恩納節の不思議
恩納(オンナ)村と恩納ナビーのことを書いたついでに、琉球古典の名曲「恩納節」をめぐる不思議について書いておきたい。
なにが不思議なのか? いま「恩納節」の歌詞として歌われているのは、恩納ナビーの詠んだ「恩納松下に 禁止の牌の立ちゅす 恋しのぶまでの 禁止や無いさめ」である。
歌意をもう一度紹介する。「恩納間切(今の町村)の番所(役所)の前の松の木の下に、禁止令の札が立っているが、恋をすることまで禁止ではないだろう。若者よおおいに恋をしよう」。
この曲は、琉球王府の時代、宮廷の祝儀の際に、国王の前で演奏された「御前風五節」に入っていた。5曲とは「かぎやで風」「恩納節」「中城はんた前節」「長伊平屋節」「特牛節(クティブシ)」である。
「体制を批判した歌が御前演奏歌に組みこまれるだろうかという疑問を呈する人もいる」(大城米雄編著『沖縄三線 節歌の読み方』)そうである。
「琉球新報」2011年2月15日付でも、仲本安一さんが「恩納節、その歌詞の謎」として、同様の疑問を提起されていた。
ただし、「恩納節」の歌詞は、ナビーの「恩納松下⋯⋯」の歌詞だけではない。「琉球古典歌詞集には恩納節として、十一首載せてあるが一番目が『恩納松下に』」であるという(『節歌の読み方』)。
琉球古典音楽は、安富祖(アフソ)流、野村流などの流派がある。流派によって、「恩納節」の歌詞が異なる。伝統堅持を重視する安富祖流は、ナビーの詠んだ琉歌でも、別の歌を使っている。
「恩納岳のぼて おし下り見れば 恩納松金が手振り美(ギヨラ)さ」。歌意は「恩納岳に登って見下ろして見ると、恩納松金の手振りが美しい」である。ここで松金とは、前に紹介した伝説でナビーと恋仲だったという金武の松金のことを指すのではないだろうか。
「安富祖流工工四は『恩納松金』を頑固に守っています」(「琉球新報」4月7日付、宮里整氏)ということだ。
野村流は、尚泰王の時代に、「古典音楽は高尚すぎて難しいので簡略にせよという尚泰王の命を受けた野村親雲上(ペーチン)の改革ででき」た(前述の宮里氏)とのことである。
この野村流は、「恩納節」と歌詞として「恩納松下⋯⋯」の琉歌を採用している。国王の命により整備、編纂したので、「野村工工四」を「欽定工工四」と呼んでいる。いまでは、「恩納節」といえば、「野村工工四」の「恩納松下」の歌詞が一般的になっている。
ここからは、素人ながらの私的意見である。国王の前で演奏する御前風五節に、「体制を批判した歌がくみこまれるだろうか」という疑問は、的を射ているだろうか。私はそうは思わない。
その理由は、一つには「恩納松下」の歌詞の内容は、琉球王朝の体制そのものを批判している歌ではないこと。
つまり、ナビーは一方では、国王を讃える歌も詠んでいる。王府時代の庶民が体制まで批判するのは困難だ。批判すれば極刑まで覚悟しなければいけない。松の木の下に立つ禁止の札は、野原で歌い踊る「モーアシビ」(毛遊び)を禁止したもので、恋まで禁止していないというのは、王府の命令を無視したものではない。立て札の裏読みをしているだけである。まあ、それを言うのも勇気がいることではある。でも、庶民のしたたかでたくましい知恵がある。恋への大らかな賛歌がある。立て札を立てた役人も苦笑いするだろう。
第二に、野村流の工工四(楽譜)の編成は、国王の命令であり、「出来上がったら国王に献上すべき性質のものであり、また、これは国王もお用いになり、お歌いになる時の楽譜にもなるので、歌詞のことは厳選に厳選を重ねて御側仕の方々御一同の意見も伺ってから決めたもの」であることだ(『節歌の読み方』から。中村完爾『嗣周・歌まくら』の引用)。
国王に献上し、国王も用いる楽譜の「恩納節」の歌詞に、厳選された結果として「恩納松下」の歌が選ばれている。このことは、この歌詞が「恩納節」にふさわしいとして、公認された結果ではないだろうか。
ということは、国王の前で演奏する「御前風五節」の「恩納節」が、「恩納松下」の歌詞で堂々と演奏されることは、何も不思議ではなく、当然のこととではないだろうか。
国王の前で演奏する曲の歌詞に、「恩納松下」のような、王府の禁止命令の立て札にも、いささかもひるまない、大胆でおおらかな琉歌が採用されていることは、それはそれでなかなか面白い。興味深いものがある。
首里王府と国王が、なかなか度量が大きいというか、とくに、恋を賛美する歌にたいして、あれこれ文句を言わない、寛容であったことが伺える。
古典音楽であっても、その歌詞の中身は、恋歌がとても多い。御前風五曲に入っている歌でも「中城はんた前節」の歌詞(歌意)をみても「飛び立つ蝶よ 待ってくれ 私を連れて行ってくれ 花の元へ(遊郭) 私は知らないから」という内容だ。これだって、国王の前で演奏するのにふさわしい歌かといえば、首をかしげるかもしれない。でも、そんなことはない。堂々と演奏された。
そういうわけで、「恩納松下」のような歌詞の「恩納節」が、国王の前でも演奏されたことを想像するだけでも、なにか楽しくなる。こういう大らかな精神があってこそ、芸能も豊かに花開くだろう。そこには、琉球王国の芸能の誇るべき伝統があり、財産があるように思う。
« 地域福祉祭りで民謡ショー | トップページ | 危険な自衛隊のF15戦闘機 »
「音楽」カテゴリの記事
- アルテで「肝がなさ節」を歌う(2014.02.10)
- アルテで「歌の道」を歌う(2014.01.13)
- アルテで「時代の流れ」を歌う(2013.12.15)
- 第30回芸能チャリティー公演で演奏(2013.11.24)
- ツレが「渚のアデリーヌ」を弾く(2013.11.18)
コメント
この記事へのコメントは終了しました。
松下に建てられた「禁止」の札の内容に関心があります。そのなかに「毛遊び禁止」とあったのなら、ナビが詠んだ句は「反王府」になるかもしれませんが、もともと禁止の中身に「毛遊び禁止」が明記されていないなら、ナビの句は王府に批判を受けるようなものではないでしょう。
以前テレビで沖縄芝居をみました。内容は、あるシマ(村)で「毛遊び禁止令」が出ているのだけど、若者たちは毎晩隠れて毛遊びに興じる。その若者のなかのある娘が夜な夜なでかけていこうとするのを、父親が諌めて止める。母親は毛遊び楽しめ派なので、父親の目を引いておいて、娘を出かけさせる。父親も毛遊びに反対しているけれども、本当は自分も若い頃楽しんできた身なので、内心禁止令には苦々しい思いをしている。ある日禁止令が守られているかどうかの監視にムラの役人が夜、視察にやってくる。しかし役人は毛遊びというものを知らない。役人の付き人に「ところで、毛遊びとはいかなるものか」と問う。付き人は農民あがりなので、よく知っていて「それはそれは楽しいものです」とカチャーシーを踊って見せる。すると役人は「ほう、一度見てみたいものだ」「いや、いかんいかん。それは禁止されていることじゃ」とやっぱり内心毛遊びに関心をもっている。役人が来るとは知らず、唄に踊りに三線に楽しんでいた若者たちのところに、役人が来てしまう。ところが役人は毛遊びを見ているうちに自分も踊り出してしまう、という内容。
何が言いたいかというと、アキアキさんが言うとおり、王府は毛遊びや恋をすることには寛大であったということがこうした沖縄芝居にも反映されているのでないか、ということです。
長々とすみません。
投稿: いくぼー | 2011年7月 6日 (水) 08時21分
恩納の禁止札は、琉歌の中には内容は書かれていないけれど、立て札は「モーアシビ」を禁じたそうです。王府や役人にとっては、夜明けまで踊り遊ぶと、労働に支障をきたすので、しばしば禁止令が出たようです。いくぼーさんの見た沖縄芝居は、モーアシビ禁止をめぐる騒動で面白いですね。「モーアシビ」には役所も寛容だったというより、禁止令を出しても、かならずそれは徹底できない。労苦の多い農民、若者の唯一ともいえる楽しみを奪っては、逆に働く意欲も出ないでしょう。ただ、いくら役所でも恋までは禁止できない。禁止令が出たこともないでしょう。だからナビーの琉歌は、反王府にはならないと思います。
まあ、モーアシビは若者にとって、恋の舞台だったので、モーアシビを禁じられると、恋のチャンスもなくなるので、そういう点では大いに関係ありますが。
モーアシビも恋愛も、人間が生きていくうえでの本能に根ざしているので、形の上で禁止令を出しても、誰も禁止はできないでしょうね。
投稿: レキオアキアキ | 2011年7月 6日 (水) 08時36分