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2011年5月10日 (火)

比謝橋を恨んだ吉屋チルー

 琉球の17世紀に生きた女性の歌人に吉屋チルーがいる。先日、こいのぼりが揚っているのを見に行った嘉手納町の比謝川に架かる比謝橋を恨んだ琉歌が有名である。

 なぜ、橋を恨むのか? チルーは、恩納村の出身で、8歳のとき、家が貧困で那覇の仲島の遊郭に売られた。「吉屋」は、名前ではなく遊郭の屋号である。比謝橋は、読谷村と嘉手納の境に架かっていた。
 「恨む比謝橋や 情ねん人ぬ 我身(ワン)渡さとも思て 掛きてうちえさ」。これは「恨めしい比謝橋よ 情け知らない人が 私を渡そうと思って かけておいたのだろうか」という意味である。写真は、現在の比謝川。

032  チルーは、恩納村山田の生れと伝えられるが、読谷村に行けば読谷出身とも言う。私の推測では、これはどちらも当たっているのではないか。なぜなら、山田の生まれだとすると、山田は昔は読谷山(ユンタンザン)間切だったからだ。間切は現在の町村にあたる。1673年に読谷山と金武(キン)間切の一部を分割して、恩納間切をつくった。だから、山田はそれ以後には恩納になったという。

 それはともかく、チルーが売られたのは、那覇の仲島である。仲島はかつて橋で渡っていた。なぜ遊郭のある仲島に渡る橋ではなく、まだ那覇にははるかに遠い嘉手納の比謝橋を恨むのだろうか? 比謝川を実際に見るまでは、それが疑問だった。でも比謝川を見て、その疑問は解けた。
 沖縄は中南部は、川がきわめて少ない。その中で、比謝川は大きくて深い。恐らく村から外に出たこともない少女にとって、知らない土地の知らない遊郭の世界に売られていく。その不安と辛さはどれほどだろう。そんな気持ちを抱えながら、故郷を後にして大きな川と橋を渡る。恨みを込めて渡った心境がわかる気がした。

041_2_2   上の写真は昔の比謝橋の場所より下流にあたる地点に架かる比謝川大橋

 チルーは、仲島で15歳頃には、美貌と琉歌の才能で評判になっていたそうだ。チルーは、首里の領主階級の士族だった仲里按司(アジ)と恋仲になる。琉歌を愛する若者だ。でも、二人の恋は実らず、チルーは仲島の橋の上から身を投げたと伝えられる。薄幸の歌人である。チルーを歌った民謡がある。「吉屋物語」(小浜守栄作)という。

 「♪あてなしが童(ワラビ) 家庭(チネエ)の困難に 女郎花(ジュリハナ)に落てて 行じゃるいたさ」(物心つかない子どもだが 家庭の貧困のため 遊女に落ちて 行かざるをえなかった)
 「♪仲島ぬ花と 美(チュ)らさ咲きなぎな 詠だる琉歌数に 心(ククル)くみて」(仲島の花とその美しさは咲きながら 琉歌の数々に心を込めて詠んだ)
 「♪琉歌にちながりて 見染みたる里と 想い自由ならん 此ぬ世しでで」(琉歌を通して見染めた愛しい彼と 恋の思いは自由にはならない この世では)
 6番まである歌詞は、当然琉歌であるが、その間に、チルーが詠んだ琉歌を挟んである。「恨む比謝橋⋯⋯」の琉歌もある。110509_091302_1_2
 実はこの琉歌を刻んだ歌碑が、国道58号線沿いの比謝橋のたもとにあるが、まだ残念ながらこいのぼりは見たのに、歌碑を見ていない。そのうち行ってみたい。

 チルーが売られていった仲島は、いまは那覇のバスターミナル付近であり、昔の面影はまるでない。
 ただし、昔からこの場所にあるという仲島の大石が、バスターミナルの一角にある。高さが6㍍、周囲が25㍍もある。左の写真がその大石である。電話ボックスと比べると大きさがわかるだろう。

 大石には、かつて波に浸食されてくぼんだ「ノッチ」という跡がある。それが、昔はこのあたりは海岸であったことを示している。110509_091102_3

 仲島の大石について説明した碑があった。もう文字がかすれて読みにくい。
 この近くで中国系の人々が住んでいた久米村の人からは、村の風水にかかる縁起の良い大石として珍重されていたそうだ。
 チルーのことも記されている。
 「この付近に仲島の遊郭があり、多くの遊人が訪れて賑わっていた。歌人として有名な『よしや(吉屋チルー)』も、この遊郭で短くはかない生涯を終えたと伝えられている」。
 「1908年(明治41年)には仲島の遊郭は辻に合併移転し、大正初年までにはこの付近は埋めたてられ現在に至っている」。

 チルーは登場しないが、仲島そのものをテーマにした民謡がある。文字通り「仲島節」という。
「♪仲島ぬ小橋 あいん有る小橋よ ぢるが小橋やら 定みぐりしゃ」(仲島の小橋はあんなにある どれが約束の小橋なのか なかなか定めがつかない)
110509_091103「♪仲島ぬ小橋 人繁(シジ)さあむぬよ 袖し顔かくち 忍でいもり」(仲島の小橋は 人が頻繁に通るから 着物の袖で顔を隠して 忍んできて下さい)

「♪仲島ぬ小橋 朝夕音立ててよ 恋の往来(オウレエ)ぬ 首尾ゆ聞かち」(仲島の小橋は 朝夕に音を立てて人が通る 恋の往来の首尾はどうなったのか聞かせて)

「♪例い仲島や 音絶いて居てんよ いちゃし忘りゆが 恋ぬ小橋」(たとえ仲島の評判が絶えてしまっても  どうして忘れられようか 恋の小橋を)

 こんな歌詞である。文字通り小橋を中心に恋模様を描いた歌である。なかなか味のある歌なので、毎日弾いている。
 写真は、仲島の大石の下にある拝所。 

 仲島といえば、先日浦添市美術館で葛飾北斎の「琉球八景」を見た。この中に、仲島の風景が描かれて、この大石も描かれていた。ただ、北斎は、琉球に来たことはないので、中国から琉球に来た冊封使の書いた本の絵を参考にして、描いたものだ。だから、雪が積もった風景もある。北斎らしい達筆ではある(下)。

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 ついでに、那覇にあった遊郭について紹介しておきたい。
 尚貞王の時代、1672年に遊郭が王府によって公認されたそうだ。
 それで17世紀以来、西村の辻、東村の渡地(ワタンヂ)、泉崎村の仲島が遊郭としてあった。遊女は、どれくらいいたのだろうか。1890年(明治23年)の数字では、辻には1000人、仲島には349人、渡地には110509_091202 225人がいたという(新屋敷幸繁著『沖縄県史物語』)。
 それが先に書いたように、仲島と渡地は辻に合併移転されたという。だから那覇の花街といえば、辻となっていった。

 というわけで、本島で歌われる恋歌は、とにかく遊女と士族をめぐる民謡が多いのである。
 右写真は、仲島の大石の上にも、何か拝所のようなものがあった。確かめられなかった。
 

 

  

              

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コメント

 比謝橋を渡って遊郭に売られた女性はチルー以外にもいたでしょうけど、彼女が名を残したのはやはり琉歌をたくさん詠んだからでしょうかね。その人生があまりにドラマチックだからでしょうか。「仲島の小橋」ってたくさんあったんですか。「仲島節」の1番で「仲島の小橋はあんなにある どれが約束の小橋かわからない」ということは仲島の遊郭に渡る橋がたくさんあったということですよね。
仲島の大石ですが、なんで一つだけ残ってるんでしょう。昔あのあたりが海だったら、もっと大石があってもいいと思いますが、どけられたんですかね。フンシー上縁起がいいからあれだけ残ったということなんでしょうか。
「吉屋物語」って、歌詞を読むと芝居になってもよさそうな内容ですね。

 山原から家庭が困窮して遊女に売られた女性はたくさんいたので、比謝橋を渡って行った人も多いでしょう。チルーの名前が有名なのはその琉歌が優れているからでしょう。なにしろ、チルーは、恩納ナビーとともに琉球を代表する2大女流歌人なので。歌風はまるっきり正反対ですけれど、二人とも恩納の出身というのも偶然ですね。
 仲島に架かる橋がいくつあったのか知らないけれど、約束した橋がわからなくなるほどだから、すくなくても3つぐらいはあったでしょうか?
 仲島の大石は、昔から一つでしょう。浜比嘉島の海岸などに行っても、よく下部が波で削られて大岩がありますね。でも海岸だからたくさんあるわけでもないでしょう。なんか、石垣島の津波岩を思い出しますね。民謡の「吉屋物語」は、曲そのものが吉屋の生涯を歌った物語ですから、そのまま脚色すれば、芝居になりそうですね。

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