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2011年6月 7日 (火)

奥武観音堂の由来とハーリー

 南城市の奥武島(オウジマ)の海神祭が084 旧暦5月4日、「ユッカヌヒー」にあり出かけた。爬龍船競争のハーリーが有名である。ここのハーリーの由来をめぐっては、他と少し違う歴史がある。それは、丸い小さな島の中央部にある奥武観音堂にかかわる。

 境内に観音堂の由来が書いてあった。
 17、18世紀の頃、一艘の唐船(中国)が嵐に遭い島に漂着した。乗組員たちは、見知らぬ島への上陸をためらっていると、山の上から白衣の美女が現れて「案ずることはない」と言わんばかりに手招きをしたので、喜んで上陸した。島民たちが集まってきて、着物を与え、焚火で体を温め、お粥を炊いて手厚く介抱した。島民の心からの支援に深く感謝し、船を小港(クンナト)の岩につないだ。

 船の修理を終えた乗組員たちは故郷へ帰ることになり、白衣の美女が現れた山の上に入って「我等一行これより帰国せんと思う。無事帰国できるよう神様は我々をお守り下さい。願望がかなったならば、仏様をこの地に祀って浄土としよう」と祈願、無事帰国することができた。
    その後、乗組員から琉球王府を通して、奥武島に黄金の観音像一体と仏具一式を贈ってきた。しかし、王府は、はじめ同名の他の奥武(県内にいくつもある)に安置したが穏やかならず、八方手を尽くした結果、玉城(タマグスク)間切(今の町村にあたる)の奥武島がその地であることがわかり、間切役場を通じて観音堂が届けられたので、一宇の堂を建立して観音像を安置することになった。093 ここに鎮座した観音像は、代々島民の深い信仰を集めて現在に至っているが、この堂は昔、3回にわたり改築されている。観音像は、今次大戦まで無事に安置されていたが、現在は陶製の観音像を安置している。以上は、説明文の要約である。087
 黄金の観音像が戦争前まではあったようだ。沖縄戦の混乱の中で失われたのか、軍に没収されたのだろうか。詳しくは書かれていない。
 この観音堂は、島民の信仰の対象となり、ハーリーは、観音堂に島の繁栄と航海安全、大漁を祈願したのが、その起源だと言われる。
 だから、「ユッカヌヒー」のハーリーでは、最初に観音堂に行って、1年間の航海安全と豊漁、島民の健康と融和、島の繁栄を祈願する。次に、船を出して、「ミシラギ」と呼ばれる拝所に同様の祈願を行ってから、「御願(ウガン)バーリー」をはじめ、7回の本バーリーが競われる。004  ミシラギへの祈願に向かう船には、少年がお供えのお酒を持って乗る。
奥武島は、本島とは海が川のように入り込んでいて、橋でつながっている。その川の対岸のような岩場に、ミシラギがある。この場所は、その昔、遭難した中国の船を繋いだという場所である。
 この観音堂とハーリーの由来は、とても興味深い。というのは、奥武島の島民は、中国の船を助けたので、感謝された側である。救助された中国からお礼に贈られた観音像を深く信仰し、中国の船をつないだ場所を由緒ある拝所として、祈願するというのは、なにか心温まる話だと思う。035

 1965年には観音堂350年祭、1985年には観音堂370年祭、2010年には395年祭と継続してお祭りが行われている。そういう祭りを通して、遭難した船、困っている人々は、どの国の人たちであっても助けることの大切さを語り継ぐことにもなっているのだと思う。海人は、自分たちも海で漁をする限り、いつどのような危険があるかもしれない。だから、互いに助け合うことは、海に生きる人々の心意気でもある。遭難した船を救助したことを通じて、中国と奥武島の島民との肝心(チムグクル)のつながりが何百年にもわたって続いている。そんなことを感じさせた奥武観音堂だった。

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コメント

観音堂の由来を読んで「?」と思ったのは、「白衣の美女が手招きした」っていうところです。漁師の町に「羽衣さん」みたいな人がいたんですかね。漁船が遭難したんだから、助けに来るのも漁民なら素直な表現だと思うんですけどね。まあ、そこは言い伝えの部分だから装飾したのかもしれません。助けた側が助けられた方から贈られた観音様を手厚く祀るというのは、共助の精神が息づいているし、奥武島のような離れ島でさえ中国と親交があったことは琉球の歴史にとって素晴らしいことだと思います。沖縄には中国の遭難船を助けた逸話がわりとありますよね。中国には琉球の船を助けたという話はあるんでしょうかね。何度も奥武島に行ってるのに、観音堂があることを初めて知りました。車で周辺をまわってるだけじゃわからないことがいっぱいあります。

琉球の船もしばしば遭難をして救助されたことはあります。琉球王府の外交文書には、中国と琉球が互いに遭難した船を助けて、乗組員を送り届けた記録がいくつもあるようです。
 中国で助けられた地で、奥武島のようにこんなにいまなお語り継がれている例があるかは聞いたことがありません。
 遭難して大和に漂着したこともたびたびありますね。高知にも漂着して、琉球人から聞き書きしたことを知るした本もあります。
 金武町の観音堂も、遭難した助けられた僧侶が建立したものでした。石垣島では、島に逃げてきた中国人を助け、唐人墓があったけれど、そのすぐそばが観音堂でした。なんか、今年は観音堂をたくさん見ますね。

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