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2011年6月

2011年6月29日 (水)

反戦島唄の傑作「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」

 平和を願う沖縄島唄の中で、屈指の傑作に「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」がある。歌詞の内容は知って、「戦世と平和の沖縄島唄」の中でも取り上げた。なんとか、歌えるようになりたいと思い、最近は毎日練習をしている。ようやくなんとか歌えるようになってきた。
 といっても、歌詞のウチナーグチ(沖縄語)がなかなか難しい。それに旋律も特異で、通常の民謡の2倍くらいあり長い。それで悪戦苦闘してきた。
 お手本にしているCDは、民謡グループの「でいご娘」の歌である。この強烈な反戦民謡は、歌い手のイメージが男性歌手を頭に描いていて、「なぜ、でいご娘なのか」との思いがあった。
 その疑問を解く記事が「琉球新報」2011年6月29日付に掲載された。

Photo_2 つまり、「艦砲ぬ⋯⋯」を作った比嘉恒敏さんの娘さん4人で結成したのが、「でいご娘」。その長女でメンバーの1人が、島袋艶子さんだったのだ。いま北谷町栄口自治会長でもある艶子さんは、お父さんの遺作となったこの曲を一人でも歌い継ぎ、平和の尊さを発信しているという。

 この曲を作った比嘉恒敏さんという人物と作曲の背景など知りたいと思っていた。この記事によって分かった。それにしても、この曲の背景と比嘉さんの体験と運命は凄まじい。残酷でもある。
 比嘉さんは、沖縄戦で父と長男は、学童疎開船「対馬丸」とともに沈んだ。翌年には妻と次男を空襲で亡くした。結局、6人もの家族を失ったという。戦後、読谷村出身のシゲさんと再婚し、艶子さんら子宝に恵まれた。
 比嘉さんは、歌が好きで、各地でお祝いごとがあるたびに三線を持って駆け付けた。それが「でいご娘」が生まれるきっかけにもなったという。1971年ごろに作ったのが「艦砲ぬ⋯⋯」の歌だった。その後、この曲は県内でとてもヒットしたという。

 でも幸せな日々は長く続かなかった。沖縄が本土復帰した翌年の1973年10月、比嘉さん夫婦が乗った車両に、米兵の飲酒運転の車両が突っ込み、妻のシゲさんは即死、恒敏さんは4日後に亡くなった。まだ56歳の若さだった。
 なんという悲劇だろうか。この曲で歌われているように、「あなたも私も艦砲射撃の喰い残し」。つまり、激しい艦砲射撃と激戦の中で、家族を6人も失いながらも、生き残った命だった。だからこそ、無念にも亡くなった家族やたくさんの県民の声なき声を代弁して、平和の島唄「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」が作られた。それにもかかわらず、米兵の無謀は飲酒運転で、生き残った命まで奪われるとは、あまりにも理不尽すぎる。010               艦砲射撃など砲弾の破片

 でも、艶子さんは「父が大事な歌『艦砲⋯⋯』を残してくれた。悲劇を経験した父が平和のありがたさを伝えたかったと思う」(同記事)と語っている。6月22日にも、北谷小学校で開かれた平和学習会に艶子さんも参加し、三線を弾きながらこの曲を歌い、平和の尊さを語ったという。
 「艦砲ぬ⋯⋯」の歌詞は5番まである。8886字でつくる琉歌ではなく、75調の歌詞である。戦争の時代を生きた人ならではの強烈な平和のメッセージが込められている。訳文で紹介したい。
「♪若い時は戦争の世 若い花は咲くことができなかった 家の先祖、親兄弟も艦砲の的になり 着る物食べ物なにもない ソテツ食べて暮らした ※あんたも私も艦砲の喰い残しだ」
「♪神も仏も頼りにならない 畑は基地に囲われ 金にはならない 家は風で吹き飛ばされ 戦果(米軍物資を持ちだす)担いでしょっ引かれ ひっくり返されもてあそばれて 心は誠実だったのに ※繰り返し」
「♪泥の中から立ち上がって 家族求めて妻をめとり 子どもが生れ毎年生れ 次男、三男カタツムリみたい 苦労のなかでも子どもたちの 笑い声を聞き心を取り戻す ※繰り返し」
「♪平和になったから幾年たつか 子どもたちも大きくなっているが 射られたイノシシがわが子を思うように 戦争がまた来るのではと思って 夜中も眠れなくなる ※繰り返し」
「♪わが親を奪ったあの戦争 わが島を破壊したあの艦砲 たとえ生まれ変わっても 忘られようか 誰があのような戦争を強いたのか ああ恨んでも悔やんでもあきらめきれない このことは子孫末代まで遺言してしっかり伝えなければならない ※繰り返し」
 

2011年6月27日 (月)

恩納村の史跡を見る

 恩納村には、古くからの暮らしと民俗、歴史を025 知る史跡がたくさんある。その一部だけれど、恩納区でいくつか見て歩いた。
 「琉歌の里」のところで紹介したのが、恩納間切(今の町村)の恩納村(今の字にあたる)にあった番所(役所)跡である。 いまは駐車場になっていてなにもない。それより恩納ナビの歌碑の方が目立っている。
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 番所跡の説明板に掲示されている絵(左)で当時の番所の様子をしのぶしかない。

 番所から歩いて数分のところに、いろいろ由緒ある史跡がある。立派な恩納区体育館の敷地の一角に、神アサギがあった。恩納区の神アサギは、前に見た国頭村安田(アダ)の神アシャギのように、昔ながらの茅葺屋根である。009  神アサギとは、神をまねく場所だ011_2 そうだ。五穀豊穣や村の繁栄を願い、豊年祭など行われたという。聞くところによると、神アサギは、それだけでなく、ムラ・シマ(地区)の貢租(穀物)を集積する倉庫のように使われた。
 安田のアシャギを観た時にも、不思議だったのは、軒先が低いことだった。アサギの中に入るにも頭をぶつけるほど低い。なぜこんなに低くしているのだろうか、と疑問だった。でも、それには理由があった。穀物を集積するため、馬や牛が首を突っ込まないように、軒を低くしたそうだ。

 中に入ると天井は高い。面白いのは、この神アサギは柱が木ではなく、石で造られていることだ。 012

 とても古い石材のように見える。でも、もう一つ不思議なことに、この神アサギは村指定の有形民俗文化財には入っていないようだ。ほかにいろいろ有形民俗文化財があるのに、なぜだろうか?

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 古くから恩納区の人々の生活に欠かせない石造りの湧水「カンジャガー」があった。産井(ウブガー)として利用されたという。
 琉球王府の時代から、正月の村拝みのときは、村の有志が揃ってヌン(祝女)殿内(ドゥンチ)、マータンカー、赤平家、カンジャガーを拝む習わしがいまも続いているという。いずれも、祈願の対象になるような由緒ある場所なのだろう。
  カンジャガーは鉄柵で囲われている。中を見るときれいな水を湛えていた。なかった。
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 ヌン殿内があった。でも説明するものは、何もないからよく分からない。

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 このあと、恩納ナビービーチに行った。そこに村内の観光地図が出ていた。その中に、「ウドゥイガマ」と呼ばれる村指定文化財があることがわかり、そちらに向かった。
 これは断崖の景観が素晴らしい万座毛(マンザモウ)に続く、海岸の西側の岩場にある洞穴である。034

 車で探して走ったが、道がわかりにくい。ちょうど歩いていたおばさんに尋ねると、「ああ、ウドゥイガマなら、この先の十字路を右に曲がり、行った先だよ」とすぐ分かった。それだけ地元の人には有名だろう。
 ただ、入り口は左写真のように、林の中に標柱がたっていた。見落としそうだ。林の中の道を歩いて行くと、ポッカリと洞穴が口を開けていた。035

 右写真は、海岸への出口である。洞穴の中は面積80㎡、高さ4mもある。ここでなにをしたのだろうか? とても意外なことに使われていた。名前の由来の通りである。伝統芸能の組踊の練習に使われたのだ。
 沖縄では、村や字で組踊を上演する伝統がある。組踊は、歌三線と踊り、芝居の総合芸能である。 組踊を演じる村の人たちが、この洞穴で数日間、寝食をともにして練習に励んだ。「村あしび」という、お祭りのような楽しみの際は、この洞穴から、旗竿の先に大きな飾りを付けた旗頭(ハタガシラ)を先頭に、衣装をまとい、区内を練り歩く「道じゅねー」に出発していったという。036  洞穴は、奥の部分が少し平らになり、そこに地謡(ジカタ)という歌三線の演奏者が座り、その前で演技や踊りの練習をしたという。現在は、この洞穴では練習していないが、踊りを奉納しているそうだ。恩納村内には、このようなウドゥイガマが数か所ある。なかでもこの恩納区のウドゥイガマが最大だという。
 集落の中に、伝統芸能を練習する洞穴があるというのがスゴイことだ。組踊をいかに村民が熱心に練習して、演じていたかがわかる。「芸能の島」といわれる沖縄の真骨頂の一端がここに見えるのではないだろうか。

2011年6月25日 (土)

恩納ナビ・琉歌の里を歩く

 恩納村といえば、「琉歌の里」を標語としている。なにより、18世紀に活躍した琉歌の二大女流歌人の一人、恩納ナビの生まれたところである。恩納村の中でも、その中心である恩納区を歩いた。001 恩納ナビ誕生の地の碑があった。ナビが生きた時代は、琉球文化の黄金時代とも呼ばれ、庶民の間でも琉歌が流行ったという。007 「恩納村の美しい自然の中ナビーは、自由奔放かつ大胆な歌を数多く残しました」と説明文にも書かれていた。近くの昔の番所(役所)跡そばに有名な琉歌の歌碑がある。

  020_2 「恩納松下に 禁止の牌のたちゆさ 恋しのぶまでの 禁止やないさめ」。その意味を解説した真新しい碑がそばに建てられていた。

  019_2 恩納村の役所の前の松の木の下に、いろいろと禁止すると書いた立て札が立っているが、恋をしてはいけないとは書いていない、だから若い者は恋をするのになにも恐れることはない。こんな歌意である。
 この立て札には背景がある。琉球王府時代、尚敬王が国王として中国皇帝に認めてもらう冊封を受けるため、琉球に来ていた有名な徐葆光(ジョホコウ)が北部に旅をしてくるのに恩納が宿泊予定地だった。若者が夜ごと野原に集まり、歌い踊る「モーアシビー」が盛んだったけれど、風紀を乱すものだからと「モーアシビー」を禁止する立て札を出したのだ。018
 当時、庶民に君臨する王府の命令は絶対であったはずだ。それを「恋まで禁止とは書いていないから、大いに恋をしよう」と歌うのは、なかなか勇気がいることだろう。ナビの自由奔放な精神と恋への燃えるような思いが感じられるスゴイ琉歌である。
 この琉歌で歌うのが「恩納節」(ウンナブシ)である。古典の名曲である。私の行っているサークルでも、覚えておく必要がある古典5曲を毎回練習するが、その1曲に入っている。
 歌碑は、この琉歌のように番所前の松の木の下に建立されている。当時の番所の様子を表す絵が看板に示されていた。023  恩納ナビの歌碑は、もう一つ、近くにある万座毛(マンザモウ)の入り口にもある。ちょうど万座毛の駐車場に入る手前に、碑がある。それも正確には2つある。028  この道を入ると、正面と右側の二か所ある。029 「波の声もとまれ 風の声もとまれ 首里天かなし 美御機(ミウンチ)拝ま」。波の音も静まれ 風の音も静かになれ 今私が国王様のお顔を拝しご機嫌を伺うのですから、というような歌意である。この琉歌は、1721年に国王一行が北山巡行で万座毛に立ち寄った際、農民百姓が国王の行列を拝することができた、その時にナビが詠んだと伝えられる。
 030 もう一つある歌碑が、右写真のものである。この裏面に、やはり同じ琉歌が彫られている。万座毛に立ち寄った際、詠んだので、この場所に建てられたのだろう。
 「波の声もとまれ 風の声もとまれ」という表現が、とても素晴らしいと思う。
 ナビの琉歌は、女性であるけれど、表現がとても大胆である。
 さきの「恩納松下⋯⋯」の琉歌では、王府の命令も気にしない勇敢さがあったが、こちらは逆に国王を歓迎する気持ちが表現されている。

 ナビの琉歌でもう一つ、とても名高い作品がある。こちらは歌碑がないようだ。
「恩納岳あがた 里が生まり島 森んうし除きてぃ くがたなさな」
 恩納岳の向うは 愛する彼が生まれた故郷である 森を押しのけて 間近に引き寄せようか、という歌意である。
 森も押しのけて彼氏を引き寄せたいとは、なんという激しい情熱だろうか。私的には、琉歌としては、ナビの最高傑作だと思う。

 恩納村を歩くと、ナビのマスコット的な漫画がいたるところに使われている。こんなところにも、ナビが住民に愛されていることがよく分かる。それに、住民にとって、琉球を代表する歌人は、誇りにもなっているようだ。
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2011年6月23日 (木)

山田真山の制作した沖縄平和祈念像

 糸満市摩文仁(マブニ)にある沖縄平和祈念037 堂を初めて訪れた。何回も「平和の礎」は訪れているのに、この祈念堂には入っていなかった。お寺ではないが、 入り口には梵鐘がある。039_2       

 祈念堂を訪れたのは、平和祈念像を観るためである。沖縄出身の山田真山画伯が18年の歳月をかけて制作した。044_2  日本画と彫刻を専攻した画伯は、中央で活躍していたが、1940年に沖縄に帰り、沖縄戦を体験し、長男と三男を亡くした。2度と戦争を繰り返してならないと平和への悲願をこめて1957年、この像の制作を発表した。県内の小中高生や多くの県民がカンパして応援したという。050_2 山田さんが独力で取りかかったのは、すでに72歳の高齢。像の原型が完成した時には90歳だったというから驚くべきエネルギーである。平和への情熱があればこそだろう。
 「この像には画伯の平和への執念が深く刻まれています」と祈念堂の栞にも記されている。046 像は高さ約12㍍、幅約8㍍の人間の祈りの姿を象徴した座像である。仏像の姿であるが、宗教や思想、政治や人種を超えて、戦没者の慰霊と平和の一点に力を合わせていこうということを、10本の指を合わせた合掌の形に表現しているという。

 この像は、沖縄の風土が生んだ独特の伝統的な漆(ウルシ)の工芸技法でつくられ、3・5トンもの量を使って、漆そのものでつくりあげたそうである。
 毎年、慰霊の日を迎える前に、県内のバスガイドのみなさんが、ボランティアでこの大きな祈念像を手作業で汚れをぬぐい、清めている。先日もその模様がテレビで放送された。この像が山田画伯の熱情と県民のみんなの支援で、生れて、支えられていることを感じる。047

 像の足元には、県外の中高生らが修学旅行で沖縄に来て、持ってきた千羽鶴や、千羽鶴で描いた絵などが、ぐるりと飾られている。
 右の写真は、岡山県赤磐市の中学生が作った千羽鶴による平和祈念堂を描いた絵である。

 平和記念堂は、堂内に800人を収容できるので、修学旅行で訪れる高校生などによる平和学習や各種団体による慰霊行事も盛んに行われているという。

 像の頭上には、群星(ムルブシ)が見えるから、仰いで見てほしいと説明がある。

059 無限に広がる宇宙空間の中に神秘的な像を表現するためだという。写真では、残念ながらかすかにしか見えない。

 ただし、この像を観るだけで、参観料が大人一人450円というのは、この種の料金としては少し高い。でないと、県民や観光客でも気軽に入りづらいのではないか。そんな印象があった。

 

 祈念堂の裏には、清ら蝶園がある。国内最大の蝶といわれるオオゴマダラを飼育しているという。064  蝶はギリシャ語でプシュケといい、魂のことをさす。プシュケ(魂)が、戦没者を追悼し、世界平和の実現を祈る平和祈念像の使者として、訪問者を迎え、無言のうちに命の尊さと平和の大切さを訴えるという意味あいをこめているそうだ。066  オオゴマダラは、黄金色のさなぎから羽化することで知られる。園内には、すでに羽化した抜け殻があった。羽化する前だと、とても神秘的であるが、少し残念だった。それにしても、もう少しオオゴマダラがたくさんいるとよいのになあ、という思いが残った。

2011年6月21日 (火)

新緑よみがえる

 台風2号で、沖縄の街路樹も公園の樹木も山の木々も塩枯れしたことを書いた。それ以上に農産物の被害は甚大だった。002
 でも、いまそれらの樹木たちに新緑がよみがえってきた。萌えるような若草色というか、鮮やかな薄緑色に樹木たちがおおわれている。
 まだまだ、塩枯れした茶色の枯れ葉もたくさんついたままの木々もある。でもそれ以上に、枯れ葉の上に、新緑が芽吹いている。

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 沖縄の新緑の季節といえば、本来は3月である。常緑樹がほとんどだから、大和の冬に落葉する木とは異なる。でも、多くの木が新緑に彩られた。本来なら、梅雨が明け、くそ暑い夏になれば、色濃い緑の葉になっている頃だ。
 それが台風のために塩枯れしてしまった。はたして、今年木々の緑は再生するのだろうかと不安にかられた。でも、やっぱり南国の樹木たちはたくましい。デイゴもクフヮディーサー(コバテイシ)もホウオウボクも見事な新緑がよみがえった。塩枯れが一転して、新緑に彩られると、心がすがすがしくなる。
 新緑の写真は、実は3月のものだ。これと同じ状態がいま再現している。

 ただし、農産物は、夏の野菜類が出荷のシーズンだったゴーヤー、ヘチマ、トーガン(冬瓜)、モーウイ(赤瓜)、オクラなど、大被害を受けた。近くの農協のハルサー(野菜の直売所)に行っても、売り場は閑散としている。売る野菜類がとれないのだ。ビニールハウスが吹き飛ばされているから、回復も容易ではない。スーパーとかにゴーヤー、ヘチマなど多少あっても、高値が続いている。ウチナーンチュにとって、ゴーヤー、ヘチマ、トーガンなどなければ日々の食事に困るほど、絶対に欠かせない食材である。早く安くて美味しい県産の農産物が出回ることを願わずにはいられない。

2011年6月19日 (日)

那覇の薬師堂にこだわる

 那覇の薬師堂にこだわっている。民謡の「恋の花」で歌われる薬師堂は地名を指すことはわかった。「♪波之上に行こうか、薬師堂に行こうか、なれた薬師堂がいいね」と歌われる。
 地名だとしても、その由来があるはずだ。『琉球国由来記』に記載されていることを「薬師堂は実在した」でアップした。

 薬師堂はその昔、海中から引き揚げられた石像の薬師如来を奉り建立され、東光寺を建てたと記されていた。
 問題は、薬師堂があった場所の特定である。別の資料で、現在の東町会館の奥にあったと書いた。もう少し詳しく知りたいと思い、図書館で資料を見てみた。
 『那覇市歴史地図』に、寺の記載があった。
 尚泰久王代というから1450年代になる。薬師堂を本尊として渡地(ワタンジ)先の海中の小島に東光寺が建立された。1672年に那覇の若狭に移し、1682年、泊(トマリ)の頂峰寺に移ったと伝えられる。その場所が地図に記されていた。

 ちなみに『沖縄県の地名』によると、薬師堂があった場所は、かつては東村(ヒガシムラ)である。西村とともに那覇の中心だったという。東村は「公官衙や寺院・商家、士や町百姓の家が密集していた」、そして「村の中央を南下する東道の両側に町屋(商家)が立並んでいた。東道の突当りには薬師堂があり、渡地村への思案橋が架けられていた」という。
 かなれ、にぎわっていた場所のようだ。ただし、1672年に、若狭に移されたというから、この地に薬師堂があったのも300年以上も前のことになる。

Photo_4 Photo_3 友人から薬師堂跡と記された地図をいただいた。これで場所が確定した。

 薬師堂は移されても、薬師堂の地名は残り、「恋の花」に波之上とともに薬師堂と歌われたのだろう。これで、歌詞に歌われた薬師堂への疑問は氷解した。

 

追記
「琉球国由来記」には、巻8の「薬師堂旧跡」とは別に、巻11に「頂峰院」の項があり「頂峰院薬師如来」の由来が記されている。これは、先に紹介したように、最初の渡地先にあった薬師堂と東光寺が、のちに若狭に移り、さらに泊の頂峰院に移ったと記されているので、由来は同じである。
 ただし、最初の書きだしで、薬師如来が見つかったいきさつについて、次のように記している(訳文)。
 「天順年間(1457ー1464年)、那覇の東南の海中に夜照り輝く12の霊光があった。先王である尚泰久が城の中からこの光を見て、奇異に思って占いをさせた。占った人は言うのに薬師如来の霊光であった」。この後は、漁師が引き揚げたら石像の薬師如来だったという、前に紹介した由来が書かれている。
 尚泰久が首里城から見つけたというのは、いかにも不自然だ。この部分は、あとで脚色されたものではないだろうか。「薬師堂旧跡」で書かれたように、「海中による光る物があった。人みな奇異に思った。ある時漁師がこれを網で引くと、石像の薬師如来が網にかかって出てきた」という記述が、もともとの由来だろう。
 ただし、薬師如来が見つかり、薬師堂と東光寺が建立された時期が、第一尚氏の尚泰久が国王の年代だったことが確認されることに、意義があるだろう。尚泰久の代に創建されたとなれば、500年以上も昔になる。「琉球国由来記」が編纂された時代より、150年ほども前になるからである。

2011年6月17日 (金)

やっぱり怪しいオスプレイの安全データ

 米海兵隊が、2012年に普天間基地に配備する方針の垂直離着陸輸送機МV22オスプレイの事故発生率などのデータが防衛省から発表された。このデータはなにやら怪しいと思っていたら、「沖縄タイムス」6月15日付に、興味深い解説記事が掲載されていた。
 防衛省の発表では、10万時間当たりの事故率はオスプレイМV22は1・28件で、更新対象のCH46ヘリコプターの1・37件を下回っているという。でも、こういうデータは、計算の基礎になる条件をどう設定するのかで、数字は大きく違ってくることが常識だ。素人は、怪しい臭いがしても、その基礎的な条件がどうなっているのか、分からなかった。
 「沖縄タイムス」の記事によると、一つは、オスプレイの事故発生件数は、運用導入後、つまり2004年以降に限定されているという。この結果、初期に起きた1991年の試作機事故や、92年の事故、2000年の2件の事故は除外された。
 さらに、米空軍仕様のCV22も除外されている。このため空軍のオスプレイが2009、10会計年度に相次ぎ起こした2件の重大事故も対象外とされた。判明しているだけでも、合計6件の事故は計算から省かれている。        003_2

  写真は配備が計画されているМV22オスプレイ(「琉球新報」紙面から)

 2002年5月以降は、7万飛行時間以上でМV22の死亡事故は起きていないという。 
 私見によれば、事故発生率を低く算出するため、重大な事故が相次いだ開発段階、初期の生産段階を除外し、「運用導入後」と限定したのではないかという疑念を持たざるをえない。重大事故が起きていない期間に限定すれば、事故発生率が低くなるのは当たり前である。
 防衛省は、空軍のオスプレイを除外したことについて「海兵隊のМV22と仕様が違う」と説明している。この点について「沖縄タイムス」記事は、次のように反論している。「米側資料によれば、海兵隊と空軍のオスプレイは基幹部分を含め9割が共通しており、なぜ除外したのかの合理的説明が必要だ」。当然の指摘である。
 こういう計算の場合、開発段階の事故は含めないのが通常なのか?それも大きな疑問だ。そんなことはないだろう。
 この点でも「沖縄タイムス」記事は、09年の米西海岸配備に関する環境影響評価最終報告書では、開発段階も含む事故率が示されているという。
 開発段階も含めたH46(CH46や海軍仕様などの全タイプの総称)の07会計年度までの事故率は5・87だという。オスプレイの場合、運用前段階も考慮に入れた07年度までの事故率は11・43であるという。
 運用前段階を含めるか、除外するかで事故率は天と地ほどの差があるではないか。、
 同記事は、結論として「これで現在のCH46と比較しても安全だと言えるのか」とのべている。
 防衛省が示す「静かで安全」というデータは、結局このように、恣意的に算出されたデータだと言わざるをえない。いくらこのようなデータを示して説明しても、沖縄県民はとても納得しないし、オスプレイの配備に反対する声を抑えることもできないだろう。

2011年6月16日 (木)

薬師堂は実在した

 有名な民謡「恋の花」(クイヌハナ)の中に「薬師堂」が登場することをめぐって、これは何を意味するのか、私見を書いてきた。いくつかの解釈があったが、有力な史料を見つけたので、紹介したい。

 その前に、「恋の花」で歌われている薬師堂の歌詞は、「♪波之上に行こうか、薬師堂に行こうか、なれた薬師堂に行こう」という部分である。この薬師堂の解釈をめぐる諸説を振り返っておく。
その1。「薬師堂」は実在しない、架空のことを歌っている。
その2。「薬師堂」という沖縄芝居があったので、芝居に行こうという意味ではないか。
その3。「薬師堂」という地名があった。ジュリ(遊女)を連れて遊びにいくような場所だった。
 知り合いのおじい、おばあに尋ねたかぎりでは、どうも、最後の地名説が一番あたっている感じがすると書いた。
 しかし、「薬師堂」という地名があったということは、もともとその地には薬師堂が実在したのではないか、という疑問があった。疑問を説くのには、古い拝所、寺など記した文献にあたるのが一番だ。それで『琉球国由来記』をめくってみた。これは、1713年に首里王府の手で編集された。この中の「那覇由来記」の項に、「薬師堂旧跡」と記載されている。かいつまんで意訳して紹介する。

 当初、那覇東南の海中で夜光る物があった。人は皆奇異に思った。ある時、漁師が網で引きあげると、石像の薬師如来が出てきた。ただごとではない。如来の威光であると、この霊験の地に土を築いてお堂を建て、薬師如来を崇奉した。寺を造り、東光寺と称し住僧がいた。寺と那覇との間、海中に橋をかけていた。のちに海中を埋めて大地と一つにつながった。090               波上宮の本殿

 このように記されている。東光寺には覚遍座主が住寺したが、康熙11年(1672)に寺地を俗家に売却し、若狭町松尾の麓の地を賜って堂宇を建立した。寺院が造営される前に覚遍が亡くなり、弟子もいなかった康熙21年(1682)、薬師如来を頂峰院に移した奉られたという。
 『琉球国由来記』によれば、薬師堂は実在したわけである。ただし、300年ほども昔のことだ。この史料でも、すでに「薬師堂旧跡」とされている。でも、薬師如来が他の場所に移されたあとも、この地がその由来から薬師堂と呼ばれたのだろう。少なくても架空ではない。
 この地は、いまでは米軍の那覇軍港の一角になっているそうだが、かつては沖縄芝居の舞台になるように、遊びに行く知られた場所だったのだろう。民謡の「恋の花」も、士族と遊女の関係が歌われている。だから、歌詞はやはり「波之上に遊びに行こうか、薬師堂に遊びに行こうか、なれた薬師堂がいいね」という意味になるだろう。
 これで、「薬師堂」とは地名であることが確かめられたと思う。

追記
 ブログを読んだ知人が、薬師堂についての資料を送ってくれた。それによると、薬師堂のあった場所は、那覇市東町の東町会館の奥の付近だっという。那覇軍港の一角というのは間違いのようなので訂正しておきたい。

2011年6月15日 (水)

八重山の哀歌にうたれた岡本太郎

 岡本太郎の生誕100年ということで、さまざまな取り組みがある。岡本太郎は、1959年に初めて沖縄を訪れ、沖縄文化について、独自の見解をのべるなど、深いかかわりがある。
 県立博物館・美術館では「生誕100年記念展 岡本太郎と沖縄」を6月26日まで、開催中である。
 岡本太郎は「日本を代表する前衛芸術家」「沖縄に大変縁の深い芸術家」として、1959年前後の芸術活動に焦点を当てた企画である。
 ただ、彼の芸術全体に興味があるわけではないので、見に行ってはいない。
 彼は、神の島と呼ばれる久高島に行ったさい、島の「後生(グソウ)」と呼ばれる風葬の地に入り写真を撮って島民の了解なしに公開したことで、問題を起こしたことで知られる。
 では、なぜここであえて取り上げようとしているのか、というと、彼が「八重山の哀歌」について、「激しくうたれた」と書いているからである。

 まだ占領下の59年に沖縄に来て、書いたのが『沖縄文化論』だ。その中で「八重山の哀歌」に一章をさいている。琉球王府の時代の八重山が、過酷な人頭税による辛く苦しい中でも、美しい古謡が生れ、歌われたことに驚いている。短いエッセイであるが、さすがに芸術家としての鋭い感性が光っている。
 八重山の人頭税時代の古謡、民謡については、このブログでも「愛と哀しみの島唄」(上、下)、「ああ!なんのために生れてきたのかーー人頭税哀歌」(2010年7月)で詳しく紹介したので、繰り返さない。006            石垣島の蔵元の絵図から。庶民の風俗

 岡本太郎の文章だけを紹介する。
 「悲しい思い出がどうしてあのように美しいのか。八重山の辛く苦しかった人頭税時代の残酷なドラマを伝える、さまざまの歌、物語を聞いて、その美しさに激しくうたれた。美化しなければあまりに辛く、記憶にたえないからか。いやそれはほんとうに美しいからではないだろうか。そのとき、人の魂はとぎすまされ、その限りの光を放つからであろう」

 実際に、八重山の古い民謡は、過酷な歴史を生きて、その日々の営みから生まれたきた歌なのに、物悲しさ、陰湿さはあまりなくて、あくまで美しさや、辛さを乗り越えるたくましさを秘めている。岡本太郎の慧眼は、さすがであると感じた。

 ついてに彼が、この文章で八重山のいくつかの古謡を紹介しているので、その中から、美しい娘「ヌズゲマ」を歌った悲歌を取り上げておきたい。
 八重山には、ヌズゲマを主題とした古謡がいくつかの地域にある。地域によって少し、内容が違っているが、石垣島の平得(ヒラエ)の「いきぬぼうじぃユンタ」から、歌詞を訳文で要約する。
 「宮良村に生まれたヌズゲマは絶世の美人だった。頭(役職名)、村役人に見染められたが、断った。頭と役人は私を連れていこうとした 山に籠って死ぬよ、3カ月も山の密林を歩いた。大本(オモト)山に登って水を飲もうとうつ伏せしたら、私の命は終わりをつげた。死体の片眼からドゥスヌ木、片耳からトゥムヌ木が生えた。立派に生えた木から、船材が伐採され、公用船が造られ、頭親に乗られ、役人にも乗られた。生き肌に乗られず、死に肌に登られた」

      Photo                 人頭税時代の織り女の絵
 人頭税の時代、赴任してきた役人が、美人の女性に目をつけて賄女(現地妻)にすることがよくあった。有名な「安里屋ユンタ」も、美人のユンタをめぐる役人とユンタの物語である。現地妻になれば役得もあったので、受け入れる女性もいたが、権威をかさにきた役人の要求を拒否する女性もいた。ヌズゲマもその一人である。山に逃げながら、命がつきた。死んだ後も、身体から生えた木で船が造られ、役人に乗られてしまった。悲しみと悔しさが胸をうつ古謡である。
 八重山の古謡を、あまり知らなかったとき、岡本太郎の著書で偶然知った歌だった。すでに「愛と哀しみの島唄」(下)で書いたことだが、生誕100年にあたって、もう一度紹介しておきたかっただけである。
 
 
 
 

2011年6月14日 (火)

屋慶名ハーリー大会を楽しむ、その2

 屋慶名ハーリーは、東西2隻の舟で競う。スタートは、2隻が揃い、止まってから、スタートではなく、スタートラインに舟を寄せてきて、だいたい揃ったと思えば、スタートの合図が鳴る。だから、スタート地点までゆっくり寄せてきて、止まらずにすぐスタートに持っていければ効率的だ。039_2

 強いチームはすぐわかる。櫂を漕ぐのに力強い。みんなが揃っている。漕ぐピッチが速い。それに加えて大事なのは、Uターンするのに、大回りにならないこと。せっかくリードしていても、大回りして抜かれるチームがある。ときには、あらぬ方向に曲がりだすチームもあった。

中には、大差がついて負けると分かると、ゴール前でUターンして、戻るチームも出る。「○○チームは最後までゴールして下さい。タイムがとれませ~ん」と、進行係がスピーカーで指示して、あわててもう一度ゴールに向かう舟もある。タイムは大幅に遅れる。でも全部のチームをしっかりタイムをとっているのはさすがだ。ところによっては、タイムを計らないハーリーもあるからである。034  屋慶名ハーリーは、糸満、奥武島などのように、転覆競漕や橋から飛び降りて競う特殊なハーリーはない。でも、これはこれで、結構面白い。一般観客席は、会場の正面に設営されていて、よく見えるのでハーリーを楽しめる。029

 一般席で観戦していると、おばあがやってきて「お茶まだだったねえ。遅くなってごめんね」といって、二人分の冷たい缶入りさんぴん茶を持ってきた。「えっ、いいんですか?」「はい、どうぞ、どうぞ」とサービスしてくれた。
 しばらくすると、「これ、おにぎり食べて下さいね」とまたテーブルに置いていくではないか。油味噌入りの沖縄ならではのおにぎりだ。
 「一般客なのに、もらっていいのかなあ。隣が来賓席なので間違われているのではないだろうか?」と少し不安になる。
 しばらくすると、また別のおばあがきた。「汁がまだだったね。遅くなったね。どうぞ」という。「私、来賓ではなく、一般客なんですけれど、もらっていいんですか?」と聞いてみた。「いやあ、関係ないよ」とこともなげに言う。祭りに来た人に、料理をふるまうのは、当たり前でしょう。そんな雰囲気である。観光客が押し掛けるハーリー、ハーレーではこうはならない。ローカルなハーリーだからこそだ。

 持ってきてくれたのは、魚汁だった。さすが漁港だけに、魚の身が大胆に入っている。魚とフーチバー(よもぎ)だけのシンプルな汁。でもとても美味しい魚汁だ。
 ハーリー会場では、花の苗の無料配布もしていた。1人3鉢までもらえる。さっそく2鉢もらって帰った。なにからなにまでサービス満点のハーリー大会だ。

044_2  ハーリーが盛り上がってくると、花笠おばあたちが、テントの前で踊りだした。太鼓と鉦だけで歌いながら踊る。カチャーシーのような踊りだが、少し違う。独特だ。でも踊っている方は、とても楽しそうだ。思わずいっしょに手拍子に加わった。
 三線はない。琉球王府の時代、三線は貴重なものだったので、主に王府に仕える士族たちは三線を奏した。でも、地方の村々の古謡など三線なしで歌われた。地方に三線が入ったのは、明治になり琉球王府が廃された後だという。でも、おばあたちの唄と踊りを見ていると、三線はなくても、十分に歌える、踊れる、楽しめる。
 
 屋慶名といえば、いまは昨年大晦日のNHK紅白歌合戦にも出場したHYが有名人である。この屋慶名を愛し、屋慶名に根を張って全国で活躍する人気バンドである。屋慶名港の待合室にも、HYの名前とマークが壁に記されていた。

 029_2  町を歩くとあちこちに、上の写真のような名前が記されている。バンドの名前そのものが、「東屋慶名」という地名のイニシャルから名付けている。地元の祭りにも顔を出すことがあるので、「もしかして」と思ったが、さすがに見かけなかった。
 まあ、屋慶名には、大綱曳きもあり、エイサーも闘牛も盛んだ。また来たくなる町である。

2011年6月13日 (月)

屋慶名ハーリー大会を楽しむ

 勝連半島の屋慶名(ヤケナ)でハーリー大会があるの001 で出かけた。豊漁や航海安全など願い行われる爬龍船の競漕、ハーリーは旧暦5月4日が多かったが、屋慶名は一週間遅れて開催したので、ちょうど見に行くのに都合がよかった。

 屋慶名は、合併でうるま市になる前は、与那城町の役場が置かれていた地域だ。琉球王府の時代は、番所(役所)もあった。民謡の「屋慶名クワーディーサー」で歌われたクワーディーサー(コバテイシ)の見事な大木があったそうだ。闘牛やエイサーも盛んだ。

 ハーリーの行われる屋慶名港は、海中道路が出来る前は、勝連半島の沖にある平安座島、宮城島、伊計島、浜比嘉島などに渡し船が出る港だった。この港から、人も生活に必要な物資も運んだという。  002

 港に着くと、すでにハーリー舟を飾って会場の本部テント前に並べられていた。ここ041 もやはり、東西の2隻の舟で競う。拝ん(ウガン)ハーリー、職域ハーリーなどレースがある。余興として、全島沖縄角力、子ども相撲などもある。もちろん、芸能舞台も用意されている。
 プログラムは、コピーして配布してくれない。本部テントの前に張り出された紙で見るしかない。
 出場チームを見ると、中学生、高校生もでる。小学校、中学校のOBやPTA、居酒屋の牛心、結(ユイ)、会社、病院、平安座ハリーポッターガールズ、はーえーごんごんといった仲間のチームも出る。
 初めは、出場者が勢揃いして、きちんと開会式があった。013若者からおじさん、おばさんのチームもある。

 ハーリーの前、エイサーが披露された。2,3歳くらいの子どもまで演じる。お母さんらしき人が、懸命に踊りを誘導するが、チビちゃんは、なかなかうまくは踊れない。でも出るだけで可愛い。

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  026 拝んハーリーが始まった。屋慶名は、先日行った奥武島のような見にくさはない。屋慶名港の向かいは藪地島(ヤブチジマ)で、ちょうど島に囲まれ、狭い屋慶名海峡があって、天然の航路と良港のようになっている。ハーリーの出発からターンをして帰ってくるまで、とてもよく見える。

  職域ハーリーなど対抗戦が始まると、応援も熱が入る。花笠をかぶったおばあの集団が、始まる前から、ハーリー鉦(カネ)や太鼓を打ち鳴らし、三線はなしで歌を歌いまくっていた。

005 036  ハーリーが始まると、テントに座ってはいられない。岸壁の前まえ出てきて、盛んに応援する。打ち鳴らすハーリー鉦が面白い。008 037

 

 一つの鉦は「屋ケ名闘牛組合」、もう一つは「屋慶名自治会」の名が見える。他の地域のハーリー鉦はもう少し小さいが、こちらは大きい。
 

 このおばあたちの応援は、なんかこの前、見に行った平安座島(ヘンザジマ)の「サングヮチャー」で、海の中の島にタマンの神輿を担いで若者が行った時、浜辺で迎えて応援するおばあたちにそっくりだ。この与勝あたりでは、こういうおばあたちの応援がどこでもあるのだろうか。ハーリー大会を盛り上げる主役になっている。
 まだ書くことがある。長くなるので、次にしようね。

2011年6月11日 (土)

琉球かすりの里を歩く

 南風原町(ハエバルチョヴ)の本部(モトブ)から照屋(テルヤ)付近は、琉球絣(カスリ)の里と呼ばれる。歩いてみた。かすり会館が役場のすぐ裏の方にある。

004

 なぜ、南風原が絣の里なのだろうか。絣はいつ、どのようにして沖縄に伝わったのか、説明文があった。006_2

 それは14,15世紀に、琉球は中国、東南アジアと交易をしていたので、インドで発生した絣が、インドネシアやフィリピン、中国などを経由して伝わったといわれる。

 それが、さらに琉球王府を通じて薩摩(鹿児島)へ渡り、それから全国各地に広がっていったという。

 南風原で琉球絣が盛んになったのは、大正の頃だ。南風原小学校内に織物を指導する補習科ができ、熊本県出身の金森市六という人がその技術指導をしたことや、また彼が宮平や山川に織物工場をつくったこと、さらに那覇の泊の職人たちが、南風原に流入してきたことがあげられる。

 009 絣とは、染め抜かれた経糸(タテイト)と緯糸(ヨコイト)がおりなす図柄のかすれから、絣と呼ばれているそうだ。その柄は、身の回りの動植物や生活道具、自然界からヒントを得て、巧みにデザイン化されているという。
 かすり会館では、女性たちがかすりを織っているし、見学や体験もできる。織りあげ製品化したかりゆしウエアなど販売もしている。絣のかりゆしウエアはとても涼しそうだ。でも、値段はやはり、結構高いので、手が出ない。011

007_2  沖縄の織物についての解説文も掲示されていた。 

 沖縄の織物は、琉球王朝が南方、中国と交易する中で、絣技術、紋織技術など多様な技術・技法を吸収し、育まれてきた。
 薩摩侵攻以後に貢納布制度が敷かれ、さらに琉球王府は「御絵図帳」に基づき御用布を地域割りした。これらの制度が織物技術の推進力となり、八重山の白上布、宮古の紺上布、久米島の泥染めまで、各島各地域ごとに特色ある織物を作り上げてきたという。

 この貢納布の制度によって、庶民は耐えがたいような労苦を強いられたが、ここではそんな歴史はふれていない。

 戦後、沖縄の織物産地としてすぐに復興したのは、南風原の織物だったという。戦前からの伝統があったからだろうか。
 

 かすり会館を出て、集落を歩いていると、織物工房がいくつかある。031  大城廣四郎織物工房もその一つ。かなれ大きな工房だ。もう少し歩くと、今度は、道路わきで糸を張っていた。とても長い糸だ。033  思わぬ場所で、織機に出合った。この地域には、いくつかの石獅子がある。どうしても分からない石獅子があって、小さな商店があったので、行き方を聞いた。店におばさんがいて、親切に教えてくれた。ちょっとしたお菓子や食品類を棚に並べた程度の店だけれど、なんと店内に織機があるではないか。連れ合いがおばさんに聞いてみた。
 「私が織っているよ。自分で売るためはなく、工房に頼まれて織っているのよ」。このおばさんたちは、若い時から織ったことがあるのだろう。工房は、こういう個人で織れる人も使って、外注に出しているのだろう。

 ついでに石獅子も紹介しておこう。
 本部の石獅子は、なにかモアイ像みたいだ。019 020 胴体はない。わずかにシッポが見えるぐらい。

 本部の石獅子は、南南西の方向にある八重瀬町東風平(コチンダ)の八重瀬岳に対するフーチゲーシ(邪気返し)の目的で造られたと伝えられている。前に、ブログにアップしてある富盛(トモリ)の石獅子でも書いたように、八重瀬岳はヒーザン(火山)として恐れられた。火山といっても、噴火する火山ではない。風水で「ヒーザン」と見られたようだ。
 この石獅子は「形態・表情が他の石獅子とくらべ大変ユニークな点も大きな特徴である」(解説文)。
 照屋の石獅子は二つあった。

036_2 照屋の石獅子は、しっかり胴体も長くて、石獅子らしい造りである。ただ問題がある。
 照屋の石獅子は、ヒーザンのある八重瀬岳の方向に向かうのではなく、なんと逆方向の本部の方向に向かって立っている。二つあるどちらもそうである。なぜなのか。
 本部の石獅子は、八重瀬岳に対するフーチゲーシの目的で造ったが、結果的に照屋の集落に向く形となり、それに対抗して造ったので、本部に向かって立っている。
 この背景には、本部と照屋の集落は、かつて湧井戸問題で、しばしば抗争があったとの言い伝えがあり、歴史をしのばせる貴重な石獅子だという。
 052 こちらの石獅子もしっかり本部に向かっている。この付近は、水があまり豊富ではなく、水をめぐる争いがあったのだろうか。053  南風原町はよく通るけれど、じっくり街の中を見たことがなかった。歩いてみると、さまざまな暮らしと歴史の一端が見えてくる。

        

2011年6月 9日 (木)

最も早い梅雨明けになった

 沖縄地方は9日、梅雨が明けたとみられると沖縄地方気象台が発表した。例年より10日ぐらい早く、4月30日、梅雨入りしていた。梅雨明けは、昭和26年(1951)に統計を取りだして最も早く、例年より2週間ほど早い。梅雨の期間は40日。雨も本島は例年の1・4倍降った。
 沖縄の梅雨明けは、沖縄戦終結の日とされる6月23日前後が通例である。今年は、ただ早いというだけでない。いくつか興味あることがある。
 というのは、旧暦5月4日の「ユッカヌヒー」に各地で爬龍船競争のハーリーが行われた。沖縄では、ハーリー鉦(ガネ)が鳴ると梅雨が明けるという言い伝えがある。今年は、ユッカヌヒーは6月5日だったので、まさしく鉦が鳴ると梅雨が明けたことになる。001   写真は、南城市奥武島(オウジマ)ハーリーでハーリー鉦を鳴らす若者たち。

 ただ、気象台は9日を梅雨明けと称している。実際には雨天続きの天候は、6月3日で終わり、4日の土曜日からは、晴天に転じた。しかも、その後の今週の天気は晴天続きになり、気候は完全に変化していた。だから、「もう梅雨が明けたのとちがうの?」と誰もが言っていた。
 でも、全国的には梅雨入りが早くても、梅雨明けが早いとはならいない、などと気象予報士が解説していた。それには、納得しなかった。素人なりに「もう梅雨が明けたのでは」と思っていた。

 日本列島の大和が早く梅雨入りした。例年、梅雨前線が、琉球列島から少し北に上がり、日本列島、大和にかかると、沖縄は梅雨明けになる。大和も沖縄も同時に梅雨が続くということは、沖縄に住んで以来、経験はない。その上に、天候が今週から晴天続きに転じて、青空を見ても、梅雨の晴れ間とはちょっと違う感じがした。だから、「もう梅雨明けしてるはず。なぜ気象台は宣言しないのか」と思っていた。

  077          晴れた日の海の色は鮮やかだ。奥武島で。
 9日になり、今朝も「まだ気象台はぐずぐずしているのか」と話していたら、やっぱり「梅雨明け宣言」が昼頃に発表された。でも、あくまで「9日梅雨明けしたと見られる」にこだわっている。本来、5日頃にさかのぼって宣言してもよいと思うけれど、さかのぼらない。4日から晴天続きなのに、なぜ9日なのか、という疑問が残る。

052  それにしても、「ハーリー鉦が鳴ると梅雨が明ける」という言い伝えは、見事に的中した。通常は、6月上旬ごろハーリーがあれば、中下旬に梅雨明けというくらいの幅がある。それが、今年は、実際の梅雨空が変わった時でいえば、ズバリ日にちまで当たっている。旧暦ユッカヌヒーと梅雨がどういう因果関係があるかわからないが、たんなる偶然とも思えない。こういう言い伝えがあるということは、長い、長い経験則が反映しているからではないだろうか。言い伝えは侮れない。そんな思いがする季節である。

  028 ついでに、奥武島ハーリーの名物。橋の上から漕ぎ手が飛び込み、船に乗り込み競漕する「流れ船」をアップする。橋から飛び込むと水しぶきがスゴイ。とても勇壮なハーリーである。

 梅雨明けはいいが、これからはガンガン照りつけるので、暑さとのたたかいである。

2011年6月 8日 (水)

危険な普天間基地になぜオスプレイか

 海兵隊普天間飛行場に、垂直離着陸輸送機МV22オスプレイを2012年から配備すると言う。世界一危険とアメリカも認める基地に、なぜ欠陥機と評されるオスプレイを配備するのか。県内では、自治体、住民ぐるみで猛反発が起きている。

004          「琉球新報」2011年6月7日付の紙面。

 防衛省は、オスプレイは米軍の主力になっており、安全だ、心配ない、と強調する。
 動画サイト「ユーチューブ」で、投稿されているオスプレイの墜落事故の映像を見た。ユサユサと揺れながら、斜めになり、落ちて火を噴いた。恐ろしい光景だ。「安全だ」と言う大臣、政治家は、まず自分で率先して搭乗してみることをお勧めしたい。
 米軍がアメリカ本国で配備、運用するのは勝手だ。でも、他国の、それも市街地のど真ん中にあって、周辺には公共施設や住宅が立ち並ぶ、危険な基地に配備するなんて、狂気の沙汰ではないだろうか。
 オスプレイは、「開発から運用段階にかけて墜落事故で30人以上が犠牲になっている」(「琉球新報」6月7日付)という欠陥機だ。昨年4月にもアフガニスタンでエンジントラブルから墜落し、米兵ら4人が死亡し、多数負傷したという。どこが「安全」なのか。
 騒音も、現行機CH46Eより静かだというのも、まったくのごまかしだ。誰も信用しないだろう。実際、着陸時の最大騒音レベルは現行機を上回ると報道されている。あのオスプレイの姿を映像で見るだけで「うるさそうだな」「あぶないなあ」と誰もが思うだろう。
 普天間飛行場のそばの沖縄国際大学構内にヘリコプターが墜落した事故の記憶は、県民にはまだ鮮明である。オスプレイが、市街地の住宅、学校の上空を飛び回る姿を想像するだけでも、市民には恐怖である。
                「琉球新報」6月7日付の紙面から。

003

 それにしても、オスプレイの配備は、早くから米軍は計画していたのに、日本政府は情報を隠し、ごまかし続けてきた。なのに、ここにきて急に、配備を公然化して県、関係自治体にまで伝えたのはなぜだろうか。
 普天間基地の辺野古移設が、県民ぐるみの反対によって、動かない。見通しもたたない。だから、辺野古移設を認めなければ、オスプレイを普天間飛行場に配備するぞ、普天間は固定化するぞ、という開き直りと脅しのためだと思わざるをえない。
 そんな身勝手な論理は通用しない。政府は、口を開けば、「沖縄の基地負担の軽減」を言う。しかし、実際の行動はまるで逆である。県民や自治体の意思を無視して、アメリカの都合だけを優先してごり押しするようなやり方は、許されない。どこの国の政府なのか、が問われるだろう。
 オスプレイをどうしても配備したいのなら、普天間基地はアメリカ本土にお引き取りを願い、その上で本国に移転した海兵隊基地に配備すればよい。沖縄県民はこぞって賛成するだろう。

2011年6月 7日 (火)

奥武観音堂の由来とハーリー

 南城市の奥武島(オウジマ)の海神祭が084 旧暦5月4日、「ユッカヌヒー」にあり出かけた。爬龍船競争のハーリーが有名である。ここのハーリーの由来をめぐっては、他と少し違う歴史がある。それは、丸い小さな島の中央部にある奥武観音堂にかかわる。

 境内に観音堂の由来が書いてあった。
 17、18世紀の頃、一艘の唐船(中国)が嵐に遭い島に漂着した。乗組員たちは、見知らぬ島への上陸をためらっていると、山の上から白衣の美女が現れて「案ずることはない」と言わんばかりに手招きをしたので、喜んで上陸した。島民たちが集まってきて、着物を与え、焚火で体を温め、お粥を炊いて手厚く介抱した。島民の心からの支援に深く感謝し、船を小港(クンナト)の岩につないだ。

 船の修理を終えた乗組員たちは故郷へ帰ることになり、白衣の美女が現れた山の上に入って「我等一行これより帰国せんと思う。無事帰国できるよう神様は我々をお守り下さい。願望がかなったならば、仏様をこの地に祀って浄土としよう」と祈願、無事帰国することができた。
    その後、乗組員から琉球王府を通して、奥武島に黄金の観音像一体と仏具一式を贈ってきた。しかし、王府は、はじめ同名の他の奥武(県内にいくつもある)に安置したが穏やかならず、八方手を尽くした結果、玉城(タマグスク)間切(今の町村にあたる)の奥武島がその地であることがわかり、間切役場を通じて観音堂が届けられたので、一宇の堂を建立して観音像を安置することになった。093 ここに鎮座した観音像は、代々島民の深い信仰を集めて現在に至っているが、この堂は昔、3回にわたり改築されている。観音像は、今次大戦まで無事に安置されていたが、現在は陶製の観音像を安置している。以上は、説明文の要約である。087
 黄金の観音像が戦争前まではあったようだ。沖縄戦の混乱の中で失われたのか、軍に没収されたのだろうか。詳しくは書かれていない。
 この観音堂は、島民の信仰の対象となり、ハーリーは、観音堂に島の繁栄と航海安全、大漁を祈願したのが、その起源だと言われる。
 だから、「ユッカヌヒー」のハーリーでは、最初に観音堂に行って、1年間の航海安全と豊漁、島民の健康と融和、島の繁栄を祈願する。次に、船を出して、「ミシラギ」と呼ばれる拝所に同様の祈願を行ってから、「御願(ウガン)バーリー」をはじめ、7回の本バーリーが競われる。004  ミシラギへの祈願に向かう船には、少年がお供えのお酒を持って乗る。
奥武島は、本島とは海が川のように入り込んでいて、橋でつながっている。その川の対岸のような岩場に、ミシラギがある。この場所は、その昔、遭難した中国の船を繋いだという場所である。
 この観音堂とハーリーの由来は、とても興味深い。というのは、奥武島の島民は、中国の船を助けたので、感謝された側である。救助された中国からお礼に贈られた観音像を深く信仰し、中国の船をつないだ場所を由緒ある拝所として、祈願するというのは、なにか心温まる話だと思う。035

 1965年には観音堂350年祭、1985年には観音堂370年祭、2010年には395年祭と継続してお祭りが行われている。そういう祭りを通して、遭難した船、困っている人々は、どの国の人たちであっても助けることの大切さを語り継ぐことにもなっているのだと思う。海人は、自分たちも海で漁をする限り、いつどのような危険があるかもしれない。だから、互いに助け合うことは、海に生きる人々の心意気でもある。遭難した船を救助したことを通じて、中国と奥武島の島民との肝心(チムグクル)のつながりが何百年にもわたって続いている。そんなことを感じさせた奥武観音堂だった。

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2011年6月 6日 (月)

金武町の日秀上人伝説

 金武町(キンチョウ)の観音寺の境内には、鍾乳洞がある。日秀上人は鍾乳洞を拠点に真言宗の布教をしたという。071  鍾乳洞は、日秀洞とも呼ばれている。長さ270㍍、地下30㍍もある。入り口にいくと、急な階段を地下に降りるようになっている。入場料400円もとる。時間もないし、中には今回は入らなかった。060  実は、鍾乳洞は泡盛の貯蔵所になっている。入ってみた人によると、狭い所を通り、奥のドーム状になっているところに入ると、タンクがたくさん並んでいる。地元の金武酒造が泡盛をねかせている。洞窟は、冷温で温度が一定しており、泡盛をねかせて古酒(クース)をつくるのに適しているのだろう。チーズのような味わいのある豆腐ようも成熟させている。
 064  寺の本堂の横には、茶店があり、金武酒造の泡盛、豆腐ようも売っている。泡盛古酒「龍」は前に飲んだことがある。

 話は、はじめから横道にそれた。本題に入る。日秀上人を巡っては、民話と伝説がある。町のホームページで紹介されている。要約してみたい。
 16世紀に金武のフナヤ(富花港)に舟が流れ着いた。お坊さんが舟底にしがみつき倒れていた。若者が弁当をあたためお粥を作って差し上げた。若者はお坊さんが身分の高い僧であることをはじめて知った。「お礼をせねば」と言うと若者は「姓がほしい」と言う。若者は、生活に役立つ川の名のヒジャガーの名を授けてもらえれば光栄だと言う。それはたやすいことだと、比嘉の名を命名した。現在でも、比嘉を名乗り栄えていると言う。
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 日秀上人は、村の若者に助けられて、村のために何か役に立ちたいと考えた。農業に相当な知識があったといわれ、農作物の管理、なかでも稲作はそれまで経験だけを頼りにしていた村人に新しい方法を教えた。その成果に村人はびっくり。「白砂が米に化した」という謡まで歌われるようになった。村は豊作がしばらく続き、栄えた。上人は神人と崇められた。
 その頃、恐ろしい事件が起きた。月夜の晩、美青年が村一番の美しい娘を誘いだしていた。娘に惚れていた村の青年が、2人を見ていた。2人は村の洞窟に向かった。洞窟の入り口にいた娘を引き止めようとしたしたとき、美青年が大蛇に変身し、娘を巻き付けて洞窟の中へ消えていった。
 この大蛇は、洞窟の中に住み、人間とくに美しい若い女性の生肝を常食していた。その昔、洞窟に続く大川で、水汲みに来る女性が次々に襲われ、農作物が被害にあう事件が相次いだ。村人は、大川と洞窟から遠ざかった。このため大蛇は人間に化け、人家に忍び込むようになった。

                    下の写真は金武大川(ウッカガー)。水量が豊富だ。
        020_2

 心配した日秀上人は、娘をもつ家を訪ねて娘を隠したりした。さっそく洞窟の前で呪文を唱え、大蛇が二度と出られないように洞窟に封じ込めた。それ以来、大蛇の被害はなくなり、村は栄えたという。
           029                写真は金武大川のそばにある洞窟。

 大蛇退治の伝説などは、史実とは思えないが、農業で稲作の新しい方法を教えて豊作が続いたというのは、ありうる話だと思う。稲作についての技術は、大和に比べてどうしても琉球は遅れがあっただろう。だから大和での稲作の農法を知っていて、教えたというのはある程度史実を反映しているのかもしれない。
 上人について、いくつかのこういう伝説があることは、それなりに村の民衆から慕われるというか、尊敬されるような存在になっていたのだろう。

2011年6月 4日 (土)

金武観音寺を訪れる

 金武町(キンチョウ)といえば、329号線を走っていると「金武観音寺」の案内板が出ていて、一度訪ねたいと思っていたのが、やっとかなった。というのは、沖縄ではとても古く由緒ある寺だからである。069  高野山真言宗金峰山系の観音寺で054 ある。日秀上人が、16世紀に、遭難して金武に流れ着いたという。寺のそばにある鍾乳洞に住み、布教活動を行い、この寺を創建したと伝えられる。

 現存する寺は、昭和9年(1934)に火災で焼失したため、昭和17年(1942)に再建されたものだ。
 沖縄県内の社寺建築の多くは、沖縄戦によってほとんどが焼失したけれど、金武観音寺は幸いなことに戦災を免れた。だから、古い建築様式をとどめた貴重な木造建築である。金武町指定文化財になている。

068  なるほど、首里のお寺もみんな新しい建築ばかりで、コンクリート造りが多い。こういう古いお寺は、大和では普通だが、沖縄ではまだ見たことがなかった。
 沖縄の仏教といえば、琉球の古い時代に全盛を誇ったのは、禅宗であり、なかでも臨済宗だった。いまでも首里のお寺をまわるとその多くが臨済宗である。
 「古琉球時代の仏教は臨済宗一色であったと言っても過言ではなく、政治的にも経済的にも王国と結合して勢力を伸張していったのは臨済宗であった」。知名定寛氏は著書『琉球仏教史の研究』でこう指摘している。「王国に奉仕する鎮護国家的教団であって」、王国もまた全面的に保護していたという。だからお寺は王府のある首里に集中して多かった。
 067
 そんななかにあって、金武観音寺は民衆へ布教に力を注いだ。
「古琉球の禅宗臨済宗が衆庶に対する救済活動を行ったことを示す痕跡を全くと言ってよい程、見出すことが出来ない」といわれる。「日秀が布教・救済の対象としたのは、地方の農民や那覇の庶民という、首里の支配階級ではない一般庶民であったと位置づけることが出来る」(同書)。

066
 日秀が活動したのは金武だけではない。那覇市の波之上の護国寺に阿弥陀、薬師、観音の三像を奉安し、浦添の小峰に経塚を建てた。そういえば、いまは経塚は地名になっている。また、那覇市の湧田に地蔵六像を安置したという。
 日秀上人は,日本に帰り破壊された寺院を再建することを念願していて、のちに薩摩に渡ったという。
 境内には、鍾乳洞があるが、長くなるので次にしようね。

2011年6月 3日 (金)

無惨!塩枯れ樹木

004_2  最大風速55㍍を超えた台風2号が直撃して一週間がたった。台風の爪痕は深い。散歩にいく道路の街路樹や漫湖公園の樹木は、一夜にして台風の運ぶ塩水によって、青葉は茶色に変色して塩枯れした。あまりにも無惨な姿なので、もう一度、その被害を紹介しておきたい。

街路樹に多いホウオウボクは、普段なら真っ赤な花を咲かせる時期だが、まるで枯れ木のような姿だ。わずかに、けなげに咲いていた花も、可哀そうなほど。029
 左は昨年の写真。例年ならこんなに緑の葉と真っ赤な花だ見られたはずだ。

 

 公園に入ると、シルバー人材センターのおじさんたちが、倒れた木や枯れた枝、葉を大分片づけていた。それでも、まだまだ根こそぎ倒れた大木も、何本も残っている。完全に木の葉が枯れた木がたくさんある。 

 下写真の木は、公園のグランドゴルフ場にある。いつもこの木の下を集合地点にして、おじい、おばあが集まる。日陰を提供していた。もう緑色の木の葉は再生しないのだろうか。006  すぐそばには、樹木の幹や枝が折れたり、根っこから倒れた木がある。

008 011  沖縄の樹木は、デイゴやガジュマルに代表されるように、強風に耐えられるように、ズングリモックリした姿だ。つまり幹は太く、幹と枝は上に伸びず、横に大きく広がっている。根っこも地面の四方八方に広がっている。つまり台風仕様の体型になっているのだ。それでも、台風にも強いはずのデイゴもガジュマル倒れた木がある。ましては、もう少しスマートな上に伸びた木は折れやすいし、倒れやすい。014  漫湖公園は、ヒカンザクラが漫湖に沿って植えられ、桜の名所だが、桜も枝が折れたり、青々と茂っていた葉は、可哀そうなほど変色している。022 ジョギングコースは、ユウナや夾竹桃の並木になっていたが、こちらも無惨に枯れている。020  まだ夾竹桃は少しはましかもしれない。ユウナの木の葉は全滅状態だし、倒れた木も多い。

025   そんな中で、台風の強風にも塩害にもめげずに、耐え抜いて元気なのは、フクギとソテツである。018 上写真のフクギは、木の葉は大きくて厚いからなのか、塩害にも枯れない。樹高も高く伸びるのに、強風にも強い。だから、竹富島の集落の風景に見るように、昔からの赤瓦の沖縄の家と集落は、家の周りをフクギの木で囲っていた。強風にも塩害にも強く、日陰もつくる。「フクギはエライ!」とつくづくと思った。

016 ソテツもイキイキしたままだ。梅雨頃には写真のように、中心部から芽なのか伸びてくる。
033 沖縄の樹木は常緑樹なので冬でも落ち葉は少ない。でもいまは地面は枯れ葉がいっぱい。

 034 枯れ枝や葉がうず高く積まれていた。これだけ樹木が塩枯れしているということは、野菜はじめ農産物も、甚大な被害が出ているということ。とくに収穫期になっていた葉タバコだけで約30億円、ゴーヤー、トーガン、ヘチマ、オクラ、これからという時期のマンゴー、菊、サトウキビなどなど。農林水産物の被害総額は約64億円にものぼるという。
 あまりの強風に「怖かったよー」という声がいまでも聞かれる。やっぱり「台風恐るべし」である。
 

2011年6月 2日 (木)

自由民権運動の闘士、当山久三の銅像を訪ねる

044_3  沖縄自由民権運動の指導者、闘士として、謝花昇、平良新助の両氏をブログで紹介した。もう一人欠かせない人物がいる。それが当山久三(トウヤマキュウゾウ)である。金武町(キンチョウ)の出身である。町役場のすぐ隣の高台に立派な銅像がある。
 明治元年(1867)にこの地に生まれた。自由民権運動とともに、ハワイへの海外移民の創始に尽くした「先駆の士」として、高く評価されている。

 階段を上っていくと、はるか太平洋をのぞみ、手を差し伸ばした当山のりりしい姿が見えてくる。そのそばには、彼の業績を記した碑文がある。045

 長いので、かいつまんで紹介する。
当山は、植民地的支配からくる県民のドレイ化を見かねて、教職を辞して自由民権の獲得に挑んだ。謝花昇とともに同志を糾合し専横の県知事追放による県政の改革に立ち上がった。運動に対する官憲の弾圧は厳しく幾度か脅迫や刺客の難に逢うなど想像を絶するものがあった。

 当山はまた、土地狭隘、人口過剰の対策として、海外移民問題に取り組み、その送り出しに尽力した。そこでも知事、官憲の妨害があった。当山の熱情と努力はこれら難関を克服し、ついに明治32年(1899)12月5日、第1回ハワイ移民20余人の送り出しに成功。次いで明治36年(1903)、第2回ハワイ移民45人をみずから引率した。

046 

 当山はその壮途に際し、「いざ行かん吾等の家は五大洲」の不朽の言葉を県民050 に贈った(上の写真の台座の部分にこの言葉が彫られている)。
 当山は、その後明治42年(1909)、第1回県会議員に当選し、翌年亡くなった。
 当山の業績を讃えて銅像と記念館が建立されたが、昭和6年(1931)、銅像は第2次世界大戦の金属回収のため撤去された。
 昭和36年(1961)に、在ハワイならびに北米同胞と在郷有志の浄財によって銅像を再建したという。

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 記念館を見学したかったが、いまは閉められていた。051

 

 当山久三は、この銅像に見られるように、金武町ではとても尊敬されている。当時の専制的な県政のもとで、厳しい弾圧にあいながら、自由民権運動を展開し、新しい天地を求めてハワイ移民を進める上でも、幾多の妨害や困難があった。それを乗り越えて、成功させたのは、進取の気風と燃えるような情熱、固い信念があった人だろう。それは、謝花昇、平良新助らとも共通している。

 当山の進めたハワイ移民からはじまった沖縄の海外移民は、南米、北米、南洋諸島、ニューカレドニアなどにも広がり、いまや世界中にウチナーンチュが活躍している。今年10月には、第5回世界のウチナーンチュ大会が開かれる。当山が語った「いざ行かん、吾等の家は五大洲」というのは、すでに実現している。大会には、五大洲の家からウチナーンチュが一堂に集まるのである。その姿を、この銅像も見つめているのだろうか。
 銅像は高台にあるので、当山が指し示す先には、金武湾とその先の大海が広がっている。

053

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