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2011年6月25日 (土)

恩納ナビ・琉歌の里を歩く

 恩納村といえば、「琉歌の里」を標語としている。なにより、18世紀に活躍した琉歌の二大女流歌人の一人、恩納ナビの生まれたところである。恩納村の中でも、その中心である恩納区を歩いた。001 恩納ナビ誕生の地の碑があった。ナビが生きた時代は、琉球文化の黄金時代とも呼ばれ、庶民の間でも琉歌が流行ったという。007 「恩納村の美しい自然の中ナビーは、自由奔放かつ大胆な歌を数多く残しました」と説明文にも書かれていた。近くの昔の番所(役所)跡そばに有名な琉歌の歌碑がある。

  020_2 「恩納松下に 禁止の牌のたちゆさ 恋しのぶまでの 禁止やないさめ」。その意味を解説した真新しい碑がそばに建てられていた。

  019_2 恩納村の役所の前の松の木の下に、いろいろと禁止すると書いた立て札が立っているが、恋をしてはいけないとは書いていない、だから若い者は恋をするのになにも恐れることはない。こんな歌意である。
 この立て札には背景がある。琉球王府時代、尚敬王が国王として中国皇帝に認めてもらう冊封を受けるため、琉球に来ていた有名な徐葆光(ジョホコウ)が北部に旅をしてくるのに恩納が宿泊予定地だった。若者が夜ごと野原に集まり、歌い踊る「モーアシビー」が盛んだったけれど、風紀を乱すものだからと「モーアシビー」を禁止する立て札を出したのだ。018
 当時、庶民に君臨する王府の命令は絶対であったはずだ。それを「恋まで禁止とは書いていないから、大いに恋をしよう」と歌うのは、なかなか勇気がいることだろう。ナビの自由奔放な精神と恋への燃えるような思いが感じられるスゴイ琉歌である。
 この琉歌で歌うのが「恩納節」(ウンナブシ)である。古典の名曲である。私の行っているサークルでも、覚えておく必要がある古典5曲を毎回練習するが、その1曲に入っている。
 歌碑は、この琉歌のように番所前の松の木の下に建立されている。当時の番所の様子を表す絵が看板に示されていた。023  恩納ナビの歌碑は、もう一つ、近くにある万座毛(マンザモウ)の入り口にもある。ちょうど万座毛の駐車場に入る手前に、碑がある。それも正確には2つある。028  この道を入ると、正面と右側の二か所ある。029 「波の声もとまれ 風の声もとまれ 首里天かなし 美御機(ミウンチ)拝ま」。波の音も静まれ 風の音も静かになれ 今私が国王様のお顔を拝しご機嫌を伺うのですから、というような歌意である。この琉歌は、1721年に国王一行が北山巡行で万座毛に立ち寄った際、農民百姓が国王の行列を拝することができた、その時にナビが詠んだと伝えられる。
 030 もう一つある歌碑が、右写真のものである。この裏面に、やはり同じ琉歌が彫られている。万座毛に立ち寄った際、詠んだので、この場所に建てられたのだろう。
 「波の声もとまれ 風の声もとまれ」という表現が、とても素晴らしいと思う。
 ナビの琉歌は、女性であるけれど、表現がとても大胆である。
 さきの「恩納松下⋯⋯」の琉歌では、王府の命令も気にしない勇敢さがあったが、こちらは逆に国王を歓迎する気持ちが表現されている。

 ナビの琉歌でもう一つ、とても名高い作品がある。こちらは歌碑がないようだ。
「恩納岳あがた 里が生まり島 森んうし除きてぃ くがたなさな」
 恩納岳の向うは 愛する彼が生まれた故郷である 森を押しのけて 間近に引き寄せようか、という歌意である。
 森も押しのけて彼氏を引き寄せたいとは、なんという激しい情熱だろうか。私的には、琉歌としては、ナビの最高傑作だと思う。

 恩納村を歩くと、ナビのマスコット的な漫画がいたるところに使われている。こんなところにも、ナビが住民に愛されていることがよく分かる。それに、住民にとって、琉球を代表する歌人は、誇りにもなっているようだ。
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コメント

私は琉歌全般の知識がないので、ナビの作品を他の歌と比較することはできませんが、自分の感情を実に率直、かつ大胆に表した方だと思います。恩納村のなかでも恩納区は、ナビの生誕の地や「松下の・・・」の有名な歌が詠まれた場所なので、村の教育委員会も案内表示を丁寧に出していますね。ナビさんは生涯独身だったのでしょうか?琉歌を詠むようになったきっかけはなんだったんでしょうね。恩納村は王府時代、国頭への宿道がとおっている場所だったから、王府に関する歌が多いんでしょうかね。関係ないけど中江監督の「ナビィの恋」の主人公、ナビィさんも、お年寄りなのに初恋の人との恋を燃えるような情熱で成就させた女性でした。ナビさんという名前は誉れ高い感じですね。日本語だと「ナベ」=鍋さんなんだけれども。

 ナビは恋する男性と結ばれたんでしょうか?よく知りません。昔は、他の村、ましてや他の間切の男性と結婚するのはダメだったそうですね。他所の村に出ていくと、村にかかってくる年貢の負担が重くなるからです。 琉歌を詠むようになったのは、説明板にもあったように、流行ったというから、庶民のレベルでも盛んだったのでしょう。だからナビも詠むようになったのではないですか。ただ、王府時代の百姓は、学問は禁じられ、文字も習えなかったようですが、琉歌を詠むのには、言葉を知っていれば詠めたんでしょうね。ちなみに、モーアシビーの時は、かけあいで即興の歌詞を作って歌ったそうですから、その延長で、琉歌を詠むというのもできたんでしょう。
 ナビさんの琉歌は、他の琉歌と比べてどうかはよく知りません。ただ、同じ恩納村山田の出身といわれる吉屋チルの琉歌は、貧しく遊女になった彼女の、心情が繊細な表現で歌われていて、歌風が真逆の感じがします。
 名前が、ナベ(鍋)と呼ばれると、味もそっけもないけれど、ナビー、ナヴィと呼ばれるととても可愛いですね。

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