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2011年6月 2日 (木)

自由民権運動の闘士、当山久三の銅像を訪ねる

044_3  沖縄自由民権運動の指導者、闘士として、謝花昇、平良新助の両氏をブログで紹介した。もう一人欠かせない人物がいる。それが当山久三(トウヤマキュウゾウ)である。金武町(キンチョウ)の出身である。町役場のすぐ隣の高台に立派な銅像がある。
 明治元年(1867)にこの地に生まれた。自由民権運動とともに、ハワイへの海外移民の創始に尽くした「先駆の士」として、高く評価されている。

 階段を上っていくと、はるか太平洋をのぞみ、手を差し伸ばした当山のりりしい姿が見えてくる。そのそばには、彼の業績を記した碑文がある。045

 長いので、かいつまんで紹介する。
当山は、植民地的支配からくる県民のドレイ化を見かねて、教職を辞して自由民権の獲得に挑んだ。謝花昇とともに同志を糾合し専横の県知事追放による県政の改革に立ち上がった。運動に対する官憲の弾圧は厳しく幾度か脅迫や刺客の難に逢うなど想像を絶するものがあった。

 当山はまた、土地狭隘、人口過剰の対策として、海外移民問題に取り組み、その送り出しに尽力した。そこでも知事、官憲の妨害があった。当山の熱情と努力はこれら難関を克服し、ついに明治32年(1899)12月5日、第1回ハワイ移民20余人の送り出しに成功。次いで明治36年(1903)、第2回ハワイ移民45人をみずから引率した。

046 

 当山はその壮途に際し、「いざ行かん吾等の家は五大洲」の不朽の言葉を県民050 に贈った(上の写真の台座の部分にこの言葉が彫られている)。
 当山は、その後明治42年(1909)、第1回県会議員に当選し、翌年亡くなった。
 当山の業績を讃えて銅像と記念館が建立されたが、昭和6年(1931)、銅像は第2次世界大戦の金属回収のため撤去された。
 昭和36年(1961)に、在ハワイならびに北米同胞と在郷有志の浄財によって銅像を再建したという。

052

 記念館を見学したかったが、いまは閉められていた。051

 

 当山久三は、この銅像に見られるように、金武町ではとても尊敬されている。当時の専制的な県政のもとで、厳しい弾圧にあいながら、自由民権運動を展開し、新しい天地を求めてハワイ移民を進める上でも、幾多の妨害や困難があった。それを乗り越えて、成功させたのは、進取の気風と燃えるような情熱、固い信念があった人だろう。それは、謝花昇、平良新助らとも共通している。

 当山の進めたハワイ移民からはじまった沖縄の海外移民は、南米、北米、南洋諸島、ニューカレドニアなどにも広がり、いまや世界中にウチナーンチュが活躍している。今年10月には、第5回世界のウチナーンチュ大会が開かれる。当山が語った「いざ行かん、吾等の家は五大洲」というのは、すでに実現している。大会には、五大洲の家からウチナーンチュが一堂に集まるのである。その姿を、この銅像も見つめているのだろうか。
 銅像は高台にあるので、当山が指し示す先には、金武湾とその先の大海が広がっている。

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コメント

専横の激しい時代にあって、ウチナーンチュの人権を守り切り開く先頭にたった人がわが故郷にいたということは、町の誇りなのでしょうね。金武町はキャンプハンセンと伊芸サービスエリアを通過するだけで、じっくり見て回ったことがなかったので、まさか当山氏の銅像があるとは思いませんでした。当山が生きていてたら、米軍基地に土地を奪われ、あいつぐ米兵犯罪でウチナーンチュが苦しめられている現在の沖縄をどうするでしょうか。ところで当山はウチナーンチュを世界に移民させましたが、その移民先で、ウチナーンチュは多大な苦労と犠牲を強いられましたよね。けして「楽園」ではなかったわけですが、そういうことについては当山はどう思っていたのでしょうか。謝花昇の銅像と当山久三の銅像はあるのに、平良成彬の銅像はなぜないのでしょうね。探し当ててないだけでしょうかね。

前に金武町を紹介するテレビの番組で銅像は見たことあるけれど、今回はそのことを忘れて言ってたので、町の案内板で偶然、銅像があることが表示されていたのでラッキーでした。
自由民権運動が激しい弾圧で、当時はとん挫したことで、海外に自由の天地を求めて移民を進めたようです。開拓移民には苦難がつきもの。でも実際の困難は想像以上だったでしょうね。ただ沖縄もとても貧困で、移民に希望を見出さざるをえない状況があったでしょう。当山らが進めた移民も妨害があったので、苦労したのでしょう。移民した人たちは頑張るしか生きる道がないので、必死で道を切り開いてきたから、今日では世界のウチナーンチュ大会を盛大に開くこともできる。移民の「先駆の士」として、敬愛されるのでしょう。平良新助は、今帰仁村出身ですが、銅像や記念碑などはなぜか、あるとは聞きません。たぶんないと思います。当山らがいま生きていれば、郷土が米軍基地として占領され続けることに、厳しく抗議をする先頭に立っていたでしょうね。

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