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2011年7月 1日 (金)

「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」誕生秘話

 反戦島唄の傑作「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」について、前に書いたが002 、7月1日、NHK沖縄の「沖縄の歌と踊り」で「戦世を歌い継ぐ」と題してこの曲がどのようにして生れ、歌い継がれてきたのかを30分番組で紹介した。この曲の誕生のいきさつと作者の比嘉恒敏(コウビン)さんのことを知りたいと思っていたので、とてもグッドタイミングな番組だった。
 以下の写真は、NHKのテレビ画面から紹介する。

 004

 恒敏さんは、読谷村楚辺に生れ、1939年に23歳で大阪に出て、妻と次男を呼び寄せた。1944年、両親と長男を呼んだが、乗船したのが対馬丸で、米軍に撃沈され亡くなった。妻と次男は大阪の空襲で亡くなったという。

 戦後、読谷村に帰郷し再婚して再出発をしようとしたが、故郷の地は米軍の通信基地に接収された。古楚辺の住民は現在の楚辺に移ったという。005 民謡が好きだった恒敏さんは、自分が歌い楽しむだけでなく、4人の娘たちに歌と踊りを教え、舞台にも出るようになり、評判になった。1964年、「でいご娘」を結成し活動するようになった。006 恒敏さんは、新しい民謡の作詞、作曲も手がけた。71年頃003 作ったのが「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」だった。でも、幸せな日々は長く続かなかった。73年、恒敏さん(56歳)と妻シゲさん(49歳)の乗った車に、飲酒運転の米兵が突っ込み、二人とも亡くなった。
 事故の後、「でいご娘」の活動を停止していたが、父の形見の歌を残そうと決心して1975年、レコードが発売された。強烈な反戦民謡でありながら、とてもヒットしたという。
 ここまでは、多少の違いはあっても、前にブログで書いたことの繰り返しである。
 テレビでは、「でいご娘」の4人がそれぞれ登場して、お父さんと歌について語った。4人の娘さんとは、長女艶子さん、次女綾子さん、三女千津子さん、4女慶子さんである。
 このうち、慶子さんはテレビや各地の祭り、舞台にもよく出ていて、もう何度も見ている。でも、この反戦島唄の名曲を作った比嘉恒敏さんの娘さんであることは、うかつにもまったく知らなかった。地元では誰でもしっていることなのだろうけれど。013          写真は、お父さんがよく釣りに行き、歌の構想をなったという読谷村楚辺の        

          ユウバンタの浜で演奏する「でいご娘」のみなさん

 この曲は、戦争の悲惨さと生き残った者の痛苦の歩みを鋭くえぐっている。テレビを見ながら思ったのは、比嘉恒敏さん自身が、戦争と米軍の占領を告発しながら、みずから米軍基地があるゆえに米兵の無謀な行為によって妻とともに殺されたことで、この歌詞の内容が、自分自身と、とても重なり合っていることである。多分、娘さんも、この曲を歌う時、お父さんの人生、無念の思いをかみしめながら歌っているのではないだろうか。
 実際、長女の艶子さんは「父の人生そのものが、うっちぇーひっちぇーだった。どうして真面目に生きているのに、なんで自分たちが(こんな目に)⋯⋯。本当にはかない」。つまり、お父さんの人生は、歌の歌詞にあるのと同じように、散々な目にあった。心は真面目に生きているのになぜ、という思いだ。015  番組でもっとも興味深かったのは、作詞ノートである。長女の艶子さんが保管していたという。ノートを見ると、鉛筆書きで下書きをして、さらにボールペンで清書をしているが、清書しながらまだ推敲して書き直している。その過程がよくわかる。
 この曲が、読む人、聞く人の心を深くとらえるのは、平和の島唄としてありがちな常套句を使うのを避けて、みずからの心中に沸き起こる感情を叩きつけているからである。

 011  「平和を守る」とか「命どぅ宝」とか、「戦争はもうごめん」などという決まり文句は使われていない。その端的な例が、上の写真の書き直しのカ所である。歌の最後のしめにあたる大事な部分である。ここでは、「又と戦(イクサ)無んごとに」(ふたたび戦争がないように)、「世界の人々友(ドゥシ)にさな」(世界の人々が友だちに)というカ所が消されている。
 書き換えられたのは「恨でぃん悔やでぃんあきじゃらん 子孫末代遺言さな」(恨んでも悔やんでもあきらめきれない。このことは子孫末代まで遺言して伝えなければいけない)。

 この部分について、三女の千津子さんが次のように語っていた。「父そのものが普段、ボソッと言いそうな表現です。自分の本心には逆らえない。きれいごとではおさめたくない。自分の辛い過去を自分に正直に書きたかったのでしょう」。
 この曲の神髄にふれたような気がした。これからも、長く歌い続けていかなければならない曲だと改めて痛感した。

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コメント

番組で沖縄民謡の有名な作詞家備瀬善勝さん(ビセカツ)がインタビューに応えて、「『艦砲ぬ喰いくさー』の歌詞はウチナーンチュのだれもが『その通り!』と思っている言葉だけれどもそれを民謡にできるとは思いもしなかった。この唄に書かれている歌詞以上に厭戦の歌詞を書けといわれても、絶対にかけない。それほど秀逸な歌詞です」と舌を巻いていました。歌詞を見ると、ただ「平和であってほしい」とか「二度と戦争はいやだよ」というような単純な思いより、沖縄戦と米軍に対する怒り、悔しさが叩きつけられているように感じます。だからこそ子子孫孫まで語り継がなければいけないんだ、と書いているんだと思います。
艶子さんはそういうところをくみとって、歌い継いでいるのでしょうね。対馬丸で両親と長男を亡くしたのが第一の悲劇、空襲で妻と次男をなくしたのが第二の悲劇、シマに戻ったら生まれシマが米軍に接収され他のシマに追いやられたのが第三の悲劇、そしてみずからが米軍の車にはねられ亡くなったのが第四の悲劇です。恒敏さん自身の生涯と思いが凝縮された唄だということがよくわかりました。歌碑を建てる動きもあるそうですから、期待したいですね。でいご娘の唄を一度聴きたいものです。

 戦世と平和の島唄をたくさん聞いたけれど、歌詞は備瀬さんがいうように、これを上回る唄はないでしょう。「命口説」もいいけれど、上手に表現され分かりやすいけれど、魂の叫びという内容では、「艦砲ぬ」に勝る唄は知りません。
 よく知らない時は、比嘉恒敏さんが生きている時に、レコードが出てヒットしたのかと思っていてけれど、亡くなった後から、娘さんたちが形見の曲として出したんですね。自分では、それを見ることができなかった。艶子さんが言うように、お父さんの人生そのものが、悲劇を体現しているし、この曲が作られ、世に出たことも、とても劇的ですね。
 それにしても、NHKもよくこの曲に注目して企画、放送してくれたものだと、そちらにも感謝したいです。

初めまして。
いい番組でしたね。一部引用させていただきました。ありがとうございました。

艶子さんの活動については沖縄タイムスにも掲載されていますので、良かったらご覧ください。
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2011-05-14_17799/
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2011-05-02_17302/

はりくさん。コメントありがとうございました。
 NHKの番組を見て、「よくぞ取り上げてくれた」という思いです。この「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」が生まれるまでの背景や比嘉さんの人生を知ってから、この曲を練習していても、これまでと向き合う感情が変わり、歌ってみると、もうウルウルとしてきます。番組は翌日、再放送していましたが、見ていない人もいるだろうと思い、あえて番組のさわりだけでも知ってほしいとの思いでアップしました。

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