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2011年5月30日 (月)

国頭にある木遣り歌

 国頭村安田(クニガミソンアダ)のシヌグ祭りのことを書いた。山に依存した暮らしだったという。安田のあたりは、海岸近くまで山が迫り、水田は少なかった。海の幸は豊富だが、昔は魚を獲っても、食糧として食べるのが主目的である。安田の産業は山が中心だったという(宮城)鉄行著『国頭村安田の歴史とシヌグ祭り』)。

 山の仕事といっても、鋸が入ったのは比較的新しい。昔は、山男たちは、山の中で角材に適当な木を探し、山原オノで伐り倒し、オノで丸木をはつって立派な角材に仕上げた。角材に仕上げた方が、運び出すのに軽くなるからだという。068

 琉球王府にとって、山原(ヤンバル)の森林は、建築材や造船、薪炭用など重要な資源だった。だから山原の間切(今の町村)の番所(役所)や村(今の字)の村屋には、無数の山役人が置かれていたという。安田には、詰山筆者(ヤンピサ)はじめ数人の山当、山工人、山師などがいて、山の管理、保全にあたった、と宮城氏は推量している。
 有名な木こりの唄がある。「国頭(クンジャン)サバクイ」という。「サバクイ」(捌吏)とは、間切の上級役人のこと。ここでは、山の管理にあたった役人を指すだろう。
「♪サー首里天加那志(シュイティンジャナシ)のヨイシーヨイシー、サー御材木(ウゼムク)だやびる サーハイユエーハーラーラー サーハイガヨイシー サーイショショショーショ イーイヒヒヒーヒ アーアハハハーハ」(首里の国王様の御用達の材木だよ)
「♪国頭捌吏(サバクイ) 御嶽(ウタキ)の前(メー)から ハヤシ同じ」(国頭の番所のお役人の指図で 拝所の前から)
「♪名護山かしじゃ重(ンブ)さぬひからん ハヤシ」(名護山の樫の木は重いので引けない)
「♪御万人(ウマンチュ)まじりや みな肝揃(チムスル)とてぃ ハヤシ」(万人の間切のみんなで心を一つにそろえて)
 首里王府の御用達の材木を、役人の指図のもとに、村の住民らが総がかりで運ぶ様子がうかがえる。やんばるの広大な森から材木を伐り出し、角材などに加工して、運搬して船に積み、与那原の港まで運ぶ。そこから首里王府まで運ぶ一連の作業は、たいへんな重労働だったのだろう。
 沖縄の民謡は、作業をするさいみんなで歌う作業歌は少ないが、この唄は珍しく作業歌である。みんなが歌いながら作業すれば、つらい労働も少しは軽く感じたのだろう。とってもテンポがよい。ハヤシが他の民謡とは少し違い、独特である。いまでは、国頭、山原だけでなくいろんな場所で歌われる。
 写真は、海人(ウミンチュ)の街・糸満市の大綱曳きで、「国頭サバクイ」を踊る若者たち。071

 この唄は、実は本歌がある。「奥間の国頭捌吏(サバクイ)」という。
「♪国頭捌吏(サバクイ) 酒飲み捌吏(サバクイ)」(国頭間切の役人 酒飲み役人)
「♪国頭山から出じたる御材木」(国頭の山から伐り出したお材木)
「♪北の御殿(ウドゥン)の御材木だやびる」(北の御殿のお材木である)
 ーー略ーー
「♪美童(ミヤラビ)、若者肝(チム)てぃーちあわしば」(乙女、若者が心一つに合わせれば)
「♪肝一つ合わせしば片時どや」(心一つに合わせれば短時間だぞ)
 いかにも、材木を運び出す作業は、重労働だけれど、みんなで心を合わせてやれば短い時間でできるぞ、と歌っている。首里の国王を讃えるような内容はない。
 いかにも、大木を大勢で運ぶときに歌った仕事歌、木遣り節である。歌詞の内容から、こちらの方が本歌の感じがする。

 さて、この唄にもあるように、国頭の木材は、首里・那覇の都市部にも運ばれた。そのためには、船が重要な運搬手段だった。昔は、間切や村に共有船があったそうだ。
 「貢納品の運搬は地船が利用された。これは村で造ったようで国頭間切の各村内法には共有船があり⋯⋯安田と安波の分は与那原経由首里蔵に納められた」(『国頭村史』。引用は『安田の歴史とシヌグ祭り』から)。

012               安田にあった拝所。何を祀っているのか分からない。

 船といえば山原船が有名だが、実際につくられたのは1700年代に入ってからで、それ以前は地船といわれる船だった。首里王府から間切、村ともこの地船の所有が義務付けられていたという。
 安田など国頭村の東海岸は、「陸の孤島」と呼ばれたが、でも船の航海から見ると、陸路で行くのとはだいぶ違う感じがする。沖縄本島はゆるい「く」の字型に少しだけ湾曲している。だから、「く」の字の左、つまり西海岸周りは、本部半島も突き出しており、かなり遠い。でも、右側の東海岸回りは、意外に西海岸周りより距離が近い。
 これは、日本列島も同じである。日本列島は「く」の字の逆に湾曲している。だから日本海側を船で航海すると近い。昔は北前船が、北海道の松前や東北の秋田などから京都に走ると、太平洋側よりはるかに近かった。秋田には京都の文化が入っていた。
 国頭と首里・那覇は海路でつながっていた。首里に近い与那原や中部のうるま市平安座島(ヘンザジマ)には、いつも山原船がたくさん入港していたという。山原の人たちは、材木を運んだ帰りの船で、生活物資を買い入れ運んだという。
 もう「国頭サバクイ」とは、関係のない話にそれた。国頭村安田に行ったので、山原の森林や山原船に興味をもっただけである。 

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コメント

奥間を走っていたら、助手席側にサバクイの碑がありましたよ。「あ、碑があった」って言ったのに聞こえなかったようですね。以前琉球新報の地方の欄に載っていた記事で、国頭が琉球王府に材木を納めていた地であるというなかに、たしかそれにまつわる逸話があったような。優秀な木こりが王府に認められて役人に昇格した、とかいう・・・。よく覚えてません。サバクイの唄ができた逸話があったはずです。それも碑を見ればわかるんだけどなあ。ところで、毎年糸満ハーレーの道じゅねーでサバクイ踊ってるの見るけど、なんで海人の街で木こりの踊りするんでしょうねえ。

 国頭サバクイの歌碑があったのには気がつかなかった。残念ですね。奥間にあったのなら、奥間の唄が本歌といわれているから、この場所がやっぱりふさわしいんでしょう。次に奥間に行った際は、見てきましょう。
 海人の糸満でなぜ、木こりの唄か不思議ですね。この唄は国頭だけではなく各地に広まった。リズム、掛け声が普通の沖縄民謡とちょっと違い、独特ですが、軽快でテンポがよいので、若者が面白い恰好をして踊るのに、好まれるのかもしれませんね。

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