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2011年6月 4日 (土)

金武観音寺を訪れる

 金武町(キンチョウ)といえば、329号線を走っていると「金武観音寺」の案内板が出ていて、一度訪ねたいと思っていたのが、やっとかなった。というのは、沖縄ではとても古く由緒ある寺だからである。069  高野山真言宗金峰山系の観音寺で054 ある。日秀上人が、16世紀に、遭難して金武に流れ着いたという。寺のそばにある鍾乳洞に住み、布教活動を行い、この寺を創建したと伝えられる。

 現存する寺は、昭和9年(1934)に火災で焼失したため、昭和17年(1942)に再建されたものだ。
 沖縄県内の社寺建築の多くは、沖縄戦によってほとんどが焼失したけれど、金武観音寺は幸いなことに戦災を免れた。だから、古い建築様式をとどめた貴重な木造建築である。金武町指定文化財になている。

068  なるほど、首里のお寺もみんな新しい建築ばかりで、コンクリート造りが多い。こういう古いお寺は、大和では普通だが、沖縄ではまだ見たことがなかった。
 沖縄の仏教といえば、琉球の古い時代に全盛を誇ったのは、禅宗であり、なかでも臨済宗だった。いまでも首里のお寺をまわるとその多くが臨済宗である。
 「古琉球時代の仏教は臨済宗一色であったと言っても過言ではなく、政治的にも経済的にも王国と結合して勢力を伸張していったのは臨済宗であった」。知名定寛氏は著書『琉球仏教史の研究』でこう指摘している。「王国に奉仕する鎮護国家的教団であって」、王国もまた全面的に保護していたという。だからお寺は王府のある首里に集中して多かった。
 067
 そんななかにあって、金武観音寺は民衆へ布教に力を注いだ。
「古琉球の禅宗臨済宗が衆庶に対する救済活動を行ったことを示す痕跡を全くと言ってよい程、見出すことが出来ない」といわれる。「日秀が布教・救済の対象としたのは、地方の農民や那覇の庶民という、首里の支配階級ではない一般庶民であったと位置づけることが出来る」(同書)。

066
 日秀が活動したのは金武だけではない。那覇市の波之上の護国寺に阿弥陀、薬師、観音の三像を奉安し、浦添の小峰に経塚を建てた。そういえば、いまは経塚は地名になっている。また、那覇市の湧田に地蔵六像を安置したという。
 日秀上人は,日本に帰り破壊された寺院を再建することを念願していて、のちに薩摩に渡ったという。
 境内には、鍾乳洞があるが、長くなるので次にしようね。

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コメント

庶民救済の宗教が布教されてよかったですね。鍾乳洞に住んだのってまるで仙人みたい。お寺は随分古いのがよく残りましたね。首里のコンクリート造りのお寺はどうもお寺の雰囲気がしないのですよ。護国寺に観音様があったのか。波之上宮に行った時、寄ってみればいかった。

日秀上人は、高野山で修行してから船で遭難して琉球にきたけれど、伝説では金武の人たちに、農業の指導をしたともいわれるので、親しまれたようです。鍾乳洞にもなにかお祀りしたそうですが、残念ながら入ってないので確認はしてません。護国寺にも一度行きましょう。

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