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2011年6月29日 (水)

反戦島唄の傑作「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」

 平和を願う沖縄島唄の中で、屈指の傑作に「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」がある。歌詞の内容は知って、「戦世と平和の沖縄島唄」の中でも取り上げた。なんとか、歌えるようになりたいと思い、最近は毎日練習をしている。ようやくなんとか歌えるようになってきた。
 といっても、歌詞のウチナーグチ(沖縄語)がなかなか難しい。それに旋律も特異で、通常の民謡の2倍くらいあり長い。それで悪戦苦闘してきた。
 お手本にしているCDは、民謡グループの「でいご娘」の歌である。この強烈な反戦民謡は、歌い手のイメージが男性歌手を頭に描いていて、「なぜ、でいご娘なのか」との思いがあった。
 その疑問を解く記事が「琉球新報」2011年6月29日付に掲載された。

Photo_2 つまり、「艦砲ぬ⋯⋯」を作った比嘉恒敏さんの娘さん4人で結成したのが、「でいご娘」。その長女でメンバーの1人が、島袋艶子さんだったのだ。いま北谷町栄口自治会長でもある艶子さんは、お父さんの遺作となったこの曲を一人でも歌い継ぎ、平和の尊さを発信しているという。

 この曲を作った比嘉恒敏さんという人物と作曲の背景など知りたいと思っていた。この記事によって分かった。それにしても、この曲の背景と比嘉さんの体験と運命は凄まじい。残酷でもある。
 比嘉さんは、沖縄戦で父と長男は、学童疎開船「対馬丸」とともに沈んだ。翌年には妻と次男を空襲で亡くした。結局、6人もの家族を失ったという。戦後、読谷村出身のシゲさんと再婚し、艶子さんら子宝に恵まれた。
 比嘉さんは、歌が好きで、各地でお祝いごとがあるたびに三線を持って駆け付けた。それが「でいご娘」が生まれるきっかけにもなったという。1971年ごろに作ったのが「艦砲ぬ⋯⋯」の歌だった。その後、この曲は県内でとてもヒットしたという。

 でも幸せな日々は長く続かなかった。沖縄が本土復帰した翌年の1973年10月、比嘉さん夫婦が乗った車両に、米兵の飲酒運転の車両が突っ込み、妻のシゲさんは即死、恒敏さんは4日後に亡くなった。まだ56歳の若さだった。
 なんという悲劇だろうか。この曲で歌われているように、「あなたも私も艦砲射撃の喰い残し」。つまり、激しい艦砲射撃と激戦の中で、家族を6人も失いながらも、生き残った命だった。だからこそ、無念にも亡くなった家族やたくさんの県民の声なき声を代弁して、平和の島唄「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」が作られた。それにもかかわらず、米兵の無謀は飲酒運転で、生き残った命まで奪われるとは、あまりにも理不尽すぎる。010               艦砲射撃など砲弾の破片

 でも、艶子さんは「父が大事な歌『艦砲⋯⋯』を残してくれた。悲劇を経験した父が平和のありがたさを伝えたかったと思う」(同記事)と語っている。6月22日にも、北谷小学校で開かれた平和学習会に艶子さんも参加し、三線を弾きながらこの曲を歌い、平和の尊さを語ったという。
 「艦砲ぬ⋯⋯」の歌詞は5番まである。8886字でつくる琉歌ではなく、75調の歌詞である。戦争の時代を生きた人ならではの強烈な平和のメッセージが込められている。訳文で紹介したい。
「♪若い時は戦争の世 若い花は咲くことができなかった 家の先祖、親兄弟も艦砲の的になり 着る物食べ物なにもない ソテツ食べて暮らした ※あんたも私も艦砲の喰い残しだ」
「♪神も仏も頼りにならない 畑は基地に囲われ 金にはならない 家は風で吹き飛ばされ 戦果(米軍物資を持ちだす)担いでしょっ引かれ ひっくり返されもてあそばれて 心は誠実だったのに ※繰り返し」
「♪泥の中から立ち上がって 家族求めて妻をめとり 子どもが生れ毎年生れ 次男、三男カタツムリみたい 苦労のなかでも子どもたちの 笑い声を聞き心を取り戻す ※繰り返し」
「♪平和になったから幾年たつか 子どもたちも大きくなっているが 射られたイノシシがわが子を思うように 戦争がまた来るのではと思って 夜中も眠れなくなる ※繰り返し」
「♪わが親を奪ったあの戦争 わが島を破壊したあの艦砲 たとえ生まれ変わっても 忘られようか 誰があのような戦争を強いたのか ああ恨んでも悔やんでもあきらめきれない このことは子孫末代まで遺言してしっかり伝えなければならない ※繰り返し」
 

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コメント

「艦砲の・・・・」は、当時戦後直後ふるさとを艦砲で跡かたもなく破壊しつくされ、米軍の放出品や捨てたものを拾って食いつないだ生活は、当時のウチナーンチュ全員の生活そのままだったからこそ愛される唄だったのでしょうね。戦争で肉親を亡くし、みずからも米軍の飲酒運転で亡くなるとは、悲惨としかいいようがないです。残酷です。沖縄に平和が訪れるまで歌い続けてほしいですね。

 ホントにそうですね。「でいご娘」でこの歌をレコードで出したとき、強烈な反戦島唄であるのに、ヒットしたというのは、それだけこの曲が県民の共感をよび、心をとらえたからでしょう。71年といえばベトナム戦争も真っ最中で、今以上に戦争が身近に感じられたでしょう。
 最近は、あまり歌うのを聞かないですが、6月23日の慰霊の日には「民謡で今日拝なびら」でかけられました。歌い継いでほしいですね。

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