の起源には、次の三つの説があるという。
①閩人(ビンジン)36姓が那覇の江で龍船競争をした。
 (注・閩人36姓とは、14世紀に明から琉球の久米村に帰化した人のこと)
②長浜太夫という人が南京でならってきて龍船をつくり5月はじめ競争した。
③汪応祖が明で見た龍船をつくり漫湖で競争した。 032

 比嘉先生は、中国大陸から伝来した龍船競争が、沖縄の民俗に根をおろしたのは、土着文化としての沖縄北部地域のウンジャミ(海神祭)や八重山西表島のシツ(節祭)に見られる船漕ぎの儀礼やそのような行事を支える世界観が龍船競争を受容する「受け皿」として働いたからではないかと述べている。
 ウンジャミやシツは、海の彼方の神の在所「ニライカナイ」からユー(豊穣)を招き入れる祈願が中心になって、海上楽土の観念が顕著な海と結びついた祭祀行事jだろいう。

 中国の龍船競争の源流について、比嘉先生の見解は興味深い。
 福建省や香港など東シナ海沿岸地域では、海で行われることもあるが、この祭祀の源流は、むしろ内陸部の湖沼や河川に結びつく農耕民族のものであるという。
 比嘉先生は、中国奥地など現地調査をよく行っており、講演でもメコン河などでの龍船の競争の映像を見せてくれた。

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 沖縄のハーリーも、その基底に農耕儀礼としてのウンジャミなどの行事がかかわるとすれば、豊作祈願が本来の意味であろう。沖縄のユー(豊穣)の観念は、豊作、豊漁、多産を包括する意味を持っている。
 比嘉先生が、楽しそうにお話されていたことを思い出す。この講演から9ヶ月後にに突然亡くなられたことは、本当に残念なことである。 

 

2011年5月 1日 (日)

戦世の唄を歌う

 知り合いのHおじいが「これいい唄だよ。歌ってみないか?」と言って、工工四(クンクンシー、楽譜)をくれた。題を見て少し、ギクッとした。「国の花」とあるからだ。「これって、民謡軍歌じゃないのか」と思った。つまり「国の花」とは、軍人のことを指すだろう。副題には「国の宝」とある。おじいは「とっても味があるからよー」と言う。すぐ歌ってくれたが、情け唄である。沖縄の民謡の場合、戦世(イクサユ)の時代の唄でも、大和で言う軍歌とは、まったく異なる。軍人の妻や家族の悲哀を歌った曲がいくつかある。かつては、戦争賛美の民謡軍歌も、つくられていたが、それはもうまったく忘れさられている。でも、そういう類の軍歌ではないから、現代でも歌われている。
 下の写真は、宜野湾市にある戦没者を祀る「森川之塔」。文章とは関係ない。031_3

 「国の花」の歌詞を紹介する。
♪親(ウヤ)ぬ染(ス)みなちぇる 枕我(ワ)ね捨(シ)ててよ 軍人ぬ里(サト)と契りさしが
 聞(チ)ちぶさや里が 里が便り
♪里や白雲(シラクム)い 風吹ちゅるままによ 今(ナマ)や北満ぬ草葉枕 国ぬ花でむぬ
  我(ワ)んや泣かん
♪千里(シンリ)離りてん 夢路(イミヂ)あら里前(サトメ)よ 夢(イミ)に夢しぢく 知らちたぼ
 り 国ぬ花でむぬ 我んや泣かん
 歌意を自己流で紹介する。
・親の情けが染み込む枕を私は捨てて 軍人の彼と契りを交わしたが そうしているのだろう
 か 聞いてみたい 彼の便り
・彼は、空に白雲が浮かび風が吹きわたる 中国東北部で今や草葉を枕にしている
 軍人は国の花だから 私は泣かない
・千里も離れているが 夢路あれば愛しいあなた様 夢のすみずみに 無事であることを
 知らせて下さい 国の花だから 私は泣かない

 実は、この唄のことや歌詞は、ブログにアップしてある「戦世と平和の沖縄島唄」の中で、書いている。関心のある方は、そちらものぞいてみてほしい。でも、工工四は持っていなかったので、歌ったことはなかった。歌ってみると、なかなかしっとり情感のこもった曲である。作曲者をみると、川田松夫とある。川田さんといえば、首里の士族と遊女の恋愛を歌った名曲「西武門節」(ニシンジョウブシ)の作者である。
 軍国主義一色の時代の曲だから、軍人を「国の花」を讃えているが、唄の内容は軍人を讃える曲ではない。国の為ということで出征したまま、便りもない彼を思い、夢でもいいから無事であることを知らしてほしいと願う。心配で寂しくてたまらない心情を込めながら「私は泣かない」とけなげに言うしかない。彼女の辛い、切ないい気持が切々と胸をうつ。こういう内容だから、今日でも歌い継がれているのだろう。012_3  写真は三重城(ミーグシク)から那覇港方面を望む風景。戦前、軍人は那覇港から出征していったという。

 この曲と、とても曲想が似ている民謡がある。「軍人節」である。これはサークルの練習曲に入っている。
歌詞を紹介する。
♪無蔵(ンゾ)とぅ縁結(インムシ)でぃ 月読(チチユ)みば僅(ワジ)か 別りらねなゆみ 国ぬ為でむぬ 思切(ウミチ)り 思無蔵(ウミンゾ)よ
♪里や軍人ぬ 何(ヌ)んち泣ちみせが 笑てぃ戻(ムドゥ)みせる 御願(ウニゲ)さびら 国ぬ為
 いちいもり
♪軍人ぬ務(チトゥ)み 我(ワ)ね嬉(ウリ)さあしが 銭金(ジンカニ)ぬ故(ユイ)に 哀りみせる
 母親(ファファウヤ)や 如何(イチャ)がすら
♪例い困難(クンナン)に繋(チナ)がりてぃ居(ウ)てぃん 御心配みそな 母親ぬ事(クトゥ)や
 思切(ウミチ)みそり 思里前(ウミサトゥメ)
♪涙ゆい他(フカ)に 云言葉(イクトゥバ)やねさみ さらば明日(アチャ)ぬ日に 別りとぅ思(ミ)ば
 此(ク)の二人(タイ)や 如何(イチャ)がすら

 歌意を紹介する。
・彼女と結ばれて月日はまだわずかなのに 別れなければならない 国のために諦めてくれ
 愛しい彼女よ
・あなたは軍人 なんで泣きますか 笑って戻ってくださるよう お願いしましょう 国のために
 働いて下さい
・軍人の勤め 私は嬉しいが 銭金のことで苦労する 母親のことはどうするのか
・たとえ困難に陥っても 心配しないで母親のことは 忘れてください あなた様
・涙よりほかに言うことはない さようなら 明日の日に別れと思えば この二人どうなるのか
 私たち二人はこれからどうなっていくのだろうか 
 やはり、軍人になったことは嬉しいといいながら、彼は「国のためだから諦めてくれ」と言い、彼女は「なんで泣きますか 国のため働いて下さい」と送る。しかし、彼女と母は夫の無事を願い、彼は残していく母と彼女の苦労を心配する。「この二人どうなるのか」という最後の歌詞は、男女がいっしょに歌う。母と息子、彼と彼女が引き裂かれる、別れの辛さが歌われる。
 この曲は、普久原朝喜(フクハラチョウキ)の作詞作曲である。ひとつの厭戦歌とも見られている。はじめの頃は、とてもまだ歌うのに抵抗があったが、歌詞の中味をかみしめると、大分抵抗感が薄らいで歌えるようになった。
 というわけで、戦世の唄も何曲かは歌っている。同時に、戦後つくられた平和の島唄も歌っていることはいうまでもない。

 

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