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2011年6月11日 (土)

琉球かすりの里を歩く

 南風原町(ハエバルチョヴ)の本部(モトブ)から照屋(テルヤ)付近は、琉球絣(カスリ)の里と呼ばれる。歩いてみた。かすり会館が役場のすぐ裏の方にある。

004

 なぜ、南風原が絣の里なのだろうか。絣はいつ、どのようにして沖縄に伝わったのか、説明文があった。006_2

 それは14,15世紀に、琉球は中国、東南アジアと交易をしていたので、インドで発生した絣が、インドネシアやフィリピン、中国などを経由して伝わったといわれる。

 それが、さらに琉球王府を通じて薩摩(鹿児島)へ渡り、それから全国各地に広がっていったという。

 南風原で琉球絣が盛んになったのは、大正の頃だ。南風原小学校内に織物を指導する補習科ができ、熊本県出身の金森市六という人がその技術指導をしたことや、また彼が宮平や山川に織物工場をつくったこと、さらに那覇の泊の職人たちが、南風原に流入してきたことがあげられる。

 009 絣とは、染め抜かれた経糸(タテイト)と緯糸(ヨコイト)がおりなす図柄のかすれから、絣と呼ばれているそうだ。その柄は、身の回りの動植物や生活道具、自然界からヒントを得て、巧みにデザイン化されているという。
 かすり会館では、女性たちがかすりを織っているし、見学や体験もできる。織りあげ製品化したかりゆしウエアなど販売もしている。絣のかりゆしウエアはとても涼しそうだ。でも、値段はやはり、結構高いので、手が出ない。011

007_2  沖縄の織物についての解説文も掲示されていた。 

 沖縄の織物は、琉球王朝が南方、中国と交易する中で、絣技術、紋織技術など多様な技術・技法を吸収し、育まれてきた。
 薩摩侵攻以後に貢納布制度が敷かれ、さらに琉球王府は「御絵図帳」に基づき御用布を地域割りした。これらの制度が織物技術の推進力となり、八重山の白上布、宮古の紺上布、久米島の泥染めまで、各島各地域ごとに特色ある織物を作り上げてきたという。

 この貢納布の制度によって、庶民は耐えがたいような労苦を強いられたが、ここではそんな歴史はふれていない。

 戦後、沖縄の織物産地としてすぐに復興したのは、南風原の織物だったという。戦前からの伝統があったからだろうか。
 

 かすり会館を出て、集落を歩いていると、織物工房がいくつかある。031  大城廣四郎織物工房もその一つ。かなれ大きな工房だ。もう少し歩くと、今度は、道路わきで糸を張っていた。とても長い糸だ。033  思わぬ場所で、織機に出合った。この地域には、いくつかの石獅子がある。どうしても分からない石獅子があって、小さな商店があったので、行き方を聞いた。店におばさんがいて、親切に教えてくれた。ちょっとしたお菓子や食品類を棚に並べた程度の店だけれど、なんと店内に織機があるではないか。連れ合いがおばさんに聞いてみた。
 「私が織っているよ。自分で売るためはなく、工房に頼まれて織っているのよ」。このおばさんたちは、若い時から織ったことがあるのだろう。工房は、こういう個人で織れる人も使って、外注に出しているのだろう。

 ついでに石獅子も紹介しておこう。
 本部の石獅子は、なにかモアイ像みたいだ。019 020 胴体はない。わずかにシッポが見えるぐらい。

 本部の石獅子は、南南西の方向にある八重瀬町東風平(コチンダ)の八重瀬岳に対するフーチゲーシ(邪気返し)の目的で造られたと伝えられている。前に、ブログにアップしてある富盛(トモリ)の石獅子でも書いたように、八重瀬岳はヒーザン(火山)として恐れられた。火山といっても、噴火する火山ではない。風水で「ヒーザン」と見られたようだ。
 この石獅子は「形態・表情が他の石獅子とくらべ大変ユニークな点も大きな特徴である」(解説文)。
 照屋の石獅子は二つあった。

036_2 照屋の石獅子は、しっかり胴体も長くて、石獅子らしい造りである。ただ問題がある。
 照屋の石獅子は、ヒーザンのある八重瀬岳の方向に向かうのではなく、なんと逆方向の本部の方向に向かって立っている。二つあるどちらもそうである。なぜなのか。
 本部の石獅子は、八重瀬岳に対するフーチゲーシの目的で造ったが、結果的に照屋の集落に向く形となり、それに対抗して造ったので、本部に向かって立っている。
 この背景には、本部と照屋の集落は、かつて湧井戸問題で、しばしば抗争があったとの言い伝えがあり、歴史をしのばせる貴重な石獅子だという。
 052 こちらの石獅子もしっかり本部に向かっている。この付近は、水があまり豊富ではなく、水をめぐる争いがあったのだろうか。053  南風原町はよく通るけれど、じっくり街の中を見たことがなかった。歩いてみると、さまざまな暮らしと歴史の一端が見えてくる。

        

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コメント

織物は本島以外の離島が盛んだと思っていましたけど、そういえば読谷にもあるし首里の花織りというのもありましたね。小さな商店でおばあちゃんが「店は暇だから帯織ってる」というので「ご自分のものですか」と思わず聞いてしまいました。「ううん違うよ、売るもんだよ」といわれて後ろの棚の上を見たらたくさん反物が積まれているのを発見し、「ああ、この人も昔から織り子として腕を鳴らしてきた人なんだな」と思った次第。工房に納めているのかもね。途中、長い糸を張っていた作業は糸ののりづけと染色した糸の模様づけです。150メートルあるっておじさんが言っていたでしょう。織物に携わるのは女性だけかと思っていたので、「男性にも仕事があるんだ」と思いました。
南風原の石獅子のことは私のブログにもアップしましたが、「ケーシ」に対する「ケーシ」っておもしろいですね。それほどの諍いがあったのですね。

 琉球には、いろいろな織物があったんですね。特に、この絣にしても、久米島の紬にしても、中国、南方から入ってきて、それが薩摩から大和に広がったというから、琉球はいずれも日本での発祥の地になる。それも、琉球が交易国家だったからなんですね。
 南風原の商店のおばさんのように、自宅で機織りをしている人がもっといるんでしょう。さすが、絣の里です。糸を張っているのは、糊づけや模様をつける括りという作業なんですね。それにしても、糸は長いですね。
 石獅子は、各地にそれぞれいわれがあるけれど、こういう集落の争いが背景にあるというのは、他では見たことがないですね。本部の住民にしては、意図して照屋に向けるはずはなく、たまたま八重瀬の南南西の方向に照屋があったことによる不幸でしょう。それも対立がなければ、ケーシのケーシまでやらないはずですね。

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