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2011年7月

2011年7月30日 (土)

浦添の仲間の拝所をめぐる、その2

 浦添の仲間集落の発祥と地といわれる拝所がある。クバサーヌ御嶽(ウタキ)である。

026_2  名前はクバの木の下という意味だ。「琉球国由来記」(1713年)には「コバシタ嶽」と記されている。030_2  古老の話によると、この御嶽は、石で積み封じた神墓があったそうである。なるほど、御嶽にはめずらしい石積みの立派な拝所である。昔は、うっそうとした樹木が茂っていたとのこと。古い時代には、クバの木の下で出産したという言い伝えもあるそうだ。031_2

 御嶽の中をよくみると、なにやら丸い鏡が置かれている。なぜ鏡なのか?
 大和の卑弥呼の時代には、銅製の鏡が珍重されたが、この鏡は新しい。なぜなのか、その理由はよくわからないが、なにか理由があるに違いない。032_2

028_2

 近くにサーターヤー跡があった。サトウキビから黒糖を作った製糖所跡である。サトウキビから汁を搾るサータークルマ、汁を煮詰める釜小屋、薪小屋などがあった。
 033_6  案内板にあるイラストをみるとイメージがつかめる。真ん中にあるのが、サトウキビを搾るサータークルマと呼ばれる道具があり、馬に曳かせて回らせると、汁が搾れる。搾った汁は、後方に見える小屋で煮詰めて黒糖にしていく。

 集落で数軒の家で構成する「砂糖与(グミ)」が作業を担っていた。「与」とは「組」のこと。つまり集団で砂糖作りをするグループである。いまもJAの祭りなどでよく黒糖作りをしているが、案外小人数でできる。仲間集落には、なんと8か所のサーターヤーがあり、黒糖を作っていたというから驚く。
   大通りから細い路地を奥に行くと、仲間火ヌ神(ヒヌカン)がある。沖縄では、各家庭で火ヌ神を祀るが、ムラの火ヌ神もある。石を積んだ祠である。近世の仲間村の「地頭火ヌ神」と言われている。
 039  間切(マギリ、いまの町村)や村(今の字)を領地にした地頭が、就任や退任の時に拝んだ。また、首里王府の公的祭祀として、浦添ノロ(神女)が執り行う稲二祭(ウマチー)などでも、他の拝所とともに拝まれたという。
 ただそれにしても、草ぼうぼうで、あまり除草や掃除など手入れがされていない感じだ。

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 沖縄の集落は、御嶽を背にしてその前に集落が形成されるのが通常だが、この仲間も典型的な集落だ。御嶽があり、根殿内があり、仲間ンティラがあり、ムラの火ヌ神があり、樋川があり、サーターヤー跡、御待毛まである。民俗の勉強をするにはもってこいだ。それに前に見ていたから今回は行かなかったが、近くに浦添城跡、王家の墓所である浦添ようどれがある。

 浦添城跡は古くは軍事的な戦略拠点だっただろうが、沖縄戦でも日本軍の重要な陣地だった。この城跡付近と前田高地など、激戦の地となった。この辺りは、戦跡を見る上でも重要な場所である。古琉球の時代から現代まで、幾多の歴史が刻まれた場所である。

2011年7月29日 (金)

浦添の仲間の拝所をめぐる、その1

 浦添市の仲間集落を歩いた。ここは、浦添城跡のそばにあたる。浦添グスク(城)は、琉球の舜天王統、英祖王統、察度王統という伝説上の王統を含めて、中山王の居城だった。琉球統一とともに、中山王は首里城に移ったが、ここは由緒ある古城の地である。

005  そういう歴史ある場所である仲間集落は、古い拝所がいくつもある。集落の中心001 にある自治会館から歩いてみた。
 自治会館の敷地内に上写真の「仲間ンティラ」がある。ティラ、テラと呼ばれる拝所は、寺ではない。多くは、洞穴になっている。ムラの神が鎮座していると考えられている。ここも横穴の洞穴がある。

 沖縄戦で失われ、現在は洞穴一帯は埋め立てられ、再建した祠の中から洞穴に入る形に変わったという。
 仲間の拝所は、史跡の標柱や案内板、説明板がしっかり立てられていて、探すにも分かりやすいし、由来なども説明があってよく分かる。

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 仲間ンティラはじめ各拝所は、旧暦正月の初拝みから、5,6月の稲二祭(ウマチー)、12月の御願解(ウガンブドゥチ)などの年中行事には、ムラ拝みで回るそうだ。

 006  神聖な場所だが、その側の大きなガジュマルの木は、枝をバッサリ切り落として、バスケットゴールが取り付けられていた。広場があり若者が来るのだろう。

 014  すぐ近くに仲間樋川(フィージャー)がある。浦添市内で最も大きい井泉の一つ。仲間集落の村カー(共同井戸)として大切にされてきた。泉から樋で水を引いているので樋川という。
昭和10年(1935)コンクリートの近代的な改修がされた。上部の水タンクに水を貯め、次に洗濯などする「平場」をへて、最後は農具や農作物を水洗いしたり、馬の水浴びなどする「ウマアミシ」にたまるように造られている。

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沖縄戦で大きな被害を受けず、仲間の収容所に集められた数千人の人々の生活水をまかなった。上水道が整備される昭和40年代まで、水を利用する人たちでにぎわったという。

018 いま夏休みで子どもたち10人ほどが集まり、水遊びに熱中していた。グッピー(小さな魚)がいると言って、網ですくったり、水かけをしてはしゃいでいる。楽しくてたまらない様子。時間の立つのも忘れるだろう。中学生らしいニイニイが一人いて、しっかりリードしていた。013  子ども時代に、田舎の川で遊んだことを思い出す。懐かしい光景だ。

 仲間村の草分けの家「根殿内」(ニードゥンチ)があった。草分けの家は普通、「根屋」(ニーヤー)だが、仲間では殿内という言葉が敬称され、「根殿内」と呼ばれているそうだ。

021 説明板によると、浦添の歴史の中心は仲間村であったと伝わっているという。やはり由緒ある集落である。この「根殿内」は、与那覇門中(ヨナハムンチュウ)によって維持・継承されてきているという。門中とは、男系血縁集団のことである。門中が管理しているからだろうか、きれいに清掃されている。
 022 中には香炉など置かれているが、灰が盛り上がるほどあり、いつも祈願に来る様子がうかがわれる。

024_2  近くに「御待毛」(ウマチモウ)の案内板があった。仲間のこの付近は、琉球王府の時代、仲間村を通る二つの公道の分岐点だったので、首里と地方を往来する国王や役人を村の人々が出迎える場所だったことから「御待毛」と呼ばれた。023

2011年7月26日 (火)

もう一つの「門」(ジョー)がある

 沖縄の「門」(ヂョー、ジョー)というのは、大通りや門前の通りを意味した、それが門の意味に転じたことを書いた。でも、この「門」は、実はもう一つ意味がある。それは海人の街・糸満だけにあるものだ。糸満には、ハーレーや大綱曳きを見に行ったけれど、糸満の「門」のことを知ったのは最近のことである。

131          写真は旧正月の糸満漁港の風景

 糸満では、漁民社会にある共同組織を「門」(ジョー)という。もう300年ほど昔から形成された。旧糸満の海岸沿いに、埋立てによって舟だまりがつくられ、入江を挟んで同じ血縁集団を中心に家々の地域共同組織がつくられた。これを「門」(ジョー)と呼ぶそうだ。

110812_123601                        糸満の門のある地区の今の町並み

 漁業の発展とともに、漁家の戸数は増え、「門」は発展し、昭和初期には9つの「門」があったという。門中(ムンチュー、父系血縁組織)など同一の血縁集団が中心になっているので、旧正月の行事や祖先祭祀を営み、日常生活の相互扶助、サバニの運搬や浜掃除、豊漁と海上安全を祈る行事「門願」(ジョーグヮン)など門単位で行ったという。ただし、漁業の糸満で名高い追込漁を門単位で行う慣習はなく、漁業との関係は認められないという。
 戦前すでに海岸沿いに護岸道路が建設され、門は舟だまりとしての入江の機能は失ったけれど、地域共同組織としは存続してきたとのことだ。
 以上は『日本における海洋民の総合研究』の中の満田久義著「糸満漁民の社会構造」からの荒っぽい抽出である。

117         糸満の海人が豊漁や海上の安全を祈願する白銀堂

 これがなぜ「門」(ジョー)と呼ばれるようになったのだろうか。つまりは「門」が通りを意味したので、「その通り(門)を単位とした家並みを一集団として構成されるのが門(ジョー)組織」(加藤久子著『糸満アンマー』)であるからだろう。

 加藤さんは「門」(ジョー)の機能について次のようにのべている。
 「ジョー集団は、ジョーごとに行う『ジョー御願』という行事を生みだした、一年じゅうの守護を願う旧暦二月の立御願(タティウグヮン)、半年間無事で過ごせたお礼と残りの半年間の無事を祈願する旧六月の中御願(ナカンウガヮン)、そして一年間の感謝で締めくくるシリガフーの三回である。旧暦五月四日のハーレーと八月一五日夜の大綱引きの二大行事はもちろんのこと、諸行事はジョーの強い共同性にもとづいて運営されていく」(同書)

 040          二〇一〇年の糸満ハーレー

 門(ジョー)と漁業の関係については、私見としては関係があると思う。門は、本家と分家など血縁集団が中心だったのは、漁業をするうえで強いきずなで結ばれ協力するためでなければ、門を形成する意味がない。豊漁や海の安全を祈願する御願などは、ともに漁業を行うから、御願行事も共同でするのではないか。追込漁がはじめり、多くの人を必要とするし、県外、海外にまで出かけるようになった。門単位の漁業は姿を消したとしも、行事や日常生活の相互扶助などは残ったのではないだろうか。加藤久子さんは、「漁撈活動を核につくられた地縁組織ジョー」と記している。

110812_123901            

 追記
『日本における海洋民の総合研究』の中で益田庄三氏は、追込み漁の「網組単位の漁労仲間の多くが門中であった」「追込み漁と門中組織は強く結び付いている点が注目される」と指摘している。門(ジョー)は、門中など血縁集団が中心だったのだから、門と追込み漁とはやはり深くかかわっていたと見る方が自然ではないだろうか。

 

2011年7月24日 (日)

門(ぢょう)という奇妙な言葉

 沖縄で使われる不思議な言葉の一つに「門」がある。「もん」と読むなら普通だが「ぢょう」と読むからややこしい。民謡でも「西武門節」(にしんぢょうぶし)、「門(ぢょう)たんかー」などの名曲がある。でも、なんで「門」が「ぢょう」なのかよくわからない。
 西武門節は、辻の遊郭に遊びにきた首里の士族と遊女が西武門で別れる情景を歌っている。「♪さあ行くよ、愛しい彼女よ 待って下さいあなた 西武門まではお供し送りますから」と歌い出す。「門たんかー」は別名「具志川小唄」と呼ばれる。「♪門の真向かいに 美しい若者がいる でも恋は七軒、八軒越えて縁を結ぶものだよ」と歌い出す。132          辻の伝統行事の「旧二十日正月」で行われる「ジュリ馬」

 「川平節」でも、男が遊女に「♪笠に顔を隠して忍んで来るばかり 御門に出てきて下さい 思いを語り合いたい」と歌う。これらの民謡はいずれも恋歌である。

 ところで、沖縄学の父といわれる伊波普猷さんの著作に、「門=ぢょう」について調べた論考があった。結論からいえば、「門(ぢょう)」とは、最初から家の門とかを意味するものではなかった。そういえば、沖縄では大和のお寺の門のような家の門はあまり見かけない。赤瓦の古い民家は、入口は門というより、衝立のようなヒンプンがある。

 伊波さんは言う。「一言以て之を蔽へば、最初『原野』を意味したヂョーが、漸次『大通り』『門前の通り』の義に転じて、遂に『門』に縮用されるに至った」(伊波普猷全集第4巻「フカダチ考」)。

 伊波さんがこれを考察するきっかけは、沖縄語の「門」を意味するヂョーという語が、喜界島の方言では「門前の道路」の意味になっていることに注目したという。沖縄では、いま「門、ヂョー」といえば、文字通り「門」のことだと思われているが、そうではないとのこと。はじめは原野のことを意味し、それが次第に大通りや門前の通りの意味に転じて、そしていまは門のことを指すようになったという。

 例えば、首里城の守礼門に上る「綾門」(あやじょう)や那覇市の「久米村大門」(くにんだおほぢょう)のような大通りの固有名詞になっている。守礼門と中山門という二つの門の間にある大道だから綾門といった。のちに「綾門大道」(あやじょうおふみち)と呼ばれたが、「それはヂョーの原義(注・門前の通りの意味)が忘れられて、綾門に余計な大道を附けた」ためだと指摘している。

 そういえば、「川平節」の歌詞にある「御門に出ぢみそり」というのは「ご門を出てきて下さい」というよりは「通りに出てきて下さい」という方が、意味が通じる。「門たんかー」も、「門の真向かい」というより、「通りの真向かい」と解釈する方がしっくりくるかもしれない。「七門、八門越ちん縁どぅ選ぶ」とも言って、門を家の門の意味で使っているので、この曲では家の門の義だろう。

 「久米村大門」は、中国から渡来した人たちが住んだ久米村を東西に二分する久米村大通りのこと。かつて大通りの両入り口に関門が設けられたため、古くは久米の大通りの意味を有していた大門の名称は、後世この大通りの南の入り口の名にされ、北の入り口を西武門(にしんじょう)と呼ぶようになったという。沖縄では北のことを「にし」と読むので、「西武門」とは「北の門の義」だという。005         久米大通りを通る「なんみん祭」の神輿行列。文章とは関係ない。

 この西武門はちょうど、遊郭の辻への入り口にあたったため、遊女と士族の別れの場所にもなったのである。

 「門、ぢょう」が、大通りや門前の通りを意味する言葉であったことは分かったが、では、なぜ「門」を「ぢょう」と呼ぶのかについてはやはりよく分からない。徳川時代に、表と奥の界に設けた出入り口を「御錠口」(おぢょうぐち)を呼んだそうで、「錠」が転じて「門」になったのかな、と思ったが、伊波さんはそうではないと述べている。

 でも「門」という字は、その象形からして家の門をイメージしてしまう。「門」には本来「ぢょう」の読み方はないだろう。原野や通りを意味する「ぢょう」はもともと別の漢字だったのが、いつの間にか「門」の字があてられるようになったのではないのか、依然として疑問が残る。

 

2011年7月20日 (水)

カチャーシー・六調・阿波踊り

 沖縄でなにかあるとすぐ乱舞するカチャーシーと、すこし早いテンポで踊るところで共通点がある奄美などの六調と阿波踊りの関係について、前のブログに少し書いたが、仲宗根幸市さんの『「しまうた」を追いかけて』の中でふれているので、紹介しておきたい。

 カチャーシーは「カチャースン」の名詞化で、「カチャ」はマレー・インドネシア語の「かきまぜる」の意。混然一体となって化合し、感興の渦の中に入る状態をさす。早弾きのカチャーシー民謡曲と乱舞をひっくるめた呼称。はしゃぐ、うかれさわぐ「ゾメキ」の王様だという。

      写真のように、沖縄ではなにかあれば、おじいもこどももすぐカチャーシーを踊る。 045  阿波踊りとの関係について、乱舞をともなうゾメキの芸能として共通点はあるが、違いも目立つ。伴奏はまったく関係ない。踊りはカチャーシー独特のこねり手、腰の使い方、足の運び、さざ波のように揺れる身体の動き、乱舞の発生についても、大きく異なるという。

 奄美の六調については、発祥は日本本土だという。手をこねり、足腰を使い自由奔放、乱舞する。その基本は沖縄と同じだが、歌は一曲一民謡(六調)でヤマト系、ヤマトグチ(共通語)で早弾きだとする。

 つまり、これで見ると、カチャーシーは奄美の六調とはまるで異なる系列に属する音楽と踊りのようだ。でも、六調は、奄美と八重山にも分布しているが、沖縄音楽とは明らかに異なる。ヤマト系であり、その点では阿波踊りとは、共通点がありそうだ。
 興味のある方は、ユーチューブで見て聞いて比べてみて下さい。

 

2011年7月18日 (月)

徳之島と宮古島をつなぐもの

 NHKテレビで徳之島の高校に闘牛研究会があることを紹介していた。闘牛の場面が出てきたが、そこで「ワイド節」という民謡が歌われていた。「ワイドワイドワイド 我ぎゃ牛ワイド全島一ワイド」というように歌う。闘牛のさいも「ワイド、ワイド」と盛んに叫ぶ。「わっしょい、よくやった」というような意味があるという。

 この「ワイド」という言葉は、沖縄にもある。ただし宮古方言である。宮古では「頑張れ、頑張れ」というような意味で使う。宮古の人は「ワイドワイド」とよく使う。写真の宮古出身の民謡歌手hiraraさんも使う(写真は09年の真和志祭りに出演した時のもの)。
 徳之島とは少し意味あいが違うようだ。でも語源的には共通のものではないだろうか。

 でもなぜ、本島では使わない言葉が、本島を飛び越して、徳之島と宮古島だけで使うのだろうか。不思議である。その理由はよくわからない。029

 一方、民謡では「六調(ロクチョウ)」と呼ばれる音楽が奄美諸島にある。三味線や太鼓で激しくリズムを奏で、踊る。奄美では結婚式や祝い事ではかならずこの六調節で、みんなが踊るそうだ。沖縄でいえば、カチャーシーのような存在である。でもカチャーシーとは明らかに違う。
 ところが、この六調は、沖縄本島にはないのに、なぜか八重山にある。八重山で、踊りといえば、カチャーシーではなく、六調になる。

 三線の三弦を上下に往復させて弾き鳴らすことから、この名前がついていると聞いた。これも、なぜ本島や宮古島にはなく、奄美と八重山にだけあるのだろうか。宮古島は「クイチャー」という声を合わせて歌い踊るリズムがある。宮古はクイチャー、本島はカチャーシーがあるから、六調を必要としなかったのだろうか。これも不思議である。

 この六調は、実は徳島県の阿波踊りととても似ている。なにか共通点があるのか。確かに響きは大和的な感じがある。明治の初めに奄美や八重山に伝わったという人もいる。たしかなことは、私にはわからない。

 ただし、民謡や踊り、それに言語にしても、伝わり方は一様ではない。琉球弧の島々があるから、島づたいに順番に伝わるというものでもない。伝わるということは、伝えた人がいるということである。なんらかの理由で芸能や言葉を持った人が、移ってきて伝えたとか、交流があったとか、考えられる。

 なにしろ、琉球弧の島々や九州も、海でつながっている。黒潮が流れている。昔から航海があった。そこには人々の交流があった。文化や言葉も伝わった歴史がある。伝わり方が、島づたいではなく、飛び越す形で伝わっても少しも不思議ではない。

 いまでも、阿波踊りは、東京の高円寺で盛んに踊られている。エイサーも新宿で踊られる。高知のよさこい節は、北海道でソーラン節と結びつき、「よさこいソーラン祭り」として盛りあがっている。

 関係ないけれど、宮古島、石垣島では、鉄人レースといわれるトライアスロン大会が名物になっているが、徳之島でも盛んである。でも沖縄本島にはない。そんな共通点もある。

 芸能や言葉も日々、新しく生れ、発展し、いろんなところに広がっていることは確かである。

2011年7月16日 (土)

金子みすゞ「こだまでしょうか」は沖縄では

 金子みすゞの詩「こだまでしょうか」がテレビのACのCМで流され話題になった。
「遊ぼう」っていうと、「遊ぼう」っていう。
「馬鹿」っていうと、「馬鹿」っていう。(略)
「こだまでしょうか」、いいえ、誰でも。

 この「こだまでしょうか」は沖縄では、どうも素直な「こだま」は返ってこない。真逆の「こだま」ばかりが返ってくる。16日付の新聞を見てそう感じた。

 沖縄県議会が垂直離着陸МV22オスプレイの米軍普天間飛行場への配備の撤回を求める決議と意見書を全会一致で可決した。代表が、米軍キャンプ瑞慶覽に撤回要請をした。

「配備は撤回すべきだ」というと、「配備する」と米側は言う。撤回を拒否した。

 県議会代表は、米空軍嘉手納基地でのパラシュート降下訓練にも、中止の要請をした。
「パラシュート降下訓練は中止を」と求めると、「降下訓練はする」「事前通知もしない」と言う。

 この間の基地をめぐる問題は、すべてこんな「こだま」ばかりである。
普天間基地の辺野古移設には、「県内移設反対」が県民の総意である。
 「県内に移設するな」というと、「辺野古に移設する」と米側も日本政府も言う。
 「戦闘機は深夜・早朝に飛ぶな」というと「深夜・早朝も飛ぶ」と言う。

 米兵や軍属が、県民を死亡させる交通事故は後をたたない。
 「事故を起こした者を引き渡せ」というと「公務中なので引き渡さない」という。
 「起訴すべきだ」というと、「起訴しない」と検察も言う。

 県民の切なる願いにもとづく要請に対して、なぜいつもこんな「こだま」が返ってくるのでしょうか。宿命でしょうか。
いいえ、アメリカに卑屈な政治のせいでしょう。

 金子みすゞの「こだまでしょうか」にヒントをえた「琉球新報」7月6日付の一面コラム「金口木舌」は秀逸だった。まだ読んでいない人は、ぜひご一読を。
 私の雑文も、下手な真似ごとにすぎない。

2011年7月15日 (金)

民謡には雲がよく歌われる

 沖縄の空は一年の大半は入道雲がわいている。青空に白い雲がポカリポカリと浮かぶ。「世界の各地の空を見たけれど、沖縄の空の雲は一番美しい」と言ったラジオの人気DJもいる。空を見上げるとなるほどの思うことがよくある。

 民謡には、この雲がよく歌われる。それは、まるで人の姿や顔に見えたり、島に見えたりする時があるからである。雲を歌った代表的な歌に「白雲節」(シラクムブシ)がある。007「♪白雲ぬ如に 見ゆるあぬ島に 飛び渡てぃ見ぶさ 羽ぬ有とてぃ」
  (白雲のように見えるあの島に 飛び渡って見たい羽があれば)
「♪飛び鳥ぬ如に 自由に飛ばりてれ 毎夜行ぢ行逢てぃ 語れすしが」
  (飛ぶ鳥のように自由に飛べたなら 彼女のもとに毎夜通って語り合うのに) 
「♪我が思る無蔵(ンゾー)や 白雲ぬ如に 見ゆるあぬ島ぬ なひんあがた」
  (私が思いを寄せる彼女は 白雲のように見えるあの島のさらに向う側にいる)
「♪我がや思み尽す だきに思ゆしが 渡海(トケ)ゆ隔(ヒ)ぢゃみりば 自由ねならん」
  (私が思い尽くすほど恋しい彼女だが 海を隔てて離れていれば 自由にならない)
「♪例い渡海隔ぢゃみ 別りやい居てぃん 白雲に乗してぃ 思い知らさ」
  (例え海を隔てて離れ別れていても 白雲にこの思いを乗せて知らせなければ)
「♪一人淋々とぅ 眺む白雲ん 無蔵姿なとてぃ 忘りかにさ」
  (一人で淋しく眺める白雲が 愛しい彼女の姿に見えて 忘れられない)

006 もう一つ雲の登場する民謡を紹介する。「多良間ションカネー」である。多良間島の唄だ。島に赴任してきた役人が現地妻をもらい、子どもももうけるが、任期が終わり離れなければならない。その別れの辛さを歌った名曲である。雲が登場する歌詞だけを紹介する。

「♪あがずん立つ白雲だきよマーン わあらんゆ立つ ぬり雲だきよスウーリ うぷしゃなりわらだよスウーリ 主がなすよ」
 (東方に広がる白い雲のように 上方に見える大きな雲のように 出世してもう一度 島に帰ってきて下さい)

 「あがずん」と書いたのは、実は違う。「ず」ではなく「す」に「。」がつくのが正しい。でもそんな字はないので出ない。宮古島の民謡ではよく使うが、発音も難しくて、説明を何回聞いてもいまだによく分からない。

 この唄は、何年も家族としてともに過ごした役人が島を離れる。空に浮かぶ白い雲のように、大きな雲のように、出世をしてぜひもう一度帰ってきてほしいという、女性の願いを込めた唄である。現地妻の悲哀が表現されている。

 

2011年7月10日 (日)

小禄の具志を歩く、その3

 小禄(オロク)の具志といえば、「その2」でふれたが、基地に土地を奪われた地でもある。
 具志は、戦前まで肥沃な土地で豊かなところだった。サトウキビをはじめ、特産品のスイカなど作り、農産物を那覇や糸満その他に出荷し安定した生活をしていた。ところが戦後、米軍によって全耕地の90%が軍用地としてとられた。さらに米軍は、1953年11月、区民1500余人に残された田畑からも農作物を取り除き明け渡せと命じてきた。

 残っていた最後の土地も失うことは死活の問題である。同年12月5日、ブルドーザーによる工事に抵抗する住民にたいして、米軍は350人の完全武装兵と、装甲車14,5台、機関銃や機関砲、催涙ガス弾、手榴弾まで動員した。座りこむ住民を包囲し、銃剣をちらつかせ、軍靴でけり、毛布をかぶせて溝に突き落とし、住民を追い立てた。

 住民たちは、翌日には村民大会を開き、7日には「金は一年、土地は万年」「土地を守るものが平和を守る」などのプラカードを掲げて、行政府や立法院へのデモ行進を行うなど、ねばりづよくたたかったという。

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 いま具志を歩いているだけでは、当時の抵抗を物語るものは見当たらない。  写真は、現在の具志の集落内のメーミチ広場。ここで7月31日に大綱引きが行われる。。

 001_3 上は具志自治会館。立派な建物だ。その側に、「結」(ユイ)の文字が彫られた歌碑があった。歌碑は「結は尊し人の道なり」と歌われている。会館の建設関係業者の寄贈だという。

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具志を歩いていて目に付いたのは、「その1」で紹介した「和合躍進」の言葉である。具志うたきの碑だけではなく、こんなところにもあった。これは、祭りの時に登場する旗頭に取り付けられているノボリの標語が「和合躍進」である。002  このポスターは、旗頭を支える持手の募集を呼び掛けるものである。中学生以上で興味のある人ならOKだそうだ。この旗頭のノボリは、それぞれ地域によって異なる。それぞれの地域ごとに、住民の心意気を示す言葉を掲げている。「和合躍進」は、具志の住民の気持ちを現わすシンボルのようだ。
 自治会館がお休みで聞けなかったので、私の勝手な推論になる。「和合」とは辞書によれば「仲良くなる 親しみ合う」という意味だ。それだけでなく、「統一や調和、協力」という意味もあるという。018  いつから使われたのか知らないが、私には軍用地として大切な土地を奪われることへの抵抗や苦難の歩みとなんらかの関係があるのではないだろうか。そんな気がしてならない。苦難に直面しながら「みんなが心一つに協力してこそ未来が開ける」という思いが感じられる。もし間違っていたらごめんなさいである。

 いま手元に『反戦地主の源流を訪ねて』という本がある。この中に具志の反戦地主、上原太郎さんの手記と1956年に発表された「具志区民の祖国同胞への訴え」が収録されている。これを読むと、具志の土地を守るたたかいの一端にふれることができる。最初に書いた土地を奪われた経過は、主にこの本から紹介したものである。
 具志を歩いたことから、具志の苦難の歴史を知ることができた。

 005  大綱引きのお知らせが掲示板に張ってあった。

追記
 後日、連れ合いが具志自治会館に電話で問い合わせをしたさい「和合躍進の意味は? 戦後の土地を軍用地にとられたことへの抵抗のたたかいも込められたものですか?」と尋ねた。「和合躍進は、みんなが協力して村を発展させようという意味です。戦後の先人たちの歴史も含まれているようです」とのことだった。私の推測も間違ってはいなかったようだ。

 

2011年7月 9日 (土)

小禄の具志を歩く、その2

048 小禄(オロク)の具志(グシ)回りは、由緒ある史跡があった。「火立所」、俗に「火立毛」(フィータティモー)と呼ばれた。
 これは琉球王国の時代、中国からの進貢船の帰港、皇帝の勅使が乗った冊封船や異国船が来航した時、いち早く首里王府へ伝えるための烽火台跡である。

 1644年、沖縄本島と周辺の離島、八重山・宮古諸島に烽火をあげる火立竈、遠見番所が設置された。火立所では、付近の百姓が3交替で見張り役を務めた。なぜこの具志の地なのか。地図を見ればよく分かる。

 下の写真の地図でみるように、本島でも具志は慶良間諸島とはもっとも近い場所にある。だからこの地で、慶良間諸島からの烽火を受けた。受けるとすぐ首里へ知らせるとともに、早馬を出して那覇の親見世(那覇の行政を司る役所)へ報告した。

 沖縄戦のあと、周辺は米軍基地として接収され、1972年の日本復帰とともに航空自衛隊に継続使用されたが、1976年に一部地域が返還された。そして区画整理によって街区として整備されたという。
 具志が米軍基地として接収されたことは、知っていたが、この周辺が返還された地域と知らずに、見ていた。道理で具志うたきなどある場所は、昔からのスージグヮー(細い道)の集落だが、火立所跡のある周辺は、整備された住宅地になっているだずだ。火立所跡の案内板は、なんとライオンズマンションの玄関口に立っている。047_2

051_2                                                                    次いで行ったのが、原石(ハルイシ)と呼ばれる石がある場所だ。これは、琉球王府の時代に、測量をするときに使った図根点だと聞く。いまなら三角点のようなものだろうか。

 原石は、前に字小禄を歩いた時も、いくつもあると聞いたが、何回歩いても分からなかった。見つけにくい。

 今回も、案内の図を見て探したが、わからない。ところが、連れ合いがこんもり土が盛り上がった松の木の根元にあるのを見つけた。やっと探せた。

 「ふくし」という字が見える。何を意味しているのかは分からない。
 

 ついでに、具志を歩いていると、面白いシーサーなどに出合う。003 シーサーは、家の守ってくれる。

 この写真は、シーサーが珍しいのではなく、石敢当がやけに小さく、しかもシーサーと並んで立っているのが珍しい。石敢当は、魔物は直進してくるので、三叉路には必ず魔除けとして立てられている。

 門に置かれるシーサーは、普通左右1頭ずつだが、このお家は贅沢にも左右2頭ずつ置かれ、合計4頭が門の上にデーンと鎮座している。とても表情も可愛い。039

 040

 さらに歩いていると、がじゅまるらしき木が壁と一体化した家に行きあたった。036 壁の中にがじゅまるがめり込んでいく感じである。スゴイ!。まあまだ面白いところがいっぱいあるが際限ない。
 具志の軍用地接収のをめぐる話を書いておきたいが長いのでこれも次にしようね。

2011年7月 8日 (金)

小禄の具志を歩く

 那覇市の南西にあたる小禄(オロク)の具志(グシ)の集落を歩いた。昔からの道や拝所が残っている。最初に、小高い丘の上にある「具志うたき(御嶽)」に行った。012  うたきは普通、漢字で書くがこちらはひらがな。それに御嶽といえば、うっそうとした森や大きな岩のある場所が多いが、こちらは広場があり公園になっていて、その一角に立派な拝殿がある。013  これほど立派なうたき(御嶽)もあまり見ない。ただ、拝殿の周囲は厳重に格子や囲いがあり、カギがかけられ、中もよく見えない。なぜか「和」の字が見える。「具志うたき」の碑の裏側にも「和合躍進」の標語がある。なにか訳がありそうだ。011 018

014 小さな拝所もあるが、「火ぬ神」だろうか、よくわからない。

 この丘からの眺めはとてもよい。026

 023

 

 丘を少し下ると、別の拝所に出る。「くらさ拝所」の碑がある。こちらも「くらさ」はひらがなだ。本来は漢字があるはずだ。

 さきの御嶽もこちらの拝所も「具志協友会」が改築したと記されている。17年ほど前に改築されたようだ。

 こちらには、2か所立派な拝殿がある。

027  028 こちらはガラス戸になっているので内部がよく見える。香炉などたくさん並んでいる。何をお祀りしてあるのだろうか。あとから近くを歩いていたおじいさんに連れ合いが「具志うたきとくらさ拝所はどういうものですか?」と尋ねてみた。「うたきは、神様がいるところだし、くらさ拝所は、まあ先祖をお祀りしているところだ」という答えだった。上の写真は、何も表示がないが、門中(男系血族集団)ごとに先祖を祀っているのだろうか。031  御嶽は通常、海の彼方にあると信じられているニライカナイにいる神々が降りてくる神聖な場所である。くらさ拝所は、先祖である。先祖も神になり、子孫を守ってくれると信じられている。そういえば、下の写真の拝所の中をのぞくと、「久良佐按司世」とか「大里按司之子(南山持ち降り)」とか4つほどの名前が見える。按司は豪族のような存在だった。昔この地域を治めていたのだろう。

033  「くらさ拝所」の名の由来は、たぶん「久良佐按司」から来ているのだろう。この日は具志自治会館も休みで詳しいことを聞ける人がいなかった006_2 。私の勝手な推測である。

 湧水の井戸(カー)もいくつかあった。はじめ見たのは古村屋(フルムラヤ)の井戸跡。こちらは、井戸はもうない。小さな拝所だけが残っている。

 少し先に「ヌールガー」があった。カーといても、いまは厳重に鍵がかけられている。中ものぞけない。008 左側には、拝所がある。水は命の源であり、御願(ウガン)の対象である。007_2  もう一か所、「ウッカー」があった。043 やはり、厳重に鍵がかけられている。左上には拝所がある。

021  具志うたきに碑があり、綱引きのことを書いていたので、ふり返りたい。碑文では、戦前は旧6月25日には具志綱引き祭りが盛大に行われた由緒ある場所であると記されている。
 ことしは「豊年祭」として7月31日、「メーミチ」と呼ばれる集落内の通りで、大綱引きが行われるという。下の写真の石が、綱引きで中心点になるという。

042 まだ書くことがあるが、長いので次にしようね。

 

2011年7月 6日 (水)

危険な自衛隊のF15戦闘機

 航空自衛隊那覇基地所属のF15戦闘機が1機、東シナ海上で戦闘訓練中に消息を絶った。垂直尾翼が確認され、墜落したと見られる。
 実は、わが家からは、那覇基地を飛び立つ自衛隊機が毎日のように目撃される。民間旅客機も飛び立つのも見える。でも、戦闘機は爆音がまるで異なる。「空の暴走族」と勝手に名付けている。しかも、1機だけで飛び立つことはない。必ず最低2機は飛ぶし、通常は4機が次々と飛び立つ。「なぜ4機なのか」と思っていたが、事故が起きてから分かった。
 墜落したF15戦闘機は5日、4機が飛び立ち、模擬空中戦を行っていたという。2機がペアになり、敵機に想定した各1機と3手に分かれて戦闘訓練をするそうだ。
 いつも4機が飛び立つ理由はこれだったのだ。
 それにしても、危険なのは米軍機だけではない。自衛隊の戦闘機もとっても危険である。県内では、1980年6月に、那覇基地内でF104戦闘機が着陸に失敗し、炎上してパイロットが死亡した事故がある。2008年9月には、やはり那覇基地所属のF4ファントム戦闘機が那覇空港に着陸したさい、タイヤがパンクし、空港が一時閉鎖されたこともある。

 とくに、那覇空港は民間航空機が頻繁に離発着するのに、戦闘機も使用するという軍民共用の空港とされている。危険極まりない。市民も、旅行客もつねに危険と隣り合わせの状況にある。
 自宅から朝、空港を見ていたら、軍用機とみられる航空機と民間旅客機が、あわや接触かと思われるほど、近くで交差したので、これはニアミスだと思い、空港に問い合わせたこともある。一応、遠くからは重なるように見えても、実際には距離は離れており、ニアミスは起きていないという回答だった。
 でも、旅客機と戦闘機が同じ場所から、同じ方向に飛び立つ姿を見るたびに、「なぜ、こんな沖縄の空の玄関口で、地方空港でも有数の離発着の多い那覇空港を軍民共用にするのか!」と疑問と憤りを覚える。
 今回のように、墜落事故が起き、パイロットも行方不明という事態を見ると、いつか那覇空港付近でや空港でも、墜落や着陸失敗の事故が起き、惨事になるのではないかと危惧する。
 一応、自衛隊の戦闘機は那覇市内の上空は飛ばないことになっていると航空自衛隊では説明する。でも海上であったも、漁船や客船、フェリーが頻繁に航海している。
 それに、自衛隊のヘリコプターはしょっちゅう、わが家の真上を騒音をまき散らかせて通過する。また、米軍の戦闘機は、毎日のように那覇市内の上空を爆音をとどろかせて飛んでいる。

 那覇空港を軍民共用とするのはやめてほしい。もともと自衛隊であろうと米軍であろうと、基地がある限り、県民は爆音や事故の危険にさらされている。沖縄に危険な軍事基地はいらない、という思いを新たにする。

2011年7月 5日 (火)

恩納節の不思議

 恩納(オンナ)村と恩納ナビーのことを書いたついでに、琉球古典の名曲「恩納節」をめぐる不思議について書いておきたい。
 なにが不思議なのか? いま「恩納節」の歌詞として歌われているのは、恩納ナビーの詠んだ「恩納松下に 禁止の牌の立ちゅす 恋しのぶまでの 禁止や無いさめ」である。
 歌意をもう一度紹介する。「恩納間切(今の町村)の番所(役所)の前の松の木の下に、禁止令の札が立っているが、恋をすることまで禁止ではないだろう。若者よおおいに恋をしよう」。

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 この曲は、琉球王府の時代、宮廷の祝儀の際に、国王の前で演奏された「御前風五節」に入っていた。5曲とは「かぎやで風」「恩納節」「中城はんた前節」「長伊平屋節」「特牛節(クティブシ)」である。
 「体制を批判した歌が御前演奏歌に組みこまれるだろうかという疑問を呈する人もいる」(大城米雄編著『沖縄三線 節歌の読み方』)そうである。
 「琉球新報」2011年2月15日付でも、仲本安一さんが「恩納節、その歌詞の謎」として、同様の疑問を提起されていた。
 ただし、「恩納節」の歌詞は、ナビーの「恩納松下⋯⋯」の歌詞だけではない。「琉球古典歌詞集には恩納節として、十一首載せてあるが一番目が『恩納松下に』」であるという(『節歌の読み方』)。
 琉球古典音楽は、安富祖(アフソ)流、野村流などの流派がある。流派によって、「恩納節」の歌詞が異なる。伝統堅持を重視する安富祖流は、ナビーの詠んだ琉歌でも、別の歌を使っている。
 「恩納岳のぼて おし下り見れば 恩納松金が手振り美(ギヨラ)さ」。歌意は「恩納岳に登って見下ろして見ると、恩納松金の手振りが美しい」である。ここで松金とは、前に紹介した伝説でナビーと恋仲だったという金武の松金のことを指すのではないだろうか。
 「安富祖流工工四は『恩納松金』を頑固に守っています」(「琉球新報」4月7日付、宮里整氏)ということだ。

001
 野村流は、尚泰王の時代に、「古典音楽は高尚すぎて難しいので簡略にせよという尚泰王の命を受けた野村親雲上(ペーチン)の改革ででき」た(前述の宮里氏)とのことである。
 この野村流は、「恩納節」と歌詞として「恩納松下⋯⋯」の琉歌を採用している。国王の命により整備、編纂したので、「野村工工四」を「欽定工工四」と呼んでいる。いまでは、「恩納節」といえば、「野村工工四」の「恩納松下」の歌詞が一般的になっている。

 ここからは、素人ながらの私的意見である。国王の前で演奏する御前風五節に、「体制を批判した歌がくみこまれるだろうか」という疑問は、的を射ているだろうか。私はそうは思わない。
 その理由は、一つには「恩納松下」の歌詞の内容は、琉球王朝の体制そのものを批判している歌ではないこと。
 つまり、ナビーは一方では、国王を讃える歌も詠んでいる。王府時代の庶民が体制まで批判するのは困難だ。批判すれば極刑まで覚悟しなければいけない。松の木の下に立つ禁止の札は、野原で歌い踊る「モーアシビ」(毛遊び)を禁止したもので、恋まで禁止していないというのは、王府の命令を無視したものではない。立て札の裏読みをしているだけである。まあ、それを言うのも勇気がいることではある。でも、庶民のしたたかでたくましい知恵がある。恋への大らかな賛歌がある。立て札を立てた役人も苦笑いするだろう。

 第二に、野村流の工工四(楽譜)の編成は、国王の命令であり、「出来上がったら国王に献上すべき性質のものであり、また、これは国王もお用いになり、お歌いになる時の楽譜にもなるので、歌詞のことは厳選に厳選を重ねて御側仕の方々御一同の意見も伺ってから決めたもの」であることだ(『節歌の読み方』から。中村完爾『嗣周・歌まくら』の引用)。
 国王に献上し、国王も用いる楽譜の「恩納節」の歌詞に、厳選された結果として「恩納松下」の歌が選ばれている。このことは、この歌詞が「恩納節」にふさわしいとして、公認された結果ではないだろうか。
 ということは、国王の前で演奏する「御前風五節」の「恩納節」が、「恩納松下」の歌詞で堂々と演奏されることは、何も不思議ではなく、当然のこととではないだろうか。

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 国王の前で演奏する曲の歌詞に、「恩納松下」のような、王府の禁止命令の立て札にも、いささかもひるまない、大胆でおおらかな琉歌が採用されていることは、それはそれでなかなか面白い。興味深いものがある。
 首里王府と国王が、なかなか度量が大きいというか、とくに、恋を賛美する歌にたいして、あれこれ文句を言わない、寛容であったことが伺える。
 古典音楽であっても、その歌詞の中身は、恋歌がとても多い。御前風五曲に入っている歌でも「中城はんた前節」の歌詞(歌意)をみても「飛び立つ蝶よ 待ってくれ 私を連れて行ってくれ 花の元へ(遊郭) 私は知らないから」という内容だ。これだって、国王の前で演奏するのにふさわしい歌かといえば、首をかしげるかもしれない。でも、そんなことはない。堂々と演奏された。
 そういうわけで、「恩納松下」のような歌詞の「恩納節」が、国王の前でも演奏されたことを想像するだけでも、なにか楽しくなる。こういう大らかな精神があってこそ、芸能も豊かに花開くだろう。そこには、琉球王国の芸能の誇るべき伝統があり、財産があるように思う。 

         

2011年7月 3日 (日)

地域福祉祭りで民謡ショー

 近くの老人福祉センターが中心になった地域福祉祭りが2日の土曜日に開かれた。祭りでは、福祉センターの館内で舞台発表があるが、それとは別に野外の公園で民謡ショーやエイサーが披露された。といっても、見に行ったのではなく、誘われて民謡ショーに出演した。002  公園の「おまつりひろば」では、バザー、屋台、フリーマーケットなどテントが並ぶ。民謡ショーは、午前と午後の2回、15分ずつあった。当初は、民謡教室の先生ら2人も参加し、6,7人になる予定だった。それが本番直前になり、先生らは参加できないというので、われら4人の仲間だけで演奏に望んだ。
 曲目は第1回目が「祝節」「めでたい節」「砂辺の浜」「伊計離島」「繁昌節」の5曲。2回目は「豊節」「新安里屋ユンタ」「新デンサー節」「屋慶名クワデサー節」の4曲だった。 

 こういう祭りでは、情け唄は似合わない。お祝いやめでたい唄、テンポの軽快な唄が盛り上がる。だから、選曲もそういう点から選んだ。025  平均年齢は70うん歳というおじい4人組である。私が最年少で、ナイチャーも私だけだ。「あんたは、ホントは沖縄生まれじゃないの。歌三線が好きだから」と冗談で言われる。まあ民謡が好きなことでは、4人とも共通している。Kさん、Fさんは、毎週土曜に公園で、路上ライブをしているくらいだ。祭りの前には、やはり公園に集まり、3時間ほど練習を重ねた。
 本番では、三線にマイクを差し込んだKさんが、音量のスイッチを入れてなく、スピーカーには三線の音が小さくしか入らないハプニングがあった。5曲を連続で演奏するのは、けっこうしんどい。午前、午後の2回を無事に演奏し終えた。演奏はうまく合っていたと思う。
 といっても、聴衆はほとんどいない。1回目は若い女性2人連れがすぐ前で聞いてくれた。2回目は木陰でおばあが椅子に座って拍子をとりながら聞き入っていた。他に、売店のテントの中にいる売る人やお客が聞いているか、いないか知らないが、まあ聞いていたとしよう。
 少ない聴衆だからといって、手抜きはしない。4人は汗だくになりながら、熱唱した。
 連れ合いが動画で撮影してくれたので、家に帰ってみたら、予想以上によく合っているし、上々の出来だと自己満足した。「上等じゃないか」。4人とも満足げだった。
  012 人気があるのは、ヒップホップダンス。エイサーを踊る子どもたちも、ヒップホップには見いっていた。もうリズムに酔いしれて、いっしょに踊りまくる子どももいた。013  子どもを中心にしたエイサーの集団が、この地域にもいくつかある。この祭りでは、2つの集団がエイサーを披露した。エイサーだと、親がたくさん見に来ているかな、と思ったが、こちらもあまり聴衆はいない。売店などの人が見ているぐらいだ。それでも暑い中で、太鼓を打ち鳴らし、躍動感ある踊りを見せてくれた。018 014

2011年7月 1日 (金)

「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」誕生秘話

 反戦島唄の傑作「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」について、前に書いたが002 、7月1日、NHK沖縄の「沖縄の歌と踊り」で「戦世を歌い継ぐ」と題してこの曲がどのようにして生れ、歌い継がれてきたのかを30分番組で紹介した。この曲の誕生のいきさつと作者の比嘉恒敏(コウビン)さんのことを知りたいと思っていたので、とてもグッドタイミングな番組だった。
 以下の写真は、NHKのテレビ画面から紹介する。

 004

 恒敏さんは、読谷村楚辺に生れ、1939年に23歳で大阪に出て、妻と次男を呼び寄せた。1944年、両親と長男を呼んだが、乗船したのが対馬丸で、米軍に撃沈され亡くなった。妻と次男は大阪の空襲で亡くなったという。

 戦後、読谷村に帰郷し再婚して再出発をしようとしたが、故郷の地は米軍の通信基地に接収された。古楚辺の住民は現在の楚辺に移ったという。005 民謡が好きだった恒敏さんは、自分が歌い楽しむだけでなく、4人の娘たちに歌と踊りを教え、舞台にも出るようになり、評判になった。1964年、「でいご娘」を結成し活動するようになった。006 恒敏さんは、新しい民謡の作詞、作曲も手がけた。71年頃003 作ったのが「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」だった。でも、幸せな日々は長く続かなかった。73年、恒敏さん(56歳)と妻シゲさん(49歳)の乗った車に、飲酒運転の米兵が突っ込み、二人とも亡くなった。
 事故の後、「でいご娘」の活動を停止していたが、父の形見の歌を残そうと決心して1975年、レコードが発売された。強烈な反戦民謡でありながら、とてもヒットしたという。
 ここまでは、多少の違いはあっても、前にブログで書いたことの繰り返しである。
 テレビでは、「でいご娘」の4人がそれぞれ登場して、お父さんと歌について語った。4人の娘さんとは、長女艶子さん、次女綾子さん、三女千津子さん、4女慶子さんである。
 このうち、慶子さんはテレビや各地の祭り、舞台にもよく出ていて、もう何度も見ている。でも、この反戦島唄の名曲を作った比嘉恒敏さんの娘さんであることは、うかつにもまったく知らなかった。地元では誰でもしっていることなのだろうけれど。013          写真は、お父さんがよく釣りに行き、歌の構想をなったという読谷村楚辺の        

          ユウバンタの浜で演奏する「でいご娘」のみなさん

 この曲は、戦争の悲惨さと生き残った者の痛苦の歩みを鋭くえぐっている。テレビを見ながら思ったのは、比嘉恒敏さん自身が、戦争と米軍の占領を告発しながら、みずから米軍基地があるゆえに米兵の無謀な行為によって妻とともに殺されたことで、この歌詞の内容が、自分自身と、とても重なり合っていることである。多分、娘さんも、この曲を歌う時、お父さんの人生、無念の思いをかみしめながら歌っているのではないだろうか。
 実際、長女の艶子さんは「父の人生そのものが、うっちぇーひっちぇーだった。どうして真面目に生きているのに、なんで自分たちが(こんな目に)⋯⋯。本当にはかない」。つまり、お父さんの人生は、歌の歌詞にあるのと同じように、散々な目にあった。心は真面目に生きているのになぜ、という思いだ。015  番組でもっとも興味深かったのは、作詞ノートである。長女の艶子さんが保管していたという。ノートを見ると、鉛筆書きで下書きをして、さらにボールペンで清書をしているが、清書しながらまだ推敲して書き直している。その過程がよくわかる。
 この曲が、読む人、聞く人の心を深くとらえるのは、平和の島唄としてありがちな常套句を使うのを避けて、みずからの心中に沸き起こる感情を叩きつけているからである。

 011  「平和を守る」とか「命どぅ宝」とか、「戦争はもうごめん」などという決まり文句は使われていない。その端的な例が、上の写真の書き直しのカ所である。歌の最後のしめにあたる大事な部分である。ここでは、「又と戦(イクサ)無んごとに」(ふたたび戦争がないように)、「世界の人々友(ドゥシ)にさな」(世界の人々が友だちに)というカ所が消されている。
 書き換えられたのは「恨でぃん悔やでぃんあきじゃらん 子孫末代遺言さな」(恨んでも悔やんでもあきらめきれない。このことは子孫末代まで遺言して伝えなければいけない)。

 この部分について、三女の千津子さんが次のように語っていた。「父そのものが普段、ボソッと言いそうな表現です。自分の本心には逆らえない。きれいごとではおさめたくない。自分の辛い過去を自分に正直に書きたかったのでしょう」。
 この曲の神髄にふれたような気がした。これからも、長く歌い続けていかなければならない曲だと改めて痛感した。

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